長谷川千雨の過負荷(マイナス)な日々   作:蛇遣い座

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時刻は夕方六時くらいだろうか。逢魔時とも呼ばれる頃、傷だらけの少女がとぼとぼと通学路を歩いていた。夕暮れの薄暗い道路のアスファルトには一人分の影だけが落ちている。ランドセルを背負ったその少女の服はびしょ濡れで、泥塗れの汚れ放題。そして、手足にはおびただしい数の切り傷や打撲の跡が痛々しく残っていた。学校帰りの小学生とは思えないほどに重苦しく沈んだ表情が浮かんでおり、その瞳はヘドロのようにどろどろに濁っていた。

 

――端的に言えば、その少女は迫害されていた。

 

 

 

 

 

きっかけは些細なことだった。小学二年生のときに転校してきた少女。彼女は学園で起こる様々な非現実的な出来事を認められず、クラスメイトと言い争いになったのだ。誰もが常識だと思っている事象。それをいちいち必死になって大声で叫び回るのだ。そんな、クラスメイトにしてみれば言い掛かりでしかない文句を毎日垂れ流され続ければ、誰だって関わるのが嫌になるだろう。小学校低学年の子供達ならばなおさら。つまり、それが彼女がいじめに遭った原因であった。

 

不幸だったのは、それが言い掛かりではないことか。彼女の言葉はすべて正しかった。この学園は異常な人間で溢れ返っていたし、異常な出来事に満ち溢れていた。しかし、いくら真実ではあろうと、学校と言う狭いコミュニティにおいては多数派の意見こそが正義なのだ。

 

それでも、彼女は不可思議な出来事を従順に認めることができなかった。陸上部の生徒が徒競走で世界新を遥かに超えるタイムを叩き出したとき。空を飛ぶ教師の姿を見かけたとき。殴られた人間が十数メートルの距離を吹き飛ばされたとき。少女は周囲の人々に大声でわめき散らした。しかし、この学園においてはこれらの超常現象こそが常識なのだ。誰も疑問に思うことなどない。この学園では異常性による差別はなかったが、一般の小学生と同様のいじめは存在した。彼女がクラスの中で狂人としていじめの標的となるのは当然の帰結だろう。

 

そして、何よりも彼女を傷つけたのは、自分に様々なことを教えてくれた両親であった。女子寮に入った娘と離れ、学園都市へと転勤することになった両親は社員用のアパートに住んでいる。優しかった父と母。寂しくなった少女は両親の元へ向かったのだ。訳が分からないと頭を抱えながら、最後の頼りとして。しかし、そこで数週間振りに会った両親からは信じられない言葉を聞く。

 

――何を言っているんだい?そんなのは当たり前のことじゃないか

 

少女は自分の頭がおかしくなったのかと絶望した。目の前が真っ暗になったかのような感覚。自身の疑問を吐露した少女に向かって返されたのは、これまでに自分に教えてくれたことを真っ向から否定する言葉だった。自分のこれまでの人生がガラガラと音を立てて足元から崩れていく錯覚。少女の疑問は誰一人として疑問に思っていないのだ。世界が丸ごと変質してしまったかのような違和感。しかし、客観的に見れば少女こそが異端なのだ。

 

考えてもみて欲しい。狼の群れが近付いてくるのを発見し、大声で村中に危機を知らせる少年。大切な村の仲間たちを守ろうと必死になって叫ぶ。しかし、その狼が村人には見えないものであったならば。そして、それが毎日のように続くとしたら。彼はオオカミ少年と呼ばれるしかない。もしくは異常者と――

 

 

 

 

 

 

――それから四年。小学六年生になった彼女に対する迫害や虐待は続いていた。四年間、それは小学生のいじめの期間としては長すぎるものだろう。大抵はそれまでに転校するか、引き篭もるか、あるいは子供たちが飽きるか。しかし、彼女は例外だった。精神病院へと通わせようとする両親を味方だとは思えなくなっていた少女にとって、学校へ行くという行為こそが失われた日常へ回帰する唯一の道だったのだ。しかし、彼女は気付かなかった。暴力と屈辱こそが日常だったためか。少女を迫害するクラスメイトの顔が、愉悦や歓喜ではなく、恐怖と苦渋に歪んでいたことに――

 

今日もまたいつも通りの日常。放課後、集団にどぶに突き落とされ、ヘドロのような泥水を飲まされ、夕暮れの通学路を帰宅していた。とぼとぼと下を向いて歩いていたのが良くなかったのだろう。

 

「きゃっ!」

 

ドンッと前方不注意で正面を歩いていた人にぶつかってしまった。慌てて前を向いて謝ろうとして――その瞬間、全身に怖気が走った。

 

『ごめんごめん。ぶつかっちゃったね。僕は悪くないけど、お互い運が悪かったみたいだ』

 

「……っ!」

 

目の前に幽鬼のように佇んでいたのは、学ランを着た中高生くらいの男子だった。黒髪黒眼、中肉中背で童顔のかわいらしい顔立ち。しかし、そんな普通の外見など全く目には入って来なかった。むしろ、一見すると普通に見えることすら恐ろしい。この世すべての負の要素を煮詰めて濃縮したかのような、圧倒的なマイナスの存在感。一瞬にして、背筋に氷を突っ込まれたような悪寒に襲われた。反射的にその男から目を背ける。そして、そんな自分の行動に一番衝撃を受けたのは他ならぬ少女自身だった。驚愕の形に顔面の筋肉が引き攣る。

 

――私よりも最低(マイナス)な人間なんて存在していたのか

 

彼こそが世界で最もマイナスな人間だと、強制的に悟らされた。全ての負の感情が無理矢理心の底から呼び起こされる。そんな男を前にして、少女の肉体は戦慄で小刻みに震えていた。

 

『へぇ、君ってこの学園の生徒?道端で女の子とぶつかるなんて少年ジャンプの恋愛モノみたいだね。まさか、僕にそんな漫画みたいな出来事が起こるなんて思わなかったよ。だって、大抵の女の子は僕とぶつかるどころか、近寄ることすら絶対にないからさ』

 

無邪気な笑みを浮かべて男は少女に話しかける。少女自身の意志に反して、手足は極寒の雪山にいるかのようにガクガクと揺れ、鳥肌が立っていた。しかし、それは不気味な雰囲気や気持ち悪さだけのせいではないのも理解する。自分の感情がうまく掴めなかったのは少女にとって初めてのことだった。震える声で目の前の男に対して声を発する。

 

「あ、あんたは……」

 

『うん?僕?僕は球磨川禊。よろしくねっ』

 

「球磨川……禊」

 

その名前を心に刻み込むようにつぶやく少女。球磨川と名乗った男は泥だらけの制服や傷だらけの手足には目もくれず、覗きこむように顔を近づけて少女の瞳を見つめた。

 

『それにしても、ずいぶん素敵な瞳をしているね』

 

「……そんなこと初めて言われたよ」

 

『いやいや。謙遜しなくてもいいよ。世界そのものを憎んでいるかのような、どろどろに濁った瞳。とっても素敵だぜ』

 

罵倒しているとしか思えない言葉だが、少女にはそれを本心から褒めているだろうと理解できた。そして、少女から見た球磨川の瞳も、墨汁のように黒く濁った暗黒の渦を彷彿とさせる深淵だった。同時に、腐った死体のような不気味さと気持ち悪さも兼ね備えている。とても人間の瞳だとは思えなかった。

 

「あ、あのさ……」

 

意を決したように少女は球磨川に声を掛けた。その顔はわずかに上気しているように見える。この不気味な男と言葉を交わしてみて、ようやく少女も自身の胸に湧き上がってくる感情を言語化することに成功していた。それは、自分よりも最低(マイナス)な人間が存在するという安心感。そして、もうひとつは――

 

 

 

 

 

気が付けば、少女は自身に起きた出来事について相談していた。

 

『なるほどね。きみの話は分かったよ。大変だったね』

 

「信じて……くれるんですか?」

 

『当たり前じゃないか。正直な話、僕もきみの言うところの非現実的な出来事を、不思議だとは全く思えないんだけどね。だけど、きみの感覚を信じるよ。間違いなく、きみの言うことが正しいんだ。きみは悪くなんてない。正しくないのは世界の方なんだよ』

 

初めて自分の言うことが肯定された。それは、少女が最も望んでいたことだった。先生にも友達にも、両親にすら信じてもらえなかったことを、初めて会ったこの男だけが信じてくれたのだ。目頭が熱くなり、嬉しさの余り自然と目尻から涙が零れ落ちる。ニコニコと変わらぬ笑みを浮かべながら、球磨川は言葉を続けた。

 

『だけど、正しさなんてどうでもいいじゃないか。世界との不和を気にすることなんかないんだよ』

 

「え?」

 

『だって、世界は正しくなんてないし、人間は美しくなんてないんだから』

 

なぜか、その言葉は少女の胸に染み入るように侵食する。

 

『そんな理不尽な世界には、きみが求めるような真実も常識も正解も存在しない。――受け入れることだよ』

 

両腕を大きく広げ、大見得を切るように言葉を続ける。

 

『不条理を』『理不尽を』『堕落を』『混雑を』『嘘泣きを』『言い訳を』『偽善を』『偽悪を』『いかがわしさを』『インチキを』『不都合を』『不幸せを』『冤罪を』『流れ弾を』『見苦しさを』『みっともなさを』『風評を』『密告を』『嫉妬を』『格差を』『裏切りを』『虐待を』『巻き添えを』『二次被害を』

 

 

――愛しい恋人のように受け入れることだ

 

 

戦慄を覚えるほどに気味の悪い言葉の奔流。それらの負の要素をかき集めたものが、球磨川禊という存在なのだと納得させられる。そして、一拍置いて一言を付け足した。

 

『そして、――空想を』

 

カチリ、と彼女は自身の中の何かが音を立てて噛み合うのを感じた。それと同時に、少女から目の前の男と同種の負のオーラが噴き出したかのようだった。もし、この場に他人が居たならば、二人の周囲に空間が歪んで見えるほどの不気味な凶兆を感じ取ったことだろう。少女の口元はいびつに歪んで吊り上がり、その表情は死に顔のように不吉な気配を漂わせていた。

 

『うん。きみは将来有望な過負荷(マイナス)だね。めだかちゃんに中学を追い出されちゃったから、新しい転入先を探してたんだけど。最初にこの学校に来たのは当たりだったみたいだ。ま、この学園の人たちの異常性(アブノーマル)は僕の興味の範囲外なんだけどね』

 

常人なら足が竦むような凶々しい存在を前にしても、男の表情には一片の恐れすらなかった。どころか喜色満面の笑みを浮かべている。そして、少女はそれを自明のこととして受け入れていた。球磨川禊という存在の絶対性、いや負完全性。その虜になっていた。直後、少女の纏っていた寒気のするようなマイナスな雰囲気は消失する。

 

『さーて。面白いものも見れたし、そろそろ帰ろっかな。帰りに週刊少年ジャンプ買ってかないと』

 

「ま、待ってください!」

 

何事もなかったかのように背を向けて歩き出した球磨川を、少女はとっさに大声で引きとめた。少女の瞳はわずかに潤んでいて、その頬は熟れたトマトのように真っ赤に染まっていた。

 

『なんだい?』

 

「あの……ええと……また、会えませんか?」

 

何とかひねり出した言葉は、そんな唐突なものだった。しかし、対人関係のスキルが幼稚園時代までしかない少女には、それが精一杯の引きとめの言葉。

 

『うーん。この学園の異常者(アブノーマル)や異常性(アブノーマル)は僕らのそれとは違う感じがするんだよなー。何ていうか異常(アブノーマル)でも過負荷(マイナス)でもなくて、別世界の法則みたいな。週刊少年ジャンプで言えば、別の作品って感じかな。だから僕の目的には関係ないし、ここに転入するつもりはないよ』

 

「そうですか……」

 

俯いて暗い表情になる少女。その頭の上にポンと掌が乗せられる。ハッとした様子で顔を上げる少女の前には、笑顔を浮かべた球磨川の顔があった。

 

『そんな顔しなくても、またいつか会えるさ。だって、今日は一緒におしゃべりしただろう?だったら、僕ときみは友達だ。きみの名前は?』

 

優しげに微笑む球磨川に、少女は服の袖で零れかけた涙をゴシゴシと拭きとって答える。

 

「は、はいっ!長谷川千雨です!」

 

『かわいらしい名前だね。それじゃ、また』

 

「いつかまた!絶対っ!」

 

軽く手を上げて去っていく球磨川。少女は大きく手を振って別れの挨拶を投げる。再会の約束を信じて、球磨川の姿が見えなくなっても手を振り続けた。

 

 

 

――それが、長谷川千雨の初恋だった


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