小悪魔日記 ~悪魔に『小』がつく幾つかの事情~ 作:puripoti
その日、パチュリー様は短く仰ったものでした。
「死ぬことにしたわ」
はあ、そうですか。私も、短く応えたものでした。
*
「驚かないのね」
《読書室》に置かれた大きな椅子に、さながら千年万年の昔からそうであったかのような佇まいで腰掛けるパチュリー様は、こちらを見もせずつまらなそうにつぶやきました。もしかすると、先ほどの言葉へなにがしかのリアクションが欲しかったのでしょうか。だとしたところで今更これくらいじゃ驚きもしませんよ。なんせ私が貴女の《お使い》になってから一体、どんだけ経ったと思ってるんですか。突飛な言動行動にはもういい加減、慣れっこですもの。
なので、私は何も言わずにパチュリー様が腰掛ける椅子の脇に置かれたサイドテーブルに淹れたてのお茶を置きました。
「時の流れほど残酷なものはない」
縁取りに金細工の彫琢がなされた豪奢なティーカップを片手に、退廃生活で身を持ち崩した韻文詩人のようなことをつぶやいたパチュリー様は「さも嘆かわしい」とばかりに力なく首を振りました。
「ここにきたばかりのあなたは、もう少し可愛気のようなものがあったというのに」
ほっといてください。偉大なる魔女にして呼吸する知識の蔵たる我が雇い主に、一介の《お使い》風情が顔面筋を総動員しての渋面をこしらえたとしても、それを誰が責められましょう。
*
私が《魔法使い》パチュリー・ノーレッジのお使い兼弟子となり、それなりの歳月───大まかには両手両足の指の数を足してちょいとオマケをしたくらいの───が過ぎました。
《魔道》に足を踏み入れるための基礎教育におよそ8年、足を踏み入れる第一歩のために3年、歩み始めるのにさらに1年とすこし、自身に最適化された《魔導》を理解するためには4年、それを得るためにまた4年。それらの過程をときには駆け足でまたときには“ほうほう”の体で経る途上、幾度か死にかけ、魂が持っていかれそうになり、逃げ出した影を捕まえ、身体を馴染ませ、とりこぼした欠損は創り直し───
お陰さまでというべきか、しがない小悪魔であった私も見違えるほどの成長を遂げ、今では一人前の《魔法使いの弟子》でございます。悪魔の数え方は一人二人でよいのかは知りませんが。
併せてこの建物内の《書庫》や施設を一手に任される立場も得ました。あえて言葉にするなら“ちんけ”な小悪魔から一味違う小悪魔になったとでも云えばよろしいのか。多少の成長をみせたところで頭の『小』の字が抜けないのは、骨の髄から足の裏、手指の先までまで染み付いた小悪魔としての本分ゆえと諦めるしかないのでしょう。
また、それらと一緒に身体のあちこちにも変化が顕れています。具体的には側頭部と背中から、でっかいコウモリの羽っぽいものが生えてきているのです。パチュリー様によると、悪魔としてのグレードが上がったことによって肉体が精神に引きずられた結果なのだそうですが(精神面の活性化によって、より人間の想像する『悪魔としてのデザイン』に影響され易くなるとか)これが生えてきたときには、もしや普段日常に接している薬剤あるいは機械から漏れ出た素敵物質の悪影響で、ミュータント化でもしたのかと全身から血の気が引くような思いをしたものです。
さて、聞くも涙なら語るも涙な小悪魔の個人史はさておいて、今や腰のあたりまで伸びた赤毛の髪を指先で“くるくる”ともてあそびながら私は尋ねました。それで、お亡くなりになるのは“どちら”の方なのでしょうね。
「無論、私ではない方に決まってる」
そうでしょうね。この方の生き汚さ加減は
「一つ所で“ちょい”と長く生き過ぎた。そろそろ『パトリシア・ノールズ』にはご退場いただく頃合いね」
パトリシア・ノールズ───パチュリー様の隠れ蓑として用意された“かりそめ”の姿と経歴です。今の御時世における平均寿命からするなら、かのご婦人はとっくに鬼籍に入ってしかるべき。これ以上の『彼女』の生存は、その正体である『パチュリー・ノーレッジ』の存在が明るみに出る結果につながりかねない。したがって、パチュリー様としては今の状況や環境に見切りをつけ、“ねぐら”を移した上で新たに仮の姿をこさえる必要があるのです。
とはいえ抜け目とは無縁の我が雇い主、それら必要な手筈に関してはもうお済みなのではないですか。私が質問というよりも確認を口にすると、パチュリー様は小さく頷かれました。
「ご名答」
ただし、それに伴う手続きそのものは“あなた”にやってもらう必要があるのだけれどね。思いもかけぬ一言に、髪をもてあそぶ手が止まります。私が?
「当たり前でしょう。死ぬのは一人で出来ても、葬式は一人じゃ出来ないでしょう」
それでなくとも『パトリシア・ノールズ』の身近にいるのはメイドのあなた───『アン・シャーリー』のみ、ということになっているのだから。ふーむ。私は顎に手をやり考え込みます。言われてみればその通りです。今になって都合よく親戚縁者が現れたでは、不自然さを糊塗するには“ちと”足りない。
それに、この一件に関しては私にも何分の一かの責任があるのです。なんせ、私の教育に時間をとられさえしなければ、今より早い段階でこの地に見切りをつけて、とっくに新天地で悠々としていられたはずなのですから。それを考えれば私も、多少ながらにも骨を折るべきなのでしょう。
「ああ、そこら辺は気にしなくてもいいわ」
パチュリー様は静かに頭を振った後、視線を“こころもち”穏やかなものにして私を見やりました。
「前にも言ったけれど、先行投資に手を抜いては碌なリターンもありえない。むしろ、20年そこいらでそれだけの結果が得られたことに私は満足しているくらいだもの」
それをあなたは誇ってもいい。語るパチュリー様の表情そのものはいつもと同じく、無表情と仏頂面を材料に頑固親父がこね回して焼き固めたデスマスクみたいな有り様でしたが、しかしこれは……
もしかすると、褒められているのでしょうかね? 小首を傾げる私に、心外ねとパチュリー様は言いました。
「もしかしないでもそうよ。確かに滅多なことではしないけれどね、それでも褒めるときは褒めるわ」
と言いますか、私以外にゃ褒める相手どころか話す相手もいませんしね。
「ほっときなさい」
*
雇い主による公開自殺宣言が飛び出した日の翌朝(酷い字面だ)。
私はいつもの様に空が白み始める頃に目を覚まし、いつもの様に朝食を取りながら新聞に目を通すといういつもの日課をこなしていました。多少の出世をしてみたところで、小悪魔の朝が早いのは相変わらずなのです。
ホットミルクをおかわりするよりも少し早めに3部目の新聞に目を通し終えた私はそれを畳んで脇に放り、新たな新聞に手を伸ばしました。手早く読みすすめるコツに加え、少し前から速読法を身に付けたので、これくらいなら大した時間もかからず読み終われるのです。
ふーむ。半分ばかり読んだところで目が疲れてきたので、一旦、目を外して目元や“こめかみ”のあたりを揉みます。掲載されている記事もいつもと変わることもなく、すべて世は事も無し。
───壁に塗り込められた黒猫の告発。平穏な住宅地を脅かす猟奇事件のあらまし───今年度上四半期における犯罪発生率が過去最悪の水準に───聖林檎楽園学園入学手続き概要。今季定員は以下のとおり───連鎖する失業と貧困に憤る市民の声届かず───八方塞がりの様相を呈する政府与党の無策───EVAC INDUSTRY設立における新株公募。第1回の条件については下記参考───
新聞にかぎらず、情報媒体というのは書かれていること読むだけでは意味が無い。記されていることも鵜呑みにせず、様々な情報ソースを元にすることで多角的視点による情報のバイアスを排除し、そこから更に益体もない情報の羅列を吟味し、真実の断片を拾い集め、多面的な思考と系統立てた考察のスポットライトをあて本来あったと思しき事象を推察する。それは取りも直さず私に求められる能力でもある。
とまれ今日のところは、さして重要な案件はなさそうですねえ。最後の新聞を読み終え、私は魔力で保温しているホットミルクを飲み干し後片付けをはじめます。
*
後片付けを終えた私は階段を上がり、いつもの様にパチュリー様のお部屋のドアをノックしました。
「お入りなさい」
いつもの様に許可をいただき、いつもの様に扉を開け、そして私はいつもと違う景色を目の当たりにすることになったのでした。
部屋の中は一変していました。
本来あるべき書棚の伽藍も、書棚と一緒に押し込められたかのごとき闇と澱んだ空気も、不気味山脈とでも云うべき実験室もそこに保管されたの品々も夢のごとくに消え失せ、そこにあったのはさして広くもないけれど狭いわけでもない、ありふれたアパートメントの一室があるばかり。お部屋の真ん中にはそれなりに寝心地は良さそうなベッドが置かれ、その脇にパチュリー様が“ぽつねん”と突っ立っていらっしゃいます。パチュリー様の足元には小洒落たデザインのちいさな鞄がひとつ、これまた“ぽつん”と置かれていました。そのベッドの上に、見慣れぬ女性が横たわっているようでした。おや、どなたでしょう。
「来たわね」
その声に促され後ろ手にドアを閉め、パチュリー様の隣に足を運んだ私はベッドに横たわる“それ”を上から覗き込みました。歳の頃なら60代後半、やや痩せ気味ではあるものの閉じられた目や口元から、落ち着いて穏やかな気性が伝わってくる上品な顔立ちの老婦人……の『形をしたもの』が、“置かれて”いる。私も魔法使いの弟子の端くれ、ベッドに置かれた“それ”の正体をすぐさま見破りました。
───フレッシュゴーレムですか。
《ゴーレム》というのは魔法使い等の術者が、魔力や呪を込めて捏ね上げた泥から造られた自律人形のことです。《お使い》の簡易版と言えるかもしれません。ただし、運用するには厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化したりするので使い勝手としては今ひとつどころか“いまいつつ”くらい足らないので不人気なものではありますが。そして私が口にしたフレッシュゴーレムとは、泥の代わりに人の血肉や培養した生体素材(人工皮膚や筋肉等)を材料とする、どちらかといえばゾンビや僵屍に近いゴーレムで、有名どころだと少しばかり前にヴィクター某とかいうスイス人(この方も裏の顔は《魔法使い》なのだそうです)の創造物が知られています。魔法使い限定というえらくニッチな知名度ですが。
パチュリー様は小さく首を横に振られました。
「少し違う。かねてから研究していた人工骨格のテストベッドに、生体素材をまとわりつかせただけの木偶人形」
頭蓋骨の内側は手抜きして、豚の脳ミソと腑の物を詰めてるのだそうです。ははあ、成程。私は頷きをひとつくれ、パチュリー様の意図を理解しました。この方を『パトリシア・ノールズ』として届けるということですね。そして今ベッドに横たわる、物言わぬこのご婦人(のヒトガタ)の姿こそが、私以外の人間の目に見えている、パチュリー様が纏う“かりそめ”のお姿なのでしょう。この時代の医者じゃ見破ることは出来んので、これで十分目眩ましにはなることでしょう。
「察しがよくて助かるわ」
しかし、このお部屋の有り様は一体どうなっているのです。知らない間にやたらと手回しのよい引越しか模様替えの業者でも招いたんですか? ただの一夜で様変わりしたお部屋のあちこちに、私はわざとらしい仕草で視線を巡らせ訊ねました。ひょっとしたらですが、様変わりしているのは“ここ”のみならず他のお部屋も同じなのではないでしょうか。
私を軽く一瞥したパチュリー様は、足元の鞄を“ぽこん”と爪先で突つきました。
「《建物》の施設や《部屋》ならここよ」
《壺中の天地》───後は言わずとも判るわね? ああ、そういうことですか。納得とともに頷きました。
小さな壺の中に大千世界封じ込め、そこを自在に行き来したという東洋の超人の術と、それにまつわる逸話。およそ《知識》と呼べるものなら、古今におけるすべてに通じた魔女にも同じことが出来たところで、何の不思議がありましょう。この場合は《鞄中の建物》とでもなるわけですか。えらくしょぼい感じの表現ですが。
「さて───状況説明はここまでにして、そろそろ本題に入りましょうか」
そう告げて、パチュリー様は懐から一枚のメモ用紙を取り出しました。
*
自分の他には居る者とてないアパートメント、その一室。本来の主が立ち去り、どこか寒々しい空気が漂うばかりの部屋で、私は半ば途方に暮れたような心境で髪をいじくりまわしながら、主から手渡されたメモに目を通していました。見るものすべてに底知れぬ知性と教養とを感じさせる流麗な筆致も、我が胸中にわだかまる澱の如き倦怠感を払拭すること能わず、ただ、己が託ちたる不幸と労苦に思いをいたし嘆くばかりなり。
そこに書かれている、パチュリー様直筆のシナリオは次のようなものでした。
───いつもの様に『パトリシア』様を起こしに来た私こと、『アン・シャーリー』はベッドの上で事切れている女主人を発見。慌ててお医者様に連絡するも刻既に遅し、主は冷たい骸に成り果てた。悲嘆に暮れながら故人の物品や身辺の整理をしていると、銀行と弁護士から連絡が入る。なんでもアンの主人は生前、自分に万一のことがあれば遺産の全てを、自分に最期まで尽くしてくれた忠良なるメイドに委ねるとの遺言を遺していたという。それに驚きつつも、主がこれ程に自分を大事に思ってくれていたのかと感動し、その遺産を継承するアン。しかし、実の母とも慕っていた主との思い出が詰まったこの建物に留まるのはあまりにも耐え難いと感じた彼女は、すべての資産を処分して己の傷心を癒やす旅に出るのであった───
……要約されたメモから目を離し、私は溜め息をこぼしました。
よくもまあ、ここまでテンプレートに則ったお涙頂戴シナリオを考えついたものです。ロイヤル・オペラ・ハウスで上演した日にゃ、観客一同スタンディングオベーションで野次と石と火炎瓶を投げつけてくること請け合いの、脳天直撃駄話もいいところです。そしてなにが一番泣けてくるのかといえば、このおポンチ小咄の主演女優がこともあろうに他ならぬ私であるということでしょう。もはや流す涙も枯れ果てて、乾いた笑みがこみ上げてくる。メモを読むだけの簡単なお仕事で、なんでこんなに疲れたような気分にさせられるのやら。
けけ、と我ながらヤバい響きの笑い声を上げて、私は人差し指でメモを弾きました。指に込められた魔力によって、紙は一瞬にして灰も残さず燃え尽きます。必要な部分はとっくに頭に入れてあるので(あまりにもアホらし過ぎたのでイヤでも憶えてしまいました)問題はありません。
ひとしきり笑ってから私は大きく深呼吸をし、主の消えた殺風景な部屋の隅に置かれた堅いクッションのソファに“いささか”乱暴に座り、右の手で頭を“くしゃくしゃ”に掻き回しました。
そうしてしばらくすると気分も落ち着いてきたので、私は改めて自分の置かれた状況と、為すべき“あれこれ”に思いを巡らせます。阿呆らしいにもほどがあるとはいえ、私にとってのこれらは悪いことばかりでもありません。なにせ、建物を含めた『遺産』の処分によって得られたものは、お駄賃として全て私の懐に入れてもよいとのことでしたので。
───いままでとこれからの分、当面の給料を一括払いしたのだと思えば安いものよ
持つべきものは太っ腹な雇い主というところでしょうか。ただし、処分にかかる費用や手続き等は私持ちとの事なので、下手を打ってしまうと“もらい”が少なくなってしまうので、そこは私の甲斐性が試される場でもありますが。
───これは今まであなたに仕込んできた“もの”がどの程度、身についたか確認するためのテストでもある。精々、上手く立ち回ってみせなさい
それ以上は言うべきこともないと後に落ち合う場所だけを告げ、パチュリー様はバッグ片手に旅立ってしまわれました。
*
“しん”と静まり返った部屋の中、ひとり私は昏い表情で計算と打算を巡らせます。
この時点で私がパチュリー様と縁を切り、何食わぬ顔で貰えるものだけ貰って“とんずら”するというのもアリなのでしょう。しかし、そんな愚かしいにもほどのある選択肢は端から私にゃ存在しちゃいません。なんぼ小悪魔といえども、今の今まで面倒を見ていただいた方を裏切るがごとき没義道をかましてはなりません。そのような破廉恥な考えをする者など、煉獄の業火で万回でも焼き殺されては万遍蘇り、そしてまた一度炙られてしまえばよいのです。
……いや、白状してしまうと“ほんの少し”だけ頭をもたげはしたのですがね、もたげたところを無理やり押さえつけて簀巻きにし、川に流しました。今頃はテムズの冷たい水底にでも沈んでいることでありましょう。
無論、仁義やら人情やらといったご大層な理由からではなく、あくまでも打算的な部分からですが。端金に目を眩ませて、金の卵を産む鶏を逃がすのはあまりにも馬鹿らしい。貰えるものがある内は、付かず離れず今のままでいるのがよろしかろう───それだけの理由です(そもそも私に人の情なんぞを解せよというのは不毛です、悪魔なのでね)。
おそらくですが、パチュリー様もこうした私の心情を承知した上ですべての差配を委ねたのではないでしょうか。万一、私が裏切りをはたらいたとしても、これくらいなら懐も傷まないという計算も込みで。そしてご自身は遠く離れた場所で、私の内心の
私は大きく息を吸い、胸中に“わだかまる”懊悩やら心労やらをまとめて吐き出すようにして今一度、溜め息をつきました。
ともあれ向こうが《魔女》なら私は『魔法使いの弟子』、ならば期待されている通りに(あるいはそれさえも予想されているのを承知で)、上手く立ちまわって見せようではありませんか。
そうと決まれば、先ずはお医者に連絡です。それが片付いたら、次に適当な弁護士か法律の事務所に行かねば。できればどちらも腕利きの風を装って、大家ぶってはいても金を積めば目の色を変えるような垢抜けない二流半がいいところの奴らが望ましいのですが。
私はもてあそんでいた髪を指で弾き、勢い良く立ち上がりました。それに合わせて“ひそかな”自慢の髪が揺れる。パチュリー様を真似て、長く長く伸びた腰まで届く紅色の髪。悪魔としての《格》が上がったことよりも何よりも、これこそが一番嬉しい。