月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第三十一話 「鏡像」

――――夢を見る。

 

 

どうしてかは分からない。けれど、すぐにそれが夢なんだと気がついた。正確には夢ではなく記憶。もう摩耗し、思い出すこともできない程擦り切れてしまっている欠片が垣間見える。

 

感じるのは肌寒い風と、瞼の裏からでも分かる夕陽の紅。ぼんやりとしたまどろみの中で思考が定まらない。何故自分がここにいるのか、ここがどこなのか。ぐるぐると無意味な思考が空回りながらも、ようやく目覚めの予兆のように身体に血潮が巡って行く。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

やっと自分の意識が戻り、瞼を開けた先には

 

 

「あ、ようやく起きられたんですね、志貴さん」

 

 

どこか穏やかな笑みを浮かべながら自分を見下ろしている琥珀の姿があった。

 

 

「――――」

 

 

それを視界に収めながらも言葉は出ない。何故目の前に彼女がいるのか。ここはどこなのか。何を口にすべきなのか。しかし、その全てがどうでもよくなるほどに今は彼女の姿に目を奪われていた。

 

ただ慈しむように、彼女は自分を見つめている。夕陽を浴びながら微笑む彼女の姿は、ただ綺麗だった。同時にいつ消えてしまうか分からない儚さ。そこでようやく気づいた。これが記憶であり夢であることを。自分の視界に映る黒い線と点。その数と太さが、違う。まだ自分の視界が死に満ちていない頃の記憶。

 

 

「…………琥珀、さん?」

「はい。おはようございます、志貴さん。あ、でももう夕方ですからこんばんはでしょうか?」

 

 

お寝坊さんですね、などと加えながら彼女は何故か楽しげにくすくすと笑っている。まるで悪戯が成功した子供のよう。そんな姿に呆気にとられながらもようやく気づく。そう、今の自分が地面に横になっていることに。それはまだいい。ただ驚いたのは、自分が琥珀に膝枕をされているということ。それを示すように、頭から確かな彼女の体温が、膝の柔らかさが伝わってくる。どこか安らぎすら感じさせる温かさが、そこにはある。

 

ただ無言のまま、ぼうっと熱に浮かされるように彼女に魅入られる。既視感がある。記憶ではなく記録。経験ではなく知識。場所は違えど、自分ではない本物の遠野志貴が同じ光景を見たことがあるのだと。

 

 

「……何で俺は、琥珀さんに膝枕をされてるんだ?」

「さあ、何ででしょうか? それはさておき志貴さんこそどうしてこんなところで横になってらしたんですか? いくら天気が良くても風邪をひかれてしまいますよ?」

 

 

嗜めるように人差し指を向けながら琥珀はそう告げてくる。そこでようやく彼女以外の状況が見えてきた。周りには草木が生えた地面。そう、ここは遠野家の中庭。そこに自分は横になっている。ただそのまま空を見上げるように大の字になったまま。思い出した。何のことはない、自分はただ空を見上げるためだけにここに逃げ出してきていたのだと。

 

 

「空を、見たいと思ったんだ……部屋からじゃあんまり見えないから」

「空をですか? はあ、また変わった趣味を持ってらっしゃるんですね、志貴さん」

 

 

呆気にとられるように口を開けたままの琥珀を横目にそのまま空に目を向ける。既に蒼はなく、夕刻によって色は紅に染まっている。いつの間にか眠ってしまっていたからだろう。ただ、逃げ出したい一心で、何かに縋るように自分はここで空を見上げていた。

 

 

「でもよかったです。秋葉様も翡翠ちゃんもずっと心配していたんですよ。屋敷に戻られてから志貴さん、一度も部屋から出ようとされないんですから。てっきり昔みたいに部屋に閉じこもられてしまったのかと」

「…………」

 

 

顔にわずかな憂いを浮かべながら琥珀は口にする。それは間違いだ。今もまだ、自分は殻に閉じこもったまま。いや、殻に閉じ込められたまま。死ぬことができず、同じ時間を繰り返すだけの無限螺旋。もう、何度繰り返したか分からなくなってきた。何度死んだのか、数えることがなくなった。希望もまた同じ。まだ自分は、あきらめることができていない。必死に、生きる術を、道を探している。でも見つからない。

 

街から逃げ出しても、誰かに真実を明かしても、自分であがいても、死は超えられない。

 

でも、それよりも怖いことがあった。それは自分の心。それが死んでいくのが何より怖かった。自分が自分でなくなっていくのが。また人形に戻るのが、恐ろしかった。

 

 

「でもよかったです。やっとこうして志貴さんとお話できましたから。何度話しかけても志貴さん無視されるんですから。流石のわたしも傷つきましたよ。おかげでお屋敷の壺を三つも割ってしまったんですから!」

「……それは、琥珀さんが掃除が下手なだけだろう」

「そ、そんなことはないです! それに何で志貴さんにそんなことが分かるんですか?」

「なんとなく、そう思っただけだ」

 

 

何故そのことを知っているのかと琥珀が慌てているもののそれ以上口にするのは止めた。今回の自分は全く琥珀と交流を計っていない。否、接触もほとんどしていない。琥珀だけではない。遠野秋葉とも、翡翠とも自分は全く言葉を交わすこともなければ、眼を合わすこともない。ただ有間の家に留まるより、遠野の屋敷に身を置いた方が死ぬのが遅くなることが分かったからここにいるだけ。それ以外の価値を、意味をもう自分はここに見出すことができなくなった。

 

 

「ごほんっ、それはともかくです! 志貴さん、お身体は大丈夫ですか? 一応毛布はかけていますがいつまでもこのままではいけません。お屋敷に戻りましょう。そろそろお夕飯の時間ですし……」

 

 

そんな自分の身を案じているのか、琥珀はそう言いながらその場から動かんとする。よく見れば自分の体には毛布がかけられている。起こせばいいのに、どうやら起こすことに罪悪感を覚えたのだろう。膝枕についてはその限りではない。きっと半分は、本当に彼女自身何となくだったに違いない。でも

 

 

「もう少し、このままでいさせてくれ……まだちょっと、立てそうにない」

 

 

何故か、自分はその場から動こうとはしなかった。立てないなんて、みっともない嘘をついてでも、もう少しこの時間を過ごしたかった。

 

 

「そうですか……なら仕方ありませんね。もう少し、お付き合いします。膝枕、痛くありませんか?」

「大丈夫だ。そもそも、女性の膝枕なんて男の夢みたいなもんだからな。多少痛くても、問題ない」

「はあ……よく分かりませんけど、そこまで仰るなら。じゃあ交換条件です。今度は志貴さんがわたしを膝枕してください」

「俺が……? 男の膝枕なんていいもんじゃないだろう?」

「そんなことはありません! わたしも誰かに膝枕してもらったことがないんです。ぜひお願いします」

「そうか……ま、気が向いたらな」

「し、志貴さん、ちゃんと聞いてますか? 約束ですよ?」

 

 

自分のいい加減な返答に彼女は焦りながら捲し立ててくる。久しぶりに、誰かと会話した気がした。でも、何の意味もないもの。

 

繰り返せば、死ねば全て意味がなくなる。次の繰り返しの時には、もう何も残っていない。何度関係を築こうと、約束をしようと、意味はない。覚えているのは自分だけ。繰り返しているのは自分だけ。だんだんと周りの人間が人形に見えてくる。決まった動きをして、決まった言葉を発して、決まった最期を迎える人形達。だんだんと世界が灰色になってくる。いや、違う。人形になっていくのは自分の方。世界が狂っているのか、自分が狂っているのか。全てが摩耗し、なくなっていく。

 

 

ただ生きているだけで――――

 

 

そう、誰かが言っていた。その言葉の先に何かあった気がするが、思い出せない。あれは何だったのか――――

 

 

 

「ん……」

 

 

次第に意識が戻ってくる。身体に血が巡って行く感覚。同時に眩暈が起こりそうなほどの異物感。遠野志貴の身体が目覚める前兆。もう何度繰り返したか分からない感覚のはずなのに慣れることはないもの。それでも瞼を開けることなく、外の世界の死が見え始める。だから早く死の見えない窓の外、空に目を向けなければと思うのも束の間

 

 

「シキ、眼が覚めた?」

「…………」

 

 

何故か目の前には白い吸血姫がいた。正確には床に横になっている自分に覆いかぶさるように自分を見下ろしている。知らない誰かが見れば押し倒されているように見えるだろう体勢。普通ならこの状況に慌てふためくのだろうがあいにくと自分とアルクェイド・ブリュンスタッドはそんな色っぽい関係ではない。あるのはただ単純な疑問だけ。

 

 

「……何をしてるんだ、ブリュンスタッド?」

「別に何も。ただシキが起きないか見てただけ」

「そうか……できればもう少し離れてくれると助かる。このままじゃ起きれない」

「……? ええ、分かったわ」

 

 

本当に分かっているのかどうかは定かではないがアルクェイド・ブリュンスタッドは自分から離れて行く。ようやく解放された自分もまたゆっくりと右手で体を支えながら体を起こす。身体の節々に痛みがあるようだがいつものこと。睡眠をとれたからか体の重みは幾分かマシになっている。何かあってもすぐに倒れるようなことはないだろう。

 

 

「……今何時か分かるか、ブリュンスタッド」

「ちょうど日付が変わったところ。あなたが寝ていたのは六時間ほど」

「六時間……まさかとは思うが、お前はずっとそこで俺が起きるのを待っていたのか?」

「そうよ。シエルからあなたが休む邪魔をしてはいけないと言われたから起きるまで待っていたの」

「…………」

 

 

さも当然だとばかりに淡々と答えるアルクェイド・ブリュンスタッドの姿に言葉もない。時間の感覚がおかしいのか、常識がないのか。恐らくは後者なのだろう。

 

 

「それで……俺に何の用だ? 起きるのを待ってたのは何か用があったからだろう?」

「用……そうね。忘れていたわ。わたし、あなたに聞きたいことがあったの」

「聞きたいこと?」

 

 

言われてようやく思い出したかのようにアルクェイド・ブリュンスタッドは口にする。

 

 

「あなたは後一度しかまともに戦えない。何故そのことをシエルに言わなかったの?」

 

 

こちらの眠気を吹き飛ばしてあまりある死刑宣告にも似た事実を。

 

 

「あなたにはもう生命力が残っていない。蛇と戦うことを考えれば混沌と戦う余裕なんてない。そう言えばいいのに、何故わざわざ無駄なことをしているの?」

「……それは」

 

 

不思議と驚きはなかった。むしろ清々しさすら感じるほど、彼女の言葉には無駄がなかった。

 

そう、今の自分にはもう余力はない。余命と言い換えてもいい。そんなことは分かり切っていた。二回。それがこの最後の螺旋で許された自分の戦える限界。あまりにも少ない自身の活動限界。死者が相手なら大きな問題ではない。多少は消耗するだろうが回復できる範囲に収まる。だが死徒は違う。蛇や混沌を相手にするのなら文字通り自身の命を削りながら戦うしかない。故に自分はその二度の制約の中で蛇を殺さなくてはならない。

 

しかし、一度目は既に失敗した。混沌も吸血姫も殺し損ね、蛇には触れることすらできていない。アルクェイド・ブリュンスタッドの力を全て奪われることがなかったことだけは成果だがあまりにも大きすぎる代償。全ては自らの愚かさが招いた結果。それを痛感しながらも

 

 

「……シエルさんはお人好しだからな。本当のことを言えばきっと俺に余計な気を遣う。だから言わなかった。言ったところでどうにかなる話でもない」

 

 

ただ本音を口にする。きっとシエルさんのことだ。本当のことを言えば余計な心配をかけるだけ。最悪自分を戦わせないようにするかもしれない。戦闘中に余計な気を遣わせてしまうかもしれない。そうなっては意味がない。自分は代行者としての彼女の力をあてにしているのだから。何よりも言ったところで何が変わるわけでもない。遅いか早いかの違いでしかない。そう、分かっている。人形である自分は理解している。自分は後一度しか戦えない。

 

 

――――否、後一度しか戦う気が無い。たった一つ、命を伸ばす方法があるのを識っているにも関わらず。だがそれはあり得ない。それは今までの自分を否定する手段。それを選択することはできない。もしそんなことをするぐらいなら、無限地獄に落ちる方がマシだった。

 

だがそんな自分の小さな自己満足を

 

 

「何でそんな嘘をつくの? あなたの無駄な行動は全てコハクに起因している。コハクに知られたくないから隠しているだけでしょう」

「…………え?」

 

 

一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。どうしてここで琥珀の名前が出てくるのか。あるのはただ疑問だけ。当たり前すぎて気づけなかった自己矛盾。

 

 

「あなたは『蛇を殺す』ために生み出された存在。ただそのためだけの装置。それ以外のことには何の意味もない」

 

 

何の感情もなく、星の触覚たる吸血姫は告げる。俺の存在意義を。生まれた理由を。

 

同時に目の前にいるはずのアルクェイド・ブリュンスタッドの纏う空気が変わっていく。先程まであったはずの温かさは微塵もない。もし眼を開ければそこには金の瞳をした処刑人の姿があるのだろう。

 

ただ兵器であれ。そう役目を負わされ、そのために生み出された真祖の姫君。それ以外のことは知らず、それ以外のことは何も教えられなかったモノ。求められたのは強さのみ。兵器に言葉はいらない。喋る機能も、パンを焼く機能も必要ない。そんなものを付けるぐらいならもっと兵器らしい機能をつけるだろう。それは正しい。なのに――――

 

 

「なのにどうしてシキは無駄なことばかりしているの? コハクと関わっても、あなたには何の意味もないのに」

 

 

なのに、どうしてこんなに胸がざわつくのか。頭が、痛くなるのか。もう自分は痛みなんて感じないはずなのに。ただ純粋に、苛立っていた。彼女の言葉に。その在り方に。それしか知ることができなかった彼女のこれまでに。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

ようやく分かった。どうしてあの時、自分はアルクェイド・ブリュンスタッドを殺すことができなかったのか。何のことはない。どうにも信じがたいが、自分は彼女の中に琥珀を見たらしい。笑い話だ。要するに自分は、始まりから終わりまであの割烹着の悪魔に振り回される運命にあるらしい。

 

 

「……お前の言う通りだ。俺は『蛇を殺す』ために生まれた。それ以上でも以下でもない」

 

 

肯定する。それは真実だ。そのために自分は生まれて、ここにいる。それは変わらない。誰だって生まれる理由は選べない。そんなことができるのはきっとカミサマだけだろう。

 

目の前にいる彼女は自分にとっての鏡像。ただ一つの目的のために生み出された兵器であり装置。ただ違うのは

 

 

「――――けど、俺の生きる意味は違う。俺は、琥珀を守るために生きている。それだけだ」

 

 

その意味を自分は持っている。同時に頭痛が警鐘を鳴らす。それを口にするな、と。人形でなければ、この先は進めないと。だが構わない。

 

摩耗しても忘れることはない光景。必死に人形になろうとしていた幼い少女が自分に渡してくれた白いリボン。あの時、自分は生まれた。ただの人形だった自分が人間になりたいと願いを持った。

 

血に濡れた着物姿で、自分を庇って死んでいった少女。笑いながら、自分が人間になれたことを喜びながら逝った彼女。遠野志貴ではない、自分を認めてくれた言葉。

 

そうだ。それだけでもう充分に『遠野志貴』は救われている。なら、もう他には何もいらない。それが紛い物の出した一つの、余分という名の答えだった。

 

 

「――――」

 

 

息を飲む音が聞こえる。アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま黙りこんでしまう。どんな表情をしているのか、自分には分からない。ただ、何かに戸惑っているのは感じ取れた。静寂だけが過ぎて行く。だがこのままずっとこうしてしているわけにもいかない。隣の部屋にいるであろう琥珀やシエルさんのことも気にかかる。そのままその場から起き上がり、部屋を後にしようとした時

 

 

「……『君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ』」

 

 

彼女は独白のようにぽつりと口にする。それは彼女の口から発せられているだけで、彼女の言葉ではなかった。ただ思い出したように誰かが言っていた言葉を反芻しているだけ。抑揚のない言葉には、彼女自身がその言葉の意味を理解していないことが伺える。

 

 

「昔、わたしが生まれて間もない頃に言われたことがあるの。でも分からない。何を言いたいのか。さっきのシキの言葉と同じぐらい」

 

 

子供のように白い吸血姫は呟く。先の自分の言葉と、昔言われた言葉。その意味が分からないと彼女は言う。

 

 

「ねえ、シキならこの言葉の意味が分かる……?」

 

 

純粋な問いだった。きっと彼女自身、忘れていた言葉だったのかもしれない。だが自分は識っている。その言葉の意味も、理由も。でもそれを口にすることはない。それは彼女が自分で辿り着かなければならないもの。何よりも空の知識から得た答えを口にすることは自分が許せなかった。だから

 

 

「……俺にはその言葉の意味は分からない」

 

 

自分の言葉で応える。目が覚めているだけで、生きているだけで楽しい。それはきっと正しいのだろう。でも自分はその言葉には頷けない。頷くわけにはいかない。

 

もう数えきれないほど繰り返して来た生と死。生きることが、死よりも辛いこともあることを俺は誰よりも知っている。だから俺はその言葉には頷けない。それでも

 

 

「でも……その言葉を言った人が、お前の幸せを願っていたことは、分かる」

 

 

それだけは分かる。まだ兵器として生きる前の幼い少女に贈られた黒衣の老人の言葉。それがきっと、彼女に向けられた祝福であることは。

 

 

「…………?」

 

 

その意味を解すことができないのか、アルクェイド・ブリュンスタッドは呆けたまま。今の彼女には届かないのかもしれない。一度壊れた後、直した機械が壊れる前と違っていたように、何かきっかけがなければだめなのかもしれない。それでも少しずつ彼女は変わってきている。自分は本物の遠野志貴のようにはなれない。だからこそできるのはそこまで。ただほんの少し、誰かのようにお節介をすることぐらい。

 

 

「もういいだろ……喉も乾いたし、隣の部屋に行ってくる」

 

 

そう言い残したまま部屋に後にせんと瞬間

 

 

――――衝撃と共に黒いナニカが部屋に飛び込んできた。

 

 

「――――っ!」

 

 

それは自分とアルクェイド・ブリュンスタッド、どちらの息遣いだったのか。分かるのは同時に意識が切り替わったということ。その視線は部屋の飛び込んできた三匹の獣に向けられる。人間よりも大きな巨大な犬。およそこの世の物とは思えないような気配を纏った怪物の一部。混沌の内の一部。窓ガラスを、ドアを破壊しながら三つの暴力が襲いかかってくる。

 

 

「――――」

 

 

一息、空気を肺に取りこんだ後弾けるように体を操る。第一は手にナイフを持つこと。第二が部屋の壁を背にすること。その動作を思考することなく反射で成し遂げる。目の包帯を外すことはしない。そんな暇はなく、そんなことをする必要はない。混沌ではなく、その一部を相手にするだけなら目を閉じたままでも事足りる。

 

左右、そして前方。三方向から獣の牙と爪が迫る。壁を背にしているために逃げ場がない。いや、壁を背にしている以上獣たちはその方向からしか襲いかかることができない。

 

瞬間、二歩歩いた。同時に世界が反転する。上下逆。背の壁を蹴りあげ、天井を足場に反転し獣の後ろを取る。およそ人間ではありえない三次元的な動き。虚をつかれたためか獣たちの反応が一瞬遅れる。それで充分だった。

 

三本の線をナイフでなぞる。力はいらない。壁に落書きするように呆気なく獣たちは解体され無に帰る。死体すら残らない。だが安心している時間はない。状況は最悪に近い。混沌にこちらの居場所がバレてしまっている。結界が見破られたのか、それとも別の要因か。今更そんなことを考えることに意味はない。問題なのはただ一点。

 

 

――――三匹全ての獣が自分に襲いかかってきた、ということ。

 

 

この場には自分だけでなく、アルクェイド・ブリュンスタッドもいる。そして三匹の内二匹はアルクェイド・ブリュンスタッドに近い位置にいた。にも関わらずそれを無視し、自分に向かって来た。導き出せる答えはたった一つ。

 

混沌が白い吸血姫の抹殺よりも、自らの『死』足り得る自分を標的としている事実のみ。

 

 

「遠野君! 大丈夫ですかっ!?」

「志貴さん!」

 

 

間もなく壊されたドアから法衣服を身に纏い、黒鍵を手にしたシエルさんと琥珀がやってくる。もはや状況は説明するまでもない。このマンションは包囲されている。誰も逃れることはできない。いや、包囲されているのは自分だけ。なら、することは一つだけ。

 

 

「……シエルさん、混沌と戦う。手伝ってくれ」

 

 

同じこの場にいる琥珀が見逃されるわけがない。なら、自分はそれを守るために動く。例え蛇に殺すことに繋がらなくとも、それだけが自分がここにいる意味なのだから。

 

すぐさま目に巻いていた包帯、魔眼殺しを外す。これがあっては混沌と戦うことはできない。線ではなく点でなければ混沌は殺せない。だがそれは『遠野志貴』にとって残された最後の機会。

 

 

「遠野君っ!? ですがそれは……!」

「ここじゃ戦いづらい。向かいにある公園。そこで迎え撃つ」

 

 

昨日と全く真逆のことを口にしているからだろう。明らかにシエルさんは混乱している。当たり前だろう。あれほど蛇を殺すことに固執していた自分が、混沌とは戦わないと口にしていたにも関わらず動こうとしているのだから。

 

直死の魔眼を開く。同時に世界に死が満ちてくる。線と点が全てを支配している。青い双眼は暗闇の中。それでも死からは逃れられない。頭痛によって声が漏れそうになるも食いしばる。人形が余分なことをしようとしているからなのか、感じなくなっていたはずの痛みが襲いかかる。どうやら自分は人形にすらなりきれないらしい。

 

 

「志貴さん……!」

 

 

そんな自分に向かって琥珀が近づき支えようとするも寸でのところで琥珀は動きを止める。自分には触れてはいけないのだと思い出したかのように。ただのその両手を胸の前で握りながら心配そうな顔でこちらを見つめている。

 

本当に久しぶりに、琥珀の姿を見た気がした。変わらぬ死の線と点の世界の中で、あの時とは比べ物にならない程成長し、着物姿をした美しい少女。

 

 

『――――志貴さん、わたし、あの時と変わってますか?』

 

 

そんないつかの彼女の言葉が脳裏に蘇る。八年越しの再会。昔とは比べ物にならない程成長した姿を見てほしいと言った彼女の言葉。八年越しの約束。人形の振りをしている人間。彼女がどんな答えを望んでいたのかは分からない。だから

 

 

「――――本当にお前は変わらないな、琥珀」

「…………え?」

 

 

ぽつりと、思ったままの言葉を口にする。変わっていない、と。あの時と同じ答え。それでも全く逆の意味を持つもの。いつかアルクェイド・ブリュンスタッドが言っていた。今の琥珀は自分が知っている琥珀ではないと。ああ、その通りだろう。でも違う。例えどんなに繰り返しても、違う世界であったとしても、自分にとっては『琥珀』であることには変わらない。どんなに繰り返しても、自分を『遠野志貴』として見てくれた彼女のように。

 

そのまま振り返ることなく部屋を後にする。シエルもまたこの場に琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッドを残していくリスクを考えながらも全ての可能性を考慮し遠野志貴の後に続く。アルクェイド・ブリュンスタッドはただその赤い瞳で遠野志貴の後姿を見つめているだけ。そして琥珀は――――

 

 

それぞれの想いを胸に、混沌を巡る長く、深い夜の舞台の幕が上がろうとしていた――――

 

 

 


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