病的なまでに白い男……名無水銀は犬の様に四つん這いになりながら、一帯に広がる赤を啜る。こちらからは見えないが、先程のセリフからして嬉々として舐めとっているに違いない。
「……」
「……」
あまりの光景に二の句が続かない。
つい先ほどまで私達は一緒にいた。ちょっと時間をおいて、帰りが遅いから様子を見に来てみればこれだ。この一時間ちょっとの間で何が起きたというんだ。知りたいような、知りたくないような……確実に言えるのは、私達には理解できないだろうと言う事だけ。
衝撃的すぎて脳が麻痺している。今すぐ思考停止して回れ右をしろと本能が訴えかける。あれはダメだ、見てはいけないものだ、人を、私の生命を脅かすぞ。
そんな危険信号に身を任せそうになった私を引き戻したのは、意外にも嗅覚だった。
臭う、酷く臭う。
血と、急速に腐敗していく何かの臭い。
今頃は名無水銀の血肉となっているであろう彼の姉、名無水楓は一年と数ヶ月前に死亡している。彼女の遺体がここに安置されているのは、彼の両親が亡国機業にとって大きな存在だったことが関係しているらしい。生憎と、私が加入する前の話なので関心が無いのだが、スコールもオータムもそれはそれは世話になったそう。IS実働部隊のトップがここまで動くのだから、余程の人物だったのだろう。
話が逸れた。
冷凍保存でカチコチに凍っていれば変わってくるのかもしれないが、彼女の遺体は外見こそ保持に努めているが中身は腐りきっていたということだ。当然か、霊安室はパウチ食品や缶詰じゃあない。
つまり、歯を突き立てたことで名無水楓の腐敗した中身が外気にさらされてこの世のものとは思えない悪臭が一気に充満している、と。腐っていく人の臭いを嗅いだことはあるが、一年モノを味わう日が来るとは流石に想っていなかった。二度と体験したくない。
兎に角、非現実的な臭いが私を現実に呼び戻した。そしてそれはオータムも。
「どう、する」
「なにも出来ねぇだろ、これ。止めるべきなんだろうが…」
私は私のことを人間離れしていると、異常だと思っている。しかし、そんな私でもアレには近づきたくない。立場的に、役割的に止めなければならない事は百も承知だ。病弱なアレが腐敗した人肉や血液で死んでしまう未来しか見えない。
だが、一歩どころか1ミリたりとも近寄りたくなかった。常軌を逸しているだとか、異常をきたしているだとか、正気を失ったとかそんな言葉で説明できる範疇にない。というかほんと回れ右してシャワーを浴びたい。
しかしそういうわけにもいかないのが現実。逃げ出したい気持ちをぐっと飲み干して、頭を働かせる。
「止めるよりは穏便に済ませる方が良いと思わないか?」
「……賛成」
結論から言って、止めるのは無理だと判断した。二対一で押し負けるとは思っていないが、下手に暴れられたり、それが原因で死なれるちゃ困る。やりたい事をやらせて、気が済んだ頃合いに声をかけて、誘導させるのが一番楽だし、安全だ。
今回に当てはめるなら、お腹いっぱいになったアレを寝かしつけるまで。
話しかけたとして、どんな返事が返ってくるのか予測がつけられない。出たところ勝負だ。失敗すれば、どこまで転げ落ちるのやら……。
死の味しかしない生唾を飲み込んで重たい重たい一歩を踏み出す。オータムを一瞥して、私の意図を汲み取った奴は逆に一歩下がり、部屋から出ないギリギリの場所で待機した。
ねちゃねちゃぐちゅぐちゅごりごり、と人から聞こえてはいけない音がする方へ近づく。人間は順応する生き物だと聞いているが、私の鼻はちっとも慣れてくれない。鼻が曲がっても逃げられそうにないな。
あれこれ考えている内に、ついにその背中までたどり着いてしまった。
「あー……名無水、だったか?」
「…………はい?」
私が話しかけてから食事を止めて嚥下した名無水は何事も無かったように返事をして顔だけ私の方を向ける。当然だが、口回りや人だった腐肉を持つ手はおびただしい量の血に塗れていた。
既に半分ほどを胃袋に収めてしまったのか、綺麗に上半身がこの世から消え去っている。
「名無水、その、だな――」
「あ、銀でいいですよ。エムさん」
「……分かった。私もエムでいい」
「うん。エム。それで?」
「あーーっと……」
しまった、話し方は良いが何を話せばいいのやらだ。
美味いか? いや美味くは無いだろ。
なんで姉を食べた、言え! 何か違うな。
腕の良い医者を知ってるぞ? これも違うな。
関係に亀裂が入りそうな言葉しか思い浮かばないんだが……!? そんなことをしているコイツが100%悪い筈なのに、なぜ私が頭を抱えないといけないんだ!?
「明日のことを話しておこうかな、と思ってな」
選んだのは業務連絡だった。
「明日? 何かあるの?」
「ついさっきの話になるんだが、軍事ISが暴走し消息を絶った」
「はぁ」
「その後、軍事ISは不規則にロストしながらも南下をしている。これは意図的なものだ」
「……はぁ」
「目的地は恐らくIS学園の臨海学校先の近海だろう」
何を言いたいのか分からない、といった様子の銀はその一言で纏う雰囲気を変えた。ふわふわしたものから、肌がひりつくような冷たさに。
「私達はこれが篠ノ之束が仕組んだものじゃないかと考えている」
「束さん、が?」
「ああ。明日私達はここへ行くつもりだ。この軍事ISを頂く」
「それを、どうして僕に?」
「そこには更識簪が居るんだろう? 会って話したいことが、あるんじゃないか?」
「………」
背後から殺気と呆れと焦りが混じった感情をぶつけられるが、とりあえず無視した。口にしてしまったのはしょうがない。
私が銀について聞いているのは、世間知らずと病弱、あとは……更識簪と男女関係に発展しかけていることぐらいだけだ。オータムが言うにはちょっとしたすれ違いが殺人に繋がったとの事だが……そこまで逸脱した行動をおこすぐらいだ、いざこざがあったのは更識簪が相手と見て間違いない。
世間知らずというくらいだ、きっと喧嘩も初めてで、仲直りだってしたことが無いだろう。今彼女のことをどう思っているのかは分からないが、縁を繋ぐにせよ断ち切るにせよ、一度くらいは顔を見て話した方が良い。今後私達と共に生きるのなら、余計なモノは捨て置く方をお勧めするが。
もう一つ欲を出すなら、更識簪は銀に依存していると聞くし、声をかければこちらに引き込めるかもしれない。テロリスト向きの性格じゃないが、コアだけでも回収はしたいところだ。
鬼が出るか蛇が出るか。博打じみた仕掛け方だが、私の読みどおりならば…
「それって今すぐ決めないとダメなんです?」
「いや、出発前に教えてくれればいい。スコールにな」
「じゃあ一晩ください」
「ああ」
うん。取り乱すことなく、銀はそう答えた。
常識が無くなったわけでも精神異常者になったわけでもない。ただ、静かに心を壊しただけなんだろう。とても気分が沈んだ時に、普段ならダメな事や危ない事でも良さそうに思えてしまう、多分そんな現象だ。流石に人を喰うのはやりすぎだと思うが。
やさぐれた事も無いんだろう。だから壊れ方も知らないんだ。かわいそうな奴。
その場はそれっきりで、「じゃあな」と言い残して私とオータムは霊安室を後にした。ヒヤヒヤしただろうがとオータムがキレていたが、適当に流しておいた。
今は自室でサイレントゼフィルスのメンテナンスをしている。
今は夕食の時間までの手慰みに明日の準備も兼ねて、推力バランスの調整画面とにらめっこタイム。
私としてはさっきの一幕でカロリーを大量に消費した気分なのでぺこぺこだ。軽食で済ませる予定を大幅に変更してがっつく事に決めた。とりあえず量が欲しい。
時計と画面を交互に見ながら今か今かと待っているところで、客人が訪れた。
「や」
銀だった。
「……同行するならスコールに話を通しておけよ」
「あぁ、そういうんじゃないんだ」
「だったらなんだ」
「暇だったから」
「は?」
「年が近そうだし、亜紀山さんは忙しそうだしさ」
「忙しいと言えば忙しいだろうが…」
あのレズビアンは三日に一回は忙しくしているが、果たしてそれを忙しいと言ってもいいのか。自分が連れてきたというのに初日から育児放棄で自分はお楽しみとは……やはりクソだなあいつ。スコールもスコールだ、銀を世話すると言い出したのはお前だろうに。
何で一番関係の薄い私が相手をしなくちゃいかんのだ。
「何してるの?」
「……機体の調整だ」
「へぇ…」
まだ入っても良いとすら口にしていないのに、銀は勝手に入ってきては私の横に腰を下ろす。こちらを覗き込んではつまらなさそうに呟いた。
「エムは機械いじりが好きなの?」
「いや、特に。明日の出撃があるから見直しているだけだ。ISに道具以上のものを求めてない」
「そうなんだ。でも、
「は?」
意味深なことを口にした銀を見る。ただからっぽの笑顔を浮かべるばかりで、それ以上何も言うつもりは無いらしい。
なんだそれは。まるでサイレントゼフィルスが意志を持っていて、私に懐いているようじゃないか。
馬鹿げている。私は本来の所有者ではないし、正しい使い方もしていない。誘拐してくれてありがとうなんて喜ぶ子供がどこにいる?
「じゃあ趣味は? 普段何してるの?」
「それをお前に話す義理はない」
「織斑君は料理が好きなんだってさ。千冬さんは苦手らしいけど」
「……だからどうした?」
「似てるから姉弟なのかなーって。中らずとも遠からずって感じだね、複雑そうだ」
「お前がスコールの客人じゃなかったら今頃は消し炭にしてやれるんだがな」
「やだなぁ」
へらへらと笑う銀は降参と両手を上げるジェスチャー。尚、誠意は全く感じられない。
聞いていた印象と全く違うぞ、まさか人をおちょくるような性格だったとは。気がふれて会話が成立しないよりは百倍マシだがちっとも居心地が良くない。さっさと帰れ。
「で、どうなの?」
「比較するな」
「やったことないんでしょ?」
「お前本当に殺すぞ?」
「作るから夕食付き合ってよ。食べれないけど、作るのは割と好きなんだ」
「勝手にやってろ、知らん」
「食べる相手が居ないと作る意味がないじゃないか。僕は好き勝手に食べれないし、二人はそういうの食べ無さそうだしさ」
「私なら良いとでも? そもそも自分が食べれないなら作るな」
「二人よりは食べてはくれそう、かな。ね、いいでしょ? 僕らの仲だし」
「………はぁ~~……」
凄んでもどこ吹く風、都合が悪いことは無視、挙句の果てに謎の関係性を主張してくると来た。だいたい僕らの仲ってなんだ、私はお前と会って24時間も経ってない。
ここに至って、ようやく名無水銀は少々どころか多分に人の話を聞かない人間だと理解した。話せば話すだけ、オータムの報告にあったのと同一人物なのか疑ってしまう。
私は知っている。主に経験則で。こういう手合いは張り合うだけ無駄なのだと。目をつけられた時点で詰みなのだと。逆に力むだけ無駄に体力を削られるのだと。
「……その内な」
「言ってみるもんだね。でも今から作るから、お菓子とかつまんじゃだめだよ」
「……」
こいつ……。
「どんなのが好き? やっぱ女の子だからサンドイッチみたいな軽食とか?」
「食べ物に好みは無い。無駄な脂肪が増えない程度に栄養が取れて味もそこそこ良ければ十分だ。あ、いや、アジア系の虫を使ったようなゲテモノは勘弁してほしいが……日本食のあえて腐らせる納豆とか、ブルーチーズやカマンベールみたいなカビも無理。キノコなんて菌だぞ? 絶対食わない」
「取り合えず前言撤回しようか。わかった、キノコは入れないからさ」
「ふん」
いい気味だ。適当に振り回されるだけの私ではない。この機会に私に声をかけることがどういう事かを教えてやろう。勝手に友達面した罰だ。報いを受けるがいい。高級志向な二人に連れまわされて肥えた私の舌を満足させてみろ。まぁ、病室育ちのおぼっちゃんには土台無理な話だがな!
「そうだなぁ……キクラゲとか食べたことある? さっき厨房覗いたらいっぱいあったから、それ使おうかなって思ってるんだ」
「キクラゲ……」
……聞いたことのない食材だな。くらげと言えば海にいる半透明の生き物だったはずだが……美味いのか? いや、大量に仕入れるぐらいだし美味しい食材か、もしくはスコールも口にする高級品と見た。さぞ美味いのだろう。
「特別に食ってやる。だが、結構腹が減ってるんだ、早めに、多めに作れ」
「ハイハイ。キクラゲ入りで、早くて、多いのね。りょーかい」
満面の笑みにうすら寒さを感じたがもう遅い。ゆっくりと立ち上がって、手を振りながら銀は部屋を後にした。
「銀ェーーーーー!!!」
私は激怒した。必ず、彼の邪知暴虐の軟弱貧弱色白野郎を除かねばならぬと決意した。私には料理や食材がわからぬ。引き金を引き、ナイフで咽喉をかっ裂いて生きてきた。故に人の邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
ああ美味しかった、美味しかったとも。加えて私の注文通りにボリュームもあった。決してスコールとオータムでは口にできない量が、イメージ通りの盛り具合が実現化したとも。
中華丼と言うらしい丼物と、同じく中華料理のナムルとやらがメニューだった。
中華料理自体食べる機会の無かった私はそれが新鮮で、味も良くあんかけという独特の具材に気を良くした。良くしてしまった。件のキクラゲとたけのこ、野菜に肉とエビと、バランスと彩りも文句は出なかった。
認めるとも、良い料理であったと。惣菜のナムルも格別だった。
疑って済まない、いい腕をしているじゃないか。
私はそう謝罪しようと思っていた。思っていた……思って、いたんだ。
なのに!
「キクラゲはきのこではないか!!!!!!」
キクラゲ。
キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属の キ ノ コ 。
そう、キノコである。
一体奴の言うキクラゲとは何なのか、とろみとうま味が濃縮した半透明のあんに包まれた、たった一つだけ目にしたことのない程よい弾力と触感のある黒いコレは何なのかと、ググってみればこれだ。
「そうだよ?」
そしてこの何を当たり前のことを言ってるの? といったすまし顔である。嫌な予感の正体はこれだった。息をするように人をおちょくりやがって。
私の感動を返せ!
「エム」
「なんだ!!」
「美味しかった?」
「………」
「良かった」
今にもサイレントゼフィルスのシールドビットで小突きまくって顔面を蜂に刺されて原型を留めていない顔にした挙句写真を更識簪におくりつけてやろうと思っていたのに、唐突に裏の無い笑顔で感想を聞かれた私は毒を抜かれてしまった。
美味かったとも。それは事実だ。ひじょーに悔しいが。
振り上げたこぶしをどう下ろしていいか分からず、しかし素直に口にすることもできないままイライラしている私を見て察した(というよりも掌で踊らされた)銀は満足げにほほ笑む。
銀の前には皿が無い。自分で作るだけ作って、私が完食するところをずっと対面で眺めていただけだ。本人が言った通り、好き勝手に食べれないのだろう。それに、体重五十キロ前後の肉と水分を食べ尽くした後では腹も空かないか。というかどこに収まってるんだ?
「で、好みはどんなの?」
「………笑うなよ?」
「笑わないって。流石にこれ以上揶揄ったら殺される」
「自覚があるなら今すぐ止めろ」
悩む、が、これだけ上手とあれば是非とも食べてみたい。これといった趣味を持たない私にとって、食は欠かせない娯楽の一つなのだ。
なのでぽろっと溢してしまった。
「………パンケーキ」
「そっか、夕食には向かないもんね。いつか機会があれば駅前に美味しいお店があるから、一緒に行こっか」
「……その内な」
「その内ね」
また何か仕掛けられるんじゃないかと身構えてしまったが、流石にそんなことは無かった。時間も遅いし、彼が言う駅前――恐らくIS学園と直結しているモノレール駅はここから距離がある。店もとっくに閉まっているだろう。何よりお尋ね者だ。
なんと言うか、すっかり打ち解けてしまっている。オカシイ、こんな筈じゃ無かったのに。遊ばれるかもしれないと身構える自分が、順応している自分が恐ろしい。
「ねぇ、エム」
「なんだ」
「僕はどうすれば良かったのかな」
悶絶していた私に、銀はほいと質問を投げかける。その気軽さとは正反対の、重たい質問だ。
この男の境遇には同情を禁じ得ない。これほど悲惨や壮絶がしっくりくる人間はそうそう居ないだろう。一人の女を除いてすべてに恵まれなかった。最終的にこうなるのは必然に近い。
「今更何を言ったところでどうにかなるとは思えん」
「まぁ、そうだね」
「だがこれからを良くしていくことは、出来るだろう?」
「うん」
「なら、私と来い」
「それって…亡国機業と、ってこと?」
「そうだ。自分に今何が必要なのか、お前は分かっているか?」
「……なんだろう?」
「友達だよ」
酷い境遇だ。手を引っ張ってくれる大人は居ないし、守ってもくれない。ただ寄り添ってくれる女が居ただけで。勿論それはとても大事な存在だが、どれだけ家の力が強大でも一人ではできることもたかが知れるというもの。持て余していたのなら尚更だ。
一人では生きていけないのは当たり前の話だが、二人でも生きてはいけない。真っ黒な大量の絵の具の中に、二滴だけ水色を足しても黒で塗りつぶされてしまう。水色でいいと主張できるだけの自分を肯定してくれる仲間が居れば、混ざったとしても自分の色を放つことが出来ていれば、せめて違っていたかもしれない。
冗談を言い合って、時には悩みが打ち明けられて、気軽に誘えるような、一緒に馬鹿が出来る友達が居れば。
…なんとまぁ、私と似たような。
「今度私にパンケーキを作れ」
「それって友達?」
「勿論。馬鹿を言い合うのが友達の特権さ」
「……そっか」
私につられてにやりと笑った銀は席を立った。皿を重ねて……帰り支度の様だ。
「ありがとう、エム」
「礼などいらん」
「友達だから?」
「ああ」
翌朝、施設内を歩いていた私は銀に割り振られた部屋の前を通る。内装は原型を留めておらず、至る所に何かの傷跡が見られ、吐き出した血痕もまた幾つもあった。
カメラも盗聴器も全て潰され改ざんし、やっと足取りを掴んだ頃には既にすべてが終わっていた。