天井を見ればすぐに分かる。もはや僕専用となりつつある保健室のベッドで一晩明かしたようだ。断定出ないのは、またしても僕の記憶が曖昧だからだろう。
昨日の僕は卜部先輩との模擬戦を行った。上手くできるか不安だったけど、蓋を開ければなんてことは無くて、僕の完勝という形であっさりと復讐劇は幕を閉じる。ピットに戻ってから自分が感じた素の感情を亜紀原さんに聞いてもらったところまでは覚えている。
どうせその後にガタがきて倒れたに違いないや。
「はぁ」
溜め息をついて壁に掛けてある時計を見る。時間は……午前九時を指そうというところか。どうやら一晩眠っていたようだ。
「真夜中に起きるよりはいっか」
片腕を支えにして身体を起こし、ベッド脇のテーブルに置かれていた携帯を手にとって亜紀原さんに電話をかけた。
「おはようございます」
『おはようございます。気分はどうですか?』
「問題ないです」
身体の節々が痛むがこれくらいは問題ない。リハビリ中の筋肉痛の方がよっぽど辛かったし。
「それよりも昨日はありがとうございました」
『礼には及びません。やることをやったまでですので』
「でも、また運んでもらいましたし……」
『? ……あぁ、そう言うことでしたか。気絶されたと勘違いしているようですが、昨晩はご自身で保健室まで歩いて就寝されましたよ』
「え?」
『疲れと緊張で極限状態だったのでしょう。問いかけても殆ど反応が無かったので、余程疲れていたのだと思います。記憶が無くても不思議ではないでしょう』
「そ、そうですか」
そんなことがあったなんて。だめだ、全く思い出せない。
でも確かに言われてみればそうかもしれない。服装は制服じゃなくてISスーツのまんまだし、ロッカーのカギと携帯しかテーブルには置かれて無い。朦朧としてない限りは着替えもするしシャワーだって浴びるから……きっとそうなんだろう。じゃなきゃ怖すぎる。
『まだ保健室ですか?』
「はい。今起きたばかりです」
『ではお迎えにまいりますのでそちらでお待ちください』
「わかりました」
通話を切って携帯をテーブルに置く。どこにいるか分からないけど、五分から十分くらいはかかると見た方がよさそうだ。それまではなにをしようか……。
「あ」
ひらめいた。
勝手知ったる保健室を漁って見つけたのは濡れた布巾と乾いた布巾。
常々思ってはいたんだ、そろそろ右腕の卵を綺麗にしないとって。ここにきてから色んな人と話したり、色んな出来事が立て続けに起きて手入れが疎かになったから真っ黒になってしまった。生命維持装置代わりとはいえ、これは束さんからの借り物なんだから、ちゃんと綺麗にしておかないとね。
両足で濡れた布巾を挟んで丹念に優しく腕輪を拭き、今度は乾いた布巾を脚で挟んで水分を拭き取っていく。手首に面している部分やその付近は流石に難しかったけれど、それ以外の場所なら一通り拭き終わった。
「うぅん、なんかそんなに綺麗にならない」
来たばかりのころはまだ新品同様に綺麗だったんだけどな。こんなに汚れるようなことなんて……したね。腕がなくなるくらいのことはしたね。オイルもいっぱい触ったし、黒くもなるか、ごめんよ。
めいっぱい力を込めて擦ると少しは綺麗になったように見えなくもない。布巾は汚れてるから実際に綺麗にはなったんだろうけど……なんだろう、卵そのものが黒くなっているような―――
「おはようございます」
「おはようございます、亜紀原さん」
シャーっとカーテンが動く音と一緒に亜紀原さんが現れた。唐突でも挨拶は忘れない。颯爽と登場した亜紀原さんの目には珍しく隈が。
「寝てないんですか?」
「仕事です」
「すみません」
「いえ」
ごめんなさい、僕のせいです。
「今日はどうされるのですか?」
「昨日置いてきた荷物を取りに行こうかと。その後は勉強します」
「では行きましょう」
今の時間なら授業で誰かとすれ違うこともないはず。ササッと済ませて自室に戻ろう。特に卜部先輩とその他には会いたくない。
身体を起こしてスリッパに足を通す。ペタペタと学園では珍しい足音を立てながらアリーナの更衣室へ向かった。
※※※※※※※※※
「不思議ですね、何らかの方法でやり返してくるとは思っていたのですが」
「僕もそう思ってました」
無事に更衣室のロッカーから荷物を取り出した僕は、何も盗まれていないことを確認して制服に着替えて部屋に戻っていた。亜紀原さんも一緒に。
なんと間の悪い事に、卜部先輩とばったり会ってしまったのだ。
亜紀原さんの言う通り何かしらやり返してくると思っていた。手は出さなくてもせめて悪態をつくくらいはしてくるだろうと。結果は何も無かったんだけど。
一瞬だけ目が合って睨まれた。舌打ちの一つもなかった。珍しい。
何も無かったんだからいいか、と深く考えずに納得してペンを握る。
さぁて、残りの課題もさくっとすませてしまおう。
※※※※※※※※※
両手の指を絡めて天井へ向けうーんと背伸びをする。長いことイスに座ったまんまだから身体のあちこちが痛いけれど、お陰さまでなんとか残りを片付けることが出来た。
亜紀原さんは報告してくると言い残してつい数分前に部屋を出たばかり。あの人の電話は長いイメージがあるから、戻ってくるまではしばらく時間が掛かるだろう。
……お腹すいたな。そう言えば夕食がまだだった。
「うぇ、何も無い」
備え付けの冷蔵庫を覗いてみても何も残って無かった。備蓄していた食料はいつの間にか胃袋に入れてしまったようだ。その時はそれで良いんだろうけど、こういう時は困るんだよなぁ。
戸棚を開くと簪さん秘蔵のお菓子が少しと、インスタント食品が幾つか残っていた。お菓子はさておき、インスタントか…。
「仕方ない、か」
最近は健康志向のインスタントやフリーズドライなるものが人気だけど、あまりこういう食品が身体に良いとはどうしても思えない。でも食堂も売店もとっくに閉まってるからこれ以外に食べる者が無い。
次からは気をつけようと心に誓って、一番身体に良さそうなおかゆとスープ春雨をチョイスして適当なカップに入れる。常備しているお湯を注いで混ぜれば完成だ。
「味が良いのが、なんだかなぁ」
美味いんだよ。だから嫌いになれないんだろうな、僕。
テーブルの隅に置いていたテレビのリモコンが目に入ったので、静かなのも困りものだからとテレビを久しぶりに付けてみた。今の時間は面白い番組が多い、らしい。
『今日でIS学園一年生の課外授業は四日目を終えようとしていますが、なんと! 少しだけ取材の許可が下りたので、カメラ突撃していきたいと思います!』
偶然にも簪達が向かったホテルが移ったと思ったら突撃取材らしい。それにしてもよく千冬さんが良く許したなぁ。学園には関係者以外は殆ど接触を禁じられているはずだけど……それを許してくれない要素が多いからかな。
聞けば例年に比べて圧倒的に専用機の数が多いとか。どう考えても織斑君が原因だね。がんばれ。
レポーターはロビーに入ってくつろいでいる学園生達にインタビューを敢行しては移動を繰り返し、なんとか目的の人を探そうと必死になっている。クラスの人も何人か映った。布仏さんが映った時はお腹を抱えて笑った。ホテルのラウンジで販売されているケーキの解説を始めたらレポーターの制止も振り切ってアレが良いコレがミソとか、普段からは想像もできない本職顔負けの饒舌ぶり。最後は谷本さんに引きずられていった。
番組を視聴しておよそ十分、ようやくお目当ての一人を見つけたようだ。
『ラウラ・ボーデヴィッヒさんですね?』
『ん? ああ』
『四角放送局の者です、今これ生放送中なんですけど、お時間いいですか?』
『日本のメディアか。まぁ、少しなら構わん』
きっとラウラさんの頭の中はこうに違いない。
日本のメディアが取材に来た
↓
面倒くさい
↓
だがここで断ってしまえば引率の教官に泥を塗ることになる。
↓
すこしだけつきあってやるか。ここでしっかりと受け答えが出来れば褒めてもらえるかもしれないしな。ぐふふふふってところは流石に邪推かな。
『日本は初めてだと聞いていますが、もう慣れましたか?』
『そうだな。始めは色々と苦労したが、もう問題ない』
『因みにどんな場面で?』
『やはり文化の違いだ。特に食はそうだった。ハシという二本の棒で食事をするとは思わなかったし、生魚や腐ってネバネバした豆の臭いときたら……』
『あはは……確かに刺身や納豆は外国の方にとっては親しみのない食べ物ですよね』
『うむ』
『でもそう言えば……織斑千冬さんは大の和食好きで―――』
『それは知っている』
『特に納豆好きだった気が』
『なんだと!?』
『現役の頃に一度直接お話ししたんですけど、その時も言ってましたよ』
『ぐ、おお、おぉぉ……』
カッと目を見開いたラウラさんは両手で頭を抱えてぶつぶつと呪いの様に呟きながら膝をついてしまった。どうやら納豆好きがかなり効いたらしい。そういえば毎朝常に納豆が付いた定食を食べていた気がする。
レポーターが苦い顔をして十秒ほどでなんとか彼女は立ち上がった。日本中に凛々しい姿を見せることが出来たのだ。
『シャルロットーーー! ナットウを持って来い!』
『わぁ、どうしたのいきなり。これは人間の食べるものではない! って前言ってなかったっけ』
『そんなことは無いぞ? 私はナットウが大好きだ。なにせ教官の好物なのだからな』
震えながら走り去って行ったラウラさんがシャルロットさんと一緒に角を曲がるまで、カメラがしっかりと追っていた。
訂正、凛々しくない。むしろ身長相応の可愛らしい姿だよね、あれ。
「あ」
そんな二人とすれ違う様に現れたのは簪だった。
でも様子が変だな……いつも以上に下を向いてい歩いているというか、寂しそうというか……あれは、落ち込んでいる?
僕と本人の気持ちがレポーターに伝わるはずもなく、むしろお目当てが向こうから来てくれたと嬉々としてアタックを仕掛けるメディア。
慣れていない上に不意を突かれた簪は想像通り焦った様子だ。
『あの! 更識簪さんですよね!』
『えっ、あっ、はい……そう、ですけど』
『私は――』
『四角放送局の方ですよね?』
『そ、そうです。お時間は、よろしいですか?』
『ええ』
簪の立場的には、ラウラさんより断りづらいところがあるだろう。それでも落ち込んだ様子を隠してインタビューに答え始めた。聞きたがっていることなんて僕でも予想が付く。
『名無水銀の警護を担当されているとか。どんな方なのかお聞きしても?』
ほらね。
『銀、ですか? 身体は弱いけどなんだかんだで男の子、です』
ちょっと頬を染めながら言わないで誤解される! てか僕のことそんなふうに思ってたの? ちょっと恥ずかしいな……。あまり色々と話してほしくないんだけどなぁ。恥ずかしいのもあるけど、以前の親戚の人とか見てるだろうし、束さんが何をしでかすか分かんないし。
あ。
「イイこと思い付いた」
最近電話してないなって思ってたんだよねー。
充電中の携帯からコードを引っこ抜いて電話帳を開いてコール。僅かに残ったおかゆを啜りながら相手が出るのを待つ
『わっ』
『電話ですか?』
『い、いいですか。ちょっと急ぎなので……』
『え、ええ。ありがとうございました』
『失礼します!』
一瞬で表情を変えた簪に推されてレポーターは頷いてしまった。携帯を両手で抱えた簪は一礼だけしてバタバタとカメラの外へ去って行って……。
『銀!』
「やっ」
僕の電話に出た。嬉しそうに。テレビに映る彼女は一転して笑顔満点。
「テレビ見てたよ、あっという間だったね」
『だ、だって……電話久しぶりだし……』
「うん。邪魔じゃなかった?」
『むしろ助かった、ありがとう』
さて、困っていたルームメイトも助けたことですし、本題に入りますか。
「大丈夫? あまり調子が良くないみたいだけど」
『あぁ、うん……そうだね』
「どうしたの?」
『お姉ちゃんと、ちょっと……』
簪と更識さんが衝突、か。最近は仲良さそうにしていただけにちょっとびっくりだな。更識さんなら自分が引くかなんとか合わせようとするものだと思うんだけど、そうじゃなくて口喧嘩して真っ向から対立したってことは、余程の事があったんだろう。
簪が怒ったのか、更識さんが怒ったのか。
「聞いてもいい?」
『今は……待って。ちゃんと自分で解決してから、話すから』
「間に入ろうか?」
『大丈夫。これは、私がしなくちゃいけないことだから』
「そっか」
『銀は大丈夫? 怪我したり倒れたりしてない?』
うぐぉ、痛いところを突くなぁ。ぶっちゃけ安全に過ごすという約束を破っていることになるので怒られるのは確定であるからして……どうしよ。簪よりも織斑君の方が先に知ってるって聞いたら怒るを通り越して何をされるか分かったもんじゃないや。
「あはは……僕もちょっとあったけど、大丈夫だよ」
という嘘でも本当でもないグレーな言葉でごまかす事にした。日本語は便利だ。
『あまり、無理しないでね』
「うん。でもあと二日くらいすれば帰ってくるんでしょ?」
『……それが、そうでも無くて』
「そうなの?」
一般には公開されてない事だから、誰にも何も言わないでね? と代表候補生が口にしてはいけない前置きを置いて簪は説明した。
超の付く最新型軍用ISが暴走したらしい。所有国は直ぐに回収に向かうも全滅。そのISは暴走したまま姿を一度消して、もう一度現れた。現状の推測で最も有力なのが、IS学園一年生が今いるホテルを目指しているというもの。今簪のいるその場所が、攻撃対象の可能性があるとのこと。
日本政府と国際IS委員会はこの事態の収束に学園の専用機持ちを指名したらしく、先日発表された紅椿と引率していた更識さんの専用機を含めた八機が集まっているのだ。学生という身分を考慮しなければむしろ最適と言える。
ということで、戻ってくるのが遅くなるとのこと。一般生徒だけ予定通りに帰るのか、それとも一緒に残るのか、具体的な部分は未定だがそれだけは確定していると言う。
僕にどうこう言える問題じゃない。敢えて言うとすれば、仕方が無い。
「気をつけてね」
『うん』
「この後は?」
『またお姉ちゃんと話してみる』
「そっか、頑張れ」
『うん!』
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携帯の電源を切ってポケットにしまう。
思わぬ応援に励まされた私はさっきとは打って変わって機嫌が良かった。我ながら現金だと思う。でも仕方が無いものは仕方が無いのだ。好きな男の子からエールを送られて嬉しくならないわけがない。
「よし」
声に出して気合いを入れる。相手はあの完全無欠の姉なのだ、勝てるとは思えないが挑まなければならない。先の会話を思い出して、一層気合いを込めた。
「簪ちゃん、名無水君と距離を置いてもらえない?」
「へ?」
呼びだされたと思ったら、お姉ちゃんはそんなことを切り出してきた。想像もしていなかったことだけに変な声が出てしまう。
頭に来たが、まずは話を聞くことにした。
「彼の過去の一切が不明だって話をしたのは覚えてる?」
「うん」
「なんとなく、つかめたわ」
「……あまり良い人じゃ無かったってこと?」
「何とも言えないわね。恐らくだけど、篠ノ之束博士」
「えぇ?」
本日二度目のすっとんきょうな返事はあまり耳に入らなかった。
束博士が、彼の裏にいる?
そんなまさか、と一蹴する事が出来なかった。
彼の生命維持装置と言う名のブレスレット。あれは現代の科学と医学では到底造れない代物だというのは見てすぐにわかった。そんな物があれば今の医療はもっと発達している程の技術レベルである。歩くこともできず、碌な食事もとれない、点滴とチューブで生きてきた人がある程度の人並みの生活が送れるように回復させたのだ。その科学力は不気味の一言に尽きる。
他には、鋼がISに詳しいという事だ。女性の物という認識のISに男性が関わることと言ったら、精々営業回りか技術職の人ばかり。それも中年が殆どで、同い年の技術者なんて女子であっても一人もいない。でありながら彼は本職の様に知識があり、手つきもそれだ。病院暮らしと言っていた彼は必ずISとの関わりがあった筈だとは睨んでいた。
これはもしかしたら違うかもしれないけど、織斑先生が彼に対して少し甘いように見える。身体の事を気遣っているのかなと思っていたけど、それとは違うものが見えた。なんだろう、親愛というか、友人への気遣いというか……。とにかく普通の生徒とも弟とも違う接し方に違和感を覚えたのは間違いない。
私が銀に対して不思議に思っていたことが、たった一人の存在で肯定出来てしまう。
生命維持装置は博士が造った。
博士と居たからISの知識と技術がある。病人だったころを博士が拾ったのだとしたら、以前口にしていた恩人は博士の事だ。
そしてその博士と親友の織斑先生なら詳しく知っているに違いない。何度か会っていると考えられる。
「思い当たる節があるのね」
「……それで、どうするの?」
「分からない」
「分からないって……」
「何とも言えないっていうのはそういうことなのよ。何かあれば更識は終わる、でも友好関係を結べるチャンスでもある。ただどちらに転んでも何が起きるか分からない」
「天災、っていうくらいだもんね」
そこで理解した。お姉ちゃんは、当主として危ない道は渡れないと言っているのだと。ほどほどのお付き合いであればまだ関係の薄さを主張もできるし、取り入る機会も捨てずにいられる。そこがギリギリのラインなのだと。
そこで振り出しに戻る。
「ソースは?」
「彼の親族を名乗る人物からよ。写真付きでね」
そういって渡されたのは数枚の写真。脚部だけのISを装着した骨と皮だけの様な銀と、紫色の長い髪を垂らしたグラマーな女性――篠ノ之束博士が並んで一軒家の前に立っている。他の写真ではポリタンクを撒いている写真だったり、放火している写真だったり、何かが詰まった段ボールを持っている写真だったり。どれもが二人一緒に作業していた。
「一家全員が交通事故で死亡した家に、謎の放火。唯一生きていた息子は病院にはおらず行方不明。そんなニュース覚えてない? タイミングは全て一致しているのよ」
「……それを信じるってこと?」
「一応はね。だから不確定なのよ、全部」
限りなく黒に近い白。
彼の親戚は誓って一般人だった。現像もその辺のコンビニでやったものだろう。その親戚とやらは金欲しさに情報を持ってきたらしい。彼が束博士と居たのは、たらいまわしにされた末だったんだろうか。
まぁその辺りはさておいて、私の結論としては――
「嫌」
「……簪ちゃん」
「立場があるのは分かってるよ、お姉ちゃんも私も。みんなが危険な目にあうかもしれないってことも」
「そうね」
「それでも、私は嫌だ。護衛だからとか、代表候補生だからじゃなくて、私は彼の味方でいたい」
「……私個人は同じ気持ち。彼はとても好感の持てる男性だって思ってるわ、今のご時世では見かけなくなった優良物件だとも。けど――」
「だったら銀をモノ扱いするのはやめてよ!!」
篠ノ之束とのパイプだとか、優良物件だとか、そんなものが彼じゃない。銀であって銀じゃない。私がお姉ちゃんのオマケじゃないって銀が言ってくれた通りのこと。
姉の言う事が組織として、当主の妹として正しく義務であることは分かっていても、耐えられなかった。
と言って飛び出してきたら捕まったんだけれども。そのおかげで元気が出たのだから良しと考えよう。
来た道を戻って階段を上がり生徒立ち入り禁止のエリアへ入ってお姉ちゃんを探す。予想通り、さっきの場所から動いていなかった。
「お姉ちゃん」
「……戻って来たの?」
「……さっきは、ごめんなさい」
「いいのよ、お姉ちゃんも悪かったわ。ごめんなさい」
ふふ、と笑ってぽんぽんと頭を撫でてくれた。
並んで壁に寄りかかる。銀の声を思い出しながら、私は口を開いた。
「お姉ちゃん」
「んー?」
「私ね、銀が好き」
「……そっか」
「大好きなの。だから私は離れない。もっと近くにいたい。振り向いて欲しいから。だから、信じて」
「………」
「心配しているのは不利益を被るかもしれないからだよね? でも私が上手く付き合えればそんなこと起きないと思う。銀が私に振り向いてくれれば博士は私を――更識を無下にはできない。そうすれば問題は起きない、お姉ちゃんにも更識にも絶対に迷惑はかからない」
「そうね、確かに上手くいけば丸く収まるわ。でも現実は思っているように事は運べないわよ? 名無水君も簪ちゃんも人間なんだから」
「大丈夫だよ。私が銀を嫌いになるなんてありえないから。銀が余所に行かないように、私だけを見させればいいだけだもん。左腕のこともあるし大丈夫だよ」
そうだ。私を助けて銀は腕を失った。一生の傷を私が負わせてしまった。だったら私が一生をかけて銀に尽くさなくちゃいけない。義手も、その他の生活も全て。
それに、私を庇ってくれたってことは十分に脈があると見てもいいと思う。
お姉ちゃんみたいにメリハリのあるモデル体型じゃないけど、まだ成長の余地はあるし、足りないなら他で上手くカバーして満足させてあげればいいだけだ。
「……それじゃあお姉ちゃん、信じてみますか!」
「本当!?」
「可愛い妹の頼みだものね」
仕方ないと言った様子のお姉ちゃんは、困ったように笑っていた。
「その代わり!」
「な、なに?」
「次に名無水君と会ったらちゃんと告白しなさい」
「ふぇ?」
「それもただの告白じゃなくて家に婿に来てくださいって事。あ、ちゃんとオッケー貰ってね」
「ふぇえええぇぇ!?」
「何驚いてるのよ? 簪ちゃんが言ってるのはそういう事でしょ? まぁ婿に来るか嫁に行くかはどちらでもいいけど」
「そ、そうだけど…」
「返事!」
「ひゃい!」
またしても素っ頓狂な返事をしてしまうのであった。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓
妹の言うことは理解できる。妹が立場と責任を理解している事も理解している。
だが、あやふやなままにすることも、今後を決めかねたままに時間を浪費することもできないのが現状だった。
名無水銀。彼は良い意味でも悪い意味でも更識にとってはジョーカーである。彼が篠ノ之束と関係がある可能性が浮上してきた時点で、私は彼の評価を改めた。
ISにおいて織斑一夏と同等がそれ以上のセンスを感じさせる女のような男。少々腹黒い面も見られるが、大人びた精神と性格は良好と言える。唯一にして最大の欠点が虚弱であることか。
いや、得たものに比例して身体が耐えきれなかったのかもしれない。そう思わせるほど彼は出来すぎている。きっと素晴らしい家庭に生まれたのだろう。
私が人として最高の評価を与えてもいいと思う程だ。妹が惚れ込むのは当たり前か。立場と状況が違えば私が彼を欲していたかもしれない。
彼自身は素晴らしい人間と言えるが、件の篠ノ之束はそうとは言えない。問題はここにある。
篠ノ之束は身内に甘い。とにかく甘い。それは先日の紅椿を見れば火を見るより明らか。彼を保護していたのなら身内扱いしていることはほぼ確実。そんな彼の妻になる女性は、自らしっかりと吟味するに違いない。
妹は少々内気なところはあるが芯は持っている。気遣いも料理も出来るし、女としては申し分無いと姉の私は太鼓判を押しているつもりだ。何より技術者の卵で話も合う所があるだろうし、気に入っては貰えるはず。
と思っていても恐らく意味は無いのだ。アレは人の物差しで測ってはいけない。これが不安の種。
もう一つは単純に本人達の問題。今は良くても時間が経てば気持ちが変わることもあるもの。何がきっかけで関係が変わるかなんて誰にもわからない。極端な話だが明日には喧嘩別れしてもおかしくないのである。
そうなればまたしても篠ノ之束と出番だ。名無水銀が良からぬことを吹き込めば必ずあの女は動く。そうなれば更識が受けるダメージは計り知れない。
この歪んだ社会を生み出した個人が最も恐れるべき相手というのは、この業界に身を置く者として常識。近親者に手を出して滅びた組織は五万とあるのだから。
要するに、篠ノ之束怖い、というわけね。
モノ扱いしないで。
妹はそう言うが、彼は私からすれば殆どモノに近いのだ。更識を高みへ導くくす玉なのか、地の底へ叩き落とす爆弾なのか。
結局のところ私は折れた。信じて、と言われたら信じるしかない。否定することも折ることも出来たが、それは私が信じる"妹はいい女"という泊を剥がすことになる。
というか私の言うことはもう聞かないとも思っている。
私はまだ心から好きになった男性が現れたことは無いし、恋愛とやらもしたことが無い。相手は選べないだろうと諦めすらある。だからせめて妹はと思っていた。
愛だろう、紛れもなく妹の愛の形だろう。男と姉と家族と組織と。自分ならば守れると、愛する男と共にいられると。
断言してもいいが、妹は彼に依存している。彼によって言葉巧みに誘導されれば、何でもする人形になる。人を殺せと言われれば殺すだろう、作れと言われれば作るだろう、抱かせてくれと言われれば差し出すだろう。
私は、妹が更識に牙を向けることが一番怖い。
正直なところ、二人がくっつくのは好ましくないのだ。