八月三十一日。因縁の最終決戦を翌日に控えて、ボクは病院のベッドの上で書類の山に囲まれていた。生徒会の職務引継ぎの書類である。球磨川さん達は現在、最終決戦のために動いており、病室で暇を持て余しているボクにお鉢が回ってきたという訳なのだ。幸い『裏の六人(プラスシックス)』連中に負わされた怪我はほとんど回復しており、明日の決戦には十分間に合うだろう。
「なーなー、暇だから何かしよーぜ」
溜息を吐きながら顔を向けた先には、車椅子に乗った志布志の姿があった。日乃影先輩に与えられた損傷は大きく、残念ながら五体満足で参戦することはできなかったのだ。とは言え、日常生活には支障は無いレベルまでは回復しているみたいだけど。ほぼ完治したと言っていいボクとは対照的だ。いまだに入院しているのは、単に自宅へ襲撃されるのを防ぐというだけ。
「……暇なんだったら、君もこの書類の山を片付けるのを手伝ってよ」
「面倒だからパス」
少し疲労も溜まってきたことだし、ボクは両目に指を当てて書類から目を離した。志布志は車椅子を動かして書類の積まれた机に近寄ると、そのまま見舞いのフルーツに手を伸ばして勝手に食べ始める。
「それボクのなんだけど……」
「いーじゃねーか、別に。それより、球磨川さんはもう帰ったのかよ?」
「うん、ついさっきね……」
そう言ってボクはさっきお見舞いにもらった椿、シクラメン、菊の詰まった花束を見せた。球磨川さんらしいセンスに軽く苦笑する。
「ふーん。にしても、もうすぐ始業式が始まるけど、月見月先輩はどう思う?」
「きっと大丈夫だよ。球磨川さんが言うには、今のところ順調らしいし。ボクと志布志の抜けた穴は『裏の六人(プラスシックス)』のみんなが埋めてくれてるみたいだよ」
内心の不安を押し隠しながらボクは言葉を返す。あの黒神めだかと戦う以上、万全なんてものは存在しないからだ。
「何とかスキを突いて真黒さんをリタイアさせられたみたいだし、凶化合宿は行われていないはずだよ。あとは単独行動をしている生徒に襲撃を掛けて数を減らしているみたい」
「最終決戦前に特訓をしよう」なんてプラスの発想は球磨川さんには無い。どれだけ相手を妨害できるか、戦力を減らせるか、というのがボクたち過負荷(マイナス)の発想なのだ。そして、今日はその大詰め。今頃は球磨川さんの、マイナス十三組の命運を決める最終決戦の最後の打ち合わせを全員で行っているはずだ。
「志布志も明日のために休んでおきなよ」
「もう十分睡眠時間を取らせてもらってるよ。規則正しい生活はもう飽き飽きだぜ。そっちこそ入院生活で身体なまらせてんじゃねーの?」
「明日に合わせて、しっかりとリハビリは完了させてあるよ。せめて体調くらいは万全にしとかないとね」
そうかい、と名残惜しそうに志布志を乗せた車椅子はボクの部屋から出て行った。元野球少女だし、インドアは苦手なのかもしれない。そんなことを考えながら、ボクは床に足を着いて立ち、半身に構えた。精神を集中させ、見えない相手に向かって左ジャブを放つ。続いて右ストレート、前蹴り、回し蹴りと一つずつ技を確認していく。それは次第に熱を帯び、ボクの仮想敵の姿は善吉くんへと具体化していた。静かな病室に荒い息遣いと風切り音だけが残る。
数十分が経過し、ふぅと息を吐いたボクはベッドへと倒れこんだ。球磨川さんが黒神めだかの相手をするなら、ボクの相手は善吉くんになるだろう。ボクも善吉くんも、いざとなれば相手は二人の対決に横槍を入れてくるだろうと確信しているのだ。互いに正逆にして同質な存在として、勝負は避けられない。
「動きは問題無い……ね。今日の練習はこれで終わらせて、明日のためにもう休もうかな」
傍らのスポーツドリンクを飲み干すと、ボクは個室に備え付きのトイレへと向かった。この病院はフラスコ計画の施設でもあるため、VIP待遇で部屋を取れたのは助かっている。理事長も過負荷(マイナス)の勝利を望んではいないのだろうけど、それでも黒神めだかの対戦相手として体調は整えておきたいらしい。ボクがトイレの扉を開けて中へ入ると、背後で小さな音が聞こえた。そして、その瞬間、ボクの頭が壁に叩きつけられた。
「がはっ……!な、何が……?」
「久し振りやな、月見月クン。卑怯は別に過負荷(マイナス)の専売特許って訳やないで?」
「な、鍋島先輩……!」
振り向いたボクの目の前にいたのは柔道部部長の鍋島先輩だった。驚くボクの襟を掴むと、そのまま背後の鉄製の便器に後頭部を叩きつける。激突の衝撃で一瞬ボクの意識が飛ばされた。気を取り直す間もなく、左右にボクの身体を振り回して重心を崩してくる。脳が激しく揺らされぐにゃりと視界が歪むが、やぶれかぶれに相手の身体へと手を伸ばした。
「遅すぎやでジブン」
襟を掴もうとした手は鍋島先輩にあっさりと片手で払われてしまった。やっぱり組み手争いには天と地ほどの技術の差がある。鍋島先輩は返す手でボクの頭を掴み、足を掛けて重心を崩す。直後、側頭部に衝撃が走った。頭の中にゴッと鈍い音が鳴り響く。想像以上に硬い壁面に何度も叩きつけられ、ボクの脳が激しく揺らされる。
ぐっ……意識が朦朧としてきた。
「だったら……蹴り潰す!」
両手で鍋島先輩の腕を握り締め、無防備の顔面に向けて逆転のハイキックを放った。しかし、それは――狭い個室の壁が邪魔になって、つま先が引っ掛かってしまう。
「しまった……!?」
「こんな狭いところで暴れちゃいかんて」
さらに距離を詰めた鍋島先輩は、吐息のかかるほどに密着して、ボクの病院服の襟を掴んでいた。そして、その襟を用いてボクの首を正面から締め上げる。反則過ぎる締め技にボクの口からくぐもった呻き声が漏れた。気道を締められ、血流が止まりチカチカと視界がブラックアウトを起こす。この打撃の出せない密着状態で柔道勝負となればボクに勝ち目は無い。だけど――
「がはっ!ジ、ジブン……!?」
――鍋島先輩の脇腹にボクの左膝が突き刺さった。
サバットでは禁止技とされる膝を用いた蹴り。しかし、柔道を始めとするあらゆる格闘技をかじって我流で体系化したボクのサバットにおいては、膝や肘による打撃も通常技にすぎないのだ。実戦においては反則など存在しない。これが目の前の鍋島先輩から学んだことなんだから。
「まだまだっ!」
苦悶の表情を浮かべ、くの字に折れた鍋島先輩の首に腕を回す。畳み掛けるようにボクは肝臓を蹴り潰すつもりで再び膝を振り上げた。ゴキリという鈍い感触。
よし!肋骨をへし折った……!
「ゆ、油断しすぎやでぇ!」
「なっ……!?」
膝を上げて片足立ちになったボクの脚が払われた。バランスを崩したボクは鍋島先輩と共にもつれるように床へと倒れ込む。そのまま流れるようにして素早くボクの身体の上を鍋島先輩が動いていた。しまった……これは寝技の攻防!自身の失策を悟った瞬間にはすでにボクの右足首は見事に極められてしまっていた。足首に激痛が走る。
「何とか抜けないと……!」
「無駄や。打撃や投げ技とちごて寝技は技術の差が如実に出るんやで。ウチが教えたやろ?」
何とか足首の拘束から抜け出したかと思うと、すでに鍋島先輩はボクの膝を抱えるようにして極めていた。膝の関節が折れる寸前。そこで鍋島先輩はボクへと最後通牒を突きつけた。
「動くとこの膝を折るで!月見月クン、柔道を教えた弟子のよしみでゆーといたるわ。明日が終わるまで、学園に行かないゆーんなら怪我させんでやってもえーよ?」
「わかりました。降参します。だから、ボクの大切な脚を折るのは許してくれませんか?」
「……了解。ま、信用できんから身柄は拘束させてもらうで」
あっさりと降参したボクに怪訝な表情を浮かべるものの、鍋島先輩はボクの膝を抱えたまま、器用に所持していた鉄線を取り出した。明日の最終決戦が終わるまで、拘束して監禁するつもりなのだろう。……甘すぎるよ。いや、鍋島先輩はボクの過負荷(マイナス)を知らないんだったか……。
「だとしたら鍋島先輩――ツキがなかったですね」
――この狭い個室の天井が崩落した。
「何や!?」
驚愕に顔を歪める鍋島先輩。天井を突き破って落ちてきた上層階の機器類がボク達を押し潰す。それを間一髪で逃れ、鍋島先輩は狭い個室のドアをぶち破って外へと飛び出していた。病室の機器や天井の瓦礫の破片に埋もれたトイレの個室。そこに取り残されたボクは、頭から血を流しながらゆっくりと立ち上がった。時間が惜しかったので自分自身から運を奪ったけど、そのせいで崩落事故で傷を負ってしまったのだ。だけど、その甲斐はあった。極められていた足はどうやら無事に済んだようだ。
「さて、ようやく立ち技の勝負に持ち込めましたよ」
ある程度の広さをもった病室へと抜け出たボクは半身になって構えた。この数メートルの距離は立ち技が存分に使える距離だ。鍋島先輩は組み付こうと前傾姿勢で構える。
「純粋な格闘戦でなら勝てると思われとんの?そりゃショックやなー」
あからさまなタックル狙いの構えだけど、決め付けは禁物。鍋島先輩を柔道家として考えれば、反則の餌食となることをボクは知っていた。対戦相手の思い込みに付け入ることが鍋島先輩の強さ。反則の存在しない実戦であると強く認識すること。それが鍋島先輩と戦う前提だということをボクはその当人から学んでいた。
「反則は弱者の特権、でしたよね。なら、過負荷(マイナス)のボクにとっても同じことが言えるのを忘れてませんか?」
鍋島先輩の背後でガラッと病室の扉が開く音がした。しかし、お互いに喧嘩について素人ではない。この距離では一瞬の隙が命取り。視線は相手から一瞬たりとも外さなかった。そしてそれは、鍋島先輩の失策だった。
――鍋島先輩の全身がズタズタに切り刻まれ、大量の鮮血が噴き出る。
鍋島先輩の口から悲鳴が上がった。そして、血溜まりに沈むその身体。振り向くとキィキィと車椅子を漕いだ志布志の姿があった。
「助かったよ、志布志」
「派手な音がしたから駆けつけてみれば……。まーた襲撃されてたのかよ?よっぽど弱く見られてんだな」
「こういった襲撃に備えて、志布志の病室を隣にしてもらっておいてよかったよ」
「まったくよー。あたしのことを体の良いボディーガードと勘違いしてねーか?」
ごめんごめん、とボクは軽く笑う。
「さーて、この血達磨はどこに捨てるかね」
うつ伏せになって血の池に横たわる鍋島先輩を見下ろし、志布志が冷たく言い放つ。ピクリとも動かないその身体は、放っておけば出血多量で死んでしまうだろうと思われた。いや、ここは病院だし、その心配もないか……。志布志は部屋から捨てようとその血溜まりに近寄っていくが――
「志布志!近付かないで!」
「え?」
志布志に静止するよう大声で叫ぶ。それと同時にボクは、倒れ伏している鍋島先輩の頭に踵を踏み降ろしていた。その無慈悲な踏みつけは、突如後ろへと跳び上がった鍋島先輩に避けられてしまう。跳び退った鍋島先輩は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。全身を血に塗れさせながらも、虎視眈々と志布志が近寄ってくるのを待ち構えていたのだ。
「ちっ……死んだ振りは通じんか」
「あなたの反則を受け継いだのはこのボクですからね」
「あちゃー、そうやったね。これやから手の内の割れた相手と戦うんは嫌やったんや」
――その声と同時に鍋島先輩の全身から、再び血が噴き出した。
翌日、九月一日。始業式当日の早朝に、ボクはマイナス十三組の教室でもある箱庭学園の剣道場にいた。周囲には不気味で醜悪な生徒達が思い思いの場所に腰を降ろしている。マイナス十三組、総員がこの場に集まっていた。誰も彼もが近づきたくないような気持ち悪い雰囲気を漂わせている。車椅子に乗った志布志に、壁に身体を預けて佇んでいる蝶ヶ崎。そして、その全員の中心に立っているのが球磨川さんであった。この過負荷(マイナス)の渦の中においても、その場だけが重力異常を起こしたかのように圧倒的な負のオーラに包まれている。
『やあ、おはよう。脆弱で惰弱で醜悪で凶悪で邪悪で険悪で気持ち悪くて負け組のみんな。今日は待ちに待った最終決戦。本日をマイナスがプラスに勝利した記念すべき日にしよう!』
球磨川さんが開幕の挨拶を始める。その言葉はやはり最低(マイナス)で、だけどそれにボク達は至福の安心感を得ていた。だって、誰よりも脆弱で惰弱で醜悪で凶悪で邪悪で険悪で気持ち悪くて負け組なのは、紛れも無くこの人なんだから……。
『これから僕はめだかちゃんと最後の決着をつけてくる。だからみんなにお願いだ。僕の勝負に誰一人邪魔を入れないで欲しい』
そう言って球磨川さんは頭を下げる。ボク達は黙って頷いた。言うまでもない。わがままで自分勝手で協調性皆無なマイナス十三組。しかし、この場の全員は一人残らず球磨川さんに心からの忠誠を誓っているのだから。
『ありがとう。――絶対に勝ってくるから!』
ボク達は剣道場の玄関を通り過ぎる。そこには全身をボロ雑巾のようにされた人間がゴミのように積まれていた。真っ赤に血で染まったものや全身の骨を砕かれてぐにゃぐにゃになったもの、焼け爛れたものなどが奇怪なオブジェのようにあちこちに散乱している。そのすべてが特別体育科(スペシャル)、十一組の生徒達である。この短期間に球磨川さん達は、体育系の特別(スペシャル)を一人残らず潰していたのだ。あと残る敵は居場所の知れない十三組の異常者(アブノーマル)のみ。
『瑞貴ちゃん。見張りの生徒によると、十三組の生徒たちが続々とこの学園に集結しているそうだよ。そっちは任せるから』
「わかりました。一人たりとも近づけさせません」
決戦の舞台として球磨川さんが指定したのは一年十三組の教室。無人の廊下を進みながら、一人、また一人とマイナス十三組の仲間は姿を消していく。過負荷(マイナス)の性質上、ボク達は連携して戦うことには不得手なのだ。球磨川さんの指示した場所へとそれぞれが散開して配置されていく。そして、最後に残ったのはボクと球磨川さんだけだった。教室の扉を開ける。
そこにいたのは善吉くん、名瀬さん、古賀さん、人吉先生。そして――黒神めだか。
「久し振りだな、球磨川」
黒神めだかを視認した瞬間、球磨川さんの雰囲気が豹変する。恐ろしいまでに凶悪でおぞましい負(マイナス)の空気に思わず戦慄した。しかし、目の前の黒神めだかの圧倒的なまでの運命もボクには量り知ることができない。互いに埒外の怪物。すでにこの二人の勝負はボクに関与できるレベルではないのか……。
「うん、おはよう。めだかちゃん。じゃあ早速だけど――決着をつけようか」
「そうだな。長年の因縁の決着をつけよう」
――こうして、箱庭学園史上に残る決戦の火蓋が切って落とされた。