新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ムオルの村①

 

 

 

「もう大丈夫じゃろう。後は目を覚ますのを待つだけじゃ」

 

「ありがとうございました」

 

 宿屋の一室では一つのベッドを四人の大人が囲むように佇んでいる。ベッドには幼い少女が今は安らかな表情で眠っていた。

 その顔の一番近くに立つ青年は、重苦しい表情のまま眠っている少女を見下ろしている。

 

「カミュ、お前も少し休め」

 

「……いや、いい……」

 

 薬師を送り出したリーシャが、メルエの傍から離れようとしないカミュに声をかけるが、それに対しても、首を横に振るだけで立ち上がる素振りも見せないカミュに大きな溜息を洩らした。

 彼はこの村に到着してから眠ってはいないのだ。

 既に、一行がこの村に到着してから丸一日が過ぎようとしている。メルエを担ぎ込むようにして宿屋に入った一行の宿泊の手続きや薬師の手配等をしたのはサラだった。

 サラが手続きをしている最中も、そして薬師を待つ間も、カミュはただじっとメルエの枕元に座り、今と同じようにメルエを見詰める事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

「カミュ! 方角はこっちで良いのか!?」

 

 全速力で地図上にあった村へと目指す一行は、既に橋を渡りきり、前方に見える森へと突入しようとしていた。

 カミュのすぐ後ろを走っているリーシャが道を問う声が森の中に響くが、それは無言の肯定と言う形で返って来る。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 後ろを振り向く事なく、地図を片手に前方に向かって走るカミュの速度は、駆け出した当初から落ちる事はなく、むしろ上がっているかに見えた。

 そして、当然のように歴戦の二人の速度に付いて行けなくなったサラの呼吸は乱れ始める。

 

「サラ! もうすぐだ!」

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 徐々に自分達との距離が開き始めたサラに、リーシャは振り返りざまに声を投げるが、もはやサラには言葉を返す余裕はなかった。

 顔を上げ、前を走るカミュ達を視界に捉える事もままならず、それでも足だけは必死にその回転を止めようとしないのは、サラの意地なのか、それとも無意識な物なのか。

 

「……はぁ……はぁ……あっ!?」

 

「ちっ!」

 

 しかし、元の体力や身体能力の違いは、意地や努力で補える物ではない。カミュ達の速度に付いて行こうと無理に動かしていた足は、元々の身体能力の限界を超え、サラの頭の中で思い描いている動きとは掛け離れたものになって行った。

 その結果、自らの足がもう片方の足に引っかかるというお粗末な現象を生み出し、サラはそのままの勢いで前方へと倒れ込む。盛大な音を上げて倒れたサラを振り返ったカミュは大きな舌打ちを上げた後、その後ろを走っていたリーシャですら驚く行為に出る。

 

「森を出ても、今走っている方角へ行け!」

 

「カ、カミュ!」

 

 カミュが後方へと戻り始めたのだ。

 リーシャへ走る方角を指示した後、カミュは後ろへと振り返り、そのままリーシャの脇をすり抜けて行った。

 カミュが先程のサラの決意を聞いていない訳がない。それでもカミュは、躓き倒れたサラの下へと駆けたのだ。

 リーシャは一瞬、呆然とカミュの背中を見たが、瞬時に気持ちを切り替え、薄い笑みを浮かべた後、再び全速力でカミュの指し示した方角へと駆け出した。

 

「カ、カミュ様! な、なにをしているのです!? メ、メルエを……私ならば大丈夫です!」

 

「……少し黙っていろ……」

 

 自分の下へと駆けて来たカミュを見て、サラは瞳を厳しい物へと変える。サラの頭には、『自分は信用されていないのか?』という疑問が浮かんだのだ。

 先程、カミュとリーシャにあれ程強い言葉を投げた筈。サラは、その事を本当に覚悟していた。それにも拘らず、ここにカミュが来たと言う事は、そのサラの覚悟を無視する行為。

 サラはそれが悔しかった。

 

「えっ!? カ、カミュ様!」

 

 しかし、そんなサラの憤りを無視するかのように、カミュは倒れていたサラの腰周りに腕を入れ、一気に抱え込む。まるで木材でも担ぐようにサラの身体を肩へと担ぐと、カミュはもはや背中も見えなくなったリーシャの向かった方角へと向き直った。

 

「……不満ならば、後で聞く……」

 

「えっ!? きゃぁぁぁぁぁぁ!」

 

 サラを担いだカミュは一言呟くと、そのまま一歩足を踏み出し、再び全速力で駆け出す。不意を突かれたサラの木霊を残し、カミュは先程以上のスピードでリーシャの後姿を追って走った。

 

 カミュはサラの決意を侮辱した訳ではなかった。

 むしろ、サラの決意があったからこそ、その行動に出たのだ。

 『メルエを救いたい』

 その想いは、この『僧侶』も変わらない事を確信したのだから。

 

 前方に人の営みの灯りが見えて来た頃に、カミュはリーシャへと追いついた。

 別段、リーシャは速度を緩めた訳ではない。それどころか、カミュと別れてから更に速度を上げたと言っても過言ではない。それでもカミュは追いついた。

 まだまだ未発達な身体とはいえ、アリアハンの法では成人している女性を一人担いでいるのにだ。それは、カミュが必死であった事の象徴であろう。

 

「カミュ様! 宿屋を!」

 

 村を外敵から守る門の前に辿り着き、カミュの肩の後ろからサラが叫び声を上げた。

 『自分を下ろせ』と言う前に、『宿屋を探せ』と叫ぶサラにカミュが一つ頷く。門を力一杯叩いているリーシャの呼び掛けに、門の上から目を擦って出て来た男は、叫んでいる女性の腕の中でぐったりとしている少女を見て、慌てて門を開けてくれた。

 

「宿屋は!?」

 

「宿屋なら、すぐそこだ!? 熱があるのか? 薬師を呼んで来よう」

 

「お願いします!」

 

 カミュの問い掛けに門を守っていた男は、門のすぐ傍にある建物を指差しながら一行の状況を全て理解していた。

 男の提案に、既にカミュの肩から下ろされたサラは頭を下げた後、先頭を切って宿屋へと入って行く。

 

 その後、未だに意識を戻さないメルエを抱き抱えて眉を下げるリーシャと、そんなメルエを苦痛に歪んだような表情で見つめるカミュを置いて、サラが宿の手配を行った。

 門番の男が薬師を手配してくれている事も伝え、湯を沸かしてくれるように依頼したサラは、受け取った鍵の部屋へリーシャ達を連れて行く。

 メルエの服を脱がし、宿屋の主人が持って来た湯に浸した布で、メルエの身体を丁寧に拭き、同じく主人が用意した部屋着を着せたのもサラ。

 その間もカミュはただメルエを見下ろす事しか出来なかった。

 

 薬師に診察をしてもらった結果、疲労によって弱っていた身体が雨の影響で冷えた為に体調を崩したのだろうと言う物だった。

 命に別状もなく、暖かくして寝ていれば時機に熱も下がるという薬師の言葉にリーシャは胸を撫で下ろし、サラも表情を緩める。しかし、カミュだけは表情を失くしたまま、じっとメルエの寝顔を見ていた。

 

 

 

 

 

 そんな状況は、夜も明けて陽が昇りきった後も続いた。薬師に調合して貰った煎じた薬草をメルエに飲ませる為に、リーシャやサラは交互に眠っていたが、カミュが眠った形跡はない。

 メルエの熱も下がり、汗を拭く回数も少なくなり、後はメルエが目覚めるのを待つばかりとなっても、カミュはその場所を一歩も動こうとはしなかった。

 

「ふぅ……カミュ。メルエはそろそろ目を覚ます筈だ。メルエが目を覚ました時に、何か温かくて栄養のある物を食べさせてやりたい。材料を買って来てくれるか?」

 

「……わかった……」

 

 何かに諦めたように溜息を吐いたリーシャは、カミュへと何か釈然としない願いを投げかけた。

 そんなリーシャの言葉にサラは驚いてしまい、目を丸くしてリーシャの顔を見てしまう。しかし、不躾な願いに対し、リーシャの方へようやく視線を動かしたカミュが小さく頷き席を立った事で、サラはリーシャの顔を見た時以上に目を見開いてカミュを眺めてしまった。

 

「えっ?……えっ?」

 

 購入して来て欲しい物をリーシャが伝え、それに頷き出て行こうとするカミュの背中を見て、サラの困惑は尚更強い物へと変わって行った。

 まさかカミュが買い物を頼まれるとは思わなかったのだ。しかもそれを何の抵抗もなく受け入れた事が尚更サラを驚かせる。

 

「アイツも、ただメルエが心配なだけなんだ」

 

「……カミュ様……」

 

 そんなサラの表情を見て、リーシャが呟いた一言。それは、再びサラの心を揺さ振って行く。

 常に冷静に物事を見つめ、時には冷酷な判断も行う『勇者』と呼ばれる青年の心の内を垣間見たサラは、扉を出て行くカミュの背中をしばらく眺めていた。

 

 もしかすると、サラが『一番強い者』と考えていた青年が一番脆いのかもしれない。

 いや、アリアハンを出た当初であれば、サラの考えに間違いはなかっただろう。彼には、失う物等何もなく、護るべき者もなかったのだから。

 『人々を救う』とされている『勇者』である者としては奇妙な事ではあるが、実際カミュはそのように考えていただろう。

 しかし、今のカミュの中にはメルエという者が存在する。その存在は、時を重ねる程に大きさを増し、カミュの心の中の領域を広げて行った。

 サラの『事、メルエに関してだけは、駄目なのだ』という考えは、恐ろしく的を射ていたのかもしれない。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 カミュが出て行った後も、そんな考えに陥っていたサラの耳に小さな呻き声が入って来る。それと同時にベッドへとリーシャが近寄り、そこで寝ている少女の額に乗せてある布で汗を拭いた。

 

「メルエ……すまない。もっとお前に気をかけるべきだった。早く目覚めてくれ。お前がいなければ、私達は動けないぞ……」

 

「……リーシャさん……」

 

 優しく慈愛に満ちた表情でメルエの汗を拭くリーシャの姿は、正しく母そのものだった。

 そんな事を言えば、リーシャの怒りを買う事となる為、口には出さないが、サラはそんなリーシャの横顔を優しく眺める。

 

 

 

 そんな慈愛に満ちた空気の中、静かな時間が流れて行った。

 カミュはまだ帰らない。

 そして、待ちに待った瞬間がやって来た。

 

「…………うぅぅん…………」

 

「ん? メ、メルエ!?」

 

 少し身動ぎをしたメルエが、少しずつその双眸を開いて行く。メルエの額に乗せていた布を替えていたリーシャが、メルエの瞼が動いた事に気付き、持っていた布を水桶に落とし、メルエの顔を覗き込んだ。

 

「…………リーシャ…………?」

 

「ああ、そうだ! メルエ、良く戻って来た!」

 

 『ぼうっ』と自分を見上げるメルエに、飛び切りの笑顔を向けてリーシャが労いの言葉を投げかけるが、メルエはそんなリーシャを不思議そうに見上げるばかり。

 そんな二人のやり取りに、サラは目に涙を浮かべながら笑顔を向ける。

 

「皆さん心配したのですよ」

 

「…………サラ…………?」

 

「まだ無理をするな」

 

 自分に近づいて来るサラの方へ視線を動かしたメルエはそのまま身体を起こそうとするが、それを柔らかく制するようにリーシャがメルエの身体を支え、起き上がらせた。

 半身を起こしたメルエは、しばらく『ぼうっ』と部屋を見渡し、不思議そうに首を傾げる。その様子が何とも微笑ましく、リーシャとサラは薄い笑みを浮かべた。

 

「メルエは体調を崩して倒れてしまったのですよ」

 

「…………???…………」

 

 メルエの疑問に答えるようにサラが状況を話すが、メルエの首は再び反対方向へと傾げられる。サラはメルエを見ながら笑顔を浮かべるが、リーシャは先程の笑みを消し、真剣な表情でメルエを見つめていた。

 

「……メルエ。これからする私の質問に、真面目に答えてくれ……」

 

「…………???…………」

 

「リーシャさん?」

 

 そんなリーシャが真剣な瞳でメルエの目を見て言葉を零し始めた。その言葉に、メルエの首は曲がり、サラは何かを感じたのか一歩後ろへと下がった。

 

「メルエは何時ぐらいから具合が悪かったんだ?」

 

「…………???…………」

 

 リーシャの質問の意図が解らないメルエは、再び首を傾げるが、リーシャの真剣な瞳を見て、もう一度リーシャの言葉を考え始める。

 リーシャの雰囲気が『怒り』ではない事はメルエも理解していたが、自分への問いかけが真面目な物である事も理解したのだ。

 

「メルエは、頭が痛かったり、寒さを感じたり、『ぼうっ』としたりしていたのだろう?」

 

「…………ん…………」

 

 言葉を考え込むようなメルエに、もう一度、リーシャは別角度からの質問を告げる。そのリーシャの言葉に、メルエはしばらく考えた後、静かに頷きを返し、その答えが、少なくとも<ガルナの塔>の頃からメルエが体調を崩していた事を示していた。

 

「何時からだ?」

 

「…………あさ…………」

 

「!!」

 

 頷くメルエに同じ質問を繰り返したリーシャは、暫くした後に返って来た答えに絶句した。

 それはサラも同様で、小さく呟くようなメルエの声を聞き、自分の浅はかさを知る事となる。

 

 メルエは、朝から具合が悪かったと言っているのだ。それは、塔に入る前の森からという事になる。

 つまり、塔内部で行われた戦闘の最中も、あの細く頼りない通路を渡っている最中も、メルエの体調は最悪だった事を意味しているのだ。そして、メルエが意識を失うまで追い詰めた原因は、塔の探索に固執した自分と言う事になる事に、サラは言葉を失った。

 

「何故言わなかった?」

 

「…………???…………」

 

 ようやく落ち着いたリーシャが、絞り出すように言葉を零す。その言葉には、自分への後悔と、そして若干の怒りが籠っていた。

 それを敏感に感じ取ったメルエは、少しリーシャの顔を見た後、俯いてしまう。

 

「……メルエ……何故、身体の調子が悪い事を私やカミュに言わなかった?」

 

「リ、リーシャさん」

 

 もう一度同じ事を繰り返すリーシャの瞳は、哀しみと後悔、そして怒りが混ざった色を湛えている。それに気付いたサラが一歩リーシャに近づいた時、リーシャの真剣さを理解したメルエの口が開いた。

 

「…………メルエ………おいて…く…………」

 

「……メルエ……」

 

 小さく、そして弱々しく呟かれたその言葉は、サラの胸に突き刺さった。

 最近はリーシャだけにではなく、サラにも無邪気さを見せるメルエを見ていたサラは失念していたのだ。

 決して、メルエの生い立ちを忘れ去った訳ではない。しかし、最近のメルエと過去のメルエが結び付かなくなっていた。

 それは、悪い事ではない。それ程メルエが笑顔を見せるようになっている証拠なのだから。

 

「……ば…もの……」

 

「リーシャさん?」

 

 しかし、メルエの言葉に愕然とするサラとは違い、リーシャはメルエの言葉を聞いた後に再び俯き、何かを呟き始めた。

 その言葉は小さく、サラが思わず聞き返してしまう程の物。

 

「馬鹿者!」

 

「!!」

 

 しかし、顔を上げたリーシャは、尚も聞き返そうとして近づいたサラの鼓膜を破る程の大声を上げた。

 そして、言葉と共に振り上げられたリーシャの拳が、そのままメルエの頭へと落ち、『ゴツン』という目を覆いたくなる程の音を立てる。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「馬鹿者! 馬鹿者!」

 

 拳骨の落ちた頭を抱え、涙を浮かべるメルエに対して喚き散らすように言葉を発するリーシャの瞳にも涙が浮かんでいた。

 そんなリーシャを見て、サラはその心情を察し、再び距離を取る為に一歩後ろへと下がる。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

「私達がメルエを置いて行く!? 何処からそんな発想が生まれるんだ!?」

 

 頭を押さえながら涙を流してリーシャを見上げるメルエに、リーシャも涙を頬に伝えながら叫ぶ。その間にサラが入り込む余地などない。それはリーシャが叱ってやる事なのだと、サラも知っているのだ。

 

「メルエ! お前をこれ程心配し、自己を犠牲にしてでもお前を救おうとしたサラや、お前が気を失った時に、我を忘れる程に混乱しながらも懸命に走り、一晩中お前の傍で眠りもせずに見守っていたカミュを侮辱するのか!?」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 リーシャは憤っていた。それは、メルエに向ける怒りとしては、身勝手なものかもしれない。しかし、カミュやサラがどれ程この幼い少女を大切に想っているのかが、この少女に全く伝わっていなかったという事実に、リーシャは怒りを覚えたのだ。

 

「…………ごめん………なさ……い…………」

 

 リーシャの瞳を見上げたまま、メルエが謝罪の言葉を口にする。しかし、メルエ自身は何故謝らなければいけないのかを理解していないのかもしれない。

 それが解っている故に、リーシャはメルエの身体を引きよせ、胸に抱きしめた。

 

「私も、サラも、勿論カミュも。私達はメルエが大好きだ。以前に私はメルエと約束をした筈だ。私はいつまでもメルエと一緒だと」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの胸の中ですすり泣きながらも、メルエは小さく頷く。

 メルエの頭を優しく撫でるリーシャの瞳から再び大粒の涙が零れ落ちた。

 

「約束してくれ。身体の調子が悪い時は、必ず私達に言う事。メルエの調子が悪いのなら、二・三日の間、町に留まる事を否定する者など、この中には一人もいない」

 

「…………ん…………」

 

 サラも思わず口を押さえた。

 おそらく、メルエはアッサラームで暮らしていた時も、何度か体調を崩した事があったのだろう。それでもそれを義母に伝える事をしなかった。

 いや、最初は伝えたのかもしれない。しかし、その頃の義母にはメルエに対する優しさが失われていた。故に、体調を崩し、熱があろうとも、頭痛がしようとも、毎日劇場での下働きに出ていたのだろう。

 そんな過去しかないメルエが、体調が悪い事を隠した事をサラは責める事が出来なかった。

 『もし、体調を崩した自分を<役立たず>として見られ、置いて行かれたら』と考えたメルエの思考は、サラが以前に考えていた物と大差がないからだ。

 勿論そこに付随する置いて行かれる理由や、その原因は全く違うが、自分の存在に対しての自信の無さは、サラもメルエも変わりはない。

 

「いいか、メルエ。大抵の怪我は、サラが必ず治してくれる。でもな、病だけは駄目だ。病はゆっくりと休まなければ、死んでしまうかもしれないんだ。私達はメルエを失いたくない。だから、必ず私達に伝える事を約束してくれ」

 

「…………ん…………」

 

 胸から引き剝がし、メルエの瞳を見て話すリーシャに、メルエはこくりと頷く。

 それを見て、ようやくサラが二人へと近づいて行った。

 

「メルエ。以前に私はメルエに『我慢しなければいけない』と教えました。ですが、生きていく上で、『我慢しなければいけない事』と『我慢してはいけない事』の二つがあるのです。それは、これからゆっくり学んで行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 近づいて来たサラの方へと視線を移したメルエが小さく頷く。そして安堵からなのか、それとも嬉しさからなのか、流れ落ちる涙を隠すようにメルエは再びリーシャの胸に顔を埋め、嗚咽を漏らし始めた。

 

 小さな嗚咽が響く部屋の扉の外で、カミュは一人佇んでいた。

 メルエという少女が意識を取り戻した事に安堵している自分の心に戸惑いながら。

 

 リーシャの言葉には否定したい部分がいくつかあった。

 カミュにしてみれば、我を忘れる程に混乱した記憶はない。だが、もしかすれば、あの時の絶望にも似た感情は、外から見れば我を忘れているように見えたのかもしれない。

 確かに、メルエがぐったりと項垂れている姿を見た時、カミュの頭の中にこれまで見て来た数多くの死体が浮かんでいた。

 

 魔物に襲われて命を落とした者。

 病に倒れ、そのまま息を引き取った者。

 自己の正当性を無視され、見せしめの様に殺された者。

 

 カミュは同年代の人間の中でも、誰よりも『人』の死を見て来ていた。そして、その中で次第に『人』の死に対しての感情が薄れて行く。

 しかし、メルエの姿が『死』というイメージに直結した時、カミュの心の中にこれまで感じた事のない『恐怖』が襲いかかって来たのだ。

 『恐怖』など、自分の人生を諦めたその日から感じた事は一度もなかった。どんな魔物と対峙しても、どんな人間と対峙しても。自分の命が失われる事に『恐怖』を感じた事などもない。

 それが、他人であるメルエの『死』に対して、心の底から湧き上がる『恐怖』に贖う事が出来なかった。

 

「……失いたくない……か……」

 

 独り言のように呟いたカミュの言葉は、宿屋の廊下に霧散して行く。カミュに死への『恐怖』を植え付けた少女のすすり泣きが消えて行くまで、カミュは扉の前に立ち尽くしていた。

 

 

 

「メルエ、熱いから気をつけろ」

 

 カミュの買って来た材料で作ったスープをスプーンで掬い、少し冷ますように息を吹きかけた物をリーシャがメルエの口へと運ぶ。リーシャの忠告を聞いていないかのように、メルエがスプーンに被りつき、そのスープの熱さに顔を顰めた。

 

「ふふふ。だから熱いと言っただろう? もう少し冷ました方が良かったな」

 

「…………ん…………」

 

 微笑むリーシャに、軽く頷いたメルエの表情も笑顔。

 そんな優しい空気の中、サラはカミュへと視線を向けた。

 

「そう言えば、この村は何と言う村なのですか?」

 

 そんなサラの質問に、リーシャもカミュへと視線を向けた。考えてみると、この村の宿屋に飛び込むように入ってから、リーシャやサラは宿屋を一歩も出ていないのだ。故に村の名前から、村の場所まで、何も知らなかった。

 

「……ここは、ダーマから北東にある<ムオル>という村だそうだ……」

 

「ムオル?」

 

 サラはその聞き覚えのない名前を復唱し、カミュを見た。

 サラとて、地図に載る全ての町や村の名を憶えている訳ではない。故に、知らない町や村があっても不思議ではないのだが、一度も聞いた事のない村の名前は珍しいのだ。

 

「……最果てにある小さな村だ……」

 

「なるほどな……どこの国にも所属しない、自給自足の村か……」

 

 サラの疑問に答えたカミュの言葉に、リーシャは納得が行ったように頷く。しかし、カミュ達の会話に興味を示さないメルエが、雛鳥のように口を開けて次のスープを待っている姿を見て、リーシャは慌ててスープを掬った。

 サラがカミュから視線を外し、くすくすと笑いを零す。

 

「メルエ、そんなに慌てなくても、誰も取りはしないぞ」

 

「…………」

 

 苦笑気味なリーシャの言葉を無視するように、メルエは再び口を開ける。メルエの姿は、お腹が空いているという理由もあるだろうが、それ以上に、リーシャに対して甘えている物であるという事をサラは理解していた。

 

「ところで、サラ? 『悟りの書』というのは見つかったのか?」

 

「えっ? あ、いえ……」

 

 メルエにスプーンを向けながら視線を動かしたリーシャの言葉に、サラは曖昧な返事を返す。

 その言葉を聞いたリーシャは、それを否定と判断し、軽く俯き加減になるが、それを見たサラが慌ててリーシャの考えを遮る素振りを見せた。

 

「あっ! い、いえ。これが『悟りの書』なのかどうかが解らないのです」

 

「解らない?」

 

 否定の言葉を口にするサラを不思議そうに見つめるリーシャに、サラは言葉に詰まる。実際、サラにも今自分が持っている書物が何であるのかが解らないのだ。

 表紙を捲った部分の一ページ目にしか何も書かれておらず、書かれている文字や描かれている魔方陣は『悟る』という行為に関係しているのかどうかすら解らない。

 

「……はい……一ページ目にしか、何も書かれていないのです」

 

「何? どういうことだ?」

 

 サラの言葉を全く理解出来ないリーシャがスプーンを置いてしまった事に、メルエは不満そうに頬を膨らませるが、そんなメルエに苦笑しながらスープの器をメルエへと手渡し、リーシャはサラが持つ一冊の書物を受け取った。

 

「???」

 

 サラから受け取った書物を慎重に開いたリーシャは、パラパラとページを捲りながら、何度も書物を凝視する。そのリーシャの様子を不安そうに見つめるサラを余所に、不満顔のメルエは黙々とスープを口に運んでいた。

 

「……どうでしょう……?」

 

「……サラ?……その書かれているページとは、どのページの事だ?」

 

 不安そうにリーシャへと尋ねるサラに返って来たのは、サラの予想を遙かに超える物だった。

 驚きの声を上げ、リーシャの覗き込んでいる書物に目を向けると、そこはサラが見た唯一文字が書かれているページだったのだ。

 それを見たサラが顔を上げるが、目に入ったリーシャの顔は、困惑と言うよりは疑問と言った方が良い表情を浮かべている。それは、サラが今見ている文字をリーシャは見ていない事の証明。

 

「リ、リーシャさんには、ここに書かれている文字や、描かれている魔方陣が見えないのですか?」

 

「どこだ? サラが差している『ここ』とはどこのことなんだ?」

 

 リーシャが検討違いの場所を見ている事に気づき、サラはリーシャが本当に『見えていない』事を理解する。つまり、サラにはその文字がはっきりと読めるが、リーシャにはその文字の存在も把握出来ていないのだ。

 

「……その書物はアンタの物だと言った筈だ……」

 

 そんなサラの後ろから、少し書物を覗くように見たカミュは、塔内部でサラへと告げた言葉を再び口にする。サラがカミュを振り返り、その言葉を理解しようとしている時、リーシャの持っている書物を、スープを飲み終わったメルエが横から覗き込んでいた。

 

「メルエも見てみるか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの問いかけに小さく頷いたメルエは、リーシャから自分の顔ほどもある書物を受け取り、重そうにその表紙を開く。

 リーシャとは異なり、表紙を開いた後は次のページへと進む事はなく、ましてやサラが指し示したページに目を向ける事もなく、ただ表紙裏をじっと眺めるメルエを見て、サラはメルエもリーシャと同じだと判断した。

 

「なるほど……この書物が読めるのはサラだけなのか……」

 

「そうなのですか?」

 

 リーシャの言葉に少し肩を落とすように落ち込むサラを見て、リーシャは薄く微笑む。

 この僧侶の少女にとって、『自分だけが見える書物』という物は特別な優越感を感じる物ではなかったのだ。それがリーシャには面白かった。

 

「ふふふ。何を落ち込む? あの塔にいた人間達の話からすると、『賢者』という存在になり得る者はサラだけだという事だろう?」

 

「……そんな……」

 

 リーシャが語る内容は、サラも既に理解していた。それでも、他者からこうもはっきりと告げられた事で、それを事実として認識しなければならなくなる。それは、サラにとって決して心地よい物ではなかった。

 

「それに、サラが『賢者』になるという事は、『魔道書』にある魔法をサラも使えるという事だろう? メルエと共に攻撃魔法を使えるようになれば、戦闘も大幅に楽になるだろう?」

 

「!!」

 

 『賢者』という言葉に対し、喜び等を一切表現しないサラが呆然とリーシャを眺める中、もう一度口を開いたリーシャの言葉に、今まで『悟りの書』の一点を凝視していたメルエの顔が弾かれたように上がった。

 

「…………メルエも…………」

 

「ん?……なに? メルエも読めるのか?」

 

 サラに向けて笑顔を見せるリーシャの袖を引いたメルエに視線を移したリーシャは、メルエの言葉を理解し、その真意を問うと、メルエはこくりと一つ頷いた。

 メルエの頷きに、リーシャは目を見開いて驚き、サラは何故か嬉しそうに笑顔を見せる。唯一人、カミュだけはメルエの頷きに眉根を顰めた。

 

「そ、そうか……メルエも『賢者』の才があるのか……」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャは、魔法に関して言えば、サラやメルエに絶対の信頼を置いている。メルエが見えると言えば、魔法力が皆無な自分が見えなくとも、魔法の才能溢れるメルエが見えても不思議はないと思っていた。

 

「では、見えないのは、私とカミュだけか」

 

「……いや……俺にも見えるが……?」

 

「な、なに!?」

 

 少しも残念そうに見えない溜息を吐いたリーシャに、先程まで一言も発しなかったカミュが口を開き、その内容に驚いたリーシャの顔が、先程までとは違った悔しそうな表情に変わって行く。

 

「……まぁ、メルエやその僧侶は別として、お世辞でもアンタを『賢者』とは呼ばないだろうな……」

 

「なんだと!?」

 

 更に追い打ちをかけるようなカミュの言葉に、今度こそリーシャの顔色があからさまに変化を起こす。それは、悔しさというよりは、純粋な『怒り』。

 いつものように、リーシャをからかうような口端を上げたカミュの顔を見て、リーシャの瞳が吊り上がる。

 

「……魔法に関しては諦めたのではなかったか?」

 

「ぐっ……」

 

 しかし、リーシャが怒りの声を上げるよりも先に、カミュが漏らした言葉によって、リーシャは口を噤んでしまった。

 ダーマを出た後の森でカミュに語った言葉を盾にされたのだ。

 『迷いは晴れた』と言った以上、リーシャがこれに反論する事は出来ない。ただ、遠回しに『頭が悪い』と言われた事に関しては、怒りの声を上げても良いのだが、リーシャはそれに気付かず、悔しそうに唇を噛んでいた。

 

「しかし、メルエも見えるのですね」

 

「…………ん…………」

 

 どこかしら『ほっ』としたような雰囲気を出すサラがメルエを見つめ、その言葉に応えるようにメルエが小さく頷く。サラもメルエの魔法の才に疑い等持った事はなく、むしろ『将来は大魔道士と呼ばれる存在になるのではないか?』とさえ考えていただけに、『賢者』として相応しい存在としてのメルエの参入は喜ばしい事であった。

 

「メルエも『賢者』としての才能を開花させたとしたら、これは凄い事だな」

 

 カミュとの対峙から話題を逸らすように、リーシャはメルエとサラを賛辞する。リーシャに優しく頭を撫でられ、気持ち良さそうに目を細めるメルエは、本当に幸せそうで、そんな様子を見ながらサラも笑顔を作った。

 

 数十年に一人しか存在しないと云われる『賢者』という存在。

 『経典』や『魔道書』に記載される呪文全てに精通し、『僧侶』と『魔法使い』という職業の垣根を越えた存在。

 そして、古より伝わる『賢者』達が残した高位呪文をも操る呪文のスペシャリストである。

 

 そんな存在が、一時代に二人。

 同じように『悟りの書』を見る事が出来たとはいえ、カミュは元々『経典』と『魔道書』の呪文行使が可能であるが、その呪文の数は限られている。故に、必然的にサラとメルエの二人。

 高僧が夢見る程に欲する『悟りの書』はおそらく、アリアハンで魔物への憎しみを糧に生きて来たこの少女を本来の主として認めたのだろう。そして、もはや人外と言っても過言ではない程の魔法力を持つ幼い少女をも主として認めた事になる。

 

「ふふふ。さぁ、メルエ。まだ病み上がりなのだから、身体を暖かくしてゆっくり休め」

 

「…………ん…………」

 

 頭を撫でていたリーシャが、その手元にある『悟りの書』をサラへ手渡し、メルエの身体をベッドへと入れる。優しく布団を掛けられたメルエは、小さく頷いた後、ゆっくりと目を閉じ、すぐに静かな寝息を立て始めた。

 

「明日は、ダーマへ戻るのだろう?」

 

「……ああ……」

 

 メルエの髪を柔らかく梳きながら、視線をカミュへと動かしたリーシャが明日の進路を問いかけ、それに対してカミュが頷きを返す。

 

「ならば、明日は大変だぞ。サラも早めに休んでおけ」

 

「あ、は、はい」

 

 柔らかな笑顔を向けるリーシャに、サラは慌てたように頷き、自分の部屋へと戻って行く。それに続くように部屋を出て行くカミュの背を確認し、リーシャは再びメルエの寝顔を見つめた。

 

 

 

 夜も更け、村の全ての明かりが消えた頃、リーシャの目が不意に開かれた。

 隣で眠るメルエの顔に、昨日までのような苦痛な色はなく、静かな寝息を立てながら眠っている。

 一昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空には大きな月が輝き、カーテンの隙間からその光が差し込んでいた。

 

 ベッドから出たリーシャは、メルエの表情に苦悶がない事を確認した後、窓辺へと近づき、そっとカーテンに手をかける。広げられた隙間から見える眩いばかりの星達。そしてその星を護るように輝く大きな月が、静けさに満ちた村を優しく照らし出していた。

 そんな月明かりに照らされた宿屋の傍で、いつものように、空を見上げる人影を見つけ、リーシャは部屋を出て行く。

 

 

 

「眠れないのか?」

 

「……またアンタか」

 

 不意に後ろから掛けられた言葉に振りむいたカミュは、その存在を認め、軽い溜息を吐き出す。しかし、そんな失礼な態度にも、リーシャは苦笑を浮かべ、カミュの横へと並んだ。

 

「お前は、ここ二日間で碌な睡眠を取っていないんだ。早めに休め」

 

「……」

 

 カミュの体調を考え、休養を勧めるリーシャに対しても、全く関心を示さないカミュに、リーシャは軽く溜息を吐いた。

 この青年の胸の中に渦巻く想いを感じ取ったリーシャは静かに口を開く。

 

「今回のメルエの件は、お前だけの責任ではない」

 

「……アンタにとって……メルエとは何だ?」

 

「なに?」

 

 『メルエの病に関して責任を感じているのでは?』と考えたリーシャであったが、全く別方向から飛んで来たカミュの問いに、不意を突かれたように目を丸くした。

 相変わらず、リーシャの方へ視線を向ける事なく、空に浮かぶ月を見上げているカミュの横顔を見て、リーシャはもう一度溜息を吐き出した。

 

「私にとって、メルエはもはや掛け替えのない存在だ。妹のようであり……そんな歳でもないし、子を成した事もないが、娘のような想いもある。私の命に代えてでも護るべき存在だ」

 

「……そうか……」

 

 カミュと同じように月を見上げながら、自分の心を支配し始めているメルエという存在について語るリーシャの言葉は、とても強い物だった。

 だからだろうか、『娘のような想い』という部分も、カミュの心に素直に落ちて行った。

 

「お前は違うのか?」

 

「……いや……」

 

 視線をカミュへと戻したリーシャの問いに、カミュは少し時間をかけて答えた。何かに悩むように、何かに抵抗するように吐き出された言葉に、リーシャは眉根を顰める。

 

「護りたい者というのは、人それぞれだ。その優先順位も人によって違う。だが、それでも『護りたい者』に変わりはない」

 

「……」

 

 ようやく月から視線を外したカミュの瞳が、リーシャのそれと重なる。

 その瞳の奥にあるのは、明確な『戸惑い』だった。

 

「お前には、今までそういう者はいなかったのだな?」

 

「……」

 

 そして、そんなカミュの瞳を見て、リーシャは全てを察した。

 この年若い青年は、生まれてから一度も人に対して情を持った事がなかったのだろう。『勇者』として生まれ、『勇者』として育ち、人を護る事を強要されて来た青年は、自身の心で護る事を誓った者は誰一人いなかったのだ。

 

「メルエが、お前の心を動かしたのか……」

 

 故に、メルエの存在が大きくなり、その存在が消滅する事への『恐怖』という感情を初めて知ったカミュは戸惑い、そして困惑していた。

 『自分の命など、この旅の何処で失われようとも構わない』と考えていたカミュの中で、『自分が死ねば、メルエの身に危険が迫った時にどうすれば良いのか?』という想いが生まれている。

 

「お前が……お前が再び迷い、悩む時……メルエの瞳を見ろ。それが、お前の悩みの答えとなり、そしてお前を動かす活力となる」

 

「!!!」

 

 リーシャの言葉に、カミュの瞳が見開かれた。

 この言葉をカミュが聞くのは、これで三度目となる。

 一度目はエルフの女王から。

 二度目はイシスの女王から。

 そして、三度目はアリアハンから常に共に歩んで来た女性からだった。

 

「それに、私達がメルエを大切に思うように、お前を大切に思う人もいるのだ」

 

「……なんのことだ?」

 

 リーシャから告げられた、女王達と同じ言葉に驚きを表していたカミュに、続けて掛けられた物は、カミュにとって思い当たるものが何もない物だった。

 

「お前の付けていたサークレットは、ニーナ様から頂いた物なのだろう?」

 

「……」

 

 しかし、続くリーシャの問いかけを耳にしたカミュの表情が一変した。

 今まで『人』である事を証明するような、様々な感情を出していたカミュの顔から、一切の感情が消えて行く。

 アリアハンで出会った時のような能面のような顔は、とても冷たく、とても哀しい物。それでも、今のリーシャはそんなカミュの表情に『恐れ』を抱く事はなかった。

 

「サラの話を聞いた限りでは、おそらく、あの『命の石』はアリアハン教会にはなかった物だろう」

 

「……」

 

 カミュの無視するように語りかけるリーシャの言葉は、静けさを湛える村に響いて行く。カミュはその場を動こうとはしない。しかし、リーシャの言葉を聞いているという態度でもなかった。

 

「ならば、おそらく、オルテガ様が旅をされている時に、どこかで見つけ、手にされた物なのではないか? オルテガ様なら、その効力を知らぬ筈はない。それを妻であるニーナ様に伝えた事だろう」

 

 そこでリーシャは言葉を切る。

 能面と化したカミュの瞳を見つめ、暫しの時間が経過した。

 そして、リーシャの口は開かれる。

 

「ニーナ様はお前を送り出す時、お前の命を護る術を持たない自分の代わりに、あの『命の石』をお前のサークレットに埋め込み、お前の無事を祈ったのではないのか?」

 

「……」

 

 リーシャの口がその言葉を発し終えた時、カミュの能面の顔に変化が生まれる。今まで見た事のないような、『憎しみ』に似た感情を宿した瞳をリーシャに向けたのだ。

 まるで、『お前に何が分かる!?』とでも言いたげな瞳を受けても、リーシャが怯む事などなかった。

 

「お前は、確かに愛されていたのではないのか? お前にとっては、辛かったかもしれない。それこそ、親を他人として見る程の思い出しかないのかもしれない。それでも、あの『命の石』はお前の身を案ずるニーナ様の想いが込められているのではないのか?」

 

 その言葉を最後に、リーシャは口を閉じた。そして、未だに『怒り』と『憎しみ』の炎を宿したカミュの瞳を真っ直ぐに見つめ、リーシャはカミュの答えを待つ。

 しかし、その答えは遂に返って来る事はなかった。

 リーシャから視線を外したカミュは、視線と共に踵を返し、宿屋へと歩いて行く。

 

「お、おい!」

 

 それでも、諦めきれないリーシャは、カミュの後を追い、その肩に手を掛けた。しかし、振り向いたカミュの顔を見て、リーシャはこの青年を追いかけた事を後悔する事になる。

 その瞳に映っていた物は、久しく向けられる事のなかった、完全な『他人』に対する光。

 アリアハンを出た頃に、リーシャやサラに向けられていた物だった。

 

「……あの人間達が案ずるのは、『アリアハンの英雄の息子』の命だけだ……」

 

 最後にそれだけを呟いたカミュは、リーシャの手を振り払うように、宿屋へと歩を進める。もはや、リーシャにその歩みを止める手立ては残されてはいなかった。

 

 『アリアハンの英雄』

 

 これは間違いなく、カミュの父親であるオルテガを示している。ならば、その息子と言えば、今まさに宿屋の扉を開いて中へと入って行く青年以外の誰でもない。つまり、今彼が呟いた言葉は、リーシャの問いかけを肯定している物。

 しかし、リーシャの顔は曇っていた。彼女の耳には、それが肯定としては聞こえていなかったのだ。

 それは、カミュの中で、『アリアハンの英雄の息子』と『カミュという青年』は同一の存在ではないということ。

 

「……お前は、どれ程に両親を憎んでいるんだ……」

 

 もはや閉じられた宿屋の扉を眺めたままに呟かれたリーシャの言葉は、月が雲に隠れ、完全な闇に包まれた村の中に消えていった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

年内は、明日か明後日で更新終了になると思います。
あと2話は更新したいと思っていますので……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。

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