新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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大魔王ゾーマ②

 

 

 

 奇妙な静けさがフロアを支配している。だが、そのフロアに立つ者達は、二極に分かれていた。

 カミュ達の周囲を取り巻く静けさは、彼等自身が一歩たりとも動く事が出来ないからであり、大魔王ゾーマは、その必要がないからである。この場所まで辿り着いた全生命体の希望でさえも、動き出した瞬間に命を刈り取られるという未来しか見えなかったのだ。

 悠然と構える大魔王ゾーマであろう闇は、フロア全てを飲み込むかのように大きく、そしてカミュ達の心を呑み込むかのように深い。絶望と滅亡の闇であり、生命体が踏み込む事の出来ない領域でもあった。

 

「どうした? 余が邪魔なのではなかったか? 動かねば、余を倒す事など出来なかろうに」

 

 大魔王ゾーマの闇は、既にカミュ達四人の目の前にまで迫っている。まるで、カミュ達とゾーマの間にある空間が一瞬で削り取られたようにさえ感じた。それ程に目の前の闇は強大であり、既に心さえも絶望の闇に染まり掛けている。

 幼い少女の手は震え、それを握っていた賢者の手も震えていた。迫る闇が恐怖を煽り、自分達の存在さえも疑いそうな程に心が揺れる。じっとりした汗さえも既に乾き、今では体温さえも奪われたのではないかと思う程、その身体は冷たくなっていた。

 

「ふぅ……いくぞ」

 

 だが、闇を前にしても構えを取っていなかった青年だけは、身体の力を抜き、一つ息を吐き出した後で王者に相応しい風格を放って剣を構える。その僅かな一言が、後方で震え、絶望の闇に染まりかけた三人の女性の心に小さな勇気の炎を灯した。

 その炎はとても小さい。通常の人間であれば、そのような小さな炎が灯っても、圧倒的な恐怖を前にして身は竦み、足は震え、身動き一つ出来ないだろう。だが、彼の後ろを護るのは、ここまでの数々の苦難を共に乗り越えて来た勇士である。そして彼女達は、まるで肩に乗った重荷が下りたかのように、一斉に動き出した。

 

「ふははは」

 

 動き出した勇者一行を見た大魔王は、それを賞賛するような笑い声を上げて闇を振るう。それと同時に周囲を覆う程の冷気が満ち、氷の刃となってカミュ達へと降り注いだ。

 それは、奇しくも、メルエという稀代の魔法使いが編み出したマヒャドの進化系に酷似した姿。空中に次々と生み出される氷の刃が、標的を定めたように一気にカミュ達へと落ちて行く。しかし、魔法対決となれば、この一行でそれに対抗意識を燃やす者がいたのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 一気に巻き上がる極大の炎の海。上空から降り注ぐ氷の刃を次々と溶かし、水蒸気の霧を生み出して行く。しかし、如何に竜種の因子を受け継ぐ稀代の魔法使いとはいえ、メルエという少女は人間であった。対する冷気の刃は、絶対唯一の存在である大魔王なのだ。

 徐々に炎は氷の刃に圧し込まれ、その刃の欠片が、先頭のカミュ達へと襲い掛かって行く。どれ程に膨大な魔法力を有していても、どれ程にその才能を有していても、大魔王と称される者には適わない事の証明であった。

 

「ベギラゴン!」

 

 だが、それも一対一であればの話である。『人』という種族は、本来は強靭な力も膨大な魔法力も有しておらず、他種族に比べて脆弱であった。それを補って来たのが、その数である。一人で敵わないのであれば二人、二人で駄目であれば三人という数で自分達よりも強い者達に対抗して来た歴史があるのだ。

 メルエのベギラゴンでは抑え切れなかった氷の刃を、人類唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文で熔かし尽くす。吹き上がるような水蒸気の量が、大魔王が放った氷結呪文の強大さを明確に物語っていた。

 

「ほぉ……数しか取り得のない人間とはいえ、余のマヒャドを二人で相殺するか」

 

 吹き上がっていた水蒸気の霧が晴れた時、大魔王から感嘆の声が上がる。やはり、ゾーマが放ったのは、最上位の氷結呪文であるマヒャドであった。しかし、その強力さは、氷竜という特別な因子を受け継ぐメルエが放つ物よりも数段上。しかも、この余裕を見る限り、全力での呪文行使ではないのだろう。

 そして、それは、水蒸気の霧を抜けて大魔王に迫った二人の前衛が武器を振るった時に明らかになる。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 大魔王ゾーマと思える闇へと振り抜いたカミュの剣は、その闇を斬り裂きはするが、剣を持つ手に何の手応えもなかったのだ。まるで霧を斬ったように、むしろ、只の素振りをしたかのように感触も残らない剣先は空を斬り、闇は元の形状へと戻って行く。

 このアレフガルドでも遭遇したの事のある実態のない影との戦闘でさえも、カミュとリーシャの武器はその身体を傷付ける事が出来ていた。あの時は、メルエを失った事による怒りがあったとはいえ、今の力量であれば、あの影も容易く葬る事が出来るだろう。だが、大魔王ゾーマと思われるその闇は、カミュ達の剣を受け入れる事なく、受け流してしまったのだ。

 

「ふはははは! 力無き事は、悲しい事よの」

 

 カミュに続いて斧を振り抜いたリーシャの手にも、何の手応えも伝わって来ない。唖然と闇を見上げるカミュ達に、不快な笑い声が響いた。

 それと同時に、周囲を冷気が包み込む。だが、再びマヒャドの呪文を行使されたのかと身構えたカミュ達を襲ったのは、凄まじい程の吹雪。雪などではなく、氷の結晶が視認出来る程の強大な冷気は、カミュ達の武具さえも凍り付かせる程の力を有していた。

 収まる気配のない吹雪は、カミュ達の身体を凍て付かせ、行動力を奪って行く。そしてそこに振るわれた闇の腕が、先頭に立っていたカミュの身体を後方に弾き飛ばし、返す腕で、リーシャの身体さえも吹き飛ばした。

 

「フバーハ」

 

 闇を斬り裂いたにも拘わらず、再びその形状を取り戻したゾーマを見たサラの判断は一瞬遅れてしまう。だが、追撃のように迫って来る凍える吹雪を防ぐように、前面に霧の壁を顕現させた。霧の壁は、凍えるように冷たい吹雪を閉じ込め、水へと変えて行く。大魔王から吐き出された吹雪である為に、フバーハ単体では相殺する事は難しいが、それでも身体に感じる冷気の幾分かは和らいでいた。

 身体が凍結する事なく後方へと下がったカミュは、再度王者の剣を構え直し、目の前に見える大きな闇を睨みつける。僅かな攻防の中で、彼は明らかな劣勢を見たのだ。

 剣や斧の攻撃が効果を示さない敵は数多く居たが、先程の感触はそれとは何処か異なっている感覚がある。更に言えば、通常そのような魔物には呪文が効果を示すのだが、大魔王相手に呪文の効果が絶大という可能性は薄いだろう。要は、攻め方が考え付かないのだ。

 

「流石は、当代の賢者といったところか。余の戯言に心を乱し、迷っていた愚かな人間というだけではないのだろうな」

 

「ぐっ……」

 

 メルエのベギラゴンだけでは大魔王のマヒャドを相殺する事は出来ず、それを即座に察知してベギラゴンを重ね、遅れたとは言えども、カミュ達を凍り付かせる程の吹雪をフバーハによって防いだ機転は、この一行の頭脳と呼ぶに相応しい物であったろう。

 カミュだけを見ていた筈の大魔王ゾーマが、サラの心が乱れていた事に気付いている事にも驚きであったが、ここまでは勇者一行の一角とさえ認められていなかった事を示している。その事実に気付いたサラは若干悔しげな表情を見せるが、この息も吐かせぬ攻防の中でさえここまでの余裕を持っている大魔王ゾーマという存在に改めて畏怖を覚えた。

 

「……カミュ様がどのような考えを持っていようと、結果は同じです」

 

「ほぉ……」

 

 杖を持つ手の震えが止まる。彼女もまた、ここに来て、全ての覚悟を決めたのだろう。恐怖し、動けなくなる程の絶望を前にして、死の覚悟ではなく、それを乗り越える覚悟を決めたのだ。

 サラは、カミュのように世界の存亡にも、人類の存亡にも興味がないなどと口にする事は出来ない。人類至上主義という考え自体は薄れており、それに固執する事は無いにしても、人間を含む全ての生命体の幸せを願う想いは揺るがない。それはある意味でカミュとは相反する願いであった。

 それをゾーマに突かれたサラであったが、それでも彼女はしっかりと言葉を紡いだ。カミュが何を考えていようと、それこそサラという賢者には関係がない。勇者という存在の儚さを、サラは同じ象徴としての立場に立って初めて理解したのだ。

 乱れた世だからこそ生まれるのが英雄であり、破滅の近い世に生まれるのが勇者である。英雄は乱れた世だからこそ輝き、勇者は破滅を防いで消えて行く。それを、聖なる祠にて彼女は知ったのだ。

 なればこそ、彼が救う世界がどうなるのか、そこで生きる者達がどうなるのかは、それこそ生き残った者達が負う責任であり、義務である。今は、その未来を遮ろうとする者を全力で倒すだけなのだ。

 

「…………スクルト…………」

 

「バイキルト」

 

 一瞬の間を無駄にする時間は、カミュ達にはない。即座に二人の呪文使いが杖を振るい、前衛二人に補助魔法を唱えた。一行の身体は、稀代の魔法使いが持つ強い魔法力に覆われ、前衛二人が持つ武器には、唯一の賢者が放つ木目細かな魔法力が付与される。

 それを確認したカミュ達は、再び巨大な闇に向かって駆け出した。魔法力の補助を受けた剣が煌き、フロアを覆うように巨大な闇を斬り裂いて行く。そして、その傷口が癒えぬ内に、リーシャの斧が振るわれた。

 しかし、魔法力の援護があろうとも、前衛二人の武器がゾーマの身体を傷つけるような事はなく、闇を斬るだけで、それも周囲の闇に溶け込み、再び元へと戻って行く。それは、ここまでの全ての行動が無意味であった事の証明であった。

 

「ぬるいわ!」

 

 自分達の攻撃が何の意味も持たなかった事に一瞬動きが止まってしまったカミュ達に向かって、大魔王ゾーマが腕を突き出す。それと同時に、先程受けたような凍て付く波動が吹き荒れ、カミュ達が纏っていたスクルトの魔法力も、武器に施されていたバイキルトの魔法力も吹き飛ばされた。

 自身の身を護るスクルトの魔法力が消え失せた瞬間、そこに大魔王ゾーマの暴力が襲い掛かる。振るわれた闇の腕を受けたリーシャは、側面の壁に直撃し、盾を掲げる時間も与えられなかったカミュは、床へと倒れ伏した。

 

「……ルビス様」

 

 先程までの会話時に感じていた絶望など、氷山の一角でしかなかったのだろう。対峙し、剣を交えて初めて、この大魔王ゾーマという存在の真の恐ろしさを知る事となった。

 勇気という小さな炎など掻き消してしまう程の深く大きな絶望が心に襲い掛かる中、サラは信じて止まない精霊神への祈りを奉げる。祈りの言霊を受け入れたサークレットに嵌め込まれた深く蒼い石が輝き、前方で倒れ伏す二人の身体を淡い緑色の光が包み込んだ。

 ベホマラーと同等の効果を齎す賢者の石の力が二人の傷を癒すが、大魔王の強力な攻撃で受けた傷全てを癒す事は出来ない。足に力を込めて立ち上がったリーシャに向かって、ゾーマは再び最上位の氷結呪文を唱えた。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 それを見たメルエは、背丈よりも大きな杖を前へと突き出す。見る者によっては地獄の門番のように見えるオブジェが口を開き、膨大な火炎を吐き出した。

 だが、メルエも自身の呪文だけでは相殺し切れない事を理解しているのだろう。呪文を放った後で、立ち上がり終えたリーシャへと視線を送る。その視線に気付いたリーシャは、横っ飛びでその場を離れ、幾分か凍り付いた装備品に構う事なく戦線を離脱した。

 マヒャドの効果を止めようと剣を振るうカミュではあったが、結果は先程と全く変わる事なく、ゾーマの身体に傷一つ付ける事は叶わない。そして、大魔王へ剣を振るった代償のように、カミュの身体が大きく後方へ吹き飛ばされた。

 

「ぐふっ」

 

 空中へと飛ばされたカミュの身体が、床へと叩きつけられる。肺に入っていた空気を全て吐き出したような苦悶の声を上げた彼は、それに遅れて大量の血液を吐き出した。

 身体の内部までをも傷ついた事を物語るような血液の量に、杖を振るっていた少女は息を飲み、その横に立っていた賢者は即座に動き出す。しかし、それを遮るように周囲を覆う冷気は濃くなり、それに気付いたサラは、倒れ伏すカミュへ向かいながらも、さざなみの杖を前方へと突き出した。

 

「フバーハ」

 

 サラが呪文の詠唱を完成させたのと、大魔王から凍える吹雪が吐き出されたのはほぼ同時であった。

 マヒャドという最上位の氷結呪文にも劣らない程の冷気が周囲を覆い、氷の結晶が視認出来る程の吹雪がカミュ達へと襲い掛かる。しかし、間一髪のタイミングで展開された霧の壁が、その冷気を防ぎ、迫る冷気を緩和させた。

 霧に防がれ、氷の結晶が水分を多く含んだ雪のように変化してはいるが、その冷気は相当な物である。ここまでの攻防で大魔王が発したマヒャドや凍える吹雪などの影響によって、ゾーマ城最下層のフロアのほとんどが凍り付いていた。

 メルエが放出したベギラゴンの炎は、全て冷気によって消し飛ばされ、このフロアには欠片も暖かさは残っていない。サラの歯が嚙み合わなくなっているのは、決して大魔王ゾーマへの恐怖だけが理由ではないだろう。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

「ほぉ」

 

 人間は、炎の中では生きて行けないが、氷の中でも生きては行けない。この一行がどれ程の力を有していても、彼等が人間である以上、それは変える事の出来ない事実であった。

 唯一、寒さへの耐性が強いメルエが、杖を振るう。氷竜という雪原に生きる竜種の因子を受け継いでいる彼女は、身体が濡れてさえいなければ、寒さを苦にする事はない。カミュ達でさえ悴んだ手が武器を持つ事さえも許さない状況に陥っている中、自身の持つ最強の呪文の詠唱を完成させていた。

 しかし、迫る大火球へ視線を向けたゾーマは、感嘆の声を上げた後で、その闇の腕を大きく振るう。そして、まるで身体から闇が溶け出すように広がり、巨大な火球を飲み込んで行った。本来であれば有り得ない。メルエという少女が人間だとしても、行使した呪文は最上位の火球呪文であり、大魔王ゾーマが生み出したとされる程の強力な呪文である。それを腕の僅か一振りで飲み込み、この世から消したかのように消滅させるなど、誰が信じるだろう。それ程に衝撃的な光景であった。

 

「そ、そんな……」

 

 メルエのメラゾーマに勝利を確信していた訳ではない。それでも、大魔王ゾーマでさえ、その呪文で幾らかでも傷を付ける事が可能なのではないかという希望を抱いていたサラは、目の前の光景に愕然としてしまう。それは絶望的な光景とさえ言える物であった。

 闇に包まれた極大の火球は、そのまま勢いを失い、何一つ傷つける事なく消滅する。先程まで広がっていた圧倒的な冷気を弱めるという効力を発揮するも、本来の効果である相手への攻撃という点に於いては何も残す事はなかった。

 

「驚く事ではなかろう。余が生み出した呪文が、余を傷つけるなど出来はせぬ」

 

「ちっ」

 

 メラゾーマという呪文は、その名称にあるように、「ゾーマのメラ」という意味も込められているのだろう。だが、目の前に居る筈の大魔王が呪文に自身の名を自ら付けるとは考え辛い。もしかすると、その呪文を与えられたバラモスがゾーマへの畏怖も込めて名付けたのかもしれない。

 その呪文を生み出した者が、その呪文の対抗策を知らぬ筈が無い。だが、対抗策を知っていたとしても、あれ程に強力な呪文を一振りで消滅させてしまうというのは、異常であった。盛大な舌打ちを鳴らすカミュは、それだけ強大な敵と相対している事を改めて実感する。

 自分の持つ最も強力な呪文を掻き消された事で、頼りになる筈の攻撃呪文の使い手は、呆然としていた。その横にいる勇者一行の頭脳ともいうべき女性賢者も再び襲い掛かって来る圧倒的な絶望に飲み込まれ掛けている。既に、この一行自体が崩壊し掛けていた。

 

「ふむ。絶望に歪むその表情は美しい。だが、まだ足りぬな。この場に辿り着いた事を心の奥底から悔い、余を恨み、貴様等を送り込んだ人間共を恨み、全てに絶望した時、余がその苦しみから解放してやろう」

 

 メルエやサラの表情を見たゾーマは、愉悦を感じているように声を弾ませ、残酷な宣言をする。その宣言を鼻で笑って否定出来るような状況ではなかった。

 カミュ達の誰もが大なり小なりその絶望を感じている。『絶対に勝てない』と明言出来る程の力を示された時、人間の心が容易く折れてしまう事を誰よりも知っている彼等だからこそ、この場で膝を着く事なく耐えているのだ。

 だが、大魔王ゾーマという圧倒的な存在を打ち倒す僅かな希望も見えない現状が変わるわけでもない以上、彼等にとってこの先の戦いは、只々死に逝く為の絶望的な戦いなのである。

 特攻という形で己の身を犠牲にして突き進んだとしても届かない。それが理解出来る程に、カミュ達と大魔王ゾーマとの力量の格差があった。

 

「逃げる事は出来ないだろうな……」

 

「……アンタにしては珍しいな。大魔王から逃げる事など不可能だろう」

 

 余りの状況に折れ掛けていたサラとメルエの心に、彼女達が最も頼りにする二人の会話が滑り込んで来る。

 サラでさえも驚くような呟きはリーシャという女性戦士から飛び出た物。誰よりも強い心を持ち、誰よりも誇り高く、何があっても前を向いていた一行の要と言っても過言ではない女性が漏らした初めてに近い弱音に、サラは思わず顔を上げてしまった。

 だが、その呟きに返答する青年の表情と、先程の弱音を吐いた女性の表情は、発している言葉とは真逆の物であったのだ。リーシャは、逃げるという選択肢を取ろうとしているとは思えず、それを聞いたカミュもまた、リーシャの言葉をそのまま鵜呑みにしているとは思えない。まるで軽口を叩き合うようなその雰囲気が、絶望に染まり掛けていた後方支援組二人の心を解放して行った。

 

「逃げる事が出来るなら、逃げたいがな」

 

「ふふふ。それこそ、お前にしては珍しいな」

 

 汗を伝わせながらも笑みを溢すリーシャの顔を信じられない物でも見たように凝視していたサラの手を、小さな手が握り締める。慌てて顔を向けたサラの瞳に、恐怖に震えながらも離れないように必死に自分の手を握る少女の顔が映り込んだ。

 彼女がこれ程の恐怖を表したのは何時以来だろう。竜の女王の雄叫びを聞いた時以来だとすれば、最早二年近くも前になる。それ程の恐怖を感じていて尚、彼女はこの場に立ち、震えながらも戦う事を選択していた。

 それを見たサラの心が、このゾーマの間に入って初めて固まる。ゾーマの言葉に揺れ動き、その威圧感に恐怖し、その闇の深さに萎縮して来た僧侶サラの心が、メルエに救われ、リーシャに救われ、カミュに導かれて来た賢者サラの心へと変化して行った。

 

「メルエ、スクルトを!」

 

 少女の手をしっかり握り、さざなみの杖を振るって霧のカーテンを生み出したサラは、少女へ呪文の行使を指示する。頷きを返したメルエが杖を振るい、再び全員の身体に己の魔法力を纏わせた。

 ゾーマが生み出す冷たく凍て付くような波動は、魔法力によって生み出す全ての補助効果を打ち消してしまう。何度唱えようとも、何をしようと、それが全て無駄に終わる事をサラが気付いていない訳がない。それでも出された指示に、メルエは懸命に応えようとしていた。

 

「何度消し飛ばされようと、何度も掛け直します。カミュ様とリーシャさんは、私とメルエで護ります」

 

「…………ん………まもる…………」

 

 サラの決意を受けたメルエの眉が上がる。『護る』という決意は、メルエが初めて魔道士の杖という媒体を使って呪文を行使したアッサラーム近くの森から始まっていた。

 自分を護ってくれたサラという姉のような女性を護ると決意し、そしてカミュやリーシャのように自分を愛してくれる者達も護ると誓っている。その誓いは、彼女が死ぬまで有効であり、それを思い出した彼女の瞳に再び炎が灯った。

 大魔王という圧倒的な存在が放つ恐怖による絶望の闇さえも討ち払う炎。それは幼い少女が持つ最大の勇気であり、最上の決意であった。

 

「サラやメルエがあのように言ってくれるのであれば、気張るしかないな」

 

「どうせ死ぬのならば、最後まで足掻くさ」

 

 後方からの決意を受けたリーシャが、ここまでで浮かべていたような笑みとは異なる優しい笑みを浮かべる。自分の心を奮い立たせる為の虚勢の笑みではなく、心からの笑みであった。

 そして、その笑みを向けられたカミュが、苦笑を浮かべ、心にもない言葉を吐く。彼の人生のほとんどが、『死』という結末を望む時間であった事は既に周知の事実である。だが、今の彼が死という結末を受け入れる筈がない。たった一人の少女の為にこの場に立つ覚悟を決め、この絶望的な状況に飛び込んだのだ。

 そんな人間が、この僅かな攻防で、そして自分の身が動く状況で、全てを諦める筈がない。隣に立つ女性戦士は、その事を誰よりも知っているし、誰よりも信じていた。故にこそ、彼女は微笑むのだ。

 

「興が醒める。何度立ち上がろうと、何度希望に燃えようと、届かぬ願いがあるという事を教えてやろう!」

 

 だが、そんなカミュ達のやり取りを静観していた大魔王ゾーマが、興味を失ったように腕を振るう。その腕から発せられた凍て付く波動が、先程掛けられたばかりの補助呪文全てを吹き飛ばして行った。

 それでも再度呪文の詠唱に入るサラの姿を確認したゾーマは、それを遮るように凍える程の吹雪を生み出す。吹き荒れる冷気が、上昇していた気温を再び急激に下げて行った。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 吹雪が自分達に到達する前に、少女が杖を振るい、炎の壁を生み出す。氷の結晶が視認出来る程の圧倒的な冷気と、灼熱系最上位の炎がぶつかり、周囲を高温の水蒸気が包み込んだ。その水蒸気の壁を突き抜けて飛び出したカミュが大魔王ゾーマである闇に斬り掛かる。だが、その行動を読んでいたかのように振るわれたゾーマの腕が、カウンター気味にカミュの身体に突き刺さり、彼は床へと叩きつけられた。

 床に叩きつけられたカミュの身体を踏み抜くように上げられた闇に向かってリーシャが斧を振るう。どんな巨木でさえ彼女の一振りで切り倒されるが、その手応えも無く、闇を斬り裂くだけで身体だけが泳いでしまった。そして、それを見抜いていたように振るわれた闇の腕がリーシャの身体を真横の壁へと吹き飛ばす。

 

「ぐぼっ」

 

「……ルビス様、お力を」

 

 壁に直撃したリーシャの身体が、壁に弾かれるように床へと落ちて行く。しかし、それと同時に、詠唱を中断したサラがルビスに祈りを奉げた。彼女の頭部に嵌められたサークレットの宝玉が輝き、カミュとリーシャの身体を癒しの光が包み込む。全ての傷が癒えた訳ではないが、立ち上がる事が可能になったカミュが、追い討ちを掛けるように振り下ろされた闇の腕を避け、リーシャの許へと駆け寄る。

 カミュよりも強力な攻撃を受けていたリーシャは、立ち上がる事は出来ても走る事が出来ていなかった。駆け寄ったカミュは、重要な足の骨などに異常がない事を確認し、身体内部の傷を癒す為に最上位の回復呪文を唱える。

 

「マヒャド」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 カミュがリーシャの傷を癒し、戦闘態勢に入ると同時に、ゾーマが最上位の氷結呪文を唱えた。それを確認すると同時にメルエが杖を振るい、先程と同等の炎を生み出した。だが、魔法力と魔法力のぶつかり合いでは、大魔王の称号を持つ者に分がある。徐々に消滅して行く炎の勢いがそれを明確に物語っていた。

 

「ベギラゴン」

 

 しかし、この一行の攻撃呪文の使い手は、メルエという魔法使いだけではない。賢者であるサラがメルエのベギラゴンでは相殺し切れない冷気を炎で包み込んで行った。

 冷気の残骸の全てが炎に飲み込まれて行く。そして、凍える程の寒さも消滅し、未だに床で波打つ炎が、カミュ達の体温を戻して行った。

 だが、大魔王ゾーマの一つの攻撃を見事に消滅させたにも拘わらず、サラとメルエの表情は厳しく歪んでいる。それは彼女達にしか理解の出来ない事柄なのかもしれない。

 

「メルエ、いつでも祈れるように指輪を準備して下さい」

 

「…………ん…………」

 

 この本当に僅かな攻防の中で、サラとメルエは上位の呪文を連発して来た。サラは消されても消されても、補助呪文を唱え、メルエは常に後手に回りながらも、ゾーマの呪文の相殺に努めて来ている。それは、ゾーマの身体に一切傷を付ける事の出来ない呪文行使の連続であり、特にサラの行使は体力や魔法力よりも、心を奮わせる気力を折るような作業であった。

 竜の因子を受け継いでいようと、世界で唯一の賢者であろうと、メルエとサラは間違いなく人間であり、大魔王ゾーマのように無尽蔵に魔法力がある訳ではない。ここまでの魔物や魔族達が相手であれば、物量や質量で押し切る事も可能ではあったが、魔法力の量も、呪文の威力も、大魔王ゾーマ側に大きく分がある以上、このまま呪文合戦を続けて行く事は不可能なのだ。

 それでも、今、ゾーマの攻撃によってカミュ達前衛二人を失う訳には行かない。何時の間にか狭められた選択肢の数を悔しく思いながらも、サラは魔法力を補う手段をメルエに提示する他なかった。

 

「フバーハ」

 

 最早、何度目の行使なのか自分でも解らなくなる程にサラは必死で杖を前へと突き出す。それと同時に、凍えるような吹雪が再び襲い掛かり、前衛二人の身体を凍て付かせて行った。

 フバーハという呪文は、マホカンタのように弾き返す事を主とする物ではない。霧の壁を生み出し、冷気や火炎という物を弱める効力を持つ魔法である。その火炎や冷気が強力であれば、強力である程、中和出来る量が限られている為、被害は自ずと大きくなって行くのだ。

 大魔王ゾーマの攻撃は一貫して冷気を操る物ばかりである。自身が生み出したと云われるメラゾーマを行使する事もなく、バラモスが行使していた爆発系の呪文を行使する訳でもない。だが、今のカミュ達にとって、最も苦しむ攻撃であると言っても過言ではなかった。

 

「ぐふっ」

 

 火傷であればベホマで回復出来る。メラ系の呪文であれば、その対象となった者にマホカンタを唱えて防御する事も出来る。だが、冷気だけは対策が取れないのだ。

 悴んだ手で武器は震えず、寒さに震える足では満足に動く事も出来ない。徐々に行動を制限され、気付いた時には、腕や足が腐り落ちているかもしれない。フバーハという霧の壁で威力を弱め、マヒャドと対抗する為にベギラゴンという炎の海を生み出しても、このフロアの冷気が絶え間なく生み出されて行くのだ。

 鈍った動きは、ゾーマにとって格好の餌食となる。その腕を避け切る事が出来ずに、カミュが再びフロアの壁へと吹き飛ばされ、リーシャが闇の爪によってその身体を斬り裂かれた。

 

「リーシャさん!」

 

 霧の壁に交じり合うように噴き出す鮮血が、その傷の大きさと深さを物語っている。即座に賢者の石を発動させようとしたサラの息が、何時の間にか真っ白に凍結していた。

 霜が降りたさざなみの杖を前方に突き出すよりも前に、サラの視界を氷の刃が覆い尽くす。前方で倒れたカミュやリーシャの姿さえも覆い隠すように広がった氷の刃が、一斉にサラ目掛けて降り注いで行った。

 最早、相殺する為の呪文行使は間に合わない。慌てて掲げた水鏡の盾に身体を隠した瞬間、自分の身体を圧倒的な魔法力が包み込むのを見た。その魔法力は光の壁となり、降り注ぐ氷の刃を弾き返して行く。そのような芸当が可能な者など一人しかいなかった。

 

「賢者の石よ!」

 

 自分の隣に立つ少女が杖を天高く掲げ、二人を覆うような光の壁を生み出しているのを見たサラは、再び賢者の石へと呼び掛ける。それと同時に全員の身体を淡い光が包み込み、その身体の傷を癒して行った。

 立ち上がったカミュが動き出したのを見て、メルエが杖を振るう。カミュが掲げる王者の剣を少女の魔法力が包み込み、その輝きが増して行った。

 勇者一行に同道する世界最高位の魔法使いの補助を受けたその剣は、どんな魔物も、魔族も、竜種の鱗でさえも切り裂いて来た筈。だが、光り輝く剣がゾーマの身体に達した時、そんな後衛二人の希望は再び打ち砕かれる事となった。

 

「ちっ」

 

 僅かな舌打ちの音を残し、再びカミュの姿が前方から掻き消える。そして、風切り音を残し、バラモスブロスとの戦闘で僅かに残っていた柱にその身体は衝突した。メルエのすぐ傍にあるその柱に打ち付けられたカミュは、盛大に血液を吐き出し、床へと倒れ込む。それを追うようにリーシャもまた、サラの側面にある壁に激突し、倒れ伏した。

 回復の為に動き出そうとしたサラは、ゾーマから再度発せられた凍て付く波動によって、足を止められる。幼いメルエは、足を踏ん張る事も出来ず、尻餅を突くように倒れ込んだ。

 

「苦しめ! 絶望せよ! それでも、もがき生きてみよ! 全て余の愉悦となる!」

 

 先程メルエがカミュへ唱えた補助呪文の全ても、今の波動によって吹き飛ばされている。何度唱えようと打ち消され、何度回復しようとも打ち倒され、勝利への糸口など見えはしない。それでも尚立ち上がろうとする足が震え続けていた。

 何度希望の炎を灯し、勇気を奮わせようとも、それ以上の絶望の闇によって容易く心が塗り潰されて行く。この最終決戦まで辿り着いた勇士達であっても、その絶望の淵にしがみ付いていられる時間は限られているのかもしれない。

 足は震え、手が震える。瞳は頼りなく揺れ動き、歯は嚙み合わない。このような恐怖を、絶望を味わった事は今まで一度も無かった。

 何度も挫けそうになり、膝を着いた事もある。恐怖を感じ、絶望を感じた事もある。それでも希望の光は必ず差すと信じ、歩んで来たのだ。

 だが、目の前の巨大な闇を前にして、サラの瞳には、一筋の光も見えない。希望の象徴とも言うべき青年は未だに起き上がれず、斧を杖にして立ち上がった女性戦士は、再び吹き飛ばされた。尻餅を突いた少女は、上手く立ち上がれない程に足を震わせ、サラ自身は恐怖の余りに歯を鳴らしている。

 

「恐怖と絶望の幕開けとなろう!」

 

 今、この場で感じている恐怖も、絶望も、全てが序章であるかのような高らかな宣言が、凍り付くように冷え切ったフロアに響き渡る。

 勇者一行の最後の戦いは、開始僅かで幕を下ろそうとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
大変遅くなってしまいました。
本来であれば、今月に完結する予定だったのですが、無理のようです。

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