新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

269 / 277
大魔王ゾーマ①

 

 

 

 バラモスゾンビであった残骸を超え、カミュが一歩、また一歩と前へと足を踏み出す。その姿に、祭壇にある玉座に座る何かは感嘆の声を上げ、圧倒的な瘴気と圧力に足が竦んでいたリーシャ達三人の呼吸が正常の物へと戻って行った。

 だが、目の前に見える闇そのものが、大魔王ゾーマだとすれば、それに勝利しようと考えていた己の浅慮を後悔したくなる程の圧力が消える訳ではない。一歩踏み出す毎に噴き出して来る汗が、彼女達が感じている恐怖を明確に物語っていた。

 

「良い、余の前に立つ事を許そう。それだけの力を見せたのだからな」

 

 心の奥深くにまで浸透して来る圧倒的な存在感。それを示すような声が、尊大に響く。

 しかし、その言葉を驕りとは感じない。目の前に座る何かは、それを発するだけの力と資格を有しているように思えた。

 ここまでに遭遇した、魔王バラモスを含めた魔族や魔物とは異なり、カミュ達へ向ける意識に敵意が見られない。カミュ達がどれ程の敵意を向けようとも、そのような物がないかのように受け流し、童が戯れているのを楽しむような余裕を見せていた。

 近付けば近付く程、その存在の遠さが身に染みる。ようやく辿り着いた場所で出会った存在は、遭遇してはいけない禁忌の存在であり、戦ってはいけない絶対唯一の存在である事を理解せざるを得なかった。

 

「よもや、メラゾーマさえも使いこなすとは思わなかった。魔法陣を残した記憶はない故に、あれを行使出来る者は、余の知る者達以外はない筈だが、末恐ろしい血筋よの」

 

 脂汗を滲ませながら近付いて来るカミュ達に対して身構える事も無く、ゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。その言葉は、最後尾をサラと共に歩く一人の少女に向けられていた。

 魔王バラモスが行使していたメラゾーマという呪文を、彼女は行使時に浮かび上がる魔法陣を読み取る事によって己の物にしている。契約の魔法陣なども無く、そもそも契約という手段をとる必要がある呪文なのかどうかも解らない。故にこそ、メラゾーマをサラは行使する事が出来ず、メルエだけの呪文の一つとなっていた。

 その魔法の才能は、メルエ個人の物なのか、それとも彼女が受け継ぐ血筋による物なのかは定かではない。だが、絶対唯一の存在であるゾーマさえも知り得る血筋である以上、その影響が関係している事は否めないだろう。

 

「まずは、ここまで来た事に最大の賛辞を送ろう。絶望と恐怖に染まる中、それでも光を求めてもがく姿は、滑稽でありながらも美しい。何故にそれ程、苦しみ、もがき生きるのかは理解出来ぬが、苦しみ、もがき、そして最後には滅んで行く。そのように絶望に染まりながら死に行く姿こそ、真なる美であろうな」

 

 先頭のカミュが、祭壇にある玉座の前に辿り着く。光の鎧の下は、冷たい汗でじっとりと濡れていた。世界を救うと謳われる、全生物の希望である『勇者』であっても、この絶対唯一の存在を前にすれば、懸命に勇気を奮わせなければ立っている事も叶わないのだ。

 ならば、勇者ではないリーシャ達三人は、尚更だろう。前面に立つカミュという勇者の背中が見えているからこそ、未だに意識を保っていられる。彼が放つ『勇気』という希望の光があるからこそ、彼女達は顔を上げる事が出来ていた。

 

「余の下僕達を退けて来たのだ。余直々に相手をしてやろう。だが、そのままでは些か面白くも無い。自身を回復する術があるのであれば使うが良い。信じて止まない精霊に祈るも良し、人間達が使う道具や薬を使うも良し。暫しの時間を与えよう」

 

「……なに?」

 

 その余裕は計り知れない。リーシャとサラの言葉を何処かで聞いていたのだろう。これから挑んで来るであろう、四人の力を過小評価しているとは考え辛いが、カミュ達がどれ程の力を有していても、自身を討ち果たすには及ばないと確信しているのだ。

 傷を癒し、魔法力さえも回復する時間を与えようと口にするゾーマの言葉に嘘偽りがない証拠に、その大きな闇は、身動き一つしない。その指一本動かすだけでも全てを無にする事さえ可能ではないかと思う絶対的な存在には、それだけの自信と余裕があった。

 悔しそうに歯噛みするリーシャと、敢えて言葉を発したカミュを余所に、サラは二人に即座に回復呪文を唱える。そして、メルエに祈りの指輪を使用する事を伝え、自身もこのゾーマ城で入手したばかりの祈りの指輪を指へ嵌めた。

 賢者サラは、大魔王ゾーマに侮られた悔しさなど微塵も無い。むしろそれを当然の事と受け入れる自分がいる事に驚きながらも、相手が侮っている内に万全の態勢に戻そうという意識が先に立ったのだ。

 

「ふむ。時間があるというのに、ただ黙していても余興にはならぬな」

 

 サラの動きと、その後方のメルエの動きを察した大魔王ゾーマは、その闇を纏ったまま、再び言葉を発する。今までの戦いも、ここから先の戦いも、この絶対唯一の存在にとっては、些細な余興の一つにしかならないのかもしれない。最早、それは侮りというような生易しい物ではない。興味さえも惹かれない、路傍の石と同じような扱いであった。

 余裕を崩さない大きな闇に対し、未だにじっとりとした汗を流すリーシャの横で、カミュは一度大きく息を吐き出す。本来であれば、この強敵を前にして行う行為ではないだろう。だが、それでも彼は自分の身体の中全てを吐き出すように、空気を吐き出したのだった。

 

「人間とは罪深き存在よ。余の前に送り込んだ者が、僅か四人。地を這う虫のように無尽蔵に湧いて来る人間共は無数にいよう。それでも、貴様らのような者達だけを死へと送り込む。貴様らが味わい、そしてこの先で味わう恐怖や絶望を知らず、それを知ろうともしない。そのような存在がこの世界に必要なのか?」

 

「……」

 

 不意に語り始めたゾーマの言葉は、余計な力を抜いたばかりのカミュの心へ直接染み込んで行く。それは、甘美な言葉であり、同時に彼が常に思い続けて来た疑問であった。

 『人』という存在に対し、価値があるのかという疑問は、カミュという少年が青年へと成長を続ける過程で抱き続けて来た物である。今、ゾーマが発した言葉通り、カミュという一人の少年を『勇者』という立場に祀り上げ、まるで人身御供のように魔王バラモスの討伐へと向かわせた。

 周囲を見れば、自分と同じ年頃の子供達が遊び回る中、彼は剣を振るい、呪文を修得する事を強要されている。『自分は、あの子供達と何が違うのか?』、『あの子供達も、その親達も、何故魔王を倒す為に旅立たないのか』という疑問を幼い頃は抱いていた。それが、歳を重ねる毎に薄れて行き、諦めとなり、絶望となる。自分だけが受け続ける苦しみや哀しみを知ろうともせず、それが当然の事と口にする者達を、カミュは『人』という種族で括れなくなって行った。

 

「余の前まで辿り着いた貴様等は、既に『人』という種族からは逸脱しておる。自分達の考えが及ばない物を恐怖する虫けら共は、最早貴様等を同族と看做す事はない」

 

 アリアハンという生国を旅立ち、様々な戦いを乗り越えて行く中、カミュは数多くの出会いを持つ。『人』という種族の認識が変わって行く一方で、『人』という種族で括れなくなっているのは、実は自分なのではないかという疑問を持った。

 故にこそ、彼はメルエが強大な呪文を行使する度に顔を歪め、ダーマ神殿にてサラが賢者として祝福を受ける時、その未来を誰よりも案じたのだ。『自分だけではなく、自分と共にいるだけで、皆が『人』ではなくなってしまう』という恐怖は、彼だけが感じていた物なのかもしれない。

 人間の醜い部分を数多く見て来た彼は、その排他的な精神を誰よりも知っている。自分達と姿が異なる者を忌み嫌い、自分達よりも力が強い者を極端に恐れる。世が乱れている時、自分達と同じ姿をしている者が有している力は希望となるが、世が平穏な時には脅威になるだろう。その時、あの地獄が再び顔を出す事を、カミュだけは知っていた。

 

「人間とは、実に愚かであり、醜い。全てが自分達の物とでも言うように驕る。そのような者達の為に、何故、貴様等はもがき生きるのか? カミュ、全ての人間に貴様と同じ苦しみと絶望を味合わせたいと思わぬか?」

 

 全ての苦しみと哀しみ、そして絶望を押し付けられて来たと言っても過言ではない幼少期を過ごして来たカミュにとって、ゾーマの言葉は耳障りの良い物であっただろう。それを皆が感じ取っているかのように、彼の後方にいる三人の女性の瞳が一斉に『勇者』へと集まった。

 カミュの境遇をゾーマが知っているとは思えない。だが、アレフガルド大陸で生きる全人口を考えれば、カミュという青年とそれに同道する三人の女性が、『生贄』のような物である事は一目瞭然であった。

 如何に綺麗事を述べようと、その事実は変わらず、魔物との戦闘を知らない者達は、怯え、絶望しながらも、安穏な日々を送っている。魔物達は町を襲う事は少なく、町や村の中にいれば、命の危機に瀕する事は少ない。そのような人間達の為に、本来であれば、カミュ達だけが苦しむ必要など何処にもないのだ。

 

「エルフも認めぬ。魔物や魔族も認めぬ。そして、同族の者さえも認めようとしない者達など、この世界に必要であると、思っているのか?」

 

「そ、それでも……人間を滅する為に、世界全てを滅する事を認める事は出来ません!」

 

 ゾーマの静かな問いかけに、黙したまま何も語らないカミュに対し、業を煮やしたのは『賢者』であるサラであった。

 世界を救う『勇者』とは異なり、人を救うと謳われる『賢者』。その称号を受け継ぐ彼女にとって、『人』という種族そのものの存在価値を否定される事を認める訳にはいかない。

 彼女とて、未だに『人至上主義』を謳うつもりはない。それでも、愚かで醜い部分を多分に持つ反面、強く優しい一面も持つ『人』の姿を何度も見て来たのだ。『人』の全てを否定する事など、絶対に出来はしない。それは誰であろうと、何があろうと、認めてはいけない物であった。

 

「元より、余は全てを滅ぼす者。人間など、少しでも残せば、再び増えて行く。人間などという種族が生まれた世界は、全てを滅ぼす他ない。所詮は、死に行く際の苦しみと絶望に歪む姿で、余を愉しませるしか価値の無い者達である」

 

「……そんな」

 

 しかし、震える足と、震える唇で必死に紡ぎ出した言葉は、大魔王ゾーマによって、即座に斬り捨てられる。漆黒の闇を纏ったゾーマの表情は窺えないが、愉悦を表す表情をしているように感じられた。

 そのような雰囲気を醸し出しながら語られた内容に、サラは絶句する。人間をまるで何時の間にか増える塵や埃のように語り、それを滅する事が正しいという考え方に言葉を繋げる事が出来なかったのだ。

 この状況まで来ても、カミュは黙して何も語らない。剣を握ってはいるものの構えを取らず、真っ直ぐに大魔王ゾーマであろう闇に向かって視線を送っていた。その様子に不安を覚えたサラであったが、その視界の端に映る一人の女性の表情を見て、我を取り戻す。

 そこにあったのは、先程まで浮かべていたような、悔しさを噛み締めた苦々しい表情ではなく、何処か余裕さえ窺える程の凛とした、賢者サラが姉のように慕う大好きな物であったのだ。

 

「有り得ぬ事ではあるが、貴様が生き残ったとして、戻る場所があるのか? いずれ、貴様を排除するであろう者達の為に、苦しむ意味があるのか?」

 

 大魔王ゾーマとすれば、この場所でカミュ達との戦闘を避ける意味はない。圧倒的な力を自負し、カミュ達の戦いを見てもその余裕を崩さない絶対唯一の存在が、勇者一行を恐れる理由がないのだ。

 確かに、カミュは『勇者』として世界に認められている。その勇者と肩を並べて戦う事を可能にする力をリーシャは『戦士』として有しているだろう。サラという女性は、この世で唯一の『賢者』であり、その心の強さと頭脳は、歴代の賢者の中でも群を抜いている。そして、年端も行かぬ少女である筈のメルエの身体には、竜の因子という特別な力が宿っており、世界中の『魔法使い』の中でも例外的な才能を有していた。

 それでも、大魔王ゾーマの存在を知った彼等の中に、必勝の自信は生まれない。必勝の覚悟はあっても、それを成し遂げられるという確信は持てないのだ。それ程に、目の前の闇は深く濃い。その言葉は重く、ここまで数々の苦難を乗り越えて来た者達の経験に訴えるように甘かった。

 

「語り掛ける相手を間違っているな」

 

 しかし、そんな重苦しい雰囲気を小さな呟きが遮る。それは、サラの視界の端に映っていた一人の女性から。握り締めた斧を構えながらも、何処か小さな笑みを讃えた彼女は、静かに口を開いた。

 それに驚いたのは、先程まで意気消沈していたサラである。黙して語らないカミュに不安を怯えながらも、それを見守るリーシャに疑問を抱いていた彼女ではあったが、まさか、その口火をリーシャが切るとは思ってもいなかったのだ。

 今でも足が震え、指先が震える程の圧倒的な圧力がサラの身体を襲っている。そんな絶対唯一の相手に向かって、リーシャは嘲笑するように表情を変え、言葉を溢していた。

 幾ら勇気を奮わせても、立っている事が精一杯の状況が続く中で、ゾーマの言葉に反論する事だけでも、全ての力を使ってしまったのではと感じていたサラは、唖然として姉のような存在を見上げる。

 

「ほぉ。余の言葉を遮るとは……」

 

「ここまでの言葉は、私やサラへ語り掛けるべき物だ。そうであれば、私達の心は揺れ、戦う事も出来ずに自壊していただろうな」

 

 自身の言葉を遮ったのが、名も知らぬ一介の戦士である事に多少の不快感を滲ませたゾーマを余所に、リーシャは言葉を続ける。自分の名前が出た事で我に返ったサラは、その内容が胸に突き刺さった。

 戦いへの準備の為に回復を優先させたサラの心は、ゾーマとの対話が始まったその瞬間から揺れ動き続けている。ゾーマの言葉は、カミュ唯一人に向けられていたように感じていたにも拘わらず、その言葉一つ一つに心は揺らされ、賢者の顔から、一介の僧侶のような表情へ戻ってしまっていた。

 このまま戦闘に入れば、その心の揺れは迷いに繋がり、迷いは判断の遅れへと向かっていただろう。そうなれば、ゾーマとの戦闘で勝利を掴む事など、夢のまた夢となる。自身の迷いの為に仲間が傷つき、それを悔い、自身を責め、そしてまた判断を誤らせる事になる筈だ。その結果は、全滅という結末に他ならない。

 

「なる程……。生贄として育てられ、刷り込まれた人間は、何も迷う事なく、何も苦しむ事はないという事か。その監視の為に付き従って来た者達こそ、愚かで醜い人間の象徴であると……」

 

「人間が愚かで醜い事は認めよう。勇者という存在が、生贄のような役割である事も、今では認めざるを得ない」

 

 まるで対等の相手と会話をするように言葉を紡ぐリーシャを、サラは別世界の事のように見つめてしまう。もし、彼女の手を楔となる少女が握っていなければ、彼女の心は揺れ動いた挙句に迷い始めていたかもしれない。

 少女の手は小さく震えている。竜の因子を受け継ぎ、竜王を偽称する巨竜を単独で討ち果たす程の力を持つ『魔法使い』が、目の前の巨大な闇に怯えているのだ。それを感じたサラは、言葉を発しているリーシャの姿を曇りなき眼で見つめた。

 斧を持つ手は小刻みに震え、笑みを浮かべる頬には大粒の汗が流れている。気を吐くように発している声も、よく聞けばいつもとは異なる音を発しながら震えていた。

 そこに見えるのは、明確な『恐怖』。彼女もまた、目の前にある大きな闇に恐怖し、震えているのだ。しかし、リーシャという女性は、恐怖はしていても、絶望はしていない。前を向く理由もあり、その背中を支えてくれる力もあった。

 

「ならば問おう。カミュよ、何故に、薄汚い人間の為に余の前に立つ? 人間の愚かさも醜さも、貴様が最も知っているであろう」

 

 リーシャに対しての興味を失ったゾーマは、再びカミュへと視線を向ける。ゾーマから見れば、どれ程に力を有していても、リーシャやサラやメルエは、有象無象の人間という種族に違いないのだろう。だが、カミュにだけは何処か異なる視線を送っていた。

 竜の因子を受け継いだメルエの存在は知っていても、その名を呼ぶ事さえなかったゾーマは、このフロアに入った時からカミュの名を呼んでおり、ここまでの会話も、カミュだけに語り掛けているようにさえ感じる。魔王バラモスは、勇者であるカミュよりも、古の賢者の血筋であるメルエを優先したのに対し、ゾーマはこの一行をここまで辿り着かせた勇者カミュのみを見ていた。

 

「その愚かで醜い人間を代表して、余の前に立つのか?」

 

 追い討ちを掛けるように静かに問いかけた闇の声は、とても世界の破滅を目論む諸悪の根源とは思えない程に静かで穏やかな物であった。

 それが、大魔王ゾーマという全てを超越する存在が持つ威厳なのかもしれない。絶対唯一の存在であり、地上に伝わる創造神にも匹敵する存在。精霊の王であり、神であるルビスでさえも及ばず、世界の守護者としての力を持つ、竜種の王でさえも及ばない。大魔王と呼称するに相応しい力と、威厳を持つ者である事が、その言葉の節々に表れていた。

 

「……お前が滅ぼす世界にも、人間にも興味はない」

 

 しかし、そんな超越した存在さえも驚愕する答えを、新たな世界の守護者の一角とさえ認められた青年は口にする。その言葉にリーシャは苦笑を漏らし、サラは驚きで呆然と口を開く。唯一、何を論じているのか理解が及ばないメルエだけは、不思議そうに皆を見つめながら、首を傾げていた。

 巨大で深い闇が、誰も気付かない程に小さく揺らぐ。それは絶対唯一の大魔王ゾーマが見せた、初めての動揺なのかもしれない。それ程の意味を持つ言葉を、『勇者』という称号を受け継いだ青年が吐き出したのだ。

 守護するべき世界も、救うべき人間にも興味はないと。この言葉を、彼の凱旋を心待ちにしているアレフガルドの人間が聞いたのならば、憤慨するだろう。アリアハンへと戻ったオルテガが聞けば、自身の罪に再び苛まれるかもしれない。もし、この言葉の意味を正確に理解出来る人間がいるとすれば、彼の横に立つ女性戦士だけだろう。

 

「この世界が滅びようとも、人間という種族が絶滅しようとも、どうでもいい」

 

 唖然とカミュを見つめるサラは、ここまでの旅の中で彼を理解した気になっていた節がある事を再認識する。その思考を読む事が出来ず、何度も迷って来た。その度に衝突し、その度に再び迷う。その繰り返しの中で何度か彼が見せて来た優しさが、サラの中にあった迷いを晴らして来たと考えていた。それは、オルテガという彼の父を救う際に見せた彼の本音が決定打となっている。

 だが、実際はサラの考えとは異なる物を彼は胸に宿していたのだ。魔王バラモスに挑む時、彼女は『人間には護る価値があったか?』と問いかけている。だが、それに対して彼は無言で何も返す事はなかった。

 それでも、サラは彼の心の中に確かな答えが生まれているのだろうと信じていたのだ。だが、ここで明かされた答えは、そんなサラの希望を根底から打ち壊すような物であった。

 

「ほぉ……。ならば、貴様は何故、この場に立っている? 余の愉悦を邪魔する理由は何だ!」

 

 先程まで悠然と構えていた深い闇に、若干の苛立ちが見える。全てを破壊し、全てを滅すると自負する大魔王でさえも、理解出来ない事をカミュは口にしているのだ。それは、人間を救うと謳われる賢者であるサラも同様であった。

 だが、一人だけは苦笑を浮かべて斧を構える。

 大魔王ゾーマが口にする通り、多くの人間を見て来た彼女は、人間の醜さも愚かさも理解している。愚かで醜い人間であれば、自らの出世欲や金銭欲などに従って魔王討伐を目指すだろう。そして、そういう人間は、自分の力が及ばない事を知れば、逃げ出す事は間違いない。そう考えれば、洗脳に近い物を受けた人間を勇者と呼ぶという結論に達しても可笑しくはないのだ。

 それでも、カミュは自身の意志でこの場所に立っている。だが、人間を護るという正義感に燃えている訳でもなく、人間至上主義に傾倒して強い使命感を抱いている訳でもない。何かを妄信的に信じ、魔物を悪として断じる事もなく、人間を害する物全てを滅しようとしている訳でもなかった。

 

「太陽の光を受けて咲く花を見て、微笑む者がいる。花へ集う虫達に目を輝かす者がいる。動物達と共に笑う者がいる。だが、お前がいる限り、闇は晴れず、太陽の光は差さない」

 

 彼の物語はとても単純である。

 大きな世界や、そこで暮らす者達など、彼の中を占める割合は微々たる物であり、その程度の物の為に彼が動く事はないのだ。

 始まりは異なっていた。それ以外に生きる道はなく、生きる事を望むよりも死を望む為に歩み始めた道。長く辛い旅路と覚悟を決めて踏み出したその道には、彼が知らなかった幾筋もの光が差し込んでいた。

 そして、いつしか護りたいと思えるようになったその光を遮ろうとする者が現れる。

 

「単純に、お前が邪魔だ」

 

 世界の為でもない、人類の為でもない、他の多くの生命体の為でもなく、そして彼個人の為でもない。唯一人の少女が生きて行く上で、目の前の大きな闇だけが邪魔をしている。彼がこの場所に立っているのは、ただそれだけの理由であった。

 切っ掛けは何であったろう。あの少女が自分の名を呼んだ時だろうか。それとも、ピラミッドで自分個人の消滅を恐れて泣く少女の姿を見たからだろうか。どれもそうであって、どれもそうではないような気もする。

 いつしか大きくなって行くその存在を見て行くにつれ、自分と共に歩む二人の女性にも意識を向けるようになった。甘い考えを捨て切れない二人を苦々しく思いながらも、強くなって行くその心を美しいとさえ感じるようになる。世界を本気で救おう、変えようと歩む者達を馬鹿馬鹿しく思いながらも、いつしかそれを否定する事が出来なくなっていた。

 世界などどうでも良い。人類など滅びてしまえば良い。そんな想いさえあった彼の中で育った大きな存在達と共に歩む中で、その美しい心を壊したくはないと感じるようになる。世界が滅びても良いとは思いながらも、世界が滅びてしまえば、彼女達の笑みが消えてしまう事を知り、人類全てが滅びてもまた、彼女達の道も消え失せてしまう事を理解した。

 故にこそ、彼は剣を握るのだ。

 

「……そうか、余が邪魔か」

 

「ああ。世界を滅ぼし、人類を滅するのであれば、あと百年は後にしろ」

 

 何処か楽しげに呟く大魔王に頷きを返す勇者の言葉は、とても世界で『勇者』と讃えられる存在の物ではない。驚き固まるサラとは別に、何故かリーシャは本当に可笑しそうに笑みを溢した。

 目の前の強大な存在に対する恐怖は消えはしない。未だにリーシャの足も手も小刻みに震えており、じっとりとした汗が噴き出している。それでも彼女の前に立つ一人の青年の背中が、とても頼もしく、そしてとても眩しく見えていた。

 百年後であれば世界も人類も滅ぼして良いと言っているように取ったサラとは異なり、自分が生きている限りは許さないと言っているとリーシャは理解したのだ。

 それは似ているようで、全く異なる物。これ程の強大な相手を前にしても、全く譲るつもりもないその言葉こそが、彼が勇者である事を示している。必然を生み出す者としてこの場に立ち、周囲の状況さえも変えて行く者。

 その者が、それ程の者が、この長い旅路の中で、初めて己の意志で明確な敵意を相手に向けたのだ。誰の命令でもなく、誰の願いでもなく、己の意志と想いだけで立ち向かう時に、本当の意味での『勇者』が生まれるのかもしれない。

 

「くはははは! カミュよ、貴様にとって余が邪魔というのならば、もがき生きるが良い! だが、滅びこそが余の喜び。死に行く者こそ、真の美なり」

 

 しかし、真の勇者は、決して穏やかな日々の中では誕生しない。その誕生を祝うように漆黒の闇がフロアを覆い尽くす。生ある者ならば、全てに恐怖と絶望を与え、この世の全てを滅する力を有する大魔王がその力を解放し始めた。

 先程まで小刻みな震えで抑えられていたリーシャやサラの足が、立っていられない程の恐怖によって大きく震え出す。

 

「さぁ、余の腕の中で息絶えるが良い!」

 

 開戦の幕開けとなる言葉と同時に、カミュ達全員を吹き飛ばす程の波動が襲い掛かる。身体全てを凍てつかせる程の冷たい波動は、カミュ達が纏った魔法力全てを根こそぎ吹き飛ばし、その心に芽生え始めた勇気さえも消し飛ばして行った。

 先程までも対話など、僅か一時の休息でしかない。全てを滅する事の出来る力の片鱗が、この場所に立った事を後悔させる程に心を蝕んで行く。震える足は一歩たりとも前へ出せず、武器を持つ事さえも難しくなる程に手には力が入らない。

 勇者一行にとって最悪の幕開けとなる状況の中、世界の存亡を賭けた戦いが始まろうとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ようやく、次話から最終決戦です。
ここから最低でも五話はあると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。