新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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第十九章
アレフガルド大陸③


 

 

 

 砂丘を抜け、再び森へと入った一行は、その森の中で野営を行い、再び北東へと進路を取って歩き出す。左右の深い森に挟まれながらも、中央の平原は真っ直ぐ北へと伸びており、『たいまつ』の炎で照らされた部分しか見えないが、太陽の光を失って尚、このアレフガルド大陸で生きる植物達は、懸命に命を繋いでいた。

 魔物との遭遇は特段なく、スライムやスライムベスといった、最古にして最弱の魔物との戦闘が数度あっただけである。周囲の森は不気味な静けさを保ち、一行が完全に口を閉ざせば、耳鳴りがする程の静寂が平原を支配していた。

 

「アレフガルド大陸はかなり広大な大地だな……ラダトーム王国は、私達が居た世界の中で考えれば、最大の国土を有した国家になるのだろうな」

 

「国家の威光が隅々まで届いているかは甚だ疑問ではあるがな」

 

 暗闇の中で地図を広げ、自分達の歩いている位置を確認していたカミュは、その地図を横から覗き込んで来たリーシャの言葉に棘のある悪態を吐く。

 この勇者である青年は、人間が造った国家を根本的に信用してはいない。謁見の間では余計な波風を立てない為に仮面を被り続けるが、本音の部分では王族を特別視する事もなく、国家の制度を信用する事もない。それは、魔王討伐という鎖のような使命から解き放たれて尚、変わる事はなかった。

 アリアハン国王の真意を知ったリーシャは、そんなカミュの反応に対して悲しそうに眉を落とすが、彼の言う事にも一理はある為にそれを口にする事はない。これ程に広大な領土を持つ国家が、辺境の町や村の全てを管理する事は出来ないのは事実であり、本来であれば王位を継がない王族の者が各地を管理したりする制度を取るものであるのだ。

 だが、このラダトーム王国にそのような制度はないだろう。それは、精霊神ルビスの考えを正確に受け継いでいるからこそなのかもしれない。この広大な大陸は、人間だけの物ではなく、様々な種族の生物や植物達の生きる場所なのである。それをこの大陸で生きる者達は理解しているのだ。

 この大陸が、ラダトーム大陸ではなく、アレフガルド大陸と呼ばれている事からも、それは判断出来た。

 

「東へ進む」

 

「わかった。この大陸の魔物は強いぞ。慎重にな」

 

 地図を見終えたカミュが進行方向を定め、それに頷いたリーシャが注意を勧告する。ここまでの道中で遭遇した魔物は、スライム系の物や地獄の騎士など、上の大陸でも戦った魔物達であったが、勇者の洞窟に生息していた魔物達のような強敵も既に大陸中に広がっていると考えても間違いはないだろう。そして、太陽の光が降り注ぐ事のない暗闇の中での戦闘は、予想以上に神経を使い、陽の光の下での戦闘よりも苦戦する事は明らかであった。

 そんな危機感を再度認識し直した一行であったが、リーシャと共にカミュの持つ『妖精の地図』を覗き込んでいたサラが一人首を傾げていた。何か納得の行かない事があるのか、歩き出そうとするカミュを見つめて口を開く。

 

「カミュ様、地図を見る限り、マイラ方面は陸続きでは行けないように見えますが……」

 

 それは、地図を見て尚、東へ進もうとするカミュへ向けられた疑問であった。

 サラの言葉通り、『妖精の地図』ではラダトーム王都のある大陸とは別に、東に小さな大陸が記されている。その小さな大陸にマイラの村があるとは限らないが、それでもカンダタの言葉を正確に把握すると、『東の小さな大陸』にマイラの村があると考えるのが妥当であった。

 つまり、海を渡らなければその大陸には行けないのだ。もしかすると、大陸を繋ぐ橋が架けられているかもしれないが、海峡を繋ぐ程の橋を架けられるとはとてもではないが考えられない。このまま東に進んでも、行き詰まる可能性の方が高かった。

 

「わかっている。だが、他に有力な情報がない以上、向かうしかない」

 

「わかりました。もしもの時は一度ルーラでラダトームへ戻りましょう」

 

 だが、カミュの言うように情報が少な過ぎる事も事実である。アレフガルド大陸の地理や地名に疎い一行であるからこそ、上の世界で旅していた頃よりも自由度は制限されていた。どの場所にどの集落があるのかも解らず、どのようにその場所へ行くのかも解らない。漆黒の闇に覆われてしまったアレフガルド大陸の民達もまた、都市間を移動しようとは考えず、生来の場所を動かないのだから情報を得る事さえも出来ないのだ。

 ここまでの旅よりも更に細く頼りない糸を辿って行く旅は、とても過酷である。更には太陽の光の無い場所を永遠に歩き続けなければならない事もまた、彼等の精神を削り取っていた。

 

 

 

「…………むぅ…………」

 

 サラがカミュの言葉に納得し、平原を東へ向かって歩き始めて数刻が経過した頃、サラの手を握っていたメルエが顔を顰めて唸り声を上げ始める。魔物の襲来を理解した一行は一気に戦闘態勢に入るが、『たいまつ』の灯りで照らし出せる範囲に魔物の姿は無かった。

 しかし、忍び寄る魔の手は、姿は見えなくとも確実に一行へと近付いて来る。それはサラの手を握りながら顔を顰めていたメルエが、サラの腰へと顔を埋めてしまった事で明白となった。

 

「カミュ、潮風に乗って死臭が近付いて来る」

 

「……また腐乱死体か」

 

 メルエがここまで苦手意識を向ける魔物と言えば一つしかない。竜種に対して怯えを見せる事はあっても、魔物と遭遇する前にここまで不快感を示すのは、死臭と腐敗臭を撒き散らす魔物しかいないだろう。

 上の世界でも何度も遭遇した魔物であり、メルエが己の身に宿った強大な魔法力の恐ろしさを理解する契機となった魔物でもある。火葬も埋葬もされずに放置された死体が魔王や大魔王の魔力の影響で現世を彷徨うようになったそれは、腐り切った身体と、腐乱が進んだ事で思考さえ出来ない脳を持ち、唯一残った生への渇望を剥き出しにして生者へ襲い掛かる。

 次第に聞こえて来た何かを引き摺るような音と、強まって来た腐敗臭が一行へ襲い掛かった。

 

「ベギラゴン」

 

 前方から吹いて来る風と共に漂って来る腐敗臭に眉を顰めたサラは、両手で印を結び、最上位の灼熱呪文の詠唱を完成させる。腰にしがみ付くように顔を埋めてしまったメルエが呪文を唱えようとしない以上、サラが行使するしかなかったのだ。

 前方に着弾すると同時に燃え上がる炎の海が、闇に包まれたアレフガルドの大地を真っ赤に染め上げて行く。平原の草が焼ける焦げ臭い香りと共に、腐敗した肉が焼ける不快な臭いが広がって行った。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

 しかし、魔王バラモスの魔力で命を宿した『くさった死体』や『毒毒ゾンビ』とは異なり、大魔王ゾーマの魔力によって仮初の命を宿した腐乱死体は、世界で唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文を乗り越えて来る。

 腐敗し切った肉に炎を宿しながらも、その熱さや痛みを感じてさえいないように前進して来る腐乱死体は、見ているだけでも恐怖を誘う。魔神の斧を構えたリーシャの言葉に頷いたカミュが、剣を手にとって三体の腐乱死体へと駆け出した。

 

<グール>

魔王バラモスよりも圧倒的上位に存在する『大魔王ゾーマ』の魔力によって彷徨う死体。生物の許容量を超えた瘴気に似た魔法力の影響を受けた為、最早意志などは存在しない。生前に強く願った生への渇望と執着、そして何よりも強い生者への憎しみのみによって動き回る。己の肉体を省みる事などなく、痛みも恐怖も感じない肉兵は、他者からの攻撃に怯む事はない。

特殊な攻撃方法など何一つ無く、その肉体で生者を押し倒し、その肉を食らう事で現世に魂を繋ぎ止める。ある意味で言えば、最も厄介な敵となるのかもしれない。

 

「くっ!」

 

 稲妻の剣という神代の剣によって、伸ばされたグールの腕が斬り飛ばされる。それに伴い、腐り切った体液が溢れ出し、その強烈な臭いにカミュが顔を顰めた。

 真っ赤な炎を身に纏い、肉が溶けて尚、カミュ達へ向かって来る腐乱死体は生物としての本能に恐怖を植えつける。飛び出した眼球は既に炎によって消滅し、窪んだ穴からは不気味な光が放たれていた。

 臭気から逃げるように口元を腕で押さえたカミュの腹部に、グールの一撃が吸い込まれる。腐敗した腕自体を破壊する事を厭わない一撃を受け、カミュは後方へ弾き飛ばされた。しかし、彼がその身に纏う鎧は、神代の鎧である。『刃の鎧』と呼ばれるその鎧は、己の主に危害を加えようとする物を許しはしなかった。

 

「グモォォォォ」

 

 最早人語も話せない程に腐敗した脳であっても、自らの死期は理解出来るのであろう。カミュの纏う鎧から放たれた無数の刃がグールに襲い掛かり、焼け爛れたその身を切り刻んで行く。バラバラに分解された腐乱死体は闇の大地へ崩れ落ち、仮初の生命を手放して行った。

 サラの放ったベギラゴンによって、この世界に魂を繋ぎ止める事だけでも限界に近かったのだろう。脆く崩れ去ったグールを見たリーシャは、即座に残るグールを切り刻んで行く。切り刻む度に噴き出す体液を華麗に避けながらも、腐乱死体を瞬時に葬って行った。

 最後の腐乱死体だった物が平原へと崩れ落ちたのを見届けたサラが、もう一度両手で印を結び、最上位の灼熱呪文を唱える。真昼のように平原を明るく染めた火炎がグール達の亡骸を燃やし、煙と共に魂を天へと還して行った。

 

「メラ」

 

 祈りを捧げるように手を合わせたサラの横で、カミュが自身の腹部に向けて最下位の火球呪文を唱える。先程の攻撃によって刃の鎧に付着した腐肉を焼き払っているのだ。幸い、刃の鎧が放った刃と共に腐肉の位置は飛び散り、若干残った物を焼き払うだけで良く、カミュから腐敗臭が漂う事は無かった。

 顔を顰めていたメルエもようやくサラの腰から顔を外し、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。平原の草と共に焼き尽くされた腐肉はアレフガルドの大地から消え失せ、全てが天へと還って行った。

 

「行くぞ」

 

 自身が纏う鎧から腐肉が消えた事を確認したカミュが再び東へと歩き出す。カミュの近くに寄り、腐敗臭がしない事に頬を緩めたメルエは、彼のマントの裾を握りながら笑みを溢した。

 グールの群れが現れた東の方角からは、微かに潮の香りが漂って来ている。それは海が近い事を物語っていた。海という物を見た事の無かった頃のメルエはその潮の香りを嫌がっていたが、海上を渡る船が大好きになった今となっては、その香りは懐かしさを運んでは来ても、不快になるような匂いではない。

 海の傍に生息する小動物達を思い描く彼女の頬は自然と緩み、そわそわとし始めた少女をサラとリーシャは柔らかな笑みを浮かべながら見守っていた。

 

 数刻の時間を歩き、太陽が昇っていれば西へと傾き始め、一日の終わりが近づく頃になって一行はようやく海辺へと辿り着く。大陸と小大陸の狭間を流れる海ではあるが、その大陸間の距離はそれ程でもないのかもしれない。穏やかな波の海流は、静かな闇の中で安らぎを与える音を醸し出していた。

 波が押し寄せ、そして引いて行く。そんな繰り返しが、戦闘を警戒して荒立っていた一行の心を優しく洗い流して行った。絶え間なく続く潮の満ち引きが、生物の帰巣本能をくすぐるように音を発し、海の向こうさえも見えない闇への不安感を和らげて行く。それは、母なる大地とは異なった安心感を与え、精霊神ルビスとも異なった畏怖を感じる物であった。

 

「やはり海を渡らなければ行けないようですね……。どうしますか? 一度ラダトームへ戻りますか?」

 

「少し周囲を見てみる」

 

 海辺に辿り着くと同時に、カミュのマントから手を離し、リーシャの手を引きながら海岸へ歩いて行ったメルエは、砂浜に顔を出した虫などを見つけてはリーシャの顔を見上げる。砂浜に上がる貝殻を手に取り、暗闇の中でも優しい輝きを持つその貝殻に頬を緩め、大事そうにポシェットへと入れ込んだ。

 そんな幼い少女の行動を眺めながらも、サラはこの場所に来るまでに提案した内容を再度口にする。確かに、船がない以上この海域を渡る事は出来ず、何か他の方法を探す必要性が出て来るのだ。だが、カミュは異なる見解を持っているようであった。

 周囲へ『たいまつ』の炎を翳した彼は、海岸の近くに何かを探すように瞳を細める。漆黒の闇に閉ざされたアレフガルド大陸は、一寸先も見えない程ではあったが、それでも彼は目を凝らす。

 今現在ある情報が、マイラの村という物だけだからである。もしかすると、再度ラダトームへ向かえば、他の情報が手に入るかもしれない。他の都市の情報が手に入るかもしれない。それでも、細い糸を一つ一つ手繰っていかなければならない旅を続けて来た彼らにとって、僅かな情報でも疎かには出来ないのだ。

 

「カミュ! 向こうに小屋があるぞ!」

 

 そんな時、厳しい表情で周囲を見渡していたカミュとサラへ、海辺にいたリーシャから声が掛かる。はしゃぐメルエの手綱を引きながらも周囲へ『たいまつ』を向けていた彼女は、海岸にひっそりと建つ小屋を発見していた。

 二人に近付いて来たカミュ達にも徐々に見えて来た小屋は木造の小さな物であり、その小屋も一つしかない。別段、この場所に集落がある訳ではなく、その小屋だけが海辺にひっそりと建てられていた。

 アレフガルドへカミュ達が降り立った小島にあった小屋と同じような佇まいであり、漁業を生業としている者が生活をしているように窺える。その大きさから言っても、一家族が限界であろう。

 

「誰だ?」

 

 小屋の前に辿り着いた一行は、木で出来た扉を数度叩く。暫くの時間が経過して後、中から警戒したような声が響いた。

 このような場所で柵のような仕切りも無く、剥き出しの小屋で生活する事はかなりの危険を有する。魔物達が凶暴化した今となっては、このアレフガルド大陸でこのような生活をする事は命を秤に掛けていると同義であった。故にこそ、中の住人は突如として鳴った扉へ警戒心を剥き出しにしているのだろう。もしかすると、中では鋭い剣などを何時でも振り下ろせるように構えているのかもしれなかった。

 

「旅の者です。マイラへ向かおうとここまで来たのですが、海を渡る手段がありません。もし、東の大陸へ向かう方法があるのでしたらご教授頂ければと思いお伺いしました」

 

 警戒心を剥き出しにする緊張感のある声に対し、カミュは静かに口を開く。丁寧に告げられた言葉は全て真実であり、それが尚更に誠実さを込める結果となった。

 カミュの言葉に対し、警戒心を緩めた中の人物は扉を少し開き、カミュ達一行の姿を注意深く見つめる。闇に閉ざされた大陸ではあるが、カミュとリーシャの持つ『たいまつ』によって、一行の姿はしっかりと照らし出されており、屈強な青年の後方には女性が二人と幼子が一人という組み合わせも、住人の警戒心を解く一助となった。

 

「こんな時代に、旅なのか? しかも女性と子供を連れて? マイラに何の用だ?」

 

 先程よりも扉は開かれてはいるが、それでもカミュ達を歓迎するような開き方ではない。何かあれば即座に扉を閉める準備はしており、その瞳には怯えさえも宿っていた。

 幾分かの警戒心は解かれてはいても、このような場所で暮らす人間にとっては、今のアレフガルドを闊歩する魔物達は相当な脅威なのだろう。カミュ達四人が魔族ではないという保証は無く、それを全面的に信じる事が出来る程、甘い生活は送って来ていない事が推測出来た。

 

「ラダトームでマイラの情報を得ました。上の世界から来た者ですので、暮らす場所がありません」

 

「上の世界から……。そうか、アンタ方もその口の人間か……。ラダトームでも上の世界の者達を受け入れ始めているという噂はあったが、王城の膝元では暮らし難いかもな」

 

 鋭い視線を向けていた住人ではあったが、カミュが口にした『上の世界』という言葉に反応し、雰囲気を大きく和らげる。このアレフガルド大陸が闇に覆われる前から、上の世界の者達の存在があったとすれば、この道を通った者達もいただろう。そんな記憶があった為なのか、住人はそのまま扉を大きく開いた。

 現れたのは、浅黒く日焼した身体を持つ大柄の男性。太陽があった頃は、何度も舟を出して漁を行っていた事が一目で解る。カミュ達には懐かしささえ感じられる海の男の風貌は、今も尚、彼が海へ出ている事を窺わせていた。

 

「ここからマイラに行くには、船で海を渡らなければならないが……流石に今の海は危険だ。近場で漁をするぐらいなら何とかなるが、向こう側の大陸へ向かうのは無理だろうな」

 

「そうですか……」

 

「魔物との戦闘は、我々で請け負います。何とか舟を出して頂けませんでしょうか?」

 

 小屋の中へ四人を招き入れた男性は、現状を正直に語る。大魔王ゾーマの復活前までは、このアレフガルドでも遠洋での漁業が可能であったのだろう。だが、闇に覆われた今となっては、海域にも強力な魔物達が生息し出している。それが大魔王バラモスの魔力によって凶暴化したのが影響なのか、それとも闇の世界から現れたのかは解らない。だが、現状で舟を出す事は相応の危険を覚悟しなければならない事は確かであった。

 そんな理由を聞いたサラは一気に落ち込むが、カミュは尚も食い下がる。上の世界ではその旅路に関して何処か諦めた感があった彼ではあるが、このアレフガルドに来てからは何かを恐れているように突き進んでいる。そんなカミュの言葉にサラは驚きの表情を浮かべるが、後方にいたリーシャは若干哀しそうに表情を歪め、一つ溜息を吐き出した。

 

「魔物を引き受ける? そんな事が可能なのか? もし、それが可能ならば、塩漬けした魚などをマイラへ売りに行けるし、願っても無い申し出ではあるが……」

 

「大抵の海の魔物であれば大丈夫だろう。もし望むのならば、マイラの村までも護衛を引き受けよう」

 

 カミュの申し出に対し、この男性も全てを信じる事が出来ない。目の前に居る青年は、その姿から見ても十分な戦力を有する存在である事は理解出来るが、それ以外は女性二人と幼子である。巨大な斧を背中に背負う女性はまだしも、自分よりも大きな杖を背中に括っている少女にそのような力があるとはとてもではないが思えなかったのだ。

 だが、そんな男性の疑惑の目を振り払ったのは、斧を背負った女性戦士だった。真っ直ぐに見るめる瞳は、己の力を過信している訳でも、虚勢を張っている訳でもない事が一目で解る。荒れる海を何度も渡り、数多くの獲物を獲って来た海の男だからこそ、彼等の本質の一部を垣間見る事が出来たのかもしれない。

 

「わかった。俺も男だ、アンタ方を信じてみよう。どうせ、このまま時が過ぎれば立ち行かなくなるんだ」

 

 暫しカミュとリーシャの瞳を見つめていた男性は、突如自分の膝を叩き、勢い良く立ち上がる。そこには決意を固めた海の男の顔があった。

 この大陸が平和であれば、この場所で海産物を獲り、山の麓にあるマイラの村まで行商に出る事も可能であったのだろう。だが、今となってはそのような行動は取る事は出来ず、このままこの場所に一人でいれば、何時か命を落とす事になりかねない。それが、魔物によっての物なのか、生活が出来なくなっての餓死なのかの違いだけである。

 故に、この男は人生の駆けに出たのだろう。年齢的に言えば、リーシャよりも上である事は解るが、それでも初老という程ではない。三十路を超えた程度と考えれば、一念発起するには最後の機会だったのかもしれない。

 

「直ぐに出るのか? 何もない所ではあるが、休んで行くかい?」

 

「助かります」

 

 常に夜のような闇に包まれ、いつが昼で、いつが夜なのかを判別する事が不可能なアレフガルド大陸ではあったが、既に起床してから随分長い時間をカミュ達は歩き続けていた。身体は疲労を訴えているし、幼いメルエは眠気を感じて舟を漕ぎ始めている。大陸間の海域を舟で渡り、その後再び歩く事は不可能ではないが危険性は高いだろう。故に、この男性の申し出は一行にとっては有り難い物であった。

 ベッドなどが余っている訳ではない為、部屋の隅に毛布などを集め、カミュ達四人が固まって眠る事になる。男性は隣の部屋で眠り、目が覚めてから行動を開始する事となった。

 

 

 

 翌朝というよりも、一行全員が目を覚ました後と言った方が正確かもしれないが、小屋を出た五人は、海に浮かべられた漁船に乗り込む。人間一人で動かせる舟である為、上の世界でカミュ達が乗っていたような大きな物ではない。だが、アレフガルドに到着直後に乗る事となった少年の舟よりかは幾分か大きな物であった。

 大海原を渡るような物ではないが、吊り上げた魚などを大量に入れる生簀を備えた物であり、小さくはあるが帆もしっかりと備え付けられている。最後にメルエがリーシャに抱き上げられて乗り込んだのを確認した男性が舟に帆を張った。

 闇の中を舞う風を受けた帆が揺らぎ、その力でゆっくりと舟が走り出す。久方ぶりに潮風を感じたメルエははしゃぐように海へ顔を出すが、そこは真っ黒な水が広がるだけであり、海鳥のような動物達の姿も無かった。

 

「メルエ、向こうとは違うだろう? 危ないからこっちへおいで」

 

 眉を下げて肩を落とすメルエに苦笑を浮かべたリーシャが手招きする。仕方なく彼女の傍へと戻って来た少女は、つまらなそうに頬を膨らませた。

 舟の船首には大きな篝火を焚かれ、闇の中でも視界がある程度は確保される。だが、逆に考えれば、海に生息する魔物達に道標を与えているような物であった。闇が支配を始めてから、このアレフガルドには多数の強力な魔物が棲み付いている。それらは常に闇の中で生きて来た者達が多数であり、光という物の方が異質なのだ。故に、篝火のような灯りが灯っていれば、その場所へ襲い掛かる事も当然なのかもしれない。

 

「カミュ様、遭遇した魔物達はまず私が対応します。この舟の上では大掛かりな戦闘は出来ませんから」

 

 周囲に漂う不穏な気配を感じ取ったサラは、魔物との遭遇を警戒しながらも、その対応に関しての意見を口にする。確かに、舟は四人が乗っても歩けるスペースがある物ではあるが、この上での戦闘が可能かと問われれば、それは否であった。この狭さではリーシャが斧を振るう事は出来ず、波の影響を大きく受けている為に踏ん張りも利かない。大掛かりな攻撃呪文を行使する危険性を考えると、長引く戦闘は得策ではないだろう。

 

「この辺りの海域は、ルビス様の塔のお膝元だ。昔であれば、凶悪な魔物など居なかったのだがな……。ルビス様のご威光が届かなくなってからは荒れ放題だ」

 

「……ルビス様の塔ですか?」

 

 カミュとの会話を聞いていた男性が舟を操作しながら呟いた一言にサラが反応する。彼女は賢者ではあるが、元僧侶でもある。今生きている事が出来るのは、自分を心から愛してくれた両親の愛と精霊神ルビスの加護のお陰であると心から信じている者でもあるのだ。どんな僧侶よりも精霊ルビスを敬愛し、どれ程に高位な僧侶よりも精霊神ルビスの存在を信じている。人間が歪めてしまったルビス教の教えを盲信している訳ではなく、その存在の尊さと大きさを誰よりも知っているのだろう。

 それは、このアレフガルドという大地へ降り立ってから尚の事強くなっている。精霊ルビスと人間の架け橋となる存在の『賢者』だからという訳ではなく、何故かサラはこの世界へ降り立ってから、精霊神ルビスという存在を身近に感じるようになっていたのだ。

 ここまでの道中で感じていた奇妙な違和感が、意外な形で解消される事に彼女は驚いていた。

 

「ん? ああ、アンタ方は上の世界から来たんだったな。このアレフガルド大陸には時折ルビス様が天界から下向くださるという言い伝えがある。下向なさるルビス様をお迎えする為に造られたのがルビス様の塔なんだ。ルビス様のご気分を害さぬよう、人間が立ち入る事の難しい北の孤島に造られており、それがここから真っ直ぐ北へ向かった先という訳さ」

 

「……ルビス様が」

 

 上の世界と呼ばれるサラが生まれた世界にはそのような逸話は残っていない。ガルナの塔という塔やダーマ神殿という神聖な場所は存在していても、そこへ精霊ルビスが降りて来るという話は無かった。このアレフガルドという世界が、如何に精霊神ルビスとの距離が近いかの証なのかもしれない。

 ここまで聞いた数々の伝承の中で、精霊神ルビスに纏わる物も多く、尚且つ精霊神ルビスの教えが正確に伝わっている事を考えれば、このアレフガルドという世界を創造した母がルビスであるという話も納得出来る。創造神が生み出した世界ではなく、精霊ルビス自身が生み出した世界であれば、その世界を見守る為に姿を現したとしても何ら不思議ではないのかもしれない。

 

「だが、ルビス様のご威光は闇によって覆われた。今では、ルビス様の塔は、ルビス様が封じられた塔だという話すら出て来ている。ルビス様が封印されたからこそ、このアレフガルドは闇に覆われ、朽ち果てて行くとな……。この世界の多くは絶望によって閉ざされ、あの塔へ近付こうとする者もいない。それに、大魔王の魔力によってあの塔自体が封じられていて、人間が近寄る事が出来ないという話だ」

 

「ルビス様が本当に封じられているのだとすれば、私達は行かなければならないな」

 

「……今は封印を解く方法が無い」

 

 男の話を黙って聞いていたリーシャは、確認するようにカミュへ視線を向ける。だが、彼女達が信じる勇者は冷たい一言を返したのみであった。

 精霊ルビスが封じられているという確証も無く、そしてそれが事実だとしても封印を解く方法も無い。それでは、例えその場所へ行ったとしても、彼等四人に成せる事など何一つ無いのだ。

 何かを期待してカミュを見ていたサラの落胆振りとは正反対に、リーシャは満足そうに頷きを返す。彼女は、カミュの言葉の中にあった『今は』という単語をしっかりと聞いており、それが何を意味するのかを理解していた。

 『今は』という事は、封印されている事が事実で、尚且つその解除方法があれば必ずその場所へ赴く事を意味している。五年近くの旅路の中で、彼女はこの青年が成し遂げて来た事を全て見て来ているし、その経過も見て来ていたのだった。

 

「…………リーシャ…………」

 

「ふぅ……何時か魔物と戦う事のない船旅を経験してみたいものだ」

 

 ルビスの塔と伝えられる塔がある方角を見つめていたリーシャは、眉を下げて袖を引く少女の言葉を聞いて大きな溜息を吐き出す。幼い少女がこの表情をする時の来訪者は決まっている。それが間違いでない事を裏付けるように波立った海面から巨大な姿が出て来たのは、溜息混じりにリーシャが斧を構えた時であった。

 波立つ海面が浮き上がり、船首にある篝火の炎が揺らぐ。カミュ達の進行方向を遮るように現れたのは、真っ赤に染まった二つの巨体。このアレフガルド大陸へ降り立って最初に遭遇した魔物でもあるクラーゴンであった。

 転覆するのではないかと思う程に揺れる船体へしがみ付いた男性は、目の前に現れた巨大なイカの化け物に恐怖し、絶望に染まった顔を青くする。彼の頭の中には、昨日した決断を後悔する念が追い寄せている事だろう。それでも何かに縋るように動かした視線の先に居る四人の若者の瞳を見て、絶望よりも大きな驚きを受けた。

 

「……任せた」

 

「サラ、頼んだぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 一人の女性を除き、それぞれがそれぞれの感情を宿した表情を浮かべた若者達。

 先頭にいた青年は、魔物を見ようともせず、道を空けるように後方へと下がる。青年と同程度の背丈の女性もまた、手にした斧を背中へ結び直し、その者の肩を軽く叩いて後ろへと下がって行く。最後に、幼い少女だけは何処か不満そうに頬を膨らませ、その者を軽く睨んだまま青年のマントの中へと入って行った。

 傍から見れば不思議な光景であろう。舟の目の前には小舟など一捻りに出来るだけの巨体を持つ魔物が二体も居るのだ。それでも戦闘を開始しようとはせず、その魔物の動向さえも見る素振りもない。ただ一人の女性を除き、誰一人魔物へ注意を向けようとさえしていなかった。

 恐怖と絶望の念が再び戻って来た男性の瞳に、三人の仲間から全てを託された者の姿が映し出される。頭部に輝くサークレットの中心に嵌め込まれた深い青色をした石が輝き、その輝きに反した苦悩の表情を見せる女性が両手を魔物達へ向けて小さな呟きを漏らす。

 

「ザラキ」

 

 男性の耳には何も聞こえはしない。その女性が何かを口にした事だけは解るが、それは口元が言葉を紡ぐように動いたからであって、その音を聞いた訳ではない。それでもその呟きのような一言がこの場所の全てを一瞬で変えてしまった。

 雄叫びを上げ、今にも舟を潰そうと振り上げられていたクラーゴンの触手は力を失ったかのように海面へと落ち、その巨体に似つかわしい大きさの瞳からは光が失われる。まるで底なし沼へ落ちてしまった時のように静かに海へと沈んで行く二体の巨大イカが何処か遠い世界の出来事のように映っていた。

 

<ザラキ>

ザキと呼ばれる死の呪文から派生した呪文である。単体の死を願うザキとは異なり、集団の死を願う物。呪いと称しても可笑しくない程の力を持つ魔法ではあるが、単体へ向けた物よりもその強制力は低い。術者である者の意識が単体よりも複数の方が向け難いという事も影響しているのだろう。だが、その呪文によって失われた命の魂は永遠の闇へと落ちて行く事となる。

 

「アンタ方は一体……」

 

 海へ沈んで行く二体のクラーゴンを呆然と見つめていた男性は、機械仕掛けの人形のように首を動かしてカミュ達へと視線を向ける。その瞳には明確な怯えが見えていた。

 人間が何を最も恐れるかと言えば、それは自身が理解出来ない物である。何故人間が『死』を恐れるかというと、それは『死』の先に何があるのかを知らないからであり、もし『死』の先に美しい世界が広がっていると知っていれば、『死』を恐れる理由が無いのだ。

 この男性は先程まで目の前に近付いていた『死』という物を恐れていたのだが、その危機が去ってしまえば、今度はその危機を打ち払った者達の未知なる力を恐れている。それは生物としては当然の感情なのかもしれない。

 

「我々は、大魔王ゾーマを討ち果たす為に旅をしている。その辺りに生息する魔物程度に苦戦をしている場合ではない」

 

 明確な怯えの色を宿した男性の瞳から逃げるように顔を背けたサラに代わって、胸の前で腕を組んでいたリーシャが男性の呟きに答える。

 リーシャはサラの苦しみを見て来た。誰に対しても強制的な『死』を与える力を有した事で前へ進む事が出来なくなった姿を知っている。そんな己の容量を遥かに超えた力を有した事に悩む賢者を救ったのは、同じように世界の枠組みから逸脱した魔法力を有する魔法使いであった。幼い魔法使いを導いたのは、賢者。つまり、彼女の悩みを解決したのは彼女自身なのだ。

 だが、悩みは消えても、己の力の強大さへの恐怖は変わらない。一般的な人間からすれば、その力は圧倒的な暴力であり、有無も言わさぬ程の強制力となる。それを誰よりも知っているのも、常に悩み、苦しみ、泣いて来た賢者なのだろう。故に、彼女は男性の視線から顔を背けてしまった。その怯えの光の濃い瞳で見つめられる事を誰よりも恐れているのだから。

 

「……大魔王を? アンタ方、本気か?」

 

「その為に、このアレフガルドへ来た。余計な騒ぎを起こしたくないから、この話は他言無用で頼む」

 

 大魔王ゾーマという存在は、このアレフガルドでは周知の事実なのだ。上の世界での魔王バラモスのように、当初はその存在を討ち果たそうとする若者達も存在していたのだろう。だが、母なる絶対的な存在である精霊神ルビスの封印という事が大陸中へ広まると同時に、この世界は闇と絶望に包まれたのだ。

 この世界の者達は、誰よりも大魔王ゾーマの恐ろしさを知っている。この世界の創造主であり、尚且つ母神でもある『精霊神ルビス』という存在が封印されてしまう程に弱らせた者となれば、それは世界全てを相手にしても勝利を掴む事が出来ないという存在なのだ。

 そんな幼子さえも知っている力関係を踏み越えて行こうとする者が目の前に居る。それを驚かずにして、何に驚けというのだ。男性は、先程サラが行使した力を忘れ、呆然とリーシャの顔を見上げる事しか出来なかった。

 

「成し遂げられるかどうかは解りません。ですが、私達の力はその為にあると思っています。このアレフガルド大陸の闇を晴らす為に……」

 

 顔を背けていたサラが口を開く。彼女は今、もはや遥か昔の出来事のようにさえ感じるバハラタでのカミュの言葉を思い出しているのかもしれない。懸命に生きる者達の為に成した行動が、己が異質であるという事の証明となり、それが同種族の中で生きる事の妨げに成り得るという皮肉。それをあの時に彼女は嫌という程に味わっていた。

 『自分が選んだ道の先』という言葉が、サラの頭に浮かんでは消えて行く。今や『人』だけではなく、『魔物』までをも含めて平和な世界を目指す彼女の力は、一般の人間からすれば脅威にしかならない。それでもその道を選んだ彼女は、その感情と視線を受け止めなければならない義務を持つ。

 そんな新たな決意に燃えたサラにリーシャは笑みを浮かべ、カミュは静かに瞳を閉じた。

 

「……とんでもない人達を舟に乗せてしまったな。アンタ方の事は口外しない。それは約束するよ。俺の目的はマイラの村へ行く事だけだからな」

 

「……すまないな」

 

 小さな溜息を吐き出した男性は何度か首を横に振り、己の意識を覚醒させて行く。海の男として屈強な身体を持っていたとしても、彼が一般人である事に変わりはない。彼の言葉は、心底から来る本音なのだろう。

 本来であれば、彼のような一漁師がカミュ達のような一行と係わり合いを持つ事は有り得ない。彼からすれば、万が一の災害に巻き込まれてしまったのと同程度の物なのだろう。それでも、そんな小さな確率の出会いは、結果的に彼の延命に繋がる出会いでもあった。それを誰よりも痛感したのもまた、彼なのだ。

 

「対岸が見えて来たな。ここから北東にある大きな森の手前にマイラの村がある」

 

 気持ちを切り替えて舟を動かし始めた男性が、篝火に映る並みの動きを見て大地が近い事を口にする。その直後にオールの先が砂浜に触れる感触が伝わり、カミュとリーシャが海の中へと入って行った。

 ゆっくりと動かされる舟の上で近付く大地に心を躍らせたメルエが舟から身を乗り出すのをサラが懸命に抑える。ようやく陸へ上げられた舟から飛び出した少女は、周囲に生き物の姿が見えない事に肩を落とし、追い付いて来たサラと共に小動物達を探す為に砂浜を歩き始めた。

 砂浜へと三人がかりで舟を上げ、大きな岩に縄を括りつけて固定する。マイラの村へと運ぶ魚介類の干物や塩漬けの荷物を取り出した男性を待って、一行はアレフガルド世界の北東にある小さな大陸を歩き始めた。

 

 『妖精の笛』という道具の伝承があるマイラの村。その村がある小さな大陸の傍には更に小さな孤島があり、その孤島には精霊神ルビスを迎える為の塔があると云う。

 精霊の神という位置に居るルビスと、その母なる存在が想像した世界で生きる者達を繋ぐ場所。そして、大魔王ゾーマとの戦いで弱ったルビスを魔王バラモスが封じた場所。

 大魔王ゾーマの打倒という大望を掲げるカミュ達が避けては通れない場所は、彼等の来訪を待ち侘びているかのように、闇の中で今も聳え立っているのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
更新が遅くなってしまい、申し訳ありません。
次話はマイラの村です。
この章から、少し大きく物語が動く予定です。

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