カミュの予想通り、山の山頂近くまで上った後、下山し始めた頃に陽は落ちてしまった。
一同は、野営を行う準備をする為、野営の適地を探し、火を熾して行く。いつも通り、火を熾している間、サラは薪となる小枝などを拾い集めていた。
「サラ! 私達は、食物を探しに行ってくる。火の回りには<聖水>を撒いてあるから心配ないとは思うが、気をつけてくれ」
「えっ? あ、は、はい」
火の傍で呆けたように火を見つめているメルエの頭を撫で、リーシャはサラへと声をかけた。
既にカミュはこの場所を離れている。山中である事から、獣や果物を取ってくるつもりなのだろう。
サラの返事に一つ頷いたリーシャは、そのまま山中に入って行った。
火に定期的に薪をくべながら、サラとメルエは大した会話もなく火を見つめていた。
基本的に無口なメルエではあるが、特にサラに対しては全く口を開かない。最初のようにサラの法衣に怯えた様子を見せる事はないが、極力サラを避けているようにも感じる。
「……メルエは魔法が使えるのですね……」
「…………」
沈黙の空気に耐えられなくなったサラが、今日、自分の目で見た出来事をメルエに対して確認を取る為に声をかけた。
そのサラの問いかけにも、メルエはわずかに視線を向けた後、かすかに頷くだけである。その後は、また元の静けさが戻ってしまった。
『何故、魔法が使えるのか?』
『何時から使えるのか?』
『誰に教わったのか?』
『カミュやリーシャは知っていたのか?』
聞きたい事は山程あったが、メルエの態度がそれを拒絶しているようにサラには感じていたのだ。
どれくらい時間が経っただろう。未だ、カミュとリーシャは戻らない。
辺りは完全に夜の帳が降り、メルエとサラの間にある焚き火が唯一の灯りとなっていた。
黙っている事に何の違和感もなかった為、サラは今まで気がつかなかったが、そこになって、メルエの視線が火の下ではなく、あらぬ方向に向かっている事に気が付いた。
メルエは座っている位置に変化はないが、首を動かし、闇に染まる山中を見ているのだ。少なからず、その口元は動いているようにも見える。
「……メ、メルエ……?……何を見ているのですか……?」
メルエの奇怪な行動に、自分の中で嫌な予感が働いている事を故意的に無視し、サラは恐る恐るメルエへ声をかける事にした。
虚空を見ていたメルエは、そちらの方向に向かって少し口を開いてからサラの方へと向き直った。
「…………女の…子…………」
「えっ?……ど、どういう事ですか?」
メルエがサラに向かって語った内容は、サラが理解出来る物ではなかった。
メルエの言葉は極端に短い。それが幼い頃のトラウマからなのか、言葉自体の知識がないからなのかはサラには分からない。だが、今まさに、メルエの言動では意味が掴めない事は事実なのだ。
「…………女の子………いた…………」
「えっ?……今、そこにいたのですか?」
続いたメルエの言葉にサラが聞き返すと、メルエは一つ頷いた。メルエは、先程まで見ていた場所に女の子がいたと言っているのだ。
少なくとも、サラには見えなかった。という事は、メルエがサラと会話をしたくない故に嘘をついているのか、それとも本当にサラには見えない誰かと話をしていたかのどちらかという事になる。
メルエが、そこまで姑息な手段を使ってまで、サラとの会話を拒むとは考え辛い。ならば、やはり本当にあの場所に少女が立っていた事になる。
とすると、それはこの世の存在ではない者となるのだ。まさしく本職のサラが相手にするべき存在である。
「メ、メルエ! ど、何処にいるのですか!?」
「…………もう………いない…………」
突然立ち上がり、サラが発した声は、若干裏返ったものであった。
そして、それに対するメルエの返答は、相反するような冷めた物である。視線を火に戻したメルエは、暫し黙り込んだ後、再び口を開いた。
「…………女の子も………サラ………きらい…………?」
「えっ?……メ、メルエ……『も』ということは……メルエは私の事が嫌いなのですか?」
メルエの発言の一部分に引っかかりを感じたサラは、恐る恐るといった感じにメルエへ真意を問い質す。しかし、無情にもメルエの首は縦に振られる事となった。
これ程面と向かって、自分の事を『嫌いだ』とはっきり言われた事は、孤児であるサラにしても今まで一度もなかった。孤児であるが故、周りの子供達から揶揄される事も多かったが、メルエの目は真剣そのものだ。
それがサラの心を大きく抉っていく。
「ど、どうしてですか……?」
やっと絞り出した言葉は震え、その震えはサラの心境を物語っていた。
火から顔を上げたメルエは、対角線上に座るサラの瞳を見て、本当に小さな呟きを残す。
「…………メルエ………どこか………連れていく…………」
「そ、そのような事はしません!! 私は偽者の『僧侶』ではありません!!」
メルエが口にした内容は、メルエを買い叩いた奴隷商人の扮した僧侶と同じように、サラがメルエを何処かへ売り飛ばそうとしているという物だった。
サラは思わず声を張り上げる。
『精霊ルビス』に仕える自分が、そのようなことをする訳がない。何故、同じくルビスの子である『人』を売り飛ばすような真似をしなければいけないのだ。サラはそう考えていた。
しかし、ルビス信仰をカミュのように曲解すれば、前世でルビスへの裏切りを犯したこの世の弱者は、その担い手に何をされても文句は言えないという事になるのだが、サラにその解釈は出来ない。
勿論、幼いメルエにその解釈が出来よう筈がなかった。
「ほ、本当ですよ。私は、メルエをどこかに連れて行く事などしませんよ。それに、そのような事をしたら、それこそリーシャさんに殺されてしまいますよ」
必死にメルエに対し弁明を繰り返すサラを、メルエはじっと見つめていたが、納得がいったのか、一つこくりと頷いた。
メルエの頷きに胸を撫で下ろし、メルエの方ももう一度見ると、すでにメルエの視線は再び虚空を見つめている。
「……メ、メルエ……また来ているのですか……?」
聞きたくはない。
聞きたくはないが、聞かねばならない。
そんな決死の思いでサラはメルエに問いかけた。
恐れるサラに、メルエは振り向きざまに頷くのだった。
「カミュ、戻る前に言っておきたい事がある」
山中での戦利品をそれぞれ抱えたリーシャとカミュは、申し合わせた訳ではなかったが、途中で鉢合わせとなった。
カミュの手には木の実や果物。リーシャは右手で猪を引き摺っていた。
「……話の前に……アンタはこんな山奥で、そんな大きな猪をどうやって調理するつもりだ?」
「ん?……鍋を作る訳にもいかないからな……まあ、最終的には丸焼きにでもすれば良いだろう」
驚くべき事を平然と言い張るリーシャ。それは、カミュにとっても驚きを隠せないものだった。
女性であるリーシャが猪の丸焼きを頬張る姿を想像出来るだけに、カミュは片手を顔に当て、溜息を吐き出す。
「……正直、アンタが本当に女なのかも疑問に思う時がある」
「……カミュ……言葉に気をつけろ……今の私は、先程からのお前への怒りを何とか抑えているのだ……お前の不用意な発言で、何時斬りかかってもおかしくない程にな……」
カミュの失礼千万な言葉に、リーシャは地面を見つめながら小刻みに震え出し、猪から離した手を腰の剣にかけていた。
リーシャの纏う怒気は、周辺の木々を揺らし、休んでいた鳥達を羽ばたかせた。
「おい。まさか丸腰の人間相手に剣を抜く気か?」
「……お前なら、何とかなるだろう……」
カミュの言葉通り、昼間の戦闘でカミュは剣を失っている。その為、獣等の食料の調達をリーシャに任せたのだ。
しかし、顔を伏せたまま、地鳴りのように響くリーシャの答えに、流石のカミュも表情こそ崩さないが、その額から一筋の汗が滴り落ちていた。
「……ここは抑えておいてやる……」
緊迫した時間が過ぎ、お互いがお互いを牽制し動けない状態が続いた時、止めていた息をリーシャが大きく吐き出す事によって、この場の空気が一気に緩む。
リーシャの手が腰から離れた事を確認したカミュも、大きく息を吐き出した。
「カミュ、お前はどんな生活をして来たのだ?……どうやったら、今のお前のような考え方が生まれる?……私には理解が出来ない。お前の言うように、このままお互いの主張をぶつけ合ったとしても平行線のままだろう。だからこそ、お前の考えや価値観の根底を私は知りたい」
「……」
カミュは、その内面を探るように、リーシャの瞳の奥を見つめていた。
相手の心を知りたい等、通常の人間であれば、容易く口にしない事だからである。それ程に、リーシャは奇妙な事を口にしたのだ。
「ここまで来るまでの道程で、私は今まで見た事のなかった『人』の暗い部分を見た。いや、知っていて、敢えて見ようとはしなかったのかもしれない」
リーシャは、顔を上げないまま、一人独白のように呟きを始めた。その内容は、カミュの知っている頑固一徹な戦士のものではなかった。
そこにいるのは、宮廷騎士でも戦士でもない、紛れもない『人』そのものである。
リーシャは、カミュに言われる程頭の固い人間ではない。それは、今までの行動に少しではあるが、表れている事もあった。
自分に理解出来ない事や納得の出来ない事を無闇に拒絶するのではなく、その考えはどうして生まれたのかを知る必要性を知っているのだ。
「私は、お前がロマリアの闘技場で発した言葉が忘れられない。魔物を擁護する訳ではないが、私もあの闘技場に渦巻く淀んだ空気に、吐き気を抑えるので必死だった」
「……」
独白を続けるリーシャに対し、カミュは黙して何も語らない。ただ、リーシャのその下げた頭を見つめるだけであった。
その表情は、冷たい訳でもなく、かと言ってメルエに向けるような優しい物でもなく、ただ単に何も考えていないような無表情。
「……カミュ……お前は、我が祖国で何を見て来たのだ?」
「……アンタに話すような内容ではない……」
リーシャの絞り出すような声は、直後に発せられたカミュのたった一言で霧散する事となる。
それは、冷酷なまでの拒絶。
メルエの加入により、少なからず開きかけているように見えたカミュの本心へと続く扉が、再び閉まってしまった音だった。
「!!」
リーシャは勢いよく顔を上げた。
その表情は怒り、哀しみ、悔しさ等、色々な感情が合わさり、かなり歪んだ物へ変化している。それ程リーシャにとって、カミュへのこの問いかけは覚悟を決めた物だったのだ。
それを無碍に切り捨てられた。それがリーシャには許せない。
そんなリーシャに向かいカミュが口を開いたのは、リーシャが『このまま剣を抜き、カミュを切り捨ててしまおうか』と、腰に手を伸ばした時だった。
「……アンタはそのままで良いさ。俺の内情など知る必要はない。『何事にも真っ直ぐに』向かって行けば良い。俺に歩み寄る必要も何処にもない」
「……カミュ……」
カミュは先程リーシャと相対するために地面に置いた果物を拾い上げ、踵を返し歩き始めた。
リーシャは暫くの間、呆然とカミュを見ていた。しかし、不意に立ち止まり、もう一度振り向いたカミュの言葉に、再び剣を構える事となる。
「ああ……アンタは、大分良く言えば『真っ直ぐ』な人間だが、一般的には『猪突猛進』という言葉が良く似合う人間だったな……ならば、それは共食いという事になるのか……」
「~~~~~~!!……カミュ……覚悟は良いんだな……今度という今度は、如何にお前が丸腰であろうと、切り捨てるからな……」
地面に横たわる猪の亡骸を指さすカミュを斬り捨てる為、リーシャは腰の剣に手をかけ、大きく歩幅をとった。
目は憤怒の炎に燃え、一刀両断の構えである。
「その猪は、アンタが捕って来た筈だ。調理はアンタに任せる」
そんなリーシャに構う事なく、カミュは先へと進んで行く。リーシャは、怒りの向ける矛先を失い、立ち尽くしてしまった。
「……何をしている?……メルエが腹を空かせて待っているぞ」
「くっ! わかっている! 今行く!!」
先に進むカミュの口から出た名前に反応したリーシャは、地面に横たわる猪の足を掴み上げ、カミュの後を追って歩き出す。しかし、その進行方向は、リーシャが考えていた方向とは異なっていた。
リーシャの信じる帰り道の方角自体が正解であるのかどうかも怪しいのだが、次に発したカミュの言葉が、リーシャの考えている事を肯定する。
「少し寄り道をして行く」
「何処にだ?」
リーシャは、先程までの怒りの名残を残しながら問いかけるが、振り向いたカミュの口端は上がっており、これから発する言葉が、決してリーシャの心を穏やかにする物ではない事を窺わせた。
「向こうに水場があった。まぁ、<かに>はいなかったがな……」
「!!」
先程の自分の混迷ぶりを突かれ、リーシャは再び血が上り始める。本当に斬り捨ててしまった方が、自分の精神衛生上、良いのではないのかと悩むリーシャであった。
「メルエ! こっちに来て下さい!」
メルエが未だに虚空を見ている事に、サラは身を震わせながらも、自分の下へメルエを呼ぶ。しかし、当のメルエは、サラの声が聞こえていないかのように、全くサラに関心を示さない。
それがサラの恐怖心を尚一層掻き立てた。
「メ、メルエ……その子は一人なのですか……?」
動こうとしないメルエに掛けるサラの声は、先程とは打って変わって心細い物になっていた。
ようやくサラの方へ顔を向けたメルエは、ゆっくりと頭を横に振る。
「…………お母さん………いっしょ…………」
「ふ、ふたりなのですか!?」
焚き火の灯りに映し出されたメルエの顔が、夜の闇に覆われた山中に浮かび上がり、サラの恐怖心を煽って行く。
周囲の闇に溶け込み、メルエが視線を向ける先には何も見えない。サラの心の中には、『メルエが嘘を言っている』という考えはなかった。
「…………いま………ひとり…………」
「メ、メルエ! 早くこっちに来て下さい! そ、その子は……も、もう『人』ではないのです!」
サラの必死な叫びに、メルエは小首を傾げる仕草をする。サラが何に怯え、何に目くじらを立てているのか、メルエには全く解らないのだ。
自分はただ、少し離れた場所でこちらを見ている少女に気が付き、そちらに顔を向けていただけ。その少女は、自分の存在に気が付いたメルエに優しく微笑みかけ、メルエが聞けば、それに対して答えてくれている。
不思議そうに自分を見つめるメルエに痺れを切らしたサラは、震える指先に力を込め、メルエの傍に駆け寄った。
そのまま、メルエの肩にかかっていたカミュのマントごとメルエを胸に抱き包む。
「………???………」
サラの胸の中でモゴモゴと動くメルエに構わず、メルエの見ていた方向に視線を向け、サラは口を開いた。
その声は鬼気迫る程の物であり、闇が支配する森の中に響き渡る。
「メルエは生きています。貴方方とは、もはや違う存在なのです。メルエを連れて行かないでください!」
教会では、死者の魂が現世に彷徨い続ける事を良しとはしない。彷徨い続ければ、その内にある未練や後悔、憎しみや悲しみが増幅し、魔物へと変化してしまうと云われているからだ。
また、死者の魂は生者の魂をも引き込むと恐れられ、その魂を救う事も、本来は『僧侶』の仕事の一つと言われている。
しかし、実は、サラはその仕事が得意ではない。実際、死者の弔いの為に、何度か育ての親である神父に付いて行った事はあるが、除霊自体を行った事はないのだ。
「…………ぷふぁ…………」
マントに包み込まれたままサラに抱かれていたメルエが、何とかマントからの脱出に成功し、胸一杯に新鮮な空気を吸い込む音が辺りに響いた。
予想以上に、サラの身体は強張っていたのだろう。力を込めて抱き締め過ぎた対象は、眉を顰めている。
「…………サラ………くる……しい…………」
「えっ!? あ、ご、ごめんなさい。メルエ、大丈夫でしたか?」
未だに虚空を睨んでいたサラの下からメルエの不満の声が聞こえ、サラはその腕に込めた力を緩める。少し息が楽になったメルエは、軽くサラを睨むように視線を動かした。
『むぅ』と頬を膨らませて睨むメルエの視線は子供らしい物で、周囲の空気が緩み始める。
「…………もう………いない…………サラ………きらい…………」
「え、えぇぇぇぇ!!」
顔を出したメルエの頬は軽く膨れ、サラから視線を外した後に呟いた一言は、サラに大きなダメージを与える物だった。
サラは、自分の恐怖の対象が去った事よりも、メルエの一言に盛大な声を上げる事となる。だが、メルエの改めての拒絶は、先程の物とは違い、どこか拗ねたような軽い物であり、理由が分からないまでもサラが自分の身を挺して護ろうとしてくれた事は理解出来ていたのであろう。
「何を騒いでいるんだ!?」
わたわたとするサラの後方からかかった声に、サラの胸の中にいたメルエの顔が上がり、もぞもぞと自分を拘束するサラの腕を外して、その声の下へと駆けて行った。
「あっ……」
駆けて行くメルエの方向をどこか名残惜しそうに見ていたサラだが、その方向にいた声の主であるリーシャが手に持つ、大きな獣を見て両目を見開いた。
駆け寄ったメルエは、リーシャの足に掴まる間際にその獣の存在を認識し、慌ててサラの腕の中へと戻って行く。
「ふふふっ……なんだ? メルエは、これが怖いのか?」
メルエとサラの反応を可笑しそうに微笑みながら、リーシャは手に持つ獣を高々と掲げる。その様子に尚一層怯えを増したメルエは、サラの腕の中ですっぽりとカミュのマントに包まってしまった。
「……そんな馬鹿でかい猪を、どう食べるつもりなんだ……」
声と共にリーシャの後ろから現れたカミュは、その手に果物を抱え、呆れたような表情を見せていた。
カミュの声に、再びマントから顔を出したメルエは、その手にある果物を見て嬉しそうな微笑みを洩らす。
「だから、最終的には丸焼きにでもすると言っただろう!」
「……丸焼きですか……?」
「…………メルエ………焼き…………?」
カミュに向かって怒鳴るリーシャに、先程までの鬱憤が残っている様子は見えない。純粋にカミュの言葉へ反論しているだけなのだろう。
カミュの考えに納得した訳ではない。だが、リーシャは、『カミュには自分の考えと他者の考えに大きな隔たりがある事を認識しているにも拘わらず、それでも自分の価値観を変える事が出来ない経験があるのだ』という事を理解したのだ。
「ば、馬鹿者! メルエを焼くか! この猪の毛を排除した後、そのまま焼くんだ」
「……そんなに食べられるのですか……?」
「……そこにいる大食漢である『戦士』様が平らげてくれる……」
「…………メルエ………いらない…………」
リーシャの申し出に三者三様の答えが返って来た。どれも、好意的な反応ではない。最後のメルエの言葉は、胸に突き刺さり、リーシャは顔を俯けてしまう。
しかし、その肩は小刻みに震え始めていた。
「~~~~!! お前達は……」
「調理を始めなければ、夜が明けるぞ」
三人の答えに、身を震わせながらも耐えていたリーシャは、カミュの声に諦めたような溜息を吐き、猪を解体する為に少し離れた場所へと移動して行った。
「メルエ、まだ食べては駄目ですよ」
「…………サラ………きらい…………」
カミュが置いた果物に早速手を伸ばそうとしたメルエに向かって、サラの小言が飛ぶ。対するメルエは、自分の手を止めるサラを睨み、再び頬を膨らませていた。
「……うぅ……嫌いでも駄目です。カミュ様がメルエを甘やかすからいけないのです!」
「……アンタは、何から何まで他人に責任を投げるのだな……」
予想外の方向転換にカミュは呆れたような溜息を吐きながら、何かを作っていた。
果物から目を外したメルエは、そんなカミュの手元を興味深げに覗き込む。横から出て来たメルエの頭を軽く押さえ、カミュの手は再び動き出した。
「…………なに…………?」
「ん?……ああ、まさか猪を丸焼きで食べる訳にはいかないからな……」
メルエの簡略化された問いかけにもカミュは手を休める事なく、言葉短めに答える。
傍にあった石で土台のような物を作り、その上に、先程果物と一緒に持っていた少し大きめだが薄く平らな石を載せる。
サラはテーブルを作っているのかと思ったが、四人で囲むには小さすぎるのだ。そして、上に載せられた石は、泥や埃などは付着していない。むしろ、洗ったためなのか全体が水で濡れていた。
石で組んだテーブルの下に、サラが拾い集めた木の枝を、薪を組むように置き、リーシャが置いて行った<たいまつ>から火を移す。石の下で燃え始めた薪の炎によって、上に載せられた石が徐々に乾いて行った。
時間が経てば、この石自体が熱せられ、触る事の出来ない程になる事は容易に想像出来る。それではテーブルとしての役割など担える訳がない。
「なんだ……何を拾って来たかと思えば、それを作る為の物だったのか?」
メルエとサラが、カミュの作り出した石のテーブルに見入っていると、猪の解体を終えたリーシャが割と薄めに切った猪の肉を持って現れた。
リーシャへと視線を移したメルエは、リーシャの手に血の跡が残っている事に身体を震わせ、カミュの背中に隠れてしまう。
「串に刺すしかないかと思っていたが、それなら焼く事が出来そうだな……となれば、何か野菜でも欲しいところではあるが……」
「リーシャさんは、これが何か分かるのですか?」
「…………」
石のテーブルを見て嬉しそうに頷くリーシャに、サラとメルエは小首を傾げながらその用途を問いかける事しか出来なかった。
作成を終えたカミュは、既に場所を離れ、焚き火の傍に腰を下している。リーシャはそんな二人の様子を見て、軽く微笑んだ後、言葉で答えを返さずに行動に移した。
猪の血であろうか、少し赤く染まった手で猪の肉を取り上げ、そのまま石の上に置いたのだ。まだ石全体が熱しきれてはいなかったが、リーシャが置いた猪の肉は、微かに焼ける音を発して煙を立ち昇らせる。
「……わぁ……」
「…………ほぅ…………」
焼ける肉の様子に、サラとメルエの二人は、それぞれの感嘆の声を上げた。
その様子に満足そうに頷くリーシャは、石の状況を確認しながら何枚かの肉を載せて行く。焼ける肉の音と、香ばしい香りに、メルエの身体はカミュのマントから出て来ていた。
「カミュ! 塩をくれ」
焼けてきた肉を見ていたリーシャがカミュに調味料を依頼すると、その方角から、小さな革袋に入った塩が放り投げられて来た。
塩を振り終わった肉を木の枝で挿しひっくり返す。それを何度か繰り返し、完全に焼けた事を確認した肉を、リーシャはサラの口に放り込んだ。
「!! ハフッ……ハフゥ……おいしいです!」
突然放り込まれた肉に、目を白黒させながら口を動かしていたサラが、飲み込むと同時に味の良さを満面の笑みで報告する。
「…………メルエも…………」
そのサラの姿を横目に眺め、メルエもリーシャに向かって口を開ける。その姿は、ひな鳥が親鳥に餌をねだる姿に良く似ていた。リーシャはそんな事を感じながら、焼けた一切れの肉をメルエの小さな口に、火傷をしないように入れて行く。
先程のサラと同じように、口に入った肉の熱さにモゴモゴと口を動かしながらも、何とか飲み込んだメルエもまた、その顔に笑みを浮かべるのだった。
あれほどあった猪の肉もなくなり、果物を食しながら一行は火を囲むように座る。メルエはリーシャとカミュの間に座り、満足そうに果物を頬張っていた。
「猪の肉は意外と美味しいものなのですね」
「…………おい……しい…………」
サラの言葉にメルエも同意を表わし、何かをねだるようにリーシャを見上げる。リーシャはメルエの視線が何を意味するのかは解らないが、満足そうなメルエの姿に顔を綻ばした。
「…………もっと………たべる…………」
「な、なに!?」
しかし、そんなメルエの口から出た言葉は、リーシャの予想の遥か上を行く物だった。
先程の食事では、リーシャ程ではなかったが、その小さな体では信じられない量をメルエは腹に納めていたのである。それが、まるでまだ食べ足りないとでも言うような意味の発言をするのだ。
「い、いや、もう猪の肉もない」
「…………リーシャ………とる…………」
やっと絞り出したリーシャの言葉にメルエは不満そうに頬を膨らましていた。
サラは、出会ってたった数日なのにもかかわらず、赤の他人であった自分達に我儘を言うメルエを不思議に思った。
いや、メルエは、それが我儘だと理解していないのかもしれない。自分の欲望を口にしても、怒鳴られる事もなければ、叩かれる事もない。それが、メルエの口を軽くさせていたのだろう。
「メルエ!!」
サラと同じようにメルエの我儘に苦笑していたリーシャの反対側から、今まで黙っていたカミュの声が響いた。
それは、珍しい程の声量であり、声を掛けられたメルエは身体を跳ね上がらせる。
「…………」
恐る恐るカミュの方に顔を向けるメルエが見たのは、今まで自分には向けた事のない表情をして自分をみるカミュの姿だった。
「メルエは、まだ腹が空いているのか?」
静かに語るカミュの言葉に、返答を否応なくされたメルエは、ゆっくりと首を横に振った。そのメルエの後ろにいたリーシャもまた、カミュの瞳に吸い込まれていくような感覚に包まれる。
唯一人、カミュが何を話すつもりなのか、それを聞き逃すまいと、サラは次の言葉を待っていた。
「……ならば、メルエは魔物以下の存在だな……」
「!!」
カミュが次に発した言葉に、三者三様の驚きがあったが、三人が同時に感じた感情は絶望であったのかもしれない。
この世界で、魔物以下となれば、それこそ生きる価値のない者であり、ルビス信仰の中では、存在自体が許されざる者となる。何度輪廻転生を繰り返しても、決して許される事のない者であるという事なのだ。
「…………???…………」
「メルエ、魔物が人間を食す事は知っているな?」
メルエは、カミュに怒られる事を覚悟して、怯えた目を向けながらもこくりと頷いた。それを見たカミュは、話の先を続けて行く。
メルエの眉は下がり、怯えるような表情を見せながらも、自身の着ている薄汚れた<布の服>の裾を強く握っていた。
「魔物は人間を食べる。だが、それは自分の食欲を満たす為だけだ。腹が減った時に人間を襲い、それを食す。基本は必要以上の人間を襲わない。必要以上に人間を襲うのは、知能のある魔物だけだ」
「…………ち……のう…………?」
メルエが予想していたような怒鳴り声ではなく、ましてや手を出す事のないカミュの話をメルエは聞き入る。
メルエの中では、相手を怒らせた時は、抵抗する事は無駄だと認識されているのかもしれない。それ程に、メルエの表情に変化が見えていた。
「ああ……知能や理性があり、人間を襲う事に愉悦を感じるような魔物だ。自分より弱い者を自己の楽しみの為だけに虐殺するような者。まあ、俺もそんな魔物はまだ見た事はないがな」
「……」
知能のある魔物。それを想像する事は今のリーシャ達には難しい事だった。
アリアハンを住処にする魔物達のほとんどは、本能のまま『人』を襲っていた。それは、カミュの言う通り、食料として『人』を襲っている事に他ならない。
アリアハン大陸の中で上位に位置する<魔法使い>と呼ばれる魔族にしても、高い知能は持っておらず、本能のまま『人』を襲っているのだ。
「メルエ、それは人間にも言える事だ。メルエが腹を空かせているのだとすれば、食料の為に獣を捕って来よう。しかし、それは違う筈だ」
カミュの真剣な眼差しに、メルエは黙って首を縦に振る。
空腹を訴えている訳ではない。
初めて味わった肉の味と、初めて自分の欲求に応えてくれる人。その二つに、メルエの心は浮かれていたのだ。
「それでもメルエが獣を捕って来いと言うのならば、それは、ただ単に獣の命を弄んでいるだけだ。人間の中にも、自分よりも弱い相手をいたぶり殺す者もいる。メルエはその部類の人間なのか?」
「…………ちが………メルエ………ちがう…………」
もはや、メルエの瞳には涙が溜まり始めていた。
自分が言った事がどれ程の事なのか、それを完璧に理解した訳ではない。ただ、自分が考えもせずに発した言葉が、いけない事だったのではないかという思いを持った事だけは確かであった。
「メルエ……メルエも俺も、自分が生きる為には、何かを食べなければならない。しかし、それは何処かで必死に生きようとしている者の命を奪っているという事だ。何時か、逆に自分が誰かの食料として命を奪われる時が来るかもしれない。それは憶えておいてくれ」
一つまた一つと、メルエの目から涙が頬を伝って行く。それでもメルエは唇を噛みしめ、気丈にもカミュの目を見て頷くのであった。
カミュもメルエの瞳を見て、自分の中にある想いを伝えようとしている。それは、本当に珍しい光景であった。
「……メルエ……おいで」
涙を流し、肩を震わせながらも、カミュに向かって頷くメルエの後ろ姿を、痛々しく見ていたリーシャが、カミュの口がもう開かない事を確認し、メルエを自分の下へと導く。
緊張で硬くなった身体を振り向かせ、リーシャの胸の内に顔を埋めたメルエは、ようやくその緊張を解き、すすり泣くように嗚咽を漏らした。リーシャは、自分の胸に顔を埋めるメルエの短く刈り揃えた茶色い髪の毛を優しく撫でる。
サラはそんな一連の出来事を見ていて、昔、アリアハン城下町で見た事のある親子の図式を思い浮かべた。
悪戯をし、父親に怒られ泣いている子供を母親が優しく慰める。そんな図式だ。
カミュが話していた事は辛辣な内容なのにも拘わらず、この場の空気はとても優しい物であった。唯一人、魔物は悪と信じきっている女性を除いて。
「カミュ様! では、何故貴方は魔物を殺しながら『魔王』の討伐に向かっているのですか? カミュ様のお考えでは、魔物に食料として襲われた人間は、諦めるしかないという事になります」
場を満たしていた優しい空気を切り裂くようなサラの声が響く。だが、カミュもリーシャも驚く様子はない。
まるで、サラの発言を予想していたかのように、動じる事はなかったのだ。
「カミュ様の言い分では、『魔王』を倒す意味がありません。今のまま、魔物の横行を許し、人々が襲われても構わないと言っているのと同じです! ならば、何故カミュ様はアリアハンを出たのですか!?」
サラの声は、アリアハンを出て初めての夜にカミュと口論した時のように激しい物へと変わっていた。
ここまでの道程、リーシャが我慢して来たのと同じように、サラもまたカミュの価値観を認められず、内に溜めていた物も多かったのだ。
『魔物も人間も、命を食し生きている事に変わりはない』
『その対象が、人間か獣かの違い』
カミュはそう言っているのだ。
サラにとっても、ロマリアの闘技場で見た魔物同士の戦いは、『人』による魔物の命の弄びに見えなくもなかった。だが、魔物達は人間を襲っているのだ。
サラの中で『自業自得』という言葉を使い、その気持ちを抑えるようにして来た。
また、サラはこの旅が始まってから、教会の中だけでは決して見えない物を見る事が多かった。
それは、決して良い物ばかりでなく、サラの価値観に大きく影響を及ぼす程の物。だが、人の考えなど簡単には変える事は出来ない。今まで、その考えの下に形成して来た自分自身をも否定する事になるからだ。
故にサラは葛藤している。それが、カミュへの問いかけにもなっているのだろう。
サラが立ち上がり、その拳を握り締めながら叫ぶ姿を静かに見つめながら、カミュはようやくその重い口を開いた。
「……俺には、生きて行く為の選択肢が許されてはいなかったからな……」
「!!」
それは、聞き逃してしまいそうなほど小さな呟きで、カミュの口から出た途端に目の前の炎の中に吸い込まれて行く。だが、その小さなカミュの呟きは、確かにこの場にいた全員の耳に聞こえていた。
「カ、カミ……」
「明日も早い……もう休め……」
尚もカミュに語りかけようとするサラの言葉を遮って、カミュは火の傍に身体を横たえた。それは、この話題の終了を意味している。
リーシャの腕の中のメルエも、泣き疲れてしまったのか、いつの間にか寝息を立てていた。
リーシャとサラのそれぞれが、別々の複雑な想いを抱いたまま、夜は更けて行く。
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