新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ラダトーム王都①

 

 

 

 リーシャ達と合流したメルエは、その功績を大いに讃えられ、賛辞の言葉を浴びる程に貰う事となった。その小さな身体を抱き締め、頬擦りをするように褒め称える言葉を投げかけるリーシャに、メルエは花咲くような笑みを浮かべる。

 そんな二人の様子に笑みを浮かべていたサラであったが、即座に顔を引き締め、戻って来たカミュへと視線を向けた。

 

「私達が居た世界の魔物とは根本的に異なるのかもしれません。あれ程の魔物が相手となれば、人間では一溜まりもありませんね」

 

「向こうの世界の上位に位置する強さを持つ魔物が当たり前のように存在するのだろう」

 

 サラの言葉を聞くと、カミュやメルエは人間ではないようにも聞こえる。実際に、サラは最早自分達が通常の人間という枠では納まらない存在であるという事を認識しているのかもしれない。

 メルエの放ったメラゾーマという魔法一つを取ってみても、魔族の上位に位置する者にしか行使出来ない物である。魔王バラモスという魔族の頂点に立つと考えられていた者が行使していた呪文であるし、ここまでの旅でそれを行使した者を見た事がないという事がその信憑性を高めていた。

 更に言えば、カミュという青年は、その魔王バラモスの首を落とした勇者であり、この世界に生きる者達の中でも最上位に括られる強さを持つ者である。最早、それは人間としての枠ではなく、魔族やエルフと同格かそれ以上の存在であろう。

 その青年よりも武器の扱いに長け、模擬戦でも不敗であるリーシャも同様であり、魔族しか行使出来ない呪文を操る少女の師であるサラもまた既に人間という枠では納まらないのだ。

 

「カミュ、このまま行くのか? 真っ直ぐ平原を東に進むとはいえ、ここまで日が暮れていては危険ではないか? 先程の魔物を見る限りでは、この世界の魔物達はどれも強力だと言わざるを得ないぞ」

 

「そうだな……近くの森で一泊しよう」

 

 リーシャの言う通り、このアレフガルドの地は夜の闇に閉ざされている。アレフガルドに来る際のあちらの世界は陽が落ちる直前であった為、時間的な感覚は繋がっているのかもしれないと考えた一行は、近場にある森の入り口で野営を行う事にした。

 アレフガルドという名の大陸に辿り着いてすぐに大きな戦闘を立て続けに行った事により、疲れていたメルエはリーシャの膝元で即座に眠りに就く。焚き火の炎に乾いた小枝を投げ入れたカミュは、一度空を見上げて眉を顰めた。

 

「月も星も見ないが、それを覆い隠している雲さえも見えないなど、変な空だな」

 

「そうですね……夜というよりは、闇というか」

 

 カミュの視線の先へと瞳を向けたリーシャは、空の奇妙さを口にする。確かに、空を覆う雲も無いのにも拘わらず、輝いている筈の月も星もない。元々、この世界に月が無いという可能性もあるが、どうにも奇妙な空である事はサラの言葉通りであろう。

 夜の帳というよりは、闇の支配が進んでいるという印象を受けるその空は、カミュ達三人の心に圧迫するような不安感を与えて行く。『早急に何とかしなければ、この世界は終わる』とさえ感じるその感覚は、彼らが歩んで来た四年以上の旅の経験から来るものなのかもしれない。

 

「とにかく眠っておこう。私とカミュで火の番をするから、サラは朝まで休め」

 

「はい。すみません、お願い致します」

 

 いつもの事ではあるが、火の番の役目はカミュとリーシャとなる。アリアハンを出た当初は、魔物との戦闘を単独で行う事の出来ないサラを火の番にする事の危険性を考えた物であったが、今ではその理由は大きく異なっていた。

 サラやメルエは、その身体の内に宿す魔法力で戦闘を行う者達である。メルエとは異なり、今のサラであれば、ある程度の魔物を単独で倒す事が出来るだろう。だが、それでも魔法という神秘に比重を置く戦闘を行う事に変わりはない。そして、魔法力とは精神力であるという事実がある以上、彼女達にはしっかりとした睡眠と食事が絶対不可欠であるのだ。

 カミュもいくつかの呪文を行使するが、それが中心となる戦闘を行う訳ではない。彼の場合、剣を中心に補助として呪文を行使する形態である。ライデインのような一撃必殺の呪文であれば別であるが、それ程の使用頻度ではない以上、サラやメルエとは大きく異なるだろう。

 

「カミュも先に休め」

 

「わかった頼む」

 

 最初の番はリーシャとなり、森の入り口でカミュもまた眠りに就く。数刻の後に起こされる事を考えると、休める時にしっかりと身体を休めておく必要もあり、カミュは身体を横たえてすぐに深い眠りへと落ちて行った。

 その後、リーシャに起こされたカミュが火の番を交代し、夜明けまでの火の番を行う事になる。カミュ同様、横になったリーシャは即座に深い眠りへと落ちて行った。

 彼等二人の間には、既にお互いを強く信じる信頼感が構築されている。深い眠りに落ちても、相手に任せる事の出来る安心感というのは、並大抵の物ではない。それだけ過酷な旅を続けて来ている彼らが、今まで夜に魔物の襲撃を受ける事があっても無事でいられたのは、そんな二人の信頼感があってこそなのかもしれない。

 

 

 

 どれだけの時間が経過しただろう。深い眠りに就いていたリーシャが自然に目を覚ます。四年の長い旅路の中で、彼女はそれ程長い眠りを必要とはしなくなっていた。宿屋のような場所の暖かなベッドで眠る場合は別だが、野営時には短い時間で深く眠るという習性に慣れてしまっていたのだ。

 瞳を開け、身体を起こしたリーシャは奇妙な感覚を覚える。しっかりと眠り、身体に疲れは残っていないのだが、周囲が未だに暗い。夜の時間が続いているかのように深い闇に閉ざされた森の中で、近くにある焚き火だけが赤々と燃えていた。

 その焚き火の前に座りながら、空を見上げている青年が居る事に安堵したリーシャは、彼がいつも以上に難しい表情を浮かべている事に気付き、その対面に座る為に立ち上がった。

 

「どうした?」

 

「……夜が明けない」

 

 空から視線を動かさないカミュの対面に座ったリーシャの問い掛けは、予想以上に深刻な声によって返される事となる。眉を顰めながら口にした彼の言葉は、とても短いながらもかなり深い懸念を含んだ物であった。

 火の番を交代で行っているとはいえ、大抵は一度の交代で太陽が顔を出す事が多い。季節によって、陽の落ちる時間と昇る時間に差があるとしても、太陽の欠片が薄く顔を出す事で、周囲に陽の光が届き始めるものであった。

 だが、この場所では一切その傾向が見えない。薄暗いという次元の問題ではなく、完全なる夜なのだ。いや、月の光も星の輝きも無いこの場所は、夜ではなく闇なのかもしれない。そして、カミュの言葉通りであるならば、この場所は常に闇の中にあるという事になる。それは、異常であった。

 

「……闇に閉ざされてしまったアレフガルドか」

 

「それは、あの小屋に居た父親の言葉か?」

 

 カミュが呟いた言葉は、リーシャの言う通りにあの孤島に居た男性の言葉である。上の世界から来た人間にこの場所を説明する時に用いた物であるが、よくよく考えればかなり不穏な言葉を含んだ物であった。あの時は、今の現状を把握しきれていなかった四人にとって、『アレフガルド』という地名の方が優先された為に流されてしまったが、『闇に閉ざされてしまった』という前置きはこの世界を表す物であったのだろう。

 元々闇の世界であった訳ではない。暗い夜が続く世界であった訳でもない。それは、何者かによって闇で閉ざされてしまったという事実を口にした物であった。

 それが可能な者となれば、思い当たる存在は一つしかない。

 大魔王ゾーマである。

 

「この状態が何十年、何百年と続いているのか?」

 

「いや、長くても数年程度だろう」

 

 この現状を生み出した者に思い当たったリーシャは、表情を怒りに染めながらカミュに問い掛ける。闇の世界の支配者であり、全てを滅ぼす者と自称する大魔王の脅威が数十年、数百年と続いているのだとすれば、この世界は魔物の巣窟となっていても可笑しくはない。それにリーシャは憤っていた。

 だが、カミュの考えはリーシャとは異なっているようである。それを示すように静かに首を横へ振った彼は、そんな二人に近付いて来る者へ視線を動かした。必然的にリーシャも彼の視線を追う様に首を動かす。

 

「カミュ様のおっしゃる通りだと思います。太陽の恵みが無ければ、命は育ちません。草花も穀物も育ちませんし、それを食する動物達も生きては行けないでしょう。もし、備蓄があったとしても、人間とて闇が支配する世界でどれ程の期間生き延びれる事か……」

 

 リーシャ達の会話によって目を覚ましたのは一行の中で思考する者としての立ち位置を持った賢者であった。もしかすると、彼女は眠りに就く前にこの可能性を考えていたのかもしれない。月や星も浮かばぬ空は、彼女の中の思考を大きく動かしていた。

 彼女の言葉通り、太陽の恵みというのは、大地で生きる者達にとって必要不可欠の物である。太陽の光が届かなければ、この世で生を受けた者達は皆死に果てるだろう。即座に死に果てる訳ではないだろうが、大地に根付く物達が何年も太陽の恵み無しに行き続ける事など出来はしないのだ。

 

「数年でも厳しいと思います。このまま行けば、私達人間どころか、草花や動物達、それに魔物の一部でさえも生きては行けません」

 

「全てを滅ぼす者か……大魔王ゾーマは、この世の全てを滅ぼすつもりなのか?」

 

「さぁな。だが、ゾーマを倒さなければ、この世界の全てが滅びる事だけは確かのようだ」

 

 大魔王ゾーマの目的など理解する事は出来ない。だが、全てを闇に包むという事は、全ての生物の生存を認めないという事になる。草木の生存も、それを食す動物も、そして人間や魔物であろうと、根絶やしにされる事と同意であった。

 淡々と事実だけを語るカミュの言葉に、当代の賢者は明確な怒りを示す。それは感情を込めて話さない青年ではなく、それを成そうとする諸悪の根源に向けた怒りである。全ての生物の幸せを願い、それぞれが共存共栄出来る世界を目指す彼女にとって、どれか一つの種族の繁栄という物でさえも既に認められる物ではないのだが、全生物の滅亡など有ってはならない物なのだ。

 

「行きましょう。魔王バラモスの時よりも時間に余裕はありません。急ぎラダトームのお城へ向かいましょう」

 

「そうだな。メルエを起こすか」

 

 今は、ここであれこれと語り合う時ではない。サラの言葉に頷いたリーシャは、未だに夢の中にいる幼い少女を起こす為に立ち上がる。カミュのマントに包まったまま身動き一つせずに寝息を立てる少女に笑みを浮かべながら、その身体を軽く揺すった。

 何度か揺すられた事で、微かに瞼を開いた少女は、ゆっくりと起き上がりながら目を擦る。まだ眠そうに小さな欠伸をした彼女は、寝ぼけ眼で周囲へと首を動かした。

 

「…………むぅ………くらい…………」

 

「そうだな。だが、これはまだ夜という訳ではないようだ。だから、メルエも起きてくれ」

 

 周囲を包む暗闇を見たメルエは、『まだ夜ではないか?』と不満を口にする。余程の強行でない限り、一度寝てしまえば朝まで起こされないという経験を持っている彼女にとって、夜を感じる闇の中での起床は不満を感じる物なのだろう。そんな幼い我儘に苦笑を浮かべながら、リーシャは現状を簡単に伝えようとする。要領を得ない物言いではあるが、幼いメルエにもこの状況が夜から来る闇ではないという事だけは伝わったようだ。小さく頷いた彼女は、マントを抱き抱えながら起き上がる。

 メルエから手渡されたマントをカミュが身に着けた事によって、出立の準備は完了した。

 

「見渡す限り平原だ。海から真っ直ぐ東へ進めば良いのだろう?」

 

「言っている事は正しいが、間違ってもアンタは先頭に立ってくれるな」

 

 この世界の地図などを持っている訳ではない。現在、彼等自身がこのアレフガルド大陸の何処にいるのかさえも解らない中、唯一の情報が真っ直ぐ東に向かった先にラダトームの王都と城があるという物だけであった。

 メルエの手を握ったリーシャが、場の雰囲気を変えるように陽気な声を出すが、それは先程よりも明らかに眉を顰めたカミュによって斬り捨てられる。難しい思考に陥っていたサラでさえ、思わず噴出してしまう程に間髪入れない返しは、陽気を装っていたリーシャの言葉を喉に詰まらせ、表情を強張らせた。

 

「……道を間違えた時は、覚えていろよ」

 

 恨めしげに呟かれたリーシャの言葉を無視し、カミュは海を背にして真っ直ぐに歩き始める。正直、地図も無く、目印となる太陽も無いとなれば、己の培って来た方向感覚しか信じる物はなく、カミュ以外に先頭を歩ける人物がいない事も確かであった。

 怒り心頭のリーシャの手から離れたメルエはカミュの後ろを歩くサラと手を繋ぎ、その後ろで溜息を一つ吐き出したリーシャが続く。緊迫した状況から始まったアレフガルドの旅は、いつの間にかこれまでの旅と同じ雰囲気に変化していた。それは、彼らが共に歩み続けて来た時間が成し得る技なのだろう。

 

「やはり、太陽の光がないからなのか、何処か物悲しい雰囲気ですね」

 

「ああ、街道からは離れているのかもしれないが、他の人間とすれ違う事さえもないな」

 

 森の入り口から離れ、広く広がった平原を歩く中、サラは周囲の雰囲気に呑まれていた。闇が広がるばかりで、明かり一つない。今は先頭のカミュと最後尾のリーシャが手にする『たいまつ』の明かりがあるが、本当に自分の周囲以外は照らす事は出来ず、少し離れた場所などは漆黒の闇に包まれていた。

 人一人歩いては居ない平原は何処か物悲しい雰囲気が漂っており、まるでこの世界に自分達しか存在していないのではという錯覚にさえ陥る。気温はそこまで低くはないが、吹き抜けて行く風がその寂しさを強め、サラは自分の傍にメルエやリーシャが居る事に安堵する程であった。

 

「カミュ、前方に明かりが見えているぞ」

 

 通常であれば、昇っていた太陽が西へと沈みかける程に時間が経過する頃、何度かの休憩を挟んで歩き続けて来た一行の前に人工的な明かりが見えて来る。まだ少し離れている為か、まだ明かりが少し暈けてはいるが、それが王都の灯りである事は確かであろう。

 その先に続く道の確認の為に『たいまつ』を前方へと向けたカミュは、ここでようやく何かが前方に近づいている事に気付く。素早く剣を抜き放ったカミュを見て、サラやリーシャも戦闘態勢へと入って行った。

 

「……スライムか?」

 

 しかし、前方に現れたそれは、カミュ達が脅威を抱く程の物ではなかった。

 アリアハン大陸に生息する最弱最古の魔物。それと形状を同じくしながらも、体躯を模るゲル状の部分の色が異なる魔物であったのだ。

 その魔物が発する雰囲気から力量を察したカミュは、剣を握る手の力を抜く。同じようにリーシャも斧を構える事を止め、背中へとそれを戻してしまった。魔物を前にしての行動としては異例ではあったが、賢者であるサラでさえ息を抜いてしまう程に、目の前の魔物の力量は低いと考えられた。

 だが、それはやはり愚行であったのだ。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「あっ、メルエ!?」

 

 サラの手を握っていたメルエが、目の前に現れたスライム系の魔物を見てカミュよりも前に出てしまう。通常の戦闘であればメルエであっても絶対にしない行動であるが、彼女の中にあるこの形状のスライム族の印象はランシールの神殿前に居た物しか残っていないのだ。

 実際には、ガルナの塔やダーマ神殿付近に生息したメタルスライムを見てはいるが、あの頃のメルエの体調は芳しくなく、それよりも後で出会った言葉を話すスライムの印象が強かったのだろう。幼い彼女の中の残る公式として、『スライム=話す』という構図が出来上がってしまっていても不思議ではなかった。

 同じスライム族でもはぐれメタルなどの形状は通常のスライムとは掛け離れており、目の前に現れたスライムを敵として認識出来なかったのだろう。また、カミュ達がそのまま武器を納めてしまった事も大きな要因の一つであった。

 

「…………ふふふ…………」

 

 呆気に取られて行動が遅れてしまったカミュ達をすり抜け、スライムの前に座り込んだメルエは、小さな笑みを浮かべながらその体躯に触れようと指を伸ばす。独特の感触が楽しかった事を覚えている彼女は、再びそれに触れる事に満面の笑みを浮かべていた。

 しかし、このスライムは、古の賢者と出会い、知識を与えられた異端の物ではない。大魔王ゾーマの魔力に当てられ、内に秘めた凶暴性を露にした魔物なのだ。そのような魔物が幼い少女の指を大人しく受け入れる筈がない。

 

「ピキュ――――」

 

「…………ふぎゅっ…………」

 

「メルエ!」

 

 奇声を上げたスライムは、屈んだまま指を差し出したメルエの顔面に吸い込まれ、そのまま身体ごと体当たりをする。顔面にスライムの体躯を受けたメルエは奇妙な声を上げ、後方へと尻餅を突いてしまった。

 突如動き出した魔物の動きにリーシャは叫び、『たいまつ』を持ったままメルエの傍へと駆け出す。カミュやサラもその後を追うが、二人の表情はリーシャのように鬼気迫るような物ではなかった。歳の離れた妹の行動に呆れながらも何処か諦めたような感覚さえ感じる。

 そんな二人の表情の理由は、リーシャがメルエの身体を確認するように近付いた頃に明らかとなった。

 

「…………むぅ…………」

 

「ピキュ―――」

 

 鼻を押さえながら起き上がったメルエは、『怒ってます』という事を示すように頬を膨らませ、威嚇するように奇声を上げるスライムを睨み付けたのだ。

 そんな幼い少女の姿に唖然とするリーシャは、後方で溜息を吐き出すカミュとサラへと顔を向ける。しかし、彼女の視線を受け止めたサラは、静かに首を横に振るのだった。

 むくれるメルエと対峙するスライムは、『たいまつ』の灯りを受けてその全貌が見えている。アリアハン大陸に生息する最弱最古の魔物と大きさは同等。牙を生やしている訳でもなく、触手が生えている訳でもない。唯一異なる物と言えば、その体躯の色だけであろう。アリアハンに生息するスライムは透き通るような青色をしているジェリー状の生物であるが、アレフガルドに生息するそれは、赤い色としていた。

 『たいまつ』の乏しい灯りで照らされている為、どす黒い赤色をしているように見えるが、もし太陽の光を浴びれば、透き通るような明るい赤色の体躯をしているのだろう。頼りなげに揺れるその体躯は、本来であれば幼子など容易に破壊し、その上に覆い被さる事でその身を溶かして食す事が出来る筈であった。

 

<スライムベス>

アレフガルド地方に古来より生息する魔物である。何故かこの大陸にしか生息する事が出来ず、他の大陸や地方では存在しない。基本的な性能は最弱最古のスライムとそう変わりは無く、多少体力が上であるというだけであった。体躯の色はスライムとは対極に位置する赤色をしており、それは溶解した人間の血液が体内に浸透した為だと考えられ、アレフガルド地方でも忌み嫌われる魔物である。単体では弱い為、人を襲う時などは群れで行動する事も多く、アレフガルド地方では脅威である事に変わりは無かった。

 

「…………メルエ………おこる…………」

 

「ピキュ―――」

 

 『むぅ』と頬を膨らませ、多少赤くなってしまった鼻先を撫でながら涙を溜めていたメルエは、叱るようにスライムベスへと声を掛ける。自分がリーシャやサラに叱られる時と同じように、上から見下ろすような視線を送ったメルエに対し、スライムベスがもう一度体当たりを開始した。

 慌てて斧を手にしたリーシャをカミュが止め、再び呆れた様子のサラが、小さく『後でメルエも叱らないと駄目ですね』という言葉を呟く。護らなければならない対象であるメルエの危機に行動を止めるカミュへ鋭い視線を向けたリーシャであったが、二度目の体当たりを受けて転んだ筈のメルエがもう一度起き上がったのを見て安堵の溜息を吐き出した。

 

「今更、スライムがどうにか出来る相手ではないだろう?」

 

「メルエの内包する魔法力は、出会った頃とは比べ物になりません。それを活動の原動力とするメルエにとって、スライム程度の攻撃で傷を受ける事はありませんよ」

 

 メルエの行動に一喜一憂するリーシャに対し、カミュは呆れた呟きを漏らし、それを補うようにサラは説明を加える。自身に魔法力を具現化する能力の無いリーシャにとって、メルエは尋常ではない呪文を行使する事は出来ても幼子なのであった。その魔法力を体力へ変換していると言われても、実感は出来ないのだろう。

 しかし、常にカミュやリーシャやサラに護られているメルエとはいえ、その内なる成長は群を抜いている。出会った頃から圧倒的であった魔法力の量は、更にその量を増やし、今やサラでも目を見張る程の制御力を持っていた。それが力自慢の魔物や、鋭い牙を持つ魔物であれば別であるが、スライムのような魔物では彼女に傷一つ付ける事は叶わないのだ。

 

「…………むぅ…………」

 

「ピギャ」

 

 起き上がったメルエは、尚も飛び掛ろうとするスライムベスを小さな拳で殴りつける。飛び上がった力を逆に返されたスライムベスは、奇妙な声を上げて地面へと叩きつけられた。更に、持っている雷の杖でスライムベスの身体を殴りつけた事で、魔物は完全に目を回してしまう。

 動かなくなったスライムベスを見たメルエは、まるで勝ち名乗りを上げるように胸を張り、大きく息を吐き出した。幼い少女の完全勝利であり、魔法以外での初勝利の瞬間である。

 雷の杖での一撃を受けてもスライムが生きている事を見る限り、メルエの中でもある程度の手心を加えていたのだろう。メルエの持つ雷の杖は、本来は彼女以外が持てない程の重量がある。それが本来の重量なのか、杖自体が自在に重量を変化させられるのかは解らないが、その武器での一撃は、スライムなど容易に叩き潰す事は可能であった。

 それでも彼女はスライムベスの命を奪う事を良しとはしなかったのだろう。そして、主のその意志を汲み取った雷の杖が、故意的に力を弱めていたのかもしれない。それは、目を回すスライムベスを暫く見ていた少女が、少し心配そうに眉を下げ、再びその魔物の前に屈み込んだ事からも窺えた。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「メルエ、今はこのスライムさんとはお話は出来ません。大魔王ゾーマが居る限り、悪いスライムさんのままだと思いますよ。いつかきっと、またスライムさんとお話が出来る日が来る筈です」

 

 不安そうな瞳を向けるメルエの肩に手を置き、サラはその優しい心を労わるように言葉を紡ぐ。本来は、ランシールの神殿近くに居たスライムが特殊な存在であり、通常のスライムは人間と会話などは出来ない。そして、人間を食料とする魔物が人間を襲うのは自然の摂理であり、その善悪に関しては、人間目線では語れない事も事実であった。

 そのような事はサラも理解しているの筈である。しかし、大魔王ゾーマの存在が、この世界の魔物達の凶暴性を上昇させているというのも事実なのだ。人間を食料として襲う事はあっても、見境無く襲い掛かる程、魔物達も知能が低い訳ではない。むしろ本能が強い分、自分達の縄張りから出ないという性質の方が優先されるだろう。

 故に、メルエにも解り易いようにそれを伝える。大魔王ゾーマが消滅しても、魔物であるスライムベスと交流が出来るとは限らない。それでも、大魔王ゾーマを討ち果たさない限り、そのような夢の日は永遠に訪れる事はないのだ。

 

「そうだな。今はまだ、その時ではない。メルエの心が、スライムや他の魔物にも届く日が必ず来るさ」

 

「…………ん…………」

 

 未だに目を回しているスライムベスを哀しそうに見つめたメルエは、リーシャの言葉に小さな頷きを返した。

 もしかすると、ここまでの旅でも、この少女は魔物の命を奪う事に抵抗を感じていたのかもしれない。それでもカミュ達が剣を抜く以上、その相手は自分の大切な者達を傷つける可能性を持つ存在であり、それを許す事が出来ないからこそ、彼女はその杖を振るい続けて来たのだろう。本来は、全ての動物達と同じように、その背を撫でたり、会話をしたり、穏やかな時間を共にしたいと考えているのかもしれない。

 そんな優しい心を持ち続ける彼女を見たサラは、心からの笑みを浮かべ、その手を取って歩き出す。既に先頭のカミュは『たいまつ』を掲げながら歩き出していた。残念そうにスライムベスを見つめるメルエの後方をリーシャが歩き、再びラダトームの王都に向かっての道を辿り始めた。

 しかし、そんな優しい時間は何時までも許されない。

 

「さて、メルエ」

 

「…………??…………」

 

 自分の手を引いてくれていたサラが顔をメルエへと向けた事で、少女も顔を前方へと戻す。何処か不穏な雰囲気を醸し出すサラを見たメルエは少し小首を傾げた後、躾役である女性の真剣な瞳を見て不安そうに眉を下げた。

 幼い彼女であっても、『これは叱られる前兆だ』という事は肌で感じたのだろう。何とかリーシャの許へ逃げようとするが、その手はしっかり握られていて逃げる事は出来ない。救いを求めるように振り向いた先では、逃げ場と決めていた女性戦士も表情を厳しい物に変えていたのだった。

 

「メルエ、まさかとは思いますが、ピラミッドでリーシャさんに叱られた事を忘れてしまったのですか?」

 

「…………わすれて……ない…………」

 

 最早、逃げ場は何処にもない事を理解したメルエには、静かに始まったお説教の時間を甘んじて受け入れるしか残されていなかった。

 がっくりと肩を落とすメルエは、逃げ場を残しながらも罪悪感を促すような厳しい詰問に小さな呟きを持って答えて行く。その一つ一つの答えに続く小言が、スライムベスの攻撃でも怪我を負わなかった少女の心を抉って行った。

 それを眺めながらリーシャは苦笑を浮かべ、メルエからの救いの視線を無視するようにカミュは黙々と前方を歩き続ける。今の彼女には、誰一人味方はいなかった。

 

 

 

 お説教の時間は終わり、サラに手を引かれながらとぼとぼと歩くメルエを連れ、一行はようやくラダトームの王都だと思われる場所へと辿り着く。夜の闇に浮かぶ数々の灯りは、この場所に数多くの人間が暮らしている事を示していた。

 王都へと続く門の前に立ったカミュは、後方の三人に確認の視線を送った後、詰め所の窓口に向かって声を掛ける。中から顔を出した中年の兵士が、奇妙な組み合わせの一行を訝しげに品定めを始めた。

 どれだけカミュ達が人知を超える力を有していたとしても、彼らを知らない人間から見れば、彼等の組み合わせは奇妙な一団にしか見えないだろう。歳若い青年が一人で他は女性、尚且つその一人は年端も行かない少女である。誰がどのように見ても、数多くの魔物を打ち倒して来た者達には見えない筈であった。

 

「……上の世界と呼ばれる場所から来ました。この世界で暮らす為、ラダトーム国王様にお許しを頂ければと思っております」

 

「また上の世界からか……大変だったな。少し待っていろ、門を開けるから」

 

 訝しげな門番は、カミュの口にした内容に納得したのか、門を開ける為に姿を消す。あの孤島に居た親子でさえ、上の世界から来た人間と多く会っているのだ。全くの異世界へ足を踏み入れた者が向かう場所となれば、その世界の中心にある都市と相場は決まっており、この門番も多くの難民を受け入れる為に門を開いて来たのだろう。

 大手門の横にある小さな勝手口のような扉が開かれ、そこから顔を出した門兵が周囲を注意深く見渡す。手に持っている『たいまつ』で周囲を照らしているが、乏しい灯りでは遠くを確認する事は出来ず、かなり慎重に外へと出て来た。

 

「さぁ、早く入りな。最近は、この闇も濃くなって来て、魔物達の凶暴化も酷くなっている。一匹でも中に入れてしまえば、大変な事になるからな」

 

「ありがとうございます」

 

 カミュ達四人を素早く中へ入れると、扉を即座に閉めた門兵は鍵を掛ける。確かに、巨大な大手門を開いてしまえば、それを閉じるまでに時間が掛かってしまう。その間に近付いて来た魔物が王都の中に入ってしまえば、大惨事となるだろう。もしかすると、このラダトーム王都の大手門は数年間開かれてはいなかったのかもしれない。王都の中へ入ると、門番は城までの道をカミュ達に伝え、そのまま詰め所へと戻って行った。

 カミュ達は、一国の王都としては、かなりの広さがある町を眺める。大手門からすぐ左手には、武器と防具の看板を下げた店が見え、右手には宿屋が見えていた。奥へと続く大通りは石畳で舗装されており、ラダトーム王国の財政に余裕があった事を物語っている。

 

「……活気がありませんね」

 

「流石に何年も夜が続き、あのゾーマの脅威を肌で感じていれば仕方もないか」

 

 この一行の中で、大魔王ゾーマと相対した事のある者は、リーシャ唯一人である。彼女だけがゾーマの脅威を肌で感じており、その恐ろしさを身を持って味わっている。自分自身の事を過信してはいない彼女ではあるが、それでも一般の人間よりも胆力はあると考えているのだろう。その自分が、足を竦ませてしまった程の存在の脅威を感じ続けている者達に活気を持てという事が無理な話であると考えていた。

 確かに、夜が続けば、人々の生活の調和も崩れて行く。夜寝て朝起きるという通常の生活が出来ない以上、その中での規則正しい動きは無理であった。更に言えば、夜の闇に閉ざされていれば、明かりを灯す必要がある。そしてそれには経済的な費用が必要となり、それを捻出し続ける事は負担にもなるだろう。

 

「カミュ、先に防具屋へ行かないか? 私もお前も盾が心許ない。この世界の魔物達が今まで以上の強敵であった場合、鱗を失ったドラゴンシールドなど、只の板切れだぞ?」

 

「そうだな」

 

 周囲を見回した一行の中で、リーシャが口を開く。自らが左腕に装着している盾を掲げてカミュへと見せるが、それは既に盾とは呼べない代物になっていた。その惨状を目にしたサラが顔を顰める。

 魔王バラモスとの戦いは、熾烈を極めた。メルエ以外の全員が死を覚悟する場面があり、その身を護る防具が無ければ、今この場で生きては居なかっただろう。中でも、バラモスの吐き出す火炎や、その暴力を受け続けて来たカミュとリーシャの盾を覆っていた劣化した龍種の鱗は、ほとんど剥がれ落ち、防御力を大幅に落としていたのだ。

 リーシャの例え通り、既に只の板切れと言っても過言ではないだろう。あちらの世界よりも強力な魔物が相手となれば、死活問題になる事は明らかであり、あちらの世界で最上位の防御力を持っていた盾をもその状態にしてしまった魔王バラモスよりも上位に居る大魔王との戦いに生き残れる訳ではない事を感じたサラは顔を顰めたのだ。

 

「いらっしゃい」

 

「この店にある盾を見せてくれるか? それと、これは買取でなくても構わないから、処分して貰えないか?」

 

 武器と防具の店の扉を開くと、主人が歓迎の言葉を掛けて来る。カミュとリーシャはそれぞれの盾であった物をカウンターへと置き、それに変わる物を所望した。置かれた物体の状態の酷さに驚いた主人であったが、そのまま奥へと消えて行き、暫く後に円形の綺麗な盾を二つ抱えて戻って来る。

 カウンターに置かれた円形の盾は、完全なる円を成しており、その中心部分には鏡のように磨かれていた。中央の鏡を中心に、亀裂のような模様が掘り込まれており、全体的に装飾の少ない物である。しかし、その盾を形成する金属は、カミュ達が生まれた世界では見た事のない物であり、鉄や鋼鉄ではない事だけは確かであった。

 

「水鏡の盾という。少々特殊な金属で作られている為、数はない。それに鉄などとは違って重さもそれ程ない事が特徴で、『どんな攻撃も水の如く受け流し、鏡の如く跳ね返す』と伝えられている盾だ」

 

「なる程……思ったよりも軽いな」

 

 カミュ達から受け取ったドラゴンシールドの残骸を奥へと投げ置いた主人は、試しに腕に嵌めるリーシャを見て、手元の調整に入る。綺麗な円形の盾が、薄暗い店内で灯された炎を反射し、美しく輝いていた。

 先程まで叱られた余韻を残したまま項垂れていたメルエの顔が上がり、その瞳が輝き始める。旅を始めた頃から、武器と防具の店での彼女は常に期待と希望に満ちていた。『自分も何か買って貰えるかもしれない』という期待が彼女の瞳を輝かせるのだが、魔法使いという特性と少女という幼さから、その身に合う物が少なく、その期待の大半は潰される事となるのだ。

 

「……マホカンタのように、魔法を跳ね返す付加価値があるのでしょうか?」

 

「いや、言い伝えなだけで、本当に攻撃を跳ね返す訳ではないよ」

 

 リーシャの腕に嵌められた盾をメルエと同様に眺めていたサラは、店主の言葉の中にあった言い伝えの能力があるのではないかと感じて、手を出して触れてみる。しかし、その期待は、言い伝えを口にした本人から否定される事となった。

 既にサラやメルエにとって当たり前になりつつある『マホカンタ』という魔法障壁ではあるが、通常に生きている者達からすれば、魔法全てを跳ね返す呪文などという存在すら知らない。マホカンタという呪文名を聞いた店主の表情がそれを物語っていた。

 

「水鏡の盾と同じ金属で造られたミスリルヘルムもあるが?」

 

「見せて貰おう」

 

「そうだな。だが、お前はその兜がある。ミスリルヘルムというのは、私の兜だな」

 

 水鏡を気に入った様子のリーシャを見た店主は、それと同じ金属で製造された兜もあると言う。カミュは即座にその申し出を受ける為に頷きを返すが、それは隣に立っていたリーシャによって遮られる事となる。

 確かに、カミュの頭には既に立派な兜がある。それは、彼の父親の遺品であり、あのバラモスとの激闘でもその身を護り切った一品であった。ミスリルヘルムという兜がどの程度の物なのかは解らないが、英雄オルテガの被っていた兜が大きく劣るという事はないだろう。だが、それ以上に、リーシャはその兜をもう少し、彼に被らせておきたかった。

 アリアハンで彼の母親に会い、当代の勇者とその家族を繋ぐ物が、今はその兜しか残されていないという事をリーシャは改めて感じている。カミュ自身が家族との繋がりを嫌っているだろうが、押し付けだと言われようと、独善的な行為だと思われようと、彼女はその繋がりを絶つには時期早々だと考えていた。

 

「いや、俺も……」

 

「駄目だ。この先の旅を考えれば、確かに強力な防具は必要だが、無駄遣いも出来ない」

 

 反論しようとするカミュの言葉に被せるように発せられたリーシャの言葉は、傍から聞けば随分勝手な言い分である。盾の買い替えの際には、装備の弱体化が命の危険に直結するという懸念を話したにも拘らず、今は兜を新調しようとするカミュを諌めているのだ。

 カミュの被っている英雄オルテガの兜は確かにミスリルヘルムに劣るとしても些細な差であろう。それが危機に直結するとは言えない程の差である事は、武器や防具を使い込んで来たリーシャには解っていた。なればこそ、この場でカミュの申し出を押さえ込んだのだ。

 

「いくらだ?」

 

「水鏡の盾が一つ8800ゴールドで、ミスリルヘルムが一つ18000ゴールドだから、35600ゴールドだな」

 

「え?」

 

 怒りさえ滲む瞳をリーシャへと向けるカミュの変わりに彼女が店主へ値段を問い掛けたが、予想以上の金額を当然の如く口にされ、サラは素っ頓狂な声を上げてしまう。同じようにリーシャは唖然とし、その様子が面白かったのか、メルエがくすくす笑みを浮かべていた。

 18000ゴールドという金額は、ここまでの旅の中で出会った武器や防具の中でも最高価格である。今やリーシャの腰に下がっているだけとなったドラゴンキラーであっても、15000ゴールドだった事を考えると、異常な金額である事が解るだろう。

 様々な武器や防具を購入して来た彼らではあったが、一度に40000ゴールド近くとなる買い物は始めての事だった。

 

「こ、この剣は買い取って貰えるか?」

 

「ん? 何だこの剣は? 通常の物ではないな……悪いが、俺は鍛治は兼ねてないから無理だな」

 

 余りの金額に戸惑ったリーシャが、腰に差した剣をカウンターに置いて買取を依頼するが、それは即座に断られる。その剣は、間違いなくドラゴンキラーであった物ではあるが、旧トルドバーグにて改良された物であり、初見の者ではそれが何なのかを判別する事は難しいだろう。そして、刃の反れてしまった武器は、再度打ち直さなければ使用する事は出来ないのだ。店主に鍛治の心得が無ければ、無用の物となるだろう。

 言葉に詰まり、再度腰にドラゴンキラーを差し直したリーシャの横からカミュがカウンターの前へと出る。腰の中から大量に出されたゴールドを見て、店主は顔を綻ばせながら、それを数え始めた。

 

「纏めて購入したんだ。多少は値引くのも礼儀だろう?」

 

「えっ? あ、そ、そうだな……全部一緒で32000ゴールドにしよう。先程も話したが、鍛治の心得はないから、仕入れ値があるんでな。これ以上は負けられないよ」

 

 ゴールドを数える店主に向けて発せられた声は、底冷えするような低い物であった。それは、値引き交渉というよりは、脅迫に近い物である。確かに、纏め買いなどをする相手に対し、全体的な値引きをするのは商売の常識であるが、それをするかしないかはその商人次第であり、客側は何とかそれを引き出す為に商人との交渉を行うというのが買い物の醍醐味でもあった。

 しかし、カミュの瞳に宿るその光には、一切の優しさはなく、殺伐とした空気さえも纏っている。ラダトーム王都の武器屋の店主は、その雰囲気に呑まれそうになりながらも、何とか商人としての維持を発揮したのだった。

 

「わかった。この世界にも、魔物の部位などを買い取る場所はあるのか?」

 

「ああ、上の世界から来た人達か? 魔物の部位であれば、大抵の武器と防具の店で買い取ってるよ。鍛治の心得は無くとも、そういう方面に売る事が出来るからな」

 

 上の世界で剥いだ魔物の部位などが入った革袋をカウンターに置いたカミュの言葉に、ゴールドを数え終えた店主が反応する。残りのゴールドをもう一度革袋へ入れたカミュは、中から魔物の皮や牙を取り出した。

 上の世界で暮らす者達の中で、冒険者と呼ばれる者や魔物討伐に同道する者は、魔物の部位などを売却する事で収入を得ていた者も多い。カミュ達のように大量に入手する事も出来ず、その地方に生息する弱い魔物の部位という事もあり、それ程多くの収入には繋がらないが、何もしないよりは余程良く、新たな武器や防具を作成する為にも必要な物資である為に需要もあったのだ。

 しかし、この世界では、水鏡の盾やミスリルヘルムを見ても解るように、鉱石で作成された防具が多い。それに加え、強力な魔物が多い為、そのような方法で収入を得る人間も少ないのだろう。

 

「しかし、見た事も無い魔物の部位も多いな……。これならば、結構な値で買い取れるよ」

 

 上の世界の魔物の部位が多い為、このアレフガルドでは見た事の少ない物を多かったのだろう。店主はカミュが取り出した物を一つ一つ品定めしながら、買い取り価格を検討して行く。全て買い取る事が決まると、それに相応するゴールドをカミュの前に置いた。

 買い取り価格まで交渉する気のないカミュは、そのままゴールドを受け取るが、購入した防具の半分のゴールドが戻って来た形となる。

 

「…………メルエの…………」

 

「え? う~ん、メルエの新しい装備品はないと思いますよ。天使のローブも、綻びなどありませんし」

 

 それまで静かに成り行きを見ていた少女が、自分の傍に立つサラの手を引き、小さな願いを口にする。しかし、店頭にある商品と、少女が身に纏う装備品を見たサラは、その願いを受け入れなかった。しょんぼりと肩を落とすメルエに苦笑したサラは、その手を引いて、先に外へと出て行く。購入した物を身に着けたリーシャがその後に続き、魔物の部位を入れていた袋を手にしたカミュが最期に店を後にした。

 外へ出ると町の人間達も何処か慌しい雰囲気を醸し出しているように見えた。おそらく、通常であれば、夕食時なのだろう。立ち並ぶ家々の煙突からは煙が立ち上り、町に出ていた人間達もそれぞれが帰路に着いている。いくつかの店も店仕舞いを始めており、今日一日の終了を物語っていた。

 

「ラダトーム国王様に謁見するにしても、明日にした方が良さそうだな」

 

「そうだな……何時が朝で、何時が夜なのかも解らないが、町の流れに任せた方が良いだろう」

 

 町の様子を見たリーシャは、最後に店から出て来たカミュに向かって口を開く。それを聞いた彼もまた、周囲の状況を確認し、頷きを返した。

 確かにこの闇が原因で、太陽が見えない。故に、朝なのか夜なのかは把握出来ないが、この場所で長く生活をして来た物達にとっては、時間の感覚があるのだろう。この王都で暮らす者達の生活サイクルに合わせる事が正しい事であり、時間感覚的に夜となる時間に国王への謁見など以ての外と言う事となる。

 一行は宿屋への門を潜り、今日一日の疲れを癒し、翌日に謁見をする事となった。

 

 夜の闇とは異なる闇に閉ざされた世界。

 その闇は、太陽によって晴らされる事は無く、朝も昼も夜も同じように閉ざしていた。

 生物は太陽の恵み無しでは生きては行けない。その恵みを受けた食物を食し、食物を食す動物を食す。その食物連鎖が成り立つ以上、太陽の恵みは生物の営みには不可欠な存在なのだ。

 滅亡、崩壊への道を歩み始めたアレフガルド大陸を有する世界の猶予は数える程度の時間しかなかった。

 『上の世界』と呼ばれる異世界を救い、その世界に生きる生物の未来を切り開いた者達が訪れるこの瞬間までは。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
次話は、ラダトームの町→ラダトーム城となる予定です。

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