新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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オリビアの岬

 

 

 

 グリンラッドの永久凍土を出た一行は、再び船に乗って海へと漕ぎ出していた。

 雪の降り続く島では、往路で遭遇した<スノードラゴン>との再遭遇はなく、行く手を遮るように登場した<氷河魔人>も、メルエの放つ<ベギラゴン>によって天へと還って行く事となる。

 彼等四人が苦戦するような魔物の登場は、最近では見る事がない。サマンオサ国を牛耳っていた<ボストロール>には、カミュが何度も瀕死に落とされ、リーシャでさえ気を失ってしまう程の苦戦を強いられたが、それ以外の旅路で命の危機に瀕した事はなかった。

 それは、この世界で暮らす魔物の強靭さをカミュ達一行が凌駕し始めている証拠でもあるだろう。しかし、その差が何時までも続く訳ではないという事は、誰よりも彼等が知っていた。

 

「そのまま、オリビアの岬へ向かうのか?」

 

「ああ。一度その場所を見てみない事には、対処の方法も解らない筈だ」

 

 戻って来た一行に頭目が目的地を訪ねるが、その答えはこのグリンラッドへ訪れる以前と同様の物となる。

 オリビアの岬に関しては、カミュ達はその目で見た事はない。彼等の旅は、不可思議な現象が数多くあった旅ではあるが、その目で見てみない事には、どのような物であって、どのようにすれば良いのかという判断が付かないというのもまた事実である。

 オリビアという女性は既にこの世にはなく、本来であれば『呪い』などという文言自体が信憑性に欠く物であり、教会の唱える教えの中にある通りにオリビアの魂が『精霊ルビス』の御許へと昇天したのであれば、『人』が作り出した偽りの現象となるのだ。

 だが、先日ポルトガという国で『呪い』としか考えられない現象を目の当たりにしているカミュ達にとって、一蹴する事の出来ない話でもあり、その真偽を自身の目で見ない事には信じる事も出来ないという事だろう。

 

「出港だ!」

 

 頭目の掛け声と共に、錨を上げた船は、ゆっくりとグリンラッドの島を離れ始める。冷たい風が船の帆を押し、舵を切った方向へと走り出す中、着ていた上着を脱ぎ捨てたメルエは、小さな木箱をいつもの場所へ配置し、その上から潮の香りを胸一杯に吸い込んでいた。

 元々、身体が濡れていない限り寒さを口にしないメルエにとって、動き難い厚手の上着は邪魔にしかならないのだろう。冷たい海風を受けて赤く染まる頬を緩め、波立つ海と時折顔を出す魚達の姿に見入っている少女を、リーシャとサラは微笑ましく見つめていた。

 

 

 

 グリンラッドの島から離れ、二週間程の航海を経て、カミュ達は以前に訪れたホビットの居る祠の近辺まで船を走らせた。

 ホビットの祠は、ムオルの村の北部にあり、大きな川の畔にある。その川は対岸が見えぬ程の川であり、海から流れ込む海水が奥の入り江に向かって進んでいた。

 川へと繋がる入り口というのは、大抵は流れが急となり、帆を畳んで舵を切らなければ入り込む事は不可能な筈なのだが、この巨大な川の入口は、まるで船を飲み込むように広く、両端の対岸が見えない程である。故に、船もゆっくりとした速度で、水流に流される訳ではなく、風を受けて走っているという物であった。

 

「海へ戻れそうにない入り江であれば、小舟で行ってもらおうと思っていたが、そうならずに済んだようだな」

 

「逆流となれば、船が戻れないという事か……」

 

 カミュ達はそのような計算をしてはいなかったが、頭目は前もって最悪の状況を考慮に入れていたのだ。

 この時代の船の主な動力は風である。逆風の中進む事が出来る船は数少なく、カミュ達が乗る最新式の巨大船であっても、嵐のような逆風には逆らう事は難しい。

 だが、最も恐れるべきものは、水流である。海岸への波のような物であれば満ち引きがある為、船が沖へ出る事はそう難しい物ではない。だが、川のように上流から下流へと流れ、その流れが急であった場合、帆船のような船はその流れに逆らって進む事は難しいのだ。

 そのような危険がある場合、頭目という立場として、船で入り江に入る事を拒む必要もあると考えていた彼は、穏やかに流れる川の流れを見て、風さえ味方に付けば十分に戻る事が出来ると判断したのだろう。

 カミュやサラは、この頭目を初めとする船員達の存在を、改めて心強く感じたのだった。

 

「しかし、最悪の場合、カミュやサラ、そしてメルエの三人が固まって<ルーラ>を唱えれば、この船一隻ぐらいならば移動は可能なのではないか?」

 

「えっ!?」

 

 しかし、甲板の上で働く船員達を頼もしそうに見つめていたサラは、不意に掛けられたリーシャの言葉に素っ頓狂な声を上げてしまう事となる。その驚きはカミュもまた同じであったようで、不意を突かれたその表情は、何とも間の抜けた物となっていた。

 自分の名が呼ばれた事によって、カミュ達の許へと戻って来たメルエが、二人の表情に笑みを溢す中、リーシャの発言に疑問を持った頭目が部下に舵を任せて歩み寄って来る。

 

「それは、実現可能な話なのか?」

 

「い、いえ……試した事もありませんし、これだけ大きな船となると……」

 

 何か期待の籠った瞳を向ける頭目の疑問に、サラは戸惑いを隠せない。

 この船員達は、カミュ達へ何も話す事はなかったが、カミュ達と離れて自分達だけで航海をする事に限界を感じていたのかもしれない。

 実際に、何度かカミュ達と離れて独自にポルトガへと戻った事も少なくはない。その間は、元カンダタ一味が奮闘する事で、魔物達から船を護っては来たが、それは運が良かっただけと言われれば否定は出来ないのだ。

 海には、カミュ達が居なければ抗う事の出来ない強力な魔物も居る。<大王イカ>や<テンタクルス>などがその良い例であろう。あの二体と遭遇してしまえば、この船は破壊され、乗組員達も全て命を落としていた可能性がある。そんな恐怖を抱えながらの航海は、船員達の心にも負担をかけていたのだろうし、それ以外の魔物達との戦闘は、少なからず船員達の身体に傷跡を残していた。

 

「以前であれば無理かもしれないが、今ではサラは『賢者』となったし、メルエは押しも押されぬ世界最高位の『魔法使い』だ。まぁ、一番頼りないカミュの魔法力の量だって上がっている筈なのだから、三人が同時に行使すれば、可能なのではないか?」

 

「魔法力の欠片もないアンタにだけは言われたくはないが」

 

 自分と共に旅する者達を誇るように笑みを見せるリーシャは、同じように笑みを浮かべるメルエを抱き上げ、その頬に自分の頬を押し付ける。

 彼女にとって、護るべき存在であり、妹のように愛するメルエという少女は、既に自分の誇りとなっているのかもしれない。余りに強力な魔法を行使した時は、その身体に悪い影響がないのかを心配する事は多いが、この幼い少女の才能と努力を信じているという一面も存在していた。

 『魔法を使わせたくない』という物ではなく、『無理をさせたくはない』という物であり、その辺りは、カミュという青年とは少し異なっているのだ。

 

「それが出来るのであれば有難い。実を言えば、アンタ方とサマンオサに繋がる『旅の扉』で別れた後、ポルトガまでの航海の中、数人の船員が傷を負った。命に別状はなかったが、本来であれば船での仕事も難しい程の傷だ」

 

「な、なに!?」

 

 カミュとリーシャの恒例のやり取りが行われる中、頭目が何気なく口にした言葉に、カミュ達全員が驚きの表情を浮かべる。

 カミュ達は、この船の乗組員全てを仲間だと考えていた。それは、この数年間の旅の間で、命を預け合う者同士が理解出来る感情なのかもしれないが、サラやメルエからすれば、この船の船員達は既に家族同然の物と言っても良いだろう。

 その者達が一人でもいなくなれば、その存在の有無に気が付くのだが、傷を隠すように船の仕事に注視していれば、僅かな差に気が付く事が出来る訳ではない。それは、カミュ達の目的が『魔王バラモス』の討伐であり、それに向かって歩む為には、終始様々な事を思案して行かねばならないという事も大きかった。

 もしかすると、傷を負った者が、歩く時に足を引き摺っていたり、片方の腕が動かなかったりしている事に、メルエだけは気が付いていたのかもしれない。だが、その船員に状態を尋ねる事があっても、その船員が怪我をしている事をカミュ達に伝えなかったという可能性もあった。

 

「何故言わなかった?」

 

「アンタ方に言えば、船を降りろと言うだろう? だが、船を降りれば、怪我人達に働く場所はない。ましてや、身寄りのない者達が多いからな……この船に乗せていてやりたい」

 

 船での仕事が儘ならない程の怪我をした者達を冷酷に船から降ろすようなカミュ達ではない事ぐらい、頭目も理解はしている。彼等はおそらく、その怪我の具合を案じて、ポルトガで静養するように勧めるだろう。その時、生活に困らない程度の資金を渡すであろう事まで理解した上で、頭目はカミュの疑問に対して答えたのだ。

 身寄りがないという事は、ポルトガの町で一人で生活しなければならないという事になる。仕事が儘ならない程の怪我となれば、私生活にも不具合が生じる程の物だろう。それを見捨てる事が出来ないと踏んで、この言葉を選んだのだ。

 

「船を降りる必要はない……だが、無理な仕事はさせるな」

 

「……わかっているさ」

 

 その目論見通り、頭目の信じる青年は答えた。

 自分の想像通り、そして自分が思っていた通りの人物であったという事実に、頭目の頬は自然と緩みを見せる。それは数年間の船旅の中で築かれて来た『絆』ではあると同時に、彼等が『勇者』という存在を心の底から信じている証であった。

 その証拠に、周囲でやり取りを聞いていた船員達の表情にも、安堵ではない喜びの笑みが浮かんでいる。

 

「それで、先程の話は実現可能なのか?」

 

「……解りません。正直に言えば、実践した事がない以上、かなりの危険が伴うでしょうし、これだけ大きな船を運ぶとなれば、目的地へ辿り着く前に魔法力が切れてしまう可能性もあります」

 

 ルーラとは、術者の魔法力によって、記憶にある場所へ物や人物を運ぶ呪文である。一般の『魔法使い』の中でも、宮廷に上がる事の出来る程の実力と才能がなければ習得する事は出来ず、その行使自体が難しい物だと云われていた。

 だが、そんな限られた数の『魔法使い』であっても、数人の人間を運ぶ事しか出来ず、荷台を一台運ぶだけでも危険を伴う物でもある。卓越した者であっても、馬車を運ぶ事が出来る者が限度であり、客船と呼ぶに相応しい程の大きさを持つ船を移動させるとなれば、どれ程に優れた術者であっても不可能と言っても過言ではないだろう。

 故に、サラはその危険性を重視する。それは見方を変えれば、自分達の魔法力であれば、船を浮かせる事も、ある程度の距離を移動する事も可能であると断言したのと同時である事をサラは気付いていない。

 だが、それはここまでの経験を重ねて来た者としては当然の考えなのかもしれない。既に、彼等の中に存在する常識は、この世界で当たり前として広がっている常識とは掛け離れた物になっているのだ。

 世界の常識では知り得ない程の数の呪文を習得し、それを当たり前の物として行使する。その中には、瞬時に昼と夜を引っ繰り返すという神のような力を見せる物もあれば、教会では治療出来ない麻痺に対する治療魔法まで存在した。

 世に存在する、魔法に特化した者達の誰もが届かない場所へ足を踏み入れた彼等にとって、それが実現可能かどうかではなく、目的を達する事が出来るかどうかの違いでしかないのだ。

 

「大丈夫だろう。何と言っても、サラとメルエだ。魔法に関して、二人に出来ない事など無いと、私は信じているからな」

 

「……アンタのその自信は、一体何処から湧いて来るんだ?」

 

 サラやメルエを信じきっているリーシャへ溜息を吐き出すカミュではあったが、その瞳には優しい光が宿っている。

 彼女は、自分自身の力を誇る事をしない。男性よりも劣る女性だと馬鹿にされれば、その事に対して怒りを燃やす事もあるが、自分の出自や地位、そしてその力を他者に対して誇ったり、驕ったりする事はないのだ。

 例外的に、カミュに対してその力を脅迫めいた事に使う事はあるが、それも彼女の人柄と考える事が出来るだろう。そんな彼女がこれ程に言い切るという事は、彼女達の力を信じているという他に、サラという『賢者』の気持ちを奮い立たせるという目的もあるのだ。

 サラという人物は、『賢者』という称号を持つ、世界で唯一の人間である。だが、それと同時に、常に悩み、常に迷い、常に考え、そして初めて前を向く事の出来る人間であり続ける物でもあった。一人で答えを出しているように見えはするが、その答えを導き出す為に様々な者の見えない力を頼りにしている事もまた事実である。

 その一つが、この姉のように慕っている女性戦士の言葉であり、温かく大きな手であるのだ。そして、それをリーシャは無意識に理解しているのかもしれない。だからこそ、ここで言葉を発し、世界で唯一となる『賢者』の背中を押しているのだろう。

 

「……わかりました。必要な時は、私とメルエで呪文を行使してみます」

 

 そして、その見識が正しい事を証明するように、サラの瞳が先程までの自信無さ気な物から、何かを決意した強い光を宿す物へと変化して行く。それこそ、彼女がここまでの旅で積み重ねて来た経験への信頼に他ならない。

 彼女自身が自分が歩んで来た道を信じ始めている。それは、サマンオサ国王が彼等四人へ下賜した言葉を信じているという事でもあるのだ。それ程に、あの言葉は彼等四人にとって大きなものであったのだろう。

 成功するとは限らない。

 可能性で言えば、限りなく不可能に近い行為でもあるだろう。

 だが、それでも彼女達は、その無謀とも言える行為を実践し、そしてその力を証明するに違いない。

 

「見えて来たな……あれが『オリビアの岬』と呼ばれる、呪われた岬だ」

 

 サラの瞳を見た頭目は、今まで見た事のないような安堵の表情を浮かべ、船の進行方向へと視線を動かした。その先には、小さく陸地が見え始めている。対岸すら見えない川を渡り切った船は、それこそ果てしない海のように大きな湖に出たのだ。

 海水が入り込んでいる為、完全な淡水とまでは行かないようではあるが、川の入口の時のような潮の香りは薄まり、波のない穏やかな湖面が日光を受けて輝きを放っている。水面まで上がって来た魚達の鱗が更にその輝きを際立たせ、湖面を見つめているメルエの表情も眩いばかりの輝きを湛えていた。

 

「あの岬の先から、オリビアという女性が身投げしたと云われている。それ以来、あの先へ向かおうとする船を拒むらしい」

 

 徐々に近づいて来る岬は、カミュ達が考えていたよりも巨大な物であり、人間がその断崖絶壁の上から飛び降りれば、硬い湖面に直撃し、骨一つ残らない事は容易に想像出来る。

 巨大な湖には、奥に小さな湖を持っているようであり、両端にある岬がその入り口の門のように聳えていた。そして、頭目の話通りであるならば、その岬の入口を通ろうとする船は、岬に残されたオリビアの呪いによって拒まれてしまうという事であるのだ。

 

「あれだけ水流が乱れていれば、船など入る事が出来ないのは当然ではないのか?」

 

 しかし、岬が近づいた所で帆を畳み、湖面に停止した船の上から岬方面を見たカミュは、それが呪いの仕業ではなく、単なる自然現象の一部ではないかと考えてしまう。カミュの言葉通り、両端にある岬の間の水流は乱れており、視認出来る程の渦を巻いている。湖全体へ影響が出ていない事が不思議ではあるが、様々な方向へ渦巻く水流の中を船が進めないという事は当然の事であるのだ。

 そんなカミュへの回答は、無言で首を横へ振る頭目の姿であった。それが示す事は、その水流が自然に起こり得る現象ではないという物である。それの真意が解らないカミュ達は、頭目へ先を促すように視線を投げかけた。

 

「以前は、あのような水流はなかったようだ。あの渦巻く水流が現れたのは、オリビアという女性が身を投げてからと云われている」

 

「では……オリビアさんの呪いが、あの水流を生んでいるというのですか?」

 

「何があっても『呪い』という物へ結び付けようとしているだけにしか聞こえないがな」

 

 説明を始める頭目に、身体を振わせて問いかけるサラ。そんな二人に対して盛大な溜息を吐き出したカミュの言う事に、リーシャは静かな同意を示した。

 これは、人間に限った悪癖なのかもしれないが、自身の身に降りかかった不幸を何かの責任へと転嫁する事がある。この岬で身を投げた女性がいた事は事実なのであろうが、その時期とこの水流が生まれた時期が近いというだけで、悲恋の末に絶望を胸に死した女性の名を弄ぶような風聞に、カミュやリーシャは若干の不快感を表したのかもしれない。

 我関せずのメルエだけは、輝く湖に見える魚達に喜び、傍にいる船員達と何やら笑顔で話をしているようであった。

 

「ですが、真実がどうであれ、あの岬の奥へ進む事が無理である事だけは確かなようですよ」

 

「そうだな……。カミュ、あの水流の中へ入り込んでしまえば、小舟は転覆するだろうし、この船のような大型船は岬と接触して大破するぞ」

 

「俺としても、その危険だけは避けたいところだな」

 

 不思議な空気が流れる甲板で、真っ先に口を開いたのは、先程まで細かく身体を震わせていたサラであった。そして、サラに続き、リーシャや頭目もこの岬へ向かう事への危険性を説き始める。

 確かに、何重にも渦巻く水流の上を小舟で渡る事は不可能であり、即座に転覆した後、全員が溺死する可能性が高い。逆に今乗っている大型船で突入したとしても、舵が言う事を聞かず、方向感覚を失った末、岬の岩壁に激突して大破してしまうのは火を見るよりも明らかであった。

 行動の指針を示す事はリーシャやサラでも可能ではあるが、そのどれを選択し、決定するかはカミュという青年に委ねられる。船に乗るほぼ全員の視線がカミュへと集まる中、その青年はゆっくりと口を開いた。

 

「<船乗りの骨>の中心に糸を巻きつけておいてくれ」

 

 カミュは腰についている皮袋から一本の骨を取り出し、『ぎょっ』と目を見開くサラの手にそれを乗せる。乗せられたサラは、カミュの言葉に反応を示す事が出来ず、広げた掌を閉じる事も出来ない。

 如何に『人』の末路の姿だと理解をしていたとしても、それが気味の悪い物である事に変わりはなく、他人の亡骸である骨を手に置いたまま、サラは固まってしまったのだ。

 そんな『賢者』を捨て置いたカミュは、そのまま頭目に海へ戻る事を告げる。頷きを返した頭目は、全船員達へ号令を掛け、先程畳んであった帆を逆方面に向けて開き、来た道を戻り始める。

 穏やかで波一つない湖面を進み始めた船は、緩やかな川を上り、数刻後には海へと出て行った。

 

 

 

 船が海へと出る頃には、空の支配権は月へと移っていた。

 闇が広がり、雲が流れる中、月と星の輝きが船の甲板を照らし出す。闇によって海の輝きが失われた事で、メルエもリーシャの膝元で眠りに就いていた。

 船員達も交代要員と変わる中、夜にはその禍々しさを増す<船乗りの骨>へ糸を巻き付けた物をカミュが手に取る。その様子を、メルエを起こさぬように座ったままのリーシャが見上げ、その横でサラが不安そうに見つめていた。

 <船乗りの骨>の形状は、自然に朽ち果てたような物ではない。腕なのか、足なのかが判別出来ない物ではあるが、骨と骨の接続部分が残る部分と、先が尖った部分があるのだ。その骨の中心部分に糸を巻き付け、それを垂らすように糸の先を持ったカミュは、月明かりが差し込んでいる場所へと移動して行った。

 

「これは……南西を指しているのでしょうか?」

 

 風も吹いていないにも拘らず、カミュの持つ糸の先に吊るされた骨が回転を始めた事に驚いていたサラであったが、暫く後にその骨が微動だにしなくなった事で、更に驚きを増す。尖った骨の先は、今までの動きが嘘のように、ある方角を指すように動きを止めたのだ。

 一番星の方向が解る夜空の下、その方角がどちら側なのかを把握したサラは、自分達が向かうべき方角にある場所を思い浮かべながら首を捻る。サラが考えた疑問は、カミュやリーシャにとっても同様の疑問を残す物であったらしく、同じように首を傾げた後、メルエの髪を梳いていたリーシャが口を開いた。

 

「南西というと、先程の『オリビアの岬』がある方角ではないか? その骨が幽霊船の場所を指すと言うならば、あの岬の先に幽霊船がいるという事か? ならば、手詰まりではないか」

 

「いえ、おそらく更に西を指しているのだろうと思います。この巨大な大陸の向こうですから……バハラタの北西……ポルトガ港の南西辺りという事になるのでしょう」

 

 そのまま疑問を口にしたリーシャではあったが、サラはもう一歩踏み込んだ先を見据えている。西に見える大陸を指している訳でもなく、その大陸の内側にあった入り江を指している訳でもない。つまりは、この巨大な大陸の向こう側を指しているのではないかと考えたのだ。

 確かに、リーシャの言う通り、『オリビアの岬』の先にある入り江の中で幽霊船があったとしたら、それこそ手詰まりとなってしまうだろう。だが、船という物理的な物である限り、それ自体があの大渦を超えて行ける訳はなく、また船自体が霊的な物であれば、同じような『呪い』という観念と対立するのではないかと考えていた。

 

「一度ポルトガへ戻る」

 

「了解した。このまま船で戻って良いのだな?」

 

 サラの考えに同意を示したカミュは、頭目へ向かって進路を告げ、星空輝く海原を船はゆっくりとした速度で進み始める。その際に、頭目が先程議題に上がった<ルーラ>という呪文に対しての問いかけをしたのだが、それにカミュは苦笑を浮かべただけであった。

 今はまだ船の旅で良い。

 『魔王バラモス』の力を目の当たりにした彼等ではあるが、今日明日に人類が滅亡するような話でもなかったのは事実。着実にその可能性が近づいては来ているが、それが一刻を争うような物ではない以上、彼等が敢えて危険を冒す必要はないのだ。

 

 船は時間を掛けてポルトガへと戻る。

 今回は、南下してジパングを通る航路ではなく、北上してノアニールの村の北部を通り、エジンベアの東を南下する航路を取った。

 もはや、この船の乗組員達は、世界に数多くいる船乗り達とは、知識も経験も雲泥の開きがある。『勇者一行』と呼ばれるカミュ達と旅する事により、世界の海を渡る海賊達よりも、その知識は豊富になっているのかもしれない。

 今や、海の護衛団として名乗りを上げたメアリ率いる『リード海賊団』達よりも、船乗りとしての経験は濃く、魔物達との戦闘などの経験も豊富になっている。それは海で生きる者達として、最上位に入る程の物となっているのだ。

 

「ポルトガへ寄港するのか?」

 

「いや、このまま東へ向かう」

 

 『オリビアの岬』近辺の海域を出発してから一か月近くが経過した頃、ようやく船の前方にポルトガの港が見えて来た。夕暮れ時の為か、漁船の帰港や貿易船の入港などが多く、ポルトガの港の賑わいが手に取るように解る。

 船が犇めく港を見ながらのリーシャの問いかけは、港の方へ視線を送りもしないカミュによって即座に却下された。

 既にポルトガ国王に、『魔王討伐の為にネクロゴンドを目指す』と口にした彼等である。その場所から<ルーラ>を使って何処かへ移動するのであれば別であるが、宿泊も含めて停泊するのであれば、国王への謁見をしないという不敬を冒す事は出来ない。故に、カミュはポルトガへ停泊する事を拒否したのだ。

 

「このまま向かえば、ロマリアの南部へ着く頃には、最悪明日の夜になるぞ? 夜の闇の中で幽霊船を探すのか?」

 

「<船乗りの骨>がある」

 

「し、しかし! 夜の航海は、障害物などを避けられない危険もあり、ここで無理をする必要はないのではありませんか!?」

 

 リーシャの言葉通り、ポルトガの港を東へ向かえば、ロマリア王城のある島の南部へ辿り着く。カミュ達が初めて到着したアリアハン以外の国土であり、旅の扉の出口があった場所から見える海域へ出るのだが、そこまでの船旅の航路を考えても、沈み始めた太陽が再び昇り、その太陽が沈みきる頃までの時間を要する事は明白であった。

 夜になってから、船一隻を大海原で探し出す事は不可能に近い事であり、それをリーシャは指摘するのだが、カミュはグリンラッドで入手した<船乗りの骨>という探索手段を口にする。それに対して大声を張り上げて異議を唱えたのは、夕陽で赤く染まる顔を真っ青をにしたサラであった。

 その必死さは、何処か滑稽さを滲み出している物であり、甲板のあちこちから失笑が零れて来るのだが、その周囲の変化に気付く余裕もない程に懸命に理由を説くサラの後方から、一つの影が迫って来る。

 

「それは心外だな。俺達は、ここまでの旅で何度も夜間航海をして来たぞ? アンタ達を無事に目的地まで運ぶ事は俺達の誇りだ。その誇りを信じてくれてはいなかったのかい?」

 

「い、いえ! そ、そういう事ではありません! 皆さんの事は信じていますが……な、なにも夜間に探す必要などないのではという事を言いたいのです」

 

 その影は、この巨大な船の全権を握っている頭目の物であった。

 サラの言葉に傷ついたように肩を落としてはいるが、カミュやリーシャから見れば、目が笑っているのは明らかである。だが、その細かな表情にサラは気付く事無く、懸命に弁明を繰り返すのだが、それは結局墓穴を掘ってしまう結果を生み出すのだった。

 海を眺めていたメルエも、皆の楽しげな雰囲気に誘われ、笑みを浮かべながら近づいて来る。そんなメルエを抱き上げたリーシャは、必死に手を振りながら弁明を繰り返すサラに対して、最後勧告を投げつけた。

 

「だが、『幽霊船』という名が付いている以上、夜の闇の中でしか存在しないのかもしれないぞ? 幽霊は夜に現れるというのは、昔からの相場だからな」

 

「ひぃぃぃ!」

 

 今まで考え無いように苦心して来たのだろう。最後通告を受けたサラは、身を強張らせて顔色を失って行く。膝が笑うように震え、歯さえも噛み合わずに派手な音を鳴らし始めるその姿を見た船員達は、先程までの失笑を通り越し、何処か哀れにさえ感じてしまった。

 強大な魔物を駆逐する程の力を有し、どんな傷も癒す神秘を使いこなし、死さえも司る程の呪文を行使する『賢者』が、既にこの世の物でなくなった者達の影に怯える姿は、滑稽を通り越して、哀愁さえも感じてしまう物であったのかもしれない。

 しかし、そんな中でも、周囲の空気を全く気にしない者が一人。

 

「…………あわ……あわ…………」

 

「メルエ……それは言わない約束だぞ?」

 

 震えるサラを見上げ、楽しそうな笑みを見せる少女は、何度も注意をされた言葉を口にし、サラの足元にしがみ付く。 

 実際、その言葉の何がそこまで楽しいのかを理解出来ないリーシャは、何度窘めても直らないメルエの行いに溜息を吐き出し、諦めたような言葉を投げかけた。しかし、拳骨が落ちて来ない事を悟ったメルエは、その言葉を繰り返しながらサラの顔を見上げては笑みを溢す。

 メルエのからかいも聞こえない程に狼狽えるサラの姿を気の毒に思った頭目ではあったが、カミュが方針を変えない以上、その指示に従う他なく、乗組員達へ指示を出し、船を目的地へ向かって走らせる事となった。

 

 大方の予想通り、船は翌日の深夜にロマリア南部にある小さな孤島に辿り着く事となる。島の入り江に停泊した船の上で、取り出した<船乗りの骨>を垂らすと、月明かりに照らされた骨は、勢いよく回転した後、カミュ達の居る場所から島を挟んだ向こう側を指し示すように動きを止めた。

 実際は、島そのものを指しているのであるが、『幽霊船』という名が付いている以上、海の上を浮かぶ物だと考えられ、島の向こう岸を指していると考える事が妥当であろう。

 既にメルエは夢の中に入っており、動きを止め、風が吹いても微動だにしない<船乗りの骨>を凝視するサラの身体は小刻みに震えている。恐る恐る顔を上げたサラは、目の前にあるカミュの顔が、既に島の向こうを見据えているのを見て、自分の希望が打ち砕かれて行く事を自覚し、絶望に近い表情を浮かべた。

 

「夜が明けると見失ってしまうかもしれないな」

 

「ああ……島を回ってくれ」

 

 リーシャの考えに同意を示したカミュの指示に、頭目は小さく頷きを返す。

 これで方針は確定事項となった。

 もはや、誰が何を言っても、彼等の行く道は『幽霊船』という事になり、夜が明けるのを待つ事も、気持ちを落ち着かせる為の時間もない。闇に閉ざされた海の上で、<船乗りの骨>に導かれた船は、ゆっくりと速度を上げ、小さな島の外周を回って行った。

 

「……霧が出て来たな」

 

「心配するな。夜の霧も、海の醍醐味だ」

 

 島の外周を回り始めてすぐ、まるでカミュ達の船そのものを覆い隠すように濃い霧が立ち込み始める。だが、一寸先も見え辛くなる中、頭目は胸を張って自信あり気に口を開いた。

 その霧は徐々に濃くなって行き、島の反対方向へ辿り着いた頃には、夜の帳が落ちた海が真っ白に染まる程の物となる。肌寒くさえ感じる程の霧が立ち込める中、一つ小さなくしゃみをしたメルエが目を覚まし、前方を見ているリーシャの傍へと近寄って行くが、リーシャの横に立つサラの身体が小刻みに震えている事に気付き、再びからかいの言葉を口にするのであった。

 そんなメルエの愛らしい姿に苦笑を浮かべながらも軽い拳骨を落としたリーシャは、頭を押さえるメルエの首が突然在らぬ方角へ向けられた事に気が付く。その方角は、乗組員のほとんどが向いている前方ではなく、船の真横であった。

 

「…………なにか………くる…………」

 

「魔物か!?」

 

 メルエの察知能力を知っているリーシャは、一寸先も見えない霧の中で、姿を隠して近づく魔物を想像し、背中の<バトルアックス>を取る。だが、即座に横へと振られたメルエの首が、近づく物が魔物ではない事を示しており、それ以外の物の接近を感じ取っている事を示していた。

 この霧が立ち込める海上で接近する物が魔物でないとするならば、残る可能性は一つしかない。聡いサラは、その可能性を既に察しており、絶望を感じる程の表情を浮かべてメルエを見て、更にその顔を青くしながらメルエの視線を追った。

 

「うわぁぁ!」

 

 響き渡る突然の叫び声にサラが尻餅を突き、乗組員達全員の視線がその発信元へと移動する。叫び声を上げた乗組員は、船の側面に一番近い場所にいた者であり、海上から近づく何かに真っ先に気付いた者であった。

 濃い霧の中でも徐々に見え始めた接近物の姿は、カミュ達が乗る船と比べても遜色のない程に巨大な船。近づくにつれてはっきりと見えるその船体は、海の上を走っている事が不思議な程に破損が酷く、頭部の人骨の後部で交差する骨という族章が描かれた帆は、判別が不可能な程に破れ果てていた。

 カミュ達の乗る船は、ポルトガという貿易国家が、国家の威信を懸けて造船した物であり、その大きさから装備に至るまで、他の追随を許さない程の物である。そんな船に遜色がない程の船体を持つこの船は、正しく海の覇権を最後まで争った海賊棟梁が乗る船と言えるだろう。

 

「と、停まった……」

 

 船体が破損し尽くしたその船は、まるでカミュ達を船内へと誘うように、船を横付けさせて停止した。船体が擦れる程に近づいた船同士が軋む音が響く中、甲板の上では誰一人声を発する事が出来ず、奇妙な静けさが広がる。

 破れた帆の布が風に靡いてカミュ達の船の手摺に絡みつき、船体の穴を吹き抜ける風がおどろおどろしい音を発していた。それは、歴戦を重ねて来た海の男達の肝さえも冷やしてしまう程に悍ましく、皆が指一本動かせずにいる。

 だが、そんな中、銅像のように動けない船員達の脇を通り抜ける影。

 

「カミュ、行くのか?」

 

「行く以外の選択肢があるのか?」

 

 自分の横を抜けて行く青年の背中へ問いかけたリーシャの言葉は、全く正反対の問いかけとなって帰って来た。

 確かに『勇者一行』と呼ばれる彼等が持つ選択肢は少ない。いや、少ないというよりも皆無と言った方が良いかもしれない。選べる道が複数あった事など、この旅を始めてから数える程しかない。それは、この悍ましい姿をした船を目の前にしても同様であった。

 疑問に対して疑問で返す非礼にも苦笑を浮かべたリーシャは、傍で不思議そうに首を傾げているメルエの手を取って『幽霊船』へと足を踏み出す。

 

「え、え……ま、待って下さい。な、何も今行かなくても……」

 

「サラは来なくても良いぞ? 今日のサラは、駄目そうだからな」

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 そんな三人の行動に驚き、慌てふためいたのは『賢者』と呼ばれる女性である。

 霊魂という物に苦手意識を持っている彼女は、突如現れた廃船の姿に怯えきっており、震え続ける足は一向に前へと動く事がない。必死に声だけは絞り出すのだが、その発現は世界で唯一の『賢者』とも思えない程の弱気な物であり、カミュ達の行動を阻止しようとする物であった。

 そんなサラの姿に大きな溜息を吐き出したリーシャは、珍しく挑発的な物言いを溢す。

 『来なくて良い』と言われて引き下がるような軟弱な人間であれば、サラはここまで旅を続ける事など出来はしなかった。何度も悩み苦しみ、その度に自身の価値観を覆され、前も見れない程に心が壊れてしまった時にも、彼女は足を踏み出して来たのだ。

 リーシャの言葉を聞いた途端、目に宿る光が切り替わったサラは、続くメルエの挑発に対してようやく本来の姿を取り戻した。

 

「もう! メルエは先程から私を馬鹿にしているのですね!」

 

「…………サラ………おこった…………」

 

「メルエが悪いな。あれ程言えば、流石のサラも怒るさ」

 

 頼みの綱のリーシャが庇ってくれない事を理解したメルエは、即座にサラから逃げるように甲板を走り出す。しかし、元々の身体構造から考えて、サラから逃げ切れる訳はなく、身体ごと捕まり、サラからの拳骨と叱責を受けながらも微笑むメルエの姿は、とても微笑ましい物であった。

 そんな二人のやり取りに苦笑を浮かべながらも、視線を『幽霊船』らしき物へと移したリーシャは、自分の身体に纏わりつくような寒気を感じる。悪寒と言っても過言ではない冷気は、彼女の頭を過った悪い予感のせいなのか、それとも目の前の廃船から漂う霊気の影響なのかは解らないが、何れにしても良い感触を持たない物である事だけは確かであった。

 

「トヘロス」

 

 船の縁へ近づいたカミュは、一度振り返った後、船の甲板全体を覆うように呪文を行使する。それは、イシス国女王から下賜された書物に記載されていた呪文であり、弱い魔物を近づけない聖なる空間で包み込む神秘である。

 術者であるカミュは、この世界で人類最高位に立つ程の強者であり、海上と言えども、船を取り巻く聖なる空間は非常に強力な物となる筈であった。それは魔物に対してだけではなく、弱い邪気や霊気などにも効果があるのではと考えたのだろう。

 その行使が終了した事を見届けた一行は、そのまま寄せ合う廃船へと足を踏み入れた。

 

 古いながらも持ち続ける強い念の源が、この船に乗る海賊と思われる者達の恨みの念なのか、後悔の念なのか、それともこの海賊船に襲われた商船に乗っていた者達の怨念や、オリビアの想い人であるエリックの無念であるのかは解らない。

 だが、どのような念であろうとも、その念が人々を恐怖させる程に強力な物である事に変わりはなく、夜な夜な彷徨い続ける幽霊船がこの世の理を捻じ曲げてしまっている事も事実である。

 この『幽霊船』を生んだのはカミュ達ではないが、<船乗りの骨>という物を手にした彼等が『幽霊船』という現世の理から外れた存在と遭遇する事となったのも、カミュという『勇者』が引き起こす必然であったのかもしれない。

 それは、この船に乗り込んだ彼等自身が、強く感じる事になるだろう。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

幽霊船のお話は次話になってしまいました。
描いている内にどうしても長くなってしまい、二話に分けました。
次話は再度ゲームと同時進行で描き直しますので、少しお時間を頂きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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