月のような輝きを持つ青年が闇の奥へと消えた神殿内は、ひっそりと静まり返っており、その中で立ち尽くしていた三人の女性は、誰一人として口を開こうとはしなかった。
いや、開こうとしなかったのではなく、開く事が出来なかったのかもしれない。それ程に、彼女達三人の中でのカミュという人間の存在感は大きくなっていたのだろう。
エジンベア付近に生息する魔物の呪文の影響で逸れてからも既に一年近くの時間が経過している。その時間は、各々の存在の重要性を刻みつける物としては充分な物であったのだ。
「どのくらいの日数が掛るか解らないな……先程の男性も戻って来ないし、私達もその辺りに座らせて貰おう」
「そうですね。夜になっても戻らないのであれば、一度宿屋へ戻りましょうか?」
まず口火を切ったのはリーシャであった。
何時までも三人で通路を眺めていても仕方がない。神殿内を見渡し、中央とは離れた場所に設置してある机と椅子の方へ足を向け、その後を続くように視線を向けたサラが口にした事は尤もな事でもあった。
カミュが向かった先の試練というのが何なのかは解らない。それでも、一筋縄ではいかない事は明白であり、長ければ数日の時間を要するのではないかとさえ、サラは考えていた。
しかし、そんな二人の行動を認めない者がこのパーティーの中に居る事をリーシャもサラも失念している。
「…………カミュ…………」
一人通路の奥へと続く闇を見つめたまま動かないのは、その青年を絶対の保護者と考えている一人の少女。その青年と逸れた事で心を痛め、最終的にはその心を壊してしまった経緯を持つ少女だけは、その場を一歩も動こうとはしなかった。
まるで、リーシャ達の動きも言葉も届いていないように、闇から視線を外そうともしないメルエは、自分の背丈以上もある<雷の杖>を胸に抱き、不安と恐怖に身体を震わせている。自分に付いて来ないメルエを不審に思い振り返ったリーシャは、一度溜息を吐き出し、苦笑を浮かべた。
「メルエ……メルエがそんな顔をしていたら、カミュは安心して行く事は出来ないぞ」
「…………カミュ…………」
戻って来たリーシャがメルエを後ろから包み込むと、再びメルエは不安そうな声を上げる。
幼いメルエの中で、『勇者』としてではなく、カミュ個人としての存在感が大きい事を理解していたリーシャではあったが、再びスーの村の状況に陥ってしまう恐れを改めて感じた。
もう、この三人は、メルエの傍から離れては駄目なのかもしれない。甘やかせるとか我儘を許すとかの問題ではなく、ようやく感情という物を理解し始めたメルエの心は、赤子と変わりがない事に気が付いたのだ。
「カミュはメルエに対して嘘を言った事はない筈だぞ。私達も同じだ……私達もメルエに嘘は言った事が無い。カミュが『すぐ戻って来る』と言った以上、メルエが二晩程眠ったら、カミュは戻って来るさ」
「そうですよ、メルエ。カミュ様は大丈夫です。私が約束します。それとも……メルエはカミュ様を信じていないのですか?」
リーシャがメルエに小さく告げる言葉にサラが追い打ちをかける。メルエにとっての魔法の言葉である『大丈夫』という言葉は、何やら心外な言葉と共にメルエへ投げかけられた。
不安そうに見上げていた瞳は、サラの言葉を消化する内に鋭い物へと変化し、そのまま『ぷっくり』と頬を膨らませたメルエは、唸り声のような音を発する。
メルエの変化が現れた事にリーシャの表情が緩み、厳しい瞳が自分に向けられているにも拘らず、サラは苦笑を浮かべた。
「…………メルエ………カミュ……しんじる…………」
『ぷいっ』と顔を背けたメルエは、呟くように言葉を洩らす。その言葉にリーシャとサラは笑みを溢し、そのままリーシャが小さな身体を抱き上げた。
未だに『むぅ』と頬を膨らませてサラを睨むメルエに、先程のような危うさは見えない。幼さ故の物なのだろう。強がりにも見えるその姿にサラは苦笑し、メルエの頭を優しく撫でた。
三人は、机の傍にある椅子に腰かけ、これから始まる長い時間を暗闇へと続く通路を眺めながら過ごす事となる。
「カミュ……行く前に、そなたに礼を言っておかなければならないな」
暗闇が支配していた通路の壁に掛けられていた燭台に火が灯り、カミュが歩む道は明るく照らし出されて行く。その道を真っ直ぐ進み、左右に分かれる道がある突き当りまで進むと、右側への通路を塞ぐように、先程の男性がカミュを待っていた。
右側への通路を塞いでいるという事は、目的地へは左の通路を歩いて行くのだろう。軽く会釈を済ませたカミュは、そのまま歩き出そうと男性に背を向けるが、その足は後ろから掛った言葉に止められる事となる。振り返ったカミュは、深々と頭を下げる男性の姿を目にした。
「……おっしゃっている意味が解りませんが……」
「ふむ……今は解らずとも、そなたの旅路の中で解る時が来るであろう」
男性が頭を下げている理由が解らないカミュは、その理由を問いかけるが、それは何とも曖昧な言葉で返される。
『礼を言いたい』と頭を下げているにも拘らず、その理由を語らないとは、何とも身勝手な話であるのだが、数十年の間施錠されていた神殿にいる不可思議な存在である為、カミュはそれ以上に追及する事を諦めた。
「では行け、カミュよ!」
それ以上に話はないとでも言うように宣告されたカミュは、再び男性に背を向け、西へと続く通路を歩き始める。徐々に明るさを取り戻して来た通路は、燭台に灯る火の灯りの物だけでもないようだ。
前方から差し込む明かりは太陽という巨大な光源の物と思われ、一度外へと出る事にカミュは疑問を持つ。神殿の内部から外へ出る事自体が不思議ではあるのだが、このランシールの村の周囲は険しい山で囲まれていたのが最大の原因であろう。
「!!」
案の定、カミュが目指した先で通路は途切れ、開け放たれた扉からは陽の光が差し込んでいた。
扉は外の世界を満たす砂によって閉じる事が不可能となっており、通路の内部へも大量の砂が入り込んでいる。陽の光が強く射すその場所は、以前に訪れた事のあるイシス国周辺のような砂漠になっていた。
目の前を砂塵が視界を遮るように吹き荒れ、砂漠に注がれる直射日光は、強烈な照り返しを放っている。もし、今カミュが装備している鎧が、周囲の気温などにも対応出来る<魔法の鎧>でなければ、その肌さえも焼き切ってしまう物であっただろう。
マントを風上に向け、舞う砂を避けながら、カミュは真っ直ぐ西へと歩き始める。イシス砂漠とは異なり、行く場所を把握している訳ではないが、周囲を囲む険しい岩山が見える程の広さである為、カミュは西に向かって歩き始めたのだ。
夜は昼とは正反対に気温が急落する砂漠ではあるが、広さを見る限り、一日中歩き続ける心配はないだろう。方角は太陽の位置から推測でき、ここまで旅を続けて来たカミュであれば、方角を誤る事はない。
視界が悪いながらも、カミュはしっかりと歩を進めて行った。
陽が傾き始め、周囲を赤い陽光が満たす頃、カミュは一つのオアシスに辿り着く。
イシス国の町や城がある場所のような巨大な湖がある訳ではないが、水を満たす泉が点々とする場所には、木々が生え、緑で覆われていた。
森というよりは林と言った方が正しいのだろう。少ない水場を競うように密集した木々の中を歩き続けたカミュは、陽が完全に落ち込む頃に、大きな岩場を発見した。
山のように盛り上がった岩は、天然の物なのだろう。木々達が匿っていたかのようにひっそりと佇む大岩は、大きく口をあけて暗闇を作り出している。
「……ここが<地球のへそ>なのか?」
岩場に手を掛けて中を覗き込んだカミュではあるが、暗闇が支配するその先を窺う事は出来ない。以前ランシールへ訪れた際に、神殿の傍で出会った男性が口にしていた<地球のへそ>と呼ばれる洞窟の名を覚えていたカミュは、その名を口にしただけなのだ。
試練と呼ばれる程に過酷な洞窟とは思えない外見をしている横穴であるのだが、この周囲にそのような物が他にあるかどうかも怪しく、カミュは<たいまつ>を取り出し、<メラ>によって火を灯した後、洞窟の中へと入って行った。
「……一人でこのような場所に入れば、あの騎士の必要性を否が応でも思い知らされるな……」
洞窟に入るとすぐに、中の構造が広がりを見せる。<たいまつ>を掲げると、通路の壁には幾つかの燭台が残されており、そこにある枯れ木へと炎を移したカミュは、一つ大きな溜息を吐き出した。
真っ直ぐと伸びた通路の先に、十字路が既に見えている。この場所の詳しい状況等が解らない以上、その十字路をどちらに進めば良いのかなど、カミュに理解出来る訳が無いのだ。
それこそ、カミュの呟きの中にある、アリアハンの女性騎士でもない限り、正しい方角を導き出す事は難しいだろう。
「とりあえず、右に折れてみるか……」
<たいまつ>を右の通路に向けたカミュは、目の前に広がる闇に向けて進んで行く。この洞窟は何処かしら他の洞窟と雰囲気は異なっているが、特に神聖さを感じる訳ではない。魔物が蔓延る場所とまでは行かなくとも、魔物が生息している事は明らかであろう。
故に、カミュは注意深く周囲を窺い、一歩一歩慎重に歩を進めて行った。
しかし、歩けど歩けど、その直線に終わりは見えず、<たいまつ>の灯りだけが周囲をぼんやりと照らし出している。
「何処かで見たような雰囲気だな……」
慎重に歩を進めていたカミュは、再び少し開けた場所へと出た。
<たいまつ>を掲げると、再び現れた十字路。何処にでもあるような物ではあったが、カミュは記憶の奥底にある雰囲気を感じ取っていた。
先程とほぼ変わらない道なりは、カミュの中にある少し前の記憶と変わりはない。細部までは覚えてはいないが、洞窟の壁から生える草などにも見覚えがある。それは、以前にバハラタ近くの洞窟に入った時の感覚と酷似していた。
あの時は、何処まで行っても同じ様な十字路が続き、リーシャがいなければ、カミュ達は永遠に彷徨っていたかもしれない。
「アイツがいない以上、用心に越した事はないだろうな」
壁に手を当てながら独り言を呟いたカミュは、背中から剣を抜き、その柄で岩壁に印を刻み始める。印を刻み込んだカミュは、その下に自分の名前のサインを残し、剣を鞘へと納めた。
岩壁に立てかけていた<たいまつ>を手に取り、再び真っ直ぐ前方へと歩みを進めて行く。入口から入って来た後に出現した十字路を右に曲がり、そのまま真っ直ぐ歩いた先にあった十字路を更に真っ直ぐに歩んだ。
通常であれば、入口からかなり離れた場所へと出る筈であり、その先が行き止まりとなる可能性も大いにある物だった。
「どんな仕掛けになっているのか解らないが、無限に歩み続けるだけか……」
だが、そんな常識的な考えは、再び出現した十字路の壁に記されたカミュの名が否定する事になる。壁に<たいまつ>を近づけ、刻んである文字を確認したカミュは、軽く溜息を吐き出した。
どのような仕組みになっているのかを理解する事は不可能でも、カミュが同じ場所を回ってしまっている事だけは確かであろう。カミュは十字路の真ん中に立ち、左右前後に<たいまつ>を向けて目を凝らす。すると、入口から考えて正面の通路の奥に微かに燭台のような物が見えていた。
「燭台があるという事は、この先は人工的な物という事か?」
奥へと<たいまつ>を掲げ、歩を進めて行くと、岩壁の左右に燭台が等間隔で配置されている。一つ一つの燭台に残る枯れ木に炎を移しながら慎重に歩を進めて行くと、再び開けた通路へと出た。
先程までとは異なり、壁に燭台が掛けている訳ではなく、燭台が立てられている。近場の燭台に炎を灯すと、ぼんやりではあるが全体像が浮かび上がって来た。
真っ直ぐ伸びた通路の脇に、机のような物が幾つも置かれており、その上には宝箱というには煤け過ぎた箱が置いてある。周囲を警戒しながらカミュは前へと進み、一つの目の箱を剣で叩いた。
「盗み出された残りという感じだな」
何の反応も見せない箱を開けたカミュは、その箱の底辺に辛うじて残るゴールドの数を数え、呆れたように溜息を吐き出す。
その数は、僅か248ゴールド。
以前神殿の前で出会った男性は、入口を入ってすぐに逃げ出したと語っていた事から、この宝箱を見た事はないだろう。
だが、数十年前から開け放たれていた場所である限り、この辺りに残されている物はないと考えるのが妥当なのかもしれない。
「これは……」
この場所にある机は見る限り四つ。そして、その机全ての上に宝箱のような箱が置かれていた。
この全てが中身が空である可能性が高いと考えていたカミュではあるが、先程ゴールドが入っていた箱のあった机の隣に鎮座する机に目を向け、少し考える素振りを見せる。
その机の上にある宝箱の下に、何かの骨らしき物が落ちていたのだ。
数は少なく、数本程度の物であるが、近づいてみると、それは確かに何らかの骨であった。そして、その骨が示す事にカミュが思い当たったその時、静けさに満ちていた洞窟内の時が急速に動き出す。
「キシャァァァ」
「ちっ!」
不穏な空気を感じ取っていたカミュは、即座に<魔法の盾>を掲げ、自分に襲いかかる鋭い牙を防いだ。
それは、カミュの目の前にあった宝箱のような箱であった。
年季が入り、煤けたその箱は、開いた淵の部分に鋭い牙を無数に持ち、カミュに襲いかかって来る。それは、長い年月と共に命が宿り、魔王の魔力によって凶暴化した宝箱。
以前、<ガルナの塔>でカミュを死の淵へと落とし、一度はその命を奪った<ミミック>と呼ばれる魔物であった。
「やあぁ!」
盾で弾いた<ミミック>に向かって振り下ろされた剣は、年季の入った木箱に突き刺さる。だが、それを叩き割る事は出来ず、身を捩って離れた<ミミック>の身体に多少の傷を付けたに留まった。
鋭い牙をカタカタと鳴らし、獣のようにカミュを狙う<ミミック>に注意を払うカミュは、内心では焦燥感に駆られている。以前に遭遇した時のような死への呪文に抗う事に対し、カミュは自分に自信を持ててはいなかったのだ。
「キシャァァ!」
再び飛びかかって来る<ミミック>の牙がカミュの装備する<魔法の鎧>に当たり、乾いた金属音を残す。脇腹の部分に傷跡を残しているのを見る限り、<ミミック>の牙の威力は、その者の肉ごと命を奪う程の脅威と考えて差し支えはないだろう。
攻撃を終えた<ミミック>の着地時を狙って振われた<草薙剣>が、<ミミック>の身体を形成する宝箱の蝶番に傷を付けた。
蝶番は、箱の命と言っても過言ではない。それは<ミミック>と呼ばれる魔物にも言える事であり、この魔物の身体を形成している箱も二つの蝶番で繋がれていた。
その一つを傷つけられた事によって、<ミミック>の動きが先程までに比べて奇妙な物に変わって行く。しかし、止めを刺そうと動いたカミュの耳に、恐れていた音が響き渡った。
「P¥5%*」
以前に聞いた物と寸分も違わないその奇声は、カミュの耳に届いた途端、脳内を巡る呪いへと変化する。死へと誘うその言霊は、カミュの生を罪とし、一刻も早くその生を手放す事を促して行った。
立っている事も叶わない程の闇にカミュは膝を着き、脳を破壊するかのように響き渡る怨念の声に頭を抱える。数多の手に引き摺り込まれるように掴まれたカミュの魂は、生への執着を切り離して行った。
「陽が落ち切ってしまいましたね」
静まり返った神殿の中で、外から差し込む物が月明かりだけになった事を確認したサラがステンドグラスを見上げながら呟きを洩らす。
カミュが通路の奥へと消えてから既に半日以上が経過していた。
リーシャとサラは椅子に腰かけ、メルエはリーシャの膝の上に乗っている。<雷の杖>を胸に抱いたメルエは、身動き一つせず、通路の奥へと続く闇を凝視していた。
「この分だと、今夜中には戻らないだろうな。私達も宿屋で休む事にしよう」
「そうですね。メルエ、行きましょう?」
二人の言動を聞く限り、カミュを心配している様子はない。それは全面的な信頼を表していた。
『カミュならば心配ない』と考えているのだろう。よくよく考えると、カミュと逸れた際にも、二人はあの青年の身を案じてはいなかった。
今のリーシャやサラにとって、カミュという存在は、世界で信じられている『勇者』という存在よりも更に上の存在となっているのだ。
だが、それはリーシャとサラという成熟した大人の考えである事は否定できない。
「…………いや………メルエ……ここ……いる…………」
リーシャから隣の椅子に移動させられたメルエは、通路の暗闇から目を離さず、小さく首を横へと振った。リーシャとサラは、そんなメルエの姿に顔を見合せて溜息を吐き出す。
メルエがこうなってしまっては、何があってもここを動かない事は明白であり、無理やり動かす事も出来ない以上、他の方法を考えなくてはならないからだ。
カミュもまた、試練の場所の何処かで一晩を明かすだろう。ならば、今夜中にカミュが戻って来るという可能性も低くなる。
「……仕方ないな……私は宿屋から毛布などを借りて来る。ついでに何か食料も買って来よう」
「あっ! それならば、このゴールドを使って下さい。カミュ様から預かっている物です」
強情なメルエの姿に溜息を吐き出したリーシャは、ゆっくりと立ち上がり、そんなリーシャにサラは、腰に下げていた革袋を手渡す。
実は、以前にカミュと逸れ、再会を果たした際に、あの時のような予期せぬ出来事があった場合を想定して、所持金をカミュとサラで分割して持っていたのだ。
比率的には、七対三の割合でカミュが多いのではあるが、魔物の部位などを売却し、ある程度のゴールドを所持しているカミュ達の総額からすれば、サラが持たされた額もそれなりの物となる。
「メルエを頼むぞ……身体が温まる物を作らせてもらえれば良いのだけどな」
何か思案めいた言葉を呟きながらリーシャが神殿の出口へ向かって歩き出そうとしたその時、まるで人形のように一点を凝視していた幼い少女が突然動き出した。
椅子から飛び降りたメルエは、<雷の杖>を胸に抱いたまま、カミュが消えて行った通路の入口へと駆けて行く。突然の行動にリーシャの足は止まり、サラは椅子を蹴って立ち上がった。
「メ、メルエ、駄目ですよ!」
メルエを追うように駆け出したサラは、通路の入り口付近で立ち止まったメルエに追いつく。通路の中までメルエが入って行ってしまうと考えていたサラは、何かを不安がるように眉を下げて佇むメルエを見て、自身も通路の奥に広がる暗闇へと視線を向けた。
メルエは一言も言葉を口にしない。まるで祈りを捧げるかのように<雷の杖>を握り締め、暗闇の先を見つめている。
サラに遅れて近付いて来たリーシャも、メルエを後ろから抱き締めるように屈み込み、メルエの肩に顎を乗せたまま、同じように通路の先へと目を向けた。
「メルエ、余り不安がるな。カミュを信じてやってくれ。そして、メルエの『想い』をカミュへ届けてやってくれ」
「…………ん…………」
メルエの耳元で静かに語られた言葉に、メルエも小さく頷きを返した。
絶対の保護者である者を信じ、その青年の帰りを願い、再び笑顔を向けて貰える事を望む。
そんなメルエの『想い』を運ぶように、神殿内から一陣の風が通路の奥へと吹き抜けて行った。
「!!」
全てを諦め、深い闇へと落ちて行くカミュの意識が切れるその時、カミュの腕を取る者が現れる。意識の中の闇へと落ちて行くカミュの腕は小さな手に握られ、強い力で引き上げられた。
生きる目的も、生きる活力も失いかけたカミュの心に再び炎を灯す程の力を持つ腕は、眩いばかりの光へとカミュを誘って行く。
それは、命を懸けてでも護ると誓った幼い少女の腕。
『勇者』ではなく、カミュという人物を信じる少女の腕。
純粋な瞳で物事を見て、純粋な心で受け入れる暖かな腕。
カミュは無意識でその腕を握り返していた。
誰よりも『人』に絶望し、誰よりも己の生を諦めていた者が、自分を生へと引き上げるその腕を何よりも強く握り返す。
闇と呪いの言葉に満たされた真っ暗な世界から、一気に引き上げられるような浮遊感を覚えながらも、カミュはその心地良い暖かさに笑みを漏らした。
周囲を覆う空気とは相反するような表情を浮かべたカミュは、そのまま上空に見える光の先へと浮上して行く。
カミュを『人』に留まらせている小さくとも強い腕が、カミュの意識を引き上げたのだ。
開けて行く視界は、眩いばかりの光に満ちていた。
暗く寂しい洞窟であるにも拘らず、カミュの瞳に映る世界は、先程までとは色どりが異なっている。何もかもが輝いて見える程、彼の世界は、様変わりをしていた。
それは、自身の生きる目的を見つけた者の視界なのかもしれない。
もう一度力強く握り締めた<草薙剣>を構えたカミュは、不敵に口端を上げる。
「……悪いな……俺はまだ、死ぬ訳にはいかない」
生まれ変わった『勇者』の動きを止められる程の実力を<ミミック>は有していない。ましてや蝶番が外れかけた箱であれば、尚更である。
それは、もはや魔物ではなく、只の箱。そのような物に、心を決めた『勇者』と相対する能力が有ろう筈がないのだ。
瞬時に間を詰められた事に驚いた<ミミック>は、先程唱えた<ザラキ>とは異なる呪文を詠唱しようとするが、時既に遅し。目の前に迫る剣を避ける事も出来ず、その身体を岩壁へと吹き飛ばされた。
「ベギラマ」
壁に叩きつけられて尚、呪文を詠唱しようと蓋を開いた<ミミック>へ向け、カミュが即座に詠唱を行う。開かれた口に飛び込んだ光弾は中で弾け、<ミミック>の体内を炎の海と化し、苦しむように転げ回る箱に、カミュの止めの一撃が振り下ろされた。
渾身の力を込めて振り下ろされた剣は、燃え盛る木箱を容赦なく粉砕し、只の木片へと変えて行く。飛び散らばる木片は、<ベギラマ>の炎に巻かれ、炭のように黒く朽ち果てて行った。
剣を一振りして鞘へと納めたカミュは、一つ息を吐き出した後、自分が歩んで来た道を振り返る。入口から続く通路は、燭台に灯る淡い灯りによって照らし出されてはいるが、奥がはっきり見える程の物ではない。
だが、その先で待つ者達が見えたような気がしたカミュは、小さく笑みを溢し、再び歩き出した。
「ここまで明確だと、近寄る気にもならないな」
このフロアにあった机は四つ。
その上に乗っていた宝箱も四つ。
その内の二つをカミュは開けた事になる。
残る宝箱も二つ。
入口から見て右手にある二つの宝箱を開けたカミュは、一応反対側にある二つの宝箱に目を向けた。
しかし、入口に近い方にある宝箱を乗せている机の脚の周りには、先程の<ミミック>の傍にあった以上の骨が転がっている。それが示す物は、入口近くにある宝箱もまた、宝箱の擬態した魔物であるという事実。
それを理解したカミュは、その机に近付く事無く、隣の綺麗な机へと近付いて行った。
「……これは……種か?」
人骨などのない綺麗な箱を小突いた後、その箱を開けて中を覗き込んだカミュは、何も無い箱の中に残る小さな物を指で摘む。それは、以前に何処かで見た事のあるような小さな種のような物。
近づけてみている内に、それは先程カミュを闇から引き上げてくれた少女のポシェットに入っていた物と同質の物である事に気が付いた。
<かしこさの種>と呼ばれるその神聖な種は、食した者の『かしこさ』を僅かに上げるという物。実際の効力は定かではないが、そのような伝承が残っている以上、何らかの効力はあるのだろう。
「持ち帰っても仕方がないな」
独り言のように呟きを洩らしたカミュは、その種の徐に口へと放り込み、奥歯で噛み砕き、一気に飲む込んだ。
得体の知れない物であれば別ではあるのだが、この青年の中で、この種の伝承を口にした者への信頼は大きいのかもしれない。メルエが持っていた物と同じ形をした物であれば、<かしこさの種>に間違いはないと考え、その効力を確かめようと思ったのだろう。
「然して、大きな変化はないような気もするが……」
種を飲み込んだ際に、若干頭が冴えたような気もしなくはないが、それも気持ちの問題程度の物。本来、自身の『かしこさ』等は自覚できない物であり、その高低は他人からの視点でなければ、図る事は不可能なの物なのだ。
故に、その者自身の目覚ましい向上などを実感する事なども無く、元々理解力等が劣っている訳ではないカミュなどには、効果すらもあるかどうか疑わしい物であった。
全ての箱を確認し終えたカミュは、そのまま真っ直ぐに伸びた通路を進んで行く。<たいまつ>の炎を燭台へと移しながら歩んで行くと、左側に進む為の通路しか存在しない空間へと出た。
魔物等に警戒しながら、周囲へ<たいまつ>を向け、左手に見える通路へと進んで行く。道なりに進んで行くと、暗い通路の奥に下の階層へと続く階段が見えて来た。
しかし、カミュはその階段へ向かう事をせず、近くの燭台に<たいまつ>を置き、背中の剣を抜き放つ。
「一対一であれば、負ける事はないか……」
背中の剣を抜き放ったカミュは、直前に訪れているテドンへと向かう途中でリーシャが口にした言葉を復唱した。
カミュが目指すべき階段を護るように佇むのは二体の鎧。
闇の溶けるような色をした甲冑を着込んだ魂が二体、刃毀れした剣をカミュに向けて立っていたのだ。
<地獄の鎧>と呼ばれる死者の魂は、先に進む為の試練とばかりに、カミュの前に立ち塞がっている。一対一であれば、カミュの言葉通り、負ける事はないだろう。
だが、他に仲間がいない中で、カミュがこの二体を駆逐出来るかと言われれば、それは不確定な物となる。
「やぁぁ!」
瞬時に間を詰めたカミュは、そのまま横薙ぎに<草薙剣>を振るう。その剣速に反応が遅れた一体の鎧に傷をつけた剣は、その鎧から闇の魂を吐き出させた。
鎧から漏れるように染み出す闇に追い打ちを掛けようと駆け出そうとしたカミュの横合いから、刃毀れした剣が突き出される。駆ける速度を緩めず、カミュが掲げた<魔法の盾>は乾いた音を発して、<地獄の鎧>の剣を弾き返した。
無言で詰め寄って来る無傷の<地獄の鎧>を差したカミュの指先に魔法力が集中する。
「メラ」
詠唱と共に、今では小さく思える火球が<地獄の鎧>に向かって飛び出した。
<地獄の鎧>相手に、この最下級に位置する火球呪文は効果が無い事はカミュも理解している。だが、目くらましにも似た形で行使した<メラ>は、<地獄の鎧>の兜部分に命中し、それに怯んだ隙を突いて、カミュは先程傷を負ったもう一体の<地獄の鎧>に再び剣を振るった。
一度目は、魔物が手にする剣によって防がれた<草薙剣>ではあったが、返す剣でその喉元を狙って突き入れられる。
「グモォォォ」
突き入れられた剣は、<地獄の鎧>の兜と鎧の隙間に滑り込み、そのまま下へと降ろされた。
生物の声ではない奇妙な音を立てて倒れ込む鎧の正面は、喉元から真っ直ぐ斬り裂かれている。
最早、闇の魂が溢れ出す事を止める事は出来ず、静かな洞窟内に溶けて行くように消えて行った。
「……これで一対一だ……」
一体を倒したカミュの前には、未だ無傷の<地獄の鎧>が態勢を立て直している。しかし、それでも一対一という状況になっている以上、カミュがここで倒れる事はない筈である。
全てリーシャの言葉を鵜呑みにすればの話ではあるのだが、その言葉を自分の実力以上に信じる心をこの青年は既に持ち得ていた。
アリアハンを旅立った頃から、三年近くの間傍で見て来た屈指の騎士が、『一対一ならば、カミュは負けない』と語ったのだ。
それは、絶対的な信頼感を持つ言葉となる。
「たぁぁ!」
一気に距離を詰め、剣を突き出したカミュは、それを防ぐ為に出された<地獄の鎧>の剣を盾で妨害し、それを岩壁に押し付ける。激しい音を立てて岩壁に直撃した<地獄の鎧>の右腕から、刃毀れした剣が床へと落ちた。
岩壁との衝突の瞬間には、カミュの突き出した<草薙剣>は深々と鎧の胴体に突き刺さっており、それを引き抜き飛び退く際に、カミュは真っ直ぐ脳天から剣を振り下ろす。防ぐ手段を奪われた<地獄の鎧>は動く左腕を掲げるが、その足掻きは無駄に終わり、腕諸共に脳天から斬り込まれた。
「ぐうぅぅ」
腕を切り捨てられて尚、<草薙剣>に抗うように動く<地獄の鎧>を鎧ごと切り捨てようと力を込めたカミュは、そのまま真っ直ぐ剣を叩き付ける。脳天から斬り込まれた剣は、そのまま胸から下腹部までを斬り裂き、<地獄の鎧>を縛りつけている呪いを解いて行った。
硬い金属製の鎧を力任せに斬って尚、カミュの持つ<草薙剣>は刃毀れ一つせずに、燭台の炎に照らされて輝いている。遠い昔、祖国ジパングの国で神代の剣と崇められ、天孫降臨と共にこの世に降り立った剣は、眩いばかりの輝きを放っていた。
魔物であった鎧の残骸を見下ろしながら、剣を一振りしたカミュは、その剣を掲げるようにして眺め、何やら考え込み始める。それは、この剣を手にしてから、常日頃を通じてカミュが疑問に思っていた事であった。
例え、神代の剣といえども、現代に残っている金属で出来た剣である事に変わりはない。それにも拘わらず、どのような敵であっても斬る事に苦労する事はなく、そして、どのような硬い物を斬っても刃毀れする事もなかった。
「この剣には、<ルカニ>か<ルカナン>のような防御力低下の付加があるのか?」
<ヤマタノオロチ>という龍種と戦闘を行った時も、この剣は刃毀れ一つしていない。
如何にサラやメルエの<バイキルト>という呪文の効力があったとはいえ、世界最高の種族である龍種の鱗を斬り裂くには、武器自体にもかなりの負荷が掛かる筈なのだ。
実際に、リーシャの持っていた<鉄の斧>は、ジパングでの戦闘後には限界を迎えていたし、そんな戦闘の中でも鱗を突き破り、尾を切り裂き、最後には<ヤマタノオロチ>の顎下から首までを斬り裂いた<草薙剣>には、カミュの言うような付加が備わっていたとしても不思議ではない。
しかし、考えても答えは出ない物でもあり、カミュは暫く剣を見つめた後、静かに背中の鞘へと納めた。
既に下の階に降りる階段を塞ぐ者達はいない。先程の戦闘で朽ち果てた鎧を乗り越え、カミュは下層へと続く階段を下りて行った。
色々な者達の『想い』によって護られているのは、何も幼い少女だけではない。
世界を救うという目的を掲げながらも、その目的を達成する考えを微塵も持っていなかった青年は、その目的へ向かう旅路の中で、様々な出会いを重ね、様々な想いを見る事となる。
『人』の醜い部分を多く見て来たその者は、それが『人』だと悟り、全てを諦めて生きる中で、『人』の本当の心を知った。
知り得た『心』という物が自分にも存在する事を知り、その者は『人』となって行く。
全ての始まりは、あのアリアハンから。
彼が望んでいた一人での行動は、今は異なる意味を持つ道となる。
読んで頂き、ありがとうございました。
久しぶりのカミュの一人旅です。
ここもまた、『遙かなる旅路』が聞こえて来る雰囲気に仕上がっていれば嬉しいです。
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