新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

141 / 277
過去~テドンの村~

 

 

 

 そこはとても穏やかな空気が流れる集落であった。

 草花は優しく咲き、近くにある山から吹く風と呼び込まれる雨雲、そして暖かな陽光などの恵みを受けた作物は、傍を流れる多くの河川の影響もあり、実りがとても良かった。

 次第にその場所には数多くの『人』が集まり、集落は『村』としての形態を成して行く。作物を育てる者がいるのと同時に、傍の河川で魚を釣る者達や森で獣を狩る者達も増え、人々は寄り集まる事で生活の水準を上げて行った。

 

 文化と呼ばれる物が浸透して行き、この村が<テドン>という名で認識されるようになる頃には、村の中には幾つかの店も立ち始め、村の様相は加速的に変化して行く。更には移住する人間も増え、村の人口は急速に膨れ上がった。

 村のあちこちで人々の喧騒が聞こえ、子供達の泣き声や笑い声が響き渡り、古い命は土に還り、新しい命が産声を上げる。そんな生物として当たり前の営みが繰り返されて行った。

 

「また魔物に襲われた!」

 

 そんな平和な日々は突如として終幕を迎える。

 『魔王バラモス』の台頭である。

 世界を覆う程に強大な魔王の魔力は、世界の各地で暮らしていた魔物達の凶暴性を呼び覚ました。

 それが生来の性質であったのか、本来の本能であるのかは解らない。だが、『人』にとって脅威である事に変わりはないのだ。

 村の外に出て狩りや釣りを行っていた者の中で魔物に襲われて命を落とす者達が増えて行く。村自体の存続を脅かす程ではないが、本来の天命を全う出来ずに土へ還る者達が多く、働き手の数は急速に減って行った。

 

 

 

「お前達はここで暮らしなさい。ここであれば、安全に生きて行けるだろう」

 

 <テドンの村>と呼ばれる場所に、若い一組の夫婦が訪れたのはそんな時であった。

 老人と呼ぶには余りにも若い男性に連れられた二十歳になるかならないかの男女は、新たな土地に目を輝かせ、二人で微笑み合う。元々多くの移民によって大きくなった村であった為、その若い夫婦は村人達から歓迎を受けた。

 働き手である若い人間の数が減って行く中で訪れた幼い夫婦は、村の年長者達に可愛がられ、村の一角にあった空き家を譲られる事となる。

 

「では、私はそろそろ行こう。ある程度は大丈夫であろうが、余り目立つような事はするな」

 

「はい、お爺様」

 

 住居も決まり、若く幼い二人が新たな生活の始まりに胸を躍らせている様子を見ていた初老の男性は、苦笑に近い表情を浮かべながらも口を開いた。

 若い夫婦の女性の方が、この男性の孫に当たるのだろう。男性の注意を何処まで真剣に聞いているのか解らない程の笑顔で頷く孫娘に、男性の苦笑は強い物となって行く。

 最後に孫娘の夫となる青年の掌に収まる程の緑色に輝く小さな珠を手渡した男性は、テドンから去って行った。

 

 若く幼い夫婦がテドンに居を構えたその日から、この村の状況は一変した。

 村の裏手にある、魔王の城があると噂されていたネクロゴンドの山々から降りて来ていた瘴気は、まるで村を避けるように流れ、新鮮で済んだ空気が村を満たして行く。村に程近い場所であれば、魔物に襲われる事も少なくなり、人々の生活に再び安寧が訪れたのだ。

 

「アンタ方がこの村に来てくれてから、村もまた昔に戻ったようだよ。アンタ方二人は、ルビス様がこの村へ遣わされた守り神なのかもしれないね」

 

「あはは。そんなに褒めて貰っても何も出て来ませんよ」

 

 村で暮らす者達の心に余裕が生まれ、笑顔が戻って行く。村を訪れる貿易船なども再開され、村に活気も戻った。

 それは、とても強い力を生み出し、『人』の営みは成長を重ねて行く。元々恵まれた土地であった<テドンの村>に植えられた作物が、この村の名産となって行く事もあった。

 

「この生糸で織物を作ろうと思うんだ」

 

「良いと思うわよ。私も何か手伝うわ」

 

 そんな新たな事業の一つに、昆虫の作り出す物を製糸する技術という物があった。

 それは、この村に移住して来た若く幼い夫婦が編み出した物。誰も考え着かなかったその技法は、この夫婦が他者へ伝える事に抵抗が無かった為、瞬く間に村全体へと広がって行く。更にこの夫婦は、作り出した生糸を使って、新たな生地を作り出そうとしていた。

 そして、その思惑は成功を果たす。

 

「へぇ……これは良い物だ。今度ポルトガへ行く時に持って行ってあげるよ。うちの店にも置かせて貰いたいぐらいだ」

 

「ありがとうございます! 是非お願いします」

 

 出来上がった生地は輝くような光沢を持ち、非常に軽い物であった。

 肌触りは今までのどの生地よりも滑らかであり、まるで天の衣にでも触れているのではないかと思ってしまう程の物。それは、長年このテドンで店を営んで来た店主の心をも魅了してしまう。

 店主の言葉に嬉しそうな笑みを浮かべた青年は、深々と頭を下げ、妻の待つ家へと帰って行った。

 

 夫婦はその生地を『絹』と名付け、寝る間も惜しんで生地を織って行く。また、妻の方はその生地を使い、一つの法衣を作り出した。

 この妻は幼い頃から不思議な能力を持っており、魔法力を持ち合わせていないにも拘らず、作り出す物に術式を組む事が出来るのだ。

 その恩恵を受けた法衣は<魔法の法衣>として、テドンの店頭に並ぶ事となる。夫婦が織成す反物は好評を博し、テドンの村内だけではなく、村を訪れる商人や旅人にも購入されて行った。

 

「ポルトガで僕達の織物が高く売却出来たらしいよ」

 

 武器屋の店主に織物を見せてから数か月後、一つの便りがテドンで暮らす若い夫婦の元へと届けられる。ポルトガという貿易大国へ品物を運び入れた武器屋の店主が、個人的な人脈を辿りながら、ポルトガの商人達に『絹』の織物を売却したのだ。

 そして、その商人はポルトガ王室のお抱え商人であり、後々は王宮からも注文が来るかもしれないという嬉しい情報まで付けられている。そんな情報に、若い夫婦は心から喜んだ。

 

「良かったわね。あなたが頑張ってくれたお陰よ」

 

「これで、生活に不自由はなくなるね」

 

 しかし、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。

 それは、その身体を流れる血に掛けられた呪いのように。

 平和な世であれば、誰しもが手にする当たり前の幸せ。

 それは、儚く散って行く事となる。

 

 

 

「見てくれ。こんなにゴールドが入って来たよ。しかも、追加の注文もこんなに貰った」

 

「凄いわね」

 

 初めてポルトガへの貿易が成功してから数年後。

 再びポルトガから戻って来た武器屋の店主から渡されたゴールドは、夫婦の予想を遙かに超えた物であった。

 お抱え商人が少しずつ王室へ入れていたのだが、王室の人間が大層気に入ったと言う事で、その商人は『絹』の経路を独占しようと考えたのだ。

 その為、多額の金額を払い、注文を出して来る。武器屋の店主に仲介手数料を支払ったとしても、残った額はとても多く、数年は遊んで暮らせる程の物だった。

 横領などをする事もなく、誠実に対応してくれた武器屋の店主に感謝しながらも、夫は新たな意欲に燃えて行く事となる。

 

「お前は、生まれたその時からお嬢様かもしれないぞ?」

 

「ふふふ、駄目よ。この子は普通に暮らすの。私とは違って、普通の子供達と同じような幼少時代を過ごして、私と同じように幸せな結婚をする。ずっと幸せに生きて行くのよ」

 

 その意欲の元は、妻の膨らみを見せ始めた腹部にあった。

 彼等がこの村で暮らし始めて数年の月日が流れている。幼い夫婦であった二人は、既に壮年という年代に足を掛け始めていた。

 彼女達が待ち望んだ子宝は、今順調に育っている。愛おしそうに自分の腹部を撫でる夫の言葉に、妻は思わず噴き出してしまい、一通り笑った後、少し厳しい瞳を夫に向け、その言動を窘めた。子供の幸せを願わない親はいない。

 愛する者との間にようやく授かった子宝であれば尚更であろう。しかし、妻の考える子供の幸せは、通常の家庭で暮らす夫婦の物とは異なりを見せていた。

 

「そう言えば、武器屋のおやじさんは、変わった物を購入したようだったよ。それが本当に奇妙な物でね……只の古ぼけたランプなのだけど、とても高価な物らしい」

 

「ポルトガの王室で使われていたランプなのかしらね?」

 

 微笑ましい夫婦のやり取りの後、妻の腹部に耳を当てながら口にした夫の言葉は、何故か頭に残る物だった。

 何が気になるのかなど解りはしない。だが、そんな小さな話題は、何故か妻の頭の隅に張り付いて離れる事はなかった。

 そして更に月日は流れて行く。幸せの時間を削り取って行くように流れる季節は巡り、諸悪の根源の伸ばす黒い影は、音も立てずに忍び寄っていた。

 

 

 

「う~ん……今日もだね……」

 

「そうね……外はもう暗くなっているのに、何故か眠くないわ。まるで、今起きたばかりのよう」

 

 月日は流れ、若い夫婦の間には無事に元気な赤子が誕生していた。

 珠のように輝く女の子。まるで春の陽射しのように暖かな微笑みを浮かべる子で、泣いて両親を困らせる事も少ない。何かを掴むように伸ばされた手を何度も動かし、可愛らしい声を上げていた。

 

「あらあら、貴女も元気ね」

 

 夫婦の間に子供が産まれた頃から、テドンの村では不思議な現象が続いて起き始める。夫婦の会話の内容のように、外が暗くなっているにも拘わらず、身体が眠りを欲していないのだ。

 まるで、朝起きたばかりの状態のまま、一気に夜まで時間だけが過ぎ去ってしまったかのような物。置き去りにされた身体は、その不可思議な現象に警告を発しているようにさえ思えた。

 抱き上げた赤子も、夜とは思えない程元気に身体を動かしている。伸ばされた掌を口に入れる母親を見て、可愛らしく笑い声を上げていた。

 

「しかし、ここ数年、お爺さんは来て下さらないね。この子を見て欲しいのに」

 

「ふふふ。そろそろ何気ない顔をしてドアを開けるわよ。それに、この子の名前は、ずっと昔にお爺様には伝えてあるから」

 

 妻に抱き上げられて微笑む我が娘を見ていた夫は、黒い雲が広がる空へ視線を移す。彼等をこの場所へ連れて来てくれた妻の祖父は、あの時から一切顔を出す事はなかった。

 数年間の間、会う事もない祖父の顔を思い浮べた妻は、柔らかい笑みを浮かべながら、夫の言葉に答えを告げる。それは、夫にとっては良く解らない物であり、首を傾げた夫の姿を見た妻は、再び可笑しそうに笑いを溢した。

 

「私が小さい頃、お爺様に連れられて色々な所へ行ったの。最後にあなたが暮らしていた村に辿り着くのだけど、その中で、色々な事をお爺様とお話したわ。その時に、私が何時か女の子を産んだら付けようと考えていた名前もお爺様に教えてあるの」

 

「そうだったのか……お前の名前は、お母さんが小さい頃から考えていたらしいよ」

 

 妻の話で疑問が解けた夫は、可愛らしく笑う頬を突きながら、それを我が子へと伝える。元気に腕を振りながら笑う娘の姿に、妻も柔らかく微笑みを返すが、窓の外に広がる黒い雲が、ネクロゴンドの山から下りて来ているように見え、何処か言いようのない不安が胸に広がり始めていた。

 

 そして、事態は最悪の方へと動き出す。

 

 

 

「魔物だぁ!」

 

 それは予告もなく訪れ、村の全てを蹂躙して行く。太陽が沈み始めた頃に突如として北の山から現れた魔物の大群は、村の人々を次々と喰らい、殺して行った。

 その勢いは凄まじく、瞬く間に人々は地へと伏して行く。村の到る所に食い千切られた『人』の身体の一部が転がり、大地の全てを染め上げる程の真っ赤な血液が飛び散っていた。

 空は真っ黒な雲に覆われ、太陽の光も神の威光も届かない。『精霊ルビス』へと捧げる村人達のささやかな祈りは、次々と村に降り立つ魔物達によって遮られる事となる。

 

「な、なんだ……一体、何が起きているんだ?」

 

 外から響く悲鳴を聞いた武器屋の店主は、慌てて外へと飛び出した。

 そこで目にした物は、阿鼻叫喚の地獄絵図。救いを求めるように伸ばされる人々の手は、天に届く事無く地面へと落ちて行く。年老いた者達の叫び声や、我が子を護る親の悲鳴。子供達は泣き叫び、その叫びは苦悶の呻きと共に途絶えていた。

 自分の瞳に映り込む現状を理解する事が出来ない店主は、呆然とその光景を眺めながら、身体を震わせる。その時、自分の顔面に生臭い液体が掛り、片目の視界が真っ赤に染まった。

 

「クケケ。ソウカ……オ前ガ、コノ場所ヲ知ラセテクレタノカ……ナラバ、セメテモノ礼ニ、コノ俺様ガ殺シテヤロウ」

 

 店主の赤く染まった視界の中に現れたのは、巨大なフォークのような武器を持った小さな魔物。いや、聞き取り辛くはあるが、しっかりとした人語を話す姿は、魔物と言うよりも『魔族』なのだろう。

 闇が広がり始めた村の中でも一際目立つ緑色の小さな身体を揺らしながら近付いて来たそれは、店主を見つけると意味深な言葉を発した。

 その魔族の言う通りであれば、この多数の魔物を村へ呼び込んだのは、店主自身だというのだ。全く理解出来ない店主は魔族を唖然と見つめるが、次に告げられた言葉は店主の身体を突き動かす程の物だった。

 

「ケケケ。逃ゲルノカ? 逃ゲテミロ。ユックリト、ジックリト殺シテヤロウ」

 

 身を翻すように自宅へと戻る店主を見た魔物は、それが滑稽な事とでも言うように笑い声を上げる。後方から響く、身も竦むような不快な笑い声を聞きながら、店主は自分の店へ駆け、そして扉を閉めた後に厳重な鍵を掛けた。

 それが魔物に対してであれば、何の救いにもならない事を彼は知っていたが、それでも縋るしかなかったのだ。

 震える手で何とか鍵を掛けた店主は、二階へと続く階段を駆け上がる。外から聞こえて来る叫び声や悲鳴は、時間と共に少なくなっているようだった。

 

「これを……私がこれを使ったからなのか? これさえ手にしなければ、魔物がここに来る事はなかったのか?」

 

 二階へと駆け上がった店主は、ベッドの傍に置いてあった木箱を取り出した。

 その木箱の中に入っているのは、ポルトガとの貿易で先日手に入れたばかりの品。

 誰が見ても無駄金を払ったと考えるような古ぼけたランプであり、それを嬉々として持ち帰った彼を家族でさえ罵倒した程だった。

 しかし、この古ぼけたランプには、ある伝承があったのだ。それを彼は、この村に戻った後、何度か試している。

 最初の頃はその伝承への疑念と恐怖から使用する事はなかったのだが、自身の中に湧き上がって来る好奇心を抑えきれず、ここ最近では使用頻度を上げていた。

 

「あなた、何があったのですか!?」

 

「うぅぅん」

 

 店主が木箱を取り上げた時、奥の部屋から彼の妻が飛び出して来た。

 外の騒ぎを聞き、店主が外から戻るのを待っていたのだろう。眠たそうに目を擦る幼い子供を抱えながら血相を変えて夫である店主へと詰め寄って来た。

 既に何かを察しているのかもしれない。目は血走り、唇や手が小刻みに震えている。そして、その血走った目は、店主の手の中にある木箱で止まり、鋭く釣り上がった。

 

「こんな時でもそれが大事なのですか!? そんな小汚いランプの方が、私達よりも大事なのですか!?」

 

「いや、違う!」

 

 店主の妻は、自分や子供の無事を確認する前に木箱へと手を伸ばした店主を許せなかったのだ。

 外の状況は店主の妻には解らない。だが、窓から見た限り、何か恐ろしい物が村を襲っている事だけは理解出来た。

 そんな恐ろしい状況の中、震えながら待っていた自分が見た物は、何の役にも立たない古ぼけたランプの入った木箱を大事そうに抱える夫。それは、店主の妻の精神を繋ぎ止めていた最後の糸を容易く切り落としてしまった。

 

「何が襲って来たのですか!?……私達はどうなるのですか!? そうね……私達は死んでしまうのよ! 皆、死んでしまうの!?」

 

「おい!」

 

 半狂乱になった店主の妻の発する言葉で理解出来るのは、最初の問い掛けだけ。精神の糸が切れてしまった彼の妻は、眠たそうに目を擦っていた子供から手を離し、床へと落としてしまう。

 突如自分を襲った衝撃に子供は泣き出し、半狂乱になった店主の妻は、虚ろな瞳で彼の横を通り過ぎて行った。

 人の心は脆い。

 特に追い詰められた時、その人間を形成して来た物が表に出て来てしまうのだ。

 彼女は、今まで何不自由なく暮らして来たのだろう。突如襲った言いようのない恐怖が彼女の心を不安にさせ、縋ろうとした夫に裏切られた事によって、その精神を崩壊させてしまった。

 それは、この状況では命取りになる程の行為。

 

「クケケ。ソウダ、オ前達ハ死ヌノダ」

 

「ごふっ!」

 

 突如響き渡った崩壊音。店主が一代で築き上げて来た武器屋の二階の壁が破壊され、飛び込んで来た鋭い武器によって、彼の妻は串刺しにされた。

 胸から入ったフォーク型の武器は、そのまま背中から突き出し、真っ赤な血液を天井へと噴き上がらせる。奇妙な声を発した店主の妻は、そのまま壁に叩きつけられ、無残に身体を弾けさせた。

 それを行った者は、店主の胸程しかない身長ながらも、『魔族』と呼ぶに相応しい力を見せつける。

 

「子供モイルジャナイカ……美味ソウダナ。ソイツハ俺ガ喰ッテヤロウ」

 

「待ってくれ! 子供だけは……」

 

 魔族の言葉に木箱を落とした店主は、泣き叫ぶ子供の前に立ち塞がろうと動くが、只の人間が魔族に適う訳はない。フォーク型の武器の一振りによって吹き飛ばされた店主は、壁に叩きつけられ、大量の血を吐き出す事となる。痛む身体を動かしながら、真っ赤に染まる瞳を開いた店主が見た物は、泣き叫ぶ我が子を頭から喰らう魔物の姿。

 飛び散る血液と共に子供の叫びは途絶え、店主の心を絶望が満たして行く。

 

「あんなランプを手に入れなければ……」

 

「クケケ。ソウダ、全テハオ前ガ原因。<闇ノランプ>ヲ使用シテクレタオ陰デ、コノ村ヲ見ツケル事ガ出来タ。ココハ、何カガ邪魔シテイテ、俺達ノ目ヲ避ケテイタカラナ」

 

 崩れ落ちる店主の傍に、真っ赤な血液を口から滴り落とす魔族が歩み寄って来た。

 店主が呟いた言葉に答えるように告げられた事実に、店主の瞳から涙が零れる。自分が好奇心に負けた事によって、この村は魔族の襲撃対象となったと言うのだ。

 それがどれ程に罪深い事か。この村で暮らす全ての人間の命を、彼が奪ってしまったと言う事と同意なのである。

 その罪は、『人』である以上、万死に値する程に重い。

 

「ぐはっ!」

 

 そして、店主はその罪を身体に受ける事となった。

 深々と突き刺されたフォーク型の武器は、店主の身体の内部を破壊し、その生命活動を停止させる。瞳から色を失くす手前に店主が最後に見た物は、自分の妻であった物と子供であった物の残骸。失くそうと思っても消えない記憶を刻みつけられ、彼の魂は冥府へと旅立って行った。

 

「<闇ノランプ>等、既ニ必要デハナイ」

 

 店主が落とした木箱へ視線を送った『魔族』は、そのまま二階の床を突き破り、外へと躍り出る。既に村の中には人間の肉片と血液が飛び散り、人間としての原型を留めたままの物は存在しない。

 元々、人間の細かな区別が出来ない魔物や魔族からすれば、どれが目当ての人物かなど、見分ける事も出来ないだろう。全てを喰らい尽くし、全てを破壊し続ける魔物達と共に、その魔族も村の中を縦横無尽に駆け回って行った。

 

 

 

「君は、これを持って逃げるんだ」

 

 武器屋の店主が魔族に襲われていたその頃、村の一角にある小さな家屋の中でも、一つの夫婦のやり取りが行われていた。

 その妻の腕の中にも、同じように子供の姿。だが、その子供は武器屋の子供とは異なり、生まれて間もない赤子である。その赤子を抱いた妻に、夫である男は一枚の翼を差し出していた。

 その夫婦は、数年前にこの村に来た者達。

 『絹』という名産を作り出し、ポルトガ国を相手にようやく軌道に乗り出した事業を進めていたあの夫婦であった。

 外の騒ぎを聞いた夫が扉を少し開けて外の様子を確認し、即座に家の中へと戻って来ていたのだ。

 

「これは、<キメラの翼>?」

 

「ああ、あの珠と共にお爺さんから貰っていたんだ。このような事態があったのなら、これを使うようにと言われていた」

 

 夫が妻へ手渡したのは、動物の翼の姿をしている物。既に、この世界では希少種となっている<キメラ>と呼ばれる魔物の翼であり、目的地を思い浮かべながらそれを空高く放り投げると、未だに宿っている魔法力がその場所まで運んでくれると言う道具であった。

 既に何処の国家の宝庫にも少なくなり始め、一般の人間の手に入る事などない物。しかし、夫はそれを託されたと言うのだ。

 

「で、でも、それならばあなたも一緒に」

 

「駄目だ。こうなってしまったら、君が逃げる時間だけでも誰かが作らないといけない」

 

 抱いている赤子は、気持ち良さそうに眠りについており、外の喧騒などお構いなしに寝息を立てている。そんな赤子の顔を愛おしそうに眺めながら、夫は妻の肩を抱いた。

 震える妻の声を包み込むように、そして何よりも強く諭すように告げられた言葉には、それ以上の反論を許さない程の厳しさが備わっている。その覚悟と想いを理解した妻の瞳に涙が溢れ始め、それは即座に床へと落ちて行った。

 

「でも……でも……」

 

「良いかい? 君は、村の外へ出たらすぐに、これを空高くに放り投げるんだ。その時に思い浮かべる場所は解っているね? 僕と君が出会ったあの村ではないよ。君がお爺さんと旅した時に一番安全だと思った場所へ行くんだ」

 

 この夫婦が出会った村とも呼べない集落は、既にこの世界には存在しない。祖父と共にその集落を訪れた彼女は、その村で過ごし、育った。

 その時に共に時間を過ごした彼と恋に落ち、そして共に生涯を生きる事を『精霊ルビス』へ誓ったのだ。

 だが、その集落は、今のこの村と同様に、魔物の襲撃を受けて一晩で滅びる事となる。

 突如襲って来た魔物の大群に蹂躙されて行く集落の中、彼女達夫婦は、彼女の祖父によって救い出され、このテドンへと逃げ延びていたのだ。

 

「いや! いやよ! 三人で行きましょう? あなたがいない世界をどうやって生きて行けと言うの?」

 

「ごめんよ……だけど、君は死んではいけない。この子と……僕と君の愛すべき娘と共に生き延びておくれ」

 

 最後に娘ごと妻の身体を抱き締めた夫は、小さな呟きを妻の耳へと告げる。

 それは、妻の言い分への完全な拒絶。

 三人で逃げ延びる事が出来ない事は、外の状況を見る限り理解出来る。それを夫だけではなく、妻も理解している筈。

 それを理解していても尚、その希望を捨て切る事が出来ない妻に、夫は優しく事実を告げたのだ。

 それはとても優しい別れの言葉であり、とても残酷な拒絶。

 妻の目に溢れていた涙は、次々と夫の衣服を濡らして行く。

 

「さあ、この家まで魔物達が来るのも時間の問題だろう。僕が家の前にいる魔物達の注意を引くから、その間に村の外へ。外で出たらすぐに<キメラの翼>を使うのだよ」

 

 <キメラの翼>という道具といえども、その原動力は翼に残る魔法力の残骸である事に変わりはない。村の中でそれを使用すれば、魔法力自体が村の外へと飛び出してしまう為、魔物に発見され、追尾される恐れがあった。

 故に、夫は村の外へ出てからだという事を強く伝えているのだ。そんな夫の言葉を聞いても、未だに衣服の裾を掴んで離さない妻の手を優しく握り、夫はもう一度大きく頷いて見せる。

 『大丈夫』、『心配いらない』と。

 

「うぅぅ……あなたと一緒に生きたいわ。どうしても駄目なの?」

 

「これは僕の我儘で、自己満足かもしれない。でもね、僕は君と愛する娘を護る。それは、僕の誇りなんだ。勝手なお願いだけど、僕の事は引き摺らないで。僕は君とこの子の幸せを常に願うから」

 

 妻の瞳の中に溢れる涙とは別の光を見た夫は、もう一度その決意を語る。彼は妻の強さを知っているのだ。

 その身に流れる尊い血によって、この世のあらゆる苦を背負いながらも常に前を向いて歩いて来た彼女の強さを。

 だからこそ、心からその幸せを願う。

 『自分自身の手で幸せにしたかった』という想いを捨ててでも、彼女とその娘の為に自己を犠牲にする事を厭わないのだ。

 それは、彼の言う通り、我儘なのかもしれないし、只の自己満足なのかもしれない。彼の大事な妻の心に、また一つ重みを与えてしまう行為なのかもしれない。

 だからこそ、彼は恐怖による脂汗が滲む中、精一杯の笑顔を作った。

 

「ありがとう。でも、私は生涯をあなたと共にと誓ったわ。身体は離れても、心は常にあなたと共に……うぅぅ」

 

 最後の最後に泣き崩れてしまったが、妻の言葉を聞いた夫の顔に、虚勢ではない笑顔が浮かぶ。静かに眠る我が娘の頬を軽く突いた彼の顔が再び変化し、表へと出る扉へ視線を送った。

 それは正しく父の顔であり、愛する妻を護る夫の顔。

 『人』の中でも最高位に位置する程の強さを持つ『男』の顔であった。

 最後に妻と口づけを交わし、一気に扉のノブに手をかける。外に出た夫の顔は、その凄惨な光景を見ても何一つ変わる事はなかった。

 

「さあ、行くんだ。僕と君の大事な宝を頼んだよ」

 

「いつか……いつか再びあなたと巡り合うわ。その時も私はあなたを見つけるから、またお嫁さんにしてね」

 

 妻の言葉を聞き、その場にそぐわぬ程の喜びを感じた夫の心に、更なる勇気が生まれて来る。

 来世など、本当にあるのかどうかも分からない。だが、彼女がこう言う以上、きっと自分を見つけてくれるだろう。そんな想いを感じた夫は、大きく頷きを返した。

 幼い赤子を抱いた妻も、頬を伝う涙を拭いもせずに満面の笑みを浮かべる。その微笑みは、太陽のように輝きながら彼の背を後押ししてくれて来た。

 そんな短くとも幸せな日々を想いながら、その夫婦は永遠の別れを迎える。

 

「行くんだ!」

 

 夫の言葉に対し、妻はもはや振り返る事はない。村の出口へ向かって一気に駆け出した。

 下を見れば、真っ赤に染まった肉塊が転がり、周囲は血生臭い不快な臭いが満たしている。闇に身を隠しながら懸命に走る妻の背中を見た夫は、自分の目の前に迫る魔物から妻の姿を隠すように立ち塞がった。

 しかし、近づいて来た魔物は、彼の数倍以上もある体躯を誇る化け物。

 だらしなく垂れ下がった舌からは涎が垂れ、獣の皮のような物で辛うじて隠された肉体もまた、肉がだらしなく垂れている。その魔物の姿を見た彼は、自身の命を完全に諦めた。

 

「グモォォォ!」

 

 魔物が振り被った拳だけでも、自分の身体程の大きさがあるのではないかと感じてしまう程の圧倒的な暴力。

 そのまま横殴りに飛んで来た拳は、彼には見えない程の速度で、彼の身体を粉砕した。

 当たった瞬間、身体中の骨が砕けてしまったのではないかと思う程の衝撃を受けた彼は、そのまま自宅の壁を突き破って吹き飛ばされ、反対側の壁に直撃した彼の身体の到る所から血液が噴き出し、そのまま彼は崩れ落ちた。

 

「グモォォォ!」

 

 家の外では、勝利の雄叫びのような物が響き渡っているが、既に彼の耳には届かない。身体の内部から破壊された彼の命はもはや幾許も残されてはいないのだ。

 辛うじて見える片目の端に、緑色に輝く珠が映り込む。先程の衝撃で彼の懐から零れ落ちたのだろう。

 それは、彼の妻の祖父から託された一つの珠。

 彼女が持つのではなく、自分が持つように言い聞かせられたその珠は、この村の惨状とは反比例するように美しく輝いていた。

 

「ごぼっ……はぁ……はぁ……」

 

 真っ赤に染まる命の源を大量に吐き出した彼は、震える指を傍にあった壁に向ける。

 指先を満たす自身の血液を利用して壁に書いた文字は、彼の娘の名。

 彼の妻が幼い頃から考えていたと語ったその名を、彼もとても気に入っていた。

 太陽のような暖かな光を持ちながらも、照り付けるような激しさを持たない妻に似たとても優しい名。満足そうに愛する娘の名を書き終えた彼は、小さな微笑みを浮かべ、小さくその名を呟いた。

 その名を持つ者の無事を願って。

 そして、その名を持つ者を待つ人生の幸せを願って。

 

 そして、彼は息絶えた。

 その名が書かれた壁の傍には、緑色に輝く珠。

 彼の死を看取った珠は、その輝きを変化させて行った。

 彼の娘の名を聞き取った珠は、その名を刻み込む。

 そして、呪いは掛けられた。

 

 

 

 夫が息絶える頃、彼の妻は懸命に走っていた。

 村の門を越えた彼女は、その手に握り締めた<キメラの翼>を使用する場所を探していたのだ。

 テドンは基本的に森に囲まれている。川沿いまで出れば、森の木々を抜ける事が出来るのだが、彼女の周りには生い茂る木々が満たしていた。

 <キメラの翼>という道具を使用した事が彼女にはない。それと同じ効力を持つ呪文を行使した際に、それを行使した人間の傍にいた事はあるが、その時は全て見晴らしの良い場所であったと記憶していた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 身体能力は通常の人間と何一つ変わりがない彼女にとって、生まれたばかりの赤子とはいえ、それを抱き抱えて走り続ける事には限界があった。

 村を出て、森に入った事で多少の余裕が生まれた事もあり、その速度を緩めて行く。あれ程の騒動の中、相変わらず熟睡している娘の顔を見た彼女は苦笑を浮かべ、傍にあった木に背を預けた。

 

「ここを抜けたら、<キメラの翼>を使いましょうね。あなたは私と彼の宝なのよ。必ず護ってあげるからね」

 

 どんな夢を見ているのか、口元を動かす娘を見ながら語る彼女の顔も、テドンの村で見た夫と同様の物に変わっていた。

 それは、我が子を護る母の顔。

 『人』の中でも頂点に君臨する程の強さを持つ『女』の顔。

 強い決意を持った彼女は、痙攣するように震えている足を叩き、再び森の出口へと歩き始めた。

 後もう少し、もう数本の木々を抜ければというその時、彼女の命運は尽きてしまう。

 

「クケケ。逃ガスト思ウノカ? オ前ヲ殺ス為ニ、俺達ハコノヨウナ村ニ出向イタノダ」

 

 彼女の後方から掛った言葉は、聞き取り辛くはあるが確かな人語。慌てて振り向いた彼女の瞳に映り込んだのは、彼女よりも小さな緑色の身体を持つ魔物であった。

 片手には巨大なフォーク型の武器を持ち、背中には蝙蝠のような羽を生やしている。子供のような瞳は悪意に満ち満ちており、その口から生えた牙からは、新鮮な血液が滴り落ちていた。

 

「ちっ!」

 

 夫の前で見せていた物とは比べ物にならない程に険しい表情を浮かべた彼女は、これまた夫の前で見せた事もない舌打ちを鳴らし、森の出口へと向かって駆け出す。

 その姿に若干の驚きを見せたのは魔物であった。

 『魔族』と呼ばれるその魔物が今まで見て来た人間は、彼の姿を見ると愚かに命乞いをするか、怯えた表情を浮かべながら覚束ない足取りで逃げる者達がほとんどであったのだ。だが、目の前の女は何もかもが異なった。

 逃げるという選択肢は、他の人間と何一つ変わりはない。だが、彼女が向けた視線は、『魔族』である自分と対等の者であるかのような敵意を含んでいた。

 そして、恐怖を感じている筈なのにも拘わらず、彼女の足はしっかりと大地を蹴り、真っ直ぐ走って行ったのだ。

 

「待テ! 逃ゲ切レルトデモ思ッテイルノカ!?」

 

 そんな経験のない物を見た『魔族』の反応が少し遅れてしまう。背中に生やした羽を羽ばたかせた『魔族』は、片手に持ったフォーク型の武器を女性に向けて飛び立った。

 既に『魔族』の標的となった女性は森を抜ける直前まで走り抜けている。森を抜けた所で、その女性に逃げる手段などないと理解はしていても、『魔族』は全力でその背中に向かって武器を突き出した。

 

「ごぶっ……」

 

 森を抜けた彼女の背中に鋭い刃先が突き刺さる。噴き出した血液は闇に覆われた平原の草にかかり、大地を真っ赤に染めて行った。

 しかし、それでも彼女は身体を強制的に動かし、突き刺さった武器を抜いて右手に握りしめていた<キメラの翼>を天高く放り投げる。眩く輝き出す一枚の翼は、その内に残る魔法力を放出し、彼女の身体を包み込んだ。

 

「何!? マ、マテ!」

 

 彼女の思い浮かべる場所は唯一つ。

 幼い頃に祖父に連れられて行った神殿。

 高い山の頂上に聳え立つ絶対不可侵の聖域。

 

 魔法力に包まれながらも、込み上げる血液を大量に吐き出した彼女は、天高く舞い上がり、北東の方角へと飛んで行く。呆然とその光景を見るしかなかった魔族は、大きな舌打ちを鳴らすが、血液まみれとなっている口元を厭らしく歪めた。

 彼女の傷は致命傷である事は間違いない。どこへ行こうと、その命を繋ぎ止める方法などありはしないのだ。

 何かを抱えていたようではあったが、それが何であるのかをこの魔族は理解していなかった。

 

「魔王様ニハ、死ンダト報告シテオケバ良イ。呪文モ行使出来ナイ人間等、恐レル必要ナドナイノダ。マァ、後デ部下ニデモアノ方角ヲ探サセヨウ」

 

 まるで自分を納得させるかのような独り言を呟いた魔族は、魔物達の咆哮が轟く村の方角へ飛んで行く。既にテドンと呼ばれた村で暮らす人間は誰一人生きてはいないだろう。全ての生き物が魔物の餌食となり、その身体も命も散らして行った。

 小さな集落だった村は、ある夫婦の移住を機に大きな変革を迎え、その変革が齎した富が与えた古代より伝わる『闇の道具』によって滅びたのだ。

 

<闇のランプ>

古代より闇を支配すると云われた魔族に伝わる道具。陽光を嫌う魔族達が己の時間を取り戻す為に作られ、何度も世界を闇に覆った物。何時しか、その道具は魔族達の手を離れ、『人』の世に流出していた。長い時間を経て『人』の世を渡り歩いたそのランプは、魔族達でも行方を把握できない程の物となり、その存在を知る者も限られて行く。そのランプは色々な曰くがあり、『人』の中でも使用する者はおらず、長い間行方不明となっていた。だが、テドンの村の武器屋が購入する事となり、持ち帰った店主は、好奇心に負けて使用してしまう。元々、魔族の所有していた『闇の道具』である為、瞬時に闇が支配した世界を確認した魔を束ねる者が、その場所を特定させた。しかし、その際に、その王は予想もしていなかった幸運を手にする事となる。

 

 

 

 テドンの村から北東の方角へ飛び続けていた魔法力の塊は、その力を失い、徐々に速度を失って行った。最終的には、飛行する力も失い、森の近くにある平原へと落ちる事となる。

 赤子を抱いた彼女の精神力にも限界が来ていたのだ。

 <ルーラ>という移動呪文を行使する際も同様であるが、術者の力を失えば、その効力もまた消え失せる。致命傷と言っても過言ではない程の傷を背中に受けた彼女の意識は朦朧とし始め、思い浮べた目的地の情景も虚ろになっていた。

 

「ごふっ……はぁ……はぁ……まだ、まだ……着いていないのに」

 

 再び地面に吐き出した血液は、既に鮮血とは言えぬ程にどす黒く変色しており、その身体が限界を迎えている事を示していた。いや、実際には既に肉体は死滅しているのかもしれない。

 ただ、彼女の中にある譲れない想いだけが、その魂を肉体に繋ぎ止めているのだろう。

 彼女の腕の中には、小さな手を何度も動かしながら眠る可愛い我が子。

 彼女が吐き出した血液が多少付いてしまっているが、震える手でそれを拭った彼女は、這うように森の方へと移動を始めた。

 

 もはや、彼女の身体は言う事を利かなくなっている。

 立ち上がろうにも足に力は入らず、背中は焼けるような痛みを齎す。腹部まで貫かれた穴からは血液と共に、彼女を形成する臓物をも外へと吐き出していた。

 それでも彼女はもがく。

 夫との約束を果たす為に。

 そして、愛する我が子の幸せを願う親としての責務の為に。

 そんな死を間近に控えた女性の前に、導きは訪れた。

 

「この森に何の用だ? お前のような『人』が来る場所ではない」

 

 掠れて行く視界の中に見えた足。

 彼女は、懸命になって顔を上げた。

 そこに見えたのは、彼女の半分程しかない背丈を持つ生物。人語を明確に話している事と、『人』に似た姿を持つ事から、それが魔物の類ではない事を理解する。

 遙か昔、祖父から聞いた事のある種族であり、『エルフ』族と呼ばれる太古からの先住者達。小さな身体に似つかわしくない程に太い腕と足を持ち、顔が隠れてしまう程の鬚を蓄えていた。

 

「おねがい……します……この子を……この子を……」

 

「魔物に襲われたのか? 『人』の業とはいえ、惨い深手だな……」

 

 藁をも掴む思いで必死に我が子を託そうとする姿に、そのエルフ族の瞳が厳しさを解いて行く。既に身体を動かす事も難しいにも拘らず、腕の中で眠る我が子を掲げ、何度も懇願する彼女から、そのエルフ族は赤子を受け取った。

 静かに眠る子供の顔は、母親の血が付着しており、拭おうとしたのか横へと広がりを見せている。そこから想像できる情景に顔を顰めたエルフ族は、涙目で見上げる彼女に見えるように、しっかりと頷きを返した。

 

「その子……名は……」

 

 最後に愛しい娘の名前を呟きながら、血で濡れた手で我が子の頬を撫でた彼女は、静かに息を引き取った。

 その名は、彼女が子供の頃から我が子にと考えて来た名前。

 自分の敬愛する祖父にも伝え、その名を呼ぶ事を心待ちにしていた名前。

 その名を愛おしそうに呼び終えた彼女の表情は、とても優しげな笑みを浮かべる。それは、愛する我が子の幸せを確信したかのような幸せな笑みだった。

 

「『人』は好きではないが、弔ってやらねばなるまい」

 

 彼女を看取ったエルフ族は、その小さな身体とは考えもつかない力でその遺骸を担ぎ上げ、森の中へ入って行く。森の入り口付近の切り株に赤子を置き、その近くの土を掘り返した。

 遺骸を埋め、土を被せはしたが、墓標のような物は建てる事をせず、一度黙祷を捧げた後、眠っていた赤子へと近付いて行く。

 

「あぁ……あぁ」

 

「起こしてしまったか?」

 

 切り株の上で眠っていた筈の赤子は目を覚ましており、小さな手を虚空へ向け、まるで母親との別れに手を振っているかのように見えた。

 元気良く手を動かす赤子は泣く事も無く、何やら難しい顔をすると、一つ可愛らしいくしゃみをする。良く見ると、赤子の服は家屋の中で眠っていたままの姿であった。

 肌着のような薄い衣服のみを着用しており、肌寒さを感じているのだろう。もう一度くしゃみをする姿を見て、エルフ族の小さな男は苦笑のような笑みを浮かべた。

 

「どれ、何か包む事の出来る物があったかな……おお、これならば暖かろう」

 

 エルフ族の小人は、持っていた袋に入っていた上等な布を取り出す。

 肌触りこそ劣化はしているものの、陽の光もない場所でさえ輝きを感じる程の光沢を持った布。それを赤子へと掛け、その身体を包み込んだ。

 包み込まれた赤子は、その肌触りを気に入ったのか、先程の難しい顔を消し、花咲くような笑みを浮かべた。

 

「これは、私の友がくれた物で、テドンという村の特産らしい。特別に、お前にやる事にする。暖かいか?」

 

 喜ぶように微笑む赤子に表情を緩めたエルフ族の小人は、珍しく言葉を紡ぐ。その布に纏わる事情を話し、微笑む赤子の肌が出ないようにもう一度布で包み込んだ。

 テドンの特産と言えば、ここ数年で立ち上がった事業である『絹』である事は間違いない。

 それは奇しくも、微笑む赤子の親であり、先程息を引き取った女性とその夫が生み出した物。そんな布に包まれた赤子は、声を上げながら微笑みを浮かべていた。

 

 

 

「お前の母親にはああ言ったが、私のようなホビットが『人』の子を育てる事は出来ない。私が育てたとなれば、お前は二度と『人』の世に戻れなくなってしまうからな」

 

 先程まではしゃぐように微笑んでいた赤子は、その疲れの為に眠りに就いている。そんな赤子の頬を濡れた布で拭ったエルフ族の小人は、小さな懺悔を洩らした。

 彼はエルフ族の中での少数であるホビット族。更には、その中でも異質の存在と言っても過言ではない者である。

 故に、彼は赤子を手元で育てる事の危険性を考え、闇が支配する中、彼の住処の傍にある<アッサラーム>へと歩を進めた。

 

 木の皮で作成した駕籠に『絹』で包んだ赤子を入れ、町に入ってすぐの場所にある大きな建物の裏口の傍に置く。人間の暮らす場所の知識がないホビットは、その大きな建物を見て、裕福な家だと認識したのだ。

 裕福な家であれば、不自由なく暮らす事が出来るのではないかという安易な考えではあるが、それがホビットの限界であるのだろう。静かに眠る赤子の顔を覗き込みながら、ホビットは眉を下げ、その傍に文を添えた。

 

「すまないな……だが、これがきっとお前にとって一番良い筈だ。お前の母親のように強く生きろ。お前という小さな存在を心から愛した母親を強く誇れ。そして、幸せに暮らすのだぞ」

 

 最後に薄い髪の毛を軽く触れたホビットは、夜の闇へと消えて行く。夜の闇と砂漠から吹く冷たい風が満たす中、両親の生み出した布に包まれた赤子は、とても幸せな笑みを浮かべながら眠っていた。

 東の大地から太陽が顔を出し始めるまで後僅か。『夜の街』と云われるアッサラームの町にも人影が無くなっていたそんな小さな時間に、その赤子はこの場所へと舞い降りた。

 それは運命に導かれた物なのか、それとも世界を見守る精霊の導きなのか。

 

 

 

「なんだい、これは!」

 

 そして、運命の歯車は動き出す。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

この回の詳しい事は活動報告で語らせて頂きます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。