翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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 朝。まず感じたのは寒さ。寒い。帝都の朝は決まって寒い。夏も、冬も、春も、秋も。けれど、いつもよりも寒い。

 その理由は明白で。布団も被らずにそのまま寝台に横になっているから。

 

「うぅ」

 

 首が痛い。きっと変な寝方したせい。きっと寝違えてる。それでも寒いからもそもそと布団の中へ。それでも寒いから丸まってみる。

 少しはましになった。その時だった。ぽーんとそんな高い音が鳴って、どこか白や黒を感じさせる声が頭に響いて、

 

――学校に行きましょう。望むものはそこにある。そして、あなたに道を示すでしょう。

――めでたし、めでたし。

 

「え――」

 

 それは予想もしていないことで。御標。昨晩から二つ目。こんなに連続して御標を受けることは珍しい。それも酷く個人的なものは本当に初めてのことだった。

 

「えっと」

 

 この場合、向かうのは碩学院で間違いはない。通っている学校という意味ではそこ以外にないから。とりあえず、行けば良いのだろうか。

 今日は、休もうかと思っていたけれど御標が出たのなら従わないといけない。

 

「よい、しょ」

 

 緩慢な動作で寝台を降りる。寝起き特有の浮遊感は御標で吹っ飛んでいたけれど、睡魔は強いから。さっさと顔を洗いに行く。

 顔を洗って髪を整えて。そうして無事に睡魔は退散してくれた。

 

「ふぅ、よし」

 

――うん、大丈夫。元気そう。

 

 鏡に映る自分を見て、いつもと変わらないことを確認する。

 

「野枝に会えると良いな」

 

 今日は、会えると良いな。研究棟にいるだろうから、たぶん今日は会えるかも。あまり自身はないけれど。

 

「良し、行こう――」

 

 そう思って、玄関を出ようとして、

 

「こらこら、朝食も食べないで行く気かい?」

「あっ」

「まったくしっかりおしよ。それと、寝癖、後ろのほう全然じゃないか」

「あうぅ」

 

 いつもは野枝にやってもらっていたから。だっていつもなら頼んでもいないのに起こしに来るもの。だからよ。だから、たまたま。やろうとすればきちんとできます。

 でも、やっぱり大家さんはそういうところ信じてくれなくて。故郷の母のように髪を梳いてくれる。それがくすぐったくて、少し笑ってしまった。

 

「ありがとうございます」

「いいのよ。さあ、食べていきなさい。野枝ちゃんがいないからってだらしなくしては駄目よ。女の子なんだから」

「はーい。いただきます」

 

 いつもの朝食。一杯のご飯に一杯のおかず。それを食べて、おかわりして、食べて、またおかわりして。一杯だべる。

 野枝には食べ過ぎだぞーと言われるけれど、お腹がすくから仕方がない。

 

 これが、いつも通りの朝。少し違うのは御標が出ていることと野枝がいないこと。

 

「ごちそうさまでした」

 

 きちんと手を合わせて、食べ終えたらさあ行こう。

 

「はい、おまち」

「はい?」

「ご飯粒つきっぱなしだよ。まったくこの子は」

「うぅ、すみません」

 

 きちんと確認しているのに、どうしてだろう。野枝に言ったら、るいだからって言われるけど。意味がわからない。問い詰めてもきまって笑ってごまかされる。

 

「良し、いってきます」

「いってらっしゃい」

 

 確認して、出発。煤避けの傘をさして靴を鳴らして石畳の通りを歩く。朝の通勤の時間。まだ、帝都に存在する大機関工場が稼働して間もないから排煙の量は少ない。

 だから、少しだけ空気が綺麗に感じられる。地方に住む人に言わせればそれはまやかしだというらしいけれど、この時間の空気は嫌いではない。

 

 通りを行く人波に乗って帝都の中央へ。それにつれて馬車のほかに蒸気自動車が混じりだす。乗っているのは主に軍人さん。

 だから、最初蒸気自動車に乗っている人から声をかけられても自分じゃないと思って気が付くのが遅れた。

 

「レディ、レディ」

「え――?」

 

 振り返る。そこにあったのは最新の蒸気自動車で、その運転席から降りてきた大きな影。昨日のあの人。

 

「えっと、リチャード、さん?」

「然り。リチャード・ドレビシックである。そこで見かけたのでね。声をかけさせてもらったよ。これから学校かな」

「はい、そうです」

「ふむ、では乗ると良いレディ。送ろう」

「え、でも悪いです」

「遠慮するものではないよ。あの男ならば若いうちは苦労した方が良いとは言うかもしれないが、私はこの一回でそう何かが変わるとは思えないのでね。変わらないことを私は知っている」

「えっと」

 

 ともかく、乗りなさい。そう言われて、言われるままに腕を引かれて。大きな手から抜け出すには私の力は足りなくて。

 一見したら犯罪の現場。でも、あまりそういう雰囲気を感じないのは人柄のせい? たぶんそう。彼はそんな悪い人じゃない。そんな気がする。

 

 そうして蒸気自動車はゆっくりと発進した。わずかな振動が伝わる。助手席に座って、身を小さくする。男の人と二人。それもこんなに近くで座っているなんてことに慣れているわけもなかったから。

 

「えっと、そのありがとうございます」

「礼には及ばんよレディ。朝の通勤に麗しのレディと同伴できるのであれば、安いものさ」

「う、麗し――」

 

――な、何を言っているの。あ、あたしがそんな、麗しのレディ、だなんて。

――顔、赤くなる。たぶん、真っ赤。

――気づかれてない? うん、たぶん、大丈夫。

 

 彼は前を見ているから。だから、たぶん大丈夫だと思う。

 

「さて、着いたかな」

 

 蒸気自動車に乗ると、すぐだ。

 

「あの、ありがとうございました」

「もし何かあれば、鍵を探すことだ。銀の鍵を。もし、見つけることができたなら、私は君に力を貸そう。どうなるかは私は知っているがね」

「え?」

 

 それはどういうこと。聞く前に彼は行ってしまった。

 

「なんだったんだろう?」

「なにがー?」

「わひゃっ」

 

 むにぃ、と頬をつつかれて驚いて飛び上ってしまった。

 

「あはは、るい、驚きすぎ」

 

 そこにいたのは伊藤野枝その人。いつも通りの笑顔を浮かべていた。あの日の見たこともない顔の野枝はどこにもいない。

 でも、なんで? どこか、何かが違うような。

 

「野枝……?」

「そうよー。どうしたの? まさか、数日会わなかっただけで私の顔忘れたの? ごめんねー。鴎外先生に課題渡されちゃってさ。それが忙しかったの」

「もう、それなら言ってよ」

 

 でも良かった。いつもの野枝。今日は元気そう。

 

「ごめんね。それじゃあ、行きましょ。それにしても人が多いわね」

 

 周りには人が多い。いつもはこんなことはないのに。

 

「なんでだろ?」

「るい知らないの? 英国から鉄道機関学の偉い碩学様が来て講義するからってそっち系の学生だけじゃなくて記者の人たちも集まっているのよ」

「そうなんだ……――」

 

――あれ? 鉄道機関学? どこかで聞いたような。

――というか、その碩学様ってもしかして。うん、たぶんそう。鉄道王とまで呼ばれている人だからきっとそう。

 

 そんな人と話していたなんて、今更だけれど粗相をしていないか心配になる。碩学の卵だと名乗れるくらいには勉強しているはずだけれどやっぱりすごい人には及ばないから、悪く思われてないだろうか心配。

 

 こんなことならもう少しそういう話をしておくべきだったかな。鉄道機関学は専門ではないけれど、少しくらいならばわかるから。

 鉄道を発明したという碩学様だから聞きたいことは色々とあったのに。

 

「はいはい、おしまい。るいちゃーん」

「いひゃい、いひゃい」

「戻ってきた? 往来でなるのは感心しないな。お母さん心配です」

「また子ども扱いする」

「なら、きちんとレディになりなさいな」

 

 そんな他愛もないおしゃべりをしながら研究棟に入る。

 

「……それじゃあね、るい」

「うん、またね」

「……そうね、また」

 

 そして、野口さんの部屋に。混沌としていながら整然とした部屋に足を踏み入れる。いつものように左手に手袋をした野口さんは高速で手を動かしていた。

 早い、今日は心なしかいつもよりも。

 

「いらっしゃい。今日は遅れるかと思ったけれど、早いのね」

 

 顔をあげても手だけは動かし続ける。

 

「ええと、送ってもらえたので」

「そう。では、今日も始めましょう。そろそろ忙しくなるから今日は長いわよ」

「はい、わかりました」

 

 そう言って今日の講義が始まる。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「――お疲れ様。今日はもういいわ」

「は、はいぃ」

 

 講義と実験が終わったのはすっかり日が落ちた時間だった。

 もうくたくた。いつもこれくらいはするけれど、今日はなんだかいつもよりも激しかった気がする。それでもまだまだ実験を続けている野口さんを尊敬する。やっぱりすごい人。

 

「お、お疲れさ、ま、でした」

「お疲れ様。それと、珍しい本が手に入ったから貴女にあげるわ」

「え、えっと、ありがとうございます」

 

 そう言って手渡されたのは、皮の装丁の本だった。少し珍しい。今では、機関製の紙の装丁の本が普通だから。たぶん高いもの。

 断ろうとしても多分断れない。だって、そういう人だから。

 

「さあ、遅くなるからもう帰りなさい」

「はい、ありがとうございました」

 

 そう言ってあたしが、部屋を出ようとすると、

 

「頑張りなさい」

「え――?」

 

 そう野口さんに言われた気がした。何か聞こうとする前に扉はひとりでに閉まってしまう。戻って聞こうかと思ったけれど、なぜだか(・・・・)そういう気分にはならなくて、

 

「あ、るいー、一緒に帰ろう?」

 

 野枝も来たから一緒に帰ることにしたのだ。

 

――いつもとはどこか違うような気がした。

――真夜中の中央区。

 

 いつもは二人で歩いている通り。野枝と一緒に、夜の通りを歩く。それはいつものことで、少しだけ久しぶりの事だった。それだけのはずが今日はなんだか少しだけ違う気がする。

 眠らない街。そう呼ばれている帝都。しかし、今日は少し。そう人通りが少ない気がする。飲み屋から帰る男性の姿も、屋台に顔を出している軍人さんの姿はない。

 

 路地で丸まっている浮浪者の姿もなければ、主人の言いつけどおりに仕事をする絡繰り人形の姿も見えなかった。

 こんなことはとても珍しいと思う。少なくとも、あまり経験することではない。蒸気自動車も馬車も通らない。とてもとても珍しい。

 

「人少ないね」

「そうねー」

 

 伸ばし気味に、そう野枝が頷く。いつもなら野枝の方から言うことだけど、今日はあたしから。どうしてだろう、と考える前に野枝が言葉を続ける。

 

「ねえ、知っている? この帝都の裏側に伝わる御伽噺」

「え?」

 

――なに? なんで、今、そんな話を。

 

 脈絡もなく、予兆もなくただ野枝は言葉を紡いでいく。

 

「精神が変容した伽藍。肉体が変容した異形。化け物。この帝都の裏に巣食うナニカ。狙われたら最後、誰も助からない。その話を涙香は知ってる? 知っているわよね」

「――――」

 

――言葉が、紡げない。

――何も言えない。

 

 ただ一言、知らないともいえない。どうしてそんなことを言うのともいえない。唇が、舌が、喉が、動かない。その時、左目の視界がちらついた。

 恐ろしい何かを感じる。それでも野枝はただただ、言葉を続けていた。

 

「いるのよ。それは、実際に」

 

――駄目、駄目、駄目。

 

 その先を聞いてはいけない。左目がそう叫んでいるよう。でも、何もできない。何も言えない。声が、出てくれない。

 

「仕方ないのよ。仕方がなかったのよ。だって、そうするしかないの」

 

 何を言っているの。何を言うの。

 

――やめて。

 

 その言葉はやっぱり音にはならなくて。ただただ、野枝の顔を見つめるしかできない。野枝の顔。真っ白な、何も浮かんでいない顔。

 どうして気が付かなかったのだろう。最初から、研究棟であった時から、彼女の何かが抜けていたことを。そう、それは色。

 

 人であるための色が抜けている。見れば、ひび割れた、あった。彼女の顔。まるで、蜘蛛の巣が這うように。ひび割れて、漆黒が覗いている。

 夜空のようなものではなく、漆黒。何もかもが飲みこまれているような漆黒。

 

――呼吸が、止まる。

 

 見た瞬間、視えてしまった瞬間、見てしまった瞬間。呼吸が、止まる。呼吸困難。野口さんに聞いた、対処法を試すけれど、どうにもならない。

 多分、これはそういうものではないから。

 

「ねえ、るい。どうしたの?」

 

 野枝は変わらず、まるであたしの変化に気が付いていないかのようで。それが、とても不気味で、恐ろしくて。思わず、後ずさる。

 

「……そう。気が付いてしまったのね。何も気が付かないままなら良かったのに。苦しまずに済んだのに。仕方ないね。だって、止められないのなら――」

 

 声なき声が、通りに響き渡る。いつの間にか、人はいない。どこにも。わずかにまばらだった人ごみが消えて、そこにはあたしと、野枝のただ二人。

 呼応するように、服のほつれのようなものが彼女の背後に広がって行く。ほつれは次第に大きくなっていく。まるで、この世界自体がほつれて消えてしまいそう。

 

 左目はその本質をとらえている。でも、神ならぬ身にて。碩学ならぬ身である自分にはそれがなんなのか、一切が理解できない。

 ただ、あれは駄目だということだけがわかった。

 

 ほつれが脈打ち、虚無の口を開く。掠れて擦れるような声が響く。

 

“黒岩涙香は、幸せのままに死ぬのでした。

 めでたし、めでたし”

 

 それは御標。歪んだ、歪んだ、漆黒の御標。違いが、分かる。極彩色に輝く神の声ではない。それは、漆黒の、野枝の声。

 

――なに、これ、は。

――何なの。

 

 驚く間もなく、世界が漆黒と曇白に塗り分けられていく。塀の上で眠っていた猫も、通りを挟むように建てられた建物も、絡繰り人形も。

 何もかものが白と、黒の存在となっていく。色があるのは自分だけ。あとには、何もない。

 

 薄く微笑む野枝の頬に亀裂が縦の入って行く。まるで涙でも流しているように破片が地って、黒い筋が涙の跡のようにできていく。

 目の前で、彼女の姿が変わって行く。白と黒の反転した瞳、背中から映える異形の手足。帝都をにぎわす怖い御伽噺が、恐怖の噂がそこに現れる。

 

――ぼこり、ぼこり。

 

 音を立てて、変わる。

 

 思わず、持っていた本を取り落とした。輝く何かが、落ちた。それは、銀の鍵。拾う間はなくて、そもそもそんな余裕なんて、あたしはなくて。

 

――その正体を知った。

――恐怖。

 

 呼吸困難の正体。それは恐怖。誰か。誰か。誰か。助けて。

 

――あたしの友達を、助けて。

 

「ふむ、ならば、鍵を拾うが良い」

 

 祈りに応えるように、声が、響いた――。

 

 


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