翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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「はあ、面白かったー……――」

 

 活動写真――映画――はとても面白かった。見たのは大衆向けの作品だったけれど、写真が動くと言うのはとても衝撃的だった。それでいて、お話はとても感動的でもあって。

 

――二人の少女のお話。仲良しの二人組。

――あたしと野枝みたいな。

 

 自然とその余韻に浸ってしまう。活動写真の場面をあれやこれや思い返しては、その余韻に浸る。それは思考の海に沈むのと同じこと。

 本当にこんなに良いものに誘ってくれた野枝とか、券をくれた大杉君に感謝する。そうでなかったら、きっと家から一歩も外に出ないから。

 

 外に出るより家にいた方が良い。エイダ主義で女も前に出る時代とこの帝都でも叫ばれるようになった。

 

――けれど、あたしはまだきっと、ううん、たぶんこれからも旧い時代の女なのだと思う。

 

 家で誰かの帰りを待つ女。野枝とは違う弱い女。でもいいと思う。それは正しいとも悪いともいえないから。

 

――きっとあたしは誰かの前に立つことなんてできないと思うもの。

――誰かの後ろにいる方があたしには合っていると思うもの。

 

 誰か、そうあの大きな人とか。

 

――あれ、なんであたしあの人のこと自然に考えているの?

 

 あの人の事なんて何も知らない。鉄道王という肩書きだとかは、名前を聞いた後に思い出した。

 

――だから、あたしはあの人のことを知らない。

――なのに、なんであたしはそんな自然に後ろにいたいと、想ってしまったんだろう。

――もしかして恋?

 

 ううん、違うわ。違う。違いますとも。まだそういうのはわからない。お母様とお父様の話だってよくわからないのだから。

 だから、違うと思う。そういうのじゃない。たぶん、後ろに立つのに良い大きな人を思っただけよ。そう、そう。そうに決まってるわ。

 

――ええ、そうですとも。そうです。そうなんです

――そんな風に考え事をしていたら

 

「るいちゃーん?」

 

――ぐにぃ、と頬を引っ張られる。

 

「いひゃい、いひゃい」

「もう、聞いてた?」

「うん、えっと活動写真の終わりの話だよね」

「ええ、そうよ。でも、私の愛しのるいちゃんはどうやら別のことをお考えの様子。何を考えてたのかな~?」

 

 そう言って野枝は悪戯っ子のような顔をする。きっと、何を考えていたのかバレたのだ。どうしてか野枝はそういうのがわかるようでそういう時は決まって悪戯っ子みたいな顔をする。

 

「あの男の人のことでしょ」

「え、なんで、あ、ち、ちが――」

 

――ううん、違わない。

――正解。

 

 でも、そんなこと認められるわけもなくて、いつものように見事に顔を真っ赤にして取り乱してしまって。言葉もうまく伝えられなくて。

 でも、頭の中だけはずっとずっと早く動いていた。考えが浮かんでは消えて、浮かんでは消える。それは男の人とのそういう関係になっている想像であったり、あるいは野口さんとのあれこれであったりとか。

 

 ダメなのに止められない。そういう時は、本当に駄目になる。湯気でも出るんじゃないくらい顔を真っ赤にしたままあたしは動けなくなる。

 容量がいっぱいになって動けなくなった大階差機関か解析機関のようになる。つまり、動けなくなってしまう。

 

「あー、ごめん、ごめんなさいるい。ほら、落ち着いて。ほら、こっち来て」

 

 こうなるとすぐには戻れない。だから、野枝に手を引かれるままに歩く。どこをどう歩いたとか、野枝が何を言っていたのとか、何もわからないままに。

 認識はしてるけど、それを処理できない。頭はとても速く動いているけれど、身体が付いていかない。

 

 でも、なんとか老人たちがゲイトボウルに興じる公園のベンチに座ったところで、なんとか普段通りに動けるようになっていた。

 まず感じるのはやっぱり

 

「の~え~」

 

 野枝へのお怒り。ちょっと低い声を出して。さも怒っていますという風に。

 

「ごめんなさい、ついね。るいがあまりにも可愛いものだから」

「もう、もうしない?」

「しないしない。だから、機嫌直してねるい? あとで機関製の和菓子買ってあげるからさ」

「もう、調子いいんだから」

 

――でも機関製のお菓子は食べたいかな。

――あまり食べられるものじゃないから。

 

――お菓子。

――随分ご無沙汰だと思う。自分で作れるけれど、本職の職人さんにはどうやっても及ばないから。

 

 野枝はそういうのも得意だから、野枝のお菓子でも良い。英国風のお菓子、名前はちょっと思い出せないけれどあれはおいしかったから。

 

「ごめんさない。でも楽しかったでしょ?」

「うん、いつかまた行こう?」

 

 野枝と一緒に、またいつか。今度は自分たちでお金を稼いで活動写真を見に行こう。きっと今度も楽しいはずだから。

 

「……ええ、そうね」

 

――あれ?

――野枝の返事、少し遅い。

 

 いつもならすっぱりと返ってくるはずの返事が今日は少し遅い。

 

「野枝? どうか――」

 

 した、とは聞けなかった。

 

「探したぞ伊藤。あまり俺の手間をかけせるな」

「森、先生」

 

 そこに男の人が立っていたから。腰に軍刀を下げた男の人。

 

――え、え? いつの間に?

 

 わからない。でも、彼は目の前に立っていた。長身で見下ろすようにまるで幽鬼のような男の人がそこにはいた。

 知らない人じゃない。知っている人。特に、野枝は。

 

――彼、野枝の担当教授。

――森鴎外先生。

――軍服に白衣の碩学様。

 

 この帝国を代表する碩学様の一人。野口さんと同じ機関医学の別分野機関軍医学というのを扱っていると野口さんに聞いたことがある。

 軍の食事事情を改善したとか、野枝に聞いた覚えもある。でも、会うのは初めて。二人の話を聞いて、どんな素晴らしい人なのだろうと想像したりした。けれど、

 

――けれど、こんなに怖い人だとは思ってもみなかった。

 

 怖い、ただひたすらにこの人の近くにはいたくないそう思った。

 

「あ、あの、は、はじめま、して」

「お前は野口のところの黒岩か。ふん、なるほど確かにあの女が入れ込むだけのことはあるようだ」

「え?」

 

 鋭い瞳はあたしの左目を見てる。黄金色の瞳を。

 けれど、すぐに興味を失ってまた視線は野枝に。

 

「行くぞ。ぐずぐずするな。お前の役割は既に決まっている。お前はただ、俺に従っていればいい。それだけのためにお前を研究室に入れたのだ。他の屑と同じになりたくないのならば、早くしろ」

「はい」

 

 彼はそう言って、野枝もまた彼についていく。

 

「あ、の、野枝……」

「ごめん、この埋め合わせはまた今度するから」

「え、う、うん」

「じゃあ、また」

 

 そう言って野枝は森先生と蒸気自動車に乗って行ってしまった。

 

――野枝、気づいてる。

――あなたの顔、あたしが見たことないくらいに暗い。

――いつも明るい野枝。

――なんで、そんな顔してるの? あの人のせい?

 

 何もわからない。何も、何も。

 だから、研究棟を目指す。野口さんに森先生のことを聞いてみようと思ったから。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 日が沈んで、街灯が帝都を照らす。帝立碩学院には人がいない。今日がお休みだということもあるけれど、たぶんそういうことじゃない。

 御標。それのせいだと思う。ぽーんとそんな高い音が頭に響いて、

 

――今日は家にいると幸せになれるでしょう。

――めでたし、めでたし。

 

 耳にはっきりと聞こえたそれ。家にいることを推奨する天皇陛下からの御神託。だから、誰もが家に帰っている。だから、誰もいない。

 眠らない重機関都市東京が寝静まった。だから、機関街灯も見えて通りは暗い。でも、真っ暗闇ではない。都心の常として、人の生活の明かりがある。

 

 だから暗くない。怖くない。それでも自然と、歩く足は速くなる。この帝都の闇には異形が潜むという。御標に背きし異端の獣。

 漆黒と極白の異形。色を失った者たちによる都市伝説。旧い御伽噺。そう異形なんてものは現実にはいない。そういないのだ。

 

 だけれど、歩く速さは速い。速く歩く。走るよりは遅く、けれど歩くよりは速く。恐れじゃないとは思う。いいえ、恐れもある。怖い。夜の街は嫌い。特に光のない路地はまるで誘っているようで。

 今にも何かが出てきてひきこもうとしてるかのよう。それでも歩く足を止めない。真っ直ぐに、ただ真っ直ぐにブーツを石畳に鳴らして歩く。

 

 御標が出ている。本当なら帰らないといけない。

 

――でも、あたしは歩く。歩く、歩く、歩く。

 

 そうして、目の前の碩学院の中へと足を踏み入れる。

 

 寝静まった学び舎。昼間の喧噪が嘘のよう。誰もいない。そこには誰もいない。まるで世界に一人だけしかいなくなってしまったかのように。そこには誰もいない。

 

――前にもこんなことがあったような。

 

 いいえ、そんなことはないはず。恐怖が湧き上がりそうになる。でも、行かないと。

 

「大丈夫、大丈夫よ涙香」

 

 そう自分に言い聞かせながら、研究棟へと足を踏み入れようとする。

 

――けれど、けれど。

 

「あ、れ?」

 

 足が前に出てくれない。先に出そうとするけれど、駄目。身体が前に出ることを拒否してしまったかのように、足は一歩も動いてくれない。

 いいえ、違う。これ以上先に進んだら駄目だと言っているのだ。直感的にそう悟る。ここが分水嶺。ここに壁があるのだと、左目が教えてくれる。

 

 何かの壁。それがなんだかわからない。物理的なものじゃなくて、精神的な。そう例えるならば――暗示だとか。

 そう言った類の壁。これが最後だと教えてくれている。ここから先に入れば、戻れなくなるのだと。そう左目が教えてくれた。それは直感のような閃き。

 

 でも、足を出そうとする。この先に野枝がいるから。いると思ったから。だから、前に。

 

「――やあ、レディ、また会ったね」

「え?」

 

――けれど、かけられた声にあたしはたたらを踏んでしまう。

 

 躓きそうになったのをそっと大きな手に支えられて。

 

「おや、すまないレディ。しかし、レディ。このような時間に一人でいるとは不用心ではないかな? 御標とやらが出ているのだろう?」

 

 そこにいたのは昼間の大きな人。英国風の男性。とても大きな。背の高い帽子に杖。如何にもな英国人。おそらくは、彼の大碩学を除いて、人の為になる最も偉大な発明をしただろう碩学様。

 この帝国において鉄道を全国にひくためにやって来たという人。

 

「え、とえっとリチャードさん、でしたっけ?」

「Exactly。そうだリチャード・ドレビシック。私は、鉄道王と呼ばれるしがない碩学だ。レディのような可愛らしい学生に覚えていてもらえて光栄かな」

 

――か、かわっ!?

 

 可愛いだなんて。そんな、そんな。そんなこと野枝にしか言われたことないのに。聞き間違い? いいえ、確かにはっきりと言った。

 とても聞き取りやすい声で、はっきりと。

 

――う、うあ、だ、駄目、駄目。顔、たぶん赤い。

――でも、急に離れるわけにいかないし、それに用事がある。

 

 大丈夫。ここには機関灯ないから。大丈夫。大丈夫。心配になる。けれど、やっぱり離れることはできないから。

 つとめていつも通りに。そういつも通りに。

 

「あ、あの、あたし用事があって」

 

 上ずってしまったけど、大丈夫だと思う。

 

「ふむ、それでこの研究棟に入ろうというのかね? 確かに用事があるならば仕方がない。呼び止めるのも悪い。手伝う事もやぶさかではない。

 だが、レディ。もしそれが人に会う類のものであるならばやめた方が良いと私は君に言おう。レディ、君の友人はここにはいない。そうここにはいないのだ」

「え?」

 

――え、っと? 今、この人はなんていった?

 

「あの、なんで」

 

 なんで、友達を探していることを知っているの。誰にも言っていない。ここで会ったのも偶然。この人の前で野枝を探しているだなんて一言も言っていないのに。

 なのに、なんでこの人は知っているの。困惑を前に彼は当然と言う調子で答えた。

 

「私は何でも知っている。知らないことなどないよ。君のことも、彼女のことも。これからのことも、今までのことも、今のことも。私は全てを知っている」

「あ、あの?」

 

――え、え? 何、何を言っているの?

――あたしはもっと混乱してしまう。

 

 全てを知っているだなんて、そんなことはあるはずがないから。それではまるで神様のよう。

 

「神様なんて、この世には存在しない。神は死んだ。残っているのはふるきもの。神ならざるもの。あるいは、外なるものだけだよレディ」

「な、なんで」

 

 なんで、この人は心でも読めるの。

 

「言っただろう? 私は何でも知っている。知らないことはない。まあ、今のちょっとした単純なメスメル学だよ。君のご友人についてもだ。私は今までここにいたのだよ。ここに人はない。そう人は。

 この時間、こんな場所に来るのは人に会う以外にないだろうという私の推測からそう言ったのだよレディ。合っていたかね?」

「は、はい」

 

 凄いと思う前に、呆れてしまった。今は冗談なんて聞いている暇なんてないのに。けれど、嘘はついていない。

 鍵を見せられた。彼が最後。もうこの研究棟には誰もいないということだから。

 

「そう。だから、ここから離れて家に帰ると良い。送ろう」

 

 それに鍵なんてなくてもこの人の言葉は嘘じゃない。わかる。するりと頭に直接入ってくるように聞こえるとても聞き取りやすい声に嘘はないと確信できる何かがある。

 いないというのは本当なのだろう。それなら今日は帰るべき。御標も出ている。これ以上、外にいるのは駄目。

 

 なら今日は帰ろう。

 

「あ、あの、お願い、します」

「うむ、任されたよレディ。安心すると良い。レディのエスコートは英国紳士の務めだ。さあ、レディお手を拝借」

「あ……――」

 

 そう言って軽い動作であたしが何かを言う前にこちらの手を取って彼は歩き出す。こつ、こつ、こつ。靴音と杖の音を響かせて通りを歩く。

 静かな通り。少しずつ消えていく生活の明かり。暗くなっていくメインストリートを歩く。

 

――あたしはぼうっと考え事をしていた。

 

 少しだけ前を歩いてくれている男の人のことを。大きな手。手袋に覆われた手はとても大きい。手を包み込むように優しく握りしめられた手はそれだけで安心できる何かがあった。

 包容力と言うのだろうか。そういうの。思い出すのは父の姿だ。父の手もこんな風に大きかったような気がする。

 

 こつ、こつ、こつ。小気味のいい音を立ててあたしとリチャードは歩いていく。暗がりを、暗闇を。機関灯の明かりが照らす通り。

 もうすぐ下宿先。考え事をしていたけれど、それには気が付けて、

 

「あ、あの、もうすぐだから」

 

 もう大丈夫です。とそう続けようとして、

 

「ふむ、そうだね。では、ここまでにしておこう。夜間にレディの家に行くというのは英国紳士らしくない」

 

 全てを察してくれた彼はそっと手を離してくれる。

 

「気を付けたまえ」

「えっと」

「ゴールが目の前だとしても、気を抜かないことだレディ。何があるかはわからない。もう少しというところで石に躓くかもしれない。だから、気を付けることだレディ」

「あ、は、はい」

 

 子供じゃないのに、そう思った。けれどこの人の言葉は素直に聞いておいた方が良い。そうも思って。とりあえず了承を伝えてあたしは下宿の玄関へと向かった。

 特に何事もなく辿り着く。やっぱり、そう思いつつ振り返るともうそこにあの人はいなかった。大きな人なのに姿かたちは通りにはなくて。裏通りに入ったの?

 

 いいえ、いいえ。だって、あの人が歩くと音が鳴るもの。こつ、こつ、こつ、って。

 まるで消えてしまったかのよう。でも、そんなわけはなくて。

 

「うーん?」

 

 でも、とりあえずは下宿の中へ。いつまでも玄関先にいるわけにはいかないから。そっと中に入ってそっと自分の部屋へ。

 でも、大家さんに見つかってしまった。

 

「まったく、遅かったねえ。御標が出ているっていうのに」

「あ、あう、ごめん、なさい」

 

 遅くなることは良くあることだから大家さんもわかっている。けれど、御標が出ているのに遅くなるのは駄目。

 御標は守るべきもので、あたしたちを幸福にするものだから。従っている限り、それはあたしたちを幸せにするものだから。

 

「まあいいわ。無事に帰ってきたんだから。今度からは気を付けること」

「はい」

 

 そう言って部屋へ。

 

「ふぅ」

 

 そっと寝台に倒れ込む。そして、自分の左手を見つめる。彼に握られていた手。そこにはまだ彼の熱があるようで。

 

「…………」

 

 左手を見つめる。そうしている間に、あたしの視界は黒く、黒く染まって。

 いつの間にか眠ってしまっていた。

 




前後のエピソードを結合。

次回は、12時に。

では、また。
良き青空を。

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