翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
「るーいーちゃーん、あーさ、ですよー!」
「……ぇ……?」
――声。
――あたしを起こそうとする声。
――伸ばし気味に子供に言い聞かせるような明るくて優しげな声。
朝の明るさが英国製の寝台に降り注ぐ。いつもと同じ。けれど、ちょっと違って。
「寝坊助さーん? 起きなさいな。大杉君から活動写真(※映画のこと)の券をもらったの。ちょうどペアだったから二人で行きましょ」
――活動写真? 券? 何の、ことなんだろう。
そんなことを考えて。昨晩、何かあったような気がしたことを思い出す。けれど、特に何も記憶の底から掘り返すことはできなかった。
そもそも、何かを忘れていることすら、覚えていない。ゆえに、何かあったのか、なかったのかと言われれば、なかったのだろうという結論に達する。
それよりも気になるのはこの声だった。
「ほーらー、起きなさいなー」
でも、昨日は遅くまで課題やっていたから、眠い。
「もぅ、ちょぉっとぉ」
「む、まーた、夜遅くまで起きてたなー。もう、仕方ないわねー」
えい、という掛け声とともに、毛布がはぎ取られる。寒い。帝都の朝は冷え込むから、毛布なしじゃ寝てられない。
返してと彷徨う手も無情にもぺちんと叩かれる。だから、精一杯丸くなって。でも、寒さからは逃れられなくて。
「こら、もう起きてるでしょう?」
「うぅ」
観念して起きよう。
――うん、本当は起きてるから。だって、夜は弱くても、朝には強いから。
――いつも決まった時間には起きている。でも、二度寝って素晴らしいから。
――うん、つい寝ちゃうのも仕方ない、よね。
――うん、仕方ない。仕方ない。
人はそれを寝坊って言うのよ、寝坊助さんって、何回野枝に言われたかな。十回。それじゃ足りないわ。そんなにしていないと思うのだけれど。
数十回。これも少ない。数百回。これくらいが妥当。だって、毎日言われているもの。一年言われれば三百回以上は言われるから。
でも、寝坊助さんって何度も、何度も。故郷の母様を思い出すから、つい何度も寝坊してしまう。
お母様みたいな野枝が悪い。
――うん、うん、起きよう。野枝のせいにしちゃ駄目。起きないと。うん。うん。
――あれ?
「野枝ぇ?」
「おはよう、寝坊助さん」
「おはよー……――」
野枝。いつもと同じ。おかしなところはない。
――ないよね。うん、ない。ないと思う。
――連絡がなかったのも夜遅かったから、かな。
野枝は優しいから。夜遅い時は連絡してこない。夜弱いから。すぐに寝ちゃうから。
――でも、良かった。野枝が無事で安心した。何かあったんじゃないかって心配していたから。
――こうやって元気な姿が見れてあたしは嬉しさを感じる。
それにしても、活動写真。初めて見る。英国から伝わってきたものの一つ。動く写真が見れる。まだ、富裕層しか見れないくらい高いのに大杉さんは凄い。
――あたしじゃ、何年働いてもきっと無理。
――うん、たぶん。実際のどれくらいで見れるのかわからないけど。いくらかな。
――ペアの券って言ってたよね。だから、二倍?
――い、いいのかな。いいよね、もらったって言ってたから。
――うん、よし。よし! どんなの見ようかな。確か、この前雑誌に載ってたのがあったような。なんだっけ。
「るいちゃーん」
「いたい」
ぺしり、と叩かれる。わかってる。
「まだ、眠いのかなー?」
ぐにぃーと頬が引っ張られて半眼で。
「いひゃい」
「もう。ほら、着替えて。出かけましょう。それとも着替えさせて欲しいのかな? 私はそれでも良いのよ? それとも、それ以上がしたい?」
――それ以上、えっと、つまりはそういうこと?
退廃的な想像が駆け巡る。そういう話が流行っているし、読んでいるから。
やめたいのにやめられない。想像の中では野枝と二人してそういう行為をしている。
否応なく顔は赤くなる。でも、それを止められない。案外、まんざらじゃないかな、とか思っちゃったりして。
果てには野口さんまで出てきて。
「ふふ、冗談よ。冗談。あれあれ~? 顔が真っ赤ですよるいちゃ~ん。何を想像したのかな~?」
「うぅ」
野枝の一言でなんとか現実に戻ってくる。でも、顔は真っ赤で。もう枕に顔を埋めてしまいたいくらい。
でも、それは野枝が許してくれなくて。
「ふふ、ほら、早く。あんまり遅いと本当に着替えさせちゃうわよ?」
「そ、それは良い。自分で、出来る」
「とか、言って、この前、裏表逆に着てたのはどこの誰かな?」
「うぅ」
――うぅ、それは、仕方ないのに。急いでただけだから。今は、大丈夫。うん、きっと、たぶん。おそらく。
と、不意に、ぽーん、という音が聞こえた。
――活動写真を見ることがあなたに鍵をもたらすだろう
――めでたしめでたし
そして、声。男の人のような、あるいは女の人のような。子供のような、あるいは大人のような。老人のようにも聞こえる。そんな声。
たぶん御標。しっかりと、耳にそれは届いて。
「るい?」
野枝には聞こえていない。だから、やっぱりそれは御標。この左眼が猫を思わせる黄金色になってから聞こえるようになった声。
天皇陛下が人々を幸せにするために教えてくださる声。神託とも言うかも。
普通は語り部という人たちだけが聞ける特別な声。
――あたしは、語り部じゃないのに聞こえる。どういうわけか。
天皇陛下のお声を直接聞けるなんてとても名誉なことだけど、どこかこの声を聞きたくないと思ってしまう。
なんだか、泣き声のようにも聞こえるから。でも、そんなことは誰にもいえない。それに御標は良いことばかりだから。
従っていれば皆幸せになれるから。でも、どうしても悲しくなってしまう。この左目が涙を流すことさえある。
今日は大丈夫。自分に関わることだから。大丈夫。流れてない。野枝に心配はさせられないから。
「るいちゃーん? 大丈夫? 具合悪いの?」
「え、あ、うん、大丈夫」
「何か? あった?」
「うん、御標。活動写真を見に行ったら、良いみたい」
「そっか、ならちょうどいいね」
野枝は深くは聞いてこない。きっと、これからも聞いてこないと思う。聞いてほしくないことやしてほしくないことはしないから。
ふざけることはあっても、本気じゃない。
「うん」
でも、鍵ってなんだろう。いいえ、考えるのはあと。まずは、着替えないと。また野枝を待たせるのは悪いから。
そのあと、急いで着替える。今日は洋装にしなさいと言われたから襟付きのワンピース。野枝にもらった服を着る。それに帽子を被って。
また裏表逆に着ちゃって野枝に駄目出しをもらって、煤避けの朱い傘をさして劇場へと向かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
帝都中央。
富裕層の人の家や軍属の建物が多い地区にその劇場はあった。ぽつりと、何かから隠れるようにけれど、表通りに大きく出るように、その存在を主張している。
この辺りに来ると軍服の人が多い。帝国軍人さん。陸軍の人。あまり、その方面に詳しくないからよくわからないけれど、厳格な人が多いと聞く。
――そんな彼らの、女二人で歩くあたしたちに対する視線はきついものが混じっている。
それも仕方のないこと。近々英国から伝わったエイダ主義による女性の社会進出もあって女性の参政権が認められるという。
男の人が前に立つことが当たり前だった帝国にとってそれは大きな変化。でも、全ての人がそれについていっているといえばそうでもない。
男は強くなければならない。弱い男など男ではない。女は男をたてて、後ろに控えていればいい。
まだまだ、そういうことを言う人は多い。特に、軍人さんはそう。
特に、野枝みたいな子には特に。男よりも強い女なんて、認められないから。でも、そうでなくても良いと思う。
男の人も女の人も。強くていいと思う。弱ければ、誰かに守ってもらえるだなんて、そんな虫のよい話をしていられるのは子供の時だけだから。
――野枝は、どうなのだろう。
――野枝はあたしと違って強いから。
――きっと、こんなこと気にしたりしないのかもしれない。
――ほら、今も、堂々と歩いてる。
――俯いて顔を傘で隠すようにしか歩けないあたしと違って。
それが悪かった。前は見ていないと、考え事しながら歩けるとは言っても、見えていないものは避けれないから。
「あ――きゃっ」
「おっと」
――誰かに、ぶつかってしまう。
大きな人。ぶつかった感触は男の人。まずい、と思った。ここで男の人って言ったら、想像するのは軍人さんで。殴られても文句は言えない。
あたしは前に立っている人を直視できない。俯いて、座り込んだまま、ただ殴られるのを待つ。
けれど、想像した痛みはない。殴るならもっと早くしてほしいと思った。周りの視線が感じられるから。
けれど、その時に、あたしの目の前に手袋に入った大きな手が差し出される。
その人は、流暢な英国の言葉で何かを言いかけて、すぐに帝国の言葉で、
「申し訳ない、レディ。ほら、掴まっていつまでもレディが座り込んでいるんじゃない」
そう言った。
そこで初めて、顔をあげた。目に映ったのは想像とは違う男の人だった。
――コートを来た大きな人。
――
――灰色のような銀髪の
軍人さんでないことにまずは安堵する。誰だって殴られたくはないから。外国の人で良かった。でも、ぶつかってしまったのは悪いと思うから、あとで謝ろう。
それにしても、外国の人は珍しい。帝都の中央に来ることが出来る外国の人なんて、大抵が偉い碩学様ばかり。技術的に遅れている帝国に技術を教えに来てくれる碩学の方ばかり。
だから、この人もきっと偉い碩学の先生に違いない。何の碩学様なのだろう。そう言えば野口さんが近々帝国に鉄道網をつくるための碩学様が来ると言っていた。
なら、この人があの蒸気機関車を創りあげた十碩学にも並ぶと言われている碩学――鉄道王なのだろう。名前は、なんだったか。
あまり思い出せない。鉄道機関学は分野が違うから、あまり覚えていない。有名な人だから思い出せると思ったけれど。
なぜか、思い出せない。だから考え込んでしまった。
「そこまでものを考えられるレディは、なかなかの才能をお持ちのようだ。それに綺麗な瞳をしている」
「え、あ、すみま、せん」
――あれ?
――考えごとしてたのに、彼の声とても良く耳に入ってくる。
――というか、双眸が目の前にあって。
彼があたしの顔を覗き込んでいるということで。彼の眼にあたしが映り込む。左右で違う瞳の色をしたあたしが。
恥ずかしいと思う前に気になった。彼の視線。あたしを見ていない? いつもなら恥ずかしいと思うくらい近くに男の人がいるのに。
彼は何を見ているの? あたしの顔、じゃない。あたしの黄金色の瞳を見てる?
色の違う左目を見てくる人は多い。特に男の人は不躾なそういう視線を向けてくる。だけど、彼の視線は違う。
――好奇? いいえ、違う。
――もっと別の、何か。
――期待、だろうか。
うん、しっくりきた。期待。そうそれが一番近い気がする。でも、何に? あたしの瞳に何を期待するの?
色が違うだけのこの瞳に。
「でも、まずはレディいつまでも座り込んでいるのはどうかと思う。ほら、手を取ると良い」
「え、あ、はい」
やっぱり、不思議に彼の声は耳に届く。
伸ばしかけた手をとられて、立たされて。落とした傘を差しだされる。
「ありがとう、ございます」
ぺこりと御礼も自然と出た。
「うむ、怪我もないようで結構。次もう少し上を向くことだ。堂々としていれば良い。前を向くことだ、大切なものを逃したくないのなら」
「えっと」
「おっとレディをいつまでも引き留める訳には行かない。では、レディ、私はこれで」
「あ、あの! あなたは?」
「私か? リチャード・トレビシック。しがない碩学だ。また、縁があれば会おう」
そう言って彼は歩き去って行った。大きくどこからでも見つけられるはずの彼の姿はどこにも見当たらない。
「リチャード・トレビシック……」
「大きな人だったわね」
「うん」
「運命感じちゃった?」
「うん、じゃなくて、――って野枝、今まで何してたの!」
「んー、るいちゃんの観察?」
「見てないで、助けてよ」
「だーめ、自分で何とかできるようにならないと、私が……いつまでも助けてあげられるわけじゃないんだから。さ、行こっか」
そう言って前を歩く彼女はどこか、そうどこか、遠くに行ってしまいそうな、どこかに消えてしまいそうな。そんな気がした。
文章を修正。
次は12時です。
では、また。良き青空を。