翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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――気が付くと、あたしは、暗い街にいた。

 

 帝都のようで、そこは見知らぬ場所のようにも思えた。色鮮やかな帝都が黒に染まっていたから。どこまでも続く、黒。黒、黒。

 暗く、黒く、それでいて、どこか世界は白んでいるようにも見える。白と黒(モノトーン)。まるで世界から色が失われてしまったかのように思える。

 

「ここ、は」

 

――あたしには、この場所がわからない。

 

 昨晩の記憶はある。課題をやって、眠ったはずだった。まさか夢遊病というわけではないだろうと、思う。自信はなかったが、そういうことは今までになかったので、これが初めて。

 

――本当に?

――本当に、初めて?

 

 自信がない。これが初めてではないような、そんな気がしていた。どこか、心の奥で。あるいは、頭の奥で。思考の海の底で。

 どこかで、これと同じものを見たことがあると感じる。いいえ、実際は、そんなことなどないのかもしれないけれど。

 

 そんな風に、超過した空想として処理しきれない現実について考えを巡らせる。悪い癖。でも、怖がらなくていいのであれば、これもまた良いことではあった。

 ただし、

 

――何もいなければ。

 

『GRAAAAA――――』

 

 聞こえた声。それは、唸り声のよう。

 

――獣?

――ううん、違う。

 

 直感的に、そう感じた。獣ではない。帝都にいる獣なんて、猫だとか犬だとかそういったものくらいだから。田舎であれば熊かもしれないけれど、ここは帝都だからそんな獣がいるはずなくて。

 だから、獣じゃない。

 

――だったら、何?

――あたしは、振り返ってしまう。

 

 まるで、そうすることが正しいというように。身体が勝手に動いて。

 

「ひっ――」

 

――それを、見てしまう。

 

 血のように赤い、紅く染まった瞳を。翼の生えた異形がそこにいた。黒くて、白くて。おそろしいものが、そこにいた。

 呼吸が、止まる。恐怖で。息を吸っても、吐いても、空気が肺に入って行かない。苦しさを感じる。息をするという生物が普遍的に行う呼吸が止まって、苦しくない生き物はいない。

 

 視界が、歪む。我知らず喘いで、強烈な眩暈が涙香を襲う。呼吸困難。眩暈。それでも、思考は勝手に、意志に反して、肉体に反して、回転を続ける。

 思考の歯車が回る。回る、回る、回る。回る、回る。回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る。

 

 苦しいと感じる間もなく、考え続ける。

 

――あれは、なに?

 

 ひび割れた、顔をした。白と黒の何か。異形。頭に浮かぶ言葉。左目がそれを事実だと認めてくれる。左目が教えてくれる。

 黄金に染まった左目が、教えてくれる。あれは、異形なのだと。異形。

 

――あたしは、考える。

――意思に反して。肉体に反して。

――考え続ける。

 

 足は動かない。許容量を超えた思考に、身体は動かない。

 暗がりに浮かび上がる、暗闇に浮かぶ赤い瞳が、近づいてくる。何かが砕ける音がして、破片が、地面に伝う。それは、目の前の存在から剥がれ落ちるものだった。

 

 数えきれないほどのひび割れが、世界にすら広がって行く。世界がひび割れる。

 

――ほつれ

 

 左目がそう教えてくれる。世界のほつれ。記された、運命に従わなかった結果生じる、世界のほつれ。怪物から、異形から生じたそれは、広がって、広がって、広がって。

 世界を呑み込んでいく。

 

 まるで御伽噺のよう。この世ならざる存在。空想の中にしかないもの。

 

『あ、ナ、タ……を、い、……』

 

 その時、異形が何かを喋った。言葉を話した。掠れた声で。まるで、ラジオのノイズのような音を響かせる。それが耳に届く。

 

「あ――」

 

 たったそれだけで、思考の回転が砕かれる。現実離れした認識が現実の色を帯びる。

 

――あたしは、それを鮮明に感じてしまった。

 

――恐怖。

 

 涙が自然とあふれ出る。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、引きつった声がでるだけで、悲鳴なんて、言葉なんて、何も出てはくれない。

 誰か。誰か、誰か。

 

――野枝

 

 必死に、心の中で叫びをあげる。友人に、

 

――野口さん

 

 尊敬すべき恩師に。

 

――あたしは、助けを求める。

 

 けれど、けれど、助けなんて来るはずがなくて。ただ、異形の怪物が目の前で妖しく光る瞳を向けてくる。ただそれだけで、心臓が止まりそうになる。

 何、何。何が起きているの。わけがわからない。意味がわからない。理解ができない。一度、砕かれた思考は、そうもとには戻らない。

 

 いいえ、戻らないようにされているのかもしれない。恐怖に思考は勝らない。恐怖の濁流にのまれて、涙香は思考の海に沈むことが出来ない。

 沈む思考は、苦しさにかき乱されて、それでも意識ははっきりとしていて。混濁する意識と、歪み視界がありとあらゆる全てを呑み込んで。

 

「逃げなさい」

 

 潰れそうになるその刹那。怪物が、漆黒に染まった異形の腕を伸ばしたその時に、声が響いた。

 

――凛とした鋭い声。

――どこかで聞いたような。

 

「――っ!!」

 

 喉を空気が通る。弾かれるように、身体が跳ねて、酸素が脳に回る。

 

「逃げなさい」

 

 声に従うように、涙香は、走っていた。

 

「逃げなさい」

 

 身体は辛うじて動いた。声に従って涙香は逃げる。袴の裾を掴んで、こけないように。和服は酷く走りにくい。脱いでしまおうかとも思う。けれど、そんな暇なんてない。

 振り返れば、背後を異形が追って来ていたから。だから、走る。恐怖に駆られて、走る。恐怖から、逃げるように。

 

 気が付けば、怪物がわかれていた。羽根が散って、それが異形となる。それからも、涙香は逃げる。

 

――走って、走って、走り続けて。

 

 編み上げたブーツは脱げることはなく。足を支えてくれている。

 

――どれだけ走ったの。

――どれだけ逃げればいいの。

 

 聞こえた声はもう聞こえなくて。追ってくる気配は、増え続けていて。時間がたつごとに、逃げ道を塞がれていくような感覚を感じ取る。

 追い込まれている。そんな感覚。事実、それは正解で、いつの間にか暗い路地で、行き止まりに追い込まれていた。

 

 それと同時に、限界も訪れて。

 

「はっ、はあっ、はっ……はぁっ……」

 

 いつの間にか、身体中に傷が走っていて。和服の裾も袖もボロボロで、ところどころ破けていて。お気に入りのブーツには、穴すら開いているようだった。

 

――寒い。

 

 寒い、寒い。身体から血が流れ過ぎたせい。きっと、恐怖もある。寒さで身体が震える。恐怖で身体が震える。動くことは出来なくて、石の壁に背をついて、ただ空気を求めて喘ぐことしかできない。

 思考する気力すらなくて。もう、身体は石のように重くて。指先すらも動いてはくれない。

 

 目の前に怪物がいる。ひび割れて、破片を撒き散らしながら、大きな翼を広げて、ゆっくりと近づいてきている。

 きっと殺される。その大きな爪で。

 

――そして、どうなるの。

 

 死ぬ。そう思った。

 

「い、や……」

 

 死にたくない。まだ、何もしていない。何も。まだ、始まってもいない。終わりまで、進んでもいないというのに。

 

――思考が溢れ出す。

――自分でも何を考えているのかわからない。

――けれど、一つだけわかることがあった。

 

 死にたくない。こんなところで、怪物に殺されるのなんてまっぴら。

 

「いや、あなたに殺されるのなんて、絶対に。諦めない。あたしには、やるべきことがあるの!」

 

――無意識に言葉が口をついた。

 

 それが何を意味するのかも、わからないくせに。けれど、まるでそれが合図であったかのように、誰かが、目の前に。

 

「そう。……そう。あなたは、まだ、諦めないのね。忘れても。覚えていなくても。知らなくても。あなたは」

 

 誰かが目の前に現れる。空間を引き裂いて。誰かが目の前に現れる。それは女の人。掠れた視界で、歪んだ意識では、それが誰だかわからない。

 けれど、確かなことがある。その左手は、異形だった。漆黒の腕。爪先は鋭く獣のようにとがっていて。堅い甲殻に覆われているかのように輝いている。

 

『GRAAAA――』

「まだよ。まだ、彼が来ていないわ。だから、ここは退きなさい」

 

 女の人が左腕を振るう。ただそれだけで世界が引き裂ける。その爪は世界を引き裂く。そのたびに、女の人の何かが軋んでいるのを左目が捉える。

 けれど、それを理解することができない。碩学ならぬ身では。神ならぬ身では。

 

 そもそも、限界を迎えた涙香に目の前の状況を吟味し精査し、判断を下すことなどできるはずもなく。できることはただ見ていることだけだった。

 誰かわからない人が、異形を引き裂くのを。世界を引き裂いて、全ての異形ごと粉砕するのを見ることしか出来なかった。

 

 そして、全ての異形が砕かれて。同時に涙香の意識も、闇に、沈む――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 そこには何もなかった。暗がり。暗闇。いいや、機関(エンジン)しかない。何かの生き物の消化器官の中だと言われても信じられるようなそんな気がするような暗がりにはただ機関だけがあった。

 蒸気を噴き出しながら機関の駆動する音。歯車が回り、シリンダーが稼働しピストンが奏でる重く低い音が響いている。

 

 そこにあるのは巨大な複合機関(ハイエンドエンジン)だ。壁一面歯車の巨大機関。ただ見ただけでは何に使うものなのかすら見当がつかない。

 おそらくは機関数秘(エンジンカバラ)を修めた高名な碩学が設計したのだろう無駄のない機関がそこで駆動していた。

 

『始まる』

 

 止まっていた機関が駆動を再開する。それは、ここにある機関の中ではごく一部であったが、それはもっとも重要なものでもあった。

 止まっていた歯車が回転を始めて、連動して全ての機関が駆動を変える。新たな機能が、存在していた機能を食いつぶして、本来の機能を取り戻す。

 

『さあ、始めましょう』

 

 再開を祝して。あるいは届かぬものを嘲笑して。いいや、違う。何も、何もない。響く声には感情などなく、あるのはただ言葉だけ。

 御伽噺を語る紙芝居屋のように、ただ淡々と、どこか心を込めるだけ込めて、声は、再開を祝すのだ。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 全てを知るがゆえに、男はただ黙っていた。

 

 男は鉄道王と呼ばれる碩学であった。彼について知らぬ者はいない。鉄道を開発した男の名をこの機関文明が栄華を欲しいがままにしている黄金の時代において東洋においても西洋においても知らぬ者などいない。

 だが、同時に彼については何も知られていない。どこから来たのか。どこへ行くのか。少なくとも彼が初めて現れた倫敦での鉄道発明以前の彼について知るものは誰もない。

 

 そう誰も。ただ一人、同郷の者を除いて。

 

「久しいな、と言っておこうか。私は全てを知っているゆえに、君にとっては久しくとも、私には久しくはないのだが、ここはただ久しいな、と言っておこう」

 

 彼は誰かへと語りかける。それはただ一人、男について知る者へと。チク・タク。チク・タク。と音を奏でる者へと静かに語りかけるのだ。

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「なるほど。そういうこともあるだろうが、それはお前の考えることではない。ゆえに、邪魔などさせはしないし、お前の好きにさせる気もない。あの子が望むのであれば、私は、お前すらも砕こう」

 

 対する何者かは、ただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「…………」

 

 男もまた再び、沈黙した。

 




新作エピソードでした。

次は〇時に。

では、また。良き青空を。

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