翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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 帝立碩学院。

 英国の王立碩学院を模してつくられた碩学の卵たちが通う施設、その研究棟。帝国を代表する碩学たちが日夜研究に励んでいるという。

 

 英国の王立碩学院を模したこの学院に存在する碩学たちの塔と呼ばれる。高層複合建築技術によって建てられたこの建物はどこか箱のようにも見える。碩学が集まった箱。叡智の箱と人は呼ぶ。

 ここには、帝都、いいえ、この帝国において最も優れた頭脳を誇る碩学たちが集められている。ここにあるのは一流と最先端のものだけ。人も、機関も。

 

 碩学がより良い研究を行うことが出来る場所。それがここであり、碩学の卵たちが通い知識を学ぶ場所でもある。

 

――野枝と別れてあたしは一人、研究棟第三階、機関科学や機関医学専攻の研究室、野口さんの研究室に向かっていた。

 

 野口さんの研究室。酷く混沌とした部屋だと思う。ただ、ごみごみとした感じではなくて、いろんなものあが混ざっているような。そんな感じ。

 たとえば、油絵だとか、医学書だとか。他には囲碁だったり、将棋の板だったり。西洋のちぇす板もそう。いろいろ。

 

「いらっしゃい。待っていたわ」

 

――柔らかな声

――いつもとおなじ。

 

「今日も宜しくお願いしますー……」

 

 いつもと同じスーツ姿で野口さんはあたしを迎えてくれる。優しい人。権威だとかそういうのを振りかざさない人。さん付けを許してくれてる。

 

――でも、あんな想像をしたあとで、会うのは、うん、恥ずかしい。うん……。

――やっぱり、そんなのは駄目だと思う。女の人と、女の人だとか。うん、うん。やっぱり、駄目。

 

 でも、野口さんのたたずまいとか、そういう物語の貴公子のようで想像を止めることはできない。

 

――うぅ、駄目、駄目! 想像しちゃダメなのに。

 

 野枝から言われて、なおそうとしてるのに。止まってくれない。より酷くなる。ここ最近はずっとそう。何かあればすぐに思考の海へと沈んでしまう。

 知らないことをまるで知っているかのように。そこには様々なものが沈んでいる。それを掴み取ろうとしても、掴み取れるものではなくて。

 

 ただ、ずっと考え続ける。

 

「ふふ、相変わらずのようね」

 

 そっと、頬に手をそえられて、思考の海から引き戻されて、野口さんの顔目の前。

 

――うぅ、頭、沸騰しそう。

 

 間近で見て、本当に綺麗な人。女の目から見てもただ尊敬以外の感情が湧き出さない。

 

――可愛いとか、そんなのじゃなくて、本当に綺麗って言葉が似合う人だとあたしは思う。

 

「……すみ、ません……」

 

 綺麗な瞳に見つめられて、そう言うのが精一杯。きっと、野枝がいたらからかわれてる。今、研究室には野口さんと二人っきりだから、良いけれど、知られればきっと。

 

――野口さんに見つめられると、あたしはこんなふうにしどろもどろになってしまう。

 

 そうなると、やっぱり色々と考えてしまう。さっきの取り留めもない野枝との会話だとか。野口さんとの絡み、だとか。

 ダメだと思うに、やめられない。想像は、深まって。思考の海は広がって行く。倒錯的な、退廃的な。そんな想像をしてしまう。

 

――だから、あたしはもっと、赤くなってしまう。

 

「ふふ、良いのよ。貴女はそういう顔している時が一番可愛いから」

「か、かわ、かわ――うぅ」

 

――ほめ、褒められた。

――顔、熱くなる。

 

 たぶん、真っ赤。野枝の時よりもたぶん。ずっとずっと顔が赤い。それはどうしようもなくて。見られて、もっと顔が赤くなる。

 今にも唇が触れてしまいそうなくらい野口さんとの顔は近い。教授と生徒の距離ではない。ただでさえ彼女はそういうことを想像させるというのに。それなのに可愛いだとか言われたら頭が沸騰する。

 

 このまま、接吻してしまうのかもしれない。沸騰した頭でそんなことを考える。普通に考えればいけないことだと思うのに、沸騰した頭は全然働いてくれなくて。

 いいえ、働くのはいつもよりも数倍働いて、いけない方向に思考を誘う。

 

――駄目、駄目。

――気をしっかり持って、黒岩涙香。

 

 また野枝にからかわれる。そう思う。けれど、想像は止まることを知らない。顔はもっと、もっと赤くなって。沸騰したように湯気が立ち昇りそうなほど。

 想像は飛躍して、でもやっぱり初めては意中の人とっていう幻想もあって。でも野口さんならいいかも、だなんてそんなことをすら思ってしまって。

 

――駄目、駄目。

 

「ふふ、じゃあ、始めましょうか」

 

 不意に、野口さんが手を放す。冷たい右手の感触が離れて、それにひかれるように思考の海から引き上げられる。

 野口さんの顔は、悪戯が成功した、みたいな笑顔。

 

――助かった。

――これ以上、あんな体勢でいられたらと思うと。

 

 想像して、また赤くなって。野口さんにまた可愛い、って言われて。やっぱりまた赤くなる。それの繰り返し。でも、ずっとそうしていることはできない。

 これでも碩学の卵であり、野口さんからの講義もあれば、課題も多い。詰みあがった書類のいくつかを処理しなければならないのだ。

 

 だから、これ以上の戯れはない。これからは、碩学と生徒という関係。

 

「じゃあ、今日はそうね、この前の続きからやりましょうか」

「うぇひゃっぁ、は、はい……」

 

――ただ、やっぱりまだ顔は熱くて。

――あたしは顔を真っ赤にしたまま、課題を始める。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 日が暮れて、空、暗くなって。野口さんにからかわれながらも講義は終わって。研究棟の外で野枝を待っていると野枝の使いだという人に野枝は今日は一緒に帰れないという言伝を聞いた。

 

――うん、そういうこともある、よね。

 

 そういうこともある。研究室に配属された日から、何度もあった。そういう時は、たいてい野枝は使いを出してくれる。いつまでも待って、待ち続けないように。逆もそう。

 でも、たいていは野枝の方。野口さん、講義、速いから。実験の手伝いだとか、だけど、ついていくのがやっとなくらい、速い。

 

 実験機械(クラッキングマシーン)だとか、人は言う。研究室に配属される前はそう思ってた。あってみると、そうはまったく思えなくて。

 でもやっぱり、実験の速さだけは確かに機械じみていると思うけれど――。

 

――そんなことをいつものように考えていたから

――あたしは、背後からかけられた声に気が付かなくて

――ぽん、と肩におかれた手に、飛び上がるように驚いてしまって。

 

「うっひゃぁ!?」

「おっと!?」

 

 倒れそうになったところをふわり、と支えられる。

 大きな身体、大きな手、男の人の手。それに、あたしは、慌てる。ただでさえ、変な声を聞かれたせいではずかしいのに。

 

――だから、あたしは相手の顔を見る前に、頭を下げて、顔を隠して。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 と謝ってしまった。

 

「あ、ああ、いや、すまない。こちらもいきなり女性の肩に手を置いてしまったんだ。謝るならこちらの方さ」

 

――そこで、あたしは気が付く。

――この人、知っている人。

――ええと、そう、何度か会ってる。

――野枝関係、確かそう、名前は

 

「大杉さん?」

「ああ、麗しの野枝に会いに来たんだが、君ひとりかい?」

「野枝は、遅れるそう、ですー……」

 

――大杉さん

――大杉栄。

 

 同じ碩学院の学生。先輩だったはず。野枝と同じで自由な人。いろんな噂を野枝から聞いてる。 学生同士の喧嘩でナイフで刺された、だとか。武道にかまけれあまり勉強してない、だとか。

 この国では珍しい人。新大陸にいるというプレイボーイだとか、そういう言葉が似合う人だって野枝が言っていたのを覚えてる。

 

 欧州に文化に傾倒しているのだとか。

 

――ああ、あとは、おと、男の人のことも、す、好きだ、とか。

――いけない、考えてしまった。

 

 考えてしまったらもう、止まらない。

 きっと、そう、これは野口さんのいたずらのせい。きっと、そうたぶん。女同士だとか、男同士だとか、そんなことを考えてしまう。

 

 だから、顔、熱くなって。また、また。目の前の大杉さんが、男の人とあられもないことになっているのを空想してしまう。

 それでいっそう顔赤くなって。

 

――額におかれたひんやりとした手の感触で、あたしは我に返った。

――大杉さんの顔、目の前にあって。

 

「え? にゃ、な、ひぇ?」

「顔が赤いが、大丈夫かい?」

 

 額、手、おかれてる。

 

――え? え?

 

「風邪かい? 季節の変わり目だ、体調を崩す子は多いと聞くけど、どうかな?」

 

――え? え?

 

――答えないあたしに、心配そうに顔を覗き込んでくる大杉さん。

――額に手は置いたままで、たぶん、体温を測ってるんだと、思う。

――でも、あたしはその事実をうまく認識できなくて。

――口から出るのは言葉にならない言葉だけで。何か答えようとするけれど、何も答えられなくて。

 

 ただぱくぱくと、するばかり。結局、

 

「よし、無理をさせるわけにはいかないから、僕が送って行こう」

 

 いつの間にか、送られる流れになって。さも自然な流れて、彼の腕に抱かれる。いわゆるお姫様抱っこだとか野枝が言っていた恰好。

 気が付いた時にはもう、遅くて。勝手に運ばれることになってしまっていた。どうしてそういう流れになったのかまったくわからない。

 

 野枝がいたらこんなことにはならなかっただろう。今は、野枝がいないから、こんなことになった。また、野枝に危ないと怒られてしまう。

 けれど、そんなことすら今は考えることはできなかった。ただただ今の状況のこと以外に考えることはできなくなってしまっていた。

 

――あたしは恥ずかしくて、顔をさらに真っ赤にして。

 

 幸い、遅い時間。通りを歩く人は少ない。けれど、いないわけじゃなくて。

 

――抱えられたあたしを何事か、とみてくるひとたくさん。

 

 それは心配もあるけれど、好奇の視線が大半で。帝都でもこんな格好で運ばれる女の子は珍しいから、皆が見てくる。

 

――なんで? なんで、彼はこんな中平然としていられるの?

――あたしなんて茹っちゃうくらいなのに。

 

 それなのに、彼には話をする余裕もあるみたいで、しきりに何かを話している。

 すごく軽いから、ちゃんと、食べているのか? だとか。気分はどうだとか、体調に関することとか。心配を言葉にしたものが聞こえる。

 

 とりあえず、うなずいておけば、次は博物王の進化論の原書を手に入れただとか。昔、汽車値上反対の市民大会に参加し、汽車焼き討ち事件で逮捕されてしまったことだとか。野枝に気に入られるために、いろんなことをやっているのだとか。

 そんな話に切り替わる。まるで、ラヂオのように途切れることなく喋っている。

 

――あたしは、それを聞いている余裕なんてなくて。

――とにかくうつむいて、顔を隠して、とにかくうなづくだけ。

――だって、仕方ない。

 

 男の人には、こんなことされるのなんて、初めての経験だから。野口さんにはしょっちゅうされるけど。男の人は、いろいろ違う。

 体格、だとか、力強さだったり。でも、一番違うのは匂い。どこか、男を感じさせる匂い。嗅いだことのない匂い。

 

――だめ、だめ!

 

 これ以上は、駄目。考えちゃダメ。駄目。

 でも、考えないなんてできなくて。頭のなかにそう言う空想が描き出されてしまう。事細かに、感じられた男の人のあれやこれやを加味して。

 

 そんなことははしたない。でも、止められない。悪い子だと良く言われるけれど、その通り。だって、こういう想像が止まらないのだ。

 これを野枝も野口さんも才能という。本当に? 野枝はまだしも、野口さんの言葉を疑うわけではないけれど。こんなものが本当に才能だとは思えない。

 

 助けてくれた男の人に対して、空想を働かせるなど失礼極まりない。それが無意識的なものにしても。これは酷いと思う。

 

「よし、着いた。降ろすよ?」

 

――助かった。

 

 それでもなんとか手遅れになる前に、家についた。

 

「あ、ありがとう、ごひゃいます」

 

 噛んだ。でも、そんなことを気にする余裕、なくて。

 

「いいよ、ゆっくり休むといい」

「は、はい」

 

 そういって、

 

――彼は自然にあたしの手をとって、そこに口づけする。

 

「それじゃあ」

 

 彼は帰っていく。

 いったい何をされたのか、まったくわからなくて、ぼーっと、下宿先の大家さんにも気が付かないで、部屋に行って。そうやって、何をされたか気が付いたのは、部屋に入ってから。

 西洋風の寝台に思わず飛び乗って、足をばたばた。

 

――ばたばた、ばたばた。

 

――落ち着くまでずっと、あたしは、そうしていた。

 





旧版の3話、4話あたりを結合しました。
別に混ぜても問題のないエピソードだったので一つにしました。

これも地の文を増量してます。

次は、〇時にでも。

では、良く青空を。

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