翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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――すぅっと。

――唐突に何かが頭に滑り込んできた。

 

「だからねえー、機関科学の課題はバベッジ卿絡めとけばー、それなりにいい点もらえるってー……」

 

 講義が終わった後、そう野枝に説明している最中に。また。また、聞こえた。いつもの声。いつもと同じ声。変わらぬ口調で、違う内容を告げる声がするりと頭に入り込んできた。

 それは、とても気にかかる。自分にだけ聞こえる声だから。だから、それに自然と耳を傾けてしまう。誰にも聞こえない。けれど、誰にも聞こえる声。

 

――それは、確かに存在する声だった。

 

 耳元で、あるいは頭の中で。あるいは、この国のどこにでも。その声は聞こえていて、誰にも聞こえていなくて誰もがその内容を知っている。

 それは、昔から聞こえていた声。聞こえるようになったのは、この左目が瞳が綺麗な黄金色に変わったのとだいたい同じくらい。

 

 時々聞こえる。それは、たぶん御標なのだと思う。確信をもっていないないのは、語り部以外に聞いた者がいないから。

 語り部にしか聞くことのできないはずのそれ。それが聞こえる。

 

――きっと、おかしくなったのよ。

――そう、きっとそう。

 

 誰にも聞こえないから。人には聞こえないはずだから。語り部と呼ばれるからくり以外にその神託を聞けるはずないのだから。

 

――だから、あたしは聞こえないふりをする。

――でも

――駄目

 

 聞こえないふりをしてもその声はずっと、ずっと聞こえるから。良いことも、悪いことも。全部。全部。あたしには聞こえてしまう。

 

 今もそう、ずっと、ずっと、聞こえる。

 

――ずっと、ずっと、ずっと。

 

 絶えず、絶えることなく。いつでも聞こえるわけではないけれど。聞こえるときは、かならず聞こえる。絶えすものかという妄執のような何かすら感じるほどにその声は、絶えず語る。

 昔話のはじまりのように。むかしむかし、と御伽噺のように。幸せになる為の標を告げるのだ。

 

 それは、誰もが望んだもので。

 きっと、それはその人が望んでないもので。

 

 わかる。なぜだか、そう思う。だって、それは――

 まるで、誰かの泣いている声のようで――。

 

「ちょーっと、聞いてる? るいー? 黒岩涙香(くろいわるいこう)ー?」

「う、うぇひゃぁ?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

――ふと、あたしを呼ぶ声であたしは我に返る。

――野枝があたしを呼ぶ声。

――いつもと同じ、あたしが考え事をし始めた時に無意識にするのと同じように、語尾を伸ばし口調で。

 

 どこか、飽きれたような笑みを浮かべているのが彼女の顔を見なくてもわかる。答えなきゃと思う。話をしている途中だから。

 話をしていた途中だから。聞かれたことに答えていた途中。何かを聞かれた。そう確かに聞かれた。質問。野枝からの。

 

――でも、そんなことよりも。

――変な声、出た。恥ずかしい。

 

 だから、しきりに、隣で呼びかける野枝を無視するような形で周りを見る。講義を終えて少しだけ経ってるから人はいない。隠れている人も、おそらくはいない。

 大丈夫。周りに人はいない。大丈夫。そういう人は野枝がきっと追い払ってしまう。そうでなければ、あんな風に声が出ることを知っている野枝が、あんなことはしないから。でも、心配だから、もう一度周りを見て。

 

――うん、大丈夫。

 

 そう黒岩涙香は、安堵する。野枝はいつものことだから、きっと気にしない。初めの頃は、ずっとずっとからかわれた。今は大丈夫。

 最初の頃は、大変だった。けれど、慣れたから。こういう関係もいいかなって、思えるくらいにはなった。たぶん、親友になったのだと思う。

 

――成長? どうだろう。

――大人になったって言ったら、きっと野枝に笑われちゃうかな?

 

「ちょっとー、聞いてるー? まーた、考え事? ちょーっと、るいー?」

 

 もっと近く、耳元で野枝の声。

 

――うん、うん、わかってる。答えなきゃ。うん。

 

 意識を集中して、言葉を絞り出すように。

 

「だ、大丈夫、聞こえてる、うん、うん」

「じゃあ、何の話か言ってみ? ほれほれ」

 

――早く言いなさいー、と野枝があたしをせっつく。

 

 頬をぐにぃ、と押される。

 

――野枝

――伊藤野枝。

 

 自由な人、凄い人。まだまだ珍しい着物襟をしたワンピースという洋装を着た可愛らしい友人。破天荒でいつも振り回されるだけど、大事な、大事な親友。

 

――えっと、なんだっけ。

――そう、話。何の話をしていたか。

――これでもながら聞きは得意だから、わかる。確かそう――。

 

「えっと、機関科学の課題の話だよね」

「ぶー、はっずれー、正解はるいの好みの男性は誰かって話」

 

 野枝はそんなことを言う。そんな話をしてなかったはずなのに。その証拠に野枝はいつものように、人をからかう時のように笑ってる。

 とてもいい笑顔で。

 

「むぅ、そんな話してなかった」

 

 拗ねたように言えば、はは、ばれたか、と舌を出す野枝。

 子供みたい。お姉さんぶったりするのに、時々こんなこともする。だから、野枝はもてる。

 

――ううん、うらやましくない。うん、うらやましくなんかない、はず。

――うん、うん。たぶん。

 

 そんなことを考えちゃって、それを誤魔化す意味でも、ちょっと怒った風にして。それはきっと子供みたいと言われるのだろうけれど。

 野枝の前だと大人ぶることもない。野枝にはかなわない。そう思うからこそ、子供のように拗ねて見せる。

 

「もう」

 

 怒ったように頬を膨らませて。

 

「怒らない怒らない。これでも、気にしてるんだよ私」

「大きなお世話ですー……」

 

 そう大きなお世話。大きすぎるお世話。お節介。

 でも、興味がないとは言えない。

 

――うん、あたしだって、多少は、ね。

 

 少しはそんなことも考える。でも、周りにいる男の人とは、あまりそんなことになるとは考えられない。良い人がいないわけではない。

 ただ、そういうことが考えられないような、そんな感覚。誰か、男の人の隣を歩く自分を想像できない。想像したとして、想像するのはやっぱり、ああいうこと。

 

 顔が少しだけ赤くなる。そこから想像は飛躍して。

 

――うん。うん。やっぱり、あたしにはまだ早い。

――でも、やっぱり気にはなる。

 

 そう言った本を読んでいると自分も、いつか、とか思ってしまう。

 

――ああ、そう言えば、新作の本が出ていたはず。今月は厳しいけれど買いに行こうかな。

――本と言えば、書きかけのお話、どこまで書いたっけ。

 

 お話というよりは、翻訳。ちょっとしたお仕事。友人から送られる英国の本だとかを翻訳するお仕事。割のいい仕事。物語に触れられる楽しい仕事。

 今、やっているのはアレクサンドル・デュマ・ペールのモンテクリスト伯。帝国の人にはあまりなじみないから、タイトルを岩窟王にしたり、少しずつ登場人物の名前とか変えて。

 

――うん、確か、もうすぐ終わりだよね? そうしたら、今度は訳じゃなくて、きちんとしたお話を書こう。

――うん、探偵のお話とか、あの子好きそうから、それを書いて……。

 

 構想が頭の中に流れ出す。蓋をあけたように。物語が進む。考えられる限り、全てが、頭の中で。

 

――そんなことまで考え始めて

――あたしは、気が付く

 

「ちょーっとー、またー、るいちゃーん?」

 

 野枝が呆れたような顔をして、頬をつっつていくる。

 

「ごめん、考え事してた」

 

――あたしの悪い癖。

――こうやって考え事に浸るの。さっきみたいに。

 

 こうやっていろいろ考える。口よりも頭の中でしゃべるほうが楽だから。

 

「もう」

 

 仕方ないなあ、と野枝が苦笑する。そういうこともわかってくれる野枝。本当に、勿体ない友達。みんなにも人気。

 けれど、逃がしてはくれない。結構、しつこい。こういう話題では。

 

「で、実際のとこどうなの?」

 

 それは、男の人のお話。こういう恋だとか、愛だとかの話は、彼女の得意分野。勉強よりもずっとずっと彼女はこういう話が得意だ。

 逃げようとしても逃げられるわけがなく、

 

「えっと、い、いない、うん、いない」

 

 答えてしまう。

 

――でも、良いよね。そんなに話題になることなんてないから。

 

 けれど、野枝はすっと、話題を口にするのだ。

 

「そう? ……なら、野口さんとかは? お似合いじゃない?」

 

――野口さん

――野口英世。

――大日本帝国を代表する女性碩学。左手に手袋をした綺麗な人。凛々しい人。

 

 もちろん、男の人の話をして出てくる人じゃない。れっきとした女性。それでありながら、この大日本帝国の碩学の中でも、五本の指に数えられる高名な碩学様の一人。

 エイダ主義の先駆けのような人物と多くの人たちが言う。男性と同じように前に立つ女性。軍の男の人たちともめることも多いけれど、多くの事が出来る尊敬すべき人。

 

――確かに、スーツを着た彼女は確かに男装の麗人然としているけど、けど。

 

「なんで、今の流れで出てくるの?」

「男の人じゃないなら、女の人かなって。だから、野口さんかなって」

 

――ない、ない。

――あたしは、真っ赤になって否定する。

 

 別に女の人が好きだとか言われるのは良い。良くはないが、良い。

 

――でも、よりにもよって野口さんなんて!

――あたしより、野口さんに失礼。

――でも、でも、あたしの頭は想像してしまう。

――野口さんとの、その、あんなこと、とか。自分でやめようとしても、やめられない。

 

 どんどん顔は赤くなって、もう見ていられないくらい。湯気がでそうなくらい顔は赤くなる。

 

「あはは、るい、真っ赤」

 

 恥ずかしくて、恨めしいというように睨みつけて。それでも野枝には効かない。ただ、楽しそうに笑みを向けるだけ。

 

「ふふ、ごめんごめん。るいが可愛いからね、からかいたくなっちゃうの」

「もう」

「言うじゃない。好きな子ほど意地悪したくなるって。私、男も女もいけるから、るいも狙ってるんだよー」

「もう、冗談やめて」

「あはは、冗談じゃないのに」

 

――もう、もう

 

 彼女は、いつもそうやってからかう。

 いい加減慣れても良い頃なのに、慣れない。

 

――あたしが、特別そういうのに弱い、わけじゃないはず、うん。

――だけど、野枝にはかなわない。

 

「ふふ、さて、それじゃあ。そろそろ時間だし行きましょうか」

「あ、まって、裾踏んじゃう」

「もう、だから洋装にしたらって言ってるじゃない」

「だ、だって」

「るいってば細いんだからきっと似合うわよー。ほら、歩いた歩いた」

 

 今も、こんなふうに自分のペース。でも、嫌いじゃないから、それに時間だというのは本当。教授を待たせるわけには行かないから。

 野枝に手を引かれるように研究棟へと向う。

 




リメイク版2話。

主に地の文を増量。しかし、ここはまだあまり変更はありませんね。
次は、12時に投稿します。

では皆様、良き青空を。

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