翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
「あっ、ん、の、野口さ、ん――」
「駄目」
大日本帝国中枢。
そこにある帝都ホテル。
最高級のホテル。開国し、世界の最先端を取り入れたホテルの最上階。
――スウィートルーム。
――以前、話をした場所。
そこにあるいくつもあるベッドの一つで、女と女は肌を重ねていた。
いいや。正確に言えばそうではない。
片方の女。左手に手袋をした裸の女。その女は、目の前で腕を縛られ寝台にて拘束された少女と肌を重ねていた。生まれたままの姿で肌を触れ合わせていた。
少女の方は混乱している。仔犬を拾った翌日。それについて話をして。野枝と相談もして。あとは野口さんに色々と話をしようと思っていたら、いきなりホテルに連れ込まれて、縛られて。
裸にされていた。上着も、着物も下着も。全て剥ぎ取られて生まれたままの姿。隠すものは何もない。
女同士。けれど気恥ずかしさの方が勝る。少女、黒岩涙香が今、相手にしているのはあの野口英世だったから。日本におけるエイダ主義の見本のようなカッコイイ女性であったから。
肌は紅潮し、汗ばんでくる。それはきっと二人の体温が混じり合っているから。いつもよりも体温が高いから。
「やめ、てくだ、さ、い」
「あなたの言う仔犬を捨てるなら、言うことを聞いてあげるわ」
「い、い、え」
「そう」
敏感なところをさわられる。優しく、されど容赦なく。
涙香の口から、喘ぐような声が漏れる。出したことのない声。自分じゃない自分の声に涙香は泣きそうになる。
痛いこと、痛めつけられることには慣れている。けれど、優しくされるのも気持ちがいいのも初めてだった。
先ほどから同じやり取りをしている。
野口は涙香が拾ってきた仔犬を捨てるように言っている。理由は、何一つ言わない。ただ彼女はそれを見た瞬間に、それを捨てるように言った。
きっとそれは自分の為なんだろう。
涙香はそう思った。野口さんは、涙香の為になるようなことしか言わないし、しない。理由が言えないのはきっと知らなければいいことだから。捨てなければいけないのはエドが危険だから。
けれど。けれど。
涙香には彼を捨てることが出来ない。
だって呼ばれてたから。だって、哭いていたから。
巌窟のような路地の中で、涙香を呼んだのだから。
だから、涙香はエドモン・ダンテスを絶対に捨てない。彼から離れていかない限り、涙香は彼を保護し続ける。観測し続ける。彼が、どこかへ行ってしまうまで。
待て、しかして希望せよ。
その言葉の通りに希望を手に入れて誰かとともに、歩んでいける日まで。
「あた、し、は――」
「…………」
それが野口英世は気に入らない。
彼女の為を思っている。
彼女の事を思っている。
その想いは口には出していない。
しかし、態度で示していた。
もとより口は達者な方ではない。ならば、行動で示してきた。彼女の為になることをした。彼女を裏切ることは絶対にないと断言できる。
けれど、けれど――。
彼女は野口の思う通りには動かない。こんなにも想っている。その想いは、おそらくこの惑星よりも重い。
彼女のことを想えば、あの仔犬。エドモン・ダンテス。エドと彼女が呼ぶ仔犬は追放すべきだ。
四足歩行の機関精霊。
あれは邪悪なるものだ。
あれは邪なるものだ。
涙香と引き合わせてはいけなかった。
そのままにしてはいけない。
――ああ、でも。でも
野口は思う。
涙香がそれを飼いたいのならば、飼わせてやるべきであると。
そうわかっている。頭では。
鋼鉄なりし碩学の理性は、回答を導き出している。
合理的な解答だ。
何一つ問題なく。彼女の幸せを考えるならば、こんなことをする必要などありはしない。
けれど。けれど。
そうではない。そうではないのだ。
だからこそ、行き場のない感情を、ぶつけているに過ぎない。無表情のまま、舌を涙香の肌へと這わせる。彼女の声が響く。
舌先が熱い。彼女に触れた場所が燃え上がるかのように熱い。涙香の声が耳に届いた瞬間、脳がスパークした。かつて、白き男の雷電をその身で受けた時のようだった。
電流。白き彼が使っていたものが、脳を焼いたかのよう。熱い。ただ全てが熱く、恍惚で。歯止めがきいていないのを野口は自覚する。
けれど。けれど。
やめられない。やめたくない。
――剥離しすぎた。
――感情が不安定。
――理性で制御できない。
熱暴走を起こす脳は、されど冷静に判断を下していた。
そう、こうなっているのは自分の責任。きっかけは仔犬であったのかもしれないが、元を辿れば全ては自分のせいなのだから。
それがわかっていても、感情は、久しく忘れていた感情は、止まらない。とまってはくれない。止められない。止めない。
手袋に包まれていない右手が彼女の胸を肌を撫でる。控えめだけれど、綺麗なそれ。まだまだこれから成長していくかもしれないそれ。まだ誰にも触れられていないそれを手にする。
背徳の情欲は止まらない。
抵抗する彼女を組み敷いて。
ただ要求する。
そして、否定される。
怒りはない。ただ、制御できない情欲だけが、涙香へと注がれていく。ただそれを繰り返す。
いつまでも。いつまでも。
「そこまでにしておくと良いミス・ノグチ。レディは、絶対に言う通りにはしない」
全てを知り得る男。
全てを知る男が、そこに来た。
「…………」
「そうだとも。私は全てを知っている。ゆえに、彼女が首を縦に振らないことも知っている。何一つ。問題などありはしないだろう」
彼は言った。何も問題はないと。
そう問題はない。
彼の機関精霊は、涙香になついているのだから。
だが、だからこそ――。
「嫉妬はよせ、野口英世。それは君がまだ人である証ではあるが、それではレディにとって苦痛でしかない」
攻められて、攻められて、もはや息も絶え絶えな涙香を見て彼は言った。
嫁入り前の娘の姿ではない。あられもない姿であった。もはや意識などほとんど残っていないだろう。
そうなるように野口はしたし、全て知り得る男リチャードはそうなることも知っていた。
だからこそ、このタイミングで来たのだから。
「…………そう……そうね。あなたは……いつも……」
「そうだ。私は全てを知っている。知っているがゆえに、君たちに何かを言う必要もない。君がどうするかも私は知っているのだから」
「……本当に……。……悪いことをしてしまったわね……」
野口英世は、感情を押し込める。蓋をして心の奥底へと沈める。
そうでなければならない。
そうしなければならない。
「そう思うのならば、わかっているだろう?」
「そうね。おいしいごはんにでも連れて行ってあげましょう」
すっかりといつもの調子に戻った彼女は、脱がした服を涙香に着せて、自らもいつもの服に身を包み部屋を出る。
そこには、眠る少女と全て知り得る男だけが残された。
「あのようなものを見つけるとはね。これは何度目だろうか。こうして君が、ここで眠るのは。何度目なんだろうね」
問いかけるような言葉。
されど意味はない。
なぜならばその問いの答えすらも知っているのだから。
問いに意味はない。
誰かに聞かせているのではない。
ただ呟いているだけだ。
その呟きは、ただ機関の奏でる音に消える。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「お休み、ですか?」
「ええ」
――お休み。
研究室がお休みになった。こんな日は珍しい。
――あたしが所属する野口研究室。
――機関医療だとか、そんなことについての研究室。
――あたしとるいが所属する研究室。
涙香も休みならば伊藤野枝が残ることもない。全てはあのいとおしい友人の為だと彼女は入る研究室を決めている。
もともと野口さんに興味があったのもある。
――野口英世。
――日本エイダ主義の先駆け。
世の女性憧れである彼女の下で学べるのならばこれほど有意義なことはない。
――あたしは、そうね、るいとは違うから。
――女性にあるまじき短髪、男の子のような服装も少々。
決して褒められたものではない。世界的にエイダ主義が普及していたとしても、百年以上の時を鎖国して過ごした我が機関帝国。
大日本帝国が未だ、その名を世界に黄金郷として認識されていた頃からまだ数十年余りだ。国家として成熟するには時間が足りない。
偉大なりし明治機関天皇がいたとしても、それは変わらない。
まだまだこの国は、女性よりも男性の方が強く、男性の後ろを女性が歩くのが一般的だった。
――強い女性は少なくはないけれど、まだまだ一般的ではないから。
――女は女らしくが当たり前に叫ばれる。
――あたしは、それが嫌だった。
だから、ここに来た。女性であっても碩学になれると証明した人のところに。そう、それは自分の意思。
――そう、そのはず。
「んー、どうしよっかな」
などと口に出しながらも伊藤野枝はふと思うのだ。
自分は、本当にここにいるのだろうかと。
――きっとそう、昨日、告白されたから。
――きっとそう、昨日、涙香と知らない女の子が歩いているのを見たから。
――きっとそんな理由だ。
――変なことを考えるのは。
「駄目だな、あたし」
そう駄目駄目だった。伊藤野枝は駄目な女であるのだ。
などと際限なく思ってしまうが。
「やめておけ」
――え、え?
そこにいたのは幽鬼の如き男であった。
――知っている。
――知っている人。
――森鴎外。
軍事機関医学者。
「やめておけ」
「えっと?」
――何を言っているのかわからない。
でも、不思議と耳を傾けるのはどうしてだろう。
彼に似合わない昼下がりの繁華街。腰に下げた機関刀は四本。一人で使うには多いが、誰もそれを気に留めていない。
四本も下げていれば普通は気が付くのに誰もそれに気が付いていなかった。
「やめておけ」
三度目。これが最後。
「えっと、何を、でしょう」
「愚鈍は変わらずか。少しは役に立つかとも思ったが、期待外れだ」
――失礼な人。
そう野枝は思った。けれど、不思議と不快ではない。
それはどこか安堵したような響きがあったからかもしれない。彼にしては珍しい。他人に興味を示すのも。こうやって女性に話しかけるのも。
「あの、先生?」
彼は何も言わずに去って行った。
――なんだったんだろう。
――何がしたかったんだろう。
――何が言いたかったんだろう。
わからない。
神ならざる身では。
わからない。
彼ならざる身では。
「これはこれは奇遇ですね、レディ、ノエ」
「リチャード先生」
今日はよく人と会う。
次はリチャード先生。英国から来ている鉄道機関学の先生。
「奇遇というほどでもないかと。まだ大学構内ですし。そうだ、ちょうどあったのですから――」
「そういうことも知っているとも。このあと、紅茶に私を誘うのかな」
「紅茶にでも――相変わらずですね」
「そうだとも。私は全てを知っている。君が私を紅茶に誘い、そこでレディ・ルイについて聞くことも知っている」
「それなら、オーケーしてくれますよね?」
――彼、リチャード・トレビシック先生は不思議な人だ。
――全てを知っているとうそぶく人。
本当かどうか野枝は疑っているけれど、それでもいつもこうして相手の言いたいことを言い当てる。メスメル学の応用ではないかと思っているけれど、どうなんだろうか。
――案外未来を視ていたりして。
「私が視るのは未来ではなく、世界だよ」
「え?」
――え?
「いま――」
――なんていったの?
――見る? 世界を?
「さて、では行こうか」
聞こうとしたが、彼は何も言わず馬車を呼ぶ。乗合の馬車に乗って行きつけの茶房へ。紅茶に誘ったけれど、途中でそう言えば新メニューが出来たからそう提案しようとする前に彼は既にそこを行き先へと設定していた。
本当に全てを知っているかのよう。
――注文もあたしが頼もうとしたもの。
――本当に全てを知っているかのよう。
「…………」
「さて、レディが聞きたいことに応えよう。私と彼女の関係についてだが、少しばかり私の研究を手伝ってもらっている。君が気になっているのはいかがわしい行為があるかないのか。NOだ。純粋に助手として手伝ってもらっているのだよ」
「…………」
――聞く前に、聴きたいことを全てしゃべってしまう彼。
――会話というよりは、彼が一方的にしゃべっていると言っていい。
「あの」
「意味ならばある。余計な首を突っ込ませないためだ」
「…………」
――また当てられた。
「既に砕かれた。もう一度砕くつもりはないし、その扉は既に開いている。開いた扉をまた開けることは出来ない。おまえの役割は既に終わっている」
「だから、一体」
「君の話だ。より正確には、君に関わっている話だ。君は待っていればいい。それだけで、黒岩涙香は走り続けられるだろう」
「…………」
――この人を嫌いになりそうだった。
――全てを知っている。
――いったい何様なのだろう。
「代金は支払っておこう。君の疑問を全て応えるわけにはいかない。だが、君が聞きたい一番大事なことだけは間違えるつもりはない。私は全てを知っている。だが、そうであったとしても求めるものはある。全ての扉を開き、未知の地平に辿り着く。それまでは、私は何があろうとも彼女を護ろう。
君の大切な黒岩涙香を護ろう。その願いを叶えよう。
この身にかえても。
この魂にかえても。
この命にかえても。
この身が滅んだとしても、護ろう。
例え黄金の王であろうとも。
例え黒の王だとしても。
それが例えチクタクマンだとしても」
あらゆる全てから涙香を護ろう。そう彼は言った。
「……わかりました」
それを野枝は信じることにした。そう言っている時の彼だけが、唯一全てにおいて真剣であるとそう感じたから。
「わかりました。信じますよ。じゃあ、こちらからも忠告を」
「ああ、知っている。その胡乱な態度はやめた方がいい、だ」
「違いますぅ―。あまり女の子をこんなところに誘わない方がいい、ってことですよ」
「くく。なるほど。そういうことにしておこう」
彼はそのまま茶房を出ていった。
「浮かない顔だね」
入れ替わりにまた誰か来た。男性の声。
いったい誰だろうと野枝が見る。
「北里先生と、ユッキーナ?」
――疑問形なのは、ユッキーナが何故か縛られているから
「そう。北里である」
「どうかしたんですか?」
「こやつが少々やりすぎたのでな、お仕置きだ」
「勘弁してよぉー、せんせー、やりすぎたのは謝るからさー」
「戯け。明治機関政府の機関侍に喧嘩を売って」
「売ってきたのは奴ら」
「同罪である。それを返り討ちにして、その復讐すらも全部ぶった切ったのはやりすぎだバカ者」
「えー、だって、さぁ」
「だってではない」
だからこそ、お仕置きとしてこの茶房にきた。
茶房でお仕置きとはおかしいと思うだろうか。いいや、可笑しくない。この茶房はだって――。
「うへぇーん、勘弁してよぉー」
地獄のように甘いお菓子が出るのだ。西洋のお菓子だというけれど、それはこれをさらに甘くしたものだそう。完全に調理法を間違えている。
だから、これはお仕置き用だとか言われる代物。だべれば最後、死ぬ。そんなものだから。
「助けてー、のえりん!」
「えっと」
――助けてあげたいのだけれど。
北里柴三郎の目が光っている。あれは行けない。あのひとは眼で人を殺せるのだ。
あくまでも都市伝説。噂。
――だってそう。普通の人が目から光線をはなつだなんてありえないもの。
――真の碩学ならば当然だとか、言ってはばからないだとか、ありえないもの。
――だから、そうきっとそれは錯覚。
でも、怖いから。
「ご愁傷様」
「だー、のえりんの裏切り者ぉぉお――」
「さあ食べると良いぞ。あまーいお茶もつけてやろう」
「ひぃぃぃ――」
――あたしは、なるべくそっちの方を見ないようにして店から出た。
「うん、大変だ――」
そう言えば、何か心配事があった。
北里柴三郎の前、リチャードさんに会った時から、何かを忘れたように心が軽い。
「んー、まいっか。それよりるいのとこいこっと」
女の子同士なんて。
そう思うかもしれないけれど、今はそういうのが楽しいから――。
レズパート。
R指定入らない程度に書いたつもりだけど、ダイジョウブかな?
まあ、問題あったら消して書き直すだけですね。
では、また次回。