翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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 ――暗い。

 ――ここは、なんと暗いのか。

 ――いや。いいや、ただ暗いだけだ。

 ――ここには何もない。

 

 乾いた靴音が石畳の通りを歩く、俺の靴音だけがそこに響く。

 偉大なりし日本帝国首都。未曾有の繁栄へと向かい、先進諸国へと臨む黄金道を征く我らが帝国首都。

 

 帝都東京。その暗い石畳の路地を歩く俺の足音。

 それ以外には、此処には何もありはしない。ただ、それだけが、この路地を満たしていた。

 

 それ以外には何の音もない。

 複合高層機関塔が奏でる共振器(オルゴール)の音色も、夜行機関(ナイトエンジン)が奏でる誰にも聞こえない静かな音もない。

 無音の大音量があるだけだ。虫の声一つ、排水溝を流れる水音すらもありはしない。

 

 いや。いいや。

 違う。ただ一つだけある。もう一つ。

 いいや、三つ。

 

 聞こえるのは俺の靴音だけではない。ただ闇の中を歩くこの音だけではない。

 頭の中に響く忌々しい御標だ。

 むかしむかしと語る偉大なりし明治天皇陛下の声が頭の中、路地の中を響いている。

 

 それをかき消すように金属音が響く。腰帯(ベルト)に下げた四本の機関刀が奏でる音だけが響いている。

 

 そして、俺の息だ。珍しく、荒い吐き続ける息がある。

 

 栄光なりし過ちの歴史を歩み続ける世界と我が祖国、偉大なりし大日本帝国。蒙昧白痴なる明治機関政府によって駆動する歪な巨大国家機関。

 

 我らが眠らぬ“街”帝都東京。

 その深淵なる暗がりを歩く俺の奏でる音だけが響いている。

 それ以外には、もうここにはなにもない。他には何もない。何も。ここに人はいない。少なくとも常人と呼べるものは。

 逃げられたのだ。捕らえたはずのものは、再びこの手から滑り堕ちていった。女も。子供も。少女も。友すらも。

 

 野口英世。

 我が友と言うべき人間。だが、もはやそれはここにはいない。この暗がり。我らが盟友は、既に暗がりを抜け出した。

 ほころび、剥離した。

 もはや、何一つここには残っていない。

 

 だが――。

 ただ一つ、御標だけが俺の行く末を暗示するかのように響いて消える。既に一つの時は動き出した。帝都の下に蠢く機関の1つが駆動を開始している。

 次期にもう一つが動き始めるだろう。いいや、すべてか。

 全て消えゆく為に。全てを超越するために。神は死んだ。ゆえに、神となる為に。

 

 最愛の者も、最愛の娘も、あの少女も、友ですら。零れ落ちて、ここにはもはや己以外にありはしない。ここには誰もいない。

 俺以外に生きる者も、動く者もいない。その中でただ一つだけ、聞こえるのだ。忌々しい御標が。

 

――御標

 

 神子たる明治天皇が下す神託。蒙昧共が幸福になるための標。

 

――ああ、忌々しい。

 

 忌々しい。忌々しい。忌々しい。

 ただただ、聞こえるそれが忌々しい。

 女一つ、殺せぬ自らの腕が忌々しい。

 

 腕、四本の腕。

 自らのものと、機関のそれ。

 鋼鉄のそれは力強いが、それだけだった。

 もはや何一つつかめない。

 未だ、何もつかめてなどいない。

 

 ただただ忌々しさが募っていく。

 それだけだった。

 

 なぜだと叫ぶ。

 それは、俺の叫びだ。

 ヤツの声ではない。

 俺の、俺自身の叫びだった。

 

 忌々しさを感じながら歩いていると、ふと、路地に声が響く。

 

 ――むかし、むかし。

 

 誰かの語る声が、聞こえる。

 優しげで、誰もがきっと安らぎを感じる声でむかし、むかし、と子供たちに御伽噺を語る声が。

 

 ――むかし、むかし。

 

 声は語る。声は語る、声は語る。

 それは御伽噺。白と黒色の物語。かつて、幸せであったことを思わせるような極彩色に彩られた白と黒の物語。

 

 だが、聞こえない。

 それがどんなに素晴らしい物語でも。それがどんなに楽しい御伽噺であっても。

 俺には聞こえない。声は次第に近づいてくる。それは、知った誰かの声。かつて、取りこぼした誰かの声。そちらに目を向ける。

 

 ――手は、伸ばさない。

 

 手は、伸ばさない。己が四の腕は何をしようとも届くことはないのだから。あの時は、既に、もはや過去なのだから。

 

 だが。そう、もしも、そう、もしも、時が止まってしまえば。あの時、時が止まっていれば、

 

 時よ止まれ、お前は、誰よりも美しい。あのときに止まっていれば。

 

「ああ、だが、次こそは――」

 

 ゆえに、もはや、すべては闇に堕ちる。

 剥離していく。

 白と黒のモノトーンが、世界を覆っていく。

 極彩色は、もはやどこにもありはしない。

 そこにはただ――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 ――ふと、何かの声を聞いた気がした。誰か、かもしれない。

 機関都市帝都東京の大通り。確かに声は多い。何かの声。いろんな声。行き交う人々の声。たくさんの日常の声はとても多い。

 ここは東京。未曾有の繁栄を謳歌する大日本帝国。その首都。だから、人は多い、どこよりも。

 

 眠らない街としてもこの都市は有名だった。眠らない街。不夜城。いつまでも明かりがついている。田舎では信じられない光景。

 声は多くある。猥雑に雑多に。下品も上品も。あらゆる声がここにはある。

 

 けれど、頭の中に響く声というのはそれほど多くない。一つだけ。御標というもの。

 黄金の歴史を歩む大日本帝国を導く偉大なりし明治機関天皇が告げる導きだ。

 

 ――今聞えたのは、御標じゃない。

 ――じゃあ、なに?

 

 ――何かに導かれるように、あたしは裏路地へと入っていく。

 

 普段は来ない場所。怖い場所。暗がり。

 帝都の裏路地には伽藍の異形が出るという。心をなくした怪物の噂。都市伝説。人が人ならざるモノに剥離するという噂。

 御標に逆らったらそうなってしまうという不敬なお伽噺。

 でも、今は――。

 

 右手を見る。

 右手。

 包帯にまかれた手。

 異形の手。

 

 それは逆らった証だから。

 

 ――――

 

 ――聞こえた。

 ――何かの声。

 ――あたしを呼ぶような。

 

 裏路地を頭の中に響く声のようなものを頼りに進んでいく。きっと野枝にあったら何か言われてしまうだろうけれど、どうしてもいかないといけないと思った。

 そして、見つけた。

 

「――あたしを呼んだのは、あなた?」

 

 ――仔犬。

 ――青い毛並みのかわいらしい。

 

 怪我をしているのか、とても弱々しい。

 

「───っ!! 大変!」

 

 ――あたしは、咄嗟にその仔犬を抱え上げる。

 

 仔犬はとても具合が悪そうにぐったりとしている。

 

「具合が悪いの? ど、どうしよう……子犬なんて飼ったことないし……とにかく───」

 

 なんとかしないといけない。そう思った。どうしてそう思ったのかわからない。きっと、疲れていたのかもしれない。癒しがほしかったのかもしれない。頼ってほしかったのかもしれない。

 

 ――何もできない無力なあたし。

 ――ただ言われるがままに走って、走って。

 ――あの光景を覚えている。

 ――あの声を覚えている。

 

 でも、何より助けたいと思ったから。

 優しく、抱きしめて。

 

「───よし、よし! うん、あなた、うちにおいで」

 

 下宿まで抱えて戻る。

 大家さんに見つからないように。

 

 ――うん、たぶん見つかったら大変だから。

 

「思ったよりも元気そうで良かった」

 

 部屋に戻る。

 

 ――ベッドの上の、彼? は先ほどよりも元気そう。

 

「でも、大家さんに秘密で連れて来ちゃった……怒られる? ううん、もしかしたら追い出されたりするかも……――」

 

 ――そんなない、と思いたい。

 ――でも、きっと。

 

 などと思考が渦を巻く。

 いつもの癖。

 こうなってしまうと止められない。

 けれど、不思議と、今日は仔犬がいるからか、すっと彼が思考の中に割り込んできていた。

 すぐにどこかへ脱線していた思考は、これからのことを考え始める。具体的には、追いだされたらどうするか。

 

「――その時は野枝の部屋にでも……うん、野枝ならきっと泊めてくれるよね?」

 

 ――うん、大丈夫。

 ――だって野枝だもの。

 ――あたしの親友。

 ――事情を言えばきっと泊めてくれるわ。

 

 ふと、そう言えば彼に名乗っていないことに気が付いた。

 

「私の名前を教えてなかったね。私の名前は───」

 

 ――黒岩涙香。

 ――くろいわるいこみたいで、あまり好きじゃない名前。

 ――野枝は可愛い名前だって言ってくれている。

 

 ――でも、名乗る名前はこれ以外にないから。

 

 両親からもらった大切な名前。それを彼に話す。名もない小さな彼に。

 

「あなたにも名前をつけなきゃ。うん、そうしよう」

 

 ぱんと手を叩いたのは野枝の真似。良い思い付きをしたときに野枝はいつもこうやって手を叩く。

 

 ――名前はあったほうがいいから。

 ――でも、どうしよう

 

「名前、どうしよう……野枝に『ネーミングセンスゼロ』なんて言われたし……」

 

 ――そんなに悪くないはず。

 ――うん、絶対。

 ――団友太郎だっていい名前のはず。

 

 でも、これじゃあ野枝に何を言われるか。

 だからもう少し頭をひねらせて――。

 

「うーんと、うーんと……そうだ!! 今、私が翻訳しようとしている本なんだけど───とっても素敵なお話なの」

 

 机の上に置いてある小説が目に入った。

 モンテ=クリスト伯。

 大デュマの小説。野口さんからのプレゼントの一つ。

 

「うん……うん。そうしよう。決めた! あなたの名前はね───」

 

 ――あたしのネーミングセンスが駄目なら、他の人からもらう。

 ――うん、それなら誰にも馬鹿にされない。

 ――野枝だって納得してくれるはず。

 

 だから、仔犬の名前は決めた。

 いつか、希望へとたどり着いてほしくて。

 あの暗がりの路地裏がどこか巌窟のようにも思えたから。

 

「───《エドモン・ダンテス》」

 

 それは、いつか希望を手にする人の名前。

 いつか地獄のような巌窟から這い出して幸せになる人の名前。

 

 貴方に似合っていると思う。

 なぜかそう思って。

 仔犬も喜んでいて。

 

 良かったとそう、思った。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 ――音が響く

 ――音が響く

 ――暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 それは声であった。

 それは叫びであった。

 それは悲鳴であった。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。

 影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ。ここは、帝立碩学院の個人研究室。地下深き奈落の工房。

 人産みの穴倉。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 

 ただ一人、幽鬼のような男以外には。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 

 人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。自虐して、自虐して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

「我が主。侵入者を感知。第一の鍵守が接触しました。ご指示を」

 

 それは完全なる異常。

 完全を求めるからくりは、ただ一つのほころびすらも許容できない。

 それは主の数式を歪める。

 

「放っておけ」

 

 だが、男は手を止めない。

 男は手を止めない。

 

 数式に狂いはない。

 機関に狂いはない。

 

 それは、些事である。

 それは、砂塵である。

 それは、路石である。

 

 関与する必要はない。

 触れる必要はない。

 

 計算に狂いはない。

 機関は正常に稼働している。

 ならば、問題などありはしない。

 

 そう何一つ。

 問題はないのだ。

 




6mol氏が書かれているオリジナルスチパン。
赭石のイアーティス  ───What a beautiful dawn───

面白いですし、読んでいるとおっ、ってなるかもしれない。

次回、レズパート。


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