翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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 ――黒一色。

 ――極彩色の輝きは失せて。

 

 気が付けば、そこにはあたしは、一人、そこに立っていた。

 あたしがしる帝都とは違う帝都。

 歪んだ街路、歪んだ町並み。

 

 どこかでこれと似たものを見た気がする。

 いつだったか。

 どこだったか。

 

 あたしは覚えている。ここがどこだったのかを知っている。

 囁く声も、ここにいる何かの声も。

 

 ――ううん、違う。

 ――これは、誰かの求める声。探す声。

 

 

 あたしは、その異変に気が付けなかった。ホテルで話をして、その夜。すっかりと遅くなった帰り道。野口に言われるままに帰っている最中、何かの声を聞いた。

 そこまでは覚えている。けれど気が付けば、ただ一人涙香は何もない空間に立っていた。左目は何も捉えていない。右目もまた、同様に。

 

 歩いていたはずのとおりにある機関灯も、通りの左右に存在する商店街も。ここには何も。そう、何も、なにもない。

 浄水施設から流された浄化された水の臭いもない。ここには何もない。極彩色の輝き溢れる世界は、黒い炭のような漆黒とカンパスのような純白に染まっていた。

 

 モノトーンの世界。

 そう思う。

 そう理解する。

 ここはそういう世界なのだと。

 ここは、世界から外れた場所なのだと――。

 

 剥離した場所なのだと理解して。

 

「ここ、は……」

 

 剥離した場所、どこかも知れない場所。どこでもないかもしれない場所。あるいはどこか。もしくは、あそこかもしれない。

 

 ただ、はっきりとしているのは地面。今まで歩いていた通りの石畳だけがどこまでも続いている。排煙で汚れた漆黒の石畳。足を踏み出せばこつりと音が鳴る。

 どこまでも、どこまでも響き渡る音。この空間には果てなどないかのように。どこまでも、どこまでも。

 

 そして、そこには何かが立っているようだった。人形。少なくとも、そう見える。漆黒の中にただシルエットだけが浮かび上がる。

 背景も黒ければ、その人形も黒いというのに、どうしてかそれが人形なのかわかる。いいや、それは当然だった。

 

 ――目。

 ――赤く輝くような

 

 さながら中空に浮いているようにも見える妖しい目が涙香を見つめていたから。それが人形なのだとわかった。左目が、教えてくれた。

 

 ――逃げろ。

 

 声が響く。誰かの声。聞いたことのある声。男の人の声。

 それと同時に、待ちわびたように人形が動く。四本の腕を広げて、その手に、刀を持って。

 

『ヨコセ……』

 

 それは声を上げる。歯車がかきむしるような鋼の軋みのような声を上げる。

 

 同じだ。あの時と、これも、同じ。

 怪物は、涙香を見ていた。

 

 いや、いいや違う。

 それは、涙香を視てはいない。

 涙香が持つものを見ている。

 

 ――銀色の鍵、暗がりで輝くもの。

 ――扉をひらくもの。

 

 その殺意にも似た視線に、怒気に、一瞬平衡感覚を失って、視界が揺らいで。あの時と同じに、呼吸は、とまってはいないけれど、苦しくて。

 それでも、止まってはいない。手足は震えて、でも、動く。

 

 ――どうして。

 ――いいえ、どうするの。

 

 ――どうしてではなく、どうするの。

 ――決めたでしょう、涙香。

 

 何が起きているのかわからない。けれど、やるべきことはわかっている。

 今やるべきことは、怖がってうずくまることじゃない、やるべくことは。

 走ること。

 逃げること。

 

 この鍵を渡してはいけないから。

 

 だから――

 

『……ヨコセ……』

「いやよ!」

 

 迫りくる人形に、あたしは言った。叫んだだけなのかもしれない。けれど、明確に、ちゃんと拒絶を口にした。口にすれば、それが力となって壁になってくれるかもしれないから。

 言霊というものが、この国には存在している。それはとても強い力。天皇様の御標だってそう。

 同じ。全部、言葉。

 

 だから、あたしは、来ないでと叫んで。

 

 ――あたしは、走った。

 ――逃げ切れる?

 ――いいえ、逃げ切るの。

 

 野枝が、野口さんが待っているから。それに死にたくないから。生きたいから。まだ何もわからないままに死んでしまいたいなんて思ったりしない。

 

 ――死んだりしない。絶対に。

 

 ――だって、覚えているから。

 

 だから、走るの。

 そうじゃないと、あの野枝のことを覚えている人がいなくなるから。

 本当に死んでしまうから。

 もうあの野枝のことを覚えているのはあたしと、リチャードだけ。彼はきっと全部を知っている。野枝に興味なんてない。

 だから、あたし。

 あたしが覚えていないといけない。そうじゃないと、本当に彼女がいなくなってしまうから。

 

 ――だから。

 ――だから、走るの。

 

 涙香は走り出す。人形が大小六つに分裂して、猛烈な勢いで襲い掛かってくるのを背中で感じながら。

 

 ――全力で、あたしは、前へと。

 

 走って、走って、走って。

 

 漆黒の空間を走る。何もない。何も見えない漆黒の中を走る。背後には、人形のように動くナニカが追ってくる。四本の腕を振り上げて、刀を持って。

 

 どこをどうやって走ったのか。

 今、どこにいるのかもわからない。

 ただ、めちゃくちゃに、ただ野枝に教えてもらった走るコツだけを頭に描いて。

 荒い息を吐きながら。

 

 あたしは、走っている。

 

 これからどうすればいいのか。

 

 なにをすればいいのか。

 

 わかることはない。わからない。

 これから何をすべきなのかも、考えないようにしてきた出来事。ここと似たような場所で起きたコトを必死に思い出す。

 

 ――あの時は、どうやって、あたしは

 

 助かったのかと。

 誰かの声を聴いた。

 

 けれど、声はない。声は聞こえない。

 

 ――だから、助からない。

 ――いえ。

 ――いいえ、違う。

 

 探すの。

 

 探す。探さないといけない。

 

「そうだとも――」

 

 声が響く。

 

 それは、彼の声。

 全てを知る、彼の――。

 

「探せ。鍵を――君が、諦めていないのなら」

 

 ――探す、鍵を。

 

「もう持ってるわ!」

「それではない」

 

 違うのだと声は言った。そうじゃない。そうじゃないのだと。

 何の鍵なの。

 わからない。

 わからないけれど、探す。

 

 その時、ふと思い浮かんだものがあった。追いかけてくる人形の姿。探す者はきっと、アレに関係していると思った。

 鍵。鍵。鍵。

 

 どこにあるの。どんなものなの。

 

 ――あたしは探す。

 ――走りながら、鍵を探す。

 ――それがどんなものかもわからないのに。

 

「はぁ、はあ、はあ――」

 

 そして、追いつかれて、追い込まれて。

 

「もう、はしれ、ない……」

 

 息が苦しい。それは、走り続けたせい? 違う。恐怖も混じってる。息ができない。視界が揺れる。視界が回る。

 いま、立っているのか、立っていないのかもわからない。

 

『ヨコセ……黄金瞳……、カギを……』

 

 ――人形の瞳が、あたしを見つめる。

 ――暗い、虚のような瞳。

 

 恐怖に身体がすくむ。自分が尻もちをついてしまっているのだと気が付いた。もう逃げられない。

 背には硬い石の壁。目の前には 血のように赤い、紅く染まった瞳を持った四本腕の侍人形。

 

 黒くて、白くて。おそろしいものが、そこにいた。

 呼吸が、止まる。恐怖で。息を吸っても、吐いても、空気が肺に入って行かない。苦しさを感じる。息をするという生物が普遍的に行う呼吸が止まって、苦しくない生き物はいない。

 

 視界が、歪む。我知らず喘いで、強烈な眩暈が涙香を襲う。呼吸困難。眩暈。それでも、思考は勝手に、意志に反して、肉体に反して、回転を続ける。

 思考の歯車が回る。回る、回る、回る。回る、回る。回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る。

 

 苦しいと感じる間もなく、考え続ける。

 

 ――あれは、なに?

 

 ひび割れた、顔をした。白と黒の何か。異形。頭に浮かぶ言葉。左目がそれを事実だと認めてくれる。左目が教えてくれる。

 黄金に染まった左目が、教えてくれる。あれは、異形なのだと。異形。

 

 ――あたしは、考える。

 ――意思に反して。肉体に反して。

 ――考え続ける。

 

 足は動かない。許容量を超えた思考に、身体は動かない。

 暗がりに浮かび上がる、暗闇に浮かぶ赤い瞳が、近づいてくる。何かが砕ける音がして、破片が、地面に伝う。それは、目の前の存在から剥がれ落ちるものだった。

 

 数えきれないほどのひび割れが、世界にすら広がって行く。世界がひび割れる。

 

 ――ほつれ

 

 左目がそう教えてくれる。世界のほつれ。記された、運命に従わなかった結果生じる、世界のほつれ。怪物から、異形から生じたそれは、広がって、広がって、広がって。

 世界を呑み込んでいく。

 

 まるで御伽噺のよう。この世ならざる存在。空想の中にしかないもの。

 きっと死ぬのだろう。

 

「い、や……」

 

 死にたくない。まだ、何もしていない。何も。まだ、始まってもいない。終わりまで、進んでもいないというのに。

 

 涙が自然とあふれ出る。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、引きつった声がでるだけで、悲鳴なんて、言葉なんて、何も出てはくれない。

 誰か。誰か、誰か。

 

――野枝

 

 必死に、心の中で叫びをあげる。友人に、

 

――野口さん

 

 尊敬すべき恩師に。

 

――あたしは、助けを求める。

 

 けれど、けれど、助けなんて来るはずがなくて。ただ、異形の怪物が目の前で妖しく光る瞳を向けてくる。ただそれだけで、心臓が止まりそうになる。

 何、何。何が起きているの。わけがわからない。意味がわからない。理解ができない。一度、砕かれた思考は、そうもとには戻らない。

 

 いいえ、戻らないようにされているのかもしれない。恐怖に思考は勝らない。恐怖の濁流にのまれて、涙香は思考の海に沈むことが出来ない。

 沈む思考は、苦しさにかき乱されて、それでも意識ははっきりとしていて。混濁する意識と、歪み視界がありとあらゆる全てを呑み込んで。

 

 ――思考が溢れ出す。

 ――自分でも何を考えているのかわからない。

 ――けれど、一つだけわかることがあった。

 

 死にたくない。こんなところで、怪物に殺されるのなんてまっぴら。

 

「いや、あなたに殺されるのなんて、絶対に。諦めない。あたしには、やるべきことがあるの!」

 

 ――無意識に言葉が口をついた。

 

 それが何を意味するのかも、わからないくせに。けれど、まるでそれが合図であったかのように、誰かが、目の前に。

 

「そう。……そう。あなたは、まだ、諦めないのね。忘れても。覚えていなくても。知らなくても。あなたは」

 

 誰かが目の前に現れる。空間を引き裂いて。誰かが目の前に現れる。それは女の人。掠れた視界で、歪んだ意識では、それが誰だかわからない。

 けれど、確かなことがある。その左手は、異形だった。漆黒の腕。爪先は鋭く獣のようにとがっていて。堅い甲殻に覆われているかのように輝いている。

 

 

「目を閉じなさい」

 

 潰れそうになるその刹那。怪物が、漆黒に染まった異形の腕を伸ばしたその時に、声が響いた。

 

 ――凛とした鋭い声。

 ――どこかで聞いたような。

 

「――っ!!」

 

 喉を空気が通る。弾かれるように、身体が跳ねて、酸素が脳に回る。

 声に従うように、涙香は、目を閉じる。

 

「良い子ね」

 

  女の人が左腕を振るう。ただそれだけで世界が引き裂ける。その爪は世界を引き裂く。そのたびに、女の人の何かが軋んでいるのを左目が捉える。

 けれど、それを理解することができない。碩学ならぬ身では。神ならぬ身では。

 

 そもそも、限界を迎えた涙香に目の前の状況を吟味し精査し、判断を下すことなどできるはずもなく。できることはただ見ていることだけだった。

 誰かわからない人が、異形を引き裂くのを。世界を引き裂いて、全ての異形ごと粉砕するのを見ることしか出来なかった。

 

 そして、全ての異形が砕かれて。同時に涙香の意識も、闇に、沈む――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 ――気が付けばあたしは、帝都の大通りにいた。

 

 霧と排煙の向こうにある機関街灯は、黒い街よりも明るく見えた。

 目覚めた場所は、帝都の通り。いつの間にか家の近くだった。それでもいつもとの違いに目を白黒させる。

 それは、いつもと違って人の通りがなかったから。

 それは、いつもと違って車の通りがなかったから。

 

 そう思いながら、身を起こす。

 

「ん……ぅ……頭、いたい……」

 

 ――頭の奥底が妙に傷んで、記憶が霞む。

 ――はっきりと思い出せない。

 

 ――いいえ、いいえ。

 ――思い出せるはず。

 ――覚えているはず。

 

 ――黒い街、人形。

 

 切れ切れの篆刻写真のようであるけれど、はっきりと、あたしは思い出していた。

 そして、探せなかったことも。

 

「大丈夫?」

 

 ――声、女の人の声に思わずびくりとする。

 ――その声は、あの街で聞いたのと同じ声だったから。

 

 恐怖を思い出す。

 モノトーンの街の。

 白と黒の怪物の。

 それを倒したと思う女の人への。

 

 ――けれど、振り向いた先にいたのは、あたしの予想外の人。

 ――ううん、予想していた人。

 

「野口、さん……」

「今は、何も聞かないで。眠りなさい」

「は、い……」

 

 ――彼女の言葉を聞くと、あたしの瞼が閉じ始める。

 

 聞きたいことがあった。

 アレが何なのか。

 何をしたのか。

 何をしなければいけないのか。

 どうすれば良かったのか。

 

 けれど、けれど。

 ――あたしは睡魔に勝てなくて。

 ――痛みもあったから。

 

 野口さんの腕の中で瞼を、閉じる。

 

「お休み、仔猫ちゃん」

 

 そんな言葉を聞きながら、どこか優しい子守歌を聞きながら、あたしの意識は闇へと沈んだ――。

 




次回、朝チュン。
目覚めれば裸
目覚めれば見知らぬ天井。
隣には裸の女性。
多くは語らぬ。
待て、しかして希望せよ。

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