翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
――碩学院研究棟。
遥か英国の王立碩学院を模したこの学院に存在する碩学たちの塔と呼ばれる建物。高層複合建築によって建てられたこの建物はどこか箱のようにも見える。ゆえに叡智の箱とも人は呼ぶ。
ここには、帝都、いいや、この帝国、偉大なりし明治天皇が治める豪華絢爛たる帝国において、最も優れた頭脳を誇る碩学たちが集められている。ここにあるのは一流と最先端のものだけだ。人も、機関も、あるいはそれ以外すらも。
碩学がより良い研究を行うことが出来る場所。それがここであり、碩学の卵たちが通い知識を学ぶ場所でもある。
けれど。けれど、その一つ。碩学院研究棟三階奥の研究室。暗がりに沈んだかのような研究室。
割れた機関灯が交換すらされず放置されている。明らかに他とは違う。そう、暗がりの中に浮かび上がるように存在する研究室は他とは少しだけ違う。
軍事機関医学研究室。
ここは森鴎外先生の研究室。
研究室の扉に、そう傾きかけた看板が下がっている。可愛らしい丸文字は、男のものではなく女の手書きであることを連想させる。
この場においてと似つかわしいものであるが、誰も気にはしない。それは、この場に来る生徒が少ないというごく単純な理由によって。
これを書いたのは、かつて……そう、かつて。単純にかつてというべきかは定かではないが、この研究室の主の感覚においては少なくともかつて、この研究室にいた一人の娘が勝手に下げたものだった。
わかりにいくいからかけておきますね、と碩学院の学生ならば声をかけることすら躊躇う男に対して、天真爛漫に言ってのけ許可も取らずにかけていったもの。
女の丸い文字で書かれた看板はこの部屋の主には酷く不釣り合いだった。だが、下げることはない。下げることは、ない。
ただ一人、この研究室を志望した変人の残した唯一のものだ。いや、
機関医学、それも専門的でニッチな軍事機関医学を専攻しようという学生など奇特なのだから変人で十分だろう、といけしゃあしゃあと自分のことを棚に上げてこの部屋の主は言う。何度も言っていた。
おそらくは一部の学生も言うだろう。
なぜならば、この研究室は後ろ暗い噂が多い。部屋の主――森鴎外自身が幽鬼のような雰囲気をしていることも拍車をかけているが学問自体も後ろ暗いのだ。
軍事機関医学。それは、医学でありながらある意味で医学から最も遠い学問であるとも言える。医学を軍事転用しようとしている研究と言えばわかるだろうか。
機関における生体兵器の開発だとか。機関製の義腕、それも己の意思で自在に動かせる義腕、義体。そう言った理論の兵器転用、そして開発。
医学的見地から人を効率よく殺す為の兵器を作り出す為の研究をこの研究室では行っている。だからこそ、黒く、暗い噂は後を絶たない。この帝都の暗がりと同じくらい深く、暗い噂は常に機関情報網に発信され続けている。
では、中はどうかと言われればそんな噂や雰囲気を体現したかのように研究室の中は暗い。昼間だというのに薄暗く、陰気だ。友人と言われる女の研究室と違い、理路整然と片付いてはいるが暗く狭い印象を受ける。
全てが整理整頓され無駄なものが何もない。そんな感じではあるが、一つだけ鴎外の私物と呼べそうなものがそこにはあった。綺麗なデスクの上、買ったばかりの額の中に一枚の写真がある。
黒髪に鋭い目つきの女。男のようにも見えるが、女だ。片目が黄金色の女。その隣に映っているのは、顔を歪めた鴎外自身。
「…………」
何を考えているのだろうか。一枚の写真を眺めながら鴎外は、ただ黙っている。腕は動いてはいない。その二本の腕は、動いてはいない。
「…………女一人、容易いか。ならばこそ……」
そう呟いた時、からん、と音が響く。何かが落ちた音。そこに転がっているのは、糸電話。中空から、いや虚空から現出したそれは、鴎外の前に落ちてきた。
裁縫組合と呼ばれる輩のものであり、それは女王の言葉を伝える為のもの。手に取らずとも音は聞こえる。聞こえてくる声に鴎外は、何ら感情を動かさない。
「何の用だ、貴様」
聞こえてくる声は、無言。いや、あるいは鴎外にしか聞こえない声で何かを言っている。
「ふん、そんなことか。知ったことか。俺は俺の目的の為に動いている。貴様に指図されるいわれはないぞ夜の女王。
せいぜい足掻くことだ。貴様らが何をしようが勝手だが、俺の邪魔をするというのであれば叩き潰す。それだけは胸に刻んでおけ」
そう言って、彼は糸電話を握りつぶす。虚空へ溶けるように消えて、あとには何も残らない。鴎外は目を閉じた。
しかし、静謐は破られる。
――コン、コン
ノックの音が響く。誰もたずねないはずの研究室。その扉が叩かれる。
「入れ」
言葉と同時に、どこか熱を感じる声で失礼します、ときっぱりとした断りがあり誰かが入室してきた。
「貴様か」
そこにいたのは男だ。陸軍制服を着込んだ男。腰には軍刀をかけた男だ。磨かれた軍靴には曇一つなく、その瞳もまた輝き熱をあげて曇一つない。
まるで太陽のような男だ。眩しく、鮮烈にして、苛烈。誰もが彼の傍にいれば魅せられてしまう。それでいて、目の前にいる男にすら頓着していないような、そんな印象を受ける。
――甘粕正彦。
――若き軍人。
軍人とはこうあるべきとでも言わんばかりの男。私利私欲を排した、人の形をした
そして、森鴎外を友人とのたまう狂人だった。
そう彼は狂人だ。誰もかれもを熱狂させる狂人だ。
「ああ、俺だとも。友よ調子はどうかね?」
そんな彼は言う。声から感じられるのは圧倒的な自信であり熱だ。低い声の中にはどこまでも高い理想すら感じられそうではある。
その声を聞くだけで常人は酔うだろう。誰も彼もが、彼の言葉に酔いしれるだろう。扇動者というべき男とはまさにこういう男なのではないだろうか。
しかし、鴎外には響かない。彼の言葉は届かない。熱は、彼の心に火をともすことはないのだ。
冷えた鋼はもはや、燃えはしないのだ。
「何様だ、貴様」
「何、軍医殿におかれましては、何か勝負事をするとか。そう聞き及びましてね」
機関製の帽子。機関機械を内蔵したそれは、おそらくは情報集積器。張り巡らされた機関情報網を読み取る軍事装置。
鴎外が作り出したものの一つだった。網膜に情報を投射するそういった技術を医学的に作り上げた。人を機械化するというそういった技術の一つだった。
「貴様には関係ない。とっとと出ていけよ、俺は忙しい。貴様もだろうが」
「仕事の間に友と語らう暇くらいはつくるさ。それにこれで最後となる。これより中華に渡るのでな」
「…………」
中華。そこは今、水面下で大日本帝国が動いている場所であった。
「国をつくる。是非とも軍医殿にはおいでいただきたいものですな」
「ぬかせよ。
「それは失敬。では、我が友よ。俺は行こう。お前を俺は待っている」
「勝手にしているが良い。貴様も、どうせ、何も変わらん。この世界はとうの昔に変容しているのだからな」
なればこそ、背を向けた甘粕は言う。
「俺がこうして動いている。何、安心するといい。俺は負けん。例え、白き男が現れたとしても」
雷電纏いし白き衣の男。正義の味方を自称する男になど負けはせんよ。そう吐いて、甘粕は軍靴を鳴らして去って行く。
「勝手にすればいい。俺にとって、お前などに価値はない」
価値のあるものは、その手から零れ落ちている。生身の手からも、機関の手からも。
その呟きは、誰にも届かず、虚空へと消えた――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――帝都ホテル。
高級ホテル。貴族や大商人であるような富裕層。あるいは優秀な碩学しか滞在の許されないそこの最上階に、黒岩涙香はいた。
明らかな場違いに、目を回している。野口さんに連れられて、リチャードにあって、気が付けばここにいた。意味が解らない。
素敵なお部屋。しかし、どうにも場違いにしか思えない。自分は和装だ。洋装の部屋にはどうにも浮いているような気がする。
野口さんやリチャードのような洋装であればまだ場違い感は薄れたのだろうか。いいや、たぶんそうはならない。どうやってもここでは浮いてしまう。
せめて野枝がいてくれたら、と涙香は嘆かずにはいられなかった。運悪く、大杉君に誘われて彼女は行ってしまった。珍しく。
いいえ、ここでは珍しくない。そうここでは。この世界では、というべきかもしれない。涙香が望んだとおりに。お似合いの二人。付き合えばいいのに、そう思っていたその願いがかなった形。
涙香の願いが全て叶っていると、彼らは言った。
――彼ら。
――野口さんとリチャードさん。
尊敬すべき碩学様。そして、何かを知っている人たち。
今も目の前で彼らは、この素敵な部屋の中で物おじせず座ってくつろいでいるようだった。
「あ、あの」
意を決して声を出す。声を出すことすら場違いに思えるほどの部屋の中、涙香の声は酷く響いた。
「気にする必要はない。自分の部屋のようにくつろぎたまえよ。何も心配することはない。何かを壊したところで数十万もの金が飛ぶだけのことだ」
――数十万!!
もはや迂闊に動くことすらできなくなってしまった。
「そうよ。るい、遠慮せず座りなさい」
「は、はい」
いつまでも立っていては始められないでしょう? そう言われてしまえば座るしかなくて。おずおずと、椅子の一つに座る。
沈み込んでしまうのではないか。そう思えるほどに柔らかな椅子。値段を想像してしまって背を付けることすら憚られて半分くらいしか座れなかった。
そんな涙香を確認して、野口さんが話し始める。
「さて、リチャード、始めましょう」
「ふむそうだな。私は全てを知っているが君たちは違うゆえに、作戦会議は必要だ」
「作戦? 会議?」
――何の?
「まったく、あなたは言葉が足りないわ。まずは、あなたの置かれた状況を話す必要があるようね」
そう言って野口が話したことは、リチャードにも聞いたことで、そして、話されていなかったことでもあった。
「狙われる、あたし、が?」
――どうして、なぜ?
そんな疑問はあった。けれど、涙香にはどこか確信があった。あの夜は終わりではなく、始まりなのだ。そんな漠然とした確信を持って言える予感が涙香にはあった。
「ウムル・アト=タウィルに目をつけられたから、そして、
銀の鍵を見つけられる者だから。時を、空を超えることを許された者であるから。
彼女はそう言った。あなただけが、全てを可能にし、全てを書き換える資格を得たのだと。
その果てに至らねばならない。真に願ったのであれば。
「…………あたしは、どうすれば良いですか」
「自分で考えなさい」
どうすれば良いかは己で決めなければならない。誰かに頼ってはいけない。誰かに頼るわけにはいかない。自分で考えなければ。
そうしなければ意味がないのだ。最後に鍵を握ることが出来るのは、ただ一人なのだから。
「…………」
「私は全てを知っている。ゆえに、君が何を思い、何を成すのかもまた知っているが、結末だけは違う。どこに至るのかは、君次第だ。その選択を、私は尊重するし、君の願いを私は全霊を以て叶えよう。他ならぬ、君だからだ」
「…………」
――世界を歪める。世界を書き換える。鍵。資格。
――そんなものあたしにはない。
そう言いたかった。けれど、けれど――。そうは言えなかった。あのときに見た銀の鍵。それは今も、この手の中にあるのだから。
捨ててもきっと戻ってくるのだろう。そもそも捨てるという気すら起きない。これはそういうもの。己の魂。それに準ずるもの。
持っていなければならない。最後の時まで。
見つけ続けなければならない。願い続けるなら。
「…………」
そして、これは己の罪の証なのだ。勝手に、好き勝手に世界を書き換えた、罪の。全て覚えている。全て。砕く全てを、消した全てを。
「そこに至れば全てが分かる。全て、お前が望むことの全ては叶う。ゆえに、走り抜けろ。願い続けろ。お前が進むたびに、真実がお前を待っている。至れば、本当の救いが存在する。お前が至らなければ、この世界は終わる」
――彼はそう言った。淡々と。世界が終わると。
終わる。世界が終わる。何もかもが終わる。
このまま走り抜ければ何が起きるのか。また、きっと何かを望んで。何かが書き換えられるのだ。誰かが。何かの為に。
それを涙香は知っている。きっと。全てはこの時の為にあったのだと。左目が教えてくれる。かつて、同じようなことがあったような気もしている。
だから、
「わかり、ました」
走り抜けよう。至れというのならば、そこへ。
誰かのために。今は、そう、野枝の為に。砕いた彼女の死を無かったことにしない為に。
今は、ただ、走る。
――門の向こう側へと。
そこに何があるのわからないけれど、きっとそこには何かがあるはずだから。
そうしてほしいと誰かが言った。まるで泣いているように誰かが言った声を覚えている。
だから、門の向こう側へと行くのだ。
次回は――待て、しかして希望せよ