翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
コッツウォルズのクロテッドクリーム。機関製の手作り風アップルジャム。多めのスコーンと、はちみつ入りの
それは如何にもな英国風のお茶形態。あまりなじみのない
栄えある大日本帝国首都帝都においてそのような外国のものを扱っているお店というのは未だ少ない。徳川機関幕府による鎖国政策が撤廃されてから久しくも未だにこの国は、外国のものを完全に受け入れているとは言い難い。
エイダ主義然り。鉄道もそう。帝都東京を出れば未だ古き良き江戸の文化の名残を感じることが出来る。田舎の村なんかは特にそう。
――私の故郷もそう。
――土佐の国の安芸。
そこの田舎はまだかつての趣を残していた。帝都とは違う。
――帝都は進んでいる。
――多分、この国のどこよりも。
――外国の料理を出したり、お菓子が食べられるのはここと、長崎くらい。
街並みもなにもかもが違う。
ここに至る少し前、黒岩涙香は通りを彼に連れられて歩いた。案内されたのは外国の食べ物を出す喫茶店。インテリ向けの店で一般大衆は入りにくいお店。
碩学院の学生なら時折来る程度。野枝がいればそれは頻繁になる。頼むのはいつもの紅茶とお菓子。つまりは、今目の前に並んでいるもの。
黒岩涙香はリチャード・トレビシックと共に小さなテーブルを挟んだ正面の椅子に座って困惑の表情を浮かべていた。
それはいつもと違うからか。いや、いつもと同じであったから。目の前に並んだ品の数々がいつも通りであったから。
それはリチャードが頼んだものであった。一切、涙香に相談すらせずに。紅茶にはちみつまで入れて。これは涙香が好むもの。リチャードが知らないこと。スコーンも多め。これもいつものことであり、彼は知らないこと。
――だから、あたしは驚いてしまった。
何も言っていないのに、まるで知っているよと言わんばかりに目の前で注文されて、わざわざ頼むまでもなく
紅茶にクリームを入れてスコーンも多めにしてくれた。
いつも通りの注文で、いつも通り女給が持ってくる。その視線はいつもとは違う相手とここに来ていることへのほほえましげな視線。あきらかな邪推。
――それもまたあたしの思考を乱してしまう。
その間も彼は淡々と紅茶に口をつけていた。
「ふむ、実に美味だ。この国に来て一番困るのはこれだと思っていたがやはり、ここの紅茶は美味い。本場ほど、とは言い難いが良いものを使っている。それで、どうしたのかね?」
一切手を付けないのでそう彼は問うてきた。
「あ、いえ」
「これらは君がここに来るたびに頼んでいるものだと思うのだが、違うかね?」
「いえ、違いません」
「やはり驚くかね? 言っているだろう。私は全てを知っていると」
――全てを知っている。
――胡乱な言葉。
――何を知っているというのだろう。
――本当に全てを知っているというの?
疑問が駆け巡る。またいつものように思考の迷路へと足を踏み入れそうになる。けれど、
「さて、思考の迷宮を探索することはとても有意義なことではあるが、今の君が行う事としては不適切だと私は思う」
止められる。
――野枝にも止められたことないのに。
「な、んで」
「私は全てを知っている。君が行う事も、君がどんな娘なのかも。メスメル学などでは断じてないよ。私は事実、史実も、歴史も、あるいは未来ですら私は全てを知っている。君が聞きたことすらも、私は知っているよレディ・ルイ? 君は聞きたいのだろう? 君の願いによって、この世界がどうなったのかを。何が起きているのかを」
「…………」
――当たっている。
――全部。
「教えて、下さい。あなたが、本当に全てを知っているというのなら」
「それが君の願いならば。私は一切合財の躊躇なく、その願いを叶えよう。しかし、その前に食べると良い。朝もいつもよりおかわりしていないだろう。二杯もだ。それではお腹がすいてしまうよ。さあ、好きなだけ食べていい」
「なっ――」
――なんで、そんなことまで知っているの!
顔を赤くして思わず叫びそうになるのを必死にこらえる。周りをきょろきょろと見渡して、誰も見てないことを確認して話をしてもらえるように頼む。
「ふぅ、やはり君はそうか。良いだろう。では、話そう。まだまだ、御伽噺は始まったばかりだ」
そう前置きとでも言わんばかりに彼はそう口にする。解釈は好きにしろとでも言わんばかりだ。君がどう受け取るかも知っている。だから、説明はしない。
彼はただ口にする。望むことを。
「この世界がどうなったのかを。彼女に聞いているだろうが、世界は君の望むままに書き換えられた。いや、正確に言えば、君が望む世界を選択したというべきか」
「どういう、こと」
「世界とは無数に存在するということさ。世界は一つではない。無限の可能性の下に存在している。未来は別れ広がる葉脈のようだ。
その世界の中から君が望む世界を私は持ってきた。いや、可能性を排したというべきか。ふむ、どう解釈するかは自由であるが、結果は一つだ。
ここは君の望む世界になっただろう? 伊藤野枝は異形になっていない。君が望んだとおりの世界だ」
「で、も、あたしは」
――あたしは覚えている。
――あなたの機関車が野枝を砕いたことを。
――あの断末魔を。
「そうだ。あれは嘘ではない。以前の世界においてあったことだ。だが、それもまた君次第だ。伊藤野枝はこの世界において生きている。君の願いは確かに叶えられている。私は君をここに連れてきた。望む場所へと。君の望む世界へ。それをどう受け取るかは君次第だ」
そう彼は言った。暗い真実を――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そこは一言で言うと乱雑であった。二言目をかけるならば、整然としているが適当だった。正反対の表現であるが、ここでは競合しない。矛盾しない。
この場においては、ここは乱雑であり、整然と整っているのだ。あくまでも、この場の主においてはという言葉が付くが。
ただの人が見ればただの乱雑で汚いだけの部屋だ。しかし、見る者が見ればわかる。家具の配置が、書棚の書籍の並びが、あるいはそこら中に散乱している書類の配置全てにおいて意味があることが。
ある特定の者だけがそれを知ることが出来る。その効果を得ることが出来る。現状に置いては二人。部屋の主ともう一人。
「…………」
その主たる女は終止、無言であった。
己の領域たる研究室にありながら、女は無言だった。無考とも言う。無意識とも言う。彼女は今、何も考えていなかった。
いつもならば、愛すべき自らの教え子にいつものように贈り物をしようかと考える。最近では、新たに教え子に加わっていた少女にも何かを送ろうかと考える。
どちらにも与えるものは贔屓しない。与えるものは最高のものに限る。人も、知識も、あるいは英国風に言うプレゼントでさえ女は妥協する気などなかった。
それは立つ鳥が跡を濁さぬようにするのとはまったくの真逆に思える。事実、そうなのだろう。彼女は爪痕を残そうとしている。
己の時間が幾ばくも無いことを理解しているから。だからこそ、二人の雛鳥に与えるのだ。最高のものを。己に残せるものを。
また、考えることは可愛らしく初心な教え子をからかうことも入るだろう。新しい教え子と共に可愛らしい愛すべき教え子をからかうこと。
正直、最近の彼女の反応は見ていられないが。
愛する彼女には才能がある。それは左目が黄金瞳だからということではない。確かにそれはある一面から見れば稀有なことで、同時にそれは望むべきものでもある。しかし、そうではない。そうではないのだ。
彼女の才能はまた別にある。ものを考えられることもそうだが、もっとも大事なものを彼女は持っている。優しさを持っている。妥協しない心を持っている。
だからこそ、見ていられないのだ。それは、それは茨の道であると知っているからこそ。それを憂慮するのだ。愛する彼女を慮って。
しかし、今、女は何も考えてはいなかった。白。真っ新な白い思考で、ただ女は煙管を吹かす。紫炎がすぅと中空を満たした。
それが何等かの形を結んだように見えた。
「そう、そう。
――次が来る。
そう女は呟いた。
突如として女の頭が回る。高速で。
膨大な可能性を模索する。莫大な数値で計算を行う。
――演算する。
それは通常、大機関を用いて行う演算であった。だが、女はその身にて行う。そして、両の手は常にせわしなく動いている。
試験官を傾け、歯車を回す。かと思えば、フラスコを回し、機関を駆動させる。部屋の様相を変えていく。それは誰も気が付かないほどに小さなものであったが、部屋の意味を思えば大きな変化になりえた。
その速さは尋常ではない。特に、手袋に包まれた左手は特に。
「ふう、こんなものね」
――半刻
それはおおむね、英国においては一時間と呼ばれる時が過ぎた頃、女は全ての動きを止めた。それは教え子がこの研究室に来る時間と概ね同じ時間であった。
不意に暗い研究室に月明かりが差す。実験台を照らす月光を受けて、部屋のものは美しき極彩色を描いている。対して、女の左手は白と黒にしか映らない。
「どうか、祈っているわ。あなたが、無事に果てへと至れることを」
そう呟いて、女は扉が開くのを待つ。そこに現れるであろう少女を待って。
「お入りなさい」
そして、現れた少女を研究室に招き入れた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――音が響く
――音が響く
暗がりに音が響いている。
それは、歯車を回す音。
それは、螺子を回す音。
それは、組み立てる音。
東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。それは少なくとも彼の大碩学よりも優れたもののはずだった。
しかし、それを遥かに劣ると自嘲する男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。散乱する歯車の山の中で、あるいは碩学機械の中で、男はただ組み立てを続ける。
ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。
この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と、この碩学院で学ぶ学生の数と概ね同じほどだ。だが、ここを訪ねる者はいない。
ただ一人、四本の腕を持つ軍服白衣の碩学以外には。
ただ一人、狂気に浸り、発狂した物書き以外には。
ただ一人、大外套を羽織った熱狂的な軍人以外には。
深い知識、深淵の叡智を求め、訪ねる碩学の卵はいない。学徒はいない。ここには学ぶことなどなにもないゆえに。
論争を求めて自らの理論を持ってくる若い碩学はいない。ここには論争をする為の論など存在しない。あるのは実践による機関実験のみだ。
ここには誰も、彼と、彼の組み立てるもの、狂った物書きと、大陸へと関心をよせる狂った機関軍人以外にはなにも。
彼ら以外に、ここにはなにもいないのだ。彼の組み立てるもの以外には。
彼の組み立てるもの。
それを知ってはならない。
命が惜しければ。
それに手を出してはならない。
命が惜しければ。
ここにはまともな人間は誰ひとりとしていない。
ただ暗がりと、ただ組み立てるだけの碩学と機関の人型と、発狂した男と、剛毅な軍人があるだけだ。
――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型はただ、彼の機関情報監視網にて帝都の全てを視る。
「主、変容の兆候を感知、未だ変容はなされません」
女の人型が言う。
女。人型、からくり。
それは碩学王の功績でもなく、ただ一人、絡繰王と呼ばれたこの組み立て続ける男の偉業。人工的に生命を創りだすという神の如き偉業の産物に他ならない。
からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。
自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。
陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。
この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。
事実同一なのだろう。これはただ語り部と同じく明治天皇が張った高次元機関情報網に介入し、そこから情報を引き出し御標を聞き取るための装置であるからだ。
そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。
「既に歯車は回っています主。ウムル・アト=タウィルの案内は正確です」
鋼の声。機関声帯が奏でる鉄の音色がただ一言、主に告げる。
「そうだろうとも。ああ、そうだろうとも。そうだろうとも」
男は手を止めた。組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。
ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。
「偉大なるもの、ふるきもの、そとなるもの。
それにお前が届くとは思わない」
無論、それは己も含むのだろう。言葉に含まれるのは喜びと自虐。
「しかして、それがどうしたというのだろうか。お前もまた、届かない。碩学王よ。私がお前に言われたように。お前にも言おう。お前には無理だ」
ただただ、男はここにいない男へと言葉を投げかける。届かない言葉を。それは、四本腕の侍へと告げられる言葉だった。
だが、言葉は届かない。言葉は、届かない。言葉は、届きはしない。
「あるじ」
「そうだろうとも、届きはすまい。しかし、今もまた我が機関実験は進行するのだ!
今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。
此度の実験こそ、我が愛、我が願いの果てへ至らん。今こそ、私はお前をこえてやるぞ
男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、天を仰ぐのだ。そこにある何かへと。巨大な黄金を仰ぐのだ。
碩学王を超越するその時を、ただ夢見て。
裏で何やら碩学が動いてますが、平常運転です。