翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
流れる川。濁ったその川のほとりを野枝と共に歩く。目的地は碩学院。野枝と一緒に登校する。爽やかな朝。川の水は、噂に聞く英国ほど酷いものではない。
浄水機関によって一度浄水された水。だから綺麗。でも、わずかに残る匂いを涙香は好きにはなれない。何もかも綺麗に落とした匂いは、嫌なものを思わせる。
たとえば、曇白の空間とか。暗闇に浮かぶ数多の白い輝きだとか。彼と共に列車にのって見たあの光景を思い出してしまう。
あの光景。思い出そうとすると頭が割れそうになる。左目は、理解しているのかもしれない。けれど、理解できない。碩学ならぬ身では。神ならぬ身では。
だからこそ、思い出さないように努めて、今は野枝との会話に集中する。今日の講義内容だとか、野口さんとの実験についてだとか、あとは近づいてきた試験についてだとか。
あるいは男の子の話も少しだけ。もしくは女の子の話。野枝はしきりに野口さんの話をしてくる。あとには、喫茶店にある洋菓子のお話。女の子らしい他愛もない会話。いつも通りの。
でも、今日は少しだけ違った。
「やあ、レディ。奇遇だね」
「あ、リチャード先生、おはようございます」
「あ……――」
彼と出会った。彼。そう彼と出会った。
――彼、野枝を砕いた彼。
――リチャード・トレビシック。
――あたしの、会いたかった人。
あの日以来、会えなかったから。いなくなってしまったのかとも思った。けれど、たぶんそれはない。確信のないものだったけれどなぜかそう思った。
きっとまた会える。そんな確信のない予感は今、こうやって現実になった。この後はきっと講義に出る。遅くまでの鉄道機関学。そのあとは、鉄道敷設の為に現場に行って作業をしている。
これが野枝に聞いた彼の予定。だから、今しかない。
――あたしは、意を決して彼へと話しかける。
――包帯の下、袖の下に隠した右手が震える。
「あ、あの!」
語尾が上がる。
――緊張のせい?
――いいえ、違う。
――これは、恐怖。
怪物を砕いたあの光景が思い出される。
――あの慟哭を、あの衝撃を、あたしは忘れられそうにない。
吐きそうになるのをこらえながらしっかりと彼の目からは視線を逸らさないように。
――綺麗な目。
――見る角度で色の変わる不思議な。
――虹色の瞳。まるで泡のような。
吸い寄せられるような瞳。思わず、言葉が出なくなる。恐怖も忘れて、ただその眼を見続ける。
「どうしたのかな、レディ。私に、言いたいことがあるのだろう?」
「あ…………」
束縛が解ける。彼の言葉がすぅと頭の中に入ってきた。固まっていた身体が動く。
「あ、えっと、い、今、御時間、良いですか」
「ふむ、そう来たか。レディのお誘いを断るのは紳士のするべきことではない。そちらのレディも一緒で良いかな?」
その時、野枝もいたことを思い出す。失敗した。そう思った。けれど、
「おーっとと、確か私、用事があるんでした。そういうわけで、るい! 先に行くねー!」
大丈夫、ちゃんというから。とでもいうように彼女は笑ってごゆっくりーと言って言ってしまった。勘違いをしている。けれど、今はそれがありがたい。
「では、レディ、こちらへ。私は君の選ぶお店を知っているよ」
そう言って彼と共に、行きつけの喫茶店へ向かう。確かにそこは話をする場所として提案しようと思っていた場所だった。
「私は何でも知っているよ。君の事も、ありとあらゆることも。私は全てを知っている」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「…………」
男は何も言わなかった。男は何も言っていなかった。男はただ、黙っていた。
甚だ浮いた男であった。欧州では一般的だろう紳士服。一見して欧州の者の如き姿であるが、間違いなく彼はこの大日本帝国の人間であった。
しかし、その特徴的な黒髪は酷くぼさぼさで、手には何かを書きなぐったのだろうペンたこの跡がある。物書き。その跡は彼をそう思わせる。
あらゆる狂気をその身に宿すという男は、その虚構の口を閉じてただただ黙っていた。
何の変哲もないアパルトメントの一室。木製の壁と天井が覆い、わずかな窓には幕がかけられ日を遮っている。いいや、もしかするとそこから先は何もないのかもしれない。
そこには椅子に腰かけた男、ただ一人しかいなかった。もしかすれば、彼からすれば何か別の誰かもいるのかもしれないが、少なくともこの部屋にいる者は彼だけだった。
やはり男と同じく何の変哲もない部屋だ。古びた本棚に机。物書きの部屋。そう形容するのが正しい部屋。ただ一つ、壁や床、天井にまで書きなぐられた文字以外には。
それは大日本帝国の文字ではない。文法からすれば大日本帝国の言語のようではあるが、それは違う。奇妙な数式のようにも思えるそれはカダス文字。
書きなぐられたそれは、おそらくはこの世界の事ではないのだろう。
おそらくはこれを読んで理解できるものはいないだろう。この男の事を知る者と同じくごく限られた人だけ、だ。
ただ一つ、理解できるとすれば、明らかに狂っている、それだけだ。おおよそ、全ての人がこの惨状を見れば狂っていると評する。
しかし、この場を知る者はいない。少なくとも、まともな者は。だからこそ、誰もこの異常を感知しない。この男が黙っているということを。
「吾輩は――」
――なんであろうか。
――なにでありたいのか。
猫であったような気もするし、人間であったような気もする。
全ては気がするだけの幻想なのかもしれない。
ただ今は、男だった。四本腕の自分だった。それもまた意味はないのかもしれないが。
男は問いを投げかける。意味のない問いを。
「遠く、近く、
緑の芝生の中を
糸杉の下を
炎は移動する
冷たい光を発しながら
それは霊魂なのだ」
語る、語る、語る。
男は語る。何かを。
詩の一節のようではあるし、誰かの言葉のようでもある。いいや、意味などないのだ。この男にとっては。ただ耳にしたこと、目にしたものを言葉にしているに過ぎない。
狂人の戯言。もとより誰も聞いていないのだから、意味のあるもののはずがないのだ。
「会いたい、
男の声に含まれるものは何一つない。ただ壁に反響して大気へと言葉は消えていく。誰の耳にも届きはしない。男自身の耳も例外ではなく。言葉は誰にも届かない。
なぜならば、これは届かなかった願いなのだから。
「はぁ」
あくびをするように男は息を吐き出した。眠りに揺蕩。覚醒と眠りのはざまで男はただ、言葉を吐き続ける。
「あの時に戻りたい。そして、時よ止まれ、お前は美しい」
それは誰かの願い。四本腕の誰かの願い。
「ふぁ~あ」
男の欠伸とも取れぬ息が吐き出される。
「全は一、一は全。私は、全てを知っている」
それは、男の願いか。
「ああ、あああああああ、ああああああ」
そして、暗がりに狂気だけが響くのだ。
「見るが良い! これが、私が見つけ出したものだ! お前にはやらない! お前は、ただ、そこで止まっていろ! 後悔で時を停めた四本腕の侍め!!」
男は嗤う。男は嗤っている。男はただただ嗤っている。
暗がりで、意味不明な言葉の羅列を吐き出しながら、嗤っているのだ。
嗤い続けているのだ。
暗がりで。誰もいない暗がりで。
そうかつて、シャルノスと呼ばれた、暗がりで――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そこに音はなかった。いや、あった。
そこに光はなかった。いや、あった。
そこには何もなかった。いや、そこには全てがそろっていた。
正しい1910年――どこかの研究室の一室に男がいた。白衣をまとった男はそこに立ち、その部屋にいる者たちへと宣言する。
「俺は、願いを叶える。神の座などどうでもいい。俺は、そのために手に入れて見せる。お前などにやるものかよ」
それは宣誓だった。何よりも強く、それでいて憎悪と敵意をのせて、それは上座に座る者へと叩き付けられる。その者は無言だった。
圧倒的なまでの憎悪を向けられながら、さながら稚児のように歯車を回し続けていた。その顔に笑みを浮かべて。
――お前には無理だ。
まるでそういうかのように笑みを浮かべて。それはある意味で己に向けたものかもしれない。だが、宣言をした男はそうは受け取らない。
「俺は必ず窮極の門の先へと至る。そこにあるものを手に入れる。それこそが、俺の望み」
歯車で形作られた腕がガチリ、と音を鳴らす。かちゃりと腰の四本の刀が音を鳴らす。
「俺のほかに、出来るものか。見ているが良い」
圧倒的なまでの唯我。そして、男は背を向ける。以降、男が訪れることは二度となかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おはようございます野口先生」
「ええ、おはよう、るい」
いつものように研究室に入る。時間は一時を過ぎたくらい。野枝はいつものように自分の机で野口さんのレポートと格闘していた。
ちらりと目を向けられたけれど、何かを聞かれることはない。本当は聞きたいのだけれど、野口さんは実験中の私語を許してはくれない。
そんなことをしていては追いつけないから。
だから、遅れると大変。机の上には山のように紙束が積み上げられている。
「うっ」
思わずうめき声をあげてしまうくらいには。これでもマシだと思う。前よりは。前は一人で全部やっていた。今は、野枝がいるから。
半分。これくらいなら余裕。それでもこれ以上なにもしないと流石に大変。だから、すぐに作業をしようと思っていると。
「入るぞ」
ノックも無しに研究室の扉が開く。男の人の声。聞き覚えのある。
「――――っ」
思わず、叫びだしそうになった。そこに立っていたのは幽鬼のような男の人だったから。
――森鴎外先生。
――怖い人。
誰よりも怖い人。右手が怪物のそれに変わった日からは特にそう感じる。怖い。まるで抜き身の刀のように鋭くて、触れれば最後切られてしまうのではないかと錯覚する。
腰に下げた軍刀がそれを助長する。
「借りるぞ」
「え――」
ただ一言だけ。そう彼が口に出した瞬間、左手を引かれる。そのまま引っ張られるまま連れ出される。許可なんて誰も出していないのに。
誰かが何かを言う前に連れ出されてしまう。ただ何かを言う暇があったとして何かを言えるとは思えないけれど。
「いい加減自分で歩け。それとも貴様は自分で歩けないクズなのか」
「あ、あるけま、す」
前を向いて、彼の三歩後ろを歩く。それに満足したのか彼はそれ以上何も言わずに歩いていく。顔を伏せたままそれについていった。
――なに?
――一体、何をさせられるの?
わからない。けれど、警戒してしまう。彼の雰囲気がそうさせる。彼に対して警戒しないという選択肢はない。良い噂はまったく聞かないから。
世界がこうなる前も、今も。悪い噂しか聞かない。だから想像するのはそういうこと。野枝のこともあったから特に。
――けれど。
「早くしろ屑が」
ついたのは図書館だった。危ない研究室とかではなく。
――碩学院の図書館。
――ありとあらゆる学術書があるという。
――あるいは、明治機関政府の検閲から逃れたアブナイ本だとかが閲覧禁止の棚にあるとか。
それは事実だった。
――知っている、あたしは。
――ここにあるのは、学術書ばかりではなく表に出せないような本もあると。
閲覧禁止の棚。あるいは影に覆われた書架。そこには暗がりの叡智が詰まっている。そんな噂も本当。整理したことがある人間からすれば、噂なんてまだ可愛いもの。
読むだけで正気が削られそうな本が、そこにはたくさんあるのだ。連れてこられたのはそういう書架。図書館の最奥。限られた者しか入れぬというそこ。
「探せ」
「え、えっと、何を、です、か?」
「チッ、野口め言っていなかったな――尸条書の写本だ。探せ。貴様は、ここに詳しいと聞いている。俺の役に立て」
「は、はい!」
――なんだ、本探しか。
――それならそうと言ってくれればよかったのに。
そう思うけれど、この碩学が普通に頼みごとをする姿など想像できない。だから、何も言わず言われた通りに本を見つけに行く。
幸いな事に尸条書は知っている本である。目的の書棚へ行って取ってくる。それに時間はかからない。
――でも、鴎外先生はなんでこの本を?
彼が読むような本ではない。書かれていることは荒唐無稽なことばかりだ。魔導書とも言われている本。少なくとも軍事機関医学の先生が読む本ではない。
「おい、まだか」
「も、持ってきました」
考えるのはまた今度。今は、届ける方が先。それを届けて手渡す。それを彼は懐へしまった。貸し出しは禁止のはずなのに。
「あ、あの、貸し出しは」
「許可は得ている」
それだけ言って彼はさっさと帰ってしまった。お礼の言葉すらない、まるで当然だろうとでも言わんばかりの態度で彼は図書館を出て行ってしまった。
「なんだったの?」
思うのはそればかりだ。何もわからないのが不気味だった。
「…………」
何か、あるのだろうか。
――予感がした。
――左目がそう言っているような気がした。
また、あの時のようなことが起きる。そんな予感が――。
ネクロノミコンの写本がある図書館、それがスチパンクオリティ。
るいちゃん地味にクトゥルフ神話技能が高いんですよねぇ。
ちなみに、SAN値は減ったと思ったら野口さんとの百合ぃで回復する予定。
リチャードはその手のことには使えないので。なにせ全知だからね。