翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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第二幕 第二の門
2-1


――暗い。

――ただ暗いだけだ。

 

 乾いた靴音が石畳の通りを歩く、俺の靴音だけがそこに響く。石畳の路地を歩く俺の足音。それだけが、この路地を満たしていた。

 それ以外には何の音もない。複合高層機関塔が奏でる共振器(オルゴール)の音色も、夜行機関(ナイトエンジン)が奏でる誰にも聞こえない静かな音もない。

 

 いいや。違う。ただ一つだけある。もう一つ。いいや、二つ。聞こえるのは俺の靴音だけではない。ただ闇の中を歩くこの音だけではない。

 頭の中に響く忌々しい御標。そして、金属音。腰帯(ベルト)に下げた四本の機関刀が奏でる音だけが響いている。

 

 栄光なりし過ちの歴史を歩み続ける世界と我が大日本帝国。蒙昧なる明治機関政府によって駆動する歪な巨大機関。我らが眠らぬ“街”帝都東京。

 その深淵なる暗がりを歩く俺の奏でる音だけが響いている。他には何もない。何も。ここに人はいない。少なくとも常人と呼べるものは。

 

 ただ一つ、御標だけが俺の行く末を暗示するかのように響いて消える。既に一つの時は動き出した。帝都の下に蠢く機関の1つが駆動を開始している。

 全て消えゆく為に。全てを超越するために。神は死んだ。ゆえに、神となる為に。

 

 最愛の者も、最愛の娘も、あの少女すら。零れ落ちて、ここにはもはや己以外にありはしない。ここには誰もいない。

 俺以外に生きる者も、動く者もいない。その中でただ一つだけ、聞こえるのだ。忌々しい御標が。

 

――御標

 

 神子たる明治天皇が下す神託。蒙昧共が幸福になるための標。

 

――ああ、忌々しい。

 

 忌々しい。忌々しい。忌々しい。

 ただただ、聞こえるそれが忌々しい。

 

 忌々しさを感じながら歩いていると、ふと、路地に声が響く。

 

――むかし、むかし。

 

 誰かの語る声が、聞こえる。

 優しげで、誰もがきっと安らぎを感じる声でむかし、むかし、と子供たちに御伽噺を語る声が。

 

――むかし、むかし。

 

 声は語る。声は語る、声は語る。

 それは御伽噺。白と黒色の物語。かつて、幸せであったことを思わせるような極彩色に彩られた白と黒の物語。

 

 だが、聞こえない。

 それがどんなに素晴らしい物語でも。それがどんなに楽しい御伽噺であっても。

 俺には聞こえない。声は次第に近づいてくる。それは、知った誰かの声。かつて、取りこぼした誰かの声。そちらに目を向ける。

 

――手は、伸ばさない。

 

 手は、伸ばさない。己が四の腕は何をしようとも届くことはないのだから。あの時は、既に、もはや過去なのだから。

 

 だが。そう、もしも、そう、もしも、時が止まってしまえば。あの時、時が止まっていれば、

 

 時よ止まれ、お前は、誰よりも美しい。あのときに止まっていれば――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 暗がりが消えていく。

 冷たさが薄れていく。

 霧が、全てを覆い隠す朝が来る。

 

 朝の日はいつものように雲の向こう側からこの帝都東京を照らしている。日出ずる国とこの国が呼ばれたのは今は昔。

 そんな大日本帝国首都、帝都東京の一角。所謂学生街とも呼べるような集合住宅の多い地域。そこにある下宿の二階を女が人知れず見上げていた。

 

 女の名は野口英世。女の身でありながら碩学に名を連ねる者だった。たった数刻だけではあるが、彼の万能の王が行った妙技を模倣し、速度という意味合いにおいては彼の者を凌駕するとすら言われている女であった。

 曰く、実験機械(クラッキングマシーン)。それは正しい。機械のように冷徹に、冷静に、冷血に。彼女は己を機関の一部として使用することの出来る女であった。

 

 そんな女はどこか愁いを帯びた表情で二階を見上げる。彼女がここにいる理由はない。例え、見上げている先が彼女の愛すべき教え子の住まいだとしても。

 朝早くから見上げる意味はない。意義はない。己に許された権能を用いて、人々の視覚から“消える”という透明化を行う必要すら、ない。

 

 ここに来る必要はない。彼女はいつものように研究室に来るのだから。その時を待てばいい。いつでも会えるのだから。

 ここにいる必要もなければ、窓を見上げる必要もない。理由がなければしてはならないということはない。だが、そうここにいてはならない。

 

「…………」

 

 それでも、女は、窓を見つめていた。高度情報機関網。単純に機関網と呼ばれるそれからの監視を受け続けながら。

 あるいは、そこら中に存在する語り部たるからくりからの監視を受け続けながら。

 

「手を出すな、そういうことかしら。ええ、あなたの希望は聞くわ。でもね。あなたもきっと知るわ。あの子の輝きを」

 

 そう小さく呟いて。

 再び、窓を見上げて女は、

 

「るい……」

 

 朝の霧の中へと消える――。 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――ふと、誰かに、名前を呼ばれた気がした。

――野口、さん?

 

 いつも通りの朝だった。工場区域から響く機械音と、複合高層機関塔の共鳴器(オルゴール)が奏でる旋律、御標の静謐な響きが聞こえてくる。

 うるさいほどのそれにも、今では慣れてしまった。ここへ越した時は、なんにでも驚いていたのに。

 

 瞳を閉じたままでも、朝の気配が感じられる。右手が異形になってからは特に。普段なら、もう少し眠っている時間。まだ起きる時間じゃない。

 野枝が起こしに来てくれるのを待つ。そんな時間。寝たふりじゃなくて、寝ているけれど、無意識に意識的に起こされたくて眠ってる。

 

――けれど、今日は違う。

 

「…………んー……」

 

 瞳を開く。まず見えるようになるのは左目。そして、右目。目につくのは大家さんから貰った柱時計。チク・タク、チク・タク。時を刻むお気に入り。七時半。いつもよりも早い。

 いつも起きるよりもうんと早い時間。耳を澄ませば、大家の栄龍(えいりゅう)さんが朝食の準備をしてくれている音が聞こえる。匂いもそう。魚を焼くにおいであったり、ごはんの炊けるにおいだったり。

 

「もう、朝。おはよう、涙香……。朝よ、起きなさい……」

 

 言い聞かせるように、呟く。目が覚めるように。いつもと違う朝に戸惑わないように。いつもと違うから。

 

――そう、違う。

――いつもと。

――黄金色の左目が告げている。

 

「……起きない、と」

 

 寝台から這うように出て、窓を覆う遮光幕を開ける。灰色の空越しに輝くいているはずの太陽を、感じる。わずかな熱量が、身体に目覚めを教えてくれる。

 ただし、その熱量は右手には届かない。漆黒の右手。おぞましい爪の生えた怪物の手。

 

――あたしの、手。

 

 雲越しに感じる太陽の感覚を右手は感じない。そこだけが、漆黒。まるでなにもないかのよう。けれど、確かにそこにはある。

 

「包帯、巻かないと」

 

 これを誰かに見せるわけにはいかない。栄龍さんにも、野枝にも。だから、いつもよりも早く起きる。これからは。

 包帯を巻く。メスメル学による暗示迷彩というものが施されたという包帯。野口さんから貰ったそれ。右腕に這う糸の縫い跡からそれを隠すように巻いていく。

 

「あ、顔、洗わなきゃ」

 

 それから洗面台へ。たっぷりの冷たい水を使って顔を洗う。左手だけで。

 

――右手では、自分も、誰かも、もう触りたくないから。

 

 怪物の手。それが誰かを傷つけてしまうかもしれないから。大きく歪で、爪も長い。そんなもので顔など洗えない。だから、左手だけで洗う。四苦八苦しながら顔を洗う。

 すっかりと左腕は濡れてしまって。思わず寒さがこみあげてくる。田舎の井戸水ほどではないけれど、機関の冷却と浄水機関の関係上帝都の水は冷たい。洗い物には困るけれど、顔を洗うのには最適。どんな寝坊助でも目が覚める。

 

 淀んだ意識がはっきりとして、これからやるべきことを思い出す。それと同時にたったったった、と聞こえてくる階段を昇る音。

 

――野枝の足音。

――軽快な。

 

 そっとベッドに腰掛けて、待つ。すぐに扉は開いた。

 

「おはよーるいー? ……るいが起きてる。大丈夫? どこか具合、悪い?」

「大丈夫だよ。うん、今日は少し早く目が覚めちゃって」

 

 練習していた言葉を話す。野枝に嘘は通じない。狸根入りも、何もかも。だから、待っていた。

 

「今日は雨かも」

「どういう意味ー!」

 

 少しだけ怒った風に言って、

 

「おはよう」

 

 いつも通りのあいさつから、始めた――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――あいさつから始めて、着替えて、朝食を食べる。

 

 いつも通り。そういつも通り。今朝の早起きと違って、ここはいつも通り。そう、そのはず。

 

「もう食べないの?」

「へ?」

 

 ふと、かちゃり、と食器の音が響く。落とした音ではない。皿と匙が触れた音。ごはん茶碗はいつのまにか空になっている。

 

――ああ、またやってしまった。

 

 そう涙香は後悔する。いつも通り、いつものように。そう意識しているのだけれど、不意に少しだけ別のことを考えてしまう。

 いつもとは違う。感覚も追いつかない。身体も追いつかないこと。だから、いつもと違う考え事。思考をどこかへと飛ばす行為。

 

 例えるならそういうこと。いつものアレを思考に埋没するというのなら、これはどこかへと飛んでしまう。だから、いつものようにはいかない。

 

「う、うん」

「あら、珍しい。いつもならあと二杯くらいは行くのに。何かあったのかしら」

 

 野枝が驚いた顔から思案顔へと変わる。ふふふ、と笑みを浮かべた思案顔はきっと何か、よくないことを考えている。

 もちろん、犯罪だとかそういうことじゃない。どうやっていじってあげようかしら。そんな猫とどうやって戯れようかという他愛もないようなこと。

 

――この場合の猫は、どうやってもあたし。

 

 この顔の野枝からは逃げられない。

 

「あれかしら。ようやくるいちゃんにも春が来たのかしらねぇ。お相手は一体、誰なのかしら。やっぱり野口さんかしら。それとも、大杉さん? もしかしたら平井太郎君だったりして? うーん、そうなると私としてはやっぱりやめるように言いたいのだけれど、るいが選んだ人だもの尊重するわ」

「だ、れ、も、ち、が、い、ま、す!」

 

 そう言ってきたから、少しだけ語尾を強めて反論してしまう。そういう反応が彼女には面白いのだとしても。やめることはできない。

 子供の用にむくれたように頬を膨らませてみたりもして。やめられない。そういうのが伊藤野枝と黒岩涙香のいつも通りだから。

 

――いつも通り、いつものように。

――そうあたしは意識して、そうなるように努める。

 

「ふふ、ごめんなさいね。でも、待っているのよ?」

「そういう野枝はどうなの?」

 

 知っている。彼女は人気者。特に、この大陸から伝わったエイダ主義と呼ばれるものを受け入れた人たちには。男女問わず。

 だから、引く手あまた。そういうのを断り続けている。理由は、知っているし、知らないとも言える。

 

「そうねぇ。今は、そういうのよりはるいとこうやっていたいかな」

「うん…………――」

 

 野枝が綺麗な黒い短い髪を揺らして呟く。普通では考えられないくらいに短い髪。女としてはありえないと後ろ指を指されても、野枝は気にしない。

 これが自分と自信を持ってこの髪型にしていると宣言している。

 

――野枝、伊藤野枝。

――あたしの親友。

 

 自由な人、凄い人。まだまだ珍しい着物襟をしたワンピースという洋装を着た可愛らしい友人。破天荒でいつも振り回されるだけど、大事な、大事な親友。

 そう、そう言い聞かせる。野枝は変わらない。望んだとおり。いつも通り。

 

――違うのはあたし。

 

 そっと、隠した右手を握り込む。ギチリと音を鳴らす。それは人が、女の子が出してよいような音ではない。暗がりに潜む怪物が鳴らすような音。

 変わってしまった。何もかも。あの日、全てが変わってしまった。

 

――あたしのせいで。

 

 望んだ通りに――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 全てを知るがゆえに、男はただ黙っていた。

 

 男の名はリチャード・トレビシック。鉄道王と呼ばれる碩学であった。彼について知らぬ者はいない。鉄道を開発した男の名をこの機関文明が栄華を欲しいがままにしている黄金の時代では、東洋においても西洋においても知らぬ者などいない。

 彼がもたらしたものは、世界を縮めたからだ。鉄道。今では、世界の全てを繋ぐものと言っても差し支えない。陸における交通。

 日本において機関車は駿城と呼ばれている。まさか装甲蒸気機関とは彼をしても想像はできなかっただろう。いや、知っていたのか。

 極東における大日本帝国人の魔改造には驚くばかりだ。それも知っていたのか。

 

 そんな鉄道はまさに革命的であった。彼の手で最初の蒸気機関車が作られてから、世界は急速にその大きさを小さくした。

 彼の作る鉄道はありとあらゆるものを運ぶ。軌道(レール)の続く限りどこへでも。

 

 だが、同時に彼については何も知られていない。どこから来たのか。どこへ行くのか。誰も知らないのだ。誰も。誰一人も。

 少なくとも彼が初めて現れたロンドンでの鉄道発明以前の彼について知る人は誰もない。そう誰もだ。人は。誰も。

 

 そう誰も。ただ一人、同郷の者を除いて。彼は碩学だった。知らぬものなどいない碩学だった。そんな彼に対して、リチャードはいつものように言葉を紡ぐ。

 

「久しいな、と言っておこうか。私は全てを知っているゆえに、君にとっては久しくとも、私には久しくはないのだが、ここはただ久しいな、と言っておこう」

 

 彼は誰かへと語りかける。それはただ一人、男について知る者へと。チク・タク。チク・タク。と音を奏でる者へと静かに語りかけるのだ。

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「お前は繰り返すのだろう。私はそれを知っている」

 

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「ならばこそ、私もまた繰り返すのだ。それも私は知っている」

 

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「なるほどそういうこともあるだろう。だが、私は、全てを知っている。ゆえに、答えは変わらないよ。意味はあるのだ。私はそれを知っている」

 

 そして――。

 




甲鉄城のカバネリって面白いですよね。
和風スチパンなので、設定を流用しちゃったりねしてみたり。

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