翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
暗闇の中、奇妙な感覚があたしの身体を満たしていく。それは、夜眠りについた時のような、それに近い感覚で。でも眠りには程遠くて。
あたしは、何も見えない。何も感じない漆黒と曇白の中を揺蕩う。身体が動かない。呼吸すら。いいえ、呼吸していない。
生きるのに必要な事をあたしは、何もしてない。けれど、苦しくない。これがここでは普通なのだろう。きっとこれは夢。
そうでなければ死んでしまったのかもしれない。あの感覚。自分以外の全てが崩れていく感覚を覚えてる。
何が起きたのだろう。わからない。
――あたしの左目は知っている。けれど、けれど。あたしにはわからない。何一つ。
未だ、碩学ならぬ身では。神ではない身では。
――あるいは、■■であるあたしにはわからないのかもしれない。
何かが外れてしまった。それでも、それでも。諦めたくなかったから。だから、手を伸ばした。
ふと、誰かの声が聞こえる気がした。聞き覚えのある声。聞きたかった声。その声を聞こうとして、集中して、そして――。
「ちょーっと、聞いてる? るいー?
「――う、うぇひゃぁ?」
――あたしを呼ぶ声で我に返る。
――いいえ、目覚める。
「え……――?」
視界が光を受容して、辺りの状況を描き出す。それは、いつかと同じ授業終わりの光景。黒板に書かれた白い文字は覚えがある。
機関学の授業。課題も同じ。前に、あたしが野枝に少しだけ機関学の課題について教えていた時と、同じ。
「ちょっとー、聞いてるー? まーた、考え事? ちょーっと、るいー?」
そして、野枝の声。隣にいるあの時と同じ野枝の姿。恐ろしい怪物の姿ではない。いつも通りの。いつも通りの野枝。
あの時、彼が砕いた彼女がここにいる。どういう、こと?
わからない。わからない。わからない。聞いているのか答える彼女に返事をしなきゃと思う。話をしている途中のようだから。
――でも、そんなことよりも。
――この状況は、なに?
しきりに、隣で呼びかける野枝を無視するような形で、周りを見る。講義を終えて少しだけ経ってるから人はいない。隠れている人も、おそらくはいない。
それはいつかと同じ光景。もう二度と見れないはずの。確かに、同じ。
「るーいーちゃーん? おーい、もしもーし? 大丈夫ー?」
――野枝、伊藤野枝
――あたしの、親友。
――怪物になって砕かれてしまったはずなのに。
なぜ、なの? 何が起きているの? あたしが、願った。だから、あなたは砕けてしまった。なのに、ここにいるあなたは、誰?
野枝? そうなの? 本当に? あれは夢? 夢だったの?
いいえ、ちがう。違うわ。だって、あたしの右手が、あたしの左目がそう言っているから。
無意識で隠していた右手。そこには確かに漆黒の輝きがあった。人を越えた手。怪物のように鋭い爪が生えた漆黒の腕がそこにはあった。
あれは夢ではない。なら、これが夢。いいえ、違う。これも夢じゃ、ない。じゃあ、なに?
わからない。けれど、けれど。とりあえず、話をしようと思う。野枝と。何もわからないから。
「だ、大丈夫、聞こえてる、うん、うん」
「じゃあ、何の話か言ってみ? ほれほれ」
早く言いなさいー、と野枝があたしをせっつく。頬をぐにぃ、と押されながら。
「えっと、あたしの好みの男性は誰かって話?」
「…………」
無言で額に手を当てられた。
「熱は、ないわね。もう、いきなり変なこというもんだから心配しちゃったじゃない。さっきから話しかけても全然答えてくれないし」
「ご、ごめんなさい」
「うん、まあ、熱もないし大丈夫ね。さ、行きましょう? 野口さんが待っているわ。昨日出された課題、一杯だもんね」
「課題?」
――え? え?
「もー、本当に大丈夫? るいちゃーん? 起きてる? やっぱり熱がある? 気分悪いなら私から野口さんに言っておくわよ? 一緒の研究室なんだし」
「一緒って」
――え? え?
――どういうこと?
野枝は鴎外先生の研究室のはず。機関医学について学ぶために入ったって聞いた。数か月前に。だから、その時は残念に思ったのに。
なのに、今、野枝は一緒って言った。これは、どういうこと? あたしは、やっぱり夢を見ているの?
「るいちゃーん? 大丈夫ー?」
「だ、大丈夫。大丈夫」
「もう、とりあえず行きましょう」
手を引かれるままあたしは、野枝に野口さんの研究室に連れて行かれてしまった。
「こんにちはー」
「こ、こんにちは」
「……あら、いらっしゃい。……伊藤、少し用事を頼まれなさい」
「えー、はい、何をすれば?」
「そこの資料と、そこの資料を、鴎外のところに持っていきなさい」
「わかりました」
そう言って野枝が研究室を出ていく。それから、野口さんが指を弾くと同時に、何かが研究室を覆ったのを左目は感じ取った。
「メスメル学よ、あなたは気にしないで良いわ」
「あ、あの?」
「右手を見せなさい。放っておくと、呑まれるわよ」
「え?」
――え、え?
あたしが、何か言う前に野口さんが袖をまくり上げて、右腕を露出させる。そこにあったのは、怪物の腕。直視してなお、それが自分の腕だとはわからなかった。まだ、右手のみ。けれど、ゆっくりとそれはゆっくりとあたしを蝕んでいるのがわかる。
それを見て、野口さんが針と糸を取り出した。
「痛いわよ」
「―――!?」
刺された。刺された、刺された。大きな針で、腕を刺される。そして、まるで縫い物でもするかのように縫って行く。
手首、肘、肩。三か所をほとんど一瞬で縫い糸を腕に回す。血は出なかった。
「な、なに、を」
「おまじないよ。これで、一気に剥離することはないわ」
「は、くり?」
「そうよ。やっぱり……何もわかっていないのね」
それは、あなたは知っているということ。この状況を。
「お、教えて下さい! なにが、何が起きているんですか! 野枝は、確かに」
「わかっているわ。あの子がどうなったのかも。彼が砕いた。それをあなたは確かに見届けた。だというのに。いつの間にか私の研究室に所属している。それが気になるのでしょう? あまりにも――」
――そう、あまりにも。
――あたしが願った通りだから。
野枝を助けて欲しいと願った。野枝も一緒の研究室なら良いと願っていた。何もかもが元通りなら良いと願っていた。
あたしは、思い出す。あの人の言葉を。君の願いを叶えようと言った、あの人の言葉を。
「あなたの願いは叶えられた。リチャードの手によって」
「それ、は、どういう?」
「彼によって改変されたのよ」
「改変……」
「そう、この世界がね」
そう言った、彼女の表情はどこか憂いを讃えていたように思えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――音が響く
――音が響く
暗がりに音が響いている。
それは、何かの歯車を回す音。
それは、何かの螺子を回す音。
それは、何かを組み立てる音。
数多の音が暗がりに響いていた。
東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。
遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。
ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。
ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。
深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。
ただ一人、幸せを求めた女以外には。
彼の組み立てるもの。
それを知ってはならない。
命が惜しければ。
それに手を出してはならない。
命が惜しければ。
ここにはまともな人間などひとりもありはしない。
ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。
人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。
だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。
それは神の所業。人が望み、
人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を
それは純然たる
ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという
ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。
碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。
男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。
「――主」
――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。
女。人型、からくり。
からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。
自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。
陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。
この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。
そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。
「主、変容の一を確認。第一歯車が回転を開始いたしました」
「ついに、回った。ついに始まった。ああ、ついに、ついに。この時を待ちわびたぞ」
その声に、男はその手を止めた。
女の声に、男は、その手を、止めた。
組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。
ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。
「ついにか! ついに、ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、あの先へと、辿り着くぞ。黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ
男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。
消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。
男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。
女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。
思う事もなく、何も感じることもなく。
だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。それは男とはまた別のもので。
男は熱狂する。
「おお、喝采せよ! 喝采せよ!
今宵、この時より、再び、我が機関実験は再開されるのだ!
今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。
男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、男は、歓喜へとむせぶ。
碩学王を超越するその時を、ただ夢見て。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あああ。ああああ!」
暗がりの部屋で声が、音が響いている。何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。
ここには正気など何一つない。ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。
遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。
「はは、あはひゃははははははははは!」
神は来た。神はいた。神はそこにいる。
「目の前に、目の前に、ああ、窓に窓に!」
そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。暗がりに、人の夢にさえも。ああ、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。
「ああ、あああ、ああああああ」
それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。遥か過去、あるいは未来。あるいは現在。英国を覆った漆黒を男は知っている。
「次は、
ただ、ただ、狂気の声が、響く。
「機関刀、腕。それでも求めるのか、
まるで、壊れたラジオのように、声が響く。
しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。
ここにはただ、男と、狂気があるだけなのだから。
これにて一章の改稿は終了です。
2章ですが、年末が近づいてきたせいで忙しいので、少し遅くなるかもしれませんが、頑張りますので、これからもよろしくお願いします。
では、また、次回。
良き青空を!