翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum--   作:三代目盲打ちテイク

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「ふむ、ならば、鍵を拾うが良い」

 

 祈りに応えるように、声が、響いた。どこかで聞いた声。でも、誰の声か思い出せなくて。でも、反射的に身体は動いてくれた。

 飛びつくように銀の鍵を取る。その時、頭上を通り過ぎて行く異形の爪。ぞわり、と死の感覚が身体を包む。鳥肌が立って全身の毛が逆立つかのよう。

 

「取ったわ! どうすれば良い!」

 

 答える声はない。答える声はない。声は、響かない。

 

――どうするの?

――どうすれば良いの?

 

 わからない。わからない。わからない。

 

「逃げなさい」

 

――また、声。

 

 ここから逃げなければ。そう思う。化け物と化した野枝。その光景がまだ信じられないけれど、そこには確かに怪物がいる。

 白と黒の野枝だった、ナニカがそこにいる。

 

――そこにいて、あたしを殺そうとしている。

 

 その事実に膝を屈しそうになる。それだけじゃない。

 

――御標。

 

 逆らってはならない。帝国の人間ならだれでも知っている常識。逆らってはならない。逆らってはならない。逆らえば酷いことになる。

 それがわかる。だから、殺される。それが正しいこと。

 

――本当に?

――いいの、それで。

 

――ここで殺されてしまえば、野枝はどうなるの? 

――同じように誰かを襲うの?

――それとも、人に戻るの? いいえ、戻らない。

 

 野口さんが言っている。変化すれば最後、戻ることはない。それは実験にも言えること。そもそも、あそこまで変化した野枝が元戻るだなんて、到底思えない。

 逃げよう。御標に逆らってでも。

 

――あたしは、どうなっても良いから。

――野口さんから貰った小説に載っていたあの子のように。

 

 そして、考えるの。野枝を元に戻す方法を。

 

――だから、動いて、脚。

 

 震える脚を叩いて叱咤して、走り出す。

 

「どこへ、いくの私の仔猫ちゃん~?」

 

――野枝があたしを呼ぶ声が響く。

――やめて、聞きたくない。

 

 変わらないようで、どこか変わってしまったその声を聞かないように耳をふさいで走る。夜の街を。白と黒に染まってしまった誰もいない夜の帝都を走る。

 その背に、怪物を連れながら。怪物の攻撃を必死に躱して、走る。

 

――どこへ?

――どこかへ。

 

「――――あぐっ!?」

 

 不意にギチリ、と右腕が音を鳴らす。右腕に何かが這いずるような気配。べきり、べきりと鈍い音が響く。曇白の蔦が右腕に絡みつき、その身体を蝕み始めていた。

 瞬間的に理解する。これが御標に背いた結果なのだと。殺されること。幸せのままに殺されることから背いた結果。

 

 手にひび割れのように亀裂が走って行く。

 

「くっ――」

 

――痛い。

 

 鋭い痛みが脳髄を駆け巡る。身体が組み換わって行く感覚。それでも、脚は止めない。止めれば怪物に追いつかれてしまうから。

 

――頑張りなさい。

 

 野口さんの言葉が、脳裏に木霊する。

 

「はあ、はあ、はあ」

 

 息が切れる。苦しい。右腕がどうなっているのかすらわからない。それを無視して、どこまでも続く漆黒と曇白の通りを走る。

 どれだけ走っただろう。どれほど走っただろう。研究は体力勝負だから、体力だけはある。怪物になった野枝はまだ、後ろをついてくる。

 

――あたしの名を呼んで、殺そうとして来る。

――ああ、ああ、やっぱり。

 

 夢ではない。息苦しさも、全部。何もかも。

 

「――――あ」

 

 足がもつれる。駄目、こける。銀の鍵が手から零れ落ちる。それを拾おうとして、伸ばした右手。

 

「――――」

 

 そこにあったのは、人ならざる手。異形の腕。

 

――誰の手?

――誰かの?

――いいえ、あたしの、腕。

 

 それは紛れもない自分の腕だった。それが現実であるのに、どこか夢み心地のようで、声をあげることすらあたしはしなかった。

 

「るいちゃん、鬼ごっこは、おしまいだよ。さあ、幸せに死のうよ。ちゃんと、殺してアゲル」

 

 追いついてきた野枝。

 

――振り上げられた野枝の異形の爪が貫こうとする。

 

「あ……――」

 

 死を目前にして、思考は加速する。

 

――いいの、涙香?

――これで終わりで良いの?

――諦めるの?

 

 転がって躱しても逃げられない。爪は十もある。避けても次が来る。どうせ、殺されるなら、ここで良いのかもしれない。そう思う自分もいる。

 駄目。駄目。それだけは、駄目。諦めたら、駄目。野口さんから貰った小説の登場人物たちは皆、こんな時でも諦めていなかった。

 

 漆黒の街を走ったあの子も、雷電の輝きを愛したあの子も。

 

――だから、あたしも諦めたくない。

――野枝を助けたい。

 

 顔のひび割れはまるで涙を流しているように見えたから。そうじゃないと、あんな顔はしないと思う。鴎外先生と会った時の見たことない野枝の顔。

 

――ならば、手を伸ばすことだ。

 

 誰。知っている声。誰の声? ずっと聞いたことのあるはずの声なのにわからない。光る銀の鍵。

 

――あれを、掴めばいいの?

 

 わからない。わからない。わからない。

 

――銀の鍵を探すことだ。そうすれば、私はお前を助けよう。

 

 今朝会った、あの人の声が脳裏に木霊する。銀色の鍵。あれがそうかはわからない。けれど、もしそうなら。なんで、野口さんの本から出てきたかだとか、今はわからないけれど。

 でも、もし手を伸ばすことで何かがかわるなら。

 

「あたし、は――」

 

――右手を、伸ばす。

――鍵を、掴む。

 

「――――!!!????」

 

 野枝が驚きの声をあげる。

 

「やあ、お待たせして申し訳ないレディ。少しばかり、講義が長引いてしまってね。いや、言い訳はすまい。レディには申し訳ないことをしたと素直に謝ろう。私は全てを知っている。ゆえに、この結果も、こうなることも全て知っていたのだから」

 

 紳士然とした声が、頭上から響く。そこにいたのは紛れもないあの人。紳士然とした大きな人。鉄道王と呼ばれる碩学様。

 

「りちゃ、-どさん?」

 

――リチャード・トレビシック

 

「そうだよ。レディ。言ったはずだ。私は、君が鍵を見つけたならば、真にその鍵を見つけたならば助けに来ると」

 

 そう言って彼は、野枝との間に割って入る。まるで壁のように立ちふさがる。重圧が消える。恐怖が消える。痛みも、苦しみも、何もかもが消え失せた。

 

「異形化、伽藍化、ここまでくればもう戻れまい。こうなってしまえば、私に出来ることはなにもない」

 

 そう言いながら、野枝の爪を彼は器用に捌いていく。武術の心得もあるのだろうか。柔術。空手、剣道。全てがまじりあったような不思議な型で、彼は全ての攻撃を捌いていく。

 

――その片手間で彼はあたしに問う。

 

「さて、黒岩涙香。彼女はもう助からんが、君はどうしたい」

「あたし、は……――」

 

 リチャードさんが言うとおり、野枝を助けることは出来ない。もはや、彼女を助けることはできない。それはわかってる。

 

――でも、でも。

――野枝はいつもあたしの為に何でもしてくれた。

 

 毎日起こしに来てくれた。いろんな話をしてくれた。男の人の話だとか、女の人の話だとか。

 機関学の話も。からかって、怒って、泣いて、笑って。いつも、野枝は傍にいてくれた。だから、だから。

 

「あきらめたくない。あたしは──」

 

――たとえ、誰が何を言っても。

――たとえ、彼が助けられないと言っても。

――たとえ、彼女がそれを望まなくても。

――あたしは、足掻く。

 

「あたしは諦めたくない!」

 

――諦めない。

 

 野枝は親友だから。諦めたくない。絶対に助けたい。

 そう言った時、

 

「ははははは!」

 

 笑う声が響く。冷笑でなければ、憫笑でもなく、嘲笑でもない。苦笑、哄笑、艶笑、歓笑、喜笑、戯笑、嬌笑。そのどれでもない。それはまぎれもなく喝采だった。

 あきらめずに立ち上がるものを賛美する彼の喝采だった。

 

「良きかな。良きかな。ああやはり、この時、この場所で、今再び、最果ての軌道を見つけるとは。実にすばらしい。何度見ても、この瞬間だけは色あせん。

 ならばこそ、さあ、願いを言うと良い。いと尊きものよ! 一切合財の躊躇なく、私はお前の願いを叶えよう!」

 

 彼はそう言う。願いを言えと。叶えてやると。

 

――本当に?

――本当に叶えてくれるの?

 

 なら、なら。

 

「お願い、あの子を、あたしの友達を、助けて」

 

 ちゃんと出せたかもわからない。声になったのかすら。けれど、けれど――

 

「その願い、確かに聞き届けた!」

 

 彼は、そう確かに言って。

 

――その右手を、伸ばす。

 

「――コル・レオニスの星より落ちし断片

 果て無き地平を疾走する夢を以て

 アカシャは全てを記録する

 過去と現在と未来、我が手にするもの

 全にして一、一にして全

 最果てへと足掻く全てを導くもの」

 

 変化は一瞬だった。大機関の歯車が切り替わるような音ともに世界もまた切り替わる。

 いつしかそこは見慣れた通りではなくなっている。

 六角形の台座が置かれた漆黒。そこは計り知れない暗がり。そこは海。薔薇の香りのする海。

 巨大な石組のアーチが見える。

 

――いつの間にか、あたしはその前に立っていた。

 

「さあ、回せ」

 

――促されるままに、あたしは銀に輝く鍵を動かす。

 

――門が開く。

 

 無限の地平。どこまでも続く遥かなる虚空。

 左目が捉える。黄金をたたえた左目。いつかのあの日に、黄金に変わった左目が何が起きているのかを伝えている。

 

――けど、けど。

 

 それを理解できない。碩学ならぬ身ゆえに、一片たりともそれを理解することが出来ない。

 いや、いいや。理解してはならない。直視してはならない。彼に守られていなければ、きっと狂ってしまうから。

 

 けれど、分かる。あれは運ぶものだと。遥か遠くへと何かを運ぶものであると。過去、現在、未来。同時に存在するどこかへと向かうもの。

 

――ガチリ・ガチリと、歯車が組み合わさっていく。

――蠢くように。瞬くように。震えるように。

――それは形をつくる。それは運ぶもの。軌道(レール)の上を走る蒸気機関車。

 

「さあ、乗るが良い。我が夢は、必ずやお前を望む場所へと送り届けよう」

「なに、ナニをしているの。オマエ、は! ――!?」

「無粋なレディだ。だが、それは意味をなさない」

 

 ひび割れた、掠れた、野枝の声が響く。響いて、その異形の爪を振るう。

 そんなものの前に、形を保っていられるものなどありはしない。けれど、けれど、蒸気機関車に傷はつかない。彼もまた同様に。そして、機関はただ駆動する。

 

――それは確かな熱をたたえて。

――それは確かな輝きを持って。

――それは確かな願いで溢れて。

――鋼鉄の軌道が走る。

――機関は駆動する。

 

 ゆっくりと、そして速く。何より速く。それは、過去、現在、未来、時間すら越えて、あるいは全て越えてそれは門を越えて、漆黒を疾走する。

 黄金の左目が何かを伝える。そう、この場所の本当を。それは世界の真実。知ってはならないもの。

 

――ただ、あたしは気が付けない。

 

 碩学ならぬ身では、あるいは神ならぬ身では、その真実を認識することすらできない。

 

「ヤメテ、ヤメテ、ヤメ――!!!』

 

 伽藍が走り出したそれを止めようとする。けれど、けれど。それは止まらない。

 

「走り出した夢は止まらない。誰にも止めることなどできはしない。

 たとえそれが、初代十碩学第二位《大数式》であろうとも。

 たとえそれが、異形都市の少年王であろうとも。

 たとえそれが、騙り続ける仮面の男であろうとも。

 たとえそれが、鋼鉄の機械卿であろうとも。

 たとえそれが、時計仕掛けの神であろうとも。

 たとえそれが、薔薇と黄金の王であろうとも。

 たとえそれが、漆黒の王だとしても。

 何人たりとも、走り出した夢を止めることはできはしない。

 残念だったな、届かなかったものよ。お前の願いは、聞き届けられない。お前の願いでは、この夢を止めることはできない」

「ギィァアアアアア……ッ!」

 

 絶叫が響く。

 何かが通り過ぎていく。認識すらできない水泡。泡沫のそれ。それは、野枝だった。

 砕けて、崩れて、解けて、散っていく。まるで、何かに呑み込まれるように。元の形が何であったのかさえ認識出来ない、ばらばらの破片へと至るまで、刹那の間に。

 

 目にするのも耐えられないほどの光景。友人が消えていくというのに、眼を背けるほどの光景。だけど、

 

――しっかりと、あたしは見る。

――目を逸らさずに。

――焼き付けるように。

――これは、あたしが願った結果だから。

 

「……ギィ、オ、オ、ァアア……。

 ……タ……ス……ケ……テ……。

 ……ヤ、メ、テ……ル、イ!」

 

 懇願。悲鳴。絶叫。断末魔──。

 野枝が、破壊される。

 野枝の声はかき消される。

 足掻くその全てを、

 

──呑み込む──

――消し去る――

 

 目を逸らさずに、ただそれを見届ける。

 

「喜ぶと良い。お前の願いは今、叶えられた」

 

 その瞬間、

 

――世界は変わる。

――世界が変わる。

――全てを残して。

――私を残して。

――彼を残して。

――世界が変わる。

 

「なに、これ……」

 

 揺れる、揺れる、揺れる。それは蒸気機関車の揺れではなくて。

 今まで感じたことのないような揺れ。頭の中をかき回されるような。まるで、洗濯機関の中に詰め込まれたみたいに。容赦なくかき回される。

 

 何が起きたのかわからない。わからない。わからない。けれど、恐怖はない。これはそういうものではないとわかっているから。

 でも、意識が混濁する。それは、この揺れのせい。それとも何が起きたのかを理解出来ない思考のせい? 男の人の声だけが聞こえる。

 

 自分の声も、息も、何も聞こえてこない。

 

──そして。

──あたしは、誰かに抱かれるような闇へと、落ちる

 

「ああ、また、貴女は進むのね。今度こそ、私はそれを見届けるわ。だから、今は眠りなさい」

 

――誰かの声を聞きながら。

――右手を包まれる感覚を感じながら。

――あたしは、闇へと、落ちていく。

 


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