英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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「罪滅ぼしなんて言い訳はしないわ。私はどんな罪を背負おうと私の戦いを続けなきゃならない」
    by 暁美ほむら(魔法少女まどか☆マギカ)








災禍の摩天楼 後篇  -in クロスベルー

 

 

 

 

 

 

「此方が提示する報酬は、《天剣》、君が抱える魔女の呪い(・・・・・)の解呪だ」

 

 バルフレイム宮内の帝国宰相執務室。腹心の部下であるクレアですらも退室させた後、オズボーンは得意の話術でレイを翻弄することもなく、ただ単刀直入にそう言ってみせたのだ。

 

「…………」

 

 それは通常の人間の精神であれば意表を突かれ、唖然とした表情を晒してしまう程に唐突であったが、レイは表も内も可能な限り平静を保ったままに、その言葉の真意と可能性を探る。

 

 ”魔女の呪い”―――《結社》を去る前に、情報漏洩を防ぐために《使徒》第二柱・ヴィータ・クロチルダがレイの右首筋を基点にして仕込んだ呪い。

 《魔女の眷属(ヘクセンブリード)》の中でも屈指の鬼才と謳われた者が、更に高度な術式と膨大な魔力を費やして仕込んだそれは、5年という月日を経てもなお、解呪には一家言ある筈のレイを以てしても、その2割も解呪が進んでいないという有様なのだ。

 無論、僅かでも解呪の手順を間違えれば国家レベルで巻き込む未曽有の人災を引き起こす危険性と常に戦いながらの作業であったので、寧ろ5年程度で2割程度も解呪が進んだという事に対して驚愕するべきなのだが、元より魔女が使う特殊な魔法術式にあまり造詣が深くなかった彼にとって、これ以上の解呪作業は限りなく難しいと言えた。とどのつまり、手詰まっているという事である。

 

 果たしてそんな、神格生物すらも隷属させてしまうような馬鹿げた規模の拘束術式を完全に解呪できる存在などいるのだろうか? よしんば居たのだとしても、そんな超常じみた存在をこの男は囲っているのだとでも言うのか?

 

 そこまで考えたところで、レイは脳内で(かぶり)を振った。この男の性格を鑑みるに、不可能と思われることを不可能な状態のまま可能であるとは言わないだろう。

 レイはギリアス・オズボーンという男の存在を好ましく思っていない。しかしだからといって、この男の行動原理、行動心理を探っていなかったかと言えば、それも違う。

 フィーに付き合って行っていたトールズ士官学院入学試験の勉強の最中、レイは七耀歴1193年―――つまり11年前に帝国宰相に就任したオズボーンが行った政策とその結果の顛末を可能な限り調べた事があった。

 その結果分かったことは、この政界の魔人とも言うべき人物は、「公言した事は決して反故にはせず、必ず実行する」のである。

 

 11年前から帝国周辺に存在していた数多の自治州の統合政策や、帝国全土への鉄道網設置政策など、時に強硬策も辞さなくてはならない政策を実行する際、反対意志を示す関係者や当事者各位を言葉で説得する事が多々あったが、回りくどく紆余曲折を経て言葉巧みに扇動し、ほぼ詐欺や謀略も同然のグレーゾーンを渡り歩きながら合意にこぎつけたケースが幾度も見られたのだ。

 ここで最もレイが警戒したのは、非常に回りくどく、言葉巧みに言い回しているとはいえ、合意内容そのものには決して虚偽が含まれていないという事にあった。

 最低限の利得権益を与えながらも、いざとなれば合意内容の拡大解釈をして武力制圧も辞さないその用意周到さ。加えて、統合した自治州の財政等が国家という枠組みを維持するのに不足するという事態を相当前から見越していたかのように行動に出るその慧眼さも、まさに大国の政治の頂点に君臨するに相応しいと認めるしかない程のモノであった。

 

 裏はある―――そう見て間違いはないだろうが、それでも開幕早々断言してみせたその報酬そのものは嘘ではないと見越す。

 

「呪いの解呪、ね。できる奴なんているのかよ。才能の使い方を完全に間違えた奴がマジ掛けしたやつだぞ? んなモン、同じ《魔女の眷属(ヘクセンブリード)》でも―――」

 

「可能だと、私はそう言ったのだ。

 何、君の言うとおり、どこにでもはみ出し者というのは存在するのでな」

 

 オズボーンのその言葉に、レイはピクリと片眉を上げた。

 

「……《鉄血の子供たち(アイアンブリード)》の中に魔女を囲ったのか?」

 

「正確には《子供たち》の一員ではないがな。だが、アレが《蒼の深淵》に抱く執念はそれなりだ。期待はしてもらって構わんよ」

 

「…………」

 

 帝都での騒乱の際にその目的を表した《帝国解放戦線》。そんな時期に通商会議に向かうオズボーンを、彼らが見逃すわけはないだろう。

 加えて懸念しているのは、以前シオンから齎された”《赤い星座》のクロスベル入り”という情報。彼らがあの地を訪れた理由が長期休暇の満喫でない事が確かな以上、雇い主が誰であるのかも大体想像はつく。

 嘗てオズボーンは、宰相就任直後に起こったとある猟兵団による武力脅迫事件の際、それに先んじて別の猟兵団を雇い入れ、返り討ちにしたという前歴がある。

 それを考えれば、この通商会議に際してどのような手を打ったのかというのも想像はつくし、何より―――()()()()()()()()()()()()()()()()も予想できる。

 

 

「―――は、下らねぇ。ご大層に大金はたいて猟兵団雇い入れたんなら、そいつらに任せればいいだろうが。俺がわざわざ出向く理由があるとは思えねぇな」

 

 だが、筋が通っているのと納得できるのかどうかは別問題だ。

 殺人という行為そのものに忌避感を抱いているわけではないが、遊撃士として活動している最中はずっと”人間の不殺”の誓いを守り抜いてきた。

 数年来封じてきた行為を此処にきて再び成し遂げようとすれば……揺り戻しで何が起きるのかは容易に想像できる。

 

「ほう? 魔女の呪いの解呪には興味がないか?」

 

「まさか。興味がないとか言い張れるほど馬鹿じゃねぇさ。

 ただ、コイツは俺の問題だ。俺があのドS魔女を締め上げて呪いを解かせればいいだけの話だ。アンタの手を借りるまでもないし、本当にその魔女とやらがどうにかできるかどうかは疑わしいからな」

 

 骨折り損になるのは御免だぜ、と言いながらも、実際のところはただ目の前の男にいいように扱われるという事そのものが我慢ならないだけでもあった。

 幼稚な癇癪だと分かってはいたが、交渉術で劣っているならば劣っているなりに矜持というものがある。わざわざ虎穴に入る必要がないのであれば、提案そのものをつっぱねるという選択肢は決して間違ってはいなかった。

 

 常識的に考えれば、その話自体はレイに分があった。

 彼が指摘した通り、この話そのものはレイが求めるであろう餌で釣り上げようとしただけで、仕事そのものはレイが行わなくても良いものだ。そう思ったからこそ強気に出ることができたのだが、そこではたと気が付く。

 

 この男が―――如何なる時にも用意周到であるはずのこの男が。

 

 ―――()()()()()()()で自分に仕事を持ちかけるなど、そんな事があるのだろうか?

 

 

 

「そうか、それは残念だ」

 

 そしてオズボーンは、踵を返してヘイムダルの全貌が見渡せるガラス窓の方へと体を向けると、僅かも落胆の意が籠っていない声でそう言った。

 

 

「ならば仕方ない。テロリスト共と直接顔を合わせた君に依頼をしようと思っていたのだが、断るというなら是非もない。

 ―――些か反感は買うだろうが、クレアを伴につけて”仕事”をこなして貰うとしよう」

 

 

 その言葉を、レイが聞き逃すはずもなかった。

 オズボーンの背後から首筋に突き付けられた白刃は、抑えきれない殺意を孕んだままに輝きを保つ。

 

「……成程、テメェ最初(ハナ)からそれをカードに俺を動かす腹積もりだったか」

 

 レイ自身の声も冷え切り、その右目にも殺気が宿る。

 

 クレア・リーヴェルトは軍人だ。例え恋人の視点からは好ましくはないとはいえ、他者の命を奪う行為そのものに否を唱えるわけにもいかない。それは恐らく、彼女自身も理解しているだろう。

 だが、虐殺紛いの汚れ仕事を行わせるというこの状況を見逃せるほど、レイは達観してはいなかった。少なくとも、自分が引き受ければ回避できるこの状況においては。

 

「テメェの腹心の部下ですら、所詮は”駒”でしかねぇってか」

 

「人聞きが悪いな。私とて、()()()に抱く情はある。子の”可能性”を拡げ、示唆するのも親の役目だとは思わんかね?」

 

「…………」

 

 それ以上、レイはオズボーンに対して声を荒げることはなかった。

 ある意味では分かっていた事だ。この男が、愛も情も理解して、その上で他人の全てを駒とみなしてゲーム盤を回しているのだという事は。

 そういう意味では、クレアというカード一枚で動かす事のできるレイの存在は、使いやすい手駒という事なのだろう。その事実は確かに悔しくはあったが、もしこの場でそれでもなおレイが依頼を断ろうものならば、オズボーンは比喩でも脅しでもなく本当にクレアを”使う”だろう。

 

「……いいだろう。仕事を受けてやる。

 ただし、報酬をもう一つ増やしてもらおう」

 

「ほぅ、いいだろう。言ってみたまえ」

 

「今後一切、《鉄血の子供たち(アイアンブリード)》クレア・リーヴェルトの存在を盾に俺を動かそうとするのは止めてもらおう」

 

 無論その言葉は、確約のない口約束である上に、誓約にしても曖昧なモノであった。

 しかしオズボーンは、首元に突きつけられている白刃をまるで存在しないように踵を返し、不敵な笑みを浮かべたままに口を開いた。

 

「フフ、まぁいいだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、今後彼女を話の枠に置く事はしないと誓おう」

 

「…………」

 

「信じられんかね? 私とて、蒙昧でない人間に対して同じ事をするつもりはない。

 故に、な。―――その懐のモノは必要ない」

 

 まんまと見抜かれていた事に内心で舌打ちをかましながら、レイは制服の内ポケットに潜ませていた小型の録音装置のスイッチを切る。

 言質を取るつもりで仕込んでいたものだったが、指摘された以上は意味がないだろう。

 

 しかし、愛しい恋人への影響が防げるならば、一時修羅に戻ることくらいは安いものだと、そう思ったのだ。

 ―――そう。この時はまだ、そう思っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「き、貴様……ッ‼」

 

 ジオフロントの広大な場所に反響するその声は、上階での直接襲撃に失敗した後にエレベーターを利用して地下に逃れた《帝国解放戦線》の一団、その先頭にいた人物。

 メットに隠れて外見だけでは人物の特定をすることはできなかったが、その声には聞き覚えがあった。

 

「その声は《G》……いや、ミヒャエル・ギデオンだったか。此処に来た幹部がお前で僥倖だよ。他の幹部が来たら……周りも巻き込んで少し暴れる事になってただろうからな」

 

 レイはそう言うや否や、つむじ風を残して【瞬刻】を発動させると、ギデオンの懐に潜り込み、軽装鎧に包まれた腹部に拳を突き入れた。

 

「ガ……はっ⁉」

 

 直後、ギデオンが感じたのは体内で内臓が攪拌されるかのような感覚。内臓だけではなく、その一撃だけで肋骨を何本かへし折り、構成細胞を容赦なく圧殺していく。

 俗に『寸剄』と呼ばれているその技術は、『浸透剄』と共に東方武術に伝わる技であり、練られた功夫(クンフー)より放たれる衝撃を外部ではなく内部に貫き通すそれは、練度の高い者が本気で放てば人体を取り返しのつかないレベルにまで粉砕することも可能である。

 だがレイは、それを加減して放った。元より拳術を本腰で習得していないという事もあってその道の”達人級”が放ったモノと較べれば幾分も威力が落ちるのだが、万が一にもここで殺さないために更に手心を加えるハメになったのだ。 

 それでも、数日はまともに歩けもしないであろうダメージを負ったことは想像に容易いが。

 

 

「ど、同志《G》⁉ ―――ガッ……」

 

「くそっ、よくも―――グハッ……」

 

 倒れ込んだギデオンの眼前に迫ったレイに銃口を向けたのはその後ろにいた構成員の二人だったが、銃の引き金を引く前に彼らの口から最期の呼吸が漏れ出した。

 

「あはっ♪ 遅いよぉ」

 

「つまらないなぁ。せめて一太刀くらいは躱してほしかったけれど……まぁ、高望みか」

 

 二人の胸を、二振りの武器が見事に貫く。

 駆動音を響かせて高速回転するチェーンソーが、飾りなど一切ない無骨な大剣が、僅かの躊躇いもなく正確に彼らの心臓を突き破ったのだ。

 その状態で、シャーリィとイグナの兄妹は笑う、嗤う。

 戦場で数多の命を刈り取ってきた彼らにしてみれば、人一人の命を奪うという行為は煩わしい蚊を払い殺すのとそう変わりはしない。

 絶命し、斃れ込む彼らの身体から武器を引き抜いた彼らの顔には返り血が飛んでいたが、その程度は彼らの戦化粧である。

 

 その狂気に塗れた眼光に射竦められてテロリストが数歩下がるのと同時に、意識を失ったギデオンを肩に担ぐレイを見て、シグムントは声をかける。

 

「雑魚の始末は任せろ。お前は自分の”仕事”を果たすんだな」

 

「好きにしろ。……なるべく一撃で殺してやれ」

 

「クク、善処しよう」

 

 それ以降は口を開かなかったレイは、そのままジオフロントの闇に隠れるように姿を消した。

 

 残されたのは、大陸最精鋭の猟兵団を正面から相手どるには些か以上に練度が劣る構成員たち。

 その中の一人が元の辿ってきたルートを戻ろうと踵を返した瞬間。冷酷な銃声が響く。

 頭部と首筋を撃ち抜かれ、糸の切れた傀儡人形のように斃れる音が鳴るのと同時に、無慈悲な殺戮が開始される。

 

 精神的に錯乱した兵士が、揺るがない統率のとれた兵士に勝る道理はない。少なくとも、この場では。

 殺人を本当の意味で厭わない者達が銃声と共に放つ弾丸は、過たず死神の鎌となって命を奪っていく。数えるのも不可能なほどの弾丸を撃ち込まれ、死の舞踏を踊る構成員の横では、シャーリィの武装《テスタ・ロッサ》より吹き出した火炎放射の豪炎が、断末魔の悲鳴を挙げる事すら許さずに人肉をヴェリー・ウェルダンに焼き上げる。

 興が乗ってきたイグナが命乞いに逡巡もせず大剣で叩き潰す横では、兄妹とは対照的に眉を顰めた本来”戦場に向かう者”として正しい表情を保ったままのレグルスが、両手に装備した東方由来の武装『護手双鉤』を振るい、屍山血河を築いていく。

 

 見るも無残な鏖殺の悲劇。まともな価値観と死生観を持つ人間が見れば、その行いを非道だと謗るだろう。

 一人や二人殺すのではない。両の手で数えることもできない数の人間を、まるで作業であるかのように殺していく様は、控えめに言っても異常である。

 しかし猟兵(彼ら)は、そのような謗りなど聞く耳持たない。

 『(ミラ)を用い、自分たちを雇った者が下した命令』―――ただその事実のみがあれば、彼らは一瞬の躊躇いすらもなく生者に引き金を引く。

 そこに善悪の概念は存在しない。例えば此処、この場において、《赤い星座》の面々は帝国政府からの依頼に基づいて、『《帝国解放戦線》の構成員を皆殺しにする』為に在るのだ。

 

 真紅の防護鎧を着込んだ死神の一団が文字通り”処刑”を終えるまでにかかった時間は10分程度。

 駐車場予定地に転がっていたのは、思わず目を背けたくなるほどに徹底的に”破壊”された、元がヒトであった物言わぬ肉塊。

 人の死を嘲る事を嫌うレグルスは人知れず目を伏せて黙祷を捧げていたが、殺戮の最前線に立っていたシャーリィとイグナは違う。

 

「なぁーんだ。もう終わり? つまんないのー」

 

「そう? オレはテロリスト風情にしてはもった方だと思うけどね」

 

 鬼の子として生を受け、嵐のごとき殺戮者として戦場を駆け巡ったこの兄妹にしてみれば、眼前の惨劇も”つまらない仕事の結果”でしかない。共に鮮血に塗れた大剣と《テスタ・ロッサ》を担ぎ上げ、不服顔のまま処刑現場を見渡す。

 

 

「っ―――テメェらッ‼」

 

 そんな時に踏み込んできたのは、彼ら兄妹に縁が深い男と、その仲間たち。

 男―――ランディは因縁の深い己の従兄弟達を睨み付け、その後に踏み込んできた特務支援課の面々は、一方的な虐殺の現場を目にし、怯えと悲哀の入り混じった視線を向けた。

 

「あ、やっほー。ランディ兄♪」

 

「何だ、遅かったじゃないか兄貴。道草でも食ってたのかい?」

 

 しかし兄妹は、鬼の形相で睨み付ける兄貴分に対して、まるで世間話でもするような口調で話しかける。

 

「テメェら……何してやがる‼」

 

「それはこちらの台詞だ、ランドルフ」

 

 言葉を返したのは、兄妹の父であるシグムント。獰猛な獅子を連想させるようなその双眸は今、出来の悪い息子を見て呆れる父親のような雰囲気も醸し出していた。

 

「俺達が何者か。よもやそれを忘れるほどに腑抜けたとは言わせんぞ。この程度(....)の所業など、俺達にとっては日常茶飯事だろうが」

 

「っ……」

 

「放蕩している内に感性が鈍ったか? ならば思い出せ。硝煙が漂い、血飛沫に塗れ、憎悪の念が跋扈する戦場―――それが俺達、修羅が闊歩するに相応しい場所だということを」

 

 声は重さを孕んで正義の体現者らに突きつけられる。

 

 奇しくも彼らは、此処で知ることになる。善悪の概念そのものが存在しない殺戮の世界。―――それこそが本物の”戦場”であり、その中で自分たちがいかにちっぽけで、無力な存在であるかという無情な現実を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――その男は、所謂優秀な学問の徒であった。

 

 若かりし頃は、ただ学問を修めるという行為が好きなだけの善良な青年だった。両親を幼くして事故で亡くし、孤児院で育った彼にとって、学を修めてより良い職に就く事こそが恩返しでもあったし、何より生真面目な自分の性に合っていたともいえる。

 

 そうして月日が流れ、次代の若者を育てるために教職の道を志すことを決めた時、彼は一人の女性と出会った。

 最初は母校で同じ選択授業を履修していたというだけの間柄だったのだが、彼は次第に彼女の、芯が強く心優しい性格に惹かれていき、学問だけに費やして来たために拙いにも程があった言葉で交際を申し込んだ。

 女性は慌てふためいていた彼の姿に思わず吹き出し、しかし彼女自身も彼のことを憎からず想っていたのか、その不器用な告白を受け入れた。

 

 その後は男もより精力的に物事に打ち込むようになり、そして若くして帝國学術院で教鞭を執るまでになる。

 その成果を、周囲はこぞって称賛したが、何より喜んでくれたのは交際中の彼女。そして彼はその勢いのままに―――やはり何というか不器用な体で―――彼女にプロポーズの言葉をかけ、その余りにも直情的すぎる言葉に涙を浮かべながらも、彼女はそれを承諾した。

 

 

 満たされた人生。満たされた感情。

 彼がそのまま何事もなく日々を送ることができたのならば、恐らくは幸福に満ちたまま人生を終えることができただろう。子や孫に囲まれながら、病院のベッドの上で安らかに息を引き取ることができただろう。

 だが、時代の流れというのは非情に彼を破滅という名の運命の濁流の中に放り込む。

 

 当時エレボニアで頭角を現していたのは、リベールとの《百日戦役》後に宰相の地位に就き、厳然たる改革を推し進めていた男、ギリアス・オズボーン。

 従来の依存しきった貴族政治から脱却し、身分・家柄を問わない実力主義の政治を目指していたオズボーンの政策を、当初彼は高く評価し、支持していた。

 妻ともども平民の生まれであった彼は、学生時代から権威に胡坐を掻き、親の威を借りて威張り散らすことしか能のない無能な貴族の子女を目の当たりにしていた。たかだか積み上げた家柄の年月だけでそういった奴腹をのさばらせるという事に人並みに憤慨の感情を抱いていたし、だからこそ数多の謗りや中傷をものともせず堂々と君臨するオズボーンの姿が眩しく見えたのは当然の事だったと言える。

 

 ―――だが、そういった価値観は呆気なく覆された。

 

 奇しくも彼は政治学を担当しており、准教授という地位に就いていた為もあって、移りゆく帝国の在り方をその目で見るために度々実地に赴く時があった。

 オズボーンの政策下で政治的併合がなされ、経済特区となった元自治州地域。そして、大規模な鉄道路線の敷設の為に度重なる交渉の末に土地を手放す事になってしまった地主たち。

 彼とて、この頃は既に現実を見据えていた大人だった。劇的な変革の裏では犠牲になる人物が少なからず出てきてしまうという事は理解していたし、そうした人たちに対して同情もしていたが、心のどこかでは達観していたことも覚えている。

 仕方がない。エレボニアという大国が腐敗から脱却するためには、どこかしら漏れ出てしまう者達もいる。しかしそれは必要最低限の犠牲なのだと、同情しながらも弁えていた。―――筈だった。

 

 

 ―――泣いていた。怒っていた。祖国を、代々受け継いだ土地を奪われて憔悴し、自ら死を選ぶ者達が数えきれないほどいた。

 政治的な無血併合? 聞こえはいいがそんなもの、帝国政府が経済的に脆弱な自治州に対して謀策を張り巡らし、追い込むところまで追い込んでから甘い蜜をチラつかせて政府が飛びつくように仕向けただけの話。 

 鉄道路線の敷設の影響で土地を追われた者たちの結果は、彼が思っていたそれよりも悲惨だった。そうした者たちの嘆きを、怒りを、帝国宰相たるあの人物は、一度でも省みた事はあったのだろうか。

 

 無論、改革は必要で、その上で出てくる犠牲の全てを保証しろなどと言うつもりはなかった。

 しかし、人生を掻き乱された者たちはこぞって言ったのだ。―――「あの男は、私たちから全てを奪った。それだけだ」と。

 

 

 ―――一度芽を出した疑心の芽というものは、水をやらずとも勝手に育ってしまうのが人間の心理である。

 

 彼は調べた。准教授として教鞭を執る傍ら、オズボーンが行ってきた政策の、その裏の全てを。

 学生時代から築いてきたコネも使い、探せるものは全て探した。それが、奪われた者たちの嘆きを聞いた自分の使命であると言い聞かせて。

 そんな行動を、彼の妻は諌めるようなことはなかった。あなたがそう思ったのなら、好きなようにやって、と。その後押しがあったからこそ、彼はそれに打ち込むことができたとも言えた。

 

 ……そして彼は知ってしまう。

 ギリアス・オズボーンが犯した、最初にして最大の罪を。

 

「なん……だ。これは……」

 

 目を通していたのは、とある書類のコピー。

 《百日戦役》の終結の折、リベール王国と交わされた和平交渉。かの戦役の発端が帝国南部に位置するスワンチカ伯爵家領土のハーメル村で起きた()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であったという噂くらいは元より存じていたが、その虐殺事件を引き起こしたのが、事もあろうに当時帝国内で燻っていた主戦派の一派が引き起こした、自作自演の所業であった事が記されていた。

 これが発覚した後の帝国政府は、事が公になることを恐れてリベールとの和平交渉に奔走した。それが多くの犠牲を出した《百日戦役》の顛末であったという事に対しても彼は幻滅したが、本当に閉口したのはその以降の事だった。

 

 大前提として《百日戦役》当時、オズボーンはまだ帝国正規軍の軍人であった。しかし戦役の終結と共に退役し、政治の道に足を踏み入れることになる。

 そうしてオズボーンは、瞬く間に人心を掌握した。戦役当時に主戦派の狼藉を見逃していたとして前宰相を反逆罪の罪に掛け、処刑。同時に領内での虐殺事件を諦観していた罪を問われ、スワンチカ伯爵家の当主も処刑された。

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事により、自然災害によって消滅した事に改竄され、虐殺事件そのものを抹消したのだ。奪われた人命と、決して消えない悲劇を”なかった事”にして、更に軍拡を推し進めることになる。

 

 

 大国の政府が瑕疵をもみ消すなどという事はよくある事なのだが、しかしこの真実は、彼の怒りに火をつけた。

 それからの彼の行動には、政府への批判の色が強く出るようになった。

 教義内容にもその思想が差し込まれるようになり、教授連から厳重注意を受けたことなど一度や二度ではない。それでも彼は、正義感に引きずられるようにしてその思想を加速させていった。

 

 ―――その過程で、彼が偶然も重なって国家機密レベルの書類のコピーを閲覧してしまったという事実が政府に漏れてしまった事が、運命を決めることになってしまった。

 

 

 

 国家反逆罪―――それが彼に対して適応され、出張で帝都を離れていた隙に帝都憲兵隊が自宅に押し入り、関係者であるとして彼の妻も拘束された。

 無論彼は釈明と妻の保釈の為に帝都に戻ろうとしたが、その行動に待ったをかけたのが彼の意志に少なからず賛同していた、政府勤めの学生時代の友人だった。

 

『ギリアス・オズボーン本人がお前に目を付けた』

 

『あの男が動けば、もう無理だ。反逆罪の犯人は言葉にするのも憚られる尋問に掛けられる。”事故死”に偽造される事など当たり前だ』

 

『残念だが……お前の妻はもう―――』

 

 時を同じくして、彼は帝國学術院を罷免。帝国各地を逃亡しながら、彼は失意の中で思考の海に潜ることが多くなった。

 自分がしていた事は、本当に正しかったのか? 正義感に踊らされて首を突っ込み、変えられた事など何一つなく、挙句の果てにはたった一人愛した女性すらも巻き込んで失ってしまった。

 自業自得だと言えば、それまでなのだろう。言葉を荒げて批判を唱えるには彼はあまりにも非力すぎて、分を弁えない領域に足を踏み入れた結果、本当に守るべきものまで失ってしまったのだ。そこに何の意味があったというのか。

 せめてもの償いに自ら命を絶とうともしたが、そこで彼は否と思い留まった。

 

 最愛の人物を失ってまで提唱したギリアス・オズボーンへの批判。ここで自ら命を絶てば、それこそあの男の思う壺だろう。自分もまた、歴史の中から弾かれ、その存在はすぐに稀薄するに違いない。

 それは所謂、無駄死にだ。己の半生に、死んだ妻への贖罪と価値を見出すのであれば、残りの生涯全てを費やしてあの男に一矢報いなければならない。弱者ならば弱者なりに、燃やせる限りの執念を尽くして復讐の牙を研ぎ澄ませなくてはならない。

 

 そして彼は、幽鬼となった。同じくオズボーンに対して復讐の念を抱く者達と共に行動するようになり、水面下に潜って暗躍するようになった。

 非道に手を染めた。あれほど嫌った必要最低限の犠牲も視野に入れた。参謀役として、出来る限りの手は全て打ってきた。

 故に彼は、いつこの身が果てようとも文句などなかった。切り札の一つを失った今、囮になり役目を果たし切ることこそが、地獄に堕ちる前にすべき唯一の事だと、そう覚悟していた。

 

 そして、今彼の前には一人の少年が立っている。

 《帝国解放戦線》が活動するにあたって《氷の乙女(アイスメイデン)》ら《鉄血の子供たち(アイアンブリード)》と同等―――或いはそれ以上に危険人物だと目された人物。

 嘗ては《結社》の”武闘派”《執行者》であり、その後遊撃士となった後もA級遊撃士に匹敵する実力を示していた鬼才。《結社》の手を借りて因縁の相手を用意してまで早々に潰そうとしていたその人物は、しかし五体満足のままそこにいた。

 

 その事実を《G》―――ミヒャエル・ギデオンは自分でも驚くほどに達観した感情のままに見る事ができていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 レイがオズボーンから承った”仕事”の内容は、『通商会議を襲撃した《帝国解放戦線》の統率者を捕らえ、尋問して情報を吐かせた後に始末しろ』というモノであった。

 所謂()()()()汚れ仕事だったが、帝都で戦線の周到さと意志の強さを目の当たりにし、または聞いたレイは、その命令のうちの一つを意図的に破棄した。

 

「先に聞いておくが、組織の情報を話す気はあるか」

 

「それに私が頷くとでも?」

 

「……まぁ、そうだろうな」

 

 その時点でレイは、尋問の過程を飛ばす事を決めた。

 恐らくこの男は、どれほど痛めつけられても一切口を割らないだろう。たとえ四肢を斬り落とされても彼は絶命のその瞬間まで同志を売ることはないだろうと、そう確信していた。

 それは単に、オズボーンに対しての意趣返し、というだけの事ではない。《結社》時代、そして遊撃士時代に数多の人間を見てきた彼は、ギデオンの心の中に潜む確固たる信念を見抜いたのだ。

 

 無論、”仕事”を十全にこなさなかったことに関しては後々釈明を求められるだろうが、殺人に関わる際に対象をいたぶる事を嫌うレイにとっては、実入りを期待できないのに徒に痛めつける行為は信念に悖る。これは、《結社》時代からの考えでもあった。

 すると、ギデオンは両腕両足を縛られたままに小さい笑い声を漏らす。

 

「クク、まさか君が鉄血の走狗に成り下がるとはな。その程度の信念で”正義”の体現者である遊撃士を名乗っていたとは」

 

「?……あぁ、何か勘違いしてるみたいだな」

 

 よりにもよって自分に”その言葉”を当てはめようとするとはな、と。レイは思わず失笑しかけてしまう。

 

「俺は自分の行為を”正義”に基づいてるとは毛ほども思ってねぇよ。―――お前らがそう思っているのと同じようにな」

 

「な……⁉」

 

 何を―――と口を開こうとしたところで、レイの鋭い右目の眼光に制される。

 

「思ってるのか? お前らは。ギリアス・オズボーンを斃すという目的の下でテロ行為を正当化しているお前らが?

 心底クズな連中なら話は別だろうが、少なくともお前らは()()()()()()()と分かった上でやらかしてると踏んだんだがな」

 

 その指摘に、思わずギデオンは口を噤んだ。

 ”正義”という言葉は言いようによっては利用がしやすいものだ。自分たちの行動を正当化させる為にその言葉を利用することは多々あるし、実際ギデオンもメンバーの思想統制の為に幾度もその手を使ってきた。

 しかし彼自身は、己の行動を穢れなき正義などと思ったことはない。それは亡き妻に対する贖罪で、その喪失に価値を見出すためで、当初抱いていた正義感とは些か以上に乖離し、初志とは離れてしまっている。

 それでもオズボーンを斃すという目的そのものは忘れておらず、その為ならば如何なる犠牲も省みない冷徹さを貫く覚悟はあったが、それを正しいと認識できるほどには外道には成り下がれなかった。

 

 帝国の平和を願っているはずなのに、国民を危機に晒すという矛盾。それに密かに心を悩ませた回数など指折りで足りるものでもない。

 ただ、そうであっても巨悪を殺しきるには―――こちらも”悪”になるしかなかったのだ。

 鉄と血を信条とするあの男に挑むには、純粋な善では足りない。悪を殺すために悪になる。それこそが目的を成す為の根幹と信じ、彼はそれを貫いてきたのだ。

 

「”善”と”悪”の単純な二元論でしか物事が語れねぇ奴らは、俺にしてみれば世間を知らなさすぎる。世界はそんなに甘くない。

 どちらかに100%傾いてる奴なんか気持ち悪いだけだ。そんなモノは、ヒトですらない」

 

 故にレイは、そんなヒトですらないモノを斬ることに躊躇いはない。

 それが進み、正の中に悪が混じった者、悪の中に正が混じった者を殺すようになれば、その人物もまた己の中に闇を抱えるようになる。

 そうして闇を濃くし続けた結果に出来上がったのが、レイ・クレイドルという人間だ。そして今彼は、その状態が最も顕著に表れていた意識に切り替えていた。

 即ち―――《執行者》時代の彼に。

 

「私を、殺しに来たのだろう?」

 

「あぁ」

 

 にべもなく、レイは言い放ってみせる。

 ギデオンにも、オズボーンの命を狙うだけの理由があるのだろう。そうでなくては、ここまで執念深く計画を練りはしまい。

 ()()()()()()()()()()()()()()()。殺す相手に対して事情の説明を求めるのは本来ご法度だ。込み入った事情に耳を傾ければ、それだけ殺意が薄れていく。

 普段のレイならばいざ知らず、今の彼は限りなく《執行者》の時分に戻っている。

 殺す事に理由はない。殺される側の理由にも興味はない。流石に暗殺者の家系に身を置いていたシャロンやアスラ、根本的な精神から作り変えられていた頃のヨシュアなどに比べればその在り方に隙があるのは確かだが、それでも最低限の”始末屋”としての心構えくらいは心得ている。

 ―――心得ている、筈だった。

 

「恨むなら恨め。どう思おうがお前の勝手で、その恨みを俺に背負わせるのも好きにしろ。

 だがお前は殺す。これは俺の下した決定だ」

 

「大した不遜ぶりだ。私しかここにいないと知った時点で、帝国で何が起こっているか知らないわけでもあるまいに」

 

「…………」

 

 勿論それは知っていた。

 つい先ほど、以前クレアに預けた呪力を装填した宝石の反応を介して危機を察知したレイは、迷わずシオンを送り出した。

 そこから察するに、ガレリア要塞に向かったのであろうリィン達の下にも手勢の幾らかは差し向けられたのだろう。あの要塞を掌握する事ができれば、格納された『列車砲』を使ってクロスベル市ごと《鉄血宰相》を葬り去れるという腹積もりなのだろう。

 たった一人の標的を葬るために大量殺戮も厭わないその覚悟は認めなくもないが、だがやはり面白いものではない。

 

 そこでレイは、気を失っている間にギデオンのポケットの中から拝借した小型通信機器の電源を入れた。

 その型番などは見たこともない代物だったが、左眼が使えるレイにとっては使用方法など全て筒抜けである。無論、通信コードがいくら暗号化されようともそんなものは意味をなさない。

 数回のコール音の後、通話口がギデオンの口に向けられたまま通話先が反応した。

 

『《G》? 連絡して来たってことは作戦は成功したの⁉』

 

「《S》……か」

 

 ガレリア要塞に向かった同志の声に、しかしギデオンは生気の籠った声を返す事は出来なかった。

 

「……すまない。作戦は失敗した。私も……程なくして死ぬだろうな」

 

 そこで彼は、レイの顔を一瞥した。

 趣味の悪い表情を浮かべているかと思えば、僅かに眉を潜めたその表情のままギデオンと視線を合わせている。

 

『ッ……いったい誰に―――』

 

「俺だよ、テロリスト」

 

 そこでレイが、口を開いて通信に割って入った。

 

『貴方……《天剣》ね』

 

「直接顔を合わせたことはない筈だが、分かるモンか。まぁいい。

 聞いた通りだ。通商会議に乗り込んできやがったこの男を、殺す。お前たちが乗り込んだ場所の人間みたいに甘くないぞ、俺は」

 

『……わざわざそれを聞かせてくれたという事は、私たちは貴方を恨めばいいのかしら?』

 

「そうしたければそうしろ。俺も、俺の女と仲間たちに手を出したお前らを許す気は毛頭ない」

 

 レイが通信を繋いだのは、せめて最期に仲間の声を聴かせてあげたい―――などという殊勝な理由ではない。

 つまるところは、宣戦布告だ。仲間であり、友であるリィン達と敵対した事。そして何より、彼が愛した女性を害したという事そのものが逆鱗に触れたのだ。

 彼が本気で怒りを見せるのは身内のいささかいが他者に迷惑を及ぼした時―――だけの筈だった。

 

 だが、親愛と恋慕を募らせた相手が害されて怒りを見せないほど、彼は達観していない。ここに来てレイは、《執行者》としての顔ではなく、士官学院生としての顔を一瞬だけ垣間見せた。

 しかしそれも、ただ”一瞬”の話。

 

 レイは通信機を手放すと、地面に落としてそのまま踏み潰した。

 宣戦布告が果たせた以上、それ以上会話を続ける義理もない。そうした考えからの行動だったのだが、ふとレイは、己の行動の矛盾に気が付く。

 本当に宣戦布告をするためだけだったならば、ギデオンを殺した後でも良かったのだ。そうでなくとも、ギデオンに会話をさせる必要などなかった。

 何故、と思いながら無言のまま愛刀を突きつけると、ギデオンは先程までの不貞不貞しいそれとは異なる、どこか同情するような表情を見せた。

 

「―――とても、これから人殺しをする人間の目には見えないな」

 

 そう言われた自分がどういった表情を浮かべていたのかは、分からなかった。

 否、()()()()()()()()()というのが本音だったのかもしれなかったが。

 

「今まで自分が築き上げた全てが崩れ落ちる事に対する恐怖―――はは、まるで、嘗ての私のようじゃあないか」

 

「…………」

 

「私よりも遥かに殺しに慣れた君がそうした表情を浮かべるとはな。……クク、安寧というのも、時には害になるらしい」

 

「…………」

 

「いいだろう。望むなら私の恨みを全て持って行け。私の無念、贖罪、後悔……或いは私は、君に近しい存在であったのかもしれないな」

 

 そんなことを聞くつもりはなかった。殺す相手の事情など聞くつもりはなかった。

 だが剣鋩は、その心臓を貫く寸前で止まったまま動かない。―――だがその呪縛を、心を冷え切らせることで振り解いた。

 

 

「あぁ、確かに―――抱いた後悔は同じだったかもしれないな」

 

 

 ただその言葉を絞り出すように吐き出した後、白刃は過つことなく心臓の中心を突き破った。

 瞬間、刀身から流れ出した呪力の波動が肉体の生命活動を一瞬で終わらせる。人体の”核”ともいえる心臓に直接干渉した場合にしか使えない技ではあるが、これは死に至るまでに苦しませない武人としての情けともいえる技だった。

 僅かも、それこそ痛みを感じるまでもなく逝く事ができたギデオンは、苦悶ではなく満足げな表情を浮かべたまま斃れる。

 それを、()()()()()()()()()()()眺めていたレイは、その数秒後にはたと正気に戻る。―――それと同時に、形容し難い震えが全身を襲った。

 

「ぁ……」

 

 人を殺したこと、それ自体に恐怖を抱いたわけではない。その程度の覚悟がなければ、そもそも剣を取ったりもしないだろう。

 彼が恐れたのは、ギデオンを殺した瞬間、()()()()()()()()()()()()

 

「あ……ぁ……」

 

 仲間と共に学院で築いた思い出も、温かい心も、恋人への燃え上がる想いも―――全てが一瞬消えてしまった。

 それが怖かった。恐ろしかった。慣れていたはずの行為が、自分から思い出の全てを奪ってしまった事を。

 

「あ―――」

 

 右眼から滴り落ちる涙を止められない。何故だ、何故だと問答しても、いくら拭っても、それは自分の内から溢れ出てくる。

 今の今まで抑え込んでいたその弱さを守ってきた壁が、ここに来て致命的な綻びを見せた。

 

 呆けたような表情のまま、レイは膝をついてただ声を挙げずに涙を流し続ける。

 そんな彼を抱きしめてくれる恋人は今はいない。繋ぎとめてくれる存在はいない。

 

「俺は―――弱い、なぁ」

 

 唯一漏れ出たその声も、ジオフロントの闇に掻き消され帰ってくることは、なかった。

 

 

 

 

 

 

 






誰か今の、今の彼を助けてあげて下さい。

このまま気付いてあげなければ、彼は本当に壊れてしまいます。
それはもう、致命的なまでに滅茶苦茶に。

それができるのは―――想い人しかいないのです。





―――*―――*―――


 PCが派手に壊れて一週間以上、ようやく最新話を出す事が出来ました。
 今回で『英雄伝説 閃の軌跡』は90話を迎えました。皆様のご愛読、まことにありがとうございます。

 このまま連続投稿と行きたいのですが、3月から就活が本格的に始まるため、更新の頻度は落ちるかと思われます。それでもエタる事は絶対にしたくないので、待っていて頂ければ幸いです。

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