「努力を自分自身で誇るのは、愚か者です。
しかし、他人が努力を称えるのは、悪いことではありません」
by 吉井玲(バカとテストと召喚獣)
「え? ”達人級”と”準達人級”の武人の違いが知りたいって……何でまた」
以前リィンは、レイにそうした疑問を投げかけた事があった。
きっかけが何だったのかは覚えていないが、寮の談話スペースで、向かい合いながらシャロン特製の菓子を摘まみながら、何の気なしで問いかけてみたのだ。
元となったのは、レイがよく強さを測る際に口に出している単語だ。”準達人級”や、”達人級”という言葉。未熟な身であるリィン達からすればその差異がいまいち理解できずにいたのだが、レイは口に含んだ菓子を嚥下し、ジュースを飲み干してからそれに答えた。
「つってもなぁ。これは昔俺が居た所での慣習みたいなモンだったんだが……まぁ、今じゃ結構使ってる奴もいるし、知ってて損はないか」
曰く、それは武人の”等級”を示すものであるという。
大きく分けて四段階。”平級”、”上級”、”準達人級”、”達人級”。
”平級”―――即ち、武を志し、その道を歩み始めたばかりの武人を指す言葉。実力のみならず、その心が一般人とそう変わらない人間はそう称される。
”上級”―――本格的に武人の志を持ち、鍛練に励む者を括って指す言葉。この等級の上位ともなれば、対人・対魔獣戦のどちらでもこなせる柔軟な判断力と実力を身に着け、武術の界隈から見れば”一人前”の域に在るとされている。 一般的に、凡夫の才を持つ者は、生涯を賭けて辿り着けるのはこの領域までである。
”準達人級”―――この等級の上位に存在する武人は、”上級”以下の武人とは一線を画する存在となる。
己が扱う得物を最低限まで絞り込み、それを扱う武芸をとことんまで極める事で到達できる等級であり、上位の武人ともなれば”武器の優劣性”があまり関係がなくなるという、通常の理屈からは外れかかった世界を見せる事がままある。
例えば、剣と槍で戦っている者がいるとする。これが”上級”以下の者同士の決闘であれば、間合いが長い槍を扱うものの方が基本的に有利に戦闘を行う事が出来るが、この等級に足を踏み入れた者は違う。
勝敗がつくのは、個々の練度の差。槍使いの方が上手ならば間合いを利用して剣撃の範囲外から仕留める事が出来るし、剣士の方が上手ならば、槍の死角である超近接戦に持ち込んで仕留める事が出来る。
要は、武器の良し悪しで決着が付くほど単純な世界ではなくなるのである。無論、その上で武装を考慮するのは大事な事だが、この等級の最上位まで登り詰めた者は、暗器使いなどの例外を除けば同一カテゴリーの武器の扱いを極めた者であり、ともすれば彼らこそが”達人”と呼ばれてもおかしくはないのだ。
だが、それは違う。”常識”の枠内に収まっている内は、この等級より先には決して先には進めないのだ。
”達人級”―――一言で言い表すのならば”非常識の巣窟”。とはいえ、中位以上の存在でなければ、そこまで論理外の戦闘は行わない。……あくまで”そこまで”だが。
”準達人級”との差異を挙げるとしたら、それは武人としての限界点を一度超えているという事だろう。武芸を修め、常人が辿り着ける頂点まで辿り着き―――それでもなお高みを目指し、道なき道を行く求道者。ただ貪欲に強さを求め、ひたすら技と心を研磨し、果ての見えない”武”の深奥へと至る資格を持った者達である。
例えその武芸の原点が師から授けられたものであったとしても、それを己の武の礎として呑み込み、昇華し、”作り変える”。
故に常識に囚われない。普通の武人ならばまず目を疑うような芸当も、さも当たり前であるかのようにやってのける。
そして、そんな条理の外にはみ出した者同士が本気で戦えば、その光景はまさに伝承で語られる領域のそれと変わらない。
勝敗を分けるのは己の武技を信じ貫く心と、磨き鍛えた武錬。―――言葉にすれば然程変わりはしないが、それが如何に超人的な領域で行われているかどうかなど、一度その目で見れば否応無しに理解できてしまう。
つまり―――
「戦う時に常識が通じるか否か―――結局はそこなんだよな」
前述の通り、その一言に集約する。
確かに目の前の少年は非常識な強さを持つ。それが
だから、その流れで質問を重ねた。「もし”達人級”の武人と戦う事があればどうすればいいのか」と。
「そうさなぁ。状況とかその他面倒臭い事は一切抜きで考えるなら、まずは心を強く持て。「あ、コレ負けたわ」なんて一瞬でも思った時点で本当に負ける。
後はまぁ、技量の問題だよ。
それは、今まで何度もそうした死闘を繰り広げて来たのであろう彼が語る、あまりにも真に迫った言葉だった。
決着が着くまで打ち合う―――それは当たり前の事だと、単純に一瞬思ってしまうのだが、
世間話の一環で聞いている筈なのに、背筋にうすら寒いものが走って止まらない。根本的に違う世界であるという事を、無理矢理理解させられる。
そう、委縮しているリィンに対して、レイは更に口を開く。
その場では蛇足でしかなく、永遠に関わる事のない世界であると高を括っていたのだが、それでも内容だけはよく覚えている。
その言葉が何を意味するか、それを半分も理解する事もないままに。
―――*―――*―――
宵闇の中に、一つ佇む蔭がある。
エベル湖の対岸、畔から距離にして十数セルジュといった所に聳え立っているそれこそは、このレグラムに残る伝説の象徴。
≪ローエングリン城≫―――嘗て<サンドロット伯爵家>が拠としていた巨城であり、≪槍の聖女≫の英雄譚は、あの場所から始まったと言っても過言ではない。
まさに、”聖域”と呼ぶにも相応しい場所。本来であれば相応しい静謐で清澄な
「…………」
末席であるにしろ、≪
”何かがおかしい”と、理屈ではなく本能が訴えている。太古の昔から”魔”を統べる術を識る者の末裔としてこの世に生を受けた宿命か、その違和感を知覚する力は、眠気に誘われようとしていた彼女を無理に揺すり起こし、子爵邸のラウンジまで連れて来た。
そして、そうした異常が発見された場所は、例外なく”澱んだモノ”が出没する。一番分かりやすい形として魔獣の出没なのだが、それとは次元が違う”何か”が起こってしまう場合すらある。
何せアレは、250年以上前に建てられた城だ。科学技術が日進月歩で進み、神秘が薄れつつある現代と違い、
だが必然、2世紀以上も経てば霊脈の流れは変動する。≪槍の聖女≫が
「ふぅ」
息を吐く。
例えそうだとしても、積極的に関わるわけにはいかないというのも、また魔女の宿命だ。
隠遁を常とし、時代の歪みを見守り、導くだけの存在。それが終われば―――その所業は霧の中へと消え去ってしまう。
その生き方が普通だと思っていた。魔女の血筋に生まれ、力を授けられたからには、俗世に染まって生きていく事など出来ないのだと。
だからこそ、その枠に収まらず、里を抜けだした者達の生き方に、憧れたのかもしれない。
そう―――姉と共に道化のような笑みを遺して消えていった、あの青年のような。
「……また面倒なこと考えてる顔ね、エマ」
星空の明かりをすり抜けるようにして近づいて来た黒い影に、しかしエマは別段驚いた反応は見せなかった。
「悩むのは別に構わないし、アンタくらいの年頃の女ならそうあってしかるべしなんでしょうけれど、答えが出せないんだったら、やめておきなさい」
「別にいいでしょう? まだそれくらいの余裕はあるの。―――それより、気付かれてしまうわよ?」
「大丈夫よ。≪光の剣匠≫はいないし、≪天剣≫もいないなら充分に誤魔化せるわ」
「もう……」
何に対しても委縮しようとしない口ぶりの使い魔、セリーヌに対して、主であるエマは困ったような表情を浮かべる。
夕刻に報告をするためギルドを訪れた際、トヴァルがラウラに渡したのは、アルゼイド家当主であるヴィクターからの手紙だった。
深い内容までは聞かなかったが、この特別実習の機会に際して領地に戻る事が叶わなかったという事に対しての謝罪と激励の言葉が綴られていたらしい。久方ぶりの帰郷だというのに父に会う事ができなかったラウラは「まぁ、父上が戻られぬのはいつもの事だ。私は気にしていない」と気丈な言葉をリィン達に伝えていたが、その横顔が、どことなく悲しそうだったのは覚えている。
そんな彼女の心を晴らそうと、夕食時は家令のクラウスも交えて和やかなムードで懇談した。和気藹々とした雰囲気のまま時間が過ぎ、一通りの反省会も終わったところで、床につく事になったのだ。
語弊があるように思われるが、エマ・ミルスティンは間違いなくこの学院生活を楽しんでいる。
魔女の宿命も、使命も時には忘れ、同世代の少年少女達との青春の逢瀬を楽しんでいる。共に笑い、共に屈辱に歯を食いしばり、共に歩んできたこの5ヶ月は、彼女にとって決して茶番の一言で片づけて良いものではない。
それでもやはり、彼女には”使命”があるのだ。
「でも、今代の”乗り手”はよく分からないわねぇ。一度暴走しかけたのをレイ・クレイドルが仮にも”封じた”お陰で、前に進む事を躊躇っているようには見えないけれど」
「……やっぱり、見てたのね」
「当然でしょ? 抜けてから日が経ってるとはいえ、元≪結社≫の≪執行者≫よ。警戒して損はないわ」
寧ろアンタの方が馴染み過ぎなのよ、となじってくるセリーヌの言葉に、エマは少しだけ眉を顰めた。
「レイさんが今でも≪結社≫と秘密裏に通じていると思ってるの?」
「もしもの話よ。
「…………」
「東方の封魔術師一族<アマギ>の直系のみが受け継いだ≪天道流≫。今現在リィン・シュバルツァーの中に潜むモノを封じてるのは、その術の中でも秘奥に属する封魔術よ。
それこそ、神性を有する化生の類を封じ込める、本来なら大人数の術者が大掛かりな儀式と共に執り行って初めて発動できるようなモノを、たった一人で完成させてみせてる。―――正直、知った時は信じられなかったわよ」
一般常識(それでも”裏”の常識ではあるが)に照らし合わせてみれば、その領域に至るまでには考えるのも億劫なほどの時間と縁を犠牲にしなければならない。
否、恐らく凡庸な術者であれば、一生を掛けたとしても辿り着く事はできないだろう。それを彼は、さも当然であるかのように使いこなす。
以前のエマであれば、それが気になって仕方がなかったことだろう。何故そこまで才能に溢れているのかと、果てには嫉妬の念すら向けたかもしれない。
だが、彼の過去の一端を聞いた今ならば、その理由が分かる。
―――
母を苦しめたその血筋を呪いはしたが、それでも利用できるものは利用するスタンスを取ったその貪欲さは、ある意味では彼らしいとも言える。術者に於いて高みまで至り、そして剣士としても達人の域まで登り詰めたその強さは、きっと自分のような半人前が推し量れるようなものではないのだろうと、そうエマは思っていた。
「……ま、アンタの事でしょうから、その程度の事で縁を切ろうとはしないでしょうけれど」
「え?」
「仲間、ってやつなんでしょ? 正直アタシには良く分からないけど、まぁ今の内はアンタの好きにしたらいいわ」
「セリーヌ……ふふっ、ありがとう」
「フン、お礼を言われるような事じゃないわよ」
照れ隠しの表れであるかのようなそんな言葉を吐きながら、セリーヌはその視線を城の方へと向けた。
「それと、気付いてるんでしょうけど、あの城ちょっとヤバいわよ」
「えぇ……」
嫌な予感しかしない、というのが正直なところだ。このまま何事もなく過ぎ去ってくれればいいのにと心の底から願っているのだが、そう単純に事が運ばないのではないかという予感が、彼女の心の中を這いずり回る。
厄介事に巻き込まれる、というのはリィンやレイの特権かとばかり思っていたが、例に漏れず自分にもそう言った要素があるのかと、思わず失笑してしまう。
「? 何笑ってるのよ」
「ちょっと、ね」
ちょっとしたところで、彼らとの繋がりを理解すると、不謹慎ながらも嬉しくなってしまう。
そう安堵したような感情を抱いた所為か、睡魔が再び誘いをかけて来るようになったため、エマはそのままバルコニーを去った。
それでもやはり、面倒事は起こらないでほしいと、そう願いながら。
結論から言うと、その願いはあっさりと破却されてしまった。
「キャ―――ッ‼ イヤアァァァァァァ―――ッ‼」
「あ、アリサ‼ ちょ、やめ、アガガガガガガガ……」
「締まってる‼ 首締まってますよアリサさん‼」
「落ち着けアリサ。あれは怨念的な何かが剣に憑りついて動いているだけだ、気にする事はない」
「ラウラ、その説明は逆効果だろう」
涙目で半狂乱になり、リィンに抱きつきながら首も絞めているアリサと、口から泡を吹いて気絶しかかっているリィン。そしてそれを宥めながら湧出する亡霊系の魔物を倒していく他三人という、どうにも訳の分からない状態が広がるのは、古びた古城の一角。
薄暗い室内や、剥がれかけた塗装、不気味な絵画などが人の恐怖心を否応無しに煽り立てる中、その上亡霊じみた魔物が出没するとなれば、”そういうモノ”に耐性がない人間や弱い人間などは過剰反応するだろう。
そしてまさに、このメンバーの中ではアリサがそれだった。
「あっ、ご、ごめんリィン‼ 大丈夫⁉」
「ごほっ……そ、走馬燈的なものが見えた……レイに限界超えてシゴかれた時以来かなぁ……」
「そなた、この前の慰安旅行の際にも見えていたのではないか?」
「ラウラさん、その話は蒸し返さないって言ったじゃないですか」
「……というより委員長はその状況でどうやってアーツを詠唱しているんだ?」
当の二人以外は、視線をアリサとリィンに度々向けながらも、湧き出て来た魔物を容赦なく叩いている。
そんな中でエマが会話に割り込みながらも魔導杖を振るい、アーツを起動させているのは、所謂アーツの『多重詠唱』という上級技を使用する際に行う『思考分割』という妙技なのだが、それをよもや霊に脅える仲間に声を掛けながら使う事になろうとは思いもよらなかった。
―――*―――*―――
遡る事数時間前。
レグラムでの特別実習の2日目を迎えた一行は、今日も今日とて課題に精力的に取り組んでいた。
昼前までにトヴァルから手渡された依頼内容―――教会のシスターからの慰霊の供え物を作るための材料調達と手配魔獣の討伐を済ませたリィン達。その帰り道、エベル街道を歩きながら、軽く体を動かしていた。
いつもと違う事があったと言えば、依頼にあった手配魔獣がイメージにあったそれとは違い、
深緑色のボディに、左右に銃を有し、ミサイルまでも飛ばして来た摩訶不思議な存在。……とはいえ、その程度に後れを取る程リィン達は柔ではない。
そもそも、ミリアムが連れているアガートラム以上に不思議な存在というのも、そうそういないだろう。その点、先程倒したそれはちゃんと二足歩行で地に足を付けていただけまだ条理にかなっていると―――そう無理矢理に納得させて討伐に挑んだのだ。
緩い追尾機能が付いたミサイルも、このところ本当に容赦というものがなくなって来たシオンの常識度外視の火球攻撃に比べれば玩具も同然である。後衛組のサポートも要らず、戦闘開始直後にラウラとガイウスが両側面から、そしてリィンが正面から斬撃を加えた事であっさりと機能停止し、爆散してしまった。
手応えこそなかったが、懸念すべきはそこではなく、こんな自立兵器のような存在がどうしてエベル街道に居たか、という事である。
というよりも、そもそもその存在自体が謎だ。色々と度肝を抜かれ過ぎてやや感覚が麻痺しているⅦ組の面々は然程違和感を抱かなかったが、軍がこのような兵器を開発したという話は誰もが寡聞にして耳にした事がない。その時点で、リィン達がその正体に辿り着く事は現時点では不可能だと言ってもいい。
それは当の本人達も自覚していたようで、取り敢えずその兵器が自爆する前に取り除いておいたパーツの一つをトヴァルに見せて意見を聞こうとレグラムの街の門を潜ったところで、一行は街が妙にザワついている事に気が付いた。
「ん? 何だ?」
「騒がしいな。船着き場の方からか?」
流石に気になり、高台の石橋の上からエベル湖に接した船着き場の方へと視線を向けると、そこには白色を基調とした塗装の豪奢な一隻の
そんな状況を目の当たりにして、先に口を開いたのはアリサだった。
「あの艇……ラインフォルト社製の水上飛空艇ね。確か名前は……≪シェルア=ノート≫だったかしら。結構最新式の筈よ」
「それにあの軍服は確か……西部ラマール州の領邦軍ですね」
アリサの説明をエマが引き継いだことで、更に疑問が湧き上がる。
レグラムが属しているのは東部クロイツェン州。ラマール州は言ってみれば帝国の反対側に当たる。
それも、領邦軍が警備に当たっているとあれば生半可な人物が訪れているわけではないのだろう。そんな人物がわざわざバリアハートではなくレグラムを訪問しているであろうという事実。意味するところは分からなくはない。
「アルゼイド子爵を訪ねて来たのか?」
「……とはいえ、父上は不在中だ。お客人には失礼な真似を―――っ」
ラウラが自家の不始末を悔やむ言葉を言い切ろうとしたところで、その目が見開かれる。その視線は、今まさに艇に乗り込もうとしていた人物に注がれていた。
首元まで伸びた山吹色の髪に、孔雀を象ったかのような豪奢な首飾り。洒脱でありながら気品を存分に撒き散らしているその服装と容貌に、ラウラは見覚えがあった。
「カイエン、公爵? 『四大名門』の筆頭格が何故父上を……」
「カイエン公爵……そういえば以前授業で耳にしたな」
ガイウスの言葉に、エマが小さく頷く。
「えぇ、ラマール州を治める大貴族ですね。帝国国内における影響力は、同じ公爵位のアルバレア家よりも強いと言われています」
それが意味するところは、皇家を除けばエレボニアで最も権力を有する一族、その長であるということ。
歴史的に見ても多く皇帝の妃を輩出し、外戚として一時は皇家を凌ぐ力を有していたともされる、そんな大貴族中の大貴族が子爵家、それも別の領地の人間などに何の用かと首を傾げていると、公爵の後ろに付き添う二人の人物に自然と視線が吸い寄せられた。
枯葉色の髪を短く後ろで束ねた細身の男と、同じ服装を纏ったドレッドヘアーの巨漢の男。その位置取りや足の運びからして公爵の護衛のようにも見えるが、絢爛な軍服を着ているラマール州の領邦軍と比べると、機動力を重視したようなその服装は一層違和感を感じさせた。
すると、不意にその二人が足を止め―――あろう事か振り向いてリィン達に視線を合わせた。
「ッ‼」
直線距離で70アージュはあろうかという距離。それも石橋の上という遮蔽物がある場所からの視線を感じ取ったにしか見えない行動を取った二人に対して一同は慄き、それに拍車をかけるようにして細身の男の方は手まで振って見せた。
傍から見れば異常なその行動に思わず数歩下がってしまう。幸いにも他の領邦軍達に発見される事はなかったが、これ程に離れた場所からの視線と気配を察知した二人の実力の高さを感じ取る。
そしてそのまま呆けている内に、《シェルア=ノート》は水上から浮かび上がり、そのまま西の方角へと飛び去ってしまった。
「……予定されていた訪問、って訳じゃなさそうだったな」
「あぁ。カイエン公爵が訪ねられるとあれば、父上も戻って来られただろうからな。とにかく、ギルドに寄る前に一度屋敷に向かいたいのだが、構わないか?」
「まぁ、こんな事があった後じゃあ仕方ないでしょ」
アリサの言葉にエマとガイウスも賛同する。
屋敷にはクラウスが残っていたため、まさか門前払いをしたという最悪の状況は避けられただろうが、それでも領主の嫡子としては、事の経緯を知る義務がある。
必然的に早足になり、屋敷へと続く長い石階段を登っていく。そうして数分で屋敷の門前まで辿り着き、そのままの勢いで玄関を開け放った。
「クラウス、いるか?」
平時よりも僅かに焦った声。その声に対し、玄関ホールへと繋がる階段を下りていた老執事は恭しく答えた。
「おや、お嬢様。お帰りなさいませ」
「あぁ、クラウス。今しがたカイエン公爵がお帰りになられたようだが、何か知っ―――」
だがラウラは、その問い詰めるような言葉を最後まで発音することは叶わなかった。
その原因は、クラウスの背後で同じく階段を下りていた男性の存在。カイエン公爵と同じくアルゼイド邸を訪れ、今まさに帰路につこうとしていたのだろうその男は、ラウラの姿を視界に収めるのと同時に「おぉ」と僅かに驚いたような声を漏らした。
「これは御息女殿、こうして顔を合わせるのは久方ぶりですかな。私の事を覚えておいでですか?」
「……えぇ、無論。以前お会いしたのは数年前でしたか。お久しぶりです、カーティス卿」
「此方こそ。……しかし奇縁というのもあったものだ。トールズに入学したという貴女と、よもやこのような形で再会が叶うとは」
表面だけを見れば異性を魅了するであろう微笑を浮かべて挨拶を交わす男。
腰元まであろうかという黒髪は首元あたりで束ねられ、190リジュに届こうかという長身を包むのは黒を基調とした仕立ての良い服。
その外見、その雰囲気だけで、その男性もまた貴族であるという事を、リィン達は悟る。とはいえ、ラウラの方はそれ程歓迎した様子で対応していないのが些か気になっていた。
何となく、そう、何となくではあるが、その男性からはユーシスの兄、ルーファス・アルバレアと同じような雰囲気を感じると思っていると、他愛のない貴族同士の挨拶を交わしていた男性の視線が、リィン達の方へと向けられる。
「おや、その制服は……あぁ成程、彼らが同輩という訳か」
「はい。同じ学び舎で学び、切磋琢磨する級友達です」
「ほぅ、そうかそうか」
すると男性はリィン達の前まで移動し、ラウラに向けていた微笑を浮かべたままに自己紹介をする。
「お初にお目にかかる。東部クロイツェン州<クラウン伯爵家>現当主、カーティス・クラウンという者だ。
御息女と出会えた事も僥倖だったが、よもやトールズの後進の若人とも出会えるとは思ってもみなかった。どうやら、今日の私は殊更に運が良いようだ」
「は、初めましてカーティス卿。トールズ士官学院特科クラスⅦ組所属のリィン・シュバルツァーです」
此方を見定めるような視線は彼らの知る”貴族らしい貴族”を彷彿とさせたが、しかしその声色は此方側を見下したようなそれではない。
ただ単純に、実力の如何を見定めるような、そんな視線だった。―――それが愉快であるとは到底言えなかったが。
その証拠に、リィンの後ろに立っているアリサが、面と向かっていなくとも分かるレベルの不機嫌オーラをビンビンに放ってきている。
恐らく、表情そのものは淑女の仮面を被って笑顔なのだろうが、そのプレッシャーを背中で一身に受けている身としては、たまったものではなかった。
「おや、これは失敬。あまり若い雛鳥に不躾な視線を送るものではないな。―――しかしこの程度の無礼に耐えられなければ、この界隈では生きてはゆけぬよ。
そうだろう? ラインフォルト家の御子女」
「っ―――」
「表立って理解し得る挑発に乗らぬのは当然の事。故、我らのような清いも濁りも味わってきた者らは、このような不遜な態度で望むのが常なのだよ」
だからこそ、それを見切られ、あまつさえ窘めるような言葉をかけられてしまっては、返す言葉もありはしない。
顔を合わせて数分。そう、たったの数分ではあったが、このカーティスという男性が権力を笠に着て傲慢に振る舞うような貴族らとは一線を画する存在であるという事を否が応にも理解させられてしまった。
「……コホン。カーティス卿、
「これは異な事を。私は少しでも後進の助けになるようにと助言を加えたに過ぎんよ、御息女殿。
彼らも貴女も、何れはこの帝国を担う若人だ。先達として、
「こと年齢的な若さでいえば、卿もそれ程変わらぬでしょう。30にも満たないではありませんか」
「”若々しい”と称するには些か時が経ちすぎた自覚があったのだが、貴女に若いと言われるのに悪い気はしませんな」
会話の内容こそ軽妙な掛け合いだが、ラウラの方は一貫して淡々とした態度を崩していない。
カーティスの方が少なからず喜色を示しているのに対しての対照的な言動が、彼に対するラウラの印象を如実に表していた。
「それよりも、当家に対して如何なご用件でしょうか。カイエン公と共にご訪問されたのでしたら、御用向きを伺いたいのですが」
普段の比較的感情が豊かな彼女から出る、”貴族の嫡子”としての言葉とやり取りに、リィン達はただ息を呑んでそれを見届けるしかない。
しかしそんな淡々とした態度を向けられてもなお、カーティスの雰囲気は変わらない。怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく、ただゆらりとした態度で薄い笑みを浮かべたままだ。
「ふふ―――いやいや、御息女殿の手を煩わせるまでもない。カイエン公の思惑はともかく、私はただ子爵殿にお会いできればと思って着いてきただけに過ぎぬのだから」
「ならば、カイエン公と御一緒にお戻りになられるはずでしょう。わざわざ御身だけ残られる事はなかったのでは?」
「修業時代に世話になった師範代殿に一言二言もなしに去ってしまうのは不敬というものだ。
心配なさらずとも、私はこの後バリアハートに寄る用がある故、最初から公爵と共に帰る思惑はなかったのだよ」
「……然様ですか」
傍から見ていても暖簾に腕押しといった有様のやり取りに、先に折れたのはラウラの方だった。
もう勝手にしてくれと言わんばかりの表情を見せた彼女に小さく礼をしてから、クラウスの先導に従って玄関へと向かう。
「―――あぁ、そうだ。御息女殿」
しかし扉を開けられ、後は外に出るのみとなった直前に、再びカーティスは口を開いた。
それを無視するわけにもいかず、ラウラがしぶしぶといった様子で振り向く。
「そろそろ躾のなっていない従者が憤慨を募らせている頃合い故、これで失礼させていただくが……先の話はよく検討していただきたい」
「……それについては、既にお答えを返したはずなのですが」
「まぁそう言わず。貴女にとっても、決して悪くない話の筈ですからな」
それだけを言い残して、カーティスは屋敷から去った。
それから数十秒は無言の時間が流れ、漸く呆けていた状態から解放されたリィンが、ラウラに声をかける。
「えっと……知り合い、なんだよな?」
その曖昧な問いかけに、しかしラウラは「あぁ」と頷く。
「カーティス卿は《アルゼイド流》の門下の一人でな。嘗ては練武場にも足しげく通っておられた事がある。その縁で、父上とはそこそこ懇意にしていた」
「……にしても、どうにも胡散臭い匂いがしたわね」
Ⅶ組の中ではユーシスと並んでそういった事に敏感なアリサが、今度は不満を隠そうともせずに言い放った。
「表面上は笑顔を張り付けてたけど、裏の顔があることを隠そうともしてないタイプだわ。……ああいう人間は厄介なのよ。裏の奥の、その奥まで見透かさないと、本性が見えてこないから」
「確かに……一癖も二癖もありそうなタイプの方でしたね」
「とはいえ、悪意の類は感じられなかったな」
その指摘に、一つ息を吐いたラウラが首肯する。その表情には、どことなく疲労の色が表れていた。
「昔からああいう方なんだ。ゆらりゆらりとしていて、どうにも本音が掴み切れない。先の話も、一体どこまでが本音なのやら」
「……あぁ、何となく分かったけれど、その”先の話”ってのはもしや……」
「そう、縁談の話だ」
その言葉に女性陣は過敏に反応したが、実のところ貴族の世界ではこういった話は日常茶飯事に飛び交っている。
10代の内に婚約相手が決まるなどよくある事。極端な話になれば、産まれた時から許嫁が決まっている、などという話も耳にすることがある。
血統を重視する昔ながらの貴族の家の人間が恋愛結婚をするというケースは極めて希少であり、こうした家と家同士の繋がりを深めるために交わされる縁談話は珍しいものではない。
「まぁ、受ける気などは今はないのが正直なところだ。妻として誰かの傍に侍るよりも、剣技を極める事の方が、私にとっては最優先なのでな」
「そんな事情がなくても、私だったらあんな結婚相手なんか御免よ」
天邪鬼で、皮肉屋―――アリサがカーティス・クラウンという男に抱いた印象とは、凡そそのようなものだろう。
何も知らない一般人からすれば、確かに外面は良く見える。しかし、慇懃に振る舞っているのは表だけだ。それなりの付き合いがあるラウラでさえ、未だ彼の本性を見た事がない。
実のところ、ラウラはそこまであの男を嫌っているわけではない。相性が良いとはまかり間違っても言えないが、それでも頭ごなしに嫌うような存在でもないのだ。
「確かにカーティス卿は誤解されやすい性格であるし、アリサの見解も間違っていない。―――だがあの方は、昨今の廃頽的な貴族達の中に在っては珍しく、筋は通す方だ。狂言めいた言葉遣いで此方を惑わす事は多々あるし、万人に好かれるような性格をされているわけでもない。
それでも、無闇矢鱈、欲望の限りを尽くして権力に溺れる輩よりかは幾分以上にマシだと、私はそう思っている」
まぁ、
「まぁ、何か悩んでたら話くらいは聞くから、これからも溜め込むんじゃないわよ?」
「そうですね。不安の一端を取り除くくらいは出来ると思います」
「……あぁ、頼りにさせて貰う」
数度のやり取りで不安げなラウラの表情を晴らしてしまった彼女らの絆の深さに驚きながらも、リィンは隣にいたガイウスに声を掛けた。
「なぁ、ガイウス」
「何だ?」
「女子は、女性ってのは本当に強いな」
「そうだな。ああいう光景を見ていると、心の底からそう思う」
今まで何度も実感して来た状況であったが、それでも改めてそう思う気持ちを止める事はできなかった。
―――*―――*―――
「遅いぞ木偶の坊が。一体全体何処で油を売っていた」
レグラムの街の中心部からは少しばかり外れた場所に停めてあった黒塗りの高級リムジン。
クラウン伯爵家が所有するそれにカーティスが乗り込んだ瞬間にそんな罵倒を浴びせて来たのは、事もあろうに白いメイド服に身を包んだ一人の少女だった。
凡そ主に向かっての口の利き方では到底なかったが、それを咎める事もなく―――というよりも既に諦めた形で何も言わず、カーティスは座席に腰を下ろした。
「油を売っていたとは随分な物言いだな、スフィータ。生まれてこの方25年、商人の生き方を志した事などない筈だが?」
「皮肉も弁えんのか、この戯け者めが」
「子爵殿を恐れて車に残った臆病獣が良く吼える。今の貴様は獅子に媚びを売る兎のような有様だぞ?」
抱えの運転手が座っている運転席とは少し離れた場所で、互いに罵り合う主と従者。本来であれば目を疑うような光景だが、ことクラウン家に至ってはそう珍しくもない。
腕を組み、足を交差させて我が物顔で座席に腰を沈める銀髪金眼の美少女といった風体を醸し出している従者のスフィータは、凡そ従者に必要不可欠な主への尊敬の念も奉仕の念も持ち合わせていない。
キツく吊り上がったその双眸でカーティスを睨むと、しかし一つ鼻を鳴らして再び伏せた。
「はン、貴様の目は節穴か。私があの木端屋敷に赴かなかったのは貴様の雨雫ほどに残っている面子とやらを守ってやったまでの事よ。さもなくば柱の一本、調度品の一つに至るまで粉微塵に磨り潰してやったわ」
「クク、それこそ微塵に砕かれた矜持を守るために必死な者の姿というのは愉快よな。見ていて飽きぬ。それでこそ貴様を従えた甲斐もあるというものよ」
直後、スフィータから死の幻覚が見えるレベルの殺気を向けられたカーティスではあったが、涼しい顔をしてそれを受け止める。
嘲るような笑みを変わらず向け続ける主を前にしながらスフィータは憚る事もなく大きな舌打ちを一つかまし、そしてそのまま窓の外へと視線を向けた。
「―――フン、気味の悪い霧だ」
気付けば窓の外、レグラムの街は白い霧に囲まれていた。
僅か1時間ほど前までは快晴の空の下、晴れやかな風景が拡がっていたというのに、今では濃い霧が街を覆ってしまっていた。
それが自然現象で発生した濃霧ではないという事は、スフィータも理解している。元より彼女は、
そんな彼女に霧の正体を問う事もなく、カーティスも街の有様を眺めながら更に口角を釣り上げた。
「げに美しきは魔性の城、か。さて如何する、御息女殿に魔女殿。ラインフォルトの御子女にノルドの若人、そして悩みし”乗り手”の少年よ。獅子の門の下に集いし未熟な益荒男の輝きを、存分に示して見せるといい」
まるで呪いの言葉を紡いだかのようなその声を残し、リムジンは動き出す。
リィン達が濃霧の原因が湖上の城にあると断じ、怪訝な顔つきをしながらもその場所に向かうのはそれから1時間程後の事だった。
今回一番悩んだのは、「アルゼイド子爵を出すか否か」でした。
実は直前まで原作通り登場させる気でいたのですが、あの超ダンディオジサマが居るとリィンの悩みとか全部見抜かれて対戦不可避なんですよね。それは、もうちょっと後で別の人にやって貰う予定だったので、ここでは我慢しました。……ホントはメッチャ登場させたかったんですけどね。気に食わない方はごめんなさい。
次回はお化け屋敷です。……え? 違う? いや、だってあそこやたらクオリティが高いお化け家屋敷みたいなものでしょう? 月の僧院とか、星見の塔とか、そういう類のダンジョンだと思ってますんで。
今回の提供オリキャラ:
■カーティス・クラウン(提供者:白執事Ⅱ様)
■スフィータ(提供者:白執事Ⅱ様)
―――ありがとうございました‼
ではついでに、シグムント・オルランドの実子にしてオリキャラ、イグナ・オルランド君のイメージイラストも置いて行きます。
【挿絵表示】
それではまた次回にお会い致しましょう。