英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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タイトルからネタに走ったけど、この人の場合はこの二つ名でも違和感ないと個人的には思ったりします。

というか咲夜さんと三つか四つくらいしか離れてないんだよなぁ、この人。


完全で瀟洒な従者 前篇

 

 その日は、朝から雨が降っていた。

 

 時期も関係しているのだろう。六月から七月にかけて、帝国では雨季が訪れる。突発的に雨が降る事もあるので、外出する際には傘が手放せなくなる季節となるのだ。

全体的に考えればその雨は農耕地帯に恵みをもたらし、水不足を杞憂のものとしてくれるなどメリットは多い。しかし大自然のサイクルなど考える余裕がないちっぽけな一人の人間としては、籠ったような熱気に加えて鬱陶しく降り続けるこの時期の雨を諸手を挙げて歓迎する事などできない。

 

 重大な問題がある。

 洗濯物がなかなか乾かないのだ。

 

 

「マジで死ねや、湿気」

 

「気持ちは分かるが落ち着け」

 

 せっかく洗濯をした服もベッドシーツも、最近では生乾きが多い。それは女子の洗濯物でも同じ事が言えるのだが、そんな事は関係なくレイのイライラ度は着実に上がっており、それをリィンが宥めるという状況が出来上がっていた。

 冷蔵庫と同時に新配備した洗濯機は脱水までしてくれる優れものではあるが、如何せん乾燥の方は自力でなんとかしなくてはならない。

料理とは違って洗濯や掃除などはクラスの全員で交代で担当しているが、やはりというかなんというか、一番手際が良いのはやはりレイだった。

 

「しっかしアレなんだな。どうしてそんなに手際が良いんだ?」

 

「遊撃士ってのは自分でできる事は極力自分でやるからな。支部の掃除なんかも配属されている遊撃士の義務みたいなもんだし、自然と慣れてくるもんなんだ」

 

 実際その通りなのである。

 遊撃士にとって、活動拠点となる支部は個々人の実家も同然であり、任務の合間、時間が空いた時の暇な時間などにメンバー自らが掃除を行う事は特に珍しくない。

とは言え年がら年中激務に晒されていたクロスベル支部ではその暇な時間そのものが中々取れない状態が普通だったのだが、それでも一年の節目などには全員が揃って大掃除をしていたりした。

その際に毎回何かしらのハプニングが起こったりしたのだが、それはまた別の話である。

 

「見習わなくちゃいけないな」

 

「いや、俺から見ればお前らも結構手際がいいけどな。こんだけ個性バラバラな人間が集まれば一人くらいはズボラな奴が出て来るもんなんだが」

 

 身分も出身も経歴も何もかもがバラバラなⅦ組の面々ではあるが、不思議な事に全員がある程度の生活能力を持っている。

例外として料理は経験がある人間とない人間とで必然的に技量の差が生じてはいるが、その他の洗濯や掃除などに当番制で割り当てられたメンバーは恙なくその役目を果たしてくれている。

そもそもが真面目で何事も率先してやろうとするリィンやガイウス、エマなどは勿論の事、道場の掃除などで一家言を持っているラウラや、激務の父親に代わって実家の家事を執り行っていたマキアスなどのレベルも高く、元々は生活能力ゼロだったフィーですらも、レイの教育の賜物もあって最低限のスキルは身に着けている。

 

「というかユーシスの黙々と仕事こなす感じがあまりにもシュールで俺笑いかけたんだけど悪くないよな?」

 

「あぁ大丈夫、アレには俺も思わず吹き出しそうになった」

 

 一番驚いたのは、メンバーの中で一番家事に縁遠そうな感じだったユーシスが思いのほか”できる”事だった。

壁だろうが床だろうがどこだろうが黙々と掃除をこなし、洗濯物の処理を済ませ、あまつさえ調理補佐ですら器用にこなす男であり、正直オールマイティさで言うならばレイを除けばⅦ組で一番だったりする。

 

「……あれもノブレス・オブリージュってやつなのかな」

 

「ヤメロ、今一瞬腹筋が崩壊しかけた」

 

 すでに手は震え、笑い声が漏れている。もし今ここで本人を呼んだ時に「何の用だ。俺は今ノブレストイレ掃除の時間だ、邪魔をするな」などと言われようものなら恐らく笑い死にできるだろう。

叶わぬ夢ではありそうだが。

 

 

「いや、マジメな話、流石に家事全体の統括者が欲しい所なんだよなぁ」

 

「……それは俺たちが学院に行ってる昼間に寮に居てくれる人、という事か?」

 

「ご明察。ウチに居る大人って言えばあのアルコール中毒者しかいねーしな。しかも教師だし」

 

 実際問題として、正式な管理人がいないというのは問題がある。

貴族生徒が住まう第一学生寮は勿論の事、平民生徒の宿舎である第二学生寮も学院から派遣された正式な管理人が常駐しているのである。

第三学生寮は特例の上で使用許可が下りている場所であるとはいえ、流石にこの管理体制では問題があるのではないかと、レイは前々から常々思ってはいた。そもそも一介の学生であるはずの自分が寮の鍵と食費を握っている事自体がおかしい。何度も直談判はしようとしたが、その度に寮の家事業務に忙殺されてすっかり忘れてしまっていた。

 ……実はそんな重要事項を生徒であるレイが考えている事自体が間違っており、本来なら担任であるサラ・バレスタイン(アルコールジャンキー)が解決しなければならないものだという考えには至っていない。

 

 と、そこまで考えていた所で、レイが洗濯物を干す手をピタリと止めた。

 

「? どうしたんだ?」

 

「いや……今俺は何故か何かしらのフラグを立てたような気がした」

 

「不吉なこと言うなよ。レイの予感は良く当たるんだから」

 

「いや、多分そんな悪いもんじゃない気がするんだが……学院に行ったら委員長に占ってもらうか」

 

「真相究明の仕方がマジだな」

 

 どうにも胸騒ぎがする中で朝の作業を終え、同じく女子の方の洗濯物の処理を担当していたアリサとラウラと共に傘を広げて学院へと向かった。

 

 

 雨の日のトリスタは、晴れている日とはまた違った一面を見せる。いつもなら開店準備などで賑やかなこの時間帯も、雨の日はどことなく静かであり、シトシトと降り続ける雨が木々の葉や石畳を打つ音が楽器の音色のように響き渡るのだ。

 そんな中を歩くレイ達は、しかしいつもと変わらない。いつも通り他愛のない談笑や本日の授業の確認などを教え合いながら学院の門を潜る。

 

「しかしアレだな。こう雨の日が続くと体が動かせなくて困る」

 

「あ、それ分かるかも。私もラクロス部の活動ができなくて困ってるのよねー」

 

「ふむ、私はギムナジウムで部活をしているから障害はないのだが……しかしやはりレイとの稽古が出来ぬというのは痛手だな」

 

「お前ら鍛える事に関して貪欲過ぎんだろ」

 

 レイ、リィン、ラウラの三人で行っている朝練というのは今でも続いており、最近では話を聞いて新たに志願して来たガイウスも含めて四人で行ったりしている。そこにたまに気分で早起きをしてしまったというフィーが加わったりすると乱戦時の稽古が出来たりして非常に有意義なのだが、流石に雨天時には行う事はできず、ここ数日間は稽古をしていない状況だ。

 

「あなたたち凄いわね。一応実技指導の時にサラ教官やレイにこってり絞られてるのにその上早朝にもなんて」

 

「「それはそれ、これはこれ」」

 

「心配いらん。前衛組は大なり小なり地元で鍛練積んでる強化人間だから。疲れとか三十分もあれば全快するから」

 

「何その非常識。私なんてようやく筋肉痛が出なくなったレベルなのに」

 

「ウェルカム、ようこそ戦士としての入り口(非常識の一歩目)へ。アレに慣れて来たんならもう一歩踏み込んだカリキュラムでも多分大丈夫じゃね?」

 

「何だか地雷を踏んだ気がするわ。それも一際大きい奴を」

 

 身に迫る危機を察したアリサだったが、気付いた時には時既に遅し。レイの右目には怪しい光が灯っていた。

 

「心配すんな。レイ・クレイドル プレゼンツ ”中級者用対人戦の基礎 ~VS戦闘に慣れた手練れの集団 デッド・オア・アライブ問わず 編~” の準備は整ってる」

 

「タイトルからして不吉すぎるわよ‼」

 

「何言ってんだ。そんな事言ったら ”準達人級対人戦の鉄則 ~VS実力で数段勝る敵 賢く戦えさもなくば死ね 編~” の方がもっとエグいぞ」

 

「どうしようかラウラ。少し興味が湧いた俺はもう活人剣の使い手として終わってる気がする」

 

「案ずるなリィン。ネーミングはともかく、その講座を受けてみたいと思ってしまった私も同罪だ」

 

Ⅶ組(ウチ)が段々凄い場所になって来た気がするわね……人間性っていう意味で」

 

 ついに眼の光がだんだん薄れてきたアリサを連れながら教室に入る。

 

 実力、つまり実戦においてリィンたちが慣れて来たという事は否定できない。

レイとフィーという、死線を幾度も掻い潜って来た二人の戦いを目の前で何度も見てきたせいだろうか。”負けていられない””頼ってばかりでは情けない”と奮起した向上心のある面々が各々努力して自らの長所を伸ばし、短所を克服しようと精を出している。これで強くならないわけがない。

 とはいえ、経験が不足しているという意味ではまだまだ学生の域を出ない段階ではあるが、むしろレイはその方が良いと考えていた。

過剰な背伸びは、焦燥と増長を生み、思わぬ惨事を招きかねない。

身の丈に合った、と言えば誤解を生みかねないが、強さを得るためには段階を踏むことが大切だ。それを弁えずにただひたすらに強くなろうと欲すると、いずれその欲に憑りつかれてしまいかねない。

 実際、そうなりかけたレイからすれば、それは他人事ではないのだ。

 

 それに、今の時期は実技よりも優先すべきことがある。

 その事実を改めて突き付けられたのは、半ドンの授業の最後のLHRの時だった。

 

 

 

 

 

「は~い、じゃあ聞いてると思うけど明日っから中間試験だからね~」

 

 呑気そうな担任教官(サラ)の声がⅦ組の教室に響く。その告知に生徒である面々が浮かべた表情は様々だ。

 軍事学を学ぶ士官学院であったとしても、一般教育も受けている限り、座学の試験は免れない。それが中間試験ともなれば、入学してからこれまでに教わった内容全てを出題範囲にして厳正な学力の査定をするという事に他ならない。

良くも悪くも誤魔化しのきかないこの行事に、勿論貴族生徒と平民生徒の間で優劣など存在しない。明暗を分けるのはどれだけ知識を蓄えたかという、ただそれだけなのだから。

 

「あらどうしたのよレイ。いつものアンタなら「メンド臭い」とか言うところでしょうに」

 

「地味に当たってるから何も言い返せないな。―――まぁ確かに普通ならそう言ってるところだが、成績が発表されるなら話は別だ」

 

 トールズの中間・期末試験は、クラス平均・個別成績共に学年別で全て張り出される。

貴族生徒、平民生徒問わず施行されるこれは、身分の違いを超えて切磋琢磨できるようにという学院側の意向だが、順位が決まると聞いて根本的に負けず嫌いな人間が手を抜くというのはありえない。

無論レイも、その中の一人だった。

 

「普段偉そうな事ぬかしてる本人が学業で振るわないとか最悪だからな。俺のプライドにかけて学年10位以内には必ず入ってやる」

 

「おー、強気ね。結構結構。……で、フィー、アンタはどうなの?」

 

「ん」

 

 元来戦闘以外で頭を使う事を苦手としているフィーだったが、この時は自信ありげに頷いた。

 

「学年50位以内に入ったら何でも一回だけ言う事聞いてくれるってレイが言ったから、今の私は超本気」

 

「レイ、アンタ結構追い詰められてたわね」

 

「意欲を出すためとはいえ、軽率な事言ったって自覚はあるからそれ以上言うな」

 

 実際、家庭教師の真似事をしていたレイはフィーの試験勉強にかなり苦戦を強いられていた。

元の頭の出来は悪くないはずなのだが、そも本人が勉強自体に意欲がなかったため、覚えられるものも覚えられない。

そこは初代家庭教師をしていたエマも一番苦労をしていた所で、どうすればよいのかと、フィーが一番付き合いの長いレイに相談を持ち掛けたのである。

 

 試験対策など、突き詰めてしまえばただひたすら知識を詰め込む作業の繰り返しではあるのだが、単純な作業であるが故にそこに”やる気”がなければ持続はしない。

もし試験範囲の中に”火薬の正しい調合の仕方”やら”対人地雷の正しい設置の仕方”などと言った問題があったとしたらフィーは一目見ただけで覚えただろう。それはかつて彼女が猟兵団に居た頃に体に覚え込ませた生きるための知識。頭で考える前に体が覚えているから忘れるわけがない。

 ただ、数学やら古典やら美術史やらといった、”別に覚えなくとも生きていける知識”については驚くほどに無頓着だ。トールズの入学試験の際にはレイが昼夜問わず付きっ切りで教えてどうにか合格ラインまで持って行ったが、ああいった”無理矢理覚え込ませる”やり方はできる事ならばしたくない。

 出来るのならば自主的に。勉強が楽しいと思えなくとも、学ぶ事に何かしらの意義を見出してほしいと思っていた。例え、きっかけが何であろうとも、だ。

 

 だからレイは、妹分のために身を切った。

 

 

「中間試験で50位以内になったら、一回だけ俺が何でも言う事聞いてやる。あ、勿論肉体的・社会的に俺が死なない程度のものな」

 

 

 それがレイの出した提案。正直効き目があるかどうかなど分からなかったが、直後にフィーは猫のようにピクリと体を跳ね上がらせ、右手で力強く鉛筆を握り、左手で教科書を手繰り始めた。

 以降、エマとレイの二人三脚で試験勉強を見ていたのだが、本気(になっただろうと思われる)のフィーの知識の吸収力は凄まじく、今まで遅れに遅れていた勉強を取り戻すかのごとく真剣な眼差しを持続させていた。

教師役の二人も、教える事で効率よく復習ができたという一石二鳥の状況が今まで続き、そして今日の試験前日に至るのである。

 

「ねぇ、実際フィーの今の学力ってどれくらいなの?」

 

 右隣の席に座るエリオットが小声でそう聞いてくる。恐らく誰もが気になっているであろう事だろうが、レイは同じく小声で返した。

 

「凄く頑張ってはいる。いるんだが、勉強を始めた当初のレベルが低すぎてトップランカーは勿論狙えない。……でも、相当なポカやらかさない限りは50位以内は確実だ」

 

「す、凄いね。僕も下手したら抜かれちゃうかも……」

 

「気は抜かねぇ方がいいぞ。色々ブーストかかってる今のアイツはどんなどんでん返しをやらかすか俺でも予想できん」

 

 人知れず冷や汗を流していると、授業終了のチャイムが鳴った。

 

「はい、じゃあ今日はここまで。寮に帰るか残って試験勉強するかは皆の自由。一応担任教官として、いい成績が残せるように祈ってるわ」

 

「その完全他人事思考に若干イラッと来た俺は悪くないと思う」

 

「同意」

 

 最後にレイとフィーのキツい一言が入ったところで区切りとなり、LHRが終わる。

そしてサラが教室から出て行ったあと、Ⅶ組のメンバーはリィンの席を中心に円を作るようにして集まった。

 

 

「んで、これからどうする?」

 

「俺としては少し残って勉強したいところだな。皆は?」

 

 リィンが問いかけると、全員が頷いた。

 

「僕も残るよ。少し数学が心配で……マキアス、ちょっと教えてくれないかな?」

 

「あぁ、構わない。良い復習にもなるしな」

 

「俺は少し帝国史が不安だな……」

 

「ならば俺が付き合おう。代わりと言っては何だが、軍事史の設問に付き合ってくれ」

 

 エリオットとマキアス、ガイウスとユーシスというコンビ二組が出来上がり、女子たちもグループを作り始めていた。

 

「さてフィーちゃん、ラストスパートをかけましょう。後は……美術史と古典ですね」

 

「正直覚えても将来何の役にも立たないと思う」

 

「そ、それを言われると学生の私たちじゃ何も言えないわね。でも美術史をやるなら私も混ぜて貰えないかしら」

 

「勿論です。レイさんもフィーちゃんのお勉強に付き合って下さいね」

 

「ま、乗り掛かった舟だからな。―――そうだ、リィン。お前もこっちに来い」

 

「え、ちょ、何で」

 

「女子3、男子1という羨ましそうに見えて疎外感MAXの状況を放っておくつもりか? 道連れに決まってんだろうが」

 

「そこはオブラードに包んだ方がいいんじゃないかと思うんだが違うか?」

 

「メンド臭い」

 

 そうしてレイが同志を巻き込んだところで、エマは視線をラウラに向けていた。

 

「ラウラさんも、一緒にお勉強しませんか?」

 

「む……あ、あぁ」

 

 普段竹を割ったような性格である彼女にしては珍しく言いよどみ、ほんの一瞬だけフィーの方を一瞥し、そして僅かに苦笑した。

 

「そう、だな。邪魔でなければ混ぜてもらおうか。音楽史に少々不安が残るのでな」

 

 しかし誘いを断るという事もなく、乗って来た。エマとアリサは今の一瞬に起きた微かな違和感を感じ取る事はできなかったが、当事者のフィーとそうした刹那の行動に気を配るレイ、そしてそんな彼の影響で他人の心情に機敏になって来たリィンは気付いた。

 

 理由は、まぁ何となく分かる。しかし特に空気が悪くなることも無ければ、リィンとアリサ、マキアスとユーシスの時のように目に見える軋轢があるわけでもない。

少なくとも、今の時点では明確な問題に発展していないし、前者の問題に比べれば良い意味で矮小だ。自分たちが入り込むべき時期ではない。

 

「(難しいよなぁ……)」

 

 二人の間に僅かに張った緊張感の根本は凡そ年頃の少女らしくはないものなのだが、それでもタイミングは計らなければならない。

一難去ればまた一難がやってくるこの状況に内心でため息をつきながら、レイは自分が取り組もうとしていた政治経済のテキストをカバンの中から引っ張り出した。

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 結論から言うと、リィンには勉強開始後一時間で逃げられた。

レイがトイレに立った瞬間に「他の皆の様子も見てくる」と言ってまんまと立ち去ったらしい。その強かさは、以前のリィンには備わっていなかったものだ。

だが、レイは別に怒ってはいなかった。むしろ良く逃げたもんだとほくそ笑んだし、もし彼自身がリィンに誘われる形でこの女子グループの中に引きずり込まれたのだとしたら同じような手口で逃亡するだろう。

 

 故にレイはリィンを追うことなく、そのまま水泳部に所属しているラウラの許可を取って勉強場所にしていたギムナジウムの二階でフィーの勉強を見ながら政治経済のテキストをパラパラと捲っていく。

帝国における法律、経済市場などを学ぶ政治経済はある意味帝国史以上にレイにとっては鬼門だった。加えて担当教官であるハインリッヒ教頭の試験問題は時々予想外の事を聞かれてウザったいと、先達であるクロウから聞いていたため、特に勉強には力を入れている。

 とはいえ、試験前日にあたふたして丸暗記をしようとするほど切羽詰まってはいない。既に覚えるべきところは覚え、後は最終確認だけである。

 

 そうして驚くほどに平和な時間が数時間ほど過ぎた後、突然館内に放送が流れた。

 

『えー、コホン。一年Ⅶ組のレイ・クレイドル君、一年Ⅶ組のレイ・クレイドル君。至急、本館学長室まで来るように』

 

 放送の声はハインリッヒ教頭のものであり、心なしかいつもより余裕のない声色であった。

まさか無自覚のうちに何かやらかしていたか? と思い、思い返してみる。

 ……やってない、とは言い切れない。技術棟でのバイクの塗装作業の時に誤って異臭騒ぎに発展しそうになったり、実技演習の時に少し気合が入りすぎてグラウンドに窪みを形成したりと、まぁ色々やらかしてはいる。

 だが、それらの行動はその直後にきちんとお叱りを受け、お咎めなしとなったはずだ。普段は多少嫌味ったらしい教頭ではあるが、自分が口にした事を反故にするような性格でもないだろう。

 

 しかし、それをいくら考えたところで仕方ない。どうせ直接赴けば分かることなのだから。

 

「ちょっと行ってくるわ」

 

「いってら」

 

 フィーのその短い返しと、他の三人の許可も取ってギムナジウムを出る。

雨はまだ降り止んではおらず、それほど距離が離れていない本館へ向かうにしても傘を差さなければいけない事に面倒臭さを覚えながらも、本館の西口から建物内に入る。

 そのまま廊下を歩いて職員室の前を通り過ぎ、他の部屋の扉よりも豪奢な作りになっている扉の前に立つ。

仮にも学長に会うのにだらしない恰好のままでいられるほどレイは物臭ではない。僅かに緩めていたネクタイを締め直していると、ふと鼻腔を擽る香りに気付いた。

それは決してキツい物ではない。淑女の身嗜み程度につけられるであろう香水の匂いである事は瞬時に理解できたが、同時にその香りの種類に既視感を覚えた。

 

「(フローラルローズ……まさか)」

 

 その花の香りの香水を愛用している人物の事を知っている。

とはいえ、こうして学生の身になったからにはビジネス以外の機会に会う事など早々無いだろうなと、そう思っていた。

 ノックを行い、返事を待つ。

すると中から「入りたまえ」という学院長の低い声が聞こえ、扉を開けた。

 

「失礼します。特科クラスⅦ組レイ・クレイドル、参りました」

 

「おぉ、中間試験前日のこの時に呼びつけてすまぬな」

 

 2アージュ以上の巨躯を誇るヴァンダイク学院長は、椅子から立ち上がってレイを迎える。

平時であっても感じる強者の雰囲気に、レイは神経を休ませないまま姿勢を正した。

 

「いえ、そんな事は」

 

「ふむ、君の学業の優秀さは他の教官からも聞いておるよ。加えて学生寮の食事番も務めていると聞いてな。大したものだ」

 

「強制されていることではありません。楽しくやらせていただいてますよ」

 

 本音八割でそう言うと、ヴァンダイクは深く頷いた。

 

「それは重畳。だが簡単な事ではあるまい。その自力には目を見張るが、以降学業に支障が出るとも限らぬだろう?」

 

「それは……」

 

「それについて、バレスタイン教官から以前から相談を受けておってな」

 

 その事実に、流石のレイも表情を崩した。

無論、相談をするくらいなら少しは寮で酔い潰れたりするな、と言いたい所ではあるが、教師として、そして恐らく自分(レイ)のために動いてくれていたのだと考えると嬉しくないわけはない。

 

「ワシとて学生には充実した環境で勉学に勤しんで欲しいと思うておる。それを君たちがケルデックとパルムで実習をしていた時に開いた理事会で議題に挙げて見たところ、協力を申し出てくれた人物がおってな」

 

「学長、お話のオチが読めてしまったのと、先程から気になっていた事を申し上げても宜しいでしょうか」

 

 軽く手を挙げ、そう発言する。本当に話のオチが読めてしまった事に加え、漸く探し当てる事が出来た(・・・・・・・・・・)気配の事が気になってこれ以上話に集中できないと思い、無礼であると承知しながらも会話を切った。

 しかしヴァンダイクはその非礼を責めようとはせず、寧ろ感嘆するような声を漏らす。

 

「ほぅ、この短時間に”探し当てる”とはのう。ワシとて数秒は感じ取る事が出来んかったが」

 

「お言葉ですが学院長、”彼女”の本気の隠形を数秒で見破るのは自分とて不可能です。かつて≪轟雷≫と呼ばれ恐れられた御腕は衰えておられないようで」

 

「フフフ、若気の至りの話はまたの機会としよう。―――出て来なされ」

 

 その声と共に、絨毯を進むブーツの音が軽やかに鳴った。

まるで影から出でたかのように、その女性はレイの視界に入る。

姿自体を消していたわけではない。己の気配を極限まで薄め、人間の認識そのものから己を外していたのだ。扉の前で嗅いだ香水の匂いが無ければ、レイとてもう少し”発見”するのに時間を要した事だろう。

 

 まず目に付くのは、纏ったその衣装。

過度な華やかさはなく、しかし客人をもてなすために必要な上品さがそこにはある。下地は落ち着いた紫色を基調とし、一点の汚れも染みもない白いエプロンドレスは清潔感を印象付ける。

淑やかさと上品さを併せ持ったその服を着るには普通の女性では気落ちしてしまうだろう。しかし彼女が着ている姿は、それだけで独特の美貌を醸し出す。

 緩くカールさせた薄紫色のボブカットの髪に柔和な翡翠色の瞳。蠱惑的な色香すらも漂わせるその姿に、しかしレイは苦笑で出迎えた。

 

「うふふ、流石はレイ様ですわ。決して悟られまいと拙劣な腕ながら頑張らせていただきましたのに」

 

「マジで心臓に悪いからヤメロ。お前が本気で隠れたら気ぃ張ってても見つけるのが大変なんだぞ」

 

「お褒め頂き恐縮ですわ」

 

「四割くらいは皮肉だからな」

 

「話には聞いておったが本当に仲が良いのう」

 

 どこまでも冷静に、どこまでも瀟洒に。

柔和な笑みと共にあらゆる仕事を完璧にこなす従者(メイド)

 

 

 それが彼女、現ラインフォルト家専属使用人 シャロン・クルーガーという人物である。

 

 

「改めまして、お久しゅうございますレイ様。以前クロスベルでのイリーナ会長の護衛以来ですので……半年ほどお会いしておりませんでしたね」

 

「もうそんなに経ったのか。……近頃色々ありすぎて時の流れが早く感じるぜ」

 

 まるで年寄りのようなセリフを吐きながら、再びレイはヴァンダイクへと向き直った。

 

「学院長、それでは彼女が第三学生寮の管理人に?」

 

「うむ。彼女はイリーナ氏の秘書も務めている故、時にはルーレに戻らねばならないが、君の負担は減るじゃろう」

 

 その言葉にレイは肯定した。

彼女の有能さは、恐らくラインフォルト家の嫡女であるアリサ以上に知っている。管理人という役割一つを取ってみても、彼女はその手際の良さを如何なく発揮するだろう。

レイとしても、少しばかり自由な時間が増えるというのは有意義な事であったし、何より勝手知ったる彼女にならば、家事を任せられると思ったのだ。

とはいえ、任せっきりにするつもりなど毛頭ないのだが。

 

「分かりました。―――それじゃあシャロン、こいつを渡しておく。寮の鍵だ」

 

「承りましたわ。このシャロン、三か月に渡ってレイ様が守って来られた寮の管理人の役を、謹んで拝命いたします」

 

 ニコリと、ヴァンダイクからは見えない角度でレイに向けられたその笑顔は、どこか嬉しそうな感情が垣間見えたように見えたのだった。




閃の軌跡で私が一番好きな人物は、即答できますこの人です。

まぁタイトルでネタに走ってまで書く内容なのでタイトル詐欺にならないように後篇も書かせていただきます。


あ、ついでに一つ。

この作品のシャロンさんは結構強いですよ。

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