顕現術の濃密な講義を乗り越えた私は、散らかった部屋の片付けを手伝うという言い訳のもと、ローレラス教諭と二人だけ研究室に残っていた。アンジェルとクロードから手伝いの申し出があったが、私は本当の目的のためにも「二限は空いているのですよ」と嘘を吐いて、二限目の講義へ向かう二人を見送った。
「んで、なんだ? また、<ロール・フェイク>について聞きてぇのか?」
「はいです」
私は返事をしながら、机から崩れ落ちた本を一冊ずつ拾い上げていく。無造作に放置されているが、どれもこの世に一冊しか存在しない古代魔術の資料だった。やはり、色々な意味でスケールの違う人だと改めて思い知らされる。
「オレはよ、別にローレラス家に思い入れはありゃしねぇんだ。魔法理論の秘密主義だって理解に苦しむぐらいだ。しかしよ、お前に理解できない魔法理論を何度も聞かせてなんになる?」
ローレラス教諭の言葉に、私は押し黙る。確かにその通りだろう。ローレラス教諭は一度足りとも、<ロール・フェイク>を隠したことがない。あくまで盗み取るという表現するのは、私の恩師への配慮からだ。
足りないのは、私の脳味噌だ。
「いや、別にそれはいいのか、時間の無駄ではあるが、根本的な問題ではない。本当の疑問はな、それ程の魔法理論を欲する狂気はなんなんだ? まだ若いだろうに、お前らは」
ローレラス教諭は作業を止めて、眼鏡のレンズ越しに鋭い眼差しを向けてきた。その瞳には、探るのとは違う、心配とも違う、ただ好奇心から来る輝きを秘めている。この人に人間性を期待するのは、私に笑顔を求めるのと同じぐらいに不毛に思える。
私からの答えはただ一つしかない。狂気というのはあながち間違っていない。
――アーシャのために。
――すべてはアーシャのために。
特定個人への執着も、私程にもなれば狂気と呼ぶに相応しいことだろう。
「もう一度……ご教授願うです」
深く頭を下げる私に、ローレラス教諭は諦めの溜息をついた。
そして、私にとって本当の『講義』の時間が始まる。
*
二限目を最大限に使った講義を終えて、私はローレラス教諭の研究室を辞去した。
既に昼食の時間を回っているため、直接食堂へと向かおうと足を進める。
その途中で、魔錬科の魔戦練武館(通称:
魔錬科は卒業後の進路から他の科とは扱いが異なる。彼らは本当の騎士に、ソレル王国を守護する人間になるのだ。そのため90分間という講義時間を越えて、厳しい指導が続くことがよくある。
記憶した内容が間違いでなければ、今日は魔錬科専用科目の
魔武館の内側と外側には、それぞれ厳重な防護結界が張られている。激しい訓練には危険が付き物なので、それ以外にも蘇生科による生命加護も施されている。シトレ魔法学院が創立以来、魔武館内で死者を出していないことから、その安全性は信じるに値する。
――怪我人が最も多く、しかし誰も死なない優しい戦場。
魔錬科の生徒は入学ガイダンスで、先輩方からこの言葉を意地悪い笑顔で伝えられるらしい。アーシャ曰く「うん、アレは扱きの言い訳だよね。うん」と言っていた。珍しく笑顔が引きつっていたから相当なのだと思う。
念の為に、私は自分の周囲に簡易の防護結界を張っておく。
結界術の初歩の初歩<プロテクト>は、小等部の戦闘訓練でまず始めに教わる魔法だ。しかし私の膨大な魔素量を注ぎ込むと、堅牢な門の如く鉄壁の守りになる。門と表現したが、重要なのは<プロテクト>はオートではなく、防ぎたいと思ったものしか防げない、地味に使えない魔法なのだ。その代わりに、治癒魔法を容赦無く弾いたりしないので初心者には便利である。
結界に不備がないか確認してから、私は魔武館へと足を踏み入れた。
むわっとする熱気と、迸る魔素の流れ。
色取り取りの魔現色が領域を奪い合うように激しく荒れ狂う。
喉を引き裂かんばかりの詠唱、戦闘挙動に織り込む魔法陣の形成。
研究魔法使いのエレガントな魔法とは違う、荒々しくも美しい魔法が溢れていた。
模擬戦は4カ所で行われていた。その中の一つ、私のすぐ目の前の戦場に、アーシャは立っていた。満身創痍で制服は煤だらけ、洗濯をするのが私だというのは理解しているのだろうか。
「またあたったです。今日は動きが悪いですね」
たぶん私のせいであるが、本当の戦場では言い訳など誰も聞いてくれない。
対戦相手の金髪碧眼の男子生徒――アレン・セイクリッドは、3年の
彼の本来の戦法は、聖剣エリュシオンによる高速剣技の筈だが、どうやら接近戦しかできないアーシャを弄ぶために<マジック・アロー>による中距離攻撃を続けているようだ。
新緑の魔現色をまとった魔法矢が左肩に直撃し、アーシャは床に背中を強く打ち付けた。その勢いを殺さず、バネのように利用してすぐに立ち上がる。しかし既に大量の魔法矢が襲いかかってきており、近付けずにその場で足止めされてしまう。
息を切らしたアーシャが、口元を拭うのに顔をこちらへ傾け、
「ああっ! シエルだ! シエルー! ワタシ頑張ってるよー!」
「…………」
飛来する魔法矢を回避しながら、私に手を振ってくる。
戦闘中のために余所見をされたせいか、それとも虚仮にされたと思ったのか、あるいはその両方か、アレンが憤怒の形相を何故か私に向けてくる。また周囲の生暖かい視線が辛い。私とアーシャのコンビは、どうやら既に魔錬科でも有名になってしまっているらしい。
仕方なく私はアーシャに向かって手を振り返した。
「えへへ」
蕩けた笑みを浮かべ、次の瞬間、特大の魔法矢を受けて吹っ飛んでいった。
「ふんっ、愚か者が私の前でふざけた真似をした罪は重いぞ?」
アレンは倒れたアーシャに向かって、容赦無く<マジック・アロー>を唱える。
「負けは許さないですよ」
私がぼそりと呟くと、アーシャの身体が跳ね起きる。
「終わりですね」
アーシャが私の言葉で立ったのだ。もはや、この模擬戦の決着はついたのと同義である。
アーシャの視線が真っ直ぐにアレンへと向けられる。呑気な笑顔は、獰猛な笑顔へと変え、四肢を靭やかに伸ばして四つん這いになる。構えを取る間に全身強化は終えている。
アレンの詠唱が完了し、杖の誘導に導かれて魔法矢がアーシャに向かって降り注いだ。
「は、早いっ!?」
しかし、既にその場所にアーシャは居ない。
ベレオルン家が磨き上げた戦闘魔術<エンゲージ>による、高速接近は術者自身の知覚速度すらも超える速さを生み出す。
瞬間移動の如く懐に現れたアーシャに、アレンは驚愕を示すのが精一杯で回避も防御もできなかった。深々と突き刺さる右拳にくの字になり、拳を引き抜かれるとそのままの姿勢で床に倒れ込んだ。
アーシャは戦闘終了と共に、いつもの笑顔に戻る。
底抜けに明るい笑みと共に、私に向かって手を振ってくる――と残像となって消えて、
「はうあっ!」
私のチョップを脳天にくらって、頭を抱えた。
「私に<エンゲージ>を使うなです」
行動パターンなどとっくに把握している。いつものように抱きつこうとしてきたのだろう。だが、来ると分かっていれば幾ら早くても対処は可能だ。
「あぅぅ、痛いよぉ、少しぐらい褒めてくれたっていいと思うんだ!」
「制服を汚さずに勝っていれば褒めてたですよ」
アーシャは袖が擦り切れた制服を確認して青い顔になる。
「うっ、こ、これは……わ、悪いと思ってるよ? ほ、本当だよ?」
「最初から真面目に戦ってれば良かったものを……遊び過ぎです」
「遊んでないよ! やる気がなかっただけだよ!」
「貴様ら、私を愚弄するか、許さん、許さんぞ」
ようやく立ち上がれたらしいアレンが、私達のもとに歩み寄ってくる。周囲に立っていた魔錬科の生徒達は、鬼気迫るアレンの様子にか、それとも私達の悪名に関わるのを躊躇ったのか、遠巻きに見守るだけだった。講義担当の講師に至っては、「知らん。知らんからな、セイクリッド家の侮辱などかばえるものか」と現実逃避していた。
王家とも繋がり深いセイクリッド家は、それはそれは偉いお家柄だ。
私は対峙するアレンに向かって、冷めた顔を向ける。
「無礼を働いたのはそちれが先です。アーシャへの侮辱、私は許さないですよ?」
本来の戦いをしないばかりか、<マジック・アロー>によって一方的になぶるなど、騎士道云々以前に、人間として……心持つ生物として最低だ。
「はっ、
「名家の出来損ない、
「貴様ぁぁ……!」
顔を真赤にして、アレンは背中に手を伸ばす。
私の表情に、更なる怒りを燃え上がらせ、アレンは鬼の形相になった。
虚空より新緑の閃光が溢れ出し、アレンの腕に握られて金色の柄が姿を表す。
数ある聖剣の内でも、その雄大な美しさと慈愛の剣戟から『最優の聖剣』と称されるエリュシオンが、今まさに現世へ解放されようとしていた。
私は聖剣の一撃に備えて身構える。右手を前に、虚空を掴む。
――<ジェネシス>。
さあ、私だけの魔法を始めよう。
「だめっ!」
発動しようとして、後ろからアーシャに抱き締められる。
「アーシャ……?」
「だめだよ。シエル、だめなんだよ」
「何がですか?」
「……今はシエルに無いものが必要なんだよ」
その言葉に、私は突き出した右手を下ろした。
アレンはこちらの戦意が消えたことと、状況についていけず戸惑ったのか、聖剣の召喚を止めた。
耳元でアーシャの声が繰り返される。
「怒りじゃない、悲しみじゃない。憎しみじゃない。それに、これはワタシの罪だから、シエルは関わらなくていいの」
アーシャはそっと私を解放すると、アレンの前に立った。
「申し訳ございませんでした。数々の無礼、どうかお許し下さい」
深々と頭を下げるアーシャに、私は混乱する。
丁寧な謝罪を受けて、アレンは更に戸惑った。疑問の眼差しを私に向けてくる。理解できずとも私は、この場を収めるためにアーシャの横で頭を下げた。
「ごめんなさいです」
*
世界は私とアーシャだけのものではない。
そんなこと分かっている。
それでも、と思う。
やはり、私にとってアーシャが世界のすべてなのだ。
委員長は果たして理解して言ったのだろうか。
どちらが保護者で、どちらが被保護者なのか。
――それはきっと、私が一番分かっている筈なのに。