「すげー。でけー」「うわぁー」
昼下がりの江陵郊外、そこで騒いでいるのは茶色の髪のちびっ子二人。
「祭ねーちゃんはやくー!」「おばさまもはやくー!」
「これ、引っ張るでないっ」「はいはい。今行くから走るな」
ちびっ子二人に引っ張られるのは綺麗な女性二人。
一人は青みがかった銀の長髪と褐色肌の美少女、黄蓋。
一人は長い栗毛に萌黄色の服で白い肌を包んだ美女、馬騰。
「これどのくらいの大きさなんだ?」「どれくらいおおきいのー?」
「見えておるのは第一層、外周は480里(200㎞)ほどじゃよ」
「すごいなっ母さま!」「おっきいねーおばさま!」
「あ、ああ。……洛陽よりデカいだろ、これ」
ちびっ子たちを抑えながら長い橋を渡る。馬車と人がなんとか並んだまま通れる程度の幅しかない細いものだ。しかも途中で大きく湾曲しており、現在も渋滞気味だ。
「ちなみにこの堀の幅は150歩(200メートル)ほどじゃ」
堀には透き通った水が一杯まで注がれていた。覗き込めばうっすらと水底を見ることも出来たが、馬騰は吸い込まれそうなその深さに慌てて顔を上げる。視線を水面の果てに向ければ、数里は離れているだろう場所にも橋が架かっているのが見えた。
振り返れば反対側にも橋が見える。どちらも街から出て行く方向に人が流れていた。
列の長さの割には対して待つこともなく、いくつかの門をくぐる。両手で数えなければならないほどの数の門一つ一つに異なった趣の装飾が施され、子供達も飽きずにそれを眺めている。
一つ目と最後の門でそれぞれ短い列に並んで審査を受け、ようやく中へと入った頃には半時(1時間)以上が過ぎていた。
江陵まで乗ってきた馬車を乗り換え、一行は江陵内を走る馬車鉄道の駅へと向かう。
「最上層はここから200里(83㎞)ほどじゃな」
「そんなにあるのか!?」「あるのかーっ!?」
元気に騒ぐ子供達の姿に、黄蓋から苦笑が漏れた。
江陵内はまっすぐ最上層へ向かうことが出来ない作りになっている。一層からまっすぐ最上層方向へと向かっても橋は架かっていないのだ。橋を渡るためには、堀に沿って左か右に20里ほど移動しなければならない。
同様に二層から三層へ向かうときも、その先も、あみだくじを辿るように移動して行くことになるのだ。それぞれの層を移動する時には、外から第一層に入る場合と同等以上に大きな堀と多数の門を超えて行く。
更に、江陵内で馬に乗れるのは特別に許可された者だけだ。
一般人向けに公共の乗合馬車が存在するため、普通はそれを利用する。馬車鉄道と馬を乗り継いで最上層へは最短で3時間、馬車鉄道と乗合馬車を上手く乗り継げば通行許可を持つだけの一般人でも6時間ほどで最上層までたどり着ける。
「今日は最上層の一つ手前、第四層に宿が用意してある」
「ずいぶん手厚いもてなしだな」
「こんなもので終わりではないぞ?」
黄蓋は挑発するような笑みを浮かべ、馬車へ乗り込む。官位持ちの自分が乗り込めば、周りの連中もさっさと出発の準備を整えてくれるのだ。馬騰を拾ってから旅を続けること1週間、そろそろ慣れてきた気軽さもある。
「子供達も腹を空かせておるようじゃし、少し早いが第二層で食事にしようかの。そこから一時半(3時間)ほどで宿に着くじゃろう」
黄蓋は慌てて前後の馬車に乗り込みつつある馬家一行を横目に見ながら、2週間ぶりの江陵の空気に頬を緩めた。
◇◇◇◇
「空海様、ただいま戻りました」
「うん。ご苦労様、公覆」
白い石畳の敷き詰められた謁見の広場は今、玉座に腰掛けたチビ男が一人とそれ以外に女性が数人、女中を含めれば更に女性率が上がる空間が出来上がっていた。
「こちらが、
「馬寿成、召喚に応じて参りました」
「うん。旅程に不満はなかったかな?」
「はっ。娘共々、大変よくしていただき感謝の言葉もなく」
「それは良かった」
空海はそれまで静かに馬騰の影に隠れていた幼女に目を合わせる。
興味津々で見ていた幼女は、目が合ったことに気がついてにっこり笑った。
「江陵のご飯はどうだ?」
「すっげーおいしかった! でもちょっとからいって母さまが言ってた」
「こ、これ翠っ」
「良いんじゃよ、寿成殿。空海様はそのようなことは気にせぬよ」
黄蓋の発言にクスクスと笑うのは司馬徽や黄忠と行った江陵組だ。
身を乗り出して子供に話しかける空海を見て、馬騰も苦笑いを浮かべる。
「馬車はどうだった?」
「座るところがすげーふわふわで気持ちよかった!」
「そういえばもう一人、一緒に来ていた子がいたね」
「たんぽぽだ! たんぽぽはまななんだぞ」
「ほほう。今は一緒じゃないのか?」
「今はお外でまってるって言ってた!」
「ほー、偉いなぁ。偉いその子と、元気の良いお前にご褒美がある」
「ごほうび?」
「実はここに、超美味い飲み物がある」
「ちょーうまい!?」
袖から水筒を取り出して揺らしてみせる。
「あそこにいるお姉さんと一緒に、その子の所に届けてくれないか?」
「おねーさん?」
空海は黄忠を指して、手招きする。
「この子を、外で待っているもう一人の子の所に連れて行ってあげて。飲み終わったら一緒に来ている者達もこっちに連れてくるように」
「はい」
ちびっ子に水筒を手渡し、目を見て告げる。
「こぼさないように注意して持って行くように」
「……わかった」
幼女が神妙な顔で頷いたのを確認して、黄忠に任せる。
「待たせたね」
「いえ……」
「空海様はずいぶん子供の扱いに慣れておられますな」
「あの子が人なつっこかっただけだよ」
「我が子は空海殿に呼ばれて連れてこられたのだと思っておりましたが?」
黄蓋に言われて連れてきたのだ。言われなければ扶風から連れ出す気もなかった。
「悪かったね。少し見ておきたかったんだ。外で待っている者達と一緒にこちらに連れてくるように言っておいたから、本格的な話し合いはそれからだな」
「左様、ですか」
疑うような視線を向けてくる馬騰に苦笑を返す。
「とりあえず、名乗ろう。江陵の主、空海だ」
「改めて名乗ります。馬、騰、寿成と申します」
「馬扶風、ではおかしいか。馬寿成、と呼んでもいいか?」
「……はっ」
馬騰は字を呼ばれたことに少し渋い顔をする。
「まぁ、この交渉が上手く行けば、そのうち気兼ねなく呼び合えるようになるだろう」
「そうですな」
空海は離れて見ていた司馬徽を目で呼ぶ。
「じゃあ、場所を移そう」
桜の花びらが舞う庭園の大きなテーブルに、ひと組の男女がついている。
席に着いている男の方、空海は桜を背に静かにお茶を飲み、
向かい合って席に着く女の方、馬騰は、この世のものとは思えない光景に口を半開きにして周囲を見回している。
「早速だが、話に入ろう」
「え? あ、はい!」
「交易の話はお前には少し難しいか? だがまずはさわりの部分だけだ。そう緊張しなくても良い」
空海は、色々重なってガチガチになった馬騰に笑いかける。
「お前達の地元では、塩は1升(200ml)あたり10銭くらいだと聞いているよ」
「はい、左様……ですな」
同意したはずの馬騰の目が泳いでいる。
「わからないところはわからないと言って良い。どこがわからないかをはっきりさせて、文官達に確認しろ」
「おおお、思い出していただけです! 1升10銭で間違いありません!」
「ふむ、そうか。では続けるが、1升10銭ならば1石(20リットル)1千銭だな」
「……。そう、ですな」
指折り数えなかっただけマシなのだろうか。
「今回の取り決めでは、江陵とお前たちとの交易の内、毎年の6往復について決めたい」
「たった6往復ですか?」
黄蓋に迎えに行かせた道がそのまま交易路となる予定だ。馬上の少人数ならば片道1週間ほどだが、荷車が混ざれば、仮に馬に引かせたとしても、片道2週間ほどになる。
襄陽から江陵までの道が整備されたことで1日半ほどの短縮に繋がった。襄陽から南陽までの道も整備する予定であるため、あと1日分くらいは短縮できる。ここまでで5日。
南陽から長安までは、やや起伏の大きな道が続くため、1週間。管理者を交えた検討会では、ここも整備すれば2日ほど短縮できるのではないかと考えられている。
「雪解けから半年の間、毎月1回ずつ護衛付きの交易団を往復させるんだ」
「護衛付きですか」
「そう、護衛はお前たちに任せる」
「――なんですと?」
馬騰の目が剣呑な光を帯びる。馬家をただ働きさせる気か、と。
「まず、江陵は毎年
「いっ、1万石!?」
「そうだ。塩気の強い食べ物を中心に1度に5万石、6往復で30万石を出す」
塩1(万)石は24(万)㎏くらいだ。対して食べ物の1(万)石は27(万)㎏ほど。
5万石は135万㎏にもなる。1350トンと言えばそれほどの量には聞こえないが。
「お前たちに支払う金があるなら、護衛はこちらで用意してもいい。無いなら6往復全てに騎兵2500騎をつけろ」
「騎兵を!?」
騎兵は金食い虫だ。馬騰は一度出世した際に与えられた騎兵団を解体していない。今も無理をして養っているのに、それを護衛ごときに引っ張り出せとは何を言っている!
「護衛に必要な糧食、塩、宿はこちらが支払おう。護衛を出している間は、500万銭を品物の値段から割り引く。さらに、今後5年は品物の値段そのものもこちらで3割持ってやる」
「ええっ!? えーと、えーっと……ありがたい申し出なのですが……少し、考えさせて貰っても良いですか?」
馬騰の目が回り始めたのを見て空海は笑う。
「内訳を書いた紙を用意してある。同じものだが、文官たちの分もいくつかある。続きは皆が来てからにしようか」
「すまん……じゃなかった、感謝します!」
馬騰は言い間違いを慌てて訂正し、怯えたように空海を見やる。無官の馬騰に対し、空海はかなりの高官だ。下手なことを言えば処刑されてもおかしくない。
空海は意地悪そうに笑いかける。
「そっちが素か。気にしなくていいぞ、
馬騰は困ったような楽しんでいるような形容しがたい表情で言葉に詰まり。
「……感謝します」
最終的には苦笑して謝意を示した。
空海は側に控えていた司馬徽を呼ぶ。
「馬寿成」
「はっ」
「これは司馬徳操。水鏡と言う。江陵の文官で一番賢いヤツだ。わからないことがあればコイツに聞くといい。徳操、任せる」
「よ、よろしく頼む」「了承」
文官の到着を待ち、司馬徽が一つ一つの項目について説明を行っていく。
「塩1万石相当と言ってもわかりづらいでしょうが、およそ2万人と馬5千頭が毎年使う塩の量と考えて貰えれば良いでしょう」
江陵発の料理が広まればもう少し使われることになるかもしれないが。
「内訳の漬け物……その、司馬漬けは、今朝の食事にも出しております。こちらにあるのがその漬け物で――」
「hai」
「司隸では手に入れづらい海の魚も揚州から江陵を経由して――」
「hai」
「3割を引いた価格ですと、30万石で6500万銭の――」
「hai」
「対価として求める馬に関しては1頭で2万銭と評価しています」
馬の産地である涼州では1万銭で2匹の馬が買えることもある。2万銭は相場の数倍の評価と言える。
「こちらが割り引く500万銭は年に6回ですから、合わせて3千万銭になります。騎馬兵の維持には1年で2万銭ほどがかかると聞いておりますから、1500騎の維持費に相当しますね」
馬母娘はあまりわかっていないみたいだが、文官は頷いている。
「初年度、つまり今年から、2年後までは規模を限っての取引を提案いたします」
「お前達の懐具合や民心の掌握に余裕を持たせるためだな」
「hai」
もう馬騰はダメかもしれない。
「最初にそちらから馬を持って来て頂いて以降は――」
「hai」
「支払いの際には五銖銭と金が――」
「hai」
「交易路の宿泊地点のうち、荊州内の5ヶ所は――」
「hai」
「荷の受け渡しは時間を省くために――」
文官たちは総じて賛成に回っている。「受けた方が良い」とか「馬家の名が天下に轟きますぞ」とか「9回でいい」とか大体はそんな感じだ。
「うむ、わかった。我らはこの申し出を受けることとする。空海殿、よろしくお願いいたします」
馬騰の決定を受けて空海も頷く。
「うん。では大筋はこれで良いとして、詳しいところは文官に詰めて貰おうか。徳操、手配しておいて」
「了承」
文官達の間で、軍の通過許可がどうとか護衛が失敗したときの責任がどうとか日取りがどうとかが徐々に煮詰まっていく。
もはや馬騰は子供達と一緒に笑っているだけだ。
だが、送られる馬には全て本当に馬家のお墨付きが与えられることになった。相場の倍額を出して貰っているのだからと停止しかけの馬騰も乗り気だ。
「聞きたいことが、あります」
文官達の喧噪から少しだけ離れ、子供達を膝にのせた馬騰が空海をにらむ。
「どうした?」
「空海殿は、この取引で、私に何を望むのですか?」
「ん? ああ、裏があるのだろう、という意味か?」
明け透けな物言いに馬騰がひるむ。だが、誤魔化したところで自分が空海を欺けるとも思えず、結局は思ったままを口にした。
「……そうです。我らの得が、過ぎます」
確かに、数字だけを見れば馬家には毎年1億銭に近い利がもたらされることになる。その負担がどこから出てどこに向かっているのか、ということを、直感的に捉えて問題視しているのだろう。
江陵としては、品物を現金に換えられれば大きな利益は必要ない。しかし、どうせ取引をするなら儲けるのも悪くない、ということで儲けは確保してある。そもそもこの取引は塩の密造を誤魔化す手段の一つでもある。
「まずは、一気に輸送して、販売の手間を省くことに利がある」
「補足いたします。これを小規模に行った場合の見込みは――」
「hai」
「同じく、一気に受け取って輸送することでも利益があがる」
「江陵での馬の価格と、交易の安定後に余剰放出分でもたらされる――」
「hai」
「江陵での馬の使用方法も利益に繋がっている」
「江陵の民への貸し出しと軍での――」
「hai」
「お前達との取引で1億銭近くを割り引いても、江陵には十分に大きな利益が出ている」
一部の品物、民間から集めて作っているものでさえ、原価から売値まででは1石あたり200銭、30万石ともなれば6千万銭もの利益が出る。税として集めている穀類などを使った品物に関しては何を言わんや、である。
加えて、涼州方面では安い馬でも、江陵まで連れて来ている間にその価値は何倍も上がっている。馬家お墨付きで2万銭と評価した馬ならば、荊州で売ればどう少なく見積もったとしても倍額は超える。
軍用に良馬を選別し、いくらかを民間へのレンタル用に確保して、残りは都市の外へと売りに出す。ある程度の数が揃ってからの話にはなるが、これも年間に3千万銭近くの利益を見込めるだろう。
「お前達から更に1億銭を搾り取りつつ3年で破産となる取引と、半分の利益で10年以上続く取引では、どちらの方が美味しいかな?」
「なる…ほど…?」
相当わかりやすく言ったつもりだが、馬騰は頭から煙が上がり、ちびっ子二人の片割れは目を回し、もう一人は目を輝かせて笑っている。
馬家の文官には呆れ顔に気付かれ、馬母娘共々生温かい視線まで受けてしまった。
「まぁ、なんだ。お前たちは毎年1億銭以上の余裕が出来て万々歳。俺たちもそれなりに稼いで万歳という形にしたんだ。気持ちよく取引を続けるためにな」
「なるほど!」「それならわかるぞ!」「そーだねー!」
一番小さい4、5歳の幼女の理解力と並んでいるのだが、その他二人は気がついていない様子だ。
空海は一応恩を売ろうと告げておく。
「得をして良かったな」
「そうだな!」「やったな母さま!」「よかったね!」
素直な良い子たちである。
一通り騒いだところで馬騰が身を正す。
「感謝します、空海殿。良い取引となりました」
「ああ。品物を受け取って驚け」
「え?」
「江陵との取引に心底感謝するほど素晴らしい品を出してやる」
「――はっ、ははははは! ならばこちらも相応の馬を用意しましょう!」
「期待している」
翌年最初の交易団には、新年を祝う品が持たされることになった。
精米済みの真っ白な米、香り豊かな黄良酒、のどごし爽やかで透明な公良酒、塩を綺麗に固めて作った手のひらサイズの純白の馬像、野菜や魚の漬け物。
どれも涼州にほど近い大陸の奥地では見かけない、あるいは滅多に手に入らないものばかりだ。
物珍しさに加え、その見事な見た目と味わいは馬家の心と胃袋を鷲掴みにした。手のひらサイズの塩馬を鍋に投入しようとしたところ、そんな可愛い馬を食べるとはけしからんと馬母娘が暴れたとか暴れなかったとか。
さらに次の年から、年初に江陵へ向かう護衛団にはいつも馬家一同の姿があった。催促のためである。
以降、馬家の勢力は劇的に伸び、司隸を飛び出し、涼州南部の天水、隴西までもを飲み込んだ。
当代の主馬騰は賢人と称えられた。
遅れすぎてすいません。その割に進んでないですね。
旅行などを挟みつつしばらく忙しくて返信出来ません。すいません。