無双†転生   作:所長

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1-2 二つの江、二人の黄

「精米もせずに炊飯とな!?」

「――実は米に限ったことではないんじゃが、脱穀や精米といった作業には手間も時間も掛かるもの。民らも苦しんでおる故、脱穀機や精米機を用意したいのだ、ご主人様」

「おお、そうなの。いいよいいよ、どんどんやっちゃって」

「やり方については儂に考えがあるのだが」

 

 そんなやり取りから始まった卑弥呼の提案を受けて、江陵には大型の脱穀精米機が置かれ、技術の秘匿や徴税を含めた生産管理の一環として全ての作物が一度回収されて保管や洗浄や精白を施されてから配布されることになった。

 民は初め穀類が回収されることに反発したものの、それまで1日の大半を使って行っていた脱穀や精白の作業を代わってくれると知って積極的に協力するようになり、その場で税を納めたり現金に交換できることが知れ渡ると制度は完全に定着した。

 野菜や果物についても、未来の品質基準で管理され加工された物品はまたたく間に民に浸透し、無加工のそれらを駆逐していった。

 

 

「これで虫とネズミが減るのか。どっちも得意じゃないから良かったけど。あと衛生的な生活のために大型ペットの飼育禁止令と牛馬のレンタル制を始めます、って?」

「どんどんどんどんパーフーパーフー! こんな時代だから、牛や馬を個人が持ってると狙われちゃうこともあるのよん。だぁから私は大・賛・成♪」

 

 カンペを読みながら小首をかしげた空海に、貂蝉が野太い声ですかさず喝采する。

 納得するように頷く空海に向け、さらに于吉と卑弥呼からも補足が入る。

 

「この地域の民は屋内で牛や豚を飼うことも多いのですが、流石にそれは衛生面で問題があります。まとめて管理する利点は多く江陵発展の助けとなるでしょう」

「人の糞尿の処理も合わせて行ってしまえば良いじゃろう。当面は于吉の傀儡で堆肥化を行わせれば事足りるはずじゃ」

 

 于吉は冷静な表情を浮かべたまま卑弥呼の言葉に頷く。傀儡とは、単純な動作しかできないロボットのようなものだ。一から術で作ったものや人を操るものがあり、それぞれにメリットとデメリットが存在するのだが、人に狙われる理由がないような作業を人の目に触れないような場所で行うならデメリットは気にしなくてもいい程度だ。

 本来なら卑弥呼の『漢女道』とは真逆に近い在り方である于吉の傀儡だが、それほどに違うからこそ不得意面を任せられる。『管理者』と呼ばれる4人の人外がそれぞれに持つ能力は、元来それぞれを補うことで世界の歯車となるように設計されているのだ。

 かつて解決方法を巡って対立した管理者も、この地では一つの意志の元に集っている。

 

「……ふん」

 

 管理者の最後の一人、左慈が鼻を鳴らす。長年の確執は短期間の利害が一致しただけで感情を塗り替え納得をもたらすほどのものではない。だが、理性では関係を崩す無意味さと現状の利益を理解しており、不満を口に乗せることなく消化していく。

 

 新しい江陵の体制は、まあまあ上手く働き始めていた。

 

 

 そんな江陵に加わったばかりの一人の女性がいる。恋する乙女、司馬徽だ。これまでは実年齢より年長に見られることが多かった彼女だが、空海に出会って以来、実年齢よりもずっと若く見られることが増えていた。

 空海の部下としては江陵の官僚人事の一部と、本人の強い希望により空海の身の回りの世話を任されている。空海が近くに居ないと落ち着かない様子であるため特に夜中などは逆に空海が寝るまであやしたりもしているが、それ以外ではとても優秀な人材だ。

 

「空海様っ、新しいお漬け物を持ってきました」

「おー。どれどれ?」

 

 空海が于吉に作らせている調味料と手に入りやすい食材を使って新しい料理を開発し、猛特訓で鍛え上げた料理の腕を振るって空海好みに調整するのが現在の司馬徽にとっては最重要の任務である。

 司馬徽がニコニコと笑って差し出す皿から大根の漬け物を一つ摘んで口に含み、空海は驚きに目を見開いた。

 

「やたら甘い!」

「はい、お茶です」

「……おお、緑茶によく合う。なんか思ってた漬け物と全然違うけど美味しい」

 

 しばらく目の前の漬け物と固定観念との狭間で唸っていた空海は、やがて意を決したように顔を上げ、司馬徽を見つめた。

 

「次は白米に合う感じのでお願いします」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 その男は今、悩んでいた。

 

「どうやってかけるべきか」

 

 川幅2㎞はあろうかという長江本流を前に、南の長江と北の襄江から水を引いた江陵の水堀を背に、雄大な風景とは対照的な小さい男が思い悩む。

 

「どういう橋を架けたらいいのかな、これ」

 

 どう転んでもオーパーツとなることは確定していた。

 

 川を越えようとする人類の歴史は古く、それに伴って橋には多くの種類が存在する。想像しやすいものだと吊り橋や眼鏡橋、跳ね橋などがあるだろう。橋をかける位置によって沈下橋や流れ橋、抜水橋といった特徴を持つ。

 さらに、橋を架けられる位置と川の水上交通との兼ね合いによっては可動橋が作られたりもするが、流石に動く橋はやり過ぎだろうと空海は思考を放棄した。

 

「材料は石っぽい見た目にすればいいとして……」

 

 考えるべきことは主に3つ。1つ目は橋の位置や向き。これは江陵要塞前にどのように接続するかという意味だ。対岸に向けては利便性を重視していい。2つ目は水面から見た橋の高さ。橋には船の交通を妨げない高さが必要であり、同時に高過ぎる橋は渡ることに著しい不便が発生する。特に、多くの荷を積んだ馬車などが動けないような急勾配を作ることは、橋を架けるメリットを大きく潰すことになってしまう。3つ目が目立ちすぎては困るということ。そもそも要塞だけでも目を付けられるのに、観光名所がとなりに出来てしまってはこの斜張橋を作ったのは誰だあっされてしまう。

 

「――ハッ! 中州を作る→中州のループ線で高くする→中州のこっち側は大型船が通れにい→検問の効率アップ→賊が遠ざかって商人が増える→人気者。……中州作るます!」

 

 完璧な理論によって問題を解決した空海は派手に水しぶきを上げて幅1㎞長さ2㎞にも及ぶ中州を創造し、ちょっとした洪水を起こしたりしながら石のような物体でアーチ橋を架けて半径50メートルから500メートルまで3つのループ線への分岐に接続した。

 出来上がってからお披露目したところ異口同音に「目立ち過ぎ」だと言われたが、港を要塞に横付けする短所を解決するため中州が利用される方向で計画が見直され、広範囲で修正作業が発生して主に空海が派遣された。この時の経験により水面を1㎞以上に渡って叩き切る必殺技『派遣切り』が出来るのだがそれはまた別のお話。

 

 

 

「欄干かける、欄干とる……」

 

 立ち入り禁止の橋の上で手すりの微妙な凹凸にこだわっている男は空海。

 

「そこのちっこい男!」

「やめたまえ! 高低差を論じることは下向きの運動しか生まない!」

「は?」

 

 空海は後ろからかけられた張りのある声に勢いよく反論しつつ振り返り、自分と声の主以外には人っ子一人いないことを確認して、もう一度確認して、もう一度確認した。

 呆気にとられたような表情で空海を見ているのは、青みがかった銀の長髪を高い位置でまとめた褐色肌の()()()

 渋みのある紫の服や引き締まった身体、やや鋭さを感じさせる目つきで随分と大人びて見える少女。だが彼女が今浮かべている表情には、未だ字を持っているかも怪しいほどの幼い純朴さが窺えた。

 

「何を言っておるんじゃお主は……」

「何だよ、今のもしかして俺に話しかけてたの? 俺より小さい人類が生息してるのかと思ってつい庇ってしまったじゃあないか」

 

 空海が笑いながら欄干に寄りかかり、その出来に笑みを深くする。ここに、宇宙戦艦が突っ込んでも逆に特殊装甲の方が真っ二つになる欄干が完成した。

 

「なんじゃ、見た目通りの年ではないのか」

 

 それは()()に見えるのか中身がオッサン臭いのか、どっちに転んでも――

 

「なかなかに酷い言いぐさだ。でもお前が若作りしてなきゃ俺のが年長なのは間違いないだろうね。敬意を払ってくれて構わんよ、お嬢さん」

「たわけ。敬意を払うべき相手くらい自分で決められるわ」

「ふふ。そう? じゃあもっと親しみを持って接してくれていいよ」

「たわけ。儂のような美少女を前にしておるんじゃ。儂から許すのが筋じゃろう?」

 

 そう言って少女は自信満々に胸を張る。育ち盛りのやや大きな胸がぷよんと震えた。

 

「へー。あれれぇ~? 急にここが立ち入り禁止になってた気がしてきたなぁ~」

 

 わざとらしく声を上げながら空海は周囲を見回す。橋は立ち入り禁止になっているため当然のように人っ子一人見当たらない。

 

「ぬ、ぐっ。儂は(おう)荊州刺史様より江陵の調査の任を賜った身じゃぞ!」

 

 少女がやや焦りながら反論するが、空海は意地悪そうに笑って、たった一人で武器まで持ってやってきた少女を見つめる。昨今の()()は刺史に軽んじられているのだ。

 

「刺史から任を受けた者に命じられて、の間違いでしょ? ここはまだ開通してないから渡し船もあるし、出入り口の詰め所に居たヤツに江陵側から許可を貰えって言われてると思うけど? おおかた橋が通れそうに見えたから渡し賃を出し渋――」

「いやぁ今日は暑いのぉ! 少々薄着になりたくなってきたわ!」

「……この娘、面白いな」

 

 素早い動きで太もものスリットや横乳をアピールする少女に空海は感心する。手慣れているのかいないのか、その動きはぎこちないようでいて多彩だった。

 ちなみに春の肌寒い日のことである。少女はだいぶ汗をかいているようだったが。

 

「俺の記憶が確かならこの辺りの渡し賃は20銭より多かった気がするねぇ」

 

 そう言って空海は右手を差し出す。実際には35銭くらいだ。外食代と大差ない。

 

「ど……堂々と袖の下を要求するとは太い輩じゃ! じゃが気に入ったので20銭くらい今夜の酒代から出してやろう! ……やる。やるぞ。っく、儂のおごりじゃあ……!」

「顔の方は泣きそうになってるじゃん……。冗談だよ。2刻(30分)もおっかなびっくり歩いてきたお前から掠め取ろうなんて思ってない。さっさと握手しようず。そしてもっと親しみを持って接してくれていい。そしたらこんな些細なことで告発したりはしない」

 

 空海は上に向けていた掌を立て、少女が握りやすいよう高く持ち上げた。少女は涙目で上目遣いをしたかと思いきや徐々に目を輝かせ、花が咲いたような笑顔を見せる。

 

「ほ、本当か? 本当じゃな? ……ま、まぁ儂の握手に20銭以上の価値があることは明白じゃからな!」

「え? 何? 自分で持ち上げたってことはそこから突き落としていいってこと?」

 

 途端、少女は勢いを失い、しなびて風に吹かれる枯れ草のようにうなだれた。

 

「参りましたので、やめて下され」

好々(よしよし)

 

 

「こんな滑らかな石造りの橋は見た事がないわ」

「マジで。足とか引っかかったら危ないじゃん」

「床の隙間から落ちたという話もあるんじゃぞ?」

 

 少女の疑問に空海がトンチンカンな答えを返したり。

 

「お主は立ち入り禁止の場所で何をしておったんじゃ?」

「そりゃ橋を作ってたんだよ。この手すりとか自信作だ」

「石、じゃよな? もしや、木か? 何なのだ、これは」

「わからんけど自信作だ。この通り、上を歩いても平気」

「これ、手すりに乗るでないわ! ……子供かお主はっ」

 

 年上であるはずの空海が何故か手を引かれて歩くことになったり。

 

「一体どうやって作ったんじゃ、この渦のような橋は……」

「ほら、あの辺とか工夫して、えーと、気合で」

「大事な部分の説明を諦めたじゃろ」

 

 説明を投げ出した空海にツッコミを入れたりしつつ、しかしだんだんと空海との会話のペースを掴んできた少女は、目を背けていた最大の問題について尋ねることにした。

 

「ところでのぅ……何じゃ、あのバカでかいのは」

「え? ドイツー?」

「あの壁じゃ」

 

 そう言って少女は、橋の先で視界のほぼ端から端まで続く灰色の壁を指し示す。本当はその周りの堀らしき巨大構造物やそこに取り付けられた門や門前の広場に続く細い橋など遠近感や常識を狂わせる諸々があったのだが、一言で壁の謎にまとめてしまった。

 

「ああ。あれ江陵の城壁」

「……こんな怪奇の起こる街ではなかったと儂は記憶しておるんじゃが」

「目と記憶のどちらが確かなのかが試される時が来たな」

 

 本当は両方正しいのだが空海は誤魔化す気である。

 だがそれよりも気になることがあった少女には通用しなかった。

 

「街の者は中におるのか?」

 

 生真面目な少女の様子に空海は苦笑し、しかしもう少しだけからかいを混ぜておく。

 

「順序が違うね。中にいるから街の者なんだよ。まぁ、以前からこの辺で暮らしてる民はだいたいあの中かな。一部いなくなった連中もいるけど」

「ふむ……。太守様はどうしたのだ?」

「ああ、ふた月くらい前に賊の討伐が行われてね。討伐が終わってみたらその賊に紛れて太守なんかの首があったみたいでさ。色々あって今は土の下だよ」

 

 あれがいなくなった連中の一人だと軽い調子で空海が告げる。

 

「……そうじゃったか。太守は既におらんのか」

「ちなみに討伐は義勇兵がやったものだよー」

 

 数秒、何かを考えるように俯いていた少女は空海に鋭い視線を向けた。

 

「聞きたいことがある」

「どうぞ?」

 

 空海は薄く笑ったまま、繋いでいない方の手を少女に向けて続きを促す。

 

「お主、何者じゃ?」

「あ、そういえば自己紹介がまだだったか。俺は空海だ」

 

 何かを疑う少女は鋭い視線のまま、誤魔化す空海は笑顔のまま、静かに見つめ合う。

 

「……それだけか?」

「何が聞きたいのかはっきりしないな」

 

 肩をすくめてあくまでとぼける空海に、少女はため息をついて脱力する。

 

「お主、太守殺しに関わっておるじゃろ」

「ばれたか」

 

 じと目に捉えられた空海は、にこやかに笑ったまま、しかし即答した。

 

「太守が賊と共におったのは事実か?」

「一部の兵と一緒にその辺に関わってたり癒着してたのは事実だね」

「……そうか。ここも、か」

 

 世間話よりは緊張感がある、しかし尋問と呼ぶには軽すぎる会話で、少女はこの小柄な男の正体をある程度察していた。

 

「被害者に会いたければ案内するけど?」

「いや、良い。儂に何が出来るわけでもない。お主のことも疑ってはおらんからの」

「そうなんだ。やっぱり握手は大事だよね」

 

 相変わらず少しばかりペースがわかりづらい空海との会話が少女を脱力させる。

 

「のぅ――お主は壁の向こう側のお偉いさんじゃろ」

「うん、当たり」

「儂が来たのにも気付いておったな」

「橋を渡り始めたのは知ってたかな」

「橋には他の者はおらなんだのか?」

「目立たないところに少し居たね。剛毅な役人が来たというから隠したんだ」

 

 橋の警備員にはどういう者が橋に来たのかを合図するように命じてあった。少女が門を通り抜けたやり口は悪い方から数えた方が早い事態として対岸に知らされており、中州の近くで作業していた者達は橋を監視しやすい船着き場の建物に身を潜めさせた。荊州には軍の皮を被った賊が溢れている、というのが昨今の常識なのだ。

 

「そ、そうじゃったのかー、ははは……いやぁ、握手は大事だのぉ」

 

 割と威張り散らして橋に踏み込んだ少女は、目を泳がせながら笑って誤魔化す。

 空海も少しだけ笑って繋ぎっぱなしの少女の手を引いた。

 

「ここに居るとあいつらも困るだろうから、さっさと移動するよ」

「うぐっ、わ……わかった」

 

 

 中州と江陵を結ぶ橋、その上を小さな男と難しげな表情の少女が手を繋いで歩く。

 

「お主らは、あの街をどうする……あの街の民はこれからどうなるんじゃ」

「んー……。例えばお前とは軽妙に話せてるけど、その辺の人間を捕まえて話しかけてもこうはいかないよね」

「? それは、まぁ、そうじゃろう」

「お前には他の者にない才があるだろうことはわかる。けど、それ以前の問題でその辺の人間は――」

「学がない。故に知らんことが多すぎて何を言いたいのかを察することも出来ん」

 

 空海の言葉を少女が引き継ぐ。それは少女が立ち上がった理由であり、いつか変えたい状況だ。そう思っていたから、続く空海の言葉から受けた衝撃は計り知れなかった。

 

「だから、全ての民に学を与える。全ての民と、いつか、こんな風にしゃべれるように」

 

 それは理想に燃える少女の意志を凍らせるほどに傲慢で、慈愛に満ちた決意だった。

 少女は色を失った思考を誤魔化すように、視線をはるか上空に向ける。広がった青空のその先を見通すように。

 

「お……お主はこの地を……、天子様が治めるというこの国を、どう見ておる?」

「末期。治すなら荒療治しかないけど、そんなことしたら治した相手にも周りの連中にも恨まれるだろうね。つまり実質、治せないと同じ」

「横柄な病人、か。なるほど、言い得て妙なもんじゃの……。じゃから、作るのか」

 

 何を、とは言わなかった。

 

「別に令を発する場所にしたいわけじゃないよ。ただ、俺と民のおしゃべり空間の邪魔はさせない」

 

 空海は静かに尊大に語る。

 

「民が豊かに暮らし、争いを忘れるくらい平穏無事な街がいい」

 

 少女は黙って耳を傾ける。

 

「だけど、壁の向こうもこっちもみんなまとめて豊かならその方がいい。だからこそ高い壁を作って門を厚くして堀を深くして守りを固めた。より豊かな世を許容するために」

 

 あの壁の高さは、堀の広さはその決意の証なのだと言う。

 少女は遠くに向けていた視線を空海に戻し、いつの間にか強く握っていた手からそっと力を抜く。()()選択を空海に委ねようと考えて。

 

「のう、お主、儂の手をずっと握っておったじゃろ」

「うん。そうだね」

「儂が武器を取れんように。――周りで身を隠しておる職人たちに儂を狙わせんように」

 

 少女の言葉に空海は僅かに目を見開く。

 

「おや、驚いた。職人だって気付かれてるとは思わなかったよ」

「これでも目は良いのでな。足運びも武人のそれではないし、そもそも手にした武器(もの)が槌やノミでは兵は名乗れんじゃろう。……ふむ。儂の手を引いて歩き続けておったのも連中の包囲を完成させんようにか」

「武器は俺からは見えなかったけど。あいつらそんなもんで戦うつもりだったのか?」

 

 空海は面白そうに、少し困ったように笑う。この時代、徳の高い者を救うためなら安い命は盾にされるべきだという思想が根付いているのだ。学問や宗教に基づくその倫理は、未来における「命を粗末にすべきではない」という道徳よりも根深く強力な呪いだ。

 最初から一人も失わせないつもりだった空海は、しかしその背格好のせいで悪い役人に騙されて連れ去られる子供のように見られてしまい周囲に心配をかけまくっていた。

 空海には大人の自覚があるためそんな風に見られているとはつゆほども思わず、むしろ周囲を安心させようと仲良しアピールをするものだから悪循環に拍車が掛かる。

 

「ずいぶん慕われておるのぉ。……それも道理か」

 

 民を守るため悪党――少女にとっては不本意ではあるが、自身のことだ――に立ち向かい、たった一人で知恵を武器に戦う男。故事(おとぎ話)にある君子のごとき勇姿。民に期待を抱くなという方が無理な話だろう。

 

「俺としてはお前の嫌われように驚いてるところだ。何やらかしたんだ?」

「あー……うむ。ここに来るまでに少々、恥ずべきことをしでかした」

 

 少女は荊州下での扱いの悪さに腐り、粗暴な言動を繰り返していたことを思い出す。それを自覚した途端、自分が保身のために空海の手を取ったことが無性に、心底恥ずかしくなった。空海を守るために決死の覚悟で二人の様子を窺う者達に、そして、少女と彼らの心情を理解しているだろうその上で少女までをも守ろうとしてくれている空海に、かつてないほどに強く熱い衝動が胸にこみ上げてくる。

 

「だから……まぁ、これは仕方ないのぉ」

 

 少女は誰にともなく言い訳し、空海の手をやんわりほどくと流れるように膝をついた。

 そうしたところでふいに、目の前の小柄な男がただの『お偉いさん』ではなく、江陵を代表する『長』なのであると確信する。理屈ではない。そうされるのに慣れているという気配を少女は感じ取り、こみ上げた想いがますます高まった。

 大胆にスリットの入った紫の服から太ももがのぞき、しかし二人の纏う空気は神聖さを感じさせるようなもので。卑猥さは微塵も感じられない。

 

(こう)公覆(こうふく)、名は(がい)。江陵のこの先をお側で拝見させて頂きたい」

「――おや。敬意を払うべき相手は自分で決められるんじゃなかったの?」

 

 周りを恐れて言っているのではないか、と空海は問い、しかし黄蓋は首を振る。流れるような銀髪が、日に焼けた褐色の肩を滑って落ちた。

 悪党が君子に改心させられるというのは民も喜ぶ王道の展開だ。舞台がこれほど整ってしまったからには、君子を守り生を全うするところまで付き合ってみても良いのではないかと黄蓋は思う。それに空海と黄蓋(自分)ならば、1000年後に語られる君主とそれを支える忠臣という配役にふさわしいのではないだろうか。

 黄蓋は意外なほどに現状を楽しんでいる自分自身に小さく笑う。

 

「無論のこと、自分で決めました。我が真名は(さい)。どうか、お側に」

「そう……わかった。ただ、部下たちが気にしそうだから実力は示して貰うよ」

「お任せあれ」

 

 返事と共に立ち上がった黄蓋には、何の気負いも見られなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「お土産にうちで作った酒を持っていくというのはどうだろう?」

 

「これは罠です! どうしても行くなら、私もついていきます」

「罠なのは明らかですのでやめてください」

「わざわざ罠にかかりに行くのは感心せんのぅ」

「流石に儂の名が入った酒を刺史の元へ持っていくというのは、恥ずかしいんで勘弁して欲しいんじゃが……」

「強引な男の子は嫌われるわよぉん」

「賛成はしない」

 

 非難囂々である。

 

 

 これよりしばらく前、荊州刺史の(おう)(えい)が孫堅によって殺害されていた。

 跋扈した賊によって荊州への反乱が起こった荊州南部の長沙(ちょうさ)。厄介払いを兼ねて長沙の正式な太守として送り込まれたのが、軍部の実力者でありながら荊州南部で王叡に代わる人気者として支持を集めつつあった孫堅だ。

 孫堅はまたたく間に長沙の反乱を治めると、零陵(れいりょう)桂陽(けいよう)の太守たちと共謀して州の首都である漢寿(かんじゅ)を攻めて王叡を殺害。そのまま漢寿に居座り、我が物顔で()()を敷いているらしい。

 とはいえ。荊州への反乱というのは国家への反乱と同義だ。現在は交流が途絶え、やや苦しい状況にあると見られている。

 

 さて、刺史を殺害された朝廷だが、それを許しておくわけにはいかない。そこで、荊州立て直しのために軍属経験のある劉表が派遣されることが決定した。

 すぐに荊州に赴任した劉表ではあったが、そこには王叡政権下で好き放題していた賊が無数に立ちはだかっており、さらにこの時代、刺史が軍事力を持つことは許されていないため、苦しい状況の下で策を巡らせたようだった。

 そして、荊州北部を中心に『各地を治める()()()たちへの挨拶のために宴会を催す』と招待状が送りつけられたのだ。()()()()()()()

 

 未だ文字が読めない空海に代わって文を読んだ司馬徽は目からハイライトを消し、血のように赤い布で出来た人形に『劉』の文字を刻んで縛り上げて踏みつけたり、頭を熱湯にくぐらせて尖った石で丁寧に叩きほぐしたり、包丁で腹を割いてねじ切った手や足を詰め

 

   何  を  見  て  い  る

 

 

 

 なんとか手だてを講じようと部下を集めて話し合ってみたものの、なかなか良い考えに行きつくこともなく。やがて空海はしばらく前にできたばかりのお酒を持っていくことを思いつき、その考えを伝えてみたのだった。

 言いたいことをちゃんと伝えなかったせいで、その反応は思っていたものとはかけ離れていたのだが。

 いろいろ打ちのめされた空海は言いわけがましく考えを明らかにしていく。

 

「ええと、罠だとわかってるけど、何ていうか……罠なんか破ればいい、みたいな?」

「罠を破れる俺かっこいい! ですか? ……いいですけど」

「ふふふ。()()()はそうでなくては」

「ごぉ主人様ったらかぁっこぅいぃーい!」

「やーめてー!」

 

 空海の罠破り発言の中身を静かに考えていたのだろう眼鏡の青年が顔を上げる。

 

「……一理ありますね」

「よしきたー!」

 

 于吉の発言を受けて空海が喝采を上げ、他3人の管理者と黄蓋が続きを促し、司馬徽が圧力を伴うほどの視線で発言した于吉を睨み付ける。自身と空海のスペックを知る于吉は彼女の視線を軽く受け流し、考えを説明していく。

 

「こちらを陥れる場として考えるのではなく、劉表が何を成したいのかに先回りして考えることで、引き込んだ方が安全で得になると思わせることができれば……」

 

 策の目的を理解した卑弥呼と黄蓋が納得したように頷き、空海の前で言いづらい『第三者からの認識』を口にしたのは卑弥呼だった。

 

「うむ。ご主人様が『賊』の立場を捨て協力者として地位を得る好機となるわけじゃな」

「空海様が賊であったことなどありません! 訂正しなさいッ!」

「水鏡殿、落ち着かれよ」

「水鏡ちゃん、落ち着いてねん。ご主人様も驚いてるわよ?」

「はい」(※ちょっと怖いです の意味)

 

 空海を貶めるような卑弥呼の物言いにいきり立った司馬徽は声を荒げて立ち上がり、その反応を半ば予想していた黄蓋と貂蝉は彼女の肩をそっと押さえて声をかける。

 得意の状況を迎えた于吉は、その様子を気にすることもなく提案を続けている。

 

「この際ですから、有力な相手はこちらからも手を回して片付けてしまうべきでしょう」

「ふん、まどろこしいな。――だが邪魔者を片付けるというのはわかりやすい」

 

 于吉の過激な発言を左慈が肯定し、劉表への対応は概ね定まった。空海が二人に頷いて了承を示すと、于吉と左慈は水を得た魚のようにいきいきと対策に動き出していく。

 

 活きの良い魚となった二人が去ったところで、ここ最近、割とあくどいことをしてきた気がする空海は少し気になって司馬徽に尋ねてみた。

 

「ねぇ。徳操は俺が賊になったらついてきてくれないの?」

「一生ついていきます!」

 

 一瞬の迷いもなく、止めるとか更生させるとかいった選択を無視して肯定した司馬徽に空海も若干呆れ顔を見せる。

 

「じゃあ別にいいじゃん……」

「まぁ儂とて水鏡殿の言いたいことはわかるがの。これまで賊もどきであった官憲どもに賊呼ばわりされる謂われはないわ」

「洛陽では、代替わりした程度で先代の悪行を棚に上げられる程の良質な鉄面皮が安売りされているのでしょう。安い誇りではそれを買うことくらいしか出来ないのでは?」

 

 黄蓋が自身の過去を思い出しながらむすっとした様子で告げれば、司馬徽はほっぺたを膨らませて不満を漏らす。空海はその様子に笑い、胸を張って立ち上がった。

 

「まぁ俺がそんな鉄面皮装備の刺史に後れを取るはずは無いな」

「か、かっこいいぶるぁあああああ!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「俺、進まずして迷うこと無し。目的の街、見つからざるとも屈せず。これ、予定と共に死すこと無し――」

 

 長い沈黙の後、男の口から小さく納得の言葉が漏れた。

 

「そうか……そうだったな……」

 

 男の目に、近くのあぜ道で腰を落として作業する少女の姿が映る。

 

「――お嬢さん、街への道、教えてくれないか?」

「え? あ、はい……?」

 

 空海は道に迷っていた。

 

 

 地面に書いた簡単な地図を挟むように、小柄な男と年若い少女が向かい合って話し込んでいる。少女は若干困惑したように、男は若干悲しそうに。

 

「つまりこの邑は、目的地である宜城(ぎじょう)の北の襄陽(じょうよう)の北北東の南陽(なんよう)の北にあって、俺は500里も道を外れて彷徨ってたってワケか……。あ、これは後ですごく怒られそう」

「えと、その……間違いは誰にでもありますから!」

「今はその優しさが痛いよ」

 

 500里というのはおよそ200㎞、徒歩での移動なら3日分ほどになる距離だ。なぜ空海の旅が目的地からこれほどにズレてしまったのかと言えば、江陵の北側、編の街との間にある山地で野生の竜を見つけてちょっかいを出したからに他ならない。

 山に棲む竜を見つけ、鳴き声一つ許さず屈服させ、大体北の方に向かって1時間ほどの遊覧飛行を強制し、降り立った地が南陽の街の北側だったのだ。

 竜を見てテンションが上がりすぎたせいで「その辺の馬より、ずっとはやい!!」してしまった空海の自業自得であった。

 目的地が江陵の北にあるというので、着地後に北に向かってきたのも失敗だった。

 

「ちくしょう、劉表はバカだ」

「りゅーひょ?」

「ああ、こっちの話。気にしないでくれ」

 

 小首をかしげる少女に空海は何でもないと手を振り、立ち上がって軽く周囲を見回す。

 

「南陽はあっちでいいのか?」

「あ、はい。そこの道をまっすぐ行って、右に行って、まっすぐ行くんです」

「なるほど、わかりやすい。助かったよ、可愛らしいお嬢さん」

 

 青い羽織を翻し、空海は颯爽と歩き出す。ただし、歩幅が小さいので見た目ほど速くはない。道を教えた少女の視線は、その背中をいつまでも追っていた。

 

 

 右に曲がる道だと思っていたら地元の車はウィンカーも出さずに進んでいた、といった経験はないだろうか。

 

「ナ・ル・ホ・ド・ネ」

 

 空海の目の前には分かれ道。川上へと向かう道と川下へと向かう道である。

 川も道も蛇行しており、川上にも川下にも前にも後ろにも森が広がっている。

 邑を出てから歩いてきた道は曲がりに曲がっていたので既に方向がわからない。

 

 少女の案内に従ってまっすぐ進み、右折し、まっすぐ進み、まっすぐ進んできた空海は今、丁字路にぶつかっていた。

 既に右折を使い切っていたのである。

 少女の言葉を信じるのであればここでも右折だろう。しかし、空海の目には左側の道に朽ちて読めなくなった案内板らしき物体が刺さっているように見えた。地元の人間的にはここは一本道であり、おそらく右か左がまっすぐという扱いになっているのだ。

 

 ――もしかしたら掟破りの地元走りで川を飛び越えるという可能性も……

 

「待ってっ、下さい!」

「これは俺の心の声じゃない……いるのか? そこに……!」

 

 空海が振り返れば、先ほど道を教えてくれた少女が顔を赤らめて息を切らしている。

 

「ハァッ――ハァッ――、南陽は、右っ、です」

「俺はどこへ行こうと言うのかね! あの案内板の反対方向に南陽があるのだ! 親切なお嬢さんや……これは僅かだが心ばかりのお礼だ、飲んでくれたまえ」

 

 空海は急ぎ足で引き返しつつ手を袖に隠して果実水の入った水筒を創り、未だ苦しげに大きな呼吸を繰り返す少女の手を取って握らせた。

 

「あ、あの、さっきの説明じゃ、わかりにくいかと、思って……。あ……美味しい」

「ありがとう、お嬢さん。先ほどの説明も十分にわかりやすかったよ」

 

 空海は果実水の美味しさに目を丸めている少女に笑いかけ、改めて礼を述べる。

 

「ただちょっと、現実に比して説明が簡潔に過ぎたことと俺が人の知性と道徳を信じ切れなかったことが問題だったんだ」

「……? あの、ごめんなさい、難しいお話はわからなくて」

「ああ、こっちこそごめん。大したこと言ってるわけじゃないんだ。宜城(もくてきち)へ向けた行程の、まず南陽への道で躓いたことに若干の不安を感じているだけだよ」

 

 少女は、自身より小さな男の子、それも上等な服を纏った良いところの御曹司のような彼が浮かべた大人びた表情に少しだけ驚く。もしかしたら、思っていたより年長なのかも知れない。そう考えて急に今までの態度に落ち度があったのではないかと焦り出す。

 

「あ、あの、お役人様」

「お役人? 俺、役人っぽく見えるかな?」

 

 空海が何か嬉しそうに返す。少女の発言が幸先の良いものに感じられたからだ。

 

「――お役人様じゃないんですか?」

「半分だけ当たり。これから偉い役人のとこへ行ってちょっとぶっ話し合うんだよ」

 

 そう、これから起こす話死合い(カチコミュニケーション)に向けた明るい材料である。

 

「ぶっ……話し、合う?」

「はっはっは。しかしその格好は寒そうヨ! これをあげるから羽織っとくといいネ!」

 

 少女の疑問に答えず空海は誤魔化すように笑いながら懐から大きな布を取りだした、ように見せかけてその場で創った。表地がやや落ち着いたエメラルドグリーンで裏地が渋い藍色の外套――つまりマントだ。

 

「こっ、こんな高そうなもの受け取れません!」

 

 少女は慌てて押し返す。空海が自分の着物を参考にした、とても肌触りの良いマントである。見た目くらいなら人間でも再現できるかもしれないが、その性能まで見れば皇帝であっても手にすることは出来ない逸品だ。

 

「引き取るのが嫌なら次に会ったときに返してくれるんでもいいよ?」

「こんなに綺麗だと、汚してしまうかもしれませんから……っ!」

 

 空海は気軽に扱っているが、少女に取って見れば気が気ではない。呼吸が届かないよう顔を逸らしてすらいる。これまでの人生で目にしたあらゆる高級品よりもなお素晴らしい品にしか見えない。押し返すときに図らずも触れてしまったが、あれはもう自分が触れていいものではないと結論するしかなかった。

 流石に少女が涙目になっているのを見ては空海からもちょっとだけ押しつける気が失われていく。しかしその代わりに、上目遣いと子供ボディのコンボがどこまで通じるのかを試してみたくなった。それが攻撃であると気付かずに。

 

「あのね」

 

 当時、街というのは一つの姓で完結してしまうことも多いものであった。少女にとって子供というのはどれも似たような顔立ちのレプリカのようなものであり、野原を駆け回るくらいしか遊びのなかったことも手伝い活動的でやんちゃな者が多く、浅黒く日焼けしていたり、少女が呆れるくらいに不潔な子もよく見かける存在だった。

 

「確かにあまり高そうなものを持たせるのは危ないとも思ったんだけどさ」

 

 空海は日本人が見でも、それだけで常識を塗り替えるほどのイケメンではない。

 ただ、未来人として常識的なレベル――この時代の基準でみれば狂気的なレベル――で清潔であり、未来人として常識的なレベル――この時代の基準で見れば名士レベル――でインドア派の色白であり、少々派手で抜群に質の高い着物を着ただけの、中身はともかく見た目にはあどけなさを残す、活発そうなそこそこの美少年であった。未来基準では。

 

「このくらいあげても惜しくないくらいに嬉しかったんだよ」

 

 未来から来た美少年が上目遣いをしていると言われても想像しづらいだろう。ならば、神話から登場した美少年が上目遣いをしていると言われたらどうだろうか。少なくとも、それまで邑からまともに出た事がなかった少女にとって、それは危機的な状況であった。

 子供だと思ったから異性として意識していなかった。だが、その分油断していた。

 御曹司だと思ったから雲の上の話だと思っていた。その分、憧れを抱いていた。

 どこか遠くに向けた表情ばかりだったから他人事に見ていた。視線を近づけていた。

 

「これを貰ってくれないか? お前にはよく似合うと、俺は思う」

「ひゅぇ!?」

 

 少女が息を飲むようなしゃっくりのような同意のような否定のような声を漏らす。驚き過ぎて言葉にならなかったのだ。果たして攻撃力か回復力か状態異常か。

 そんな少女を見て空海は小さく笑みを浮かべる。作戦の効果が感じられたからだ。

 だがその笑みは『とどめ』になった。少女自身がよくわからないが会心の一撃だった。

 

「ひょれ、わたくしいたたたただきます!」

 

 土下座でもせんばかりの勢いで頭を下げ了承を上手く告げ損ねた少女の言葉に、空海は凄く痛そうだ、などと失礼な感想を抱く。

 しかし彼女の態度はこの時代の一般人にしては相当に上出来なものだ。

 民に向けた浅く広い教育が始まった江陵ですら、お礼の気持ちは野菜や穀類で示すものである。両手に抱えきれないほどの『お礼』を持って歩いているのに、さらに野菜を差し出すことしかしない民には空海も困っている。

 空海は改めて「野菜じゃなかっただけ上出来だ」と考え、ゆっくりと頷いてみせた。

 

「それじゃあ、遠慮なく貰ってね」

「かしこまりもりました!」

 

 余程に興奮しているのだろう、顔を真っ赤にした少女の純朴さに、空海は思わず笑う。

 

「あはは。それで南陽までの道だけど、他にわかりづらい場所はないかな?」

「なっ、なりゃばわたくしが南陽(なにょう)まで案内(あんにゃい)いたしますです!」

「マジで。ありがたいけど、いいの?」

「おかかませください!」

 

 少女はキビキビと無駄な動きを繰り出し、受け取ったマントを胸にかき抱いたまま、それを持つ両手を交差させたまま空海の手を取って歩き出す。とても歩きづらそうにして。

 

「あれがこっちですっ」

「そっちは今来た道だが」

「あっ、わたくしの家で!」

「待てっ、何故お前の家に案内する! ……アクセルとブレーキを間違えたか?」

 

 その後どうにか南陽に辿り着いた二人ではあったが、色々とのんびりとしすぎたせいで着いた頃には日が暮れており、門も開けて貰えず野宿を強いられた。

 

 

 

「これはまた不味そうな……まぁ、賊どもにはちょうどいい目くらましだ」

 

 くきゅるるるる

 

「食べちゃダメだぞ、紫苑」

「……はい」

 

 可愛らしいお腹の虫をならしながら、それを気にする余裕もなくお膳を見つめる少女は黄忠、真名を紫苑という。彼女の隣でそれをいさめるのはいつも通りの青い羽織を纏って少々珍しく苦笑を浮かべた空海だ。

 各人の前に配られたお膳には色とりどりの炒め物や揚げ物、色鮮やかな炒め物や揚げ物など、明らかに脂っこそうで目に鮮やか過ぎる食べ物が並んでいた。

 空海にとってそれは味を確かめたくもない類の食べ物だったのだが、ここ数日、空海に付き合って色々な料理を食べ歩き、その味に感心しっぱなしの黄忠にとっては、味を確かめたことがないだけのご馳走なのである。

 

「皆の者、よく来てくれた」

 

 配膳が終わったところで劉表の取り巻きだろう女性が声を上げた。宴の席を謳っているにも関わらず、武装したままで。実際、何人かの招待客は武器を持ち込んでいるようであるため誰もそれを咎めない。

 空海にとって幸いだったのは、なし崩しに連れ込んでしまった黄忠が目の前の料理に夢中であったため、緊張をはらんだ会場の空気やぶしつけな視線を気にしていないことだ。

 

「劉刺史は善政で知られた景帝より――」

 

 空海の考えでは南陽への道を教えて貰って別れるつもりだった黄忠だが、貰いすぎを気にして南陽まで同伴することになり、閉門に間に合わなかったことや朝まで空海に守って貰ったことなどを気にして襄陽に同行することになり、襄陽で悪(そうな顔をした)人にも簡単についていこうとする空海を見て宜城に付き合うことになり、宜城で招待状を見せた空海に対して軽んじた態度を取った門番を見て中にまで一緒に入り込んでいた。

 黄忠の中では既に『空海をどうやって立派な役人にするか』というよくわからない行動指針がドーンと小さくない面積を占領している。ひとまずこれから会うという偉い役人を見極めて、大丈夫そうなら預けようと考えていた。難しいことはわからないので顔で選ぶ気である。

 

「――から天子様より高く評価され――」

 

 空海は辺りを軽く見回す。劉表隷下からは重武装した武官らしき者が2人、宴会に背を向けつつも会場を囲むように弓を持った兵士が50人と少々。弓を持つというのは正規の訓練を受けた熟練の兵士の証であるため、これに対抗するには相当な戦力が必要だ。

 対して客席には軽く武装した客が数名と、武装したまま連れ込まれた護衛らしき者達が30名と少々。少人数の護衛として連れ込んでいるのだから腕は立つのだろう。しかし、屋内とは言え武器は剣しか持たず、何人かの前には酒の載ったお膳が並べられてもいる。

 

「――を祝して、今日は大いに楽しんで欲しい。……劉荊州様」

「うむ。では、乾杯」

 

 まず劉表が杯の酒を飲み干し、杯を返して見せる。それに続くように参加客も次々に酒を飲み干していく。

 

「飲むなよ、紫苑」

「は、はい」

 

 最後に空海たちの杯だけが残り。

 

「――飲まぬのか?」

「俺は酒は飲まないんだ。……だが、気分くらいは味わいたいな。ちょっとこっちに来て飲んでくれないか、劉荊州」

「くっ、空海様!?」

 

 黄忠が慌てたように止めるが、空海は見向きもせずに劉表に笑顔を向けている。

 劉表は空海と見つめ合う間に徐々に表情を硬くして行き、最後には笑顔を消した。

 

 

「――賊どもを討て」

 

 

 劉表の小さな声が届いたのは果たして何人だったろうか。まず彼の周りにいた武官が一斉に剣を抜き、大声と共に近くの賊に斬りかかった。会場の人間は一斉に立ち上がろうとして、多くの人間が足下をふらつかせて転んだ。

 直後、会場の出口に近い席から順に、矢の雨が降り注ぐ。

 

「ッきゃあああああ!?」

「大丈夫だ、紫苑。俺を信じて動くな」

 

 思わず立ち上がりかけた黄忠を、空海が見た目に似合わない膂力で引き寄せる。その間にも矢が降り注ぎ、降り注ぎ、降り注ぎ――

 

『やめろ』『打つな!』『どけ!』『助けて!!』『\いてえ/』『待て!!』

 

 赤い海の中に、空海と黄忠だけが残った。

 

「な、何故あやつを殺さぬ! 打て!」

 

 劉表が大声で命じる。おそらく会場に入ってから最も大きな声だろう。それでも兵士は動かない。

 

「どうした!?」

 

 兵たちは打たないのではない、打てないのだ。空海たちに射掛けようというその意志に反して、腕を上げることすらできない。周囲を見回すことは出来るのに――。

 兵の一人がそれをなんとか劉表に伝えたところで、場に似合わない笑い声が上がる。

 

「ははははは」

 

 座の中央付近で声を上げているのは、怯える少女の肩を抱いた小柄な男、空海だ。

 

「荊州へようこそ、劉景升……歓迎しよう。盛大にな!」

 

 空海が強い調子で告げると同時、大きな音と共に会場の扉が吹き飛んだ。

 

『!?』

 

 道士姿の小柄な少年と無表情な青年が並んでそこから現れる。

 

「ほどほどに暴れろよ、左慈」

「わかっている」

 

 薄い茶色の髪と道士風の服の少年姿、左慈は血の海の上を滑るように移動して劉表らの集まる席へと迫る。

 無表情な青年、于吉は何事かを小さく呟いた後、血の海をゆっくり空海の元へと参じて流れるように跪いた。

 

「空海様、ご無事で」

「うん。余裕」

「すぐに制圧します。少々お待ち下さい」

 

 立ち上がった于吉が手を振る。会場を囲んでいた兵が一斉に表情を消して弓を捨て、数秒と持たずに左慈に無力化された劉表たちを取り囲んだ。

 

「きっ、貴様ら何を!」「正気に戻れ!」「ああ! 窓に! 窓に!」「……オウフ」

 

 左慈の攻撃で立ち上がることも出来ないほどのダメージを受けた身で、1人に4人もの兵がついて手足を取り押さえられては抵抗する気も無くなるらしい。

 左慈と于吉が左右に分かれ数歩引いて頭を垂れたことで、この場の支配者が誰であるのか、劉表も悟ったようだった。

 

「整いました」

「ご苦労様。――紫苑、大丈夫だ。俺を信じろ」

「ひっ……は、はい……!」

 

 空海がゆっくりと血の海を渡る。気付いたのは、否、気付く余裕があったのは、左慈と于吉だけだったが、その歩みは波紋一つ起こしていない。

 

「流石に賊だけあって、こいつら考えなしだよね。出入り口じゃなくてお前の首を狙えばまだ逃げられる可能性があったものを。毒を飲んでちゃそれも無理か」

 

 たくさんの矢が生えた賊の死体を横目に、空海はのんびりと劉表に近づいていく。

 

「さて、お前は正義の荊州刺史で、この場に招かれたものは全て賊らしいが……」

 

 膝をついた劉表の前に立った空海は、高さが並んだ視線を劉表に向け、笑みを深める。

 

「今この場の生殺与奪の権利においては、俺が上でお前が下だ。果たして今、お前は生きあがくのか。それとも――」

「賊に頭を垂れてまで生きながらえようとは思わぬ。殺せ」

「ふふっ、お前がそう言うと知っていた」

 

 空海は僅かに吹き出し、劉表に見えるよう指を三本立ててつきだした。

 

「いくつか訂正させて貰おう。一つ目。俺は賊ではない」

「何を馬鹿なことを言っている」

「ああ、今はお前たちの言う賊には当てはまるかもしれんが、なに、お前が俺を『賊』で無くせばいいだけだし、仮にお前が頭を垂れるとしてもその時点で俺は賊ではない」

 

 一瞬言葉に詰まった劉表だが言葉遊びだと思い直す。だが、先にその言葉遊びを仕掛けたのが自分だと気付き、不機嫌そうに批難の言葉を飲み込んだ。

 

「二つ目だ。俺はお前を従えるためにここに来たのではない。いま来たのは、招待された時に入った方が面倒が少ないだろうと思ったからで、罠を打ち破って逆に殺し返すために罠にかけた、ということでもない。制圧したのは声が少ない方が話しやすいからだよ」

 

 またしても劉表は言葉を飲み込む。これだけの力がありながら今を狙ったのは、ここに集まった賊を確実に殺すためなのだろう。だが、やはり。先に仕掛けたのは劉表であり、目の前の男はその思惑に乗っているに過ぎないのだ。

 空海はそんな劉表の葛藤を面白そうに眺めた後、さて、と句切って三本目の指を折る。

 

「ここに来た目的はお前を従えるためではないと言ったことに絡むが……お前が俺たちの良き理解者である限り、互いが協力して出世できるだけの案がある」

 

 三本目の指を示しながら空海が漏らした言葉は、今度こそ劉表の意表を突いた。

 

「どういう意味だ」

「言葉通りさ。俺たちが俺たちであることを助けてくれるなら、お前には刺史よりずっと上まで出世して貰った方が都合が良い。だから、その方法を用意した」

 

 劉表は空海を睨む。甘言は聞き飽きている。たかだか数十人をどうか出来るだけの力で出世をすることなど不可能だ。そしてそれ以外の力を持っているのかもわからない。その程度のことも示せない者の言葉を簡単に信用するわけにはいかなかった。

 

「手を取らぬ場合は――」

「取ってくれる者を待つかな」

()()()()、ということか」

 

 つまり断ればそれで終わりというだけの話だ。劉表はこの場をしのいで次こそこの者を仕留められるかを考え始め、それは空海の手で中断させられた。

 

「今ここで答えを出す必要はない。これを持って帰って、よく考えて決めるといい」

 

 差し出されたのは一冊の本だ。随分と質の良い紙を使っている。題字を確認する前に、それは劉表の着物の内側に差し込まれた。

 

「返事は明日の昼に聞こう。まぁ、その本を持って逃げるという手もなくはないぞ」

「そのようなことはせぬ」

 

 討ち取るにしても、何かしらの交渉をするにしても、逃げ帰って再起するよりは簡単で確実な手になるだろう。

 

「ただ、その本はお前がこの地で読むから価値があるのであって、持ち帰っても役立てることは出来ないだろうね、劉景升が儒学者である――」

 

 劉表の言葉を聞いているのかいないのか、空海は挑発するように言葉を続けて、唐突に全身で振り返る。

 

「死にかけだと油断したか」

「――ぶ、武器を捨てて膝をつけっ!」

「え?」

 

 満身創痍といった様子の兵士に、黄忠が捕まっていた。

 兵士はおそらく会場に残る賊たちの死体をかき分けながら進んできたのだろう、全身が血にまみれている。装備を見る限り会場の警備ではなく外を守っていた者の一人である。

 

「半端な仕事をしましたね、左慈」

「――チッ、カスが」

 

 黄忠の命に価値を見いだしていない于吉と左慈は、要求を全く無視して突っ立ったまま悪態をつく。空海もこの『何とでもなる状況』に少しだけ頭を働かせて。

 

「ふむ……。二人とも動くなよ」

 

 管理者二人に言葉を掛けながら、空海は黄忠に向けて温かい視線を送った。その視線は黄忠の脳裏に『俺を信じろ』という言葉を再生させ――直後、空海は顔だけで振り返り、隠しきれない喜びの表情を浮かべた劉表へと色のない視線を向ける。

 

「お前の部下にはバカしかいないのか? ()()

 

 ビクリと、視線に射貫かれた劉表が体を震わせた。空海の言葉の意味を考える。歓喜に踊り出しそうになる思考を抑え、この男の冷めた視線の意味を考え――背筋が凍った。

 

「――そ、その(むすめ)を、離せ。その娘には『価値』がない」

『え!?』

「その通りだ、劉表。仮に言われた通りにしても、お前たちは俺たちを殺してその()をも殺そうとするだろう。もしその娘を殺すなら、お前たちが死ぬことになる」

 

 言葉に従う利が全くない。その利を生み出す人質ではないと空海は言っている。

 劉表らは空海()()を順番に殺そうとしているだけなのだから。

 

「お主が素直に捕まればその娘は殺さぬ、と言えば?」

 

 そう言いながらも劉表は、これが無意味な問答だと考えていた。お互いが握る命でさえ天と地ほどの差があるのだから。

 この子供と見紛わんばかりの男は、振り返るまでの僅かな間に劉表を納得させるだけの理屈を確かめ、人質を取る兵ではなく、人質となっている娘でもなく、最短最速の解決先である劉表に向け、劉表が必要とする最小限の言葉で解決を促している。劉表の部下への批判に見せかける余裕まであったのだ。

 劉表はこの時点で既に部下の誰よりも、そしてあの瞬間に逆転を錯覚した自分よりも、空海への評価と警戒を一層高めていた。今ここで敵に回すには危険すぎる相手だと。

 

「許しを請う『賊』を目の前で何十人も討ち滅ぼしたばかりのお前を、信じると思う?」

「で、あろうな。故に価値がないし、その行動は我らの心証を悪くするだけだ。やめよ」

 

 わざわざ会話をしながら説明するのは、そんなこともわからない部下のためだ。未だに少女から手を離すべきか悩んでいる兵に対して舌打ちしたい気持ちを抑え、努めて冷静に説明を続ける。生殺与奪の権利は未だ空海の元にあるというのに。

 万一兵士が勝手に少女を傷つけたりしたら、空海との溝が決定的となってしまうかもしれない。劉表は、こんな愚図に自身の命運が握られていることにはらわたが煮えくり返るような思いだ。空海を見た今その思いは輪をかけて強まるが、それを表にするほど気位も冷静さも捨ててはいなかった。

 

「……よいか。私はこの者の手を取るかもしれぬ。この者の提案には検討する価値があるだろうと思っている。私の命令に逆らい、それを邪魔するつもりか?」

 

 そこまで言ってようやく手を離した兵士に向けて劉表は追い払うような視線で視界から外れるよう命じ、いまだ兵士が側に佇む少女の元へ無防備に歩み寄った空海を見て、その剛胆に舌を巻いた。

 空海が近づくと、慌てた兵士は黄忠を突き飛ばし自身も尻餅をついて後ずさる。空海は小さな悲鳴と共に倒れかけた黄忠を抱き留め、その体を抱き起こした。

 

「人質に取られるとは予想外だったな。でももう大丈夫だからね。痛いところはないか、紫苑?」

「くっ、空海、さま……っ」

 

 黄忠が堰を切ったように涙を流す。ようやく混乱から立ち直り、今になって恐怖が追いついて来たのかもしれない。本人にもわからない感情がない交ぜになったものがその目に涙を生み出し続け、空海の胸元にしみ込んでいく。

 

「お前は俺にとっては大事な友達だからね。……無事で良かった」

「っ、はい……! はい……っ!」

 

 その後も空海は大丈夫ダイジョーブと繰り返しながら黄忠の頭を撫で続ける。やがて、黄忠の体から力が抜けたところで空海は彼女を抱き上げ、顔だけで振り返った。

 

「明日の昼にもう一度来る。于吉、劉景升は離してやれ。あとは()()()()よろしく」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 翌日の昼前。宜城の一室には劉表と空海を含めた数人の姿があった。

 劉表に協力する数人の豪族たち。現在は実権などないものの、将来は荊州幹部の地位が約束された彼ら彼女らが、緊張の面持ちで膝をついている。

 少しばかり憔悴した様子の劉表が、しかし力強く切り出す。

 

「案は読ませて貰った」

 

 劉表が疲れた表情を見せているのは、昨日の『宴会』の後始末や、ほとんど寝ずに本を確認したことも原因だが、一番は本の内容が衝撃的だったせいだ。

 当たり前に書かれたその内容を理解するのに、覚悟が必要だとは思っていなかった。

 だが、その価値があったと劉表は思っている。元より『賢人』を厚遇することは当然と考えてもいることであるし。

 

「これが見られただけでも、荊州に来た価値があると儂は思う」

 

 この場で立っているのは劉表と空海、そして空海の数歩後ろに従う二人のみ。その左慈と于吉も空海の視線を受けて膝をついて、やがて、大人の中でも大柄な劉表と子供にしか見えない空海という珍妙な組み合わせだけが残った。

 

「故に、そちらの要求を飲まぬ理由はない」

「なんでそんな回りくどい言い方するの?」

「ふっ……これからよろしく頼むぞ、空海」

「はいはい。こちらこそよろしく、劉景升」

 

 言葉と共に差し出された手が結ばれ。

 

 

 生まれ変わった『江陵』は、表舞台へと上がる。

 




>竜が出たぞー!
 実は江夏郡の東部には「天を支える」とも言われた天柱山という山がありまして、竜が出そうな雰囲気なんです。写真で見ると。編からは400㎞くらい離れてますが。

 その他のネタなどは活動報告にて。


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