無双†転生   作:所長

28 / 36
6-2 地上の乱雲

「この蜂蜜を作ったのは誰じゃあっ!!」

 

 口の周りを蜂蜜まみれにした袁術が叫ぶ。

 

「え? えっと、確かそれは江陵の、凄ーく高いのだったと思いますけど」

 

 声をかけられた張勲は困惑の表情を浮かべながらも主の顔を拭おうと手を伸ばしかけ、その背後に深い皺が刻まれた目つきの鋭い美食家の初老を幻視して動きを止める。

 

「江陵か!! この妾を試すような生意気な蜂蜜を作ったのはっ!!」

 

 べちゃべちゃと飛ぶ蜂蜜が汚い。

 

「ええ!? お嬢さま、蜂蜜にそんなこだわりありませんでしたよね!?」

 

 張勲はツッコミを入れつつも驚異的な動体視力を発揮して、飛んでくる蜂蜜から自分に当たりそうなものを次々とはたき落としていく。

 

「問題はこの香りじゃ! 限られた花から集めた蜜でこの深く豊かな香りを出した! そうじゃなっ!!」

「え、えぇ? ……うわぁ……なんでわかったんですかお嬢さま」

 

 蜂蜜の瓶にセットでつけられた簡易説明書を取り出した張勲が、その中身を読み進めて袁術を褒め称えた。どん引きである。

 

「問題は花じゃ。九里香(キンモクセイ)ではない、生姜(ショウガ)ではない、(ヒイラギ)でもない……常葉茱萸(トキワグミ)でもない……」

 

 張勲を無視したままぶつぶつと蜂蜜の香りを講じていた袁術は、カッと目を見開く。

 

山茶花(サザンカ)じゃ、そうじゃろうっ!!」

「あ、合ってます……。けど……何このお嬢さま」

「ふっふっ……この袁術を試しおって生意気な蜂蜜じゃ」

 

 袁術の背後では相変わらず初老の美食家が不敵な笑みを浮かべている。彼の『凄み』を借りた袁術が勢いよく、蜂蜜をまき散らしながら告げた。

 

「しかし妾を唸らせるとは感心じゃ、次の蜂蜜を持ってまいれ!」

「わか――いえいえっ、ダメですよ! 今日の蜂蜜はこれだけですよー」

「なん…じゃと…?」

 

 一瞬、凄みに押されて頷きかけた張勲ではあったが、揚州の抱える割と切実な事情からその要求を却下する。

 

「今は不作で盗賊さんがいっぱい増えちゃってるので、江陵の商人さんもあまり寿春まで来てくれないんですよねー」

「そんなもの孫策に討たせれば良いじゃろう!」

「さっすがお嬢さま! 言うことを聞かない生意気な役人がいるからーって、孫策さんを丹陽に送り込んだの忘れちゃったんですね!」

 

 遠征に回せる人員のうちから半数近くを動員した大作戦だ。片道20日近く離れた土地まで、2万に迫る遠征軍を派遣している。

 

「……はて? そうじゃったかの?」

「そうなんですよー。まだ丹陽にもついていないと思いますから、多分あと3ヶ月くらい掛かっちゃいますねー」

「そ、それまで妾に蜂蜜を我慢しろと言うのか!?」

 

 いつになく頭の回転が速い袁術に、張勲は輝くような笑顔を浮かべた。2倍の速さで考えられるとすれば、2倍の反応を楽しむことが出来る、と。

 

「うーん、でしたら孫権さんにも兵を与えて盗賊を討伐させちゃいましょうか」

「おおっ! さすがは七乃じゃ。褒めてつかわすぞ」

 

 予想通りに表情を一変させた袁術を見て、張勲もまた笑顔を浮かべて。

 

「はいはーい、ありがとうございまーす。じゃあ早速、孫権さんを呼んでおきますねー」

「うむうむ!」

 

 孫権たちは、孫堅(母親)時代の部下を集めることを許された。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「確か、去年の黒山賊討伐で糧食を鹵獲されてましたよね……?」

 

 黒髪おかっぱの女性がおっかなびっくりといった様子で尋ねる。袁紹から派遣され、交渉を任された顔良だ。

 

「ああ、それならまだ結構残ってるよ。ウチは兵士も少ないからなぁ」

 

 玉座に腰掛けた公孫賛が軽く自虐を混ぜながら返す。袁紹に並ぶ州牧とはいえ、大都市圏の冀州と辺境の幽州では人口が3倍も違い、兵数にも大きな開きがある。軍馬の数では負けていない自信があったが。

 

「そのー。よければそれを売っていただきたいんですけどー」

「……。いいけどさ、麗羽に何かあったのか? いつものアイツならもうちょっと強引なことをしてきそうなものなんだが」

 

 いつもの袁紹陣営らしからぬ常識的な提案内容に、公孫賛は若干怯えるような表情を見せる。袁紹に対し常々『あれで頭が春じゃなかったらなぁ』等と失礼なことを考えていた公孫賛だが、実際その変化の片鱗に触れると逆に不気味さばかりを感じるものだった。

 

「あはは……。その、江陵の空海様に『周りから食料を買ったらどうか?』ってお手紙を貰ったみたいで、すっかりその気になっちゃいまして」

「ああー、なるほど。まあウチも現金がなくて困ってたからお互い様だな」

 

 顔良は苦笑しながらもその理由を明かす。この後に河北四州を回って徐州と司隸にまで足を伸ばすことまで指示されているのだ。やることなすこと極端な主の姿が脳裏を掠め、顔良はその苦笑を深める。

 連合騒動以降の袁紹の様子を知る公孫賛もすぐに理解を見せ、顔良に続きを促した。

 

「それで、えっと、出来たら100万石くらい用意していただけませんか?」

「結構多いな……。まあ、粟と麦で良ければあるよ。100万石だと3億銭くらいかな」

 

 公孫賛が穀物相場を思い出しながら告げる。実際に河北の相場で揃えようとすれば5億銭は下らないが、干ばつ被害に苦しむ冀州から搾り取ろうなどとは微塵も思わなかった。

 

「ありがとうございます! 袁紹様に聞いてみないとわかりませんけど、そのくらいなら多分出せると思います。今はちょっと苦しいですけどね」

 

 冀州では今、南部を中心に発生している干ばつへの対策に食料配給や治水工事を行っており、いかに大金持ちの袁家といえども億単位の出費が懐に響いている。

 困ったように笑う顔良を前に、公孫賛は一呼吸だけ置いて考えをまとめた。

 公孫賛としても、賊を討伐した際に棚ぼたで手に入った糧食にこだわりはなく、むしろ苦しむ民を助けるために私財を投じた袁紹に協力したい気持ちが湧き上がる。

 

「そっか……じゃあ2億銭でいいよ。ウチで足りないのもちょうどそのくらいなんだ」

「えっ!? いいんですか?」

 

 1億銭もの大金をぽんと割り引く気前の良さに、顔良は思わず声を上げた。対する公孫賛は爽やかに、万人を魅了するような笑顔を浮かべて頷く。

 

「ああ、もちろんだ。困ってる時こそ助け合わないとな」

 

 後に顔良はこの瞬間の胸の高鳴りをうっかり文醜の前で口にしてしまい、修羅場を作りかけた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「空海様っ!」

「おや、孔明。どうした?」

 

 何かの書類を束にしたものを片手に息急き駆け込んで来た孔明を、空海が両手で優しく受け止める。

 

「ここここの『分数』というのは何ですか!?」

「え? んーと、普通に割り算を割らずに表したものだけど……」

「割り算とは何でしゅか!?」

「あれ? そこから? ええっと、四則演算は加減乗除だから――」

 

 5分後。

 

「――こうして分数のままにすれば、次の計算に持ち越す際に有利となることもある」

「はい! 質問でしゅっ!」

「はいそこの大きな帽子の()

「分子が分母より大きくなった場合――」

 

 15分後。

 

「――このように、除算を乗算で解く方法で暗記した数を当てはめることが出来るよ」

「空海様、よろしいでしょうか」

「はいそこの黒髪眼鏡のお嬢さん」

「先ほどの分数で除算を行いたい時には――」

 

 1時間後。

 

「――として、底辺掛ける高さ割る2で、ほら。面積が求められるわけだ」

「確認したいんだけど」

「はいそこの目つきの鋭い(むすめ)っこ」

「それって逆に面積から高さとかを求めるのも――」

 

 2時間後。

 

「――図に示した通り、収穫と消費はおよそひと月の遅れで重なることがわかるね」

「よろしいでしょうかー」

「はいそこで眠そうにしてる()

「図の縦方向というのは自由に尺度を――」

 

 

 5時間後。筆を置いて周りを見回した空海は、チラリと女中に視線を向けた後、いまだ興奮気味の軍師たちの前に座る。

 

「調子に乗って話してたけど、そろそろご飯の時間だ」

「はわわ、しゅごかったです! どうやってどうやったんでしゅかっ!?」

「あわ、も、もっと教えてくだしゃい! ご飯なんて昨日も食べました!」

「これはすぐに教本にまとめなくては……水鏡先生はまだ学院だろうか?」

「ちょっと、こんなの下手に広めたら徴税の常識が覆るわ。狙われるわよ」

「伝える内容も相手も、少しずつ広げていかなくてはならないでしょうー」

「しかし消費税の考え方は流通の制限と税収増の両面から検討すべきです」

「これがあれば需要と費用と在庫から最適な取得目標がわかるかも……!」

「あるいは需要や雇用の予測が数字で判断できるようになるかもしれんな」

「これもしかして守兵の配置とか陣形を考え直した方が良いんじゃない?」

「商人たちだけではなく、おそらく斥候や諜報も効率を上げられますねー」

「はっはっは……こいつら何言ってるんだ……?」

 

 他の人間にも何度か伝えている四則演算と筆算と分数と数種類の図形の面積の求め方と数種類のグラフと統計の概要を教えただけで目を輝かせて未来を語りだした軍師たちに、何が凄いのか全くわかっていない空海も曖昧な笑顔を見せ――直後、冷や水を浴びせた。

 

「まあ、それぞれここへ来た用事と残してきた仕事は、ご飯の後にしようか」

『……あ』

 

 その日の江陵では、夜遅くまで仕事に励む幹部たちの姿が目撃されたとか。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 締め切った部屋の中、小さな油皿が照らす心許ない明かりに二人の女性の姿が浮かぶ。

 

「なんて間の悪さなの……!」

「はい。ですが夜盗討伐は後回しにはできません。無理をするしかありませんが、どこで帳尻を合わせるべきか……」

 

 バタバタと薄い屋根を叩く雨音のような響きが、四方から二人を包んでいる。

 

「ようやく干ばつの対処も終わったっていうのにっ、なんでこうなるのよ!」

「天運に見放されたと考えることも出来ますが、まだあがく時間が残されたと見ることも出来ます。諦めるのは、全て手を打ってからにすべきでしょう」

 

 二人がいる部屋だけではない。建物を包み、街を包み、州を包むように、地を覆い隠す黒い雲から音が響く。

 漢の中部に大発生した、死神(イナゴ)の群れが発する音だ。

 

「せめてあと半年遅ければ――」

「しっかりしなさい、桂花!」

 

 郭嘉の鋭い声が頭を抱え続ける荀彧の胸に突き刺さる。その『痛み』に、荀彧は伏せていた顔を上げた。

 

「いつまで『そんなこと』にしがみついているのですか。対応が遅れれば遅れるほど民の苦しみが長引くのですよ! 我々はどこかから食料を手に入れなくてはなりません」

「ッ!」

 

 郭嘉の顔に浮かぶ表情に、荀彧は思わず謝罪が口をついて出そうになり――かろうじて踏みとどまる。荀彧は小さくそして素早く呼吸をして意識を切り替えた。

 

「――軍の、糧食は?」

 

 荀彧の様子が変わったことに気付いた郭嘉は、しかし、自らの表情を変える余裕もなく事実を告げる。

 

「幸い、今は5万人分の食料が約半年分、60万石と少し残っています。しかし、これを放出すれば領内の治安維持すら行うことが出来なくなりますよ」

 

 郭嘉の言葉に一瞬だけ呆けた表情を見せた荀彧は、やがて自らの頭を乱暴に拳で叩く。

 

「ああ、ダメだわ。軍で使っても民が使っても消費なんてほとんど変わらないんだから、軍に置いておく方がまだマシじゃない。何でこんなことにも頭が回らなくなってるのよ」

 

 食料が軍から民に移ったところで、領内全体で見た消費量が減るわけではない。

 昨今の干ばつの影響で増加している賊の対処に、軍は必須だ。これからイナゴが原因の飢饉が発生するだろうことも想像に難くない。そして今後の賊の増加とそれに伴う出兵の必要性もまた、議論の余地はない。

 

「被害を把握してからでなくてはわかりませんが、最悪、これから毎月400万石以上が不足する可能性もあると見るべきです」

 

 郭嘉の言葉に領内だけで解決することが不可能と見た荀彧は、素早く外の候補を検討していく。支援を期待できそうな大勢力から順に挙げる。

 

「洛陽はまだ長安にかかり切りなのかしら?」

「そうですね。現在はそちらに関心が向いています。イナゴの被害がこの付近に限定的であれば、こちらに目を向けさせることも可能でしょうが……」

 

 長安では3ヶ月ほど前から起きている干ばつの被害で多数の死者が出ており、地理的に近い洛陽から視察と支援が行われている。被害そのものは洛陽や冀州や陳留にも広がっているが、それぞれ独力でほとんどを解決してしまっているため解決の遅れた長安に注目が集まったようだ。

 

「……袁紹は? あちこちから買い集めて、全部冀州にばらまいたの?」

「把握している限りでは、集めた穀類は大半が民に渡ったはずです。それ以前に我々との溝は深く、支援は期待できませんね」

 

 曹操陣営は冀州に対しては前年から穀類の買い付けなどをやや強引に行っており、溝が深まりつつあった。早ければ今年中に軍事行動を起こすか起こさせるかする見込みだったが、江陵の横やりによる平和的な解決と干ばつの発生によって事態は混迷している。

 

「揚州はまだ安定しないのかしら。あっちは干ばつもなかったはずだけど」

「丹陽郡の平定は順調のようですね。ただ、揚州北西部から荊州にかけて干ばつの被害があるようです。袁術からの支援はあり得ないため、盧江から逃亡する民が増えています」

「あの土地で干ばつ? それに、荊州も、ね。まあいいわ。徐州は?」

「知っての通り、冀州へ穀類を売り払い、周囲では最も安定しているようです。こちらが確認した範囲でも兵を増員しているようですから……やはり余裕があるのでしょう」

 

 荀彧はその言葉に頷き、目を閉じてたっぷり数秒をかけて深呼吸して、大きく目を開き郭嘉と視線を合わせる。

 

「虫の向かう先がわからない以上、まずは徐州か袁術ね……。こうなった以上こちらから攻め入ることも考えなきゃいけないわ」

 

 袁紹の治める冀州に攻め入るには黄河を渡らなければならない。対して徐州は陸続きであるし、袁術のいる寿春は(潁水)を下れば攻めるに難くない地理だ。

 支援を求めるか脅し取るか奪い取るかはわからないが、いずれにしても早期に接触する必要がある。

 

「領内平定の為に出兵の準備は整っています。華琳様が戻られ次第再編を行うとして……早ければ翌日には再出発できるでしょう」

「一時的に軍を分けることも視野に入れなくては……華琳様が戻り次第指示を仰ぐわよ」

 

 荀彧と郭嘉は頷き合って立ち上がり、外へと向かおうとして、すぐに腰を下ろす。

 

「本っ当に、なんてこと!」

 

 外からは未だ、薄い屋根を叩く雨音のような硬質の響きが絶えない。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「洛陽にはこの難事にも不正を働く愚か者がいるようですな」

「長安も、ですね。人骨が積み上がってる横で賄賂を要求されるとか……」

「なにそれこわい」

 

 孔明の言葉に空海が怯える。

 

「見せしめがいるわね。出来るだけ大物を捕まえた方が効果的よ」

「なにそれこわい」

 

 賈駆の言葉に空海が怯える。

 

「官吏の一員としては情けないことですが、探す手間はほとんど掛からないでしょう」

「逆に不正が多すぎて曝いていくのが大変なくらいですねー」

「なにそれこわい」

 

 鳳統と程立の言葉に空海が怯える。

 

 干ばつからのイナゴ大発生という災害に対して、各人の持つ情報の整理や江陵の方針確認のために開催された幹部会。真っ先に話題に上がったのは、朝廷で行われている不正とその酷さだった。

 

「その勤勉さの半分でも本来の仕事に回せば、今頃はもっと肥えていただろうに」

「もっと引き締まっていた、の間違いでは?」

「どっちも見たくないわね。竜騒動があと半年遅ければ半分は減らしてやったのに」

「あのような場所に江陵の諜報員を置いておくのはそれだけで損失です」

「はき気のする『悪』だぜッ! と、宝譿(ほうけい)も言っているのですよー」

 

 苛つきを隠さない幹部たちを止めるため、空海は手を叩いて注目を集める。

 

「はいはい。ここで言ってても始まらないよ。急ぎの案件を片付けてから、いっそのこと当人たちを引きずり出して断罪でもすればいいだろ。まずは報告から、ね」

「……そうですな。冷静さを欠いていたようです。お許しください」

「すみませんでした」「……悪かったわね」「申し訳ありませんでした」「……ぐー」

「概ね許すー。ただし仲徳、テメーはダメだ。後で本体を茹でる」

 

 

 黄河と長江の間、やや北寄りを中心に発生していた干ばつは、特に陳留から豫州などの標高差が小さくて水利用に難のある地域に絶大な被害をもたらしていた。中には周囲数県から川が丸ごと消え去った土地まである。

 追い打ちをかけるように発生したのがイナゴだ。おそらくは并州南部から陳留付近で発生したのだろうイナゴは、黄河流域からやや南の広い範囲をがっつり食事にしてしまい、空海に草食系とは何だったのかという疑問を抱かせた。

 時期的に良くなかったのは瓜などの収穫量が豊富な野菜類や収穫間近の穀類、種をまいたばかりの豆類や秋口に採れる木の実などで、地域によってはほぼ全滅している。黄河の北側は幸いにも小麦地帯であるため収穫を終えており、長江に近い地域では大根が直前に収穫時期を迎えていたため、事態が逼迫しているのは豫州と陳留の両地域だ。

 

「今年に入って豫州に本格的に手を伸ばしてきていた曹操にとっては、運に見放されたと言うところでしょう」

 

 周瑜が皮肉げに告げる。支配地域がそのまま被害地域になっている曹操領土は、侵攻がなければそれだけ被害が少なかったはずなのだ。

 

「災害がなければ?」

「決断を迫られた時期でもあり、好機でもあったかと」

 

 空海の疑問に横から鳳統が声を上げる。曹操にとっては西の劉表が南部に興味を示し、北の袁紹が軍拡の途上で足を止め、東の劉備が自領土の平定に手間取り、南の袁術も揚州支配の確立にしか興味を示していない最高の時期だった。災害がなければこれ以上を望めないほどの好機だったはずだ。

 

「なるほどねぇ。まさしく、運に見放された、ってわけか。あと話題に上がってないけど孟起のところと劉景升のところも被害地域だよね?」

「はい。ですが、翠さんのところは元々穫れる穀物の少ない土地でしたから、こちらとの家畜の取引を少しだけ増やせば、すぐに食い扶持が減って供給も追いつくでしょう」

「劉将軍の下では、南陽がイナゴの被害を受けているようですねー」

「南陽では歴代太守の手により治水がしっかりと行われていたため、干ばつの被害は限定的でした。むしろ、豫州方面から相当数の難民を受け入れる方針であったようですな」

「まず間違いなく劉表の方針ね。京兆尹方向からは襄陽が受け皿に、洛陽や豫州方面からは南陽が、南からは漢寿と江夏がそれぞれ難民の受け入れを増やしているわ」

「短期的には何ら問題はありませんし、これから世が乱れることを考えますと中期的にも問題はありません。しかし、無策のまま長期的に放置してしまえば不利を生むでしょう」

 

 空海はニヤリと笑って江陵の方針を打ち出す。

 

「それじゃ、短期的にはウチも荊州の一端としてその方針に乗ろうか」

 

 つまり、劉表の思惑を利用して災害への対応をしてしまおうという考えだ。江陵だけで動くするより手広く、国を動かすほどの労力も必要ない。

 だが、軍師たちはだいぶ深読みしたようだった。

 

「なるほど……荊州全体の方針であると全土に知らしめることで責任を劉表に押しつけ、その上で利の一部を貰い受けるわけですな」

「私たちも荊州の一部として強化できますし、民の救済にもなりますね。洛陽や長安への牽制としても効果は大きいかと」

「では、劉将軍の顔を立てつつ江陵の存在を宣伝するために、劉将軍を通して北方の民に薬などを配布してはいかがでしょうー?」

「へぇ、それなら荊州も止めようがないわね。だったら一緒に医者も出しておいて、今のうちから顔役になりそうなヤツらに繋ぎをつけておくのもいいんじゃないかしら?」

「物資と人員は軍から出しましょう。屯田兵の一時的な増員という形なら、半年後までに最大10万人程度の増兵も受け入れられます」

 

 次々と「空海の指示通り」決まっていく方策に、当の空海は口を挟むことが出来ない。

 

「……いえね、そこまでするつもりで言ったんじゃないんですよ……」

 

 未来を決める江陵の会議は、当事者たちを無視して続く。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「貴女たちには民の慰撫をして欲しいの」

「私たちが」「民の」「慰撫を?」

 

 曹操が告げた懇願とも取れる言葉に、三姉妹が顔を上げる。これまで一歩引いた視線で姉妹を見守り続けた教育者のような治政者のような顔はなりを潜めて、今、曹操は確かに姉妹の力を求めていた。

 

「そうよ。家族や友人を失った民に追悼の機会を与え……これから足りなくなる分は――私がどうにかするから――食料を奪い合うような行為は控えるようにと」

 

 言葉の合間にも苦悩を滲ませ、それでもやるべきことだけを伝えて、自身の弱音を口にすることはない。だが、相対する姉妹は曹操が言葉にしなかったそれを敏感に感じ取ってお互いに目を合わせる。

 

「あの……私たちがそんなことしても、いいのかな」

「そう言ったって、私たちは歌で元気づけるしか出来ないんだし……」

「……」

 

 躊躇を見せる姉二人を横にしながら、冷静な三女は結論する。

 

「わかりました。その仕事、やらせてください」

『ええっ!』

「いいのかしら?」

「はい」

「ちょ、ちょっとっ」

 

 三女は曹操の問いに即答する。普段、姉妹を引っ張っていく次女の方が止めようとして普段と真逆のちぐはぐな光景を作り出すが、それに気付く余裕のある人間はいなかった。

 

「れんほーちゃん……」

 

 自分の意志を問うような長女の声に、人和は顔を俯かせ、やがて自らの考えを確認するように一言ひとことに力を込めて語り出す。

 

「天和姉さん、ちぃ姉さん。これは、最後の機会なの」

「最後の機会?」

 

 三女の不吉な言葉にいち早く声を上げたのは次女の地和だ。姉妹の頭脳とも言える妹の言葉だからこそ、それが曖昧な問題ではなく現実の危機なのだろうと理解してしまう。

 

「そう。今、ここでやらなかったら……私たちは、きっと二度と歌えない」

「えー、そんなのやだよぅ」

 

 天和がやんわりと拒絶を示す。歌というのは自分と姉妹を繋ぎ、自分と人を繋ぎ、人と人を繋ぐものだと信じているからこそ、その可能性が閉ざされることは認めがたかった。

 

「それだけじゃないわ。そんなことになったら私たちは……あの子をあの場所で泣かせたままにしてしまう」

「あっ……えと」「……っ!」

 

 人和が口にした言葉につられ、姉妹の間に深い後悔の念が湧き上がる。思い出すのは、ただ歌を歌うだけが全てだった頃。黄巾賊と呼ばれる支持者(ファン)たちが三姉妹を取り囲み、自分たちがいかに楽しみながら歌うかということしか考えられなかった時代。

 

 黄巾の時代は、小さな女の子の慟哭で終わった。

 

 女の子がその目にいっぱいの涙をためて、姉妹を断罪する言葉を飲み込んで、青に溶け込んだ光景。温かくもあり、冷たくもある記憶。しかし、その光景を思い返す度に姉妹が思い浮かべる言葉は、ただ一つ――つらい。それだけだ。

 いつまでも忘れることが出来ず、忘れるべきではなく、そして未来でもこの光景に向き合うことが出来ていないのかもしれないこと。

 だがそれは、誰にとっても紛れもない『過去』なのだ。

 

「――そっか、そうよね。歌うしかないんだから、歌えばいいのよ! 間違った分なんて取り戻して利息つけて返せばいいわ!」

 

 次女の地和が空に向かって吠える。

 

「ええ。今度こそ、やり直しましょう。あの子供を笑顔にするために、みんなのために、本気で歌いましょう」

 

 三女の人和が未来に向かって誓う。

 

「……うん。ちーちゃんとれんほーちゃんがいいなら、そうしようっ」

 

 長女の天和が姉妹に向かって微笑む。

 

 苦しみ続けるのはいい。それは自分たちのためだけに歌っていた姉妹の罪だ。

 だが、あの子を泣かせたままにするのは認められない。それは心優しい姉妹の意地だ。

 

 静かに見守っていた曹操が小さく笑う。この娘たちは希望だ。つらく苦しい状況にあって華を失わない大陸の希望。この華を、本当の意味で活かす時が来た。曹操は表情を引き締めて姉妹に告げる。

 

「まず私たちは東郡の北に現れた賊を討伐に行くわ。貴女たちは私たちの後を追うように東郡に向かい、そのまま北から陳留まで州を一周して興行を行ってちょうだい」

『はいっ!』

 





>歌姫
 不遇かと思った? 残念、みんな良い子でした! 恋姫キャラは基本良い子ですよね。


>この蜂蜜を作ったのは誰じゃあ!
 このシーンを書くために美味しんぼを読み返しまして、気がついたら投稿を考えていた日曜日の前の朝だったんです。時計を見て日付を見て我を取り戻した際の気持ちは、たぶん中高生がテスト前にやらかしちゃった時と同じ類のものだったと思います。

>1億銭ポンと値引いてくれたぜェ(クズスマイル)
 来いよベネッ
 『後漢書』劉虞伝に曰く、幽州に2億銭を出したのは青州と冀州。『資治通鑑』に曰く初平元年(190年)夏4月のこと。幽州が胡族に荒らされ歳入が減少したためだとか。
 1億銭というのは物価的には20億~500億円、感覚的には200億円くらいか。

>算数vs軍師
 算術の勝ち。九章算術という(例えが)難しい本に色々書いてあるそうです。

>イナゴの大発生
 興平元年(西暦194年)は4月から雨が降らず穀物が一石50万銭、豆類一石20万銭にもなったのだとか。長安で人が食べ合い、白骨の山が築かれたと記録されます。


 何度かまた曹操をピンチにする作品か、的なお言葉をいただいてるのでフォローさせていただきますと、史実の曹操はもっと酷いとこから勝ち上がりました(意味不明)。ので、ご安心下さい(?)。最大勢力として勝ち残ることになると思います。
 油断すると詠を動かしてしまうので、次回は詠がまた出てきそうです。でも私……実は美羽のことが好きなんです。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。