無双†転生   作:所長

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5-1 月の出

賈駆(かく)っちー! (ゆえ)っちー!」

 

 遠くから独特のイントネーションが大声を上げながら近づいてくる。

 

「あん?」

 

 眼鏡でツリ目の軍師が振り返る。何か張遼(あいつ)の機嫌が良くなることでもあったのか考え、そう言えば速報には江陵の名前があったことを思いだした。おそらく江陵騎馬の姿を見てご機嫌なのだろうと推測し、とりあえず、その興奮に付き合うだけの元気を配分するのはやめようと心に決めた。

 

「大事でもないのに官庁を走り回るんじゃないわよ!」

 

 つまり、これが彼女の素である。

 

 

「ウチ、ここ辞めることにしたから! ほな!」

「待てゐ!!」「へぅ!?」

 

 どうやら張遼の興奮には強制的に付き合わされることになるようだ。賈駆は内心の混乱を怒りに変えて、張遼に水を向けた。

 

 

 

「――そしたらな、空海様は笑って『勝つためじゃあ不足か? 俺の霞』って言うねん。ホンマに格好良かったんよ……」

「それって恋かも!」

「月黙って。聞くなら黙ってて」

「へぅ……ごめんね詠ちゃん」

 

 董卓は話し始めてからずっとこうである。この娘は普段は大人しくてとても良い娘なのに、昔から興奮すると性格が変わるのだ。賈駆としてもそれを含めて親友だとは思っているのだが、今そんなことに構う元気はない。

 

「――そんで、空海様は本を指差して『俺の名ならそこに書いてあるだろう?』って言うてん。ウチも一度でええからあんな台詞言うてみたいわー」

「わ、私はクッキーが、食べたいんだな……なんて」

「月黙って。わかったから黙って」

「へぅッ」

 

 張遼は話し始めてからずっとこうである。惚気話か、と叫びたくなる衝動を抑え、なんとか客観的に見るよう努めるだけで、賈駆は今日使おうと思っていた元気が全て消費されてしまうのではないかと感じ始めていた。

 

「――ほんでな、空海様が『お前の顔を見せてくれ、俺の霞』って言うてくれてんのに、ウチ恥ずかしぅて顔を上げられへんねん」

「生まれる前から好きでしたーっ!」

「月黙って。お願いだから黙ってて」

「っへうッ!」

 

 話に出てくる空海は無茶苦茶だ。張遼の思い出の中では初対面で真名を呼んでいるなど明らかな誇張が見られるため、話半分で聞かなくてはならないのかもしれないが。

 いずれにしても音に聞く江陵の長でありながら、気さくな人物であるということは理解出来た。だが、賊の討伐で先頭に立ったり、ましてや武器を持って突っ込んだり、刺史と会見するより拾った子供と遊ぶ方が大事だなんて、これだから男は――と、賈駆はそこまで考えて、今は張遼の方が重要だと思い直す。

 

「――せやのに、空海様が『辞めるなら普通に辞めてこい。仕事を投げ出して来ては駄目だぞ、俺の霞』って言うから、普通に辞めに来たねん」

「キャー!」

「あれのどこが普通よ! 月もキャーじゃない!」

「キャオラッ!!」

 

 どうやら大事にはならずに済みそうだ、と賈駆は胸をなで下ろす。空海の思惑は見えないものの、張遼の熱烈な申し出に対して冷静に応じてくれたことには感謝したかった。

 張遼をどう言いくるめるかと賈駆は考え、彼女の視線がこちらを向いたことに気付く。

 

「あによ?」

「っちぅわけで、あとのことは賈駆っちに任せるわ! ほな!」

「って、行かせるかァ! 賈文和眼鏡斬りッ!!」

 

 振り返った張遼の進路を阻むように賈駆の跳び蹴り(・・・・)が炸裂する。

 冷静にそれをかわした張遼だが、進路を阻まれたことに関しては立腹していた。

 

「なにすんねん!」

「出たー! 詠ちゃんの8つある必殺技の一つ、賈文和眼鏡斬りッ!」

「月黙って。黙ってないと、わかるでしょ?」

「ご、ごめんね詠ちゃん」

 

 興奮する張遼と董卓に対して、賈駆は比較的冷静に憤慨していた。

 

「今出てったら、あんたの大好きな空海様に『ウチの張遼が仕事放り出して行ってしまいましたが、行方をご存知ありませんか』って手紙を送るわ」

「汚い! 賈駆っち汚い!!」

 

 張遼が一瞬で崩れ落ちる。張遼にだってわかっていたのだ。『普通に辞める』というのは一方的に辞表を突きつけることではないのだと。それでもやるだけやってみたのは、董卓が雰囲気に流されやすい子だと思っていたからだった。

 

「はぁ……騎兵はまとめて来たんでしょ。すぐに洛陽に行くわよ。洛陽で用事を済ませて隴西(ろうせい)まで帰ったら辞めても良いから、そこまでは指揮してちょうだい」

「ええぇ!? 隴西なんて行ってたら1ヶ月はかかるやん!」

「だからその1ヶ月の間にあんたの後任を見つけるって言ってんでしょ! こっちも無理してんだからあんたも我慢しなさい!」

 

 それでも張遼は反論を探そうとして、理由が見つからずに落ち込んでいく。

 そして賈駆は、他人がそういう姿をしているのを見るのが大嫌いだった。

 

「あーもう! 早く見つかったら先に隴西に帰った華雄を呼んで代わってもらうし、洛陽で今回の戦功の対価に人材を探してもらうから! ……あんまり功はないけど」

「クスッ……詠ちゃんたら」

「ゆ、月!? 何よ、何か言いたいことでもあるのっ?」

「ううん、なんでもないよ、詠ちゃん。私も早く帰りたいな」

 

 優しく微笑む親友に、内面を見透かされているような気がして、賈駆は真っ赤になってそっぽを向く。

 

「早く帰ったらそれだけ早くお馬さんが食べられるもんね」

「月、黙ってて」

 

 しかし、許せない発言もあったらしい。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「寿成が来ているのか」

 

 空海たちが江陵軍を引き連れて凱旋し、お祭り騒ぎの3日が過ぎた翌朝。

 

「はい、昨日こちらに。ただ、こちらまでの行軍の疲れもあったようで、病の状態がよろしくありません。治療を行っておりますが、状態の改善が限度でしょう」

 

 于吉が案内がてらに馬騰の状態を伝えている。

 

「そんなので、周りはよく江陵行きを止めなかったな」

「ご本人たっての希望ということで、訪問を決められたのだとか」

 

 江陵軍の凱旋は、普段清潔を優先する病院にすら多くの飾り付けを残していた。

 病は気から、というのなら、この3日で病状が改善した人間も多数出るのだろう。

 

 しばらく後、于吉と別れた空海は、護衛付きの重厚な扉の前に立っていた。

 

「ちわー空海屋でーす」

「きゃああああああ!」

 

 病人の叫び声が一番元気だった。

 

 

 

「むむむむっ無視して入って来るなんてぇぇぇええ!」

「髪なら整えるのを手伝ってやるから泣くなって……」

「うぅぅぅぅううう!!」

 

 馬騰が真っ赤になってむくれるが、その姿は、男女の関係に疎い馬超さえ笑って見ていられるようなものだった。

 

 髪を整えた後は、馬騰に食事を取らせる。

 馬家は江陵の戦勝を祝い、噂がどこまで本当かも話題になった。

 馬騰が墓を江陵に作りたいなどと言い出して馬超たちが慌てたりもした。

 

 

 やがて話が落ち着いた頃、空海は馬超と馬岱を食事に送り出し、護衛たちまで遠ざけて人払いをする。

 

「さっき聞いたんだがな。お前の命、長くないそうだ」

「だろうな」

 

 空海はしばらくの間、馬騰と目を合わせていたが、やがて目をそらす。

 再びしばらくの時が流れ、空海は顔を上げた。

 

「笑って逝けそうか?」

「ああ」

 

 馬騰は僅かな迷いすら見せずに答える。

 その目は空海を見据え、その顔は柔らかく微笑んですらいた。

 

「そうか」

「そうだ」

 

 空海はそれ以上言葉を紡がず、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「あーづーいー……」

 

 ミーンミンシャカミミンミンミンミーン

 

「あんた1ヶ月前の熱意はドコへ行ったのよ……」

 

 かくいう賈駆も、ヘタレた張遼を元気づけるほど動きたくはない。一流の軍師を自任する身であっても暑いものは暑いのだ。

 

「……せやかて、賈駆っちが見つけてきた人材がアレなんやで?」

「うっ」

 

 視線の先にあるのは、馬にまたがったまま器用に熟睡してヤギの群れと一緒に移動する赤い少女、と、走ってそれを追いかけまわすちびっ子だ。

 

「でっ、でも、あんたより強いでしょう!?」

「確かに強いけどなー……指揮の方はてんでやし。武やって、空海様には敵わへんよ」

 

 張遼は未だに空海の名を口にすると赤くなる。賈駆としては絶対に思い出補正が入っているのだと考えているところだ。

 

「あんたの中で空海様っていうのはどれだけ強いのよ」

「真の武や」

 

 張遼は迷いなく答える。賈駆はじと目でその様子を観察し、そして、認識を変えさせることを諦めた。

 

「はぁ……。あの娘の指揮、もうちょっとマシになってくれないかしら」

「無理やと思うなぁ。周りの意識から変えたる方がなんぼかやりやすいと思うで」

「ああ、周り。周り、ね……はぁ」

 

 あの陳宮(ちんきゅう)という、視野が狭くて、狭い視野すら偏っている少女を思い出す。頭の回転は悪くないのだから、もう少しだけ視野が広ければ力になったのに、と賈駆は悔やむ。

 それでもなんとかあの少女が『恋殿』を通して周りを見るすべを得られれば。賈駆の悩みは目下それだけだ。

 

「詠ちゃーん。お馬さん獲ってきたから一緒に食べようー!」

 

 片手で馬を持ち上げて振り回す親友の姿など、賈駆には見えないのだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「さて、かつての連結器では士元が醜態をさらしたわけだが」

「あわわ……」

 

 鳳統が帽子を目深にかぶって顔を隠す。それでも僅かに見える耳は真っ赤になって、彼女の内心を表していた。

 

「今度は孔明に醜態をさらしてもらおうと思う」

「はわわ!?」「あわわ?」

 

 空海が用意したのはダイヤである。ダイヤと言ってもダイヤモンドではなく、ダイアグラムが元になった、列車などの運行を視覚的に表した図だ。

 江陵の馬車鉄道における個別の車両あるいは馬が、どこから出発してどこまで、途中にどのくらいの時間をかけて移動するのか、ということがわかるようになっている。

 もちろん空海が一人で思い出して書いたものではない。空海は、孔明を驚かすために頑張って考えてダイヤというものを思い出しただけであり、管理者たちと水鏡に協力してもらってそれっぽく仕上げたのだ。完成度は折り紙付きである。

 

「とりあえず、この運行図表を見るが良い!」

「あわっ!?」「はわわ!? ……。はわわわわ」

 

 図表の文字と数字、線の意味を極めて短い時間で理解したらしい二人が慌て出す。

 

「士元、よく見ておくがいい。アレが孔明の醜態だ……おや?」

「はわわわわわわわ」「あわわわわわわわ?」

 

 壊れたレコードのように、あるいは「はわわロボ」のように止まらなくなった孔明の様子を観察する。空海は鳳統にもその様子を見るように促すが、鳳統も鳳統でダイヤを見てあわわロボとなっていた。

 

「こっ、これどうやって、どうやったんでしゅか!?」

「あわわわ、これを使えば輸送計画の立案が効率的に」

「厩舎の利用率を上げて――ううん、馬車増発計画も」

「あっ、これ向きを、折り返しが、あわ、どうしよう」

「そうです、折り返しでしゅ! はわわっ、これなら」

「はわわわわウフフ……」「あわわわわクククッ……」

 

「参ったな……二人とも壊れてしまった……」

 

 孔明の罠である。空海の自爆とも言う。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「へ? また洛陽へ行くんか?」

「そうよ。何でも徐州辺りで黄巾の残党が決起したから、その討伐をするんですって」

 

 徐州は大陸の東、海に面した場所にある土地だ。黄巾賊は徐州とその北側の青州で多く発生した。董卓の他にも各地の中郎将には召集が掛かっている。

 

「ふーん……。って、なんでココやねん? 隴西なんて西も西やないの」

「知らないわよ。勅令なんだからそういうのは考えなくてもいいの。すぐに行くわよ」

 

 隴西から徐州へは、漢の領土を西から東へ横断する必要がある。軍で向かうなら、それだけで数ヶ月はかかるような距離だ。

 だが、隴西に配備されている軍の大半は国からの金で維持を行っており、遠征費の大半も国が持ってくれる。異民族の襲撃に晒されている最中ならばまだしも、今は拒否出来る理由もない。

 賈駆は、今度こそ城攻めも防衛も出来る兵科を揃えることを決め、軍をまとめ始める。

 

「ほな、長安までは一緒に行ってもええけど、そこでお別れやで」

「ぐっ」

 

 賈駆は、なんだかんだと言って張遼を3ヶ月近く引き留めてしまっている。心情的には好きにさせたいが、実情として厳しいために送り出せないのだ。

 しかし、張遼の良心によって保たれていた関係も、これで終わる。

 

「……しょうがないわね。長安で送別会を開くから、勝手に出て行くのはナシよ」

「おっ。賈駆っち太っ腹ー! 楽しみにしとんでー」

 

 宴会に参加する面子への呼びかけ、場所や飲食物の手配、細かい日程などを考え始め、賈駆は小さくため息を吐いた。

 

「全く……現金なヤツ」

 

 それはいつものため息より、少し軽い気がした。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 馬騰が空海の手を握り、自分から握ったにもかかわらず真っ赤になって空海を睨み付けている。

 

「じゃ、じゃあな! 世話になった、空海殿」

「うん。困ったら孟起たちも頼るようにね。何かあったら文でも寄越せ」

 

 馬超は既に長安に戻り、馬騰の代理として軍を率いて洛陽へと出頭している。

 徐州方面で再発生したという黄巾賊の討伐のため、帝が洛陽に兵を集めたのだ。

 

「あ、ありがとう」

「うん。何と言うか、悔いのないようにな」

「……わかってる」

 

 馬騰は、これから長安へと帰る。遠征に代理を立てたとしても、征西将軍として仕事がなくなったわけではない。

 むしろ最近の五胡による侵攻は、頻度こそ減っているが規模は大きくなり、装備や戦術において大きな飛躍が見られるため、危険度は増している。異民族討伐のために将軍位を授けられた馬騰には、休まる暇などないのだ。

 

「一応な、太子太博(たいしたいほ)に推挙しておいたから、征西将軍の印を返上することも考えておけよ。上手く通れば多少は労も減るはずだ」

「……名誉職か」

 

 太子太博は三品官の文官で実権をほとんど持たない名誉職であり、名目上は次期皇帝の教育係にあたる。現在の太子である劉弁は()子眇(ししょう)に育てられ、もう一人の子供である劉協は(とう)太后に育てられているため、それらに割り込む形になる。推挙が認められるかは五分五分だ。

 

「ああ、お前の教育が良かったって宮中で評判になってるらしくてね」

「え? 教育?」

 

 

 

 そんな会話から3ヶ月とちょっと。

 

「で、では、みっ、帝に代わり馬討虜校尉が、くくく空海元帥の忠誠に」

 

 今、馬超がガチガチになりながら書状を広げ、それを読み上げようとしていた。

 

「うーむ、まさか方位磁針占いで命が助かるなんて」「お姉様ガチガチだねー」

 

 空海と馬岱が書状の中身と馬超の様子について好き勝手コメントする。

 帝は半年と少し前に暗殺されかかり、しかし、占い係が方位磁針を使った占いで暗殺計画を予言したためにかろうじて難を逃れていた。

 そのため、直後のごたごたが片付いた今になって方位磁針の礼をするため、東方黄巾の討伐に功のあった馬超に感謝状を持たせて江陵へ送り込んできたのだ。

 

「お、お前ら……あたしがっ……人の話を聞けーっ!」

「あ、書状は破らないようにね」「陛下の書状をもったまま暴れて良いの?」

「ハッ! あぶぶぶぶぶ!?」

 

 馬超が叫ぶが、空海たちは冷静にからかう。

 そもそも馬超は高官である空海に会いに来るのに正装をしていないし、それ以前に到着を知らせる使者すら出していない。

 帝の手紙を持参したのなら、事前に使者を出して受け入れの準備をさせ、必要以上に着飾って全員を平伏させ、歓待を受けた後に大仰に差し出すべきなのだ。

 いきなり出世した上に大役を仰せつかった馬超は知るよしもなかったが。

 

「ほら、書状は俺が預かろう」

「お姉様、校尉になったんだからもうちょっと頑張ってよね!」

「うぅ……」

 

 遡ること約4ヶ月。

 馬超は皇帝に直接『軍の威容』を自慢され、しかし、思わず素で返してしまったことで逆に気に入られて討虜校尉に任じられた。

 遠征軍を指し、江陵の軍と比べてどうだ、といった意味で尋ねただろう帝に対して、馬超はおおむねこんな風に答えたのだそうだ。

 

『ここに兵士を集めても仕方がない。敵はここには居ないんだから、討伐に行こう』

 

 馬岱によれば、馬超はしどろもどろしていて何を言ってるのかわかりづらく、直感的な内容ばかりで、しかも部分部分でため口だったので周囲に凄く睨まれていたのだとか。

 だが、その言葉を聞いた帝は衝撃を受け、もっともだと頷いて馬超を褒めた。

 

『乱から離れた場所に軍を集めてそれを誇っているなど、自分は愚かだった。だが馬超はそれに気付かせてくれた。もっと早くに言葉を聞くべきだった』

 

 帝は賢すぎたのだった。

 そして、賊の鎮圧を手早く終わらせた馬超は、これらの功績を称えられ討虜校尉に任じられると共に、帝からの感謝状を江陵へ届ける大役を仰せつかった。江陵産の占い道具が暗殺を防いだことに関する礼だ。洛陽を出立したのが半月ほど前の話である。

 

 

 

 洛陽の帝は今、軍を率いていた宦官たちと距離を取り始めている。地方の賊を討伐するのに洛陽に兵を集めさせた彼らを、もはや将として信用できないのだろう。

 一方で大将軍の何進も同じく帝と距離を置かれ始めている。二度にわたる大規模な遠征軍において、初動から洛陽の守りを固めていたことは評価されたものの、最後まで洛陽の前から動かなかったことで全体としては評価を落とした。

 

 失態を取り戻すべく躍起になった宦官と大将軍による縄張り争いと足の引っ張り合いと騙し合いと暗殺合戦によって、洛陽はずいぶん荒れているようだ。

 両陣営は皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓、袁紹、袁術、曹操といった、意志を明らかにしていない大物たちを、自らの仲間に引き入れるべく洛陽に集めている。

 

 江陵や馬家は劉表を筆頭とする勢力に表向き組み込まれているため、今のところはこれらの動きには巻き込まれていない。朝廷における劉表寄りの勢力によって政治的に守られている形だ。

 もっとも、勢力の呼ばれ方は『江陵派』であり、劉表の性格もあってそれぞれが独自の勢力のような動きもしている。そして、高い自由度が意味するのは、放っておけば泥沼に引き摺り込まれることになるということだ。

 

 

 今回、馬超が二つの陣営から大きな恨みを買ってしまった。今も、暗殺を狙われ失脚の機会を窺われている。形としては両陣営の自業自得なのだが、馬超にあることないことの罪を被せて『馬超の言葉には価値がなかった』とでも言うつもりなのだろう。

 

 馬超が形式に則らずに帝の書状を持ってきたことは、伝わっていない。だが、人の口に戸を立てることも出来ない。空海は軍師に対処させ、結果、馬超の訪問は『逆賊の討伐や暗殺未遂といった国の恥を解決しただけであり華美に飾る必要はない』という判断の下で質素に行われたことになった。少なくとも宮中では。

 

 

 1ヶ月ほどを置き、この話が帝に伝わると、馬超は更に評価を上げ護羌校尉に指名された。馬騰直下では、最高位の涼州刺史に次ぐ高官への栄進だ。ここで功績を立てれば州刺史や州牧、あるいはその先への出世すら見えてくる。馬騰征西将軍の後継として恥ずかしくないスピード昇進だ。

 からかい混じりに褒められて悶える姿は全くそれを感じさせない上、当人は何故出世したのか全くわかっていないのだが。

 

 なお、この件で一番の出世頭はさりげなく司馬に指名された馬岱だった。

 馬岱は仕事が増えることは泣いていやがったが、収入が出来たことは泣いて喜んだ。

 こちらは褒められて偉そうにしたのだが、周囲全員が自分より高官であると知らされてもう一度泣くことになった。

 その馬岱でも兵士2千人に1人すらいない高官だ。収入も一般的な農家10軒分以上なのだから、基準点がおかしいだけである。

 

 

 

 そんな風にして、馬超の『はじめてのおつかい』が上々の成果を残し、馬岱の涙が空海の羽織を濡らし、洛陽が泥沼の様相を呈していた頃。

 

 帝崩御の知らせが届く。

 

 

 

 

 

 先帝、霊帝を継いだのは劉弁だった。

 

 霊帝の葬儀に出席した空海は、何故か何進にくっつかれた。何進は何を着ても着崩してしまうエロティックな美女である。空海は江陵女子の目が怖すぎて戦々恐々としていたが劉表が宦官の親父たちにくっつかれているのを見て我慢することにした。

 喪服を着崩した色っぽい美女に密着されて、艶めかしい吐息を吹きかけられるだけの簡単なお仕事なのだから。

 ちなみに、元帥は既に政治面において大将軍位に次ぐ権威を有している。何進の態度は最低でも敵対しないよう媚びを売ると同時に、周囲へのアピールも兼ねていた。

 

 空海が後から確認したところによると、宦官たちも空海を取り囲もうとしていたらしいのだが、劉表が身体を張ってブロックしてくれたらしい。劉表にも思惑あってのことではあったが、それは空海に伝わることはなかった。

 空海は心から感謝し、お礼に酒蔵一つを丸ごと購入して中身を劉表に送りつけた。

 

 

 そして何故か元帥が一品官相当へ昇格した。表向きには大将軍を超え、三公に限りなく近い高官へと。あと劉表も散騎常侍を加官された。

 

 

 空海が劉表に渡した酒は日本酒風の公良酒が合わせて1千石(2万リットル)ほどだ。

 劉表は一人で飲みきれないため部下に振る舞い、それでも飲みきれそうにないので宦官たちに大量に送りつけたそうなのだ。

 

 江陵の酒を除いた場合、高級酒は1斗(2リットル)あたり50銭程度。だが、公良酒において高級品と言えば400銭から。出回っている程度の高級品でも上は4千銭、本当の最高級品は1万銭を超える。

 今回空海が買い取った酒蔵は、上等な高級品から上を扱う場所だった。しかも名士筆頭劉表お墨付きの『徳の高い(マジ美味ぇ)酒』だ。

 

 宦官たちの上位十数人に対して、500石(1万リットル)ほどの美酒が送りつけられ、しかもそこには江陵の名と劉表の名が入っている。

 いろいろな意味で狂喜乱舞した宦官たちは、この贈り物を宣伝材料にして、自分たちの勢力に組み込んだ(と思っている)空海たちに官位を配ったらしい。おそらくは酔っ払ったまま。

 

 これらの動きに危機を感じた何進が諸侯をまとめ――そこで唐突に失脚した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「月、去年に続いて洛陽の何進がお呼びよ」

 

 賈駆が、疲れた様子で書状から顔を上げる。

 

「ええ? 大将軍様たちには関わらないって詠ちゃん言ってたよね……?」

 

 洛陽の混迷した政治に関わったりしたら、命がいくつあっても足りない。

 そのため、以前から拒否出来る要請は拒否し、洛陽に行かなくても済む案件は離れたまま処理してきた。出世に興味がないことをアピールするため、人に譲れる案件もできる限り譲っていた。

 

「そうよ。でもこれは正式な命令だから拒否は出来ないの。とりあえず顔だけ出してすぐ逃げるわよ」

 

 それでも、というべきか。

 なりふり構わず周囲へと助けを求め始めた何進は、距離を置こうとしていた董卓の元にまでその手を伸ばしてきた。

 

「えっと、逃げちゃっていいのかな……」

「いいの。っていうか、宦官に江陵派がついた時点で勝負にならないわ。ホントはこの命令も拒否しちゃっていいと思うんだけど、後で難癖付けられたりしたら困るもの」

 

 江陵が本当に宦官の味方になっていたのなら、勝負は決している。何進に味方する理由はなくなったとも言える。

 江陵が本当は宦官の味方になっていないのなら、状況の混迷は続いている。何進に関われば中央の権力闘争に巻き込まれる。

 江陵が宦官の仲間になっておらず、なおかつ中央に進出してきたのなら危険だ。何進も宦官も共倒れの可能性がある。

 

 いずれにしても、命令を無視したりしたら、勝ち残った勢力によっては地位を奪われる口実となってしまうかもしれない。正式に発行された命令なのだから、公的な記録を辿ればすぐにバレてしまうのだ。

 

「でも、今は麦の刈り入れ時だよ?」

「わかってるわよ。だから、ひと月だけ遅らせて行くわよ。その間に決着がついていれば良いんだけど」

 

 出立をひと月遅らせ、洛陽までの行軍で更にひと月。合わせてふた月あれば状況は変わるかも知れない。

 今も洛陽には有力な諸侯が集められているのだ。ふた月もあれば何かしら事態は動くだろうと賈駆は考える。

 

 だが、董卓陣営と洛陽で交わされる情報の距離は、賈駆の想定を超えていた。

 

 

 

 

 洛陽城壁の内側、洛陽大城の西側には屋敷付きの大きな二つの庭園がある。その一つが先々帝時代に造営された顕陽苑(けんようえん)だ。

 

 あの命令から2ヶ月余り。

 董卓たちは今、軍の進駐許可を得るためにその顕陽苑の脇に馬を進めており

 

 賈駆の目は、自分たちの運命が崩れていく景色を映す。




>生存報告
 ご心配おかけしています。生きて書いてます。現状5-4くらいまで書けています。色々余計な部分を削ってスリム化したいのですが、勿体ない精神が出てしまって消せないのであえて書き足して行こうと思います。現在の進捗は7割完成くらいだと思います。次は来週の土日に投稿しようと思います。

>宣伝
 そしてかなり今更ですが、歴史検証などに使用した資料をそれなりに見やすくまとめた拙作『資料 恋姫時代の後漢』の存在を宣伝するのを忘れていました。この作品はもともと宣伝用に作ってたはずなのですが。でもよく考えたらこの作品思い切り歴史を無視してるので気にしなくていいような気もしてきました。資料の方から見て下さってる方々、硬派なの期待されてる方々はごめんなさい。

>西暦199年→200年頃のお話?
 麦の実りは夏。「麦秋」は初夏を指す言葉です。実りの秋を理由に場を辞するため、夏に洛陽に向かった董卓たち。張遼が抜けてから約1年が経過しました。

>賈文和眼鏡斬り
 やがみさんの『彼女になった彼』からお借りした必殺技です。避けられやすいです。

>高級品は400銭から上
 キームン紅茶の最高級品は高級すぎて出回らないのです。江陵のお酒もそんな感じですよ、という。

>何進と張譲、二人はライバル。
 ちょろっと出しちゃいました。とはいえ、出したからには生き残ってもらおうということで、暗殺オチではなく失脚となりました。慌てるな張譲の罠だ。
 ちなみに史実では入水自殺した張譲ですが、ここでは洛水に飛び込んだらテンションが上がってしまい泳いで渡り切り、冷静になってから(泳いで)戻ったものの帝にクビを言い渡されました。多分次話でも書きませんのでここで。

>史実ネタ
 霊帝暗殺計画と占いによる阻止は史実です。でも本当は江陵は関係無いです。中平五年六月のこと。
 青州と徐州の黄巾も史実です。発生は以下と合わせて中平五年十月。
 洛陽に兵士を集めた霊帝が諫められるのも史実。ただし相手は討虜校尉の蓋勲。
 史実の何進は暗殺を恐れて霊帝の葬儀を欠席したため呼び出され、殺されています。
 あの二人を拾った顕陽苑の位置も史実から。中平六年八月。

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