さくり、さくりと足元の砂が擦れる音。
体に纏わせた空気の膜が暑さを遮っても、何もない荒野では照り返しが目に刺さる。その久方ぶりの刺激に帰ってきたと感じても、同時に、我らの領域は蛮族達の住む地に比べて不遇ではある。
遠く目を向ければ、見えるはネフテス。並ぶ白の建築物は美しくはあるが、無駄のないそれは無機質に過ぎる。こんな感想を持つのは、蛮族の生活に関わりすぎたからであろうか。不便ではあっても、あれにはあれの良さがある。
「――叔父様」
背中にかかるルクシャナの問い。不安げな響きに、言いたいことの予想はつく。
「なるようにしかならんさ。それに、だからこそ行くのだからな。それで駄目だというのなら、それこそ、何ともならん」
少しばかり自嘲が過ぎるだろうか。しかし、それも仕方がないと言わざるを得ない。
かの混沌王の使いと共に、国へ戻る。本国には既に報告していたものの、ついぞ受け入れの返事が来なかった。
結局、彼らと一旦別れ、攫われたことになっているルクシャナと戻り説明せざるを得なくなった。
懐に特大な爆弾を迎え入れるなど狂気の沙汰――ああ、そうだろう。
それは否定しない。だが、今更理想論だけを語って如何とする。愚かしさに、ただ、ため息ばかり。それも、ルクシャナに聞こえてしまったか。
「問題視しているのは、噂に聞く過激派ですか? 確か、鉄血団結党とか……。蛮族に対して討って出るべしとかいう………」
鉄血団結党――悪名高いだけに、ルクシャナも知っているか。
繰り返し攻め込んでくる蛮族に対して、守るばかりではなく積極的に駆逐すべきだと言う者達。我らにはそれだけの力は十分にあり、そうするだけの大義があると。短絡的ではあるが、確かに一部では賛同を得ている。
ただ、結局のところは自分たちの権勢を伸ばしたいというのが実態だ。事実、彼らの私兵と化している水軍は酷いものだ。自分たちの意に沿わないものは排除し、上層部は自分たちの身内で固めてしまっている。そして困ったことに、件の悪魔に対しても積極論を唱えている。
「ああ、それが全てというわけではないが、中心は彼らだ。困ったことに、普段は様子見の勢力も今回は理解を示していてな」
元々それなりの勢力があるのに加えて、そのことが話しを難しくしている。
「頭の悪い過激派ですよね? 何であんなのに賛同する者があんなにいるんでしょう。いくら綺麗事や勢いの良いことを言っても、現実を見ていなくて実現は到底不可能なことばかり。私には理解できないです」
ルクシャナの言うことはもっとも。現実を見て、きちんと考えれば同じよう結論に至るだろう。悪魔のことも蛮族のことも、結局は同じ問題が立ちはだかる。
私たちは、数としては決して多くなく、そして、一度失われれば回復にはそれなりの年月が必要となる。目の前のことだけではなく、将来のことを見据えて考えなければならない。それが政治であり、それを行うべきが政治家というものだ。
「ルクシャナ、お前が言うことは正しい」
皆がルクシャナのように現実を考えられれどんなに良いか。私の、いや、真っ当な政治を行いたい者の、それこそ無駄と言っていい苦労がどれだけ減るだろう。
「だったら、どうしてそうならないんでしょう」
素直なルクシャナの疑問。
いくら賢くても、まだ至らないか。思わず漏れた笑いに、ルクシャナのむっとした反応。こうやって素直であれるというのは好ましい。
「そうだな、敢えて言うならこういうことだろう。誰しもが合理的に考えることはできない。蛮族だけでなく、私たちであっても一時の感情に引かれることがある。そして、民主主義というのは優れた制度ではあるが、最善ではない。一歩間違えれば衆愚政治になりかねないという欠陥がある。一見好ましく見えても実現は不可能、そんな言い分でも勢いを持って言われれば引っ張られてしまうことだってある。加えて、政治と民衆をつなぐべきものが、自らの利益の為に真実を曲げるなどザラだからな。私は、そういうことだと思っている」
「そういうもの、何でしょうか………」
どこか納得がいかないといった様子のルクシャナ。
「今のはあくまで私の意見だよ。お前はお前で、自分が正しいと思うことを信じれば良い。それぞれが自らの信条を持つことが大切だと私は思う。誰かが言ったから正しいのではなく、自分が本当に正しい思えることが重要――敢えて言えば、それが私の信条かね」
「そう、ですね………」
それきり、ルクシャナは黙り込む。ただ、さくりさくりと砂を踏む音だけが着いてくる。
ルクシャナは蛮族の文化に傾倒するという異端児ではあるが、それは先入観だけで全てを否定するわけではないという証明でもある。これは、なかなかに得難い才覚だ。もっとも、周りに降りかかる厄介事に関してもう少しばかり意識を向けて欲しいものだが。婚約者であるアリィーは苦労事が多いと聞く。むろん、惚れた弱みを抱えたアリィーが情けなくもあるが。
「さあ、もうすぐだ。私達は私達でやるべきことをやるだけだ」
「――馬鹿げている。自ら悪魔を招き入れるなど狂気の沙汰だ。万が一に備えて、街の外で軍と会えば良かろう。そも、我らの役目は民を守ることだということをいかがする。そう思いませんか、皆さん」
件の、鉄血団結党の代表であるエスマーイル。
評議会の中でも若手である彼は、大げさな身振りを交え、朗々と自説を主張する。私達の中では珍しい、短い前髪の下の釣り上がりがちの目をギラギラとさせながら。
何かを発言するものはない。周りを伺うに、一概に賛成はせずとも様子見というのが大勢か。今の状況でも他人事のように振る舞えるとは、それはそれで大したものだ。
さて、これを何とかせねばならぬが、そもそも全うな理屈が通らない相手なだけに難しい。むろん、底には自らの利益に対する計算があるのだろう。だが、継ぎ接ぎだらけの自論と混ざり、本人ですら自分が言っていることの意味が分かっていないのはないか。何をおいても強硬論を唱えれば良いというものではない。
しかし、このような集団であっても一定の勢力を持っている。加えて、勢力を伸ばしているというのが厄介だ。キリがないので、私は右手をあげる。
「そろそろ、私からも述べさせていただきたいのだが」
「ビターシャル殿」
議長からの発言の許可。ふと、彼と視線が合う。彼としても参っているのかもしれない。であれば、期待にも答えたいものだ。私は独奏会を繰り広げるエスマーイルに向き直る。
「基本に立ち返っていただきたい。我らは助力を得られればと乞い願う側だ。今回は、先方の善意で使いを出していただいている。だというのに、信用できぬからと礼儀を尽くさぬなど、蛮族にも劣る。そうは思いませんかな?」
「下らない! 」
即座に否定する、エスマーイル。
しかし、議長を無視しての発言。議長も眉をひそめるが、そこには幾分かの諦めが見える。いつものことなのだろうと思うと、苦労が偲ばれる。
確かに、主張を通すのに声が大きいというのは効果がある。しかし、やり方というものがある。野次の類を全くの禁止すべきとまでは言わぬが、ここは冷静に議論すべき場だ。
「エスマーイル殿。私はおかしなことを言ったという認識はないのだが。貴殿は何をもって下らないとまで言われる」
エスマーイルは鼻で笑う。
「ビターシャル殿、あなたこそ根本的に間違っている。外交儀礼というものはなるほど、確かに重要だ。たとえ蛮族がどうあろうとも、我々エルフは誇り高くあらねばならん。しかし、だ! 相手は無差別の殺戮を繰り返す、文字通りの悪魔だ。礼儀など通じん。であれば、其れ相応の対応をすべきだと、どうして思わんのかね」
続く、同意する声。エスマール達の取り巻き達だ。
とかく声を大きく見せることで優位に運ぼうとする彼らの常套手段。そんな論理で運営するのは内輪事だけにして欲しい。私は、これを黙らせた上で、保身を図る者たちからの賛同を得なければならない。気は重いが、私がやらねばならん。残された時間はそう多くない。
彼らの真似などする気はないが、声を張る為に息を吸う。
「――そろそろ、私からも発言させていただきましょう」
ふと、議場に響く声。その声に皆が振り返る。
議場の入口に、いつの間にか男が立っている。上等のものだと思われるタキシードに身を包んだ男が、どこか呆れたように笑っている。そして、この男はエルフではない。
「誰だ!」
エスマールの誰何の声。この状況、想像ぐらいはつくだろうに。
男が答える。
「あなたが言うところの、悪魔ですよ」
エスマーイルの視線が、いや、皆の視線が私の元へ集まる。エスマーイルの表情は騙されたとでも思っているのか、滑稽なほどにゆがんでいる。今更他人のせいにするなどおかしなことだと、なぜ思えんのか。同じように自説を語れば良かろうに。
そして、答えたのは男。
「ああ、彼を責めるのはお門違いというものですよ。私は彼らとは別に来ていますから。そも、私と面識もありませんしね。まあ、言うなれば、あなた方が私達を警戒するのも道理であれば、逆もまた真なりとは思えませんか? 私達があなた方を無条件に信じるというのも無理な話。それなりの裏取りは必要でしょう?」
男の言うところはもっとも。それぐらいするのは当然であるし、考慮に入れるべき事柄だ。
「一つ良いかね?」
騒然とする中でも落ち着いた、統領であるテュリュークからの言葉。この状況でも取り乱さず冷静に対応できるというのは流石と言える。私よりも一回りも二周りも多く重ねた年月が為せるものであろうか。
しかし、気負わぬといえば皆の注目も集めるこの男も同様。
「どうぞどうぞ」
茶飲み友達にでも接するように、気安く言ってのける。実力のほどは分からないが、一人でどうとでもできるという自信の表れだろうか。
「そなたの――、ああ、私の名はテュリューク。ここネフテスの統領の位置にある。まずは名前は聞かせていただけると助かるのだが………。名も知らぬとあってはどうにもやりづらいのでな」
男が笑う。今度は、含みもなく、本当に楽しげに。
「それも然り。私の名はアルシエル、と。ああ、今の姿は仮のものなので、別の姿で会うこともあるでしょうがね。なにぶん、部屋の中では窮屈なものでしてね」
男が言うと、背後に黒い影がゆらりと広がり、消える。ちょうど、成体のドラゴンと同じほどの影が。
「おお、なるほど。ちなみに、アルシエル殿。悪魔とは自由に姿を変えられるのかね? この国に現れる悪魔からの被害もバカにならんで、知っておきたい」
男は少しだけ考え込む。
「さて、この国に現れるという悪魔とやら、私には面識がないのでなんとも。しかし、私が知る悪魔に関して言えば、そういった能力を持ったものはもちろん、それなり以上の格のものであれば当然できるでしょうね」
広がるどよめき。
そうだろう、自由に悪魔が街に入るかもしれない。いや、既に入っているかもしれないのだから。しかも、言葉が真実であれば、強力な個体であれば当然にだという。
統領は慌てずに、片手を掲げて制する。
「なるほど。これは有用な情報をいただいた。早速助けられたというわけですな。それで、続けて聞いてばかりで申し訳ないのだが、宜しいか?」
男は構わないとばかりに、ひらひらと手を振る。統領は感謝の言葉を述べ、続ける。
「先ほどの話、裏取りということであれば、あえて姿を表す必要はないはず。先ほどの礼を失した発言、やはりそのせいですかな。しかし、あれはエルフの国としての総意ではないということは理解して欲しい」
皆の視線が集まったエスマーイルの顔面は蒼白。
当然だろう。統領の発言は、手を打つのなら彼一人で勘弁して欲しいと言っているようなもの。ここで、堂々としていられるのなら見直すが、所詮は自分が可愛い小物でしかない。
男の視線は、エスマーイルを舐めるよう。いつの間にか彼に賛同していた者たちも離れ、一人だけになっている。
アルシエルと名乗った男は、クツクツと楽しげに喉を鳴らす。
「エスマーイルと言いましたか」
エスマーイルは声も出せない。しかし、アルシエルは続ける。カツカツと歩みを進め、エスマーイルの目の前で足を止める。並んだ二人の身長はそう変わらずも、その空気は捕食者に対峙したもののそれ。
「あなたが言うこともまあ、理解できないでもない。国の安全を考えれば、それもまた一つの意見」
男は、滑稽なほどに震えるエスマーイルの両肩に手を載せる。
「――でもね」
ピチャリ、と粘つく水音が聞こえた。
見れば、男の足元に黒々とした水溜りのようなもの。まるで生き物のようにエスマーイルの足元へと広がって行く。
男は、うろたえるばかりのエスマーイルに笑いかける。
「せっかく、我が主が助力もやぶさかではないと、選りすぐりを送っている。それを迎えるのがこれでは、無礼にもほどがある。私としてもね………」
広がる闇に、ズブリズブリとエスマーイルが沈んでいく。もがくばかりの耳元に、男がつぶやく。ただ、私たちにもはっきりと聞こえた。
「虚仮にされているようで、面白くないわけですよ」
男はエスマーイルの頭をつかむと、ゆっくりと押し込める。
エスマーイルが我武者羅に魔法を放つ。光球が浮かぶが、それはアルシエルの目の前で蒸発するように掻き消える。あとには、詰まらなそうな溜息と、そして、命乞いをする声。
ふと、それが通じたのか、男の手が止まる。闇からはかろうじて頭と、何かに捕まろうともがく腕が突き出ている。
アルシエルが統領に問いかける。
「私が見るに、コレは厄介の種だったかと思いますが、いないと困りますかね?」
「それは………」
統領も言葉につまる。
一人で済むのなら重畳。そして、男の言う通り、厄介の種でしかないとなれば。
「――なら、結構」
男の足が一押し。エスマーイルは沈んで見えなくなった。
残るのは黒々とした闇のみ。狂ったような金切り声だけは聞こえるのだから、生きてはいるのだろう。そして、後を追うように男の体も沈んで行く。
そして、一言だけ。
「一先ず帰りますが、良い返事を待っていますよ。私が言うのもなんですが、連れもまた、あまり気が長い方ではないのでね」
あとに残るのは粘つくような闇だけ。そして、エスマーイルの断末魔と、ボリボリと何かが砕ける音だけが聞こえた。声が聞こえなくなってようやく、その闇も地面に溶けた。
知らず、ため息が漏れる。
いくら保険として自分で仕組んだこととはいえ、後味は良くない。時が時であれば、私もこのような手段など取りたくなかった。避けられるのならば、避けたかった。
それからようやく侵入者の報が届いたが、既に遅い。そして、混沌王の使いを最大限の礼を持って迎えることは全会一致で決まったが、もう少しだけ、ほんの少しだけでも冷静な判断さえしてくれればとは、思わずにはいられない。
二人の男を迎え入れた。巨鳥から人の姿をとった二体の悪魔。
アルシエルと名乗った男はいなかったが、それでも馬鹿な真似をしようとする者がいないのは重畳。行き違いは瑣末なことと、平和的に進むというのは何より。悪魔には散々に手こずってきたのが私達の現状。更に格上だろう相手に策も無しに挑むなど狂気の沙汰でしかない。むろん、街一つと引き換えにすればあるいは、しかし、そのような覚悟が今の我々にあるはずもなし。禁呪などと言っては見ても、扱いきれないからこその呼び名でしかないのだから。
そして、悪魔が要求するのは情報。蛮族達が言うところの「虚無」、そして、「始祖」とは何かという、エルフが持つ知識。
それを渡すことの結果がどのようなものとなるか、それは確かに懸念される。しかし、我々が直接痛みを被るわけではない以上、悪い話ではない。むしろ問題となるのは、私達が持っている知識で取引の対価として満足させられるかということ。
そのことは統領も理解している。遠い昔のことであり、言い伝えとしてしか残っておらず、はっきりしない。統領はそう前置き、語る。
蛮族達が言うところの聖地であり悪魔の門。そこに虚無の始祖と呼ばれる、ブリミルという者が現れた。これは蛮族に伝わる話と共通するところだろう。しかし、私たちにおいては、そこに少しばかり加わる。
そもそも、ブリミルも悪魔の門も、それぞれが別のものとして存在した。ブリミルもごくありふれた一個人であり、悪魔の門もまた物騒な代物ではなかった。その時点において、ブリミルは言い伝えも残らないような一人の人間に過ぎず、悪魔の門も、いつから存在したのか分からないが、単に別の世界につながっているらしいというものでしかなかった。問題も、時折そこから迷い込む者たちの対処で済んだ。
しかし、ブリミルと悪魔の門が出会い、そこで何かがあった。何かは、何かとしか言いようがない。ただ、そこでブリミルは特別な存在になった。そこで初めて、虚無と呼ぶ悪魔の力を行使するようになったという。
大いなる意思の力を食らう正に悪魔の力。その、生まれ変わりと言える変化を降臨と呼ぶのなら、あるいは、それは表現として正しいのかもしれない。
そして、悪魔の門も変質した。それからだろう、悪魔の門と呼ばれるようになったのは。災厄を運ぶ門となり、その災厄が我々エルフへ数えきれないほどにの犠牲を出したという。多くの同胞を失い、一度は滅びかけたとも伝わる。
しかし、我々の中で聖者アヌビスと呼ばれるものがブリミルを討ち取り、滅びを免れた。とはいえ、一度は滅びかけたのだ。犠牲は多く、同時に多くの知識も失われた。災厄そのものに関する知識も例外ではない。悪魔の門と虚無については分からなくなってしまったことも多い。危険だと分かっていても、その危険の正体が断片的で分からないからこそ下手に手だしできない。それが我々の現状だ。
蛮族が聖地を自分たちこそ正当なる所有者として返還を要求するが、それがどんな結果に結びつくか分からない。だから、本質的に土地に執着を持たない我々であるが、飲めない要求として拒む。正直なところ、得体のしれない厄介者でしかないのだから、我々としても手放すに越したことはないのだが。
そして、こちらは憶測でしかないのだが、別の考え方もある。そもそも、虚無の力とはそれだけのものだったのかということ。残滓であるはずの蛮族の魔法も驚異には程遠く、果たして、虚無の魔法だけが我々の驚異となったのか?
この疑問に対して我々は推理し、ある一つの仮説をたてた。悪魔の門から時折、正体の分からないものが発掘される。蛮族がしつこく回収にやってくるそれは、ここ数十年で単純な仕組みのものから、いくら調べても目的もその原理も分からないほどに高度化した。もしや、我々に破滅に導きかけたのはその正体も分からないほどの技術ではないか、と。
虚無はこの世界の根幹である大いなる意思の力を破壊したという。しかし、それは少しばかり誤解があったのではないか。世界に備わる大いなる意思の力とは別の原理を元にした技術、加えて、誰でも扱えるという技術こそが災厄をもたらしたのではないか。そのようなものが広がれば、世界に遍く存在する大いなる意思の力は失われる。
それは、世界に対する驚異。秩序が破壊され、別の理が生まれる。二つのルールがあれば、それはぶつかり合い、やがて一つに収束する。そこでは争いが生まれ、どうやっても変質は免れない。
その時、誰でも扱える技術というものは驚異だ。数も、そしてその回復力にも乏しい我々にとっては滅びにもつながりかねない。いくら我々が一人で10の蛮族を退けられるとも、それが半分になってしまえばどうか。加えて、我々が一人前の戦士を育て上げるよりもはるかに早いペースに蛮族は兵を送り込んでくるだろう。虚無は殺しても復活するというのも、つまりはそのことを言ったことなのかもしれない、と。
そして、もう一つ。まだ確証が取れていないが、悪魔の門と思しき場所から、新たな驚異。それこそ悪魔と呼ぶべきものが現れた。驚異になぞらえて悪魔と呼んでいるが、むしろ逆で、それこそが正解だったのかもしれない。
純粋に悪魔が現れる門ということでその名なのかもしれない、と。だから、私たちは悪魔の正体を調べたい、そして、悪魔の門の正体を知りたい。封印してきたそれを、今度こそ調べたいが、できないでいる。
これは状況に対して理由付けしたもので、単なる推測なのかもしれない。しかし、ただ否定するだけでは済まない状況になっている。そもそも、この状況はすぐにでも対策を打たなければならないことであるから、我々は、何としても悪魔の門を調べなくてはならない。しかし、直接調べることは芳しくなく、だからこそ、トリステインにも出向くこととなった。
私達が語ったことに、悪魔は言った。悪魔の門については自分たちとしても調べる必要がある、と。
悪魔の門へは、私と二体の悪魔で向かうこととなった。
これは双方の都合を取った結果だ。主目的が調査である以上、エルフ側からそれなりの見識がある者が出る必要があったが、身の安全が保証されるものではないからか、結局立候補する者はいなかった。そして、悪魔側からすれば、余計な荷物は少ない方が良いという至極当然の理由。
もっとも、ルクシャナは異なる。本人が希望し、悪魔側からも今更否やということはなかったが、あえて残るように伝えた。ルクシャナの婚約者であるアリィー。状況が状況なだけにすぐに会うということは難しいかもしれないが、共に過ごせるのならば、すぐにでもそうすべきだろう。お節介かもしれないが、むしろ、これは年長者として必要なことではないかと思う。ルクシャナが生きていると知った時のアリィーの喜びようはなかったと聞いている。これ以上叔父である私が独占するというのであれば、きっと嫉妬することだろうから。
そして、悪魔の門への道程は、拍子抜けするほどに順調だった。業を煮やした戦艦が一隻向かい、結局戻らなかったということを聞いていたのだが、襲われることなどない快適なものだ。
遠く見かけることはあったが、むしろ相手こそが避けようというとするのだから。敵対すればこれほど恐ろしいものはないが、そうでなければ、これほど頼もしいものもないだろう。
景色が流れ、私が何かを言うまでもなく悪魔が地に降りる。
何もない、ただ開けた場所。せいぜいがポツリポツリと石ころが落ちているような、本当に何もない場所。
「言うまでもないかもしれないが、ここが我々が悪魔の門と呼んでいる場所だ。ただ、便宜上門と呼んでいるだけで、何かそれらしいものがあるわけではない。時折別の世界とつながり、そこから何かがもたらされるだけだ。加えて、中心こそここだが、門が開かれる場所もその時々によって異なる。私達は、悪魔は別の世界からここを通って現れているのではと考えている」
二体の悪魔は辺りを見渡すばかりで、何も言わない。ただ、その猛禽の目は鋭い。
私には見えないものが見えているのかもしれないが、それも想像でしかない。私は待つことしかできないが、どうにもいたたまれない。しかし、私は待つことしかできない。
ただ、待つ。
そして、どれだけ時間が過ぎたか、悪魔がようやく言葉を発した。悪魔は、何もないはずの場所を、じっと睨みつけている。
「――これは、確かに門だ」
あえて門と言葉にすることに思わず眉をひそめるが、悪魔は構わずに続ける。
「不完全も良いところだが、世界をつなぐ巨大な門になる。だが、不完全だからこそ破壊も難しい。誰が作ったのかは知らないが、相当な力の持ち主だろう」
我々としても理解の及ばない門については、神が作ったとも言われていた。この悪魔をしてそう言わしめる、たしかに、それこそ神の所業だろう。だが、私達が知りたいのは、もっと目の前のことだ。
「聞かせて欲しい。この門から悪魔から現れたのかどうかを」
悪魔は少しばかり考え込むような素振りを見せるが、言った。
「この門は、ボルテクス界とつながっている。我々と同じ悪魔が通ってくるということも、確かにあるだろう」
悪魔の言葉には、聞きなれないものが含まれていた。
「ボルテクス界とは、何だ?」
問いに振り返った悪魔は面倒臭気に目を細めたが、それでも、話す気がないではないようだ。
「ボルテクス界は――そうだな、我らがつい先ほどまでいた世界だ。悪魔の世界、今となってはそれ以上でもそれ以下でもない」
悪魔の言葉には、何かの含みがある。
残念ながら私には理解できず、悪魔もこれ以上語る気はないようだ。だが、悪魔がここから現れているということに対して、それなりの確証を持つことができた。それは十分な収穫だと言える。戦力を集中することに対して指針ができるというのは、非常に大きい。蛮族ではないが、数は力だ。
「――それと」
悪魔の言葉に、見上げる。
「この門に関しては、我々としても様子を見る必要がある。その間なら、手を貸しても良いだろう」
トリステインから遠く離れた、ロマリア。かつての古巣ではあるが、距離だけでなく、心としても遠い。
ワルド子爵と共にロマリアを訪れてより後、かれこれ一週間にはなるだろうか。物事には順序というものがあり、しがらみもある。使える時間が少ない中で得られたものは多くはないが、全くもって無意味だったというわけでもない。
わしは曲がりなりにもトリステインのブリミル教を司る者の中でも最上位の位置づけであり、かつての功績もあるということで歓迎された。
加えて、本意ではないが、教皇は、わしが引いたからこそ今の地位に辿り着けたという。わしはロマリアよりもトリステインを、いや、先王の頼みを優先しただけのこと。言ってしまえば責務を投げ出したのであり、今更古巣に大きなことなど口が裂けても言えぬ。
教皇の今の地位は自ら勝ち取ったものだと言いたいところだが、利用させてもらった。おかげで、邪魔を入れずに教皇と二人で話をすることができた。さすがに全てを知ることなどできないが、今はそれで十分。それに、全くの無意味というわけでもなかった。
教皇は、この時代に分かれた虚無の全てが揃うということに絶対の確信を持っている。始祖の虚無が復活し、世界へ救いがもたらされる。そして、最後にかけられた言葉。
「すべてが揃うことで、あなたも真の虚無の復活を見ることになるでしょう。我らが教えはすべてをその為にこそ生まれたのですから」
ブリミル教は、分かれてしまった全てを揃える為にこそある。そして全てが揃う時、失われた真の虚無が復活する。それは、数多く枝分かれするなかでも古くからある教えの一つ。その核心である真の虚無とは、すなわち――
ノックと、そして声。
「ワルドです。よろしいですかな?」
ああ、もうそんな時間か。ワルド子爵にばかり働かせておきながら、わしがこの体たらくではいかんな。
「ああ、入ってくれ。鍵は空いている」
挨拶もそこそこに、ワルド子爵が入ってくる。今までの服装では少しばかり目立つので、ここいらを訪れる貴族に一般的な服に取り替えてもらった。最も、帽子は譲れないとのことだが、それはくらいは良いだろう。実際、よくやってくれているのだから。
さて、現在滞在しているのは、一般的な宿屋。教皇からは神殿に滞在すれば良いとの言葉はもらっているが、節度は必要だ。自由に動けることが重要であるし、何より、客人が訪れることもあるであろうから。
「して、どうだったかな? 息災であられたか?」
わしの問いに、子爵は首を横に振る。
「既に亡くなられておりました。幸いなのは、苦しむことなく大往生であられたとのことでしたが」
「ううむ。亡くなられておいでか……。確かに、私がこの国にいた時からご高齢であられたとはいえ。この国一の知恵者をなくすとは惜しいものよ」
ただただ、残念だ。伺いたいことあったということだけでなく、師事した方が亡くなられた、そして、それすら知らずに過ごしていたということが口惜しい。
気を使ってか、子爵からは慰めの言葉がある。
「お気持ち、察します。皆からも慕われていた方だそうですな。民草からもとはまた、聖職者の鑑でしょう」
「そうだろう。清貧を旨として、清廉潔白な方であった。わしもそうありたいと常々思っている」
賄賂など決して認めない。今の情勢では疎まれることも多いが、それこそが本来あるべきものだと、わしは思う。今の教えを堕落したものと批判する新教徒を手放しで認めるわけではないが、そういったものが生まれるということに自ら反省すべきことがあるのではないかとわしは思う。ようは、身から出た錆なのだ。いくら弾圧しようとも、自らが変わらぬ限りきりがない。師は、常々そう言われていた。
「――枢機卿殿」
子爵の言葉に、そぞろな意識から我にかえる。
「済まぬな。やはり寂しいものではあってな。続きがあるのだろう」
「はい。ご本人は亡くなられていたとはいえ、弟子を取られておいででした。今では師の後継者となられている方がいらっしゃるそうで。明日、時間をとっていただけそうです」
「おお、そうか。そのような方がいるのであれば、わしとしてもぜひお会いしたい。子爵。本当に引き継いている方であれば、子爵の疑問にも近づけるかもしれんな」
「ええ、あなたのおかげです。私一人では、いずれは身を滅ぼしていたでしょうから」
「何事も、一人の力では成せんことがある。わしも身に染みて感じているよ」
子爵は優秀だ。だが、優秀だからこそ、一人で全てを背追い込もうとしてきた。味方などいないと思うことも、確かにあるだろう。しかし、誰かはきっと力になってくれるものだ。
師の弟子、リカルドと名乗った男はとても気持ちの良い男だった。
肉体労働も苦にしないと思わせる体格ながら、どこか愛嬌を感じさせる笑い方をする。そして、どこか師の面影を感じさせた。もしや血の繋がりがあるのではという問いには笑って否定したが、わしには、師の後継者であることがストンと胸に落ちた。
挨拶もそこそこに、リカルドはちょっと待っていて欲しいと部屋を出て行った。そして、戻ってきた手にはワインの瓶。つい顔をしかめたわしにも、そしらぬ顔で言ってのける。
師は、なかなかに酒が好きだった。師との思い出を分かち合うには酒が欠かせぬ、と。窓からはまだ陽の光がチラチラと揺れている。この生臭坊主めと思わぬでもないが、まあ、たまには良かろう。
チビリチビリと飲むわしとは正反対、リカルドはグラスを傾けると一息に飲み干す。子爵は、邪魔はせぬと傍で静かに飲んでいる。つまみはチーズと、信徒が分けてくれたというハム。塩が効きすぎたそれは高級品とは言い難いが、軽く炙ったそれは、このような場ではむしろ相応しい。
ワインを舐めつつ語り始めると、師との思い出はすらすらと出てくる。わしは、少しばかり酒が回った方が舌はよく回るのかもしれない。一つ一つの出来事に、リカルドは大げさとも思えるほどに感心してみせる。しかし、決して嫌みではない。
リカルドは、次は私の番だとばかりに、わしが知らない師匠との思い出を語る。恨みを買って命を狙われたという話もあったが、この男にかかれば笑い話となるらしい。しかしなるほど、豪胆な男だと思ったら、どうやら師とはそういったゴタゴタの中で知り合ったらしい。冗談混じりには言うが、なかなかどうして、変わった男だ。話す中でもグラスを常に煽り続けるその姿は、いっそ荒くれ者の取りまとめるという方がしっくりくるかもしれない。
とすると、先ほどから給仕に忙しい子爵はキレもの参謀といったところか。ううむ、いかんな。少しばかり飲みすぎているか。どうにも、目の前で本当に旨そうに飲まれては歯止めがきかん。しかし、しかし、こうも旨い酒は何年ぶりか。加えて、リカルドは見た目に反して師譲りの博学。問答事の真似事をしても話題は尽きぬ。
聖地について話した。
既に確実なこととして、そこでは別世界より、場違いな工芸品と我らが呼ぶものが流れ着く。専門の者たちが細々と回収を行っているが、どうにも武器に偏っている。そのことから、「ガンダールブの槍」と、使い方も分からぬものも含めて来たるべき日に備えて保管している。むろん、表立っては言えぬことではあるが、リカルドも既知であった。
聖地とはそもそも何だろうかとリカルドは問い、そして自ら続ける。
始祖は聖地に降臨したというが、どこから、何の為になのだろうか。聖地が別世界とつながっているのだからその世界と考えても良いのかもしれないが、私は、それは違うのでないかと思っている。
それはなぜかとのわしの問いに、リカルドは答える。
公式なものとしては残っていないが、始祖と同じ名を持つ青年がちょうど同じ時代にいたという記録があった。
そしてそもそも、別世界の為に尽くすよりは、自らの住む世界の為に尽くすことが自然だろう。始祖が世界を救おうとしたというのは、残る話の節々を調べても確かなこと。始祖は実在した方、ならば、確固とした信念とその理由があったはず。
それは確かにしかりと言うべきこと。ならばとわしは問う。
教皇が言う、危機に対して世界を救うシステムがあるという話はどうであろうか? 始祖が我らの為に準備しているということはあるだろうか。
リカルドは、全くあり得ない話でもないと言う。ただし、こうも言った。
始祖は、聖地に関してエルフと敵対した。そして、何かを成し遂げようとしたが、それが叶わなかったという。
ここが重要だと思うのだが、その何かはエルフにとって都合が悪いこと。争い事を好まないことは今までの歴史から見ても明らかなエルフが看過できないできないことだった。もし世界を救うとしても、それは人間にとって都合は良くても、エルフにとってはそうではない。
いや、大いなる意思というものを神聖視するのがエルフであるからには、それは世界そのものにとっても好ましくないのかもしれない。何せ、土地に執着など乏しいエルフが今でもそこだけはきっちりと守ろうとしている。なぜ、エルフはそうまでして守ろうとするのだろう?
それは、エルフにでも聞かねば分からないこと――わしの思わず言った言葉に、リカルドは大仰に頷き、続ける。
その通り、エルフとの話し合いも必要だろうと。もっとも、今までの散々戦争をしかけたのが我々であるから、罠としか思わないだろうがと付け加える。
できることなら、始祖に直接伺いたいものだとのわしの言葉に、今度もまたリカルドは大仰に頷く。
うむ、始祖に伺えるのであれば、直接聞きたいことは山ほどある。過去の文献はその時々の時代の中で曲げられていることがしばしば。いくつもの文献を照らし合わせて探ってはいるが、そもそも残っているものだけでは難しい。何か絶対と言えるものが一つでもあれば違うのだが。
肩をすくめるリカルドに、一つ興味が湧き、尋ねた。もし、始祖に何か一つだけ尋ねることができるとしたら、何とする?
わしの問いに、リカルドはこれは難題だと顔をしかめる。一つだけかと念を押すリカルドに、わしは一つだけだと勿体ぶって答える。リカルドはうんうんと唸り声をあげ、ようやく一つ挙げた。
――なぜ自らの姿形を後生に残さなかったのか、私はそれを知りたい。
リカルドの意外な問に、私はなぜかと尋ねる。
リカルドはよくぞ聞いてくれたとばかりに笑う。
始祖がどのような方だったのか、その人となりが分かれば、様々な解釈に方向性がつくと思う。なぜ姿形を後生に残さなかったのか、人となりを知るにはその質問が良いと思う。なぜなら、始祖はあえて自らの姿を表すものを作ってはいけないとの言葉を残した。そこには明確な意思がある。少しばかりでも虚栄心があれば当然残したであろうし、凡人であれば美化することだってあるはず。どういった意図があってそうしたのか、とても興味深い。
おお、なるほど。始祖の姿形を表すことは不敬であると言われるが、そこにはそれだけではない意図があるはず。人となりを知るための質問としては確かに興味深い。
面白いと、その問いに対してわしとリカルドは喧々諤々の議論となった。ついには容貌を気にしてなどという冗談がすぎるような仮説も出てきてしまう始末。どうにも酒が過ぎてしまったが、私にとって、そして、リカルドにとってもとても有意義で楽しい時間だったと思う。
次の日には残った酒で地獄を見たが、代償としては安いもの。なんとも、若い時を思い出すではないか。子爵には醜態を見せてしまったが、それも甘んじて受けようぞ。リカルドとの会合は、それだけ心踊り、そして、私の考えをまとめるのに非常に有意義で実りがあるものだった。
そして、数日後にもう一つの大きな出来事。
アルシエルと名乗る男と出会ったこと。抱く感情は正反対であっても、得たものは大きい。