その日のパリの空は、生憎の雨空だった。
時刻は未だ四時頃というのにパリの街は灰色一色、とても暗く、夏だというのに何処か寒い。
普段は活気のある筈のパリなのだが、こうして見れば何処か寂しいものだと私は思った。
そんな事を思いながら、今日の仕事を既に終えた私はパリの街にしとしとと小さな雨が地に落ちる音をBGMに、宿泊しているホテルへと足を早める。
ああ、早くホテルに帰ってシャワーを浴びたい。
只でさえ娘の誕生日というこの大事な日にパリに向かわねばならず、しかも雨にも降られて憂鬱になっていた私のこの気持ちを熱い、熱いシャワーでもって早く洗い流したいものだと私は思った。
私が滞在しているホテルは高過ぎず、安過ぎず、そして外観は一見すると地味なホテルではあるが、内装は昔からしっかりしており、サービスが良いと地元では評判の高いホテル。
何よりそのホテルの一階にあるラウンジに昔から置いてある年代物のグランドピアノは、とても良い音を奏でてくれる。
そんなピアノを目当てに、私は若いころよりパリに来た時はそのホテルを贔屓にさせてもらっているのだ。
しかし私が今回訪れた時にはそのグランドピアノは使用禁止になっていた。
昔から面識のあるホテルのスタッフの話によると、ピアノの弦が長年使用してきた故か先日同時に2本も切れてしまったという事で、この際だからと来週末に業者を呼んで弦の総入れ替えをするとの事。
「残念だ」
本当に残念でならないと、それを聞いた私は落胆した。
パリに来る楽しみの一つが消えてしまったそんな事も、また私の憂鬱を助長する。
私はため息を一つ、小さく吐いた。
灰色のパリの街景色、そんな街の片隅に、白い靄がポツリと浮び、そして沈む。
「おや?」
漸くホテルにたどり着いた私の耳に、使用禁止になっていた筈のピアノの音が微かに聞こえてくる。
修理したのだろうか?
否、ホテルのスタッフ達は確かに来週末と私の前で言ったのだ。
では、はて、ならば、これは一体どうしたと言うのだろうか?
「お帰りなさいませ、リヅヴャック様」
「あ……ああ、アンドレさんか」
ホテルのロビーより歩み寄ってきたのは白髪交じりの髪をオールバックにまとめた、初老の男。
名をアンドレと言い、私がここに初めて泊まった頃よりお世話になっているベテランスタッフだ。
「おやリヅヴャック様、ずぶ濡れではありませんか。そのままではお体に悪いです、すぐタオルをお持ちいたしますのでそこでお待ちください」
「いや、今は結構。それよりだアンドレさん、あのピアノの音は一体?」
「ほほ、あの演奏が気になりますかリヅヴャック様?」
「無論だ」と、私はアンドレさんに素直に答えた。
気にならない筈が無い。
聞けないと思っていたあの音色が、私の耳に今こうして聞こえているのだから。
「直していただいたのですよ、とある小さなレディに」
「小さなレディ?」
「ええ……私から話を聞くより、実際に見に行ってみるのが宜しいかと」
それもそうかと私は納得して早速ラウンジに足を向ける。
ラウンジに近づくにつれ、徐々に聴こえてくるのは静かな調べ。
仕事上、演奏を聴くことが多い私の耳にも素直に上手だと思える演奏だ。
しかし聴こえる曲は何処か悲しく、そして切ない、これは恐らく、例えるなら――
「別れの曲……」
ラウンジは間接照明によって薄いオレンジ色に染まっている。
故にラウンジは、ホテルの他のフロアより薄暗く落ち着いた雰囲気がある。
しかし今ここでは、ただ彼女の曲の雰囲気をより一層引き出す為の演出の一つにしか見えなかった。
鍵盤を優雅に跳ねさせるは一人の少女。
しかし無心に弾くその様は、少女と言うにはあまりにも似つかわしくなく何処か大人びており、成程、アンドレさんが「レディ」と言った訳がよく分かる。
――少女の白銀糸が光に照らされ、それが静かに世界を舞う。
静かな、静かな哀愁曲。
雨音と、鍵盤と、ペダルを踏む音をBGMに、彼女と世界を絵画に
――さよなら、さよなら
問いかけるまでも無いかもしれない。
ただ、彼女は鍵盤上でそれを繰り返すだけだったのだから。
彼女の演奏が、終わる。
弾き終え、残心している彼女に私は拍手を向けた。
彼女は私がいる事に気づき、驚き、そして人差し指を口許に寄せた。
「静かに」と、私にそう言っているのだ、彼女は。
どうしてか?
疑問はすぐに分かった。
彼女の影よりのっそりと、一匹の白狼が眠たそうに現れ、私を一瞥。
そして白狼は、彼女と私の間に座り、目を閉じる。
それはまるでいつでも主を護る為に構えている忠臣のように私には見えた。
「素晴らしい演奏だった」
私は白狼を起こさないように、声を抑えて彼女を褒めた。
彼女は少し恥ずかしそうにしながらお礼を返した。
「今の曲は、何だったのかい?」
「……友との別れを
カールスラントからガリアに引っ越しをしている最中、ここに停泊する事になった彼女は壊れているピアノを見かけ、弦を張り直し、ピアノの音程チェックついでにカールスラントにいた友との別れを思って弾いていたのだと語った。
「まあそれだけでは無いですけどね」
「と、言うと?」
「今日は私の誕生日。だけど車のタイヤがパンクして、母さんも風邪を引いてしまい、天気も雨空……今日はついていないな、と」
「成程」
どうやら彼女も憂鬱仲間だったのかと、私はおかしな親近感を彼女に感じた。
「おやおや、貴方様も誕生日だったのですか?」
アンドレさんがホットコーヒーとタオルを抱えてやって来て言った。
そんな彼は、タオルとコーヒーの一杯を私に、もう一杯のコーヒーを彼女に渡す。
彼女に渡されたコーヒーは明らかにブラック。
子どもである彼女に果たしてそれが飲めるのかと心配したが、彼女は当たり前のようにそれを飲んでみせたので大丈夫なのだろう。
「ふむ……
「ええ、実はリヅヴャック様のお子様も今日がお誕生日なのですよ」
「成程、だからですか」
「そうだ、折角のお誕生日なのですから暗い曲ばかりではなく一曲、明るい曲をお弾きになられてはいかがですか?」
「明るい曲、ですか?」
「そうです、憂鬱な気持ちを吹き飛ばすような、そんな曲をお願いいたしますルドルファー様」
「分かりました、それでは僭越ながら弾かせていただきます……その前に、アンドレさん」
「何でございましょうか?」
「彼女、カルラにも温かいミルクを一杯もらえますか?」
「はい、承知いたしました」
三人と一匹だけの演奏会が始まる。
弾き手は彼女と私の交代交替。
憂鬱よ吹き飛べと、私、彼女は鍵盤を跳ねさせる。
そうして彼女と娘を祝う陽気で楽しい演奏会は、音楽につられて降りてきた、ホテルの宿泊客を巻き込んで、歌えや踊れやドンちゃん騒ぎ。
夜の帳を突き破り、騒ぐ皆に私と彼女は苦笑い。
そうして楽しい演奏会は、いつまでも続く――
パリでの一夜より一年経ったある日の事、ガリアのとある家に一つの小包が届けられた。
差出人はウィーンで活躍している、とある著名な音楽家。
届け先はその家に住むとある少女。
はてなと、受け取った夫人は疑問に思いつつ、少女に小包を渡したところ、少女は中身を開けて悲鳴を上げた。
すわ何事か?
悲鳴のもとに駆け付けた夫人は少女の足元に散らばる、点と線ばかりの紙を拾い上げて、それを見た。
『白銀少女の綺想曲 ヴィルヘルミナ・F・ルドルファー作』
哀愁と陽気さを織り交ぜた、猫のような気まぐれテンポのその曲は、その時同時に発表された数曲と共に一部の音楽家から高い評価を得て、ヴィルヘルミナの名は後に軍人としてだけでなく、当時を代表する音楽家の一人として残る事になる。
しかし彼女はその時、歓喜を上げながら楽譜の一枚を持って行った母親の背中を眺め、頭を抱えながらこう思った筈だ。
――穴があったら潜り抜けたい、と
リヅヴャックはフランス読み