問題:『大陸性気候による積雪、低気温』
要物資:『防寒装備』
――――ルドルファー中尉の走り書き――――
西暦1939年11月15日 タルヌ県 ドモゼー伯領 ガリア陸軍駐屯基地司令室
「久方ぶりの帰郷がまさか敗北の汚名を背負い、雑多に拾った将兵らを引き連れてになるとはのう」
いやはや露も思いもせなんだと、椅子に腰かけるルネ・ポール・フォンク大佐は吐露する。
彼に呼び出されてたジャンヌ・ドーゼ医師が入室してから聞く、開口一番の彼のその言葉には、意表を突かれたとばかりに驚いた顔を見せた。
外聞構わず弱音とも取れる言葉は些か彼らしくない。
「なんだ、意外かね?」
「正直に申しますと、閣下は、その、もう少し冷酷な………いえ、淡白な方だと伺っておりました」
「伺っていた?………ああ、そういえば君は確か」
「はい。以前カールスラントに留学をした際に夫妻には師事を。大変お世話になりました」
だから、「お悔やみを」。
ドーゼが表情筋を歪ませないようにと努めるのは、ルネ大佐の前であるからか。
ルネの率いる梯団が街をネウロイの支配から解放して既に四日経つが、ルドルファー夫妻の遺体は、解放後の翌日に軍立病院内で発見された。
夫妻の遺体を発見したのは皮肉な事に、ドーゼであった。
未熟で若かった自分に、親身になってくれた夫妻の死は、悲しい。
しかしドーゼ以上に、心に傷を負っているのは――――
「歳は、取りたくないものだな。昔と比べてついつい感傷的になってしまう」
「閣下………」
「しかし、気遣いは結構だドーゼ医師。娘も、義息も、医師としての使命を十全に果たし、戦って果てたのだ。ならば悲しむことはない」
娘も、義息も、私の誇りだ。
だから悲しみで、二人の勇気ある行為を穢してはならない。
ルネの語るそれは、長年軍人として戦ってきた中で完成した美学か。
それとも、心の嘆きに蓋をする現実逃避か。
医師としては優秀であるという自負はあるが、人としては未だ若輩であるドーゼにはそれは分かりかねた。
彼女がルネの本心を理解するには、二人の生きてきた時間があまりに違い過ぎる。
「さて、ドーゼ医師。貴女を呼び出したのは他でもない。そちらの
伏せられていた瞼が上がり、彼の眼がドーゼを射貫く。
「聴く」と彼は言うが、それはもはや催促。
彼ら軍団が四日もこの街に留まっていたのは、民間の負傷者に対する落ち着いた医療行為を、ドーゼら医師団が懇願したからに他ならない。
「これ以上の駐留は――」
「これだけははっきりしておくがねドーゼ医師、これ以上の駐留は不可能だ。此処にとどまる時間が長ければ長いほど、我々はネウロイの勢力圏を抜ける事が困難になることは、説明するまでもあるまい」
ネウロイの勢力圏から抜け出し、此処までたどり着くまでに払った犠牲は決して少なくなく、軍団首脳部としては満場一致で一刻も早くこの街からの撤退を敢行したい思いがあった。
民間人を抱えての長距離撤退行動は、蟻の行進である。
その遅速は、そのまま軍団の出血を意味する。
「それから一つ、伝えそこなっていたが」
机上にガリア全土を記した地図を広げるルネは、とあるルートをなぞってみせる。
ガリア南部、タルヌ県から始まったそれはサントラル高原とアルプス山脈の間を抜けて、リヨンで止まる。
「我々はこれよりローヌ渓谷に入り、ローヌ川沿いを北上。防空網の未だ生きるリヨンの勢力圏への撤退を目標とする」
「閣下、それは………」
ローヌ渓谷とはガリア中央部からやや南に存在するサントラル高原と、ロマーニャ国境に連なるアルプス山脈との間にある渓谷を指し、ローヌ川はサントラル高原とアルプス山脈、そしてヘルウェティア国境に存在するジュラ山脈に沿うように流れる河川の事である。
ネウロイの巣の発生源はガリア南西部のボルドー。
高度空戦力を持たない遅速である彼らは、ボルドーから迫るネウロイの航空戦力から逃れるにはサントラル高原を壁としなければならない。
そして、ローヌ渓谷に進入を目指す、もう一つの理由はその渓谷が置かれている気候にある。
大陸性気候。
主にアルプス山脈の影響によって生じているその気候は、冬季の気温が非常に低く、寒候期にはまとまった雪が降る。
ネウロイが低温度下での活動が鈍くなるという習性を考慮するならば、ローヌ渓谷を目指さないという選択肢はない。
「閣下、ご再考を。重傷者を抱えての冬期のローヌ入りは、無謀が過ぎます」
しかし地中海性気候に慣れた南部の人間に、大陸性気候がもたらす寒さと積雪は厳しい。
更に今年の冬は例年よりも冬らしく、いつもは冬でも暖かいタルヌ県でさえ今年は寒冬であるのだ。
今年のローヌの冬が、より厳しいというのは言うまでもない。
「ローヌ渓谷を抜けず、ロマーニャに向かう選択肢も我々にはあるかと」
「………ドーゼ医師、こういっては何だが、正気かね? 君には軍隊の越境行為が及ぼすことで発生する諸問題と、そもガリア、ロマーニャ間に存在する外交問題についての説明が必要かね?」
ドーゼの対案は、一蹴される。
拿捕されて、身ぐるみをはがされて、追い返されるに決まっているとルネは首を振る。
そもそも端緒として第一次大戦時、ロマーニャ公国が協商側につく条件として未回収のロマーニャ問題を解決するロンドン密約が、ネウロイ発生による動乱と、カールスラント皇帝の政権奪取による有耶無耶で不履行であり、それ以降のロマーニャ首脳部と軍部のブリタニア、ガリア等に対する関係は悪化の一途をたどっているのだ。
ロマーニャを目指し、無事で済むとは到底ルネには思えなかった。
「浅慮でした、忘れてください」
少しばかり思案し、ばつが悪そうに答えたドーゼに構わんよとルネは手を振る。
ガリアの政治部が行う外交と、それに端を発する繊細な軍事バランスを把握するのは軍部として当然の領分であり、民間の一医師の領分ではなく、求める所ではない。
寧ろルネの指摘に気付くあたり、ドーゼは公ではない外交問題にもよく敏感であるらしい。
ルネは彼女に対する内心評価を上方修正する。
「さて話を本題に戻そう、ドーゼ医師。現時点で意識の戻らない者、回復が見込めない者はどれほどいる?」
険しく厳しい撤退ルートを示したのだ。
それを聴く意味は、おのずと知れるもの。
だからドーゼは、己の口にかかった重責に震えながらも、はっきりと、そして慎重に答えた。
「………民間、兵を合わせて五十数名ほどに」
ドーゼが答えた五十数名。
そのほとんどの者は、これよりルネとドーゼを含めた医師団が見殺すことになる人の数になる。
端的に言えば現時点で意識が戻る見込みのない重傷者などは、これからの撤退行動に随行出来ないものと判断し、ここで置き去りにするのである。
五十数名という数字は、数字上でいえば、確かに少ない。
しかし将校に上がって久しいが、叩き上げであるルネは、五十数名という人の重みを知っている。
ましてや、民間の者にはルネの知り合いの者もいることも鑑みれば、見殺す決断は、やはり苦しいものである。
「五十、か」
ルネはおもむろに一本の葉巻を取り出して咥え、火をつけては葉巻を吹く。
「ドーゼ医師。我々が此処までたどり着くまでに、どれほどの殉職者が出たか、どれほど置き去りにしてきたか、覚えているかね?」
「………いえ」
「173………173人だ。私の指示で、私の命令で、それだけの兵士が死んだ」
また深く吸って、吐いて漏れた煙。
「我々はあと、どれほどの同胞を失わなければ………いや、見殺しにしなければならないだろうか?」
二人の前でゆらりと踊るそれは、彼の問いに対する答えか。
「無力だな」
紫煙を眺めながら、ルネはそれを「無力」と名付けた。
その無力という言葉には、当然様々な意味が込められているのだろうと、ドーゼは漠然とながらも察した。
重苦しい空気。
しばらく二人は無言を守る。
その中で、ふとドーゼはあることを思い出す。
「そういえば、ルドルファー中尉の事ですが」
「ヴィッラ………いや、ルドルファー中尉がどうかしたかね? 何か問題でも?」
ルネの反応が先ほどよりワンテンポ早いように感じたが、ドーゼは気にすることなく続ける。
「いえ、中尉が患者の受け入れと初期治療の体制を構築してくれた件です。ご存じありませんか?」
「………またか」
「閣下?」
「いや、なんでもない。続けてくれたまえ」
促されたドーゼは、ならばと続ける。
『彼女が体制を整えてくれていなければ、より多くの方を見捨てる結果となっていた』と。
はたして同様の報告を、いったい何度聞いただろうか。
この四日間の間に、ルネが誰かからの報告の中で、ヴィルヘルミナの名を聞かなかった日は一度としてない。
民間人を避難させたようと真っ先に動いたのは、ヴィルヘルミナ中尉。
その為に誰よりも前に出て戦っていたのは、ヴィルヘルミナ中尉。
四散する部隊を纏める為に指揮を執ったのは、ヴィルヘルミナ中尉。
長距離撤退に備え、物資収集を指示したのは、ヴィルヘルミナ中尉。
ヴィルヘルミナ、ヴィルヘルミナ、ヴィルヘルミナ。
皆が彼女を持て囃す。誰もが彼女を讃え褒める。
「実は彼女は、ただの少女だ」と、ルネがそう叫んだところで、いまさら、はたしてどれほどの人間が信じてくれるだろうか。
ヴィルヘルミナが何を思って軍籍を騙っていたのかは、分からない。
しかし彼女は、虚実を事実とするためには十分すぎる程の実績を積んだと言える。
四散した部隊を纏めあげる統率力を証明してみせた。
敗残した兵をまとめ上げるのは、古今、難しいとされている。
先を見越しての物資収集、先見の明を証明してみせた。
彼女も念頭には、退路がローヌ渓谷を抜ける事しかないことに気づいていたのだろう。
元々あちら側が挙げていた回収必要項目には、『要防寒装備』とあった。
そして何よりも、あのネウロイ群に単機突撃し、生還しながらも撃破を果たせるだけの戦闘力を証明してみせた。
思慮深く、士官として水準以上の指揮能力を持ち、そして一騎当千の戦闘力を持つヴィルヘルミナ。
個の兵士として、これほど魅力的な者はいない。
だからこそルネも軍人として、彼女の騙る軍籍を幇助するに足ると思い、援けはした。
しかし一方個人としては、孫娘であるはずのヴィルヘルミナのことを、なにか得体のしれない化け物に
違和感こそ、以前から抱いていた。
それは行動から、それは言動から、それは思想から。
10歳と少しにしてはあまりにも達観的で、ある意味完成していると言える、ヴィルヘルミナ。
娘らが何も言わない事もあった為、ルネがヴィルヘルミナに対して干渉することは無かったが、なにより一番違和感を覚えたのは、娘らが引っ越してきた際に、ヴィルヘルミナとは赤ん坊の時以来の再会を果たしたあの日である。
あの日見た、ルネを見つめる彼女の瞳。
その時は、軍役から離れて久しかったルネでは気づくことができなかったそれは、復帰した今だから答えが出せる。
それは「長く戦場を見てきた者の目」。
鏡に映った、ルネと同じ瞳。
「ところで、ルドルファー中尉の様子はどうかね?」
ヴィルヘルミナが得体のしれない化け物に見えていた。
そう、それは過去形だ。
それは彼女が、唯一娘たちが残した遺産であることもあるかもしれない。
だがなによりも、ヴィルヘルミナは嘆いていた。
『誰も護れなかった』と嘆いていたのだ。
ヴィルヘルミナが誰も護れなかった事はない。
寧ろ彼女は多くの者の命を救った事実は、誰の目から見ても疑いようのない事である。
彼女は、自分の成し遂げた事の結果を見れないほど愚かではない。
………でも、しかし、それでも彼女はそう言った。
それが意味するところは、本当に護りたかった者が、あったということ。
ルネが今もヴィルヘルミナを、誰でもない、自身の孫娘であるヴィルヘルミナとして直視できるのは、それに気付けたからだろう。
ルネは、ヴィルヘルミナが此処まで他者の為に戦ってきたのは一種の惰性であったのだろうと推測していた。
大切なモノを失って、彼女は向けるべき力の行方を見失っているのだ。
だから彼女が負傷し、動けない今の状況は、寧ろ喜ばしい事だと言えた。
戦えない状態である彼女をそれでも戦場に駆り立てようとする愚か者は、まさかいないだろうと。
「………お言葉ですが、閣下」
あとはどれほどヴィルヘルミナを負傷者として、戦場に駆り立てられないよう、ルネが彼女を護れるかに尽きる。
できれば撤退中は二度と戦場に立てない程度の負傷であってほしいモノだ。
そんな思惑があっての問い。
しかし問われたドーゼが、とても言いにくそうに紡ぐのは。
「ルドルファー中尉は、本当に………我々と同じ、人間なのでしょうか?」
予想とは全く異なる解答。
「………それは、一体、どういうことかね? ドーゼ医師、言葉はくれぐれも選んで語るものだと、親から教わらなかったかね?」
「恣意もなく、悪意もありません。言葉を選んだ上で、中尉の現状を理解していただくには最も適切なモノだと、自身の領分として確信しております」
確信して、なおもソレか。
己の孫娘に対するあんまりな物言いに憤慨を隠せないルネだが、ドーゼは
なら、そこまで言うのなら、その故を聴こうではないか、と。
浮いた腰をもとの椅子に下し、ルネは彼女に続きを促した。
「ルドルファー中尉は戦闘終了の後、瀕死の状態で我々の下に運ばれてきました。瀕死、それは破砕手榴弾などを主とした戦闘による裂傷、骨折。ネウロイの光線によるものと思われる火傷。固有魔法に依るものと思われる各部内出血。そして魔力枯渇が原因です。医師団による半日の手術、そして志願した数名のウィッチによる懸命な治癒魔法によって、中尉は奇跡的にも命を繋ぐことが叶いましたが、未だ予断を許さない状態であると我々は考えておりました」
しかしそんな彼女が手術後二日に目を覚まし、あまつさえ歩行を果たした。
この回復速度は、尋常ではないとドーゼは語る。
「それは聴いている。瀕死のウィッチが魔法力を以て超回復を果たす事案が稀であっても、過去になかった訳ではない。それに回復が早い事は喜ばしい事ではないか。そこに何か問題があるかね?」
「それはそうでしょうが、意識の復帰はともかく、本来ルドルファー中尉の身体の状態を思うと歩行すること、いえ、身じろぎすることさえ現状困難なはずなのです」
ルドルファー中尉に刻まれた数多の傷が激痛を呼び、中尉の行動、呼吸、それどころか指一本動かす事さえ束縛する筈なのだから。
「今の彼女は、意識があるうちは痛みに苛まれている筈なのです。それなのに彼女は歩くどころか、私に冗談を言って笑みさえ見せたのです。本来痛みとは、人間の身体が鳴らす警鐘、『悲鳴』です。それを聴くことを止めている中尉は、ブレーキの無い車と同じ」
「………何が言いたいのかね?」
「医師として、そして私個人として、もしも中尉が復帰できる状態であったとしても、閣下には
一層の真剣みを帯びて、ドーゼはルネにそう求めた。
面識はないとはいえ、ヴィルヘルミナは己の師が残した一人娘である。
ドーゼが気にかけるのも無理もない。
勿論ルネとしても、これ以上ヴィルヘルミナに戦ってほしくはないという意思はある。
彼も、ドーゼの求めることに頷きたいのは山々である。
「個人として、最大限の努力と善処はしよう」
しかしルネは、軍団を纏める総指揮官として、確約は避けた。
ヴィルヘルミナは、兵として、魅力的過ぎた。
もしも彼女が少しでも戦える状態であるのなら、今この軍団内の最高戦力である彼女を出し惜しみする訳にはいかなくなる場合もあるだろう。
勿論彼女を出ざるを得ない状況にさせない努力は怠るつもりはルネにはないが、戦局は、いつだって生き物のように不確かだ。
断言は、軍団を預かる者として、簡単にできるものではない。
明らかにしないルネの態度。
そんなルネをドーゼは説得しようと口を開こうとするが、そこで二人は外がやけに慌ただしい事に気付く。
「何事でしょう?」
「ふむ………」
葉巻を吸殻に潰し、ルネは窓に寄る。
寄った彼は、外の光景に目を見開いて、一言。
「何をやっとるんじゃ、あやつは………」
頭を抱えて、驚きと呆れが入り混じったそれを吐くルネに、気になったドーゼもまた外を見る。
見て、彼女もあっと声をあげた。
二人の頭にあるのは『何故』。
しばらく二人は無言で顔を見合わせ、そして指令室から飛び出した。
ふたりは基地に群がる群衆、その中に。
悠然と歩く、ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーを見た。