雨はさらに激しさを増して、世界は降りしきる雨に、灰色に閉ざされた。
細かい雨粒は望むことを妨げ、雨音は遠くより聴こえるはずの悲鳴と轟音をかき消す。
そこは灰色に閉ざされた世界。
そこに在るのは、ただ一人。
生まれ変わり、抗い、戦い。
そして敗北した、少女だった『モノ』。
命の源は既に、小さな少女のその身より流れ尽くした。
地を濡らし、雨に流され広がる灰色のキャンパスの上で描く朱は、もはやかつての鮮やかさはなく、ほぼ黒色。
目は光を失い、虚ろ。身も冷たく。
倒れ、身も心臓ももはや微かな彼女は、もはや二度と物言えぬ身体へと成り果てた。
しかしケタケタ、ケタケタと。
響く嗤い声は、雨音さえもかき消す。
可笑しなことに、不可思議な事に。
死にかけの筈であるにもかかわらず、ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーは三日月に口元を歪ませて、嗤う。
雨音にも勝るそれは、哄笑か、嘲笑か、憫笑か、狂笑か、嘲笑か。
確かなのは。
嗤うのは、我が身の愚かさを嗤う為。
『この結末を見て満足か、魔女』
不意に投げかけられた声。
閉じた世界を席巻する、底冷えするほどの怒りの唸りと、憎悪。
雨風は、嗤う魔女に向けて吐き捨てられた憎悪を受けてか、激しさを増す。
『黙るといいヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファー。主の声で、主の姿で嗤う君は、とても不愉快だ』
迫るごとに響く重音は、地を揺らし。
姿見えぬ影は、小山のよう。
ヴィルヘルミナは、光の消えた両眼をぐるりと操り動かし見開いて、ソレを見。
嗤いを、止む。
一瞬、彼女は語るべき言葉の一切を、その存在に奪われた。
那由多の雨粒の向こう。
迫る、周囲の建物をまたぐほどの、巨躯な影に。
「貴女は………」
震えるのは、地。
震えるのは、空。
震えるのは、雨。
震えるのは、声。
地上に存在する、種のどれにも当て嵌まらないソレは、明確な『死』を、常人では瞬きの間でさえ耐ええぬ殺意と圧を伴って、振りまいて、魔女に迫る。
それには狂笑していた魔女さえも、その表情を大いに歪ませ、正気に返る。
「………あぁ、嗚呼っ!! たかが獣風情が使い魔になったとはいえ、人語を解して会話するなんて。なかなかどうしておかしな事とは思っていましたが。くふっ、そうですか。あなたは、貴女は――――」
影は雨粒の壁を越えて。
ついに昂然と姿を露わにするのは、四足獣。
「ばけも、――――――がっ、あああぁ!?」
『うるさいよ、ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファー』
その正体に、罵声を浴びせんとした刹那。
彼女の下半身は、四足獣より振り下ろされた前足に潰されて――――くしゃり。
前足の下に、綺麗に地に広がる、あかピンク。
その獣。
一点も曇りのない白色の毛並は見事としか言いようがなく。
尾は、振るわれる度に暴風を生み。
四足の歩みは例外なく、大地を大いに震わせる。
巨躯の白狼―――――カルラ。
煌々と輝くその緋色の双眼に魔女を見定め、睥睨し。
その身の正体を世界にさらす。
雨はますます地に降り注ぎ、灰色に世界を閉ざす。
『嗚呼、本当に可哀想な主。とうとう己が捕らえられ、利用されて、操られている事さえわからないままに死んでしまうなんて………』
巨躯の獣、カルラは悲嘆の色を隠すことはなく。
暗い空を見上げ、ただ亡き主を思う。
「心中してくれ」と言ってくれたのに。
最後の最後で、彼女の主が祖父のルネにそうしたように、カルラもまた投げて、
それが、カルラが未だ、生きる故。
共に心中させてくれた方がよかった――――呟き。
投げたのはきっと、結局、彼女の主のやさしさだったのだろう。
しかしそれは、カルラにとっては全くのやさしさとはなり得なかった。
『主よ。貴方は私の友で、家族で、母で、恩人で、そして私の存在理由の全てだった。それなのに………』
主のやさしさを、カルラが理解していない訳ではない。
しかしカルラの思いを知ってなお、捨てて。
独りのうのうと生き続けろとは、残酷。
たとえそれが愛しているからこその行為であったとしても、カルラに心中を許さなかったのは、カルラにとっては愛していた彼女に、捨てられたのと同義。
『………主と心中できないのなら、せめて、世界と心中して、主への手向けとしよう』
世界への宣戦布告は、もはや子供の八つ当たり、無茶で、無謀で、無意味な事。
でも、それでもかまうことはないのだろう。
カルラに、この世界で生きる意味など、主のいないこの世界で生きる意味など、もうないのだから。
『主を殺したネウロイを殺す、利用した大人たちを殺す、子どもも殺す、この国を殺す、世界を殺す、例外なく殺す。でも――――』
踏みつぶした下半身をすり潰すように、カルラは前足を捻れば、悲鳴。
『まずは君からだ、ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファー。すべての元凶たる君を、私は許さない』
ヴィルヘルミナの口元からは絶叫と共に血泡がこぼれ、白銀はますます血に染まる。
鮮血が噴水のように溢れ、雨がそれを洗い流すことで、そこはすっかり血の海と化す。
『さあ、地を揺らすものの歩みを聴け。それが貴様の地獄への
「なに、を―――――――」
カルラの囁いた、一見脈絡のない言葉。
その言葉を聴いてその身その思考をすり潰されていたはずのヴィルヘルミナの悲鳴がふと止む。
何を? いや、まさか――――
その意味に引っかかりを覚え、思いだし。
至るのは、その言葉の意味するところの、答え。
「………っ、汚らわしい!!」
カルラの正体に気付いたヴィルヘルミナの反応は、劇的であった。
あらゆる苦痛に支配されていたはずの彼女の心は、今は怒りと殺意に打ち震える。
目の前の強大な存在を前にしても、死にかけであってもなお抵抗を選ぶ。
感じる痛みよりも、何よりも。
それは彼女にとって、受け入れがたい、唾棄すべき事実である故に。
「あはっ、あははっ!! あの人の、ワタシのあの人の使い魔が、こんな汚くて醜くて、陋劣で賤劣で、口にするのもおぞましいモノだったなんてっ………」
何かが砕ける音。
吐いて捨てられたのは、罵倒だけでは無い。
白い欠片。
知ったカルラの正体、それを嫌い、憎悪するあまり噛みしめ砕けたヴィルヘルミナの奥歯だった。
毛細血管が破けたのか。
淡い蒼色の双眼は朱く染まり、彼女の目じりからは血の涙を流れる。
力は残されていないにもかかわらず、握りしめ、押さえる前足を嬲るように振り下ろす右手は血がにじむ。
「よくもその汚らわしい口で、ワタシの愛しの私に愛を囁いたな!! きたないきたないきたないきたないっ!! 化け物め、死ねっ!! 疾く死ねっ!! そんなに死にたいなら、勝手にみじめに一人で死ねっ!!」
憎悪の声をまき散らし、身の自由を奪われてなおがむしゃらに力を振るうヴィルヘルミナを見下ろすカルラは、目を細める。
抱く感情は、呆れ。
『………私を化け物と呼ぶか。失われた事実とはいえ、敵味方もわからない狂信者共の戯言なんて信じるなんて。まぁそんなことは建前でしかなくて、君にとっては至極どうでもいいことだろう。君の抱く感情は愛じゃない、その本質はまさに―――――』
前足を嬲るその手が煩わしかったのか。
カルラはもう片方の前足を横薙ぎに振るえば、棒状の何かが朱色の放物線を描き、彼方へ。
灰色の雨粒の向こうへと、消える。
ヴィルヘルミナの右腕は上腕骨の中ほどから千切れ消え、それもまた地を濡らす黒血の噴水と化す。
『まあそんな事はさておき。魔女、君はつくづく度し難い。一周廻って、可哀想だね。死に瀕して、まだ見当違いで身勝手な憎悪を私に向けるなんて、君にはいささか死への恐怖が薄いらしい』
「ふ、ふふ………死? 恐怖? そんなモノ、今更ワタシにあると思って?」
四肢はもがれ、身はその半分を潰された。
動けない彼女は抵抗などできないだろう。
「縊死、壊死、圧死、餓死轢死割死頓死爆死悶死惨死脳死刑死凍死感電死ガス毒死墜落死リンチ死失血死っ!! ワタシが一体何回、何十回、何百回、死を繰り返したと思っているのです!! 何もかもを捧げてきたその果てで、何も救えなかったワタシの絶望が貴女に分かってたまるものですか!! 『可哀想』なんて、ひとかけらも思ってない貴女が、同情なんて出来もしないことを騙るな、化け物!!」
それでも彼女は抵抗を止める意思はない。
「ワタシに同情していいのは、私だけ。私だけが、ワタシを助けてくれる」
『依存か。君はそんな自己中心的な理由で、主を巻き込んだのか』
「私なら、上手くやってくれる。だって私は、スペシャルで、300機で――――」
否。
止められないのだ。
彼女は、壊れた蓄音機のように「抵抗しないといけない」という意思しか繰り返すことが出来ない、ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーというモノの残滓である。
残滓でなければならなかった。
『巻き込んで、押し付けて、そして土壇場で邪魔をして。君は一体何をしたかったんだ?』
「―――――」
カルラの問いに、ヴィルヘルミナは答えない。
言葉に詰まって、ただ沈黙。
眼元より流れる血は、流れつくしたのか、朱より透明へ。
目尻から水が今なお滴り流れ続けているのは、はたして雨にうたれているからか?
それとも――――
『これは………』
――――ただの見せかけの、演技だったのか。
彼女の流した膨大な血は、不意に彼女を中心として難解な図形と文字を形成し、
完成するソレは、魔法陣。
『………今ここで固有魔法? 君の魔力は尽きている筈だ。何故――――』
「『最後のとっておきは、味方にも黙っておくもの』なのデスよ!! 私が死に、前提条件は整って、ワタシの死は揺るぎなく、そして魔力がないのなら、その大元から絞り出せばいい!!」
『………君の魂が擦り切れてしまっているのは、そういう事か』
世界の理を覆す、前代未聞の大魔法。
その魔法を使うにはいささか魔力が足りず、己の魂さえも削り行使する彼女の目には、一切の迷いも曇りもない。
「私はあと少しで勝てた。なら、ワタシがするべきことは決まっている!! 僅かでも、一人くらいなら、今のワタシでも私を送ることくらいわけないのです!!」
『魔女、君はそこまでして主の魂をまだ弄ぶか』
「まだ? いえ、まだですよ!!」
赫く水面に不気味な三日月が再び浮かぶ。
震える声は、嗤う声。
伸ばすのは、先無き両腕。
両腕が伸ばされるのは、カルラにではない。
その先は、遥か空。
「ワタシの悲願は達成されなかった。私でもどうしようもなかったのなら、ワタシもまた諦めましょう。ですが、私はまだ、まだ、まだまだまだ、私はワタシになっていない、絶望していない!! ああ、だから愚かで矮小なワタシは私に身も心も全てを捧げ、貴方に託すのです!! ワタシでは果たせなかった試練、でも貴方なら―――――」
ヴィルヘルミナの身体は、無茶な固有魔法の行使の為か、濡れた砂の城のようにボロボロと崩れてゆく。
肉体さえも、骨さえも。
しかし彼女は揺るぎなく、晴れやかな表情のままで嗤い続けた。
呼吸が途絶えても、緩慢になろうとも。
ずっと、ずっと。
ケタケタ、ケタケタと。
「その魂が還り、苦しみに苛まれようと、きっと私は乗り越えるの、です。あぁ………次に、ワタシが目覚めた時が………楽しみ、です…………………ね」
そう言い残し、赫きを失ったヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーは崩れ去った。
彼女がこの世からなくなった後に残るのは、元の型すら分からぬ残骸。
『逃げられたか』
忌々しげにつぶやいたカルラはふんっと鼻を鳴らす。
ヴィルヘルミナに向けられていた憎悪は、もはやない。
が、それは向けるべき相手が自滅したからではない。
ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーを、カルラは呆れ、同情し、哀れに思っていた。
一見狂っているように思えた彼女は、その実最期まで理性的であった。
自らのしでかした存在する矛盾に、彼女は気付いていた。
それを認識したのは、その矛盾を問うた時、言葉に詰まった時。
言葉に詰まる、という事はそういうことなのだろう。
それでもなお、理性で以て狂信する。
そうしなければならなかった理由が彼女にはあったのだろう。
真相は、もはや誰にも分からないが。
最期に、彼女の理性が見せただろう、涙。
カルラはそれを偽りのモノだとは思わない。
ただ――――
『理由はどうあれ、君は己の運命から逃げて、主に全てを投げ出して、そしてまた主を苦しめようとしている。そんな君もまた、どうしようもなく――――傲慢だよ』
それだけ吐き捨て、背を向けて。
カルラが歩めば、地が揺れる。
しかし、カルラとは別に地を揺らすモノが、彼女の先にもう一体。
『………瘴気。異形――――今はネウロイだったか。君たちの匂いは、雨の中でも、とても不愉快だ』
雨壁の向こう側に、黒い影。
もう一つの主の敵を喰らうため、カルラはひとり、駆けだす。
暗く、灰色に閉じた世界。
後に残るものは、ただ寂しい雨音。
前回話投稿後、流石に敬遠されるだろうと身構えていましたが、思いのほか前回話以降の感想、一言評価で「構わんやりたまえ」の声が多くて驚きです。
どれだけ同志の方がいらっしゃるのかと………
と言う事で、「ヴィッラ嬢」には今後も容赦なくやらせていただきます(えっ