町が、私たちの慣れ親しんだ町が、赤色に染まっている、燃えている。
燃えた町は下から上に、暴力的に、灰色に染まった筆を空に描いているのは、見ずとも分かる。
こんなにも灰色の匂いが、私の呼吸を邪魔するのだから。
町の人達は蜘蛛の子を散らすかのように、自分勝手に、ばらばらに、皆あの怪物から逃げようとする大通りは最早濁流と化し、上流に向かって泳いで進む事は子どもの私には困難だった。
だから私は土地勘を頼りに、路地裏を進む事を選ぶ。
目指すのは――
「お姉ちゃん……ゲホッ、ゲホッ……」
私の、お姉ちゃん。
この世に
行かないと――居場所は、知っている。
行かないと――大丈夫、信じている。
行かないと――まだ、彼女は死んでいない。
「だって……」
約束したもの――
「私を……」
一人にしないって――
「あ……」
曲がり角のその先。
進もうとしたその道は、目的地に行ける筈だったその道は、左右の建物の倒壊によって潰されている。
これでは進む事は出来そうにない事は、考えるまでも無い事。
だけど――
「ぅ……嫌ぁ……」
聳える壁に絶望し、膝を折っている暇なんてないのに。
地べたを眺めている暇なんてないのに。
如何して私は泣いているの?
「ぁ……ぁあ……、お姉ちゃん……」
他の道は、駄目だった。
此処のように、瓦礫が邪魔をして進めない。
まるで悪魔が意地悪をしているみたいに。
道が、無い。
道が無いから、進めない。
進めないから、絶望して。
絶望しているから、立てない。
立てなければ、何もできない。
……それはただの言い訳。
今、私が感じているのは、恐怖。
突然現れた、あの化け物に対する恐怖。
化け物から放たれた閃光。
私の目の前を横切った閃光は、私のすぐ前を歩いていた人たちを、まるで最初からその場にいなかったかのように消し去った。
その光景が脳裏に張り付いて、こびり付いて、剥がれない。
――お姉ちゃんの所に行かなきゃ
――化け物が怖い
――死にたくない
それらは、どれも偽らざる私の本心。
私の中でせめぎ合う、家族への思いと化け物への恐怖。
天秤のように揺らぐそれらは時間が経つに連れて、恐怖へと傾く。
だから私はこうして地を見ている事しか出来ないのだろう。
……それもまた言い訳だ。
「誰か……」
私にもっと勇気があれば……
お姉ちゃんの事を助けたい……
でも、怖い……怖い……
死にたくない……
視界いっぱいに広がる地に涙が飛び込み、溺れて消える。
嗚咽は止まらず、震えは止まらず、涙は止まらず。
いきなり現れ、私たちの町を壊していくあの化け物を私は恨み、そんな物を産み出したこの世界を私は恨み、何より今ここで何も出来ないでいる私自身を恨み。
それでも私は、自分勝手に願った。
「助けて!!」
届くはずもない、臆病で身勝手な私の願いは、しかし――届く。
私の前に降りゆくのは、一人の天使。
綺麗なその髪、白銀糸をまるで衣服と言わんばかりに身に纏い、純白の翼をその背に生やした天使は、地をトトンとステップを踏んで、私の目の前に、背を見せながら降り立った。
震える声で、凛とした後姿を見せるその天使の名を私は恐る恐る、呼ぶ。
「ヴィルヘルミナ……さん?」
「……シャルロット、か」
振り向きざまにサッと掻き揚げた彼女の髪が、ふわりと宙を舞い遊ぶ。
何処か現実味のないその姿に、気づけば私の涙は、瞳から零れる事を止めていた。
少しして、彼女のキュッと結んだ唇が解け、言の葉が漏れる。
「逃げろ、シャルロット……此処は危険だ」
私を憂うその言葉に、私は首を横に振る。
そして私は今一度、彼女に願う。
「お姉ちゃんを助けてください」、と。
「ジャンヌは、何処に居る?」
お姉ちゃんは今朝、カジミール叔父様に連れられてガリア軍の基地に連れていかれた事を、私は家にいた使用人から聞いている。
その事を伝えると、ヴィルヘルミナさんは眉を顰めた。
「お願いします、ヴィルヘルミナさん!!」
「……」
私の願いに彼女は何も答えず、只々沈黙を守るだけ。
駄目なの、かな……
いや、当然だ。
彼女だって目的があって動いているに決まっている。
誰だって自分の事で精一杯の筈なのに、勇気が無くて進めない私の替わりにと、私の願いを押し付けようだなんて、私はなんて自分勝手なのだろう。
そう思い、諦めかけた私に彼女は背を向ける。
「私は、行く」
「ヴィルヘルミナさん?」
「シャルロット、君は南の石橋を渡って、出来るだけこの町から離れろ。ネウロイは水を嫌う。橋を渡り切れれば陸戦型のネウロイに襲われる可能性は低くなるし、小型の飛行型も今は大衆の逃げた東の方角に向かっている。この町の地理に詳しい君ならば、今なら君の脚でも十分に逃げる事が出来るだろう……ジャンヌは、私が探すから」
そう言いながら、彼女は背負っていた荷物の一つから、真っ黒な細長いケースの中から、何かを取り出した。
茶色と鉛色のツートンカラー。
ヴィルヘルミナさんの手に握られたのは紛う事無く、銃だった。
それは人をも殺しうる、武器。
しかし躊躇う事無くその武器を手慣れた様子で持ち、これから向かう先に居る筈であろうあの化け物たちの事など、さも「だから何だ?」と言いたげに、毅然としたその姿は天使と言うより――戦乙女
……どうして?
どうして彼女は、他人の為に簡単に死地に飛び込もうとするのだろう。
どうして彼女はそんな平気な顔をして、死地に飛び込もうとするのだろう。
あの閃光を、彼女だって見ている筈だ。
それでもなお、彼女はあの化け物が怖くは思わないのだろうか?
彼女の背中に恐怖の色は見られない。
それどころか、私と年は対して変わらない筈の彼女の雰囲気は、大人の……『
「それじゃあ「待って!!」……何だ?」
「ヴィルヘルミナさん……わ、私も」
どうして彼女を引き止めたの?
私は一体何がしたいの?
大切なお姉ちゃんの事を彼女に任せた癖に、今更何を言おうとしているの?
思考と私の言葉がかみ合わない。
でも――
「私も連れて行ってください!!」
それでもいいと思ってしまった私が居る。
なんと都合の良い人間であろうか。
だけど……
だけど、ヴィルヘルミナさんと一緒なら、出来ると。
何故かそう思えてしまったから。
ヴィルヘルミナさんは、ゆっくりと私に振り返る。
彼女の澄んだ空色の瞳は、邪な私を「ほら見ろ、これがお前だ」と言いたげに映している。
「
「……ッ!?」
ヴィルヘルミナさんから返ってきたのは問いかけ。
その問いかけに、私は思わず半歩、後退る。
それは暗に「足手まとい」と言われているのか?
いや、きっとそうなのだろう。
「……」
問いかけたヴィルヘルミナさんは沈黙を守り、動かず、ジッと私を見守っている。
私が足手まといと言うのなら、そうだと言ってすぐに立ち去ればいいのに、彼女はどうしてそうしないのだろう?
――君に、何ができる
私は彼女の言葉を思い出し、今一度考えてみる。
この言葉には、もしかして他にも意味があるのではないのか、と。
……逆に考える。
ヴィルヘルミナさんは何ができる?
彼女のその瞳には、覚悟と意思がある。
それは彼女が臆することなく死地に飛び込む事が出来るという事。
彼女のその手には銃が、武器がある。
それは彼女が戦うことが出来るという事。
彼女の背中には翼が、固有魔法がある。
それは彼女が地形に関係なく移動し、逃げる事も出来るという事。
――私は何ができる?
「ヴィルヘルミナさん、私は……」
彼女はきっと、私を連れていくだけの価値があるのかを聞いたのだ。
ならば私は自分の価値を彼女に示すだけ。
彼女は私に覚悟と意思は求めていないだろう。
それだけでは何も出来ないのだから。
彼女は私に戦う力を求めていないだろう。
そもそも子どもが武器を取り扱えることすら珍しいのだから。
残る答えは――
「私は、治癒魔法が使えます!!」
私の答えを聞いた彼女の表情が、少し悲しげに歪む。
――失敗したな
固有魔法を駆使して空を飛び、魔法で強化した脚で屋根伝いに町を駆け抜けながら、私は先ほどの失言を内心で後悔していた。
振り向く。
私の背にはシャルロットが、高所になれていないせいか、少し震えながらも振り落されないようにギュッと背にしがみ付いている。
「大丈夫か?」
「は、はい。ちょっと怖いですけど……」
私に気遣ってか、無理をしているのがバレバレな笑みを作る彼女に「そうか」と、私は会話を短く切り上げて前方を注視する事にした。
私は彼女の事を見捨てるつもりだった。
路地裏で彼女と出会ったのは本当に偶然。
逃げ惑う人々の波から逃れる為に固有魔法を使ったら、偶々彼女が私の着地地点にいただけ。
ただ、彼女は少なからず私の知り合いである事には変わりなく、死なれてしまうと寝覚めが悪いと思い、彼女に逃げるべき方向を教えたら私はすぐにその場から離れるつもりだった。
彼女のお願い――ジャンヌの事についても、あれはただの大人の嘘。
空から確認したが、駐屯地にはネウロイが少なからず張り付いており、シャルロットが向かっても死ぬのは目に見えていた。
だから私は嘘をついて、シャルロットだけでも逃げられるようにと思っていたが、今度は私に付いてくると言う。
――冗談じゃない
それが私の正直な思いだった。
しかし足手まといが増えるのは御免だと遠まわしに言って、事実彼女を内心で子ども扱いしてその場を納得させようとしたその時の私は、シャルロットを子どもだと少しでも舐めてかかったその時の私は本当に愚かだ。
まさか私の言葉の揚げ足を取ってみせるとは……
「シャルロット、先に言っておくが、まず病院に向かってから駐屯地には向かうぞ」
「は、はい、分かりました……ですけどヴィルヘルミナさん、病院に何の用事があるのですか?」
「……知り合いが居るんだ」
思考を切り替える。
まずは両親の安否を確かめる事が、無論第一だ。
出来れば逃げる為の足を確保したかったところだったが、贅沢は言っていられない。
逃げる途中で足が確保できれば御の字だが兎も角、この町からどんな形でもいいから一刻も早く両親を生きて連れださないと……
ジャンヌの事は……可能ならば助けるつもりだが、シャルロットには悪いがそれはないだろうと考えている。
先にも述べたが駐屯地には多くのネウロイが張り付いている。
銃声や戦車の砲撃らしき轟音はまだ遠くからでも聞こえてはいるが、そもそも今現在この町にいる動ける兵士の数は少ない。
駐屯地がネウロイに陥落させられるのは最早時間の問題だろう。
そんな中を飛び込める程の、命を張る程の理由が私に無い以上、駐屯地に向かうつもりは無いし、助けて同行するつもりの両親だってそれを許す筈が無いだろう。
シャルロットには恨まれるかもしれない。
騙して本当にすまないとは思っているし、どんな事をしたって許してもらえるとは思っていない。
それは本心だ。
でも私は漫画やアニメなんかに出てくる主人公やヒーローなんかじゃない。
私は、私と私の家族を護る事で精一杯。
それ以上のものを護る自信なんて、今の私には無いんだ。
どんなに内面が熟していようと、私は権力も力もないただの少女のなのだから。
病院が見えてきた。
幸いにもネウロイは既に落下地点から離れ、駐屯地のある北と、人々の逃げた東に向かっている。
また空からは、病院周辺にネウロイの姿は見られない。
「それがせめてもの救い、か……」
空から見下ろす病院は、最初のネウロイのビームのせいだろう。
半壊し、沈黙している建物からは
病院の前に降り立った私は、シャルロットをその場に下ろし、近くの茂みに身を隠すように告げる。
シャルロットは私の言葉に怪訝そうな顔をするがすぐに頷き、私の指示通り茂みに身を隠す。
「……」
未だ中に入っていないとはいえ、病院は余りにも静かすぎた。
もしかして、病院の中にいる人たちは全員逃げたのか?
……いやそれは無いだろうと、私は
ネウロイの襲撃から然程時間は立っていない。
それに病人や怪我人が多くいた筈だから、避難は時間が掛かる筈である。
それなのに、一人も入り口から出てくる人や、物音が全く聞こえてこないというのは……
嫌な予感がする。
そう感じた私はすぐに銃を構え直し、扉に手を掛け、そして――
「ぁ……」
ゆっくりと扉を開いた先で、私は見る。
病院を支配し、つんと私の鼻腔に突き刺さるのは鉄のような匂い。
病院特有の白色キャンバスは飛び散る赤一色で染まっている。
余りにも強く自己主張をするその匂いに、そして目の前に広がる光景に、私は思わず胃の中の物を吐き出しそうになるのを必死に抑える。
いっそ胃の中にある物をすべて吐き出せたらどんなに良かったものかと思う。
ネウロイが何処に居るかも分からない予断を許さないこの場において、それは不可能な事だった。
吐き気を抑え、私は進む。
一歩進んでは、無心で。
一歩進んでは、赤い海を踏みしめて。
一歩進んでは、海に浮かぶ
そうして漸く到着する事の出来た赤い海の対岸で、私は大きく息を吐いた。
「前世で嫌と言う程死体は見て来たつもりだったけど……」
自嘲気味に呟きながら、思う。
――酷過ぎる
一体何がどうなればこんな惨劇を生み出す事が出来ようか、と。
たちの悪いドッキリか、B級ホラー映画と言われたならばどんなに良かったものか、と。
「シャルロットを置いてきて正解だったな……ん?」
階段近くよりふと何かの気配を感じ、私は慌てて下ろしていた銃口をそちらに向ける。
しかしそこには誰もいない。
「おかしいな? 確かに何かの気配が……」
――ガタンッ
物音。
それは階段近くの用具箱からだった。
とりあえず私はその音のした用具箱に恐る恐る近づいて、声を掛けてみる。
「おい、誰か入っているのか?」
『――誰も……誰も入って、いません……よ?』
意外にも返事が用具箱の中から返って来る。
しかも声の主は、今日私が病室から出てきた際にぶつかったあの看護師に間違いない。
私は銃を下ろして用具箱を開ける。
中にいたのは、やはりあの時の看護師だった。
ただ、彼女の着ているナース服は血で――恐らく返り血であろう――真っ赤に染まり、顔は涙と恐怖でぐちゃぐちゃになっていたのを除いては。
「ヴィルヘルミナ……さん?」
「大丈夫か、何があった」
「分からない……分からないの。突然衝撃が来て、爆発があって……訳の分からない怪物が病院に入ってきて……それで……それで、先生方や患者さんたちを…………私、怖くて……」
「……もういい、分かった」
これ以上思い出させるのは酷か。
とりあえずここで何が起こったかは大体分かった。
後は――
「両親……ルドルファー夫妻の居場所は何処だ、何処に居る?」
「ルドルファー……ルドルファー先生……………………先生たちは…………よん、ぜろ、なな………です、ドミニク先生………」
「?」
彼女の視線は私を向かず、一点を見たまま動かない。
彼女が何を見ているのかと疑問に思い、振り返ってみると、彼女が見ている
赤い海の中で、浮かぶようにうつ伏せに倒れ、ピクリとも動かない彼を、私も名前くらいは知っていた。
「ドミニク先生…………ふふ……だめですよ、そんなところで寝ていたら」
「ぁ……」
ドンと、後ろから押され、私は尻餅をつく。
何が起きたか分からなかった私は、私の横を通り過ぎていく彼女を、ただ呆然と見送る。
ふらふらとした足取りで赤い海を進み、彼だった
ぶつかったのは、二度目。
その事を謝らなかったのも、二度目だ。
そんな事を、今この場で思えるのはどうしてか?
「行かないと……」
壊れた彼女に目を背け、背を向けて、急いで、それこそ逃げるように駆け足で、私は階段を駆け上がる。
目指すのは四階。
彼女の言った、407号室――それはお婆様の病室だ。