SIRENE:Neue Übersetzung   作:チルド葱

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ある者達が例えば己の存在を賭けた尋常なる勝負をチェスでもって行っていたとして。そのうち1人がチェス盤をひっくり返す力を持っており、かつ自らが具す件の力に自覚的であったとしたならば――何このようなものはただのたとえ話、与太話として聞き流してくれて一向構わんがね。
当然然るべきときには彼、あるいは彼女は、手の内にある当然の権利をいちいち主張するまでもなく、呼吸するように気負い無くそれを実行するだろう。
この彼――あるいは彼女――が、己の存在に渇望を見出していたならば。


さいれん│2006.8.4.⇒8.2.ⅱ

 ヴィルヘルムとアマナが羽生蛇鉱山の採掘場跡を瓦礫を踏み踏み歩き始めた頃、ハワードと美耶古はようやく地下道から地上に出たところだった。

 薄暗い赤い空だが、地下の暗闇に慣れきった今だけは明るい青空のように晴れやかに映る。土ぼこりと生臭い返り血――本当に血なのか、あるいは血に似た赤い水なのか、もう判別もつかない――にまみれたふたりは、ついに見つけた出口から身を乗り出し、空を見上げてから、がばっと顔を見合わせた。

 

「そ……外だ……! そと! 出られたぞハワードぉ!」

「Oh……Oh Yes!!! Miyako, We got it!!!!」

「わぁっ! ばか、いきなりくっつくな……! うぅぅ、で、でも、出られて良かった……!」

 

 狙撃手・ユキエセンセイ(仮名)と屍人化したと思われているヴィルヘルムを避けて地下坑道に入った少年少女は、襲い来る屍人を改造散弾銃とハンマーでかち割りながら逞しく進んでいた。

 もともと肝が据わっていたハワードであったが、しばらく行動を共にした黒円卓髄一の戦闘狂の影響を受けたか、今までより一層大胆に屍人を相手取るようになっている。異邦人たちのずば抜けた逞しさを目の当たりにする美耶古も、遅れをとるわけにはいかないと気を引き締めてハンマーを握り締めた。

 そんなこんなで健気に前進したふたりであったが、一方のヴィルヘルムはそんなふたりの冒険など知るはずもなく奔放に戦闘を楽しんでいたわけで。

 そしてその結果、羽生蛇鉱山の地形はダイナミックにリフォームされたわけで。

 

「いきなり地震みたいな揺れは起きるわ、使えそうな出口がいくつも崩落して通れなくなってるわ、もう生き埋めになるかと……」

「But, あの地震のあと、シビト、みんなうごかなくなってた。I wonder that,……Ah,あのときナニが起きてたのかな?」

「視界ジャックして探ろうにも周りのどの屍人も全部停止してたしな。……ふん。ひょっとするとお前が言ってたとおり、ベイが何かしてくれたのかも」

 

 赤い空の下抱き締められたまま半ばリップサービスでそう言った美耶古に、ハワードは「きっとそうだ!」と弾かれたように笑みをこぼす。至近距離で輝いた栗色の瞳に、美耶古の心臓が一拍飛び跳ねた。

 

「いっ、いつまでくっついてるんだこの愚図ッ! ここがどこかもわかんないんだぞっ」

「HAHAHA, Sorry」

「ったく……」

 

 トロッコのレールがずるずるとひかれた比較的新しく掘られた坑道よりも更に奥に潜り、湿った土のにおいの暗闇をかきわけて進んだハワードと美耶古は、羽生蛇鉱山地帯のはずれに出ることができていた。地下を通っての鉱山離脱、という目的はひとまず達成されたことになる。

 とはいえ、地下を通り山道に出た今、いちおう地元人の美耶古も今の位置感覚を掴みかねていた。

 もうずいぶん人に使われていなかったのか金具が赤茶に錆び付いた扉をバキンと力づくで押し開いた時にはわからなかったが、空は地下に入ったときよりも少し翳った赤色になっていた。時間の感覚は曖昧だが、もう夕方になってきているのかもしれない。日が暮れて動き回るのは危険だ。となると、あまり時間は無いかもしれない。

 ヴィルヘルムとはぐれた鉱山事務所の方の様子をここから窺うことは出来ないが、距離をとって正解なのだろうとは思う。あんなに強い男が屍人になってしまうような怖ろしいことが、あそこでは起きていたのだ。《闇の賜物》の能力を完全に屍人化だと思い込んだ美耶古はそう考えて、またぶるりと背筋を震わせた。

 

(早くこの村を出たい)

 

 ヒステリックに弱気を晒すことはしないが、美耶古の心はギリギリのところで堪えている状態だ。

 怖ろしいことは、この村に残る限りひっきりなしに起こり続ける。同行者が欠ける喪失感も味わった。

 

(……せめて、ハワードのことは無事に……)

 

 茂みに隠れて一休みしてから山道を降り、段々畑を横目に歩を進めながら、美耶古は一歩先を行く少年の背中を見た。片足を負傷した自分を気遣ってしきりにこちらを振り返る彼は、良い奴だ。ちょっと頭のネジが吹っ飛んでいるところも無いわけではないが、それでもとびきり良い奴だと、美耶古は思う。

 外の世界からやって来た、やさしくてばかな異邦人。

 不意に、その背が立ち止まり、くん、と伸び上がって遠くを見たようだった。「ハワード?」と問いかけた美耶古に、ハワードが声を潜めて「マッテ」と背中越しに言う。

 

「ミヤコ、誰かいる」

「えっ」

 

 ハワードに言われ、その背の影から向こうを覗いた瞬間、

 

 

 

「あらぁ――あらあらあら。こーんなトコでデートなんて、ちょっと趣味悪いぞぉ少年♪」

 

 

 

 ぶわ、と、生ぬるい風が立ち木の間を吹きぬけた。視線の先で、匂い立つ花のような赤髪がぶわりとうねる。

 くすくす笑う鈴の声は、華奢で可憐な少女から発せられていた。

 どこか見覚えがあるような黒色を基調としたミニスカートのワンピースに、赤い腕章が一点目立つ。底の厚めなブーツの底をトンと押し当てた先は、古びた小さな墓石だ。美耶古にはその墓石で現在地がわかった。

 刈割方面。不入谷聖堂の近く。荒れた山沿いの坂道の上に立つあどけない少女は、なにやら魔女のような凄みを孕んで翠の瞳をにんまり細める。

 初めて見るはずの異邦人らしい少女のそんな姿を目にしたハワードと美耶古の胸中には、ほんの昨日ヴィルヘルム・エーレンブルグが話したことがざわり、蘇っていた。

 

 ――つうか一応連れはいたぜ、淫売のババアがひとり。あのサイレンで気ィ失ってからはぐれっちまって、今はどこにいんのかもわかんねぇがな

 ――こんくらいの背丈の女だ。赤い髪に緑の目ぇした、幼児体型のメスガキだな

 

 容姿の特徴は完全に一致する。こんな濁った血の色の空の下であっけらかんとしている様も、あの白い男に通ずるものがある気がした。

 今はなきチンピラ軍人の記憶と目の前にあらわれた乙女を擦り合わせ、ハワードと美耶古は一切の毒気も悪気も無く、同時にくちを開く。

 

「「ベイの連れのババアっ……!」」

「…………うーんさすがのルサルカさんにもちょぉ~っと意味わかんないんだけど、ぱくっと食べられちゃいたいのかしらこンのクソガキ共?」

 

 ヴィルヘルム、肝心の名前は教えてくれていなかったのだった。

 

 

 ● ● ・

 

 

 ルサルカ・シュヴェーゲリンは不機嫌と遊び気を一気に刺激されて、思わず愛らしいくちもとを引き攣らせた。

 

「Oh……連れのババア、ブジだった! Bey would be glad……!」

「本当に無事でよかった……! でも、ごめんなさい……謝らないといけないことがある」

「ウンまぁあたしとしても謝ってほしいことはありまくるけどね!?」

「謝りたいのは……ベイのことなんだ」

「そっちじゃなくてもっと他にあるわよね!?」

 

 対面早々、この愛らしい乙女を捕まえて『ババア』ときたもんだ。

 そりゃあ実年齢からするとこんな青臭い少年少女にとってはババアと呼んで差し支えないくらいの開きがあるのかもしれないが、そんな慣習じみたものは関係ない。条理を越えて魔女になったこの女に、凡庸な俗人目線の修辞なんか当てはまってたまるものか。

 なんならすぐにでも拷問器具でとっつかまえてみっちり"教育"してやってもいいのだが、気になることもあった。

 

(どういうことか知らないけど、ベイのやつ随分気安く懐かれてるみたいじゃない)

 

 ひとまず「はいはーい落ち着いてっ!」と高い声を張り上げたルサルカは、チャーミングな翠の目をジトリと半目にして日本人らしい少女と白人の少年を黙らせた。

 とりあえず

 

「……それ、『ババア』って、ベイが言ってたわけ?」

「? あ、ああ」

「Yes」

「……」

 

 ベイ、後で、絞める。

 花の微笑でそんなことを考えながら、ルサルカは「あのね」と、こなれた様子で笑顔を作った。

 

「あたしの名前はルサルカ・シュヴェーゲリンっていうの。ルサルカって呼んでくれたらいいわ。ベイの馬鹿が言ってたことはぺろっと忘れちゃって大丈夫だから」

「は、はぁ」

 

 ちょこんと首をかしげて顔を覗きこんで、有無を言わせぬ調子で言い含めたルサルカに、少年と少女も言われるままに頷いた。ほんの数言で自分のペースを作ってしまう小柄な魔女に、黒髪の少女は数秒遅れで自分が言おうとしていた話題を思い出す。

 

「って、ルサルカ。そのベイのことなんだけどっ」

「あー、ウンウンどしたの? またどっかでヒャッハーしてるわけ?」

 

 ヴィルヘルムとはぐれてから思えば2日か3日は経つが、直接顔を合わせたことは一度もなく、動向も不明である。こういう珍奇な状況になら喜々として乗っかって彼曰くの『たぎる』案件を気まぐれに狩りに行く、なんてのがあの男のやりそうなことだろう。

 ルサルカとヴィルヘルムは嗜虐性や遊び気などでなんだかんだ気が合うようでいて、しかし根本的なところでは欲も思考もずれているのだ。

 

(あたしがいろいろ調べたりしてたってのに、あのバトルジャンキーはほんとにしょうがないわねぇ。男ってこれだからアテになんないわ)

 

 自分も大概の気分屋であることをあっさり棚に上げて心中で嘆息しつつ、ルサルカはコツンと、足元の墓石を爪先で蹴った。

 呪いか魔術のような気配の残滓はあるものの、どうやらこの墓は空っぽだ。この墓の主も他の死体同様にそこらを徘徊しているのか、それとも最初から誰も埋まってはいないのか。まだこの異界の状況のすべては把握しきっていないが、それでも何か、鍵になる要素である気はする。墓碑代わりの苔むした石の肌には、ただ女の名と思しき文字が刻まれていた。

 黒円卓の《魔女の鉄槌》は頭の中で情報を整理しながら、そんな思索をおくびにも出さずにまだ名も知らぬ黒髪の少女の言葉を促す。

 

「で、ベイがどうしたのかしら、お嬢ちゃん?」

「……あいつは……ベイは、死んだんだ……!」

「へ?」

「Yes, he is」

 

 悲愴な顔で言い落として俯いた少女の震える肩を、ショットガンを担いだ少年が慰めるように撫でる。

 ルサルカだけがこのテンションに付いて行けずに『いや、無い無い無い』と、ある意味牧歌的にいぶかしんでいた。あの戦闘狂は殺したってそうそう死ぬ奴じゃない。現世に残存する黒円卓の騎士のなかでも、単純な戦闘力だけならトップと言っていい男なのだ。

 しかし――話くらいはきいておいていいかもしれない。ルサルカは「ふぅん」と鼻にかかった声を出して、ちいさな顎に指を当てて目を細めた。現にヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイはここにいないのだ。何かがあったというなら、情報は仕入れておいた方がいいだろう。

 

「いちおう教えてほしいんだけどー、死因はなぁに? 本当に死んだところを見たの、あなたたち?」

 

 問いに、少女は日本人形のような黒髪を揺らしてこっくり頷いた。「ちゃんと見た」と言いきって、微かに震える声で続ける。

 

「全身に杭が刺さってたし、血まみれで……あれはどう見ても完全に屍人化してた」

(アッベイ元気だわソレ)

 

 そのベイ、すごい、見たことあるわぁ。

 心配したわけではないが、たぶん黒円卓第四位は絶好調なんだと思う。なんだか可笑しくて笑い出しそうになるのをこらえて、ルサルカは思案する。

 

(ひょっとすると、省吾くんに仕込んであげたあたしのプレゼントを壊したのもあいつかもしんないわね。そんだけヒャッハーしちゃってたんなら納得だわー、省吾くんかぁわいそぉ)

 

 ぷくう。ルサルカの頬がふくれる。あの医者のために怒ってやるわけではないが、面白くは無かった。

 初対面でババア呼ばわりしてきた相手にいちいち誤解を解いて懇切丁寧に永劫破壊や聖遺物のことを教授してやる気にもならないので認識をすりあわせることはしないが、とりあえず現状はうっすら把握した。あの《串刺し公》の巻き添えも喰わずに逃げおおせた少年少女は相当な強運の持ち主らしい。

 そこではたと、気が付いた。

 

(……そういえばこの子達、『赤い水』の汚染効果がぜんぜん出てない……?)

 

 このあたりの水はあの夜のサイレン以来ほぼすべて、血のような『赤い水』の水害に浸食されている。昨日か、長くて一昨日からこの異常事態は始まったのだ。普通の人間が『赤い水』をまだ少しも摂取せずに過ごせている、というのは考えづらい。

 そしてルサルカは既に、『赤い水』を摂取した人間がどうなるのかを知っているのだ。

 赤い空が澱んで暗くなっていく下で、ルサルカ・シュヴェーゲリンは同胞の男の死亡状況(暫定)を言い募る少年少女の話を聞き流しながら、もう一度足元の墓石を見た。

 ちいさな旧いそれには、判読しがたい文字が浅く刻まれている。――『美耶古』、と。墓石の名は、そう読めた。

 

「ねぇ、あなたたち――」

 

 魔女の目が欄と光った。手ごろな実験動物を見つけた色だ。

 蟲惑的な微笑を浮かべて、凡人の消費を少しも躊躇わない魔道の徒はゆらりとその影を蠢かせた。

 

「――ちょっと、"搾らせて"もらえないかしら」

 

 えっ、と、美耶古とハワードが声をそろえた瞬間、ルサルカのちいさな舌が桜色のくちびるを舐め。

 うら若い少年と少女の身体に、魔女の影から呼び出された何かが喰いこみ。

 その途端

 

 

『ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ――――』

 

 

 赤黒い空をつんざく悲鳴のように、あの夜と同じサイレンの音が鳴り渡り出した。

 

 

 

 ● ・ ・

 

 

 

 一方、その少し前。

 羽生蛇鉱山跡地では、白い男と赤い僧衣の女がマイペースにずかずか歩きまわっていた。

 あれからしばらく経つと屍人たちは再び動き出したのだが、並んで歩くアマナとヴィルヘルムにはまったく手を出してこない。むしろ遠巻きに「エッ」「チョッ……エェェ……?」などとぼそぼそ言って、何故か機嫌をうかがいでもするかのように様子をみてきている。いやぁな緊張状態である。

 遠巻きに付いてくる屍人を潰していくのも、なんとなく鬱陶しい。チッと舌打ちしたヴィルヘルムは、面倒くさそうな半目で隣の女をギロリ、睨んだ。

 

「おうコラ、なんッであんな腐肉どもに見世物扱いされてんだテメェ」

「ワタシですか!?」

「そりゃそうだろ。さっきまで景気良く特攻して来やがった連中がテメエが来てから急に大人しくなってんだよ」

「Hm……ワタシが来てこうなったということは、神のご加護でしょうか、やはり」

「けっ。ンな上等なもんがあんなら死肉連中もとっとと自分の墓に戻って寝なおしてやがるだろうぜ」

「あははっ! んー、それもそうかもしれませんねぇ」

 

 いや納得してんじゃねえよ。

 吐き捨てた皮肉に平和な笑顔で同調するアマナに、ヴィルヘルムは閉口する。子守りの次は頭のネジがゆるんだ女の介護だなんて、まったくもって笑えない。この瓦礫の山からも、特段めぼしいものが見つかる様子はなかった。

 こうなったらもうさっさと同胞の赤髪の魔女あたりと合流して、当初の目的通りシャンバラを目指した方が良いのかもしれない。こういう魔術的なよくわからない事象はそもそも魔女だか魔道士だかの専門だろうし。マレウス・マレフィカムの気分屋ぶりからすると、下手をするともうさっさとこの地を後にしている可能性だって無くは無いのかもしれないが。

 考えていると自然に、ヴィルヘルムの大股の歩調は早まっていた。もとより女に歩調を合わせてやるような気遣い、ヴィルヘルム・エーレンブルグの辞書に載っているわけもない。凹凸の激しい足場をものともせずに同行者に構わず前進するヴィルヘルムに、焦ったアマナは「Oh, Please more slowly!」と口走って手を伸ばした。

 

 ちょうど、そのとき

 

 

『ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ――――』

 

 

 頭の底に耳鳴りのように残っていた残滓が、呼び起こされたようにざわついた。

 忘れもしない。この異変が起きたときに赤い降雨とともに鳴り響いたあの"サイレン"である。あれからも数度夜中に遠く響いていることはあったが、こんな大音量はあの夜以来だった。

 遠巻きにいた周囲の屍人が一斉にざわつき始める。

 唐突な状況の動きに、ヴィルヘルムは「んぁ?」と立ち止まった。その腕に先ほど伸ばしたアマナの細い手が触れ、

 

 ――ボウッ、と、空気が爆ぜる音がした。

 

「――――――ァ?」

「ぇ」

 

 朱色の光が、ヴィルヘルムとアマナの目を至近距離でちらつく。振り返った白貌が不意打ちに赤い目を見開いた。感覚はまだ追いつかない。空気が焦げる音に、肉が焼けるねばっこい音が重なった。

 アマナが掴みかけたヴィルヘルムの右腕、肘のあたりを、明々とゆれる炎が覆っている。着火、というよりこれは小規模爆発にも似た発火か。

 

「な」

 

 サイレンは鳴り止まない。目を丸くしていたアマナは自分の手から噴き出す赤い炎を見て、わななく声で「あ、あぁ」と小さく呟いた。

一見するとこの現象に驚いているようにも見えるが、その亜麻色の瞳はもっと遠くを見据えて揺れている。発せられる言葉も焔も、先程までの頭のゆるい聖職者のそれとは根本的に違っていた。サイレンに起こされでもしたように、その瞳は瞳孔が開ききっている。

 

「珍しい実が、奪われ――」

「おいてめえ」

 

 アマナが何かを言い終える前に、焼け落ちかかったヴィルヘルムの右手が炎の尾をひいて風を切り、その顔面を掴みにかかる。その間にも、地面と空はサイレンに引き寄せられるように揺れ、交わろうとしていた。世界の終わりじみた光景のなか、ふたりを囲むように広がっていた屍人たちは自分の身を千切らんばかりに躍り出している。

 片腕を瞬間的に焼かれながらもブロンドの頭を引っ掴んでそのまま地面に後頭部から叩き付けたヴィルヘルムは、白い頚に汗をにじませながら手に力を込めた。怪力が女の身体を軋ませる。

 

「今、何しやがった。そんでこの音ァ何だ」

 

 ただの炎であれば、聖遺物の徒にとってはなんの脅威でもないのだ。もっともヴィルヘルムはその『吸血鬼』たる特性上火炎を弱点としているが、それでもその弱点が致命的に顕在化するのはより強くより深く聖遺物と一体化した《創造》時くらいである。

 しかし今まさに焼かれている感覚でわかるのだ。この火は尋常の炎とは違う。炎に覆われた手で掴んだアマナの顔面がまったく少しも焼けていないのも、この炎の特異を証明していた。

 身の内を熱が這うように細胞から焼死していく感覚に、吸血鬼の口角は我知らず凶暴に吊りあがる。こうなってしまってはひとまずこの右腕は使い潰したって構わないが、他の部位まで燃やされては厄介だ。周囲に円形の亀裂を刻んで地面にめりこんだ女の頭から手を離して、ヴィルヘルムは身をもたげた。パチ、と、火花が腕から飛ぶと同時、その長身のシルエットが蠢動する。炎が上膊まで上ってきたら《形成》して片腕を落とそうと躊躇無く算段しながら、「なァ、おい」と、ギリギリ保った理性で今にも笑い出しそうな掠れ声を出す。

 

 ――この女がここの主だ

 

 確信し、激昂し、期待して狂喜した。

 軍服の繊維が熱に解け、骨が露出し始めた白い腕にへばりつく。悪食な炎はゆっくりと、しかし体表よりむしろ骨の髄まで熱の舌を伸ばすことで、聖遺物と一体化しているヴィルヘルムの腕を確実に落とそうとしている。アマナには少しの火傷も負わせていない事から見ても、この炎にはあたかも、この異界にとっての異物を排斥せんとする意思が宿っているようだった。

 半端に熟れた果実が強く圧迫された時のように頭蓋の形を変えられたアマナは、地面に倒れたまま、喉の奥から声をもらす。

 

「これではちがう。これでは……」

 

 

 

 "――……ウロボロスの輪は、繋がらない。"

 

 

 

 その言葉と同時に、サイレンがけたたましさを増した。聞くものの頭のなかをかき回す音量が、赤い水に浸された集落全体を蹂躙する。赤い空が落ちてくる。世界はまるで穴の中だ。地面がゆがみ、視界は侵され、脳髄のどこか、記憶と心をむすぶ何かが犯される。これはそういう音だった。

 目の前の得体の知れない女以外の情報すべてを本能的に遮断していたヴィルヘルムは、この閉じた赤い水の異界が暗転するギリギリまで、アマナという女の奥の異形を引きずり出そうと、酔ったようにそればかりを考えていた。

 面白い。これは絶対に面白い。だってこの女はおかしいのだ。何かとんでもないものを飼っている。あるいは何かとんでもないものに飼われている。こんなゲテモノにはそうそうお目にかかれない!

 

「く、はは。ははははは、あッははははははァ!! 上等じゃねえか、馬鹿女ああッ!!」

 

 

 炎に焼かれる右腕から無理矢理生やした杭で、アマナの心臓が貫かれる直前。あるいはヴィルヘルムのその右腕が肘の上から焼け千切れる瞬間。

 いつのまにか、サイレンは逆再生されているようだった。

 崩れる赤い空の下、死者の舞踏は苛烈さを増す。

 そして

 

 

  暗 転 。

 

 

 

 ・ ・ ・

 

 

 

 

 目が覚めたとき、ヴィルヘルムは1人きり、民家か納屋のトタン屋根の上に倒れていた。

 空は赤く濁っていて、永遠に続く夕焼けのようだった。朝なのか昼なのか夕方なのかは判然としなかったが、疎ましい日の光の眩しさは感じられなかったため、半ば寝惚けたまま、ヴィルヘルムはさっさと行動を開始した。

 その右腕は肘から先の袖がぶらり、完全に慣性と風に遊ばれて揺れている。

 この閉じた異界、閉じた条理のなかで、何かが起こった。それを起こした女がいた。何かに阻害されているかのように自然治癒が(あくまで当人比で)極めて遅くなっている右腕のハンデなどといった野暮な頓着は一切放り捨てて、黒円卓の騎士は熱っぽく口角を上げてずんずん歩く。

 面白くなってきやがった、と、大股に進む姿は"戦場のオカルト"の異名に似合いの鬼気を孕んでいた。

 

「ひとまず、今度ぁマレウスの奴を探してみるとすっか」

 

 既に知っている景色を踏み荒らす。

 8月3日の赤い空が、そ知らぬ顔でふたたびこの地をすっぽり覆いつくしていた。

 

 

 

Kapitel01【Mädchen, Außerirdischer und Ritter】 ――Das Ende

 

 




これにて1章、おしまい。
いろいろ謎を引っ張りつつ、2章につづく。

~ほがらか捕捉コーナー~
・公式でもアマナはアマナファイアー()を出せます。わりと急に出します。
・このお話の内訳を簡単に言い表すと、
『ベイ中尉とマレウス准尉はなんだかんだで各々この羽生蛇村の異変の核心に肉迫できていたものの、タイミングやらいろんな要因でお互いがお互いの足を引っ張り合って、結局"強制巻き戻し"のトリガーを引いてそれに巻き込まれてしまったのであった!』
みたいな感じです。
黒円卓のチャームポイントのひとつは、チームワークに大変問題があるところだと思っています(※個人の感想です)。

2章につづく、と上には書いたものの、次のお話から何話かは1章の裏側話になると思います。1章マークツー!
ベイ中尉・美耶古・ハワードの『羽生蛇村脱出チーム』がわちゃわちゃやってたころ、ルサルカさんが何処で誰と何をやっていたのか。
あと『ぷろろぉぐ以来』全然出番が無い、アメリカ人取材クルーはどうなったのか。
ユキエセンセイ(仮)は何だったのか。
マイペース更新ではありますが、またぼちぼち参ります~


(2015.5.3. こねぎ。)

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