【リメイク】緋弾のアリア 抜けば玉散る氷の刃   作:てんびん座

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第5弾

 何故、こんなことになったのだろうか。

 教室で佇むキンジが思うのは、そんなことばかりである。

 それもこれも、全ては自分を利用する女子たちが悪い――そう言い切ることができればどれほど楽か。

 しかし、キンジはこの事態の半分は己が原因だということを痛いほど理解していた。

 

「……クソッ」

 

 その悪態は、今日になって何度目か。

 しかし、何度言おうとも現状は変わらない。

 

 ――これから自分は、何の罪もない友人に手を掛ける。

 

 そのことを改めて思い浮かべたキンジは、己の浅ましさを嘲笑した。

 友人だから何だと言うのだ。

 今までにも自分は、何の関係もない生徒たちを痛めつけてきたではないか。それを忘れて、今更友人だから悪態とは。

 偽善もここに極まれり。

 結局自分は、見知った人間が傷つくのは許せず、見ず知らずの人間が傷つくことを容認する屑だ。

 こんな奴に正義の味方を目指す資格などありはしない。

 

(ミヤビの奴、きっと俺に失望するだろうな)

 

 今まで偉そうに武偵についてミヤビに語っていた自分が恥ずかしい。

 そして真面目にそれを聞いてくれたミヤビに申し訳ない。

 できることならば、潔く死んでしまいたかった。

 

「――ッ」

 

 その時、HSSによって強化されたキンジの耳が、床と擦れる上履きの音を聴き取った。

 間違いない、ミヤビだ。

 先程のメールで呼び出されたミヤビが、この教室へやってきたのだ。

 距離はそう遠くない。あと一分も残さず、ミヤビはこの教室の扉を開ける。

 そうなったら最後、自分はミヤビをこの手で……

 

「クソがッ」

 

 脳裏に浮かぶのは、マキの歪んだ笑み。

 午後の所属科の授業を強制的に欠席させられたキンジは、人目に付かない空き教室へと呼び出された。

 そこでいつものようにHSSにさせられ、そして今に至る。

 通常ならば、HSSを発現した男性は女性を傷つけることができない。何故なら、HSSは発現者の『子孫を残そう』という本能を刺激するからだ。

 これによって、発現した男性は“あらゆる”女性を虜にしようと、女性に魅力的な男性を演じるようになる。

 そんなHSSが女性を傷つけることなど、システム的に不可能なのだ。

 しかしそんな道理を、マキは容易く覆す。彼女は試行錯誤の末、このHSSの禁忌を破る術を考案してしまったのである。これは彼女の前任者の女子も考え付かなかった――否、悪質すぎて想像すらできなかった手段だ。

 だがその手段によって、マキはHSSの利用において最大の欠点――女性に手を出せないという問題を克服した。

 それにより、彼女はこの学校のヒエラルキーの頂点に立ったのだ。

 もはや欠点のなくなったキンジは、マキの最強の矛と言えた。この学校において、キンジを止められる生徒は存在しない。

 

(俺は……ッ)

 

 キンジが情けなさに拳を握り締めた、その時だった。

 とうとう、教室の扉が開けられる。

 

「呼び出しに応じて馳せ参じてあげたよ。何か用?」

 

 ドロリとしたヘドロ色。

 見慣れてしまった死んだ双眸が、キンジを見据えていた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

(……あれ?)

 

 ミヤビが教室に入って感じたのは、微かな違和感だった。

 日頃から利用しているはずの教室だというのに、普段は感じないような圧迫感がある。

 肌にピリッとくるような――久しく感じていない殺気に似ている。しかしそれにしては少し不安定で、どこか迷いのようなものを感じた。

 このような殺気を戦場で垂れ流せば、その者は即刻討ち取られるだろう。

 そして、その微妙な殺気を振り撒いていると思われるキンジは、無言で教卓に寄り掛かり佇んでいた。

 

「なんで殺気立ってるの? 不機嫌?」

「……いや、少し事情があってね。不機嫌と言えば不機嫌だけれど、別にミヤビに対してではないさ」

 

 とりあえずミヤビが思ったことは、「何だその口調は」という純粋な疑問。普段のキンジとは違い、その口からは軽薄そうな言葉を紡いでいる。

 そしてそれだけではない。意識してやっているのかどうかは知らないが、仕草の一つ一つから視線の寄越し方までまるで女性を誘うかのような妖艶さが滲んでいる。もしも普段のキンジを知らない女性が今のキンジを見れば、間違いなく女性慣れしたような印象を抱くだろう。

 尤も、ミヤビからすれば不気味以外の何でもないのだが。ミヤビに同性愛の気はない。

 

「ど、どうしたの? 頭でも打った? 病院行く? 救急車呼ぶ?」

「ははは、俺のことを心配してくれるなんて、ミヤビは優しいね……いや、ごめん。謝るから警察だけは勘弁してくれないかな?」

 

 ミヤビの指が携帯電話の110番に伸ばされたのを見たキンジが、表情を強張らせて通報を制止してきた。

 それに渋々と応じたミヤビだが、指は通話ボタンに添えたままである。何かあれば、キンジが行動を起こす前に警察へとコールされるだろう。

 

「キンジくん、ふざけているの? ボク、帰ろうとしていたのをわざわざ中断してまでここに来たんだけど。用がないなら帰るよ?」

「……俺としてはそれでも構わないんだけどね」

 

 歯切れの悪そうにしたキンジは、瞳を揺らしながら顔を逸らす。

 それを見たミヤビは、段々と嫌な予感を感じ始めていた。

 キンジの頭がおかしいのは一向に構わないが、何やら厄介事の臭いがしてきたのだ。

 この感じがする時は、高確率で面倒なことが起こる。虫の報せとも言えるこの現象は、自身の感覚に頼る武術家にとっては案外馬鹿にできない。

 

(『俺としては』――つまり、第三者が関わっている? キンジくんは呼び出し役?)

 

 そう考えるならば、呼び出しを指示した者が存在する。その者こそが、ミヤビの嫌な予感の正体だろう。

 となれば、面倒事には関わらないに限る。

 触らぬ神に祟りなし。孫子だって三十六計逃げるに如かずと言っている。ここは戦略的撤退だ。

 

「特に用がないなら帰るから」

 

 若干急いでキンジに背を向けようとしたミヤビは、しかし一歩遅かった。

 ミヤビが去ろうとする直前、再び教室の扉が開かれたのだ。

 

「帰る? それはならんなぁ~?」

 

 現れたのは、見知らぬ女子生徒。

 勝気そうに笑う彼女は、ミヤビの退路を塞ぐように扉の前に立ち塞がった。

 しかも扉を静かに閉めると、すぐに出られないようにするためか施錠をしてしまう。

 

「どちら様?」

 

 首を傾げたミヤビは、キンジに問いかけた。普通に知らない女子生徒だった。名札がないため、名前もわからない。自信はなかったが、この生徒は恐らくミヤビのクラスの生徒ではない。

 しかしキンジが答える前に、女子の方が勝手に名乗る。

 

「探偵科の赤城真紀で~す! 気軽にマキ様って呼んでね!」

「いきなり様付けですか」

「そ~だよ~? あたしには『様』が相応しいし~?」

 

 ニヤリと笑ったマキは、ホルスターから拳銃を抜く。

 あまり拳銃の種類には詳しくないミヤビだったが、その銃には見覚えがあった。

 グロック26――携帯性に優れた小型の拳銃だ。その小ささは本当に大したもので、サイズが小さすぎるため販売禁止になった地域すらあるらしい。

 この前の強襲科の授業で、教師が小話として語っていた。まさか早速知識が役に立つとは。案外学校も馬鹿にできない。

 

「大塚さんだよね~?」

 

 目元を厭らしく緩めた彼女に、「あっ、こいつはヤベェ」と直感的に判断したミヤビは、反射的に口を開いていた。

 

「人違いです」

 

 平然と嘘が出る。

 流れるように虚言を吐いたミヤビは、自然な動作でそそくさと彼女の脇をすり抜けようとした。

 

「って、違うだろ! 大塚はあんただろ! 逃げんなよ!」

 

 流石にその手は通じなかった。数瞬だけ呆けた様子の彼女だったが、すぐさま正気に戻ると再びミヤビの前に立ち塞がる。

 声を荒らげたマキなる人物は、今にも襲い掛かってきそうなほど気が立っていた。というか、既に銃爪に手をかけている。

 

「おい、聞いてんのか!」

 

 無言のミヤビに痺れを切らしたのか、女子生徒はイラついた様子で怒声を撒き散らす。それを見たミヤビは、これはもう一戦交えるしかなさそうだとゲンナリした。

 せめてとばかりにミヤビは廊下に視線を向けて教師たちの姿を探すが、残念ながら見つけることはできない。

 これは察するに、堂々と教室で“やる”気らしい。

 

「最近の中学生は凄まじいですね。ボクは体育館裏とかに呼び出すものだと思ってました」

一般校(パンコー)と一緒にしないでくれる? それに、学校なんて案外死角だらけのモンだし。ちょっと頭を使えば、校庭のど真ん中でやることもできるよ」

「マジで凄まじいですね」

 

 ラ○フとか目じゃない。

 訓練され、武装を許可された中学生とはかくも恐ろしいというのか。少女漫画などでも虐め描写はエグイと聞くが、火薬臭さと周到さならば武偵高が数段上だろう。

 

「それに、呼び出しは相手に戦闘の準備時間を与えることになる。なら、こっちから討って出るのが最も安全。先手必勝だし」

「これだから武偵高は」

 

 理に適っているだけに、ミヤビは呆れてしまう。

 こんなことだから無法者予備軍などと呼ばれるのだ。

 武偵高から退学する者は少なからず存在するとのことだが、そういう所謂“武偵崩れ”は裏社会に行きやすい。そんな話も、この生徒たちを見れば納得できる。

 

「ほら、教室に戻んな」

 

 グロックをミヤビの額に照準した彼女は、勝ち誇ったように顎で教室を示す。

 それに素直に従ったミヤビは、面倒臭そうに教室へと戻っていった。

 

「さてと、それじゃあ要件を説明するけど」

 

 自分のフィールドを整えたマキは、余裕そうに手近な机に腰掛けた。

 その傍らには、殺気混じりのキンジが佇んでいる。その様は、まるで主人に仕える従順な下僕のようだ。

 状況はさっぱりわからないが、どうやらキンジはあちら側らしい。

 

「あんた、最近になって転校してきたじゃん?」

「一ヶ月前は最近なのでしょうか?」

「最近だし。それでさ、中学で三年生以下の転校生は、全員あたしに挨拶に来るのがルールなんだよ」

「そうなんですか。初耳です」

「あっそ。でもさ、知らなかったにしろルール違反には変わりないのね。それでさ、違反には罰と謝罪が必要じゃないかなぁ、と思わない?」

「思いません」

「あたしは思うんだよ」

「……? ですから、ボクは思わないと言ってるんですが?」

「……テメェ、あたしの話を聞いてたか? あたしが言ってることの意味がわからねぇのか? あ?」

「悪いのは耳ですか? それとも頭ですか? ボクは、思わないと、言ったんですが?」

 

 「何を言っているんだコイツ」とでも言うようなミヤビの視線に、マキは口元を引き攣らせる。同時に、傍らで二人を見ていたキンジは両者の相性の悪さに絶望していた。マキも大概だが、ミヤビはそれを越すレベルの自己中心主義者だと痛感したのだ。もはやKYの域に達している。

 そして二人の自己中心主義者は、どうやらお互いに相手の話を聞くつもりはないらしい。自分の主張こそが絶対だと疑っておらず、相手が自分に従わないことこそが間違っていると確信している。だからこそ対話は成り立たないし、そもそも成り立たせようとしない。これでは会話のキャッチボールどころか、剛速球で相手にデッドボールをしに行っているようなものだ。

 現にミヤビは話の通じないマキに苛立ちを感じ始めており、怒りのボルテージが上がった様子のマキは銃口をミヤビに向けたまま目を細めている。

 

「そ、その反抗的な態度は何なの? ま、マジムカつくんですけどォ? お前、反省する気あんですかァ?」

「はいはい、メンゴメンゴ。それでもう帰っていいですか?」

 

 ミヤビは欠伸交じりに呟いた。それどころか携帯電話を取り出し、「あっ、メルマガ来てる」などとメールチェックまで始める始末。

 一方のマキは怒りのあまり語尾が上ずり、口調は端々が震えている。

 

「……テメェ、調子乗ってんだろ!」

「わっ、すご~い! それ良く言われます! さては君、エスパーですね。ところでもう帰っていいですか?」

 

 あまりに挑発的な態度に、逆にマキが押し黙った。傍らのキンジは信じられないものを見るように瞠目し、マキの顔色が赤から青へと変色する。

 しかしミヤビとしては、今の会話の九割は素で答えている。よって、彼女が何に怒っているのかイマイチ理解できない。だが、『会話をしていたらいつの間にか戦闘になっていた』というのは、ミヤビにはありふれたことであったため、特に気にしていなかった。

 

「……あ、あんた、本当に死にたいの? ここまであたしを、こ、コケにして……た、ただで済むと思ってんの?」

 

 マキの声が震える。それと同時に、銃を持つ手も震えていた。指は既に銃爪に掛けられているため、いつ発砲されてもおかしくない。

 だがミヤビは、それを見ても平気の平左だった。

 仮にもイ・ウーに所属していたミヤビとしては、拳銃を正面から向けられた程度で動じることはない。ボストーク号に居た頃は、気体爆弾やら荷電粒子やら局地的砂嵐などを相手にしてきたのだ。防弾装備に身を包んだ今、大口径のDEやM500でもなければ拳銃など玩具程度にしか感じない。グロック程度、制服越しに腕でも受け止められる。

 むしろ、「早く撃ってこないかな」などと考えていた。友達であるキンジならば手心を加えることも吝かではないが、赤の他人である彼女ならば話は別だ。武偵高に編入するに当たって不殺を誓ったミヤビではあるが、逆に言えば()()()()()()()()()()()のだ。再起不能になろうと植物人間になろうと知ったことではない。そして迎撃ならば、“うっかり”重症にしても言い訳がしやすいだろう。

 そんな嘗めきったミヤビの内心が顔に出ていたのか、マキの目が逆に据わった。どうやら怒髪天を衝いたらしい。

 銃爪へ伸びる指に力が入る。

 狙いは額。

 教室に充満するマキの殺気。

 ミヤビの口元が不気味に弧を描く。

 

「ぶっ殺す」

 

 唸るような声。

 その単純な一言は、ありありと殺意を放っていた。あまりに短慮が過ぎる上に衝動的にもほどがあるが、それでも彼女がミヤビを殺そうとしていることに変わりはない。

 となれば、ミヤビは心置きなく迎撃するのみである。

 

「やめるんだ」

 

 しかしその指を、今まで黙ってみていたキンジが優しく包む。一瞬でマキの手を抑え込んだキンジが、戦いの火蓋が切って落とされるのをその寸前で留めたのだ。

 結果、銃爪を引き終える寸前で指が止まる。あとコンマ1秒でも止めるのが遅ければ、弾丸はミヤビへと撃ち放たれていただろう。

 しかしマキは、キンジの行動に甚くご立腹らしい。怒りの形相で彼の手を振り払うと、そのまま罵詈雑言を叩きつけた。

 

「キンジ、なんで止めた! 奴隷は奴隷らしく、ご主人様に口出ししてんじゃねぇ!」

 

 酷い言い草だった。ミヤビならば間違いなくキレている。

 しかしキンジは、薄っすらと微笑みながらマキの肩を押さえた。

 

「マキ、冷静になって。君は今、彼女を殺そうとしていたね? そんなことをすれば、君は武偵法9条を破ってしまう。俺は、マキがそんなことをするなんて望まない」

「うるせぇ! テメェがあたしに逆らおうってのか!?」

「そんなつもりはないさ。ただ、俺はマキのことが心配なだけだよ。それに、君のような美しい女性が人を手にかけるところなんて、俺は見たくない」

「……じゃあ、それを証明してよ」

 

 そう言うや否やマキは、あろうことかその銃を自分の蟀谷に突きつけた。

 理解不能なその行動を目にし、ミヤビの目が点となる。

 一方でキンジは、苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。まるでその行動を事前に予想していたかのような反応だ。

 

「えぇっと、自殺志願者なの? 勝手に死ぬのなら別に構わないけど、できればボクに関係ないところで一人でやってくれない? それなら拳銃自殺だろうと練炭自殺だろうと入水自殺だろうと好きにしていいからさ」

「バァ~カっ! んなわけないじゃん」

 

 先程までの憤怒の形相から一転して表情を愉悦に染めたマキは、視線をミヤビからキンジへと変える。

 その視線を浴びたキンジは、見るからに怯えた様子だ。まるで蛇に睨まれた蛙、あるいは猫の前の鼠のような状態だった。

 

「キンジ、わかってるよね? ――やれ(・・)

「……マキ、やっぱりこんなことはやめよう。ミヤビは何も悪くない。それに俺は、やっぱり女性に暴力は……」

 

 躊躇うようなキンジに対し、マキは銃爪に指を掛けた。

 それに反応し、キンジは焦ったように言葉を止める。

 状況は全くわからないが、どうやらマキは自分の命を人質にキンジを脅しているらしい。

 

「キンジ、わかってないの? もしもキンジがあたしを裏切ったら――あたしはこの場で自殺する」

「よ、よせっ!」

「よさない。だってキンジが悪いんだから。あたしの邪魔したキンジが悪いんだから。だったら責任取ってキンジが代わりにやってよ」

 

 一言でいうなら、茶番である。

 キンジは真剣な表情であるが、マキに自殺する気がないのは明白だ。

 それなのに、キンジは一体何をそんなに焦っているのか。

 

「あの……ひょっとしてこの三文芝居を見せるためにボクを呼んだの?」

「そうだよ? でも、この演技はキンジのためにやってるんだよね」

 

 またもやわけのわからないことを言い出したマキに、ミヤビは今度こそはっきりと不快さを露わにした。もはやミヤビにとって、このやり取りは時間の無駄だと判断されたのだ。

 目からは温度が失われ、凍りつくような視線がマキへ、続いてキンジへと向けられる。

 しかし、むしろそれを面白そうに眺めたマキは、堪えきれないように唇の端を吊り上げた。

 

「キンジ~、大塚さんも待ちくたびれてるんだけど? そろそろ相手してあげないと可愛そうだよ?」

「ぐっ、だが、俺は……」

「――あっそ、じゃあ仕方ないね。はいはい、自殺自殺。キンジがあたしを守ってくれないから自殺します。でも、ただで死ぬのは悔しいから、キンジの秘密を全部学校裏サイトに載せて、それから自殺します」

 

 そう言うなり、マキは空いた左手で携帯電話を操作する。

 しかも時間を稼ぐように、あえて操作の手順をゆっくりと見せつけていた。

 それを見たキンジは、今度こそ観念したように俯いた。

 そして、手から血が滲むのではないかというほど拳を握りしめ――

 

「すまない、ミヤビ。恨んでくれて、構わない」

 

 ――愛銃のベレッタM92Fを、抜いた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 マキが注目したこの状態のキンジの最大の特徴は、女性に“平等に”なることである。

 通常時のキンジが普通の少年であることに対し、このキンジは全ての女性への優先度(プライオリティ)が等しくなる。

 つまりこれは、普段は嫌いな女子であろうと普通の関係の女子であろうと、好感度をいきなり最高に引き上げることができるのである。

 よってこの状態のキンジにとっての守る対象は、目に映る女性全てということになるのだ。

 

 しかしもしこの状態のキンジの前で、命の危機に瀕している女性がいればどうだろうか。

 

 その場合、キンジはその女性に対しての優先度を引き上げざるを得ない。

 何故ならば、この状態のキンジは女性が傷つくことを許せなくなるからだ。そんな中で命を落としそうな女性が居れば、無傷の女性と比べて優先度が上がるのは必然だろう。

 例えその命を落としそうな状況が演技だったとしても、命を落とすかもしれない(・・・・・・)というだけでこのキンジは動く――否、動かざるを得ない。通常時のキンジならば一笑に付す状況でも、この状態のキンジは捨て置けない。

 だからマキは、キンジの目の前で銃を自分に押し当てる。

 言うことをきかなければ死ぬ、と。そうやって自身という“女”を人質に取ったのだ。

 

 だが、それでも他の女性を襲わせる理由には、少し弱い。

 

 一人の女性を助けるために他の女性を傷つけたのでは、HSSからすればまさに本末転倒。

 迷うばかりで判断が遅れる。現に、今のキンジがそうだ。

 口ではミヤビに「すまない」などと言っているが、恐らく頭の中ではこの状況を回避しようと最後の足掻きをしているのだろう。

 この期に及んでまだ諦めないその根性は見上げたものだったが、無駄な努力だ。

 キンジは既に、マキの必勝のパターンに持ち込まれている。

 

「――しょうがないなぁ」

 

 ベレッタを抜いたキンジに、マキが制止をかけた。

 その言葉にこれ幸いと動きを止めたキンジは、縋るようにマキを見る。

 その様子から、キンジの精神が相当に追い込まれていることをマキは悟った。

 王手だ。

 

「キンジは、そんなに大塚さんを虐めたくないの~?」

「……当たり前だろう。俺は女性に手を上げられない。それに、何も関係ないミヤビを――」

「はぁ? お為ごかしも大概にしろよ。今更になって関係ないだァ? テメェはもう何人も無関係な奴を甚振ってきたじゃねぇか」

 

 その言葉に、キンジの表情はみるみる歪んでいく。その顔色は、もはや蒼白と言っていいほどだった。

 そんなキンジを嘲笑ったマキは、さらに言葉を進める。

 

「あたしは確かに悪人だがよォ、それにホイホイ従ったテメェも同罪なんだよ。テメェはあたしから逃げることも逆らうこともできた。それをしなかったのは、我が身可愛さにだろォ? それが、今になってできましぇ~ん? 悲劇の主人公は楽しいですかァ?」

 

 キンジが思っているであろうことを、マキは的確に突く。

 これでもマキは探偵科。この程度の心理状況を推理することなど造作もない。

 キンジが武偵活動に熱心で、将来は立派な武偵を目指していることもマキは知っている。

 なるほど、気高い精神だ。だが、無力な人間の精神など、利用するにはこれ以上に便利なものなどない。

 

「でも、キンジの本当の気持ちはわかったよ~。そうか、やっぱりキンジはこんなことしたくないか~」

 

 そう、利用する。

 キンジのその心意気は、たった今完膚なきまでに破壊した。

 ここからは、その心意気を“再構築”する。

 

「そっか、嫌か~。大塚さんに暴力なんて、そんなの嫌か~」

「そ、それじゃあ……」

 

 目を輝かせたキンジに、マキはうんうんと頷いた。

 ただし、銃は下ろさない。

 

 

「じゃあ、捕まえるだけでいいよ」

 

 

 捕まえる、だけ(・・)

 マキはキンジに譲歩した。

 今までのように甚振るのではなく、ミヤビを捕まえるだけで良いと。

 

「キンジが本気を出せば、女の子を一人捕まえるくらい簡単でしょ? 優しく捕まえてあげれば? そしたら、もう帰っていいから」

 

 妥協――これが、キンジを操る最後の一手だ。

 

「だ、だが、捕まえた後、ミヤビは……」

「別にどうもしないって! キンジの心意気に免じて、『もうキンジに関わるな』っていうお説教だけで済ませてあげる! 指一本触らないって約束するよ!」

 

 銃で撃ったりはするかもしれないが。

 ここが最後の詰めだ。

 人間、最悪の状況から僅かにでも状況が好転すれば、それが未だに悪い状況だというのに気分が楽になってしまうものだ。

 今のキンジはまさにそれである。

 

 マキはこう言っているんだ、そもそもマキは命を盾にしているんだ、自分はマキを信じただけだ、いつもよりはマシなんだ、捕まえるだけだ――仕方ない(・・・・)

 

 追い詰められたキンジは、仕方ないと妥協する。

 事実、キンジは捕まえただけなのだ。その後で何かが起こるかもしれない(・・・・・・)が、そこから先に責任はない。

 “未必の故意”――犯罪などの発生が確実だと思っていながら、あえてそれを見逃す行為。

 だが、それが故意かどうかを決めるのは、この状況ではキンジなのだ。

 キンジが「マキを信じただけだ」と思考停止してしまえば、それはキンジにとって故意ではなかったことになる。

 この手段で、マキはキンジの『女性に手を出せない』という問題をクリアしてきた。動きさえ封じてしまえば、後は自分たちでどうにでもなる。

 

 そしてキンジは――

 

「…………なら、仕方ない(・・・・)か」

 

 今日も思考を停止する。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

(ああ、結局こうなるんだな)

 

 仕方ない――そう口にした自分に、キンジの感情は冷め切った。

 失望という枠を通り越し、己の不甲斐ない姿に呆れ果てる。

 いつもそうだった。心の弱い自分は、マキに流されるままに人に暴力を振るってきた。

 逃げることも、逆らうこともせず、最後には「仕方なかった」の一点張り。

 言い訳ばかりを繰り返し、最後の最後まで自分の意志を貫けない。

 そして今日も、自分は見え透いたマキの嘘に流された。

 

「捕まえるだけ、捕まえるだけだ」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 そんな自分に反吐が出る。

 自分は、ここまで情けない人間だったのか。

 こんな浅ましい言い訳を繰り返しながら、友人を手にかけるのか。

 マキが約束を守らないなどということは明白だ。襤褸雑巾のようになるまで、ミヤビはマキに痛めつけられるだろう。

 今こそマキ一人だが、きっとすぐに同じグループの仲間を集め、寄って集ってミヤビを甚振る。

 そんな現実に目を瞑り、自分は家路につくことになる。

 

 ああ、なんと醜い屑なのか。

 

 それでも身体は止まらない。

 言い訳を用意され、理論武装も済んでしまった。

 

「ミヤビ、大人しくしてくれ。なるべく、痛くはしない」

 

 まずは、軽く気絶させよう。

 動く人間を拘束するのは、意外と難しい。それに、拘束する際に相手に怪我をさせてしまう場合もある。

 その後は、ミヤビの手足に手錠をかける。

 そうすればキンジはお役御免。とりあえず今日は帰れる。

 

「…………」

 

 そんなキンジを、ミヤビは無言で見つめていた。

 その瞳を、キンジは見返すことができない。

 もしも今ミヤビの目をまともに見たら、あるいは罵倒の一言でも受ければ、キンジの精神は間違いなく崩壊する。

 大義もなく悪行を働いたと認識してしまえば、キンジはもう立ち上がれない。

 

「ミヤビ、謝って済むことじゃないのはわかっている。後で俺を好きなだけ罵ってくれて構わない。だから、ここは抵抗をしないでほしい」

 

 抜銃したキンジに対し、ミヤビは何も答えない。恐怖に怯えることもなく、怒りを見せることもなく、ただ普段通りの表情でじっとキンジを見つめていた。その変化のなさは、普段通りすぎて逆に感情が読めない。

 だがキンジは、押し潰されそうなほどの罪悪感によって細かくものを考えることができなかった。要するにミヤビの身を最低限案じつつも、それ以上深く物事を考えることを放棄していたのだ。

 

「……ねぇ、実はずっと前から気になってたんだけど」

 

 だからこそミヤビの言い放った言葉は、限界の寸前だったキンジの思考を完全に停止させるに余りあった。

 

 

「キンジくんって童貞?」

 

 

 空気が凍った。

 ミヤビの突然の奇言に、キンジとマキの思考が一瞬だが完全に停止する。

 普通にわけがわからなかった。無論、言葉の意味は理解できる。だがなぜそれを、今、この状況で聞くのだ。というよりも、童貞という大凡日常で聞くことのない言葉を不意討ち気味に女性から放たれて、瞬時に受け答えができる男性がこの世にどれほどいるか。

 

「……は?」

「どうなの? さくらんぼくんなの? それとももう経験済みなの?」

「いや、その……えぇ……?」

 

 まるでミヤビは、ごく当たり前のことを聞くかのように首を傾げている。その動作そのものは可愛らしいものだったが、口にしているのは完全に下ネタだ。その容姿と言葉の内容の大きすぎるギャップに、キンジの思考は空回りするばかりで全く働かない。このような状況は、いくら万夫不当のHSSでも如何ともし難かった。

 キンジの後ろに控えるマキも、あまりの超展開に呆然としたまま動かない。

 そんな二人の様子など眼中にないかのように、ミヤビはキンジに歩み寄った――あまりにも自然に、ゆっくりと。

 

「へぇ~、キンジくんは中学生なのに大人だねぇ~! えっ、ボク? 流石にまだ全然だよ~! というか相手もいないしね!」

「いや……その……一応、俺もそういう経験はまだなんだが……」

「そうなの? じゃあお互いに未経験なわけだ! 良かった~。最近の若者は進んでいるっていうから、ひょっとしてボクは時代に乗り遅れているのかと思ったよ~」

「……あの、ミヤビ……?」

「というか、やっぱり最近の若者にはモラルってものがないんだよ! もっと節度を持って行動しないと! 日本は慎みの国ですよ! もっと公序良俗を意識するべきだよ! キンジくんもそう思うでしょ!」

「えっと……まぁ、そうだな……?」

「昨今では中学生での性体験が増えているって統計結果が出たって前にニュースで見たけど、そういうのって実は法律違反なんだよ? 高校生以下に許されるのはBまで! Cより先は武偵三倍刑で重罪になるんだから! キンジくんも覚えておいてね!」

「あ、ああ……わかった……」

「間合いだよ」

 

 直後、キンジの腹部から爆音が轟く。衝撃がキンジの胴体を吹き飛ばし、それに遅れて手足が引っ張られていく。そしてなす術もなく背中から防弾扉へと突っ込んだキンジは、盛大な破砕音を撒き散らしながら廊下に叩き出された。前後から襲い掛かる衝撃に、キンジの意識が一瞬飛ぶ。

 予想もできず、反応もできない完璧な不意討ち。だが、キンジを責めることはできない。それは不意討ちと呼ぶにはあまりにも堂々としたものだった。ミヤビの弄した戯言によって場の空気が完全に掌握されていたからこそできた一撃だ。言葉に注目させられたことで、ミヤビの歩みに違和感を感じることができなかった。そしてそこからのあまりにも唐突なタイミングでの攻撃だ。

 むしろキンジからすれば、なぜ自分が攻撃されたのか咄嗟にわからなかったほどだった。自分が戦闘中だという現状すら、キンジは意識の外に追いやられていたのである。

 そして――だからこそ気付かなかった。キンジが戦いの意志を示し、銃を抜いた時点で戦いというものは始まっていたのだと。

 だが、それだけではない。キンジには明確な失態があった。

 

「キンジくん、今ボクのこと侮ってたでしょ? 背の小さい小学生みたいな女が相手だから、簡単に取り押さえられると油断してたでしょ?」

 

 ミヤビの言う通りだ。キンジには油断があった。HSSは無敵という傲り、相手は女子だという油断、常勝無敗だったという経験――その全てがここに来て裏目に出たのだ。

 キンジの思考速度では、HSSで強化されていたというのに何をされたのかすらも理解できなかった。恐らく、傍らで見ていたマキにも何が起こったのかわからなかっただろう。実際、マキでは二人の間に“攻防があった”ということすら感知できなかった。

 正確には――キンジの懐に潜り込んだミヤビが、無防備なその鳩尾に前蹴りを叩き込んだのだ。それをHSSの電光石火とも言える反応速度で無意識に防御に転じたキンジが、咄嗟に銃を持っていなかった左手で受け止めた。だが左手一つだけで撃力を殺すことができず、反射的に背後に飛び退ることで僅かながらも衝撃を減らしにかかった。これが今の攻防の顛末である。

 とはいえ、完全に防御できたというわけではなかった。今の防御は、所詮苦肉の策に過ぎない。その証拠に、ミヤビは確かにキンジの左手を砕いた感触を靴越しに感じ取っている。

 

「というか、相手が誰であれ“敵”が目の前に来たのに呆けてたら駄目だよ。馬鹿じゃないの?」

 

 完璧な不意を突かれたキンジに反し、ミヤビからすればキンジの行動は理解不能の極みだった。

 どんな事情があるにせよ、キンジはミヤビと敵対した(・・・・)のだ。つまりキンジとミヤビは、キンジが銃を抜いたあの瞬間から敵同士。一度敵対し、武器を抜いた瞬間から友達も何も関係ない。その状況ならば親でも殺すのがミヤビの流儀だ。だというのにキンジは、ミヤビの前に隙だらけの姿を晒した。これはもう「殺してください」と言っているも同然だ。ミヤビが武偵でなければ、今頃あの世に旅立っている。

 だが、それと同時に感心もしていた。隙だらけの状態でミヤビの前に姿を晒したのは赤点だが、防御に関しては及第点だ。内臓をギリギリ破裂させない程度の威力で蹴りを叩き込んだミヤビだが、キンジは見事にそれを凌いだ。左手こそ犠牲にしたが、まだまだ戦闘は継続可能だ。戦闘不能とでは天と地ほどの差がある。

 そして、戦える敵を前にして追撃しないほどミヤビは甘くない。だが、全力で相手をして瞬殺してしまうのも気が引けた。せっかくの機会だ。キンジの実力を見てみたい。

 

「さぁ~て、どんなものか」

 

 一方、廊下に転がったキンジは、まず自分がどうなったのか理解できなかった。ミヤビに何かをされたのはわかる。それによって防弾扉に叩き付けられたところまでは記憶がある。だが、それから何がどうなってしまったのかを全く憶えていない。僅かな時間だが、意識を失っていたらしい。それを理解すると同時に、視線の先に天井があることでキンジは初めて自分が廊下に転がっているのだということを知った。

 常勝無敗のHSS――ヒステリアモードが、初めて背中を地面に付けたのだ。その単純な事実を認めるのに、キンジは数秒を要した。兄などとの訓練ならばいざ知らず、実戦では敗北を知らぬというその経験。それがキンジの判断を鈍らせた。

 そして次に捉えたのは、視界の端から現れた黒い影――反射的に身を起こす。

 直後、キンジの頭があった空間に、ミヤビのよって繰り出された踏み蹴り(ストンピング)が炸裂する。空気が唸りをあげるようなその威力に、キンジの下敷きとなっていた防弾扉が鈍い音とともに陥没した。もしも反応が遅れていれば、物理的に顔面整形を施されるところだった。

 

(しゃ、洒落にならねぇ!?)

 

 小柄なミヤビの身体のどこにそんな力があるというのか。今の一撃だけでも明確にわかることは、ミヤビの脚力がHSSを発動したキンジを遥かに上回っているということだ。

 もはや油断できる要素がまるでなかった。体格差や性別の差程度では覆しきれない。先程までの傲りをかなぐり捨て、キンジはベレッタをミヤビに向けていたしていた。

 だがミヤビは、自身に向けられた銃口を見ても平然とした表情を崩さない。それどころかさらに期待したような表情を見せた。その様子が、ますますキンジの焦りを増長させる。

 

「うおおおおッ!」

 

 焦燥を振り払うかのようにキンジは吼えた。

 武偵法9条に従い、キンジはミヤビに致命傷を与えることはできない。そしてHSSの縛りにより、剥き出しの手足を狙うことは躊躇われた。となれば、自然と照準は防弾制服に包まれた胴体ということとなる。瞬時に狙いを定めたキンジは銃口をミヤビの胸の中央に向けた。そして若干の躊躇を抱きつつも銃爪を引く。

 途端、ミヤビは僅かに腰を落とし、添えるように腰の刀に手をかけていた。その構えでキンジは理解する。居合だ――ミヤビはなんと、キンジの銃撃を斬ってみせる(・・・・・・)というのだ。

 銃弾の速度は亜音速。常識的に考えれば、斬ることはもちろん肉眼で捉えることもできない。――常識ならば。

 

 ミヤビの眼前で、バチッという音とともに火花が散る。

 

 刹那、切断された二つの銃弾がミヤビの後方に着弾する。その光景を、キンジは呆然と眺めるしかなかった。

 しかしキンジが驚愕したのは、銃弾斬りという絶技だけではない。真にキンジが括目したのは、その居合における抜刀を捉えられなかった(・・・・・・・・)ということだ。

 間違いなく抜刀はされた。銃弾が射線上で真っ二つになる様も、側面から斬り裂かれた銃弾がミヤビの脇へと弾かれる様も、HSSで強化された目によって全て見届けた。だが肝心の居合は、抜刀の瞬間から斬撃までの過程の影すらも捉えられなかったのだ。否、それだけではない。納刀すらも、刀身の根本が一瞬だけ見えたような気がするという程度にしか捉えられなかった。

 ただ速いだけでなく技術として完成されたそれは、まさに神速の抜刀“術”。

 加えて、その斬撃はあまりにも静かだ。文字通り空気を斬り裂いたというのに音もなく、歪んだ空気は軌跡を埋めるようにピタリと閉じた。ミヤビの斬撃に一部の乱れもない証拠である。

 斬撃という原始的な攻撃が昇華されると、ここまで至るというのか。もはや人間業ではない。

 一閃という言葉すらも生温い。これはまさしく――

 

「『零閃』――この技は閃きすらも見せはしない」

 

 達人技どころの話ではなかった。こんなもの、人間の範疇を超えている。

 “超人”――その言葉がキンジの脳裏に浮かぶ。この時、キンジは生まれて初めて『銃が通用しない敵』と遭遇していた。その超人が、一歩、また一歩とキンジに歩み寄ってくる。ミヤビの刀の間合いに入るまで、あと何歩残っているのか。

 恐怖に表情を引き攣らせたキンジは、反射的に銃爪を引いていた。

 悲鳴のような雄叫びをあげながら銃爪を何度も引き続けるキンジに、もはや余裕は全くない。弾倉(マガジン)が空になるまで、撃って撃って撃ち続ける。

 

「……ねぇ、キンジくん」

 

 だが、ミヤビは飛来する弾などに怯むような人間ではなかった。射手と自分の距離が数メートルしかないなどという程度で動揺を見せる人間でもなかった。むしろより深い笑みを浮かべ、向けられた銃口へとその黒い瞳を向けている。

 ミヤビが取った構えは、またしても抜刀の構えだった。今度はやや右手が下がっているが間違いない。ミヤビは再びあの不可視の抜刀術を披露するつもりだ。咄嗟にそう考えたキンジは、ある意味では間違っていなかった。同じ“視えない”という意味では、零閃もこれ(・・)もそう大きな違いはない。

 

 

「『縮地』って、見たことある?」

 

 

 ミヤビの姿が忽然と消える。

 そして次の瞬間、十数発はある銃弾の軌跡の脇を一陣の風が吹き抜ける。それに追従するように、硬い廊下を踏み砕くかのような跫音が駆け抜けた。それらが去った無人の空間を、亜音速のパラべラム弾がようやく通過していく。

 

「なッ!?」

 

 完全に消えた。だが錯覚でも幻覚でもない。ミヤビは消える直前、僅かに腰を落として爪先に力を込めていた。

 これらの情報から推察されるのは――

 

(拙いッ)

 

 その答えに辿り着いた瞬間、ベレッタが“崩れた”。するりと滑るように落ちたのは、黒く光る銃身。遊底(スライド)から上を真っ二つにされたベレッタが、バラバラと部品を撒き散らしながら廊下に散らばった。そして目の前には、静かに黒い鞘へと納刀するミヤビの姿。

 キンジとミヤビの間にあった距離が、刹那の間にゼロへと変じていたとようやくキンジは理解する。

 まるで時間が飛んだようだった。速いなどという次元ではなく、ミヤビの動作の全てが認識できなかった。まるでアニメーションのコマのいくつかが省略されたような、理解不能な事象。時間という概念に自分が置き去りにされたかのような錯覚。キンジは反応すらできない。

 

「う~ん、やっぱり『瞬天殺』は割と再現できてると思うんだよなぁ……。でも教授には通じなかったし。絶対に視界から外れているはずのに捉えられる。これはもう無感情にでもなって先読みを封じるしかないのか? いや、でもあいつが剣心と同じ方法で対処しているとは限らないし。むむむ……」

 

 何やらブツブツと呟くミヤビを尻目に、キンジは今の現象の凄まじさを改めて思い知る。

 縮地――それは即ち、タネも仕掛けもない単純な“速さ”だ。爆発的な初速(ロケットスタート)によって、一瞬でキンジの視界から消えた、あるいは適切な焦点から外れただけ(・・)という言葉にすれば何ということはない技。だが、だからこそそれは常識離れしている。

 健脚などという次元ではない。まさに神速――神の速さだ。韋駄天走りという言葉すらも霞む。

だが、さらに驚くべきことがある。ベレッタが破壊された後、ミヤビは納刀をしていた。それはつまりミヤビは縮地による超高速の移動と同時に、先程の抜刀術を繰り出せるということだ。今は武器が破壊される“だけ”で済んだ。しかしもしも今の一撃をキンジが急所に食らっていれば、痛みを感じる間もなく即死させられていたかもしれない。

 

「それで、次はどうするの?」

 

 及び腰となったキンジを、ミヤビの濁った瞳がキロリと見据える。

 状況は接近状態。密着というほどではないが、格闘術(ストライキング)を仕掛けられる程度には二人の距離は近い。

 HSSによって高速化されたキンジの思考は、瞬時に近接戦闘(インファイト)に移行した。

 目の前で興味深そうにキンジを見上げる少女に、キンジは目にも止まらぬ速度で足払いを仕掛け――ようとした瞬間、払いを繰り出そうとした足がガクッと地面に縫い止められた。驚愕にキンジが己の足へと視線を向ければ、自身も踏み込んできたミヤビの小さな足によって爪先が踏みつけられている。先程の縮地に納得できるほどの剛力だ。まるで岩に挟まれているかのようにすら感じる。

 

(先手を取られたッ)

 

 次の瞬間、キンジは軸足を入れ替える。踏み止められた左足を軸に、右足が高速のハイキックを放つ。だがそれは、ミヤビが後方に一歩退いたことによって鼻先すら掠らない。

 ならばと再び軸足を入れ替え、後方に下がったミヤビを二撃目のハイキックで追撃する。それをミヤビは、大きく上体を反らせることで躱してみせた。驚くほどの柔軟性と回避能力を見せつけたミヤビだったが、そのような不安定な体勢を今のキンジが見逃すはずがない。

 がら空きとなったミヤビの足。そこにキンジは、すかさず下段回し蹴りを叩き込む。だがそれすらも空を切る。上体が反り返った状態から、ミヤビは空中で背転することでキンジの蹴りを躱したのだ。柔軟性だけではない。まるで猫のような身の軽さだ。

 そのまま軽やかな動作で背転を繰り返したミヤビは、キンジから大きく間合いを開いた状態でようやくその動きを止めた。

 

「おおっ、こっちもなかなか楽しめるかも」

 

 常人が相手ならば三度は打倒することができるはずの攻撃。だというのにミヤビは、全く余裕そうな表情を崩さない。手加減どころの話ではない。状況は完全にキンジに不利だった。

 HSSをもってしても、この場でミヤビを倒せるかと聞かれれば極めて難しいと言わざるを得ない。一体彼女は、この学校に転校する前は何をしていたのだろうか、などというどうでも良いことに思考が向かう。そのような現実逃避をしてしまうほどに、キンジは追い込まれていた。

 

(銃は破壊された。肉弾戦は圧倒的に速さが足りない。一応ナイフはあるが、そんなものがミヤビに通じるのか?)

 

 それは尤もな疑問だった。キンジは肉弾戦を得意としているが、今の攻防でミヤビはそれ以上の使い手だということがわかる。そしてミヤビは、まだ腰の刀をまともに抜いていない。下手に刀剣戦を仕掛けた場合、間合いの広いあちらが有利になるのは自明の理。となれば、下手にナイフを抜くことはできない。

 だが、ここで下手に間を開けておくことの方が危険だ。素手と刀では、僅かな差とはいえナイフよりも間合いが開く。ここはミヤビが次の行動に移る前に先手を制す。

 そう考えた直後、予想外のことが起こる。

 ミヤビの死角――教室から、マキが拳銃を片手に姿を現したのだ。その表情は愉悦が滲んでおり、そんなマキの思考を表すかのように銃口が無情にもミヤビに向けられる。ここでキンジは悟った。彼女は、キンジとの戦闘に集中しているミヤビを背後から撃つつもりなのだ。その卑劣な、ある意味では合理的な戦法にキンジの表情が歪む。

 

「――ッ」

 

 HSSでなくともわかる。マキの拳銃は、確実にミヤビの後頭部を狙っている。明らかに殺傷目的だ。武偵にあるまじき行動だが、恐らくマキは衝動的にそれを行っているのだろう。その動きにまるで躊躇がない。

 「よせ」とキンジは叫ぼうとしたが、間に合わない。既にマキの指は銃爪を引いている。

 

 ――そして、それに先んじてミヤビは動き始めていた。

 

 パンッという乾いた発砲音。それが響いた時には、既にミヤビはマキの眼前にまで踏み込んでいた。そして左手で銃を持つマキの右手の手首を掴み取ると、残った右の掌底が跳ね上がるように放たれた。刹那、骨と腱が砕ける音とともにマキの肘が“逆側に”曲がる。尋常な関節の駆動域ではあり得ない、への字に曲がったその腕。あまりにグロテスクなその光景に、キンジの呼吸が確かに一瞬だけ止まった。

 

「ぅ、ぎィ――」

「うるさい」

 

 腕から昇ってくる激痛。それに耐えかね、マキは悲鳴をあげそうになる。だが、ミヤビはそれすら許さない。逆向きに曲がった腕を掴み上げると同時に身体を半回転。マキの腹に背を押し当てるようにして潜り込むと、逆関節のように曲がった肘を更に折り曲げるかのように巻き込みながら、鋭い背負い投げを繰り出した。結果、肘が逆向きに直角となる。もはや人体の構造を無視した、あまりにも残虐な投げ技。ミシミシという肉や腱が軋む音に、骨が圧し折れる音が重奏した。

 だが、まだミヤビの攻撃は終わらない。

 そのままマキの頭を地面に突き刺すかのように変則的な投げ技を放ったミヤビ。そしてそれを第三者の視点から見ていたキンジは、ミヤビがマキを放すと同時にその細い足が霞むようにぶれたのを捉えた。直後、落下途中だったマキの頭に、ミヤビの前蹴りが炸裂する。

 

「脳天地獄蹴りィ! ――あっ!?」

 

 ナニカが砕けるような、人体が出してはならない音が響く。一瞬、爪先が頭蓋に食い込むと同時に首が胴体にめり込んだようにすら見えた。もしくは、あれは蹴りによって瞬間的に首が縦に縮んだのかもしれない。そんな一撃をまともに食らったマキの身体は、枯葉のようにクルクルと回って廊下に叩き付けられた。もはや身体を小さく痙攣させるばかりで、悲鳴をあげる力も残っていないようだ。

 背後からの銃撃という卑劣な手段に出たマキに、肘を圧し折り頭部を蹴り飛ばすという残虐な返しをしたミヤビ。その恐ろしい光景に、思わずキンジの足が竦みそうになる。

 だがキンジの武偵としての冷静な思考が、これは好機だと訴えていた。マキが固い廊下に叩き付けられているこの瞬間、ミヤビはまさに無防備。これ以上の隙は、もう恐らくミヤビは見せないだろう。だが――

 

「――マキッ!!」

 

 叩き付けられたマキが床にバウンドして跳ね上がった瞬間、キンジはミヤビとマキを分断するかのように二人の間に踏み込んでいた。あまりにも惜しい僅かな好機。それをHSSの「女を守る」という性質が阻んだ。

 無論、キンジもマキが全ての元凶であり、庇い立てする義理など欠片もないことは理解している。だが、それを許さないのがHSSだ。マキという女性との間に“子孫が残せる”という条件さえ成立してしまえば、HSSはその女性を守ることを優先してしまう。

 女性のために強くなる――それはHSSの最大の長所であり、同時に最大の弱点だった。

 

「……やっべ、やっべ。どうしよう」

 

 そして、それが大きな隙を生む。何か焦ったように冷や汗を流していようと、ミヤビはそれを見逃さない。

 強引に二人の間に割って入ったキンジにも、ミヤビは全く容赦しなかった。マキを背に庇うように立ち塞がったキンジの右膝に、ミヤビは躊躇なくローキックを炸裂させた。膝が側方に折れ曲がるかのような蹴りに、キンジは堪らず膝をつく。それを見逃さず、ミヤビは絡み付くように襲い掛かった。その動きは、まるで獲物に食らい付く蛇のようだった。キンジの身体を這うように絡むミヤビは、キンジが抑え込む暇もないほどの速さで背後に組み付く。

 

背後(うしろ)を獲られた……!)

 

だが、もう遅い。

 キンジが迎撃しようと動くよりも速く、ミヤビが二房にわけられたその長い髪と細腕を首に絡ませてきた。そして同時にキンジは気付く。これは――絞め技だ。腕だけでなく髪すらも利用した複雑な裸絞め。そして迎撃しようにも、既に両腕がミヤビの足によって抑え込まれている。壁に背中からミヤビを叩きつけようにも、右足のダメージが大きく立ち上がれない。

 

双蛇刎頸抱(シャンシケイケイパー)……これなら死にはしないでしょ、たぶん」

 

 ギリギリと万力のような強さで絞めるミヤビに、キンジはもはや言葉を発することもできなかった。次第にチカチカと視界が明滅し始め、意識が遠退き始める。やがて手足からも力が抜け、自分が立っているのか転がっているのかという平衡感覚も失われてきた。

 経験上、これではもう……

 

(お、落ちる……!)

 

 そう思ったのを最後に、キンジの意識は真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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