【リメイク】緋弾のアリア 抜けば玉散る氷の刃 作:てんびん座
神奈川武偵高付属中学では、とある一つの噂が広まっていた。
曰く、遠山キンジが女を囲った。
これを聞いた多くの生徒たちが思ったのは、「またか」という冷めたものだった。
キンジが特定の女子たちの言いなりになっているのは、周知の事実である。そこに新たな女が加わったからといって、どうということもない。
しかし、それを聞いて心中穏やかではなかったのは、その
そしてその女子が自分たちの被害者だったならば、確実に報復されるだろう。そうなったが最後、自分たちはこの学校のヒエラルキーの最下層にまで転落する可能性すらある。
「これは、拙い……!」
自然と彼女たちはそう思った。
そして自分たちの持つ情報網を駆使し、キンジが囲っているという女を探し出す。
もしもそれがただの噂ならば構わない。しかしそれが事実だった場合、早急に手を打たねばなるまい。
具体的には、二度とキンジに手を出せないように痛めつけるか、自分たちのグループに取り込むかである。
しかし外部から新しく人間を組み込むのはあまり歓迎できることではないため、恐らく“潰す”ことになるだろう。
そのような仄暗い計画が立案される中、ついに件の女が見つかった。
大塚ミヤビ。
それがその女子生徒の名前だった。
一ヶ月前に一般校からこの学校に転校してきた彼女が、偶然にも同じクラスで隣の席だったキンジと話をしたことが事の始まりらしい。そして偶然は重なり、同じ強襲科だったミヤビはキンジとそのまま仲を深め、今では良好な友人関係を築いているのだとか。
その情報を聞いた彼女たちは、一先ず安堵の息をついた。転校生ならば、まさかキンジの秘密を知っていることはないだろう。ならば、本当にただの友達同士ということだ。
しかし、彼女がいつキンジの秘密に気付くかわからない。
もしも気付いてしまえば、彼女も自分たちと同じように学校を席巻するかもしれない。
そうなれば、やはり自分たちは終わる。
「やっぱり、潰すしかない」
そのような結論がグループ内で出るのは早かった。
やはり不安の芽は早めに摘み取るに限る。
転校してからまだ一ヶ月だというのに気の毒だとは思うが、自分たちの敵となるのならば容赦はしない。
◆ ◆ ◆
教室が沈黙に包まれる。
現在、キンジのクラスは午前の
本来ならば、授業中に教室が静かなのは結構なことだろう。
むしろ、騒いでいれば授業妨害だと非難されかねない。
だが、この教室の沈黙は、そのような生真面目な理由から来ているものではない。
「えぇと、つまりですね。この問題を解くには連立方程式が――」
教壇に立ち、授業を進めていく女性教師。
彼女はチラチラと教室後方を見ると、居心地悪そうに黒板に向き直る。
気のせいか、最近になってから教師たちが席へと顔を向ける時間が減っているようにすらキンジは感じていた。
その原因は、言わずもがな隣の席にやってきた生徒が問題だろう。
「…………」
そこには、一体の人形が居た。
正確に言うならば、人形のように動かないミヤビである。頬杖をついた状態で黒板を見つめるミヤビは、胸元と瞼、そして腐った色の眼球以外はまるで動かない。
これはミヤビが転校してきてから続く光景であり、キンジもこの一ヶ月で既に見慣れたものだ。
しかし教師陣は未だに慣れないらしく、この教室に入ってくる時は酷く憂鬱そうにしているのを見かける。
「おい、ミヤビ」
「…………」
試しに小声でミヤビに話しかけてみるが、キンジの声にすら反応しない。普通ならば振り返るなり迷惑そうにするなりといった反応があるだろうが、“今の”ミヤビはそれに気付いた様子すらなかった。
だが、これもいつものことだ。
ミヤビが言うには、これは極度の集中状態を維持することで、脳の持つ潜在能力を余すことなく使うための技らしい。この状態に一度入り込めれば、記憶力や思考速度などが爆発的に上昇し、授業の内容を全て暗記することができるのだとか。よってミヤビはノートや線引きを一切行わない。ちなみにミヤビはこの技を応用することで、既に中学の範囲のあらゆる教科書や問題集を丸暗記しているという。
そのためか、ミヤビは授業中に行われる単語問題などを問う小テストで満点以外を取ったことが殆どない。
ならば真面目に授業を聞く必要などないではないかとキンジは言ったが、「授業を真面目に聞くのは学生の義務でしょ」と至極真っ当なことを言われてしまった。意外にもミヤビは真面目な学生なのである。
しかし、これをされている教師は堪ったものではない。背中を1秒の漏らしもなく死んだ目に凝視され続けて、気分が良いはずもないだろう。それこそ、まだ人形のほうが硝子玉の眼球の分だけマシというものだ。そんな教師の内心が伝播しているのか、生徒たちも自然と黙って授業を受けるようになった。まぁ、大半の生徒は教師への同情から来ているのだが。
ちなみにこの集中状態を長時間続けていると、脳の疲労によってブレーカーが落ちたように失神してしまうのだとか。しかも失神した後はしばらく無気力状態の日が続き、廃人のようになってしまうらしい。実際にミヤビが試したところによると、その期間は夢現のような状態で、記憶は殆ど残っていないというが。
(それにしても、この時のこいつは本当に不気味だな)
黒板に書かれた内容を必死に写しながら、キンジはチラリと隣を見た。
そこには、やはり席に鎮座する1/1スケールミヤビ人形。その集中度合いは傍目からでも尋常でなく、もしもキンジが変な気を起こしてスカートを捲ったとしても気付かないのではないだろうか。あるいは無意識の内に反撃してくるのか。どちらにしても試すつもりは毛頭ないが。
机には申し訳程度にノートと教科書が広げられていた。ちなみにノートはほぼ白紙で、書いてあるのは提出用の問題だけである。
その時、昼休みを告げる鐘が鳴った。
「――ッ! はーい、それじゃあ今日はここまで! 皆さん、お疲れ様でしたー!」
鐘の音に最も顕著に反応したのは、あろうことか教師だった。
やり切った表情の彼女は、テキパキと教材を纏めると授業の終了を宣言する。
その後、お決まりの「起立! 礼!」の掛け声が終わり、教室は完全に昼休みに突入した。それを機に生徒たちは各々弁当を広げるなり、食堂へ向かうなりという休憩時間を過ごし始める。
「今日も一般教科終わり。さぁ、昼食にしようか」
人形状態から通常状態へ移行したミヤビも、その例外ではない。
授業の終了に伴って元に戻ったミヤビは、早速とばかりに机に弁当を広げ始めた。
その隣では、キンジが首をゴキゴキと鳴らしながら背伸びをする。どうにもキンジは、この長時間の着席が苦手だった。勉強ももちろん苦手だが、それとは別種の苦手さを感じる。
それに比べ、ミヤビは「昼ごは~ん♪」などと自作の昼食の歌を口遊むほどには余裕そうだ。キンジは疲労困憊だというのに、この差は一体何なのだろうか。
「……お前、相変わらず切り替えが凄まじいよな。授業中は完全に置物状態なのによ」
「何を言っているの。授業と昼休みは切り替えるものでしょ。そんなことより、お昼にしようお昼! 学校生活で最も楽しい時間帯ですよ!」
そう言うなり、ミヤビの机に凄まじい重量が圧し掛かった。ミヤビの鞄から取り出されたそれは、ここ一ヶ月ほどで見慣れたとはいえ今でもキンジを圧巻させるに足りる。その正体は――九段重ねの弁当箱。さながら重箱のようなその弁当は、しかしその高さと密度においては通常の重箱を完全に凌駕している。
もはやその質量だけでも撲殺武器のような凶悪さを誇っているそれを、ミヤビは毎日のように学校に持ってきているのだ。これのせいで登校の際に荷物が一つ増えるといつも愚痴を言っているミヤビであるが、それでもこれくらいの量がなければ一日が持たないのだとか。聞いた話では、一食でハンバーガーを50個ほどは普通に平らげられるのだとか。まさに鉄の胃袋だ。
「……よくは知らないが、女子ってのはこう……何だ? 必要もなさそうなダイエットのために小食にしているイメージがあったんだが」
「いただきま~す」ともの凄い勢いで弁当の中身を食していくミヤビは、キンジを含めた男子の抱く女子像を容易く破壊する。ギャル曽根もかくやというほどの勢いで食べまくるミヤビは、どう考えてもダイエットなど欠片も意識していない。
というか、冗談抜きにミヤビの食べるペースが速すぎる。まるでリスのように可愛らしくちょこちょこと食べているが、いつ飲み込んでいるのかというほどに箸が休む時間がない。そしてそうこうしている内に、九段重ねの最上階が空になった。
「世間の女性は大変だよね~。自慢じゃないけど、実はボクってどれだけ食べても太らない体質なんだ~」
シン、と教室が静まり返る。ミヤビのその言葉を耳にした年頃の少女たちが放つ殺気によって、クラスの喧噪が静寂に食い尽くされたのだ。それに気付いていないはずはないだろうに、ミヤビは意に介すこともなく箸を動かし続ける。
肝が据わっているのか、はたまた馬鹿なだけなのか。もしも後者だったとしても、男子生徒たちは女子たちの冷たい空気を無視できるほど馬鹿にはなれない。
「……お前は今、クラス中の女を敵に回した」
「仕方ないじゃん。食べた端から運動で消費しちゃうんだから。どんなに食べても夜にはお腹空くし。休日は五食の時もあるよ」
「どれだけ燃費が悪いんだお前は」
「燃費が悪いというか、ガス欠間際まで身体を動かすからね。夜には疲労困憊の状態で就寝して、朝には完全回復するのが日課なんだ」
「それ、歳とったら一気に身体にガタがくるぞ」
「クククッ、我は永遠を生きる者。盟約によって老化を超越した我には、もはや生物に課せられた老いという呪縛は存在しないのだ。わかるか? 不老――始皇帝すらも望んだその御業を、我は既にこの手中に収めているということだッ」
「……お前は何を言っているんだ」
早くも二段目を空にしかけているミヤビが、箸を片手に珍妙なポーズを取った。それに嘆息しながら、キンジは席から立ち上がる。キンジは購買で昼食を買うため、これから食料の調達に向かわなければならないのだ。
そして、武偵高の昼の購買は学校名に恥じぬほどには尋常ではない。
同じく昼食を奪い合う敵に対し、この学校では弾が出る。昼食を買いにいき、気が付いたら
考えただけで背筋が凍る。
「おお、そうだ。キンジくん、ちょっと待ってプリーズ」
そんなキンジに、ポーズと不敵な笑みを解いたミヤビが待ったをかけた。
何用かとキンジが振り返ると、そこにはミヤビのものより少し小さめの三段弁当がある。
ミヤビの重箱のように大きなものではないが、一般的な男子の腹を満たす程度には丁度良い大きさの弁当だ。
「……何だそれ? お前、また食う量増えたのか?」
「違うから。……クククッ、此度は我に捧げられた供物の一端を貴様に給わしてくれよう。さぁ、我の慈悲に首を垂れるが良い」
「ちょっと待て、今翻訳するから」
この一ヶ月で聞き慣れた厨二語を、キンジは即座に脳内で翻訳する。流石にネイティブの厨二語使いには敵わないが、キンジも感覚でこの言語を理解できるようになっていた。
その経験と状況から察するに、どうやらこの弁当をキンジにくれるらしい。どういう風の吹き回しなのか。パッと見は大きめの三段弁当であるが……
「……毒か? それとも爆発物か? 大穴で食品サンプルか?」
「人の手料理をボロクソに言ってくれるね。惨殺されたいの?」
笑顔の消えたミヤビに、キンジは慌てて席に戻った。
包みを開け、思い切って蓋を開ける。
そこにあったのは、至って普通の弁当だった。怪しげな臭いもなければ爆発もせず、渡された割り箸で突いてみればちゃんと柔らかい。
「これ、お前が作ったのか?」
「いかにもタコにも。昨日の夕飯の残り物とかを詰めたものだけど、良かったらどうぞ」
「いや、くれると言うなら貰うが……お前、急にどうしたんだ?」
「日頃のお礼とか? 転校してから一ヶ月経ったけど、キンジくんにはお世話になったからね。今日のこれはそのお礼にと思って」
「意外に殊勝な奴だな、お前も」
ミヤビの意外な差し入れに度肝を抜かれたキンジだったが、ただ飯を食えるというのならば遠慮しない。
ありがたくそれを食べることにした。
三段弁当は上段と中段におかずが詰められており、下段は米だった。
まずはおかずから食べることにしたキンジは、とりあえず目に付いたハンバーグを口にする。
「おっ、美味いなこれ」
「100%松阪牛だからね」
「…………」
何かとんでもないことを聞いた気がするが、キンジは全力で聞き流した。
何故だろう、箸を持つ手が震える。
「……おお、サラダもあるのか。意外とバランスが整っているな」
「肉と白米だけなのもね。でも殆ど残り物だから、あんまり種類は多くないんだ~。ごめんね」
「いや、充分だろ」
実際、弁当の中身はかなり充実していた。
肉や野菜はもちろん、スクランブルエッグなどの卵料理も詰めてある。これで残り物だと言うのだから、ミヤビの食卓はさぞ豪勢なのだろう。
「そういえば、ここは
「――――」
「ん?」
ミヤビが無言だったことを訝しんだキンジが弁当から顔を上げてみると、そこには黙々と箸を動かし続けるミヤビの姿があった。既に弁当は五段目が半分以上なくなっている。残りはもう最初の半分すらない。
「――うん? あ、ごめん。聞いてた聞いてた。もう慣れたよ~」
「言いたいことは色々あるが、弁当食うの速っ!?」
まさに一瞬だった。
確かに直前まで、ミヤビは上から二段目を食べていたはずなのだ。だというのに、キンジがハンバーグ一つとサラダを少し食んでいる間に弁当が三段分ほどミヤビの胃に吸い込まれていた。
気になって見てみれば、食べ尽くされた弁当の中には米粒一つすら残っていない。
「おい、今の一瞬に何があったんだよ! カービィかお前は!」
口の中に異次元が広がっているとしか思えない速度だった。
そう思えるほどにミヤビの食事は超高速だったのだ。
というか、いつ食べる弁当箱を新しいものに持ち替えたのかすらキンジにはわからなかった。
「キンジくん。人間に大きな隙ができるタイミングは、一体いつだと思う?」
キンジの質問には答えず、ミヤビは問いを投げた。
「質問を質問で返すな」と言いたいところではあったが、とりあえずここは大人しく答えるとしよう。
「そりゃあ……寝ている時か?」
「正解――半分くらい。正確には、睡眠中、トイレ、入浴中、そして食事中だよ。食器を持つことで必ず片手は塞がれるし、基本的に座って食べるから対応も遅れる」
「なるほど」
ミヤビの言わんとすることを、キンジも察した。
つまりミヤビは、隙の大きい食事の時間をなるべく減らそうというのだろう。
思い返せば、かの有名な宮本武蔵も風呂に入りたがらなかったという。風呂嫌いだと世間では騒がれているが、一説によれば入浴中に隙ができることを嫌ったというものもある。
(あれ? ということは……)
とあることに思い至ったキンジは、ミヤビを凝視した。
「まさかお前、風呂にも入らないのか!?」
「殺すぞ」
刀の鞘で頭を殴られた。
しかもかなり強く殴ったのか、一瞬だが意識が飛んだ。
「そんなわけないでしょうが。君、本当にデリカシーないね」
絶対零度の視線がキンジを貫いた。
しかも死んだ目から放たれるそれは、まるで生気を感じない。
まるで冷凍保存されたマグロのようだ。あるいはパック詰めにされたシラスだろうか。
「まぁ、キンジくんにデリカシーが微塵もないことは置いておくとして」
さらっとキンジを侮辱したミヤビ。
しかし事実のため、キンジには反論する術がない。
「これらの隙は武人にとっては致命的。特にトイレ。これは生理現象だから、堪えるにも限界がある。食事中にトイレの話はしたくないけど、キンジくんも注意するように」
「ああ、わかった」
転校して一ヶ月経つが、稀にミヤビはこのようなことを言い出す。
他にも戦闘に関する雑学などを教えてくれることもあるが、主な知識は如何に不意を突かれないようにするかだ。以前は部屋の寝床の位置すらも拘っていると話していた。この弁当にしても毒物混入を警戒しての手作りという話だそうだ。さらには、木の根っこや鳩の肉などの味についての薀蓄も聞かされた。空腹に苦しんだ時はそれで飢えを凌ぐらしい。
これらの知識から察するに、どうもミヤビは武偵高に来る前にホームレスや夜襲を受ける生活を送っていた節がある。一体、今まで何をしていたのやら。
「さて、話も終わったし、早く食べちゃいなよ。この後は専門科だし、さっさと移動しよう」
その言葉で、キンジは我に返る。
どうやら考え事に熱中していたらしい。
入学祝いとして祖父に買ってもらった腕時計に目を通せば、既に時間はそう残っていなかった。
「ヤベェ! 遅れたら射殺される!」
「……つくづく思うけど、この学校って本当にバイオレンスだよね」
しみじみと呟くミヤビを余所に、キンジは弁当の残りを急いで食べる。
わざわざ作ってきてくれたミヤビの前で、このように味わうこともなく食べるのは失礼だということはキンジもわかっていた。しかし、命には代えられない。食材と料理人に感謝を込めつつも、今はカロリー摂取と栄養補給に全力を尽くした。
そのことにミヤビも特に気にしている様子はなかったため、キンジは猛烈な勢いで箸を動かす。そして残るは白米を平らげるだけだという時になり、キンジの携帯電話が着信音を鳴らした。
(この忙しい時にッ)
ここは無視してやろうかとも思ったが、せめて連絡相手の名前だけでも見ておこうとキンジは携帯電話の液晶画面に視線を走らせた。
しかしそこに浮き上がっていた文字に、キンジはピタリと動きを止める。
同時に、身体中から嫌な汗が噴き上がってきた。
「……どうしたの? 電話出ないの?」
「あ、ああ……」
譫言のように答えたキンジは、まさに恐る恐るといった様子で通話ボタンを押した。その気分は、さながら死の河を前にした十字軍の如く。極度の緊張状態が、急激に始まった動悸と噴き出す汗となって現れる。
この通話は誰にも聞かせられない。咄嗟にそう判断したキンジは、チラリとミヤビを一瞥してそそくさと教室を出た。
『――もしもし?』
周囲に聞き耳を立てている人間が居ないことを確認したキンジ。
そして意を決したように電話に出たキンジは、電話の主の声に耳を傾けさせられた。
『もしもし? 聞いてるの?』
「……ああ、聞いてる。何だよ、赤城」
『アッハハ、冷た~い! いつもみたいに、
「……わかったよ、マキ」
電話の主は、赤城真紀――キンジとは別のクラスの女子生徒だ。
女嫌いのキンジの携帯電話に登録されている女子、そしてキンジのこの恐れようから察せる通り――彼女は、キンジを正義の味方として
彼女は今年度に入ってから台頭してきた女子グループのリーダーであり、以前はキンジとの接点など数えるほどしかなかった。
というのも、前年度は別の女子がキンジを利用していたためだ。
キンジにとって幸か不幸かその女子は二年に進級してすぐに家庭の事情で退学してしまい、その後釜を掻っ攫ったのがマキなのである。
「……で? 俺に何か用かよ。これから強襲科の授業があるんだ。遅れたら俺が殺される」
『フケちゃいなよぉ~。キンジはそんな授業なんか受けなくても最強なんだしぃ~』
「無駄なお喋りが用なら切るぞ。じゃあな」
遅刻などの件を除いたとしても一刻も早く会話を終わらせたかったキンジは、早々に電話を切ろうとした。
しかし、キンジのその言葉と共にマキの声色が一変する。
『――おい、調子乗ってんじゃねぇぞ、キンジ』
電話越しに感じられるマキの怒りに、キンジの肩が跳ね上がった。
足が竦み、電話を握る手が恐怖に震える。
『テメェ、立場わかってんのか? テメェの生殺与奪はこっちが握ってんだよ。今は最強の名前で学校に通っちゃいるけど、もしも本当のことがバレたら……テメェ、終わんぞ?』
「――ッ」
HSSのことを公表する――マキはそう言っているのだ。
もちろんマキは、遠山家に伝わるHSSについての詳しい情報は知らないだろう。
しかし、キンジの強さが“限定的”なものであることは知っているのだ。
もしもそのことが知れ渡れば、それこそキンジは終わりだ。
体質のことで詰られるならまだしも、間違いなく被害者たちから報復を受ける。最悪、再起不能になるまで甚振られるかもしれない。
『立場が理解できたようだねぇ~? いい? キンジは私たちの忠犬でいればいいの。――ご主人様の命令は絶対だろうが、アァ?』
女子らしくない、ドスのきいた声。
前にキンジを操っていた女子も恐ろしかったが、マキは彼女と別種の恐ろしさがあった。
彼女は、やると言ったらやる。恐らく本当に学校中へとこの情報を送信し、キンジがこの学校に居られなくなるように仕向けるだろう。
そうなればキンジは、“諸事情で”学校から去ることになってしまう。
『さてと! 躾けが終わったところで、お利口な犬に本日の指令を下しま~す! またビシバシお願いするから、覚悟しといてね~!』
ここのところは回数の減っていた“正義の味方”が、今日をもって復活する。
マキの言葉は、そのことを如実に語っていた。
それを思い知ったキンジの思考を、諦観が支配した。
『それじゃあ、今日のターゲットを発表します! じゃららららら、じゃじゃん! お隣の席の大塚さんで~す!』
しかしそれを聞いたキンジの脳が、一瞬で沸騰する。
この時、キンジは自分が追い詰められた状況だということすらも忘れていた。
「おい、ふざけるな! あいつが何やったんだよ! あいつはお前らには何もしてねぇだろッ!」
『ん~? キンジったらなんで怒ってんの~? マキちゃん全然わかんな~い!』
「テメェ、いい加減にしろよ! いくらなんでもやりすぎだ!」
『……調子乗んなって言ったの、もう忘れちゃった~? あたし、駄犬は嫌いだな~。殺処分しちゃうぞ?』
「――クソッ」
再び冷え込んだマキの声に、キンジは状況を思い出した。
キンジは、マキに、逆らえない。
云わば、完全に首輪をされたも同然なのだ。逆らおうにも、もう身動きが取れない。
『っていうか~、大塚とかマジで調子乗ってるじゃ~ん? ぽっと出のくせにキンジを独占しちゃってさ~? マキちゃん嫉妬しちゃう! だから――死刑!』
「ッ!? 死刑って、お前……!」
『アッハハ! ビビんなくても、本当に殺したりしないって~! ただちょっと、ね? わかるでしょ?』
「……俺に、やれってのかよ……!」
『他に誰が居んの~? 頼んだよ、私の正義の味方っ!』
その言葉に、キンジの視界が揺れた。
正義の味方――頭を強烈に殴られたような衝撃が走る。
(そんなの、そんなのアリかよ……ッ!)
携帯電話を握る手に力が入り、危うく握り潰すところだった。
奥歯は万力で噛み締められ、砕けてしまいそうだ。
(こんなのが正義の味方だと? こんな、こんな理不尽な暴力を撒き散らす屑が、正義の味方なのかよッ!)
今すぐに携帯電話を床に叩き付けたかった。
できることならば、電話口に向けて「ふざけるな!」と反論してやりたかった。
許されるならば、マキをベレッタで蜂の巣にしてやりたかった。
だが、それはできない。
何故ならば、キンジは諦めてしまったから。
ここでマキに逆らえばどうなるのか、キンジはよく理解している。
そして、そうなってしまうだけ自分は力を振るいすぎた。
ああ、何故自分はもっとHSSを使いこなせるように訓練してこなかったのか。
大きな力の制御を誤れば、その使い手だけでなく周囲をも巻き込んで厄災を撒き散らす。
そのことを、キンジはようやく理解した。
しかし、それはもはや遅すぎる。
こんなことならば、転校や退学のような逃げの手段でも構わない。自分は何か行動を起こすべきだった。
(俺は、大馬鹿野郎だッ)
惰性が自分に返ってくるならばしかたない。自業自得というものだ。
だが、そのせいでミヤビにまで迷惑をかけてしまう。
これで正義の味方を目指すなど、身の程知らずにも程がある。
「クソッ、ちくしょうッ!」
目に涙を浮かべながら、キンジは膝を突いた。
◆ ◆ ◆
転校してから一ヶ月。ミヤビの
最も不安だった勉強においても、中学生用の問題集を各教科ごとに丸暗記することで対処している。これで暗記系や公式などは完璧だ。ちなみに、丸暗記の翌日は脳を酷使しすぎて知恵熱が出た。
問題は暗記が通用しない国語の現代文などであるが、こちらは逆にミヤビにとって容易い。「感情を考えよ」などという問題は、所詮は『出題者の考える登場人物の感情』を逆算すれば良いだけだ。わざわざ事前の予習などなくとも、その場で充分に対処できる。ライトノベルをこよなく愛するミヤビは、生粋の文系なのだ。
武偵としての活動も、今のところ問題ない。
強襲科での実習は非常に多彩で、今まで戦闘一辺倒だったミヤビには新鮮なことばかりだった。強襲などと物騒な名前の専門科なのだから降下訓練や戦闘訓練ばかりなのかと思ったが、意外にも学ばされることは多い。陣形、爆発物の処理、休息方法、他にも移動手段である乗り物の知識など、その範囲は多岐に亘る。
キンジが言うには、「強襲武偵は戦闘専門だからこそ、戦闘に関係する幅広い知識が必要になる」とのことらしい。やはりミヤビのようななんちゃって武偵と、キンジのような本場の武偵は違う。まさに対犯罪者の
さて、そのように全く経験したことのない体験に目を輝かせていたミヤビだったが、性別の隠蔽に関しては細心の注意を払っていた。
周囲との関わりをなるべく減らし、しかし浮くほどに隔絶しているわけではない。
加えて、着替えなどには細心も細心、最も神経を使って対処していた。ミヤビの体型は全体的に丸みを帯びており、身体の線も男性というより女性のものに近い。これは母方の祖母の家系から遺伝した特徴であるが、今ほどその家に感謝したことはなかった。通常の犬塚の者ならば、顔立ちが多少は中性的だが身体は男などということも珍しくない。普段は服装などで誤魔化されているが、やはりそこは男だ。
話が逸れたが、ミヤビはこの体型と顔立ちによって、パッと見は性別を見破られないほどの容姿を持つ。しかしミヤビももちろん男のため、誤魔化しきれない部分はあるのだ。
だが逆に言えば、ミヤビはそのような部分さえ隠蔽できれば、まず性別を見破られない。そのような試行錯誤によって、何とかこの一ヶ月は凌いだ。
そして、今日はその一ヶ月の節目の日だったのだが……
「……キンジくん、来ないなぁ」
「先に行っていてくれ」というキンジからのメールを受け取ったミヤビは、一人で強襲科の授業を受けていた。
少し遅れてくるのかと思っていたミヤビだったが、一向にキンジが来る気配がない。
こっそりとキンジにメールを送ったりはしているのだが、返信すら返ってこない。
(うーん、これはサボりか?)
ミヤビは首を傾げた。
キンジは確かに真面目な生徒とは言えないが、武偵活動にはかなり熱心だったはずだ。
この前本人に聞いた話では、同じく武偵活動をしている兄に憧れているのだとか。
いつか自分も追いつこうというその精神は、素直に感心できる。目標があるのは良いことだ。目標に対して高い意識で臨む人間は、往々にして目標以上の成果を出すものである。将来の商売敵として、キンジには期待せざるを得ない。
だが、そんなキンジが
(……まぁ、そんな日もあるか)
何事にも例外というものがある。急に授業が怠くなったり、もしくは親が危篤だったりするのかもしれない。何も言わずにサボられたのは少々思うところがあるが、キンジにとって今日がそういう日だったというだけだろう。ミヤビからすれば特段気にすることではない。
そしてその後、キンジから連絡が来たのはミヤビが本日のノルマを終えた頃だった。
規定の射撃訓練と格闘訓練を片付け、強襲科の授業が終わった後のことだ。普段、ミヤビはこれらを終えた後は即行で帰宅してしまう。純粋に下宿先でやることが多いということもあるが、それらの仕事を終えた後で日課の修行を行うためである。別に武偵高でできないこともないが、一応ミヤビの剣術は一子相伝だ。不用意にその技術を晒したくはない。
とはいえ、本日はキンジが姿を現さなかった。まだ学校にいるのならば一声かけてから帰ろうと思っていたミヤビの携帯電話に、キンジからメールが届いたのだ。
「何やってんの、午後の実習も半分は終わったのに」
眉根を寄せながら中折れ式の携帯電話を開いたミヤビは、画面に映っていた文字に目を瞠った。
思わず何度か読み返してしまったが、何度見ても書いてある文字は変わらない。
『今すぐに教室に来てくれ。二人きりで話したいことがある』
件名はなし。添付物もなし。
本当にこれだけの簡素なメールだった。
しかし、これはどう見ても……
「告白か。告白なのか。月が綺麗で死んでもいいのか」
現在、生徒たちは各々が所属する専門科の棟に籠っている。よって教室からは自然とひと気が失せ、密会などをするには打ってつけだろう。
そのため、むしろ放課後よりもこの時間帯の方が告白などのために呼び出されることが多いのだとか。そこは夕暮れの教室という絶好のシチュエーション。周囲に視線はなく、そこには思春期の男女が二人。どんな過ちが起こっても不思議ではない。
聞き耳ではあるが、クラスでそのような話を聞いたことがある。
確かに学校での告白の場所としては、教室か屋上が鉄板だ。他にも保健室などもアリ。しかし選択肢を間違えた場合、夜の屋上で「中に誰もいませんよ」な状況になるので注意が必要である。
(あの奥手そうなキンジくんがねぇ~)
日本のサブカルチャーによって培われた想像力で、キンジがミヤビに告白しようとする光景を思い浮かべてみる。ないとは言い切れないが、上手く想像できない。あのエクストリーム鈍感ならば「付き合って!」と女子が言っても「買い物に付き合うんだろ?」とか平気で言いそうだ。
いじらしくシチュエーションを考えた末の行動だというのならば面白くはあるが、逆にキンジにしては凝りすぎているような気もした。穿った見方だということはミヤビも承知している。だが、不可解なものは仕方がない。
何にしても、その恋は絶対に実らないのであるが。ミヤビは非生産的な恋愛には否定的なのだ。
実際、女性同士の同性愛が大好きなとある同期の友人とはこの件で一度ガチバトルに突入している。結果、ボストーク号の一区画が毒瓦斯と破壊痕によって人間の住めない環境に変貌した。流石は『魔宮の蠍』と恐れられているだけあって、本気になると本当に質が悪い。閉所において彼女の毒は本当に反則だ。そして二次災害も酷い。
(しかし、無視するのもアレだし)
悩んだ末、ミヤビはキンジの呼び出しに応じることにした。
本当に告白と決まったわけではないし、もしかするとのっぴきならない状況に陥ったために救援を求めているのかもしれない。いや、むしろ普段のキンジを基準に考えればそちらの方があり得る。あの唐変木が告白のシチュエーションを練るなど、考えれば考えるほどあり得ない。
それにキンジとは午前中に共に行動していたが、自分と一緒に居ても全く緊張した様子はなかったではないか。普通、好きになった人間を相手にあそこまで自然体でいられるものなのか。ミヤビは未だに恋愛未経験者なのだが、マンガなどを参考にするとやはりおかしい。
第一候補が『救援の要請』、第二候補に『罰ゲーム』、第三候補に『果たし合い』、第四候補に『告白』くらいの気持ちで行こう。
「はぁ~、面倒だけど助けに行くかぁ~」
全身から怠そうな空気を発しながら、ミヤビは強襲科棟を後にした。目的はキンジの救出だが、もしも本当に告白だった場合はどうやって断ろうか。
一般的なのは「友達としか見れないから」というものだが、最近は「私は二次元にしか興味ないので」という相手に致命的なダメージを入れる断り方もあるらしい。できればキンジとはまだ友人でいたいため、有力なのは前者だろう。
だが、最悪なのは逆上して襲い掛かられた場合だ。キンジに限ってあり得ないとは思うが、もしそうなった場合――
「友達続けるにはどれくらいの怪我までが限度かな……鼻一個か、耳一枚か……いや、歯なら多少は……どうしようか?」
結論として、腕一本までならOKということになった。