もしも彼女にもハーレム因子があったなら   作:温玉屋

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こちらはエピローグ2です。この話の前にエピローグ1があります。


エピローグ2 もしも彼女にも……

 マドカは夢を見ていた。深く長い夢だった。

 

 夢の中でマドカは、今と同じ十五歳だ。ただ、いる場所はいつも潜伏しているマンションでも、IS学園でもなかった。病院のような学校のような、コンクリート造りの暗い施設だ。そこは、かつてマドカがいた施設だった。

 

 そして、いつも見る夢と同じように、千冬が織斑一夏を伴って遠くに去って行くのが、施設の窓から見えた。

 

 姉さんは振り返らなかった。織斑一夏の手を引いて、迷わず去っていく。夢の中の曖昧なイメージのため、どこへ向かったものかはわからない。ただ、彼らの進んだ先は明るい光があるようにマドカには思われた。

 

 そして、もう一ついつもの夢と違うことに、マドカの傍らにも人がいた。プラチナブロンドの髪に美しい碧眼。容姿だけなら天使といっていいくらいの美女だ。彼女は人の悪い笑みを浮かべ、マドカに語りかけた。

 

「……お姉さん、追いかけないでよかったの?」

 

 スコール・ミューゼルだ。マドカは黙って首を縦に振った。このとき、夢だとはまだ自覚していなかったが、マドカはスコールに対して自然に話しかけていた。

 

「必要ない」

「へえ。貴女はお姉さんのことばっかりかと思ってたのに。心境の変化かしら?」

 

 声にはからかうような響きが多分に含まれている。しかし、マドカはいつものように苛立つことも噛みつくこともなかった。少し考えてから、彼女は頷いた。

 

「ああ、そうだよ。単純なものだ。姉さんも“やつ”も私の過去だ。だが、あの人たちにこだわることに意味があるとは、今ではもう思えない」

 

 マドカは窓枠に乗りかかり、遠くを見た。いつの間にか千冬と織斑一夏の姿は消えている。後には、目が眩みそうなほど深い暗闇があった。

 

「貴女の今までの人生に意味があったとは初耳ねえ。お姉さんの後をついて回るだけだったじゃない。それもやめて、一体何をしようというのかしら」

 

 スコールは言った。あからさまな挑発だ。問いかけの振りをして、実は相手から答えを引き出すためのやりとり――彼女がよくやる手だった。マドカは鼻を鳴らしてそれに答える。

 

「あれにも意味はあった。残された直後の私は無力なガキで、姉さんは生きていく上でただ一つの(よすが)だった」

 

 常になくマドカは饒舌だった。何故これほどよく口を利いたのかわからない。初めて話すことを得た子供のように、マドカはとめどなく喋り続けた。

 

「今は違う?」

 

 問いかけに、マドカは考えた。その答えはノーでもありイエスでもある。マドカは今でも無力だった。一人で何もできないほどではない。力は強くなったし、ISの操作にかけてはそれなりのものだが、やりたいこととできること、二者の間にある距離は以前より開いた気がする。

 

 より正確には、その二つの間には大きな距離が空いていることに気づいたというべきかもしれない。

 

「姉さんと私の関係は同じだ。姉さんは私を置いて去った。私は無力な子供として後に残された。ただ今の私が、それどう捉えるかは変わりうる」

 

「なるほどね。で、どうする。現在(いま)の貴女は、何がしたい?」

 

 スコールがおかしそうに口に手を当てながら言った。

 

「私のしたいことか……。そうだな、それは――」

 

 何か言おうと言葉を探しかけ、そこで足下が崩れるような感じを覚えた。周囲が一瞬で暗くなり、身体が闇の中に放られたような心地になる。

 

 次の瞬間、マドカは目覚めていた。深い眠りから覚醒したとき特有の水底から浮上したようなふわふわした気配がまだ身体に残っている。目を覚ましたのは、以前も不快な夢を見た同じベッドの上である。彼女はいつもの潜伏先の部屋に戻っていて、数日前と同じように寝ていたのだ。

 

「何だ、今のは」

 

 マドカは、夢の内容を細大漏らさず覚えていた。最悪の気分だ。スコールと二人して話し込んだうえ、自分の心情までぺらぺらと喋るなど、夢の中の自分が目の前にいたら、正気に戻れと張り倒してやりたい。今の彼女の偽らざる心境だった。

 

「朝……いや、夕方か」

 

 ずいぶん長く眠ったらしい。窓を見ると、カーテンから傾いた日差しが差し込んでいた。薬物の力で眠ったときのような感覚だ。

 

 マドカは離脱した後のことを何とか思い出そうとする。篠ノ之を抱え《福音》を纏うマドカは、上空からIS学園付近の沖合に停泊する船に着船した。ボーデヴィッヒらは水中から先に乗船しており、その後、全員の無事を持って引き上げた。たどり着いたのは早朝になってからで、全員ものも言わず眠りについた。ただ、最後の方は疲労であまり記憶がない。

 

 今が何時にせよ、それからかなり時間が経っているのは間違いなかった。モバイルで時刻を確認しようと、マドカは床に転がしたままの荷物に身体を伸ばそうとする。

 

 そして、そのままバランスを崩し、ベッドから一回転して床に盛大に倒れ込んだ。

 

「――?」

 

 自分の身体が背中からフローリングに落ちる音が響き渡り、マドカは呆然とする。寝返りをして腕をついて起き上がろうとし、今度は勢い余ってぺたんと背中をベッドの横に預けてしまった。うまく身体を支えられない。自分の手足を見て、マドカは目を(しばたた)かせる。

 

 部屋の外から、床を蹴るせわしない、だが軽い音が響いた。違和感を覚えさせる手足――動作としては軽々動くものの、自分で思っているより()()感じる――を見つめながら、マドカはその音を聞いていた。

 

「マドカちゃん! 目、覚めた!?」

 

 予想通り、やってきたのは篠ノ之だった。もう衣服は上下とも男性のものになっており、篠ノ之箒と見紛うことはなくなっている。

 

「よかったー。なかなか目を覚まさないから、心配してたんだよ。大丈夫だったんだね」

「無事、ではない。身体に違和感がある。これは……?」

 

 マドカは首を捻りながら篠ノ之に訊ねる。篠ノ之はマドカに現れている症状を訊ねて、腑に落ちたように頷いた。

 

「遺伝子的にほぼ同一の“姉妹”とはいえ、成長度合いが全く別の個体のフィッティングデータを使ったせいかな。後遺症だろうね。頭の中に彼女の身体を動かすような感覚が残っているのかもしれない。似たような実験ならしたことがあったけど、遺伝子的にほぼ同一個体だと、そういうことが起こるのかな。確かに不思議ではないけど」

「知らん。感覚としては剥離剤使用後に似ているが、吐き気や気分の悪さはない」

「面白い。ちょっとみせてくれる?」

 

 マドカの手足を取り、問診するように身体感覚を問う。目が知的好奇心で輝いており、性的なニュアンスは全くない――人間を有機物で構成される機械と見ている者の目線だ。ただ手つきは壊れ物にさわるように優しい。少なくとも、マドカに不安を覚えさせるようなことはなかった。

 

「うーん、お姉さんのデータからネガティヴ・フィードバックがあったのかな……。《福音》がフィッティングデータが正しいものとして、そこに対してマドカちゃんの身体感覚を合わせにいっちゃったのかも。数日違和感は残るかもしれないね」

「遺伝子的には同一のデータを使ったのにか」

「同一だからだよ。全てが同じなのに、成長度だけが違う、って珍しい個体の接触は、全世界にもマドカちゃんが初めてでしょ。合いすぎるせいで逆に違和感が残るって感じか。普通なら、そもそもそこまでフィットしないもんね」

 

 篠ノ之は言いきって腕を叩いた。要は、ISの調整機能がおかしな形で働いた、ということらしい。確かに痛覚も鈍っている気がする。

 

「まあ、じきに正常な身体感覚が上書きするだろうから、しばらく休めば心配は要らないと思う。合わないブラを着けてると、身体が下着に合わせてしまう、みたいな感じだよ」

「……なるほど」

 

 ある意味でわかりやすい説明だ。なぜ女性下着に喩えるのかという点は気にしないようにしつつ、マドカはうなずいた。篠ノ之は彼女を支えてベッドに腰掛けさせると「待ってて」と言い残してキッチンに走る。

 

「はい、お腹すいたでしょ?」

 

 トレイにおにぎりとマグカップに入れた味噌汁を持ってきた。彼が作ったらしく、大きく不格好な米の塊が差し出されている。半日近く寝ていたせいか、確かに空腹がひどい。

 

「確かに軽く腹に入れておきたいが……」

 

 案の定、この身体ではうまく食べることこともできなかった。口に運ぼうとして手を伸ばすが、取り落としてしまう。皿の上に転がる再び手を伸ばすと、今度はうまく握れずに潰してしまった。

 もどかしい、そう思った直後、イヤな予感がしてマドカが顔を上げると、先程とは別の意味で目を輝かせた篠ノ之と視線が合った。

 

「食べさせてあげる!」

 

 なぜそんなに嬉しそうなのか、何が楽しいのか、と聞きたくなるほどいい笑顔だった。あーん、と間抜けな声を上げ、顔中を笑みにして握り飯を差し出してくる。マドカはたいへん激しく抵抗したが、それで手足の感覚が戻るわけでもない。篠ノ之には、「感覚が戻るのは短くて一両日、長くて三日ぐらい。その間ずーっとお腹空かせるの?」と締まりのない顔で言われる。

 

 その上に追い打ちをかけるように、マドカの腹が空腹を訴える音が響いた。意外なぐらい大きな音が高い天井に響いて、マドカは頬に熱いものが走るのを感じる。

 

「……好きにしろ」

「はーい」

 

 ぶすっとした表情を隠さず、マドカは口を開いて篠ノ之の行為を受け入れる。篠ノ之は実に嬉しそうだった。餌付けされる鳥の気分をたっぷり味わって、何も喰っていなかった胃にものを入れる。塩が身体にしみていくようで、飢えた身体に心地よい。味を聞いてくる彼に、悪くない、とだけマドカは答えた。

 

 食事が落ち着いたところで、あることに気づき、マドカは喉のものを飲み込んでから口を開いた。

 

「他の連中はどうした?」

 

 建物の中はずいぶん静かで、マドカと篠ノ之以外に気配がなかったのだ。

 

「鈴くんはクライアントからの連絡を確認しに、セシルは英外務省からのメッセンジャー役に随伴だって言ってたかな。シャルは腹を貫かれたから入院してていないけどね。ラファエルはスコールさんとこで報告をしてるところじゃないの」

「お前と私だけ残されたのか?」

「そ。一番負担の大きかったマドカちゃんはお休みで、その原因で責任者の僕は残れって言われちゃった」

 

 マドカはため息をついた。疲れているのは皆同じだろうに、一番体力のない二人に気遣いをしたのだろう。ただ正直にいえば、この身体の状態にはありがたい扱いではある。

 

「あ、そー言えば。スコールさんからメッセージがあったんだっけ」

 

 最後にスコールのことが出て、マドカは顔を上げた。口の中のものを飲み込み、おぼつかない両手でマグを支え、続きを待つ。

 

「朝起きたら、一言だけ伝えてきてたよ。マドカちゃんには必ず伝えるようにって言われてる」

 

 篠ノ之は口元に指を当て、思案のあとで答えた。彼が聞いた、というスコールのメッセージはこんなものだった。

 

 ――素晴らしかったわ。一部については私の予想を超えているぐらい。

 

 マドカは首を傾げる。スコールが、それを口にしたなら、おかしなところがいくつかあった。

 

「……作戦結果、経過の報告には触れずにか?」

「うん。正式な報告は今してるところだからね。聞き間違いはないよ。僕らがあの人の言うこと、違えるはずがないもん」

 

 言葉だけを取れば手放しの絶賛だ。ただ違和感がマドカの脳裏に走る。なぜ彼女は、結果の確認もせずにマドカたちが賞賛に能うと判断したのか。

 

「みんな変だなって思ったみたいなんだけどね。仕事をさせて、結果もよく見ずに褒めるなんてあの人らしくないなって」

 

 篠ノ之の言うことはマドカにも同意できた。今回の仕事は、楯無のことがなくとも薄氷だったのだ。リスクをかけた仕事であった以上、スコールもそれなりのリターンを望んでいたはずだ。

 

 ――あの女の狙いは……。

 

 さっきまで見ていた夢の内容がマドカの脳裏に閃くようだった。

 

 夢の中にはスコールが出てきていたが、もちろん夢の中で起きたことまで彼女に帰するのは筋違いだろう。――まあ、ひょっとすると本当は夢に干渉するぐらい、あの女なら記憶操作の類としてできてしまうのかもしれないが、やるにしてもそれなりに準備がいるはずだ。少なくとも今のこの部屋では不可能だろう。

 

 要するに、マドカ自身が変わったということだ。どこが、と言われてもすぐには答えがたい――たとえば、マドカの考え方、あるいは思いの変化、視点の変化。今のマドカは、少しだがスコールの視座に近づいたらしい。彼女の考えも、一部なら理解できる気がした。

 マドカは少しマグの中身を喉に通し、篠ノ之に言った。

 

「ありがとう」

 

 何気なく声をかける。本当に特に意識もせずに発した言葉だったが、効果は劇的だった。

 

「はい?」

 

 篠ノ之は坂のように口を開けて唖然とし、マグが置かれたトレイをそのまま取り落とした。彼の膝の上に、まだ熱いミソのスープがかかり、悲鳴を上げる。

 

「熱っ! わわ!」

「何をやっている……これで拭け」

 

 枕元にあったフェイスタオルを出した。マドカがあっさり礼を口にしたのがよほど驚きだったらしい。相当に失礼な反応をされている気がして、さすがにまどかも憮然とする。

 

「ごめん、びっくりしちゃってさ。急にやさしいこと言うから。あー……あのね、ただ、それだけでもないんだよ」

 

 衣服と床の汚れを取って、篠ノ之は頭をかいた。

 

「僕はまたマドカちゃんに助けられたから。先にお礼を言わないといけないのは、本当なら僕の方じゃない。それで意表を突かれちゃった、って感じかな」

「好きでやったことだ。それに、また、というのはおかしい。お前を私から助けたのは初めてだろう」

 

 正面から感謝をぶつけられるのは、マドカにとっては初めてだ。思った以上に面映ゆく、マドカはごまかそうと顔を顰めた。

 

「マドカちゃんはそう思ってるだろうけどね、僕らからすれば、初めてじゃないんだ」

 

 篠ノ之は目を伏せ。いったん言葉を切る。盆に食器を置き直して、また続けた。

 

「僕らはまともな過去なんてないから、自分がどうして生まれてきたのか、一人じゃ何のために今生きてるのかもはっきりしない。現在がないから、その上に未来を思い描くこともないのさ」

 

 篠ノ之が顔を上げる。マドカと交錯した彼の視線は、いつか見た真摯な色のそれだった。

 

「程度も気持ちも差があるけど、きっとみんなそうなんだよ。マドカちゃんが将来何をするのか、どう生きるのか。みんなそれが知りたいから生きてみようかなって思ってるんだよ」

 

 大層な扱いをされたものだった。彼らに取っての生きる目的がマドカだというのだ。ちょうど、マドカがかつて千冬を頼みにしていたのと似ている。違うところがあるとすれば、マドカは千冬を通して自分の過去を見、彼らはマドカを通して未来を見ていることだろうか。

 

「好きにすればいい。私もどうせ、お前たちを頼ることになる」

「いつでもどうぞ、だよ。お任せあれー」

 

 マドカはそれも、悪いとは思わない。誰だって未来に生きる必要があるのだ。彼らの未来とマドカのそれは、今のところ繋がっていた。

 

 未来、将来。今まであまりマドカの脳裏に浮かんだ試しのない単語だ。これからは、それについて考えることも多くなるのだろうか。まだ、マドカには判らない。ただその言葉を考えたとき、浮かんできた顔があった。マドカが乗り越えなければならない、最も手近な存在の姿だ。

 

「いつでも、か。なら、早速頼らせてもらう」

「――へ?」

 

 マドカは寝間着代わりの衣服を脱ぎ捨て、部屋の隅に放る。慌てたように篠ノ之は手で自分の視界を遮った。

 

「普段は頼みもしないのに触ろうとするくせに。何をしている――というか、隠すならちゃんと隠せ」

「いや、あの。そんな急にされたらさ、心の準備が……」

「何をずれたことを言ってる」

 

 覆った手指から垣間見(かいまみ)している彼に、脱いだ衣服を投げつけた。顔の辺りに当たって、息が止まる変な音が響いた。

 

「ランドリーに放り込んでくれ。着替えたら外に出るぞ。ボーデヴィッヒはスコールに報告しているんだったな?」

「え、そーだけど、何で? てゆーか僕も? どこ行くのさ?」

 

 もはや目の前を隠すふりもせず、抗議じみた声で篠ノ之が叫ぶ。彼に向けてマドカは頬を歪め、不敵に笑った。

 

「今回の“元凶”のところだ」

 

    ◇    ◇    ◇

 

 同日、マドカが目覚める一時間ほど前――時刻としてはちょうど学園でサラ・ウェルキンと更識楯無が話を終えた頃であり、場所は市内にある《テレジア・グループ》ホテルの上階。

 

「……〇一一七に、《銀の福音》を装着したマドカと輸送された篠ノ之はIS学園上空を離脱します。〇一二九、遮蔽(ステルス)状態のまま、沖合に停泊していたコンテナ船《ピエ・トランスパシフィーク》号に着船。〇二三〇に、上陸艇に乗り換えて近くの港湾から上陸し、一人重傷だったデュノアを病院に搬送。〇三〇〇、全員が拠点に帰還します」

 

 明るく天井の高いスイートの空間である。柔らかな照明が光り、時間までゆっくり流れそうな室内を、およそ似つかわしくない乾いた報告が響いていた。

 

「以上、作戦開始から約七時間で終了です。マドカの離脱、並びに戦闘でかかった合計三時間が、そのまま予定からの超過時間となりました」

 

 声の主は銀髪の少年、ボーデヴィッヒだ。ホテルの施設内に入るため、グレースーツを纏っていた。着慣れてはいるようだが、よく見れば年齢の印象に比べて不釣り合いな印象を受ける。

 

「予定外事態として戦闘の発生、織斑千冬との遭遇が発生していますが、《ゼフィルス》並びに《ティアーズ》の戦闘データ、そしてクライアントのISに対する剥離剤等の使用は完遂しました」

 

 彼の手には電子ペーパーがあり、昨晩学園潜入直後に広げていた物と似たような地図が写されている。内容は昨日の任務経過報告だった。

 

「当初の目的は果たせたわけね」

 

 そして彼の報告を聞いているのは、ただ一人――バスローブ姿でくつろぐスコール・ミューゼルだ。彼女の方はボーデヴィッヒの姿とは対照的だった。衣服の乱れからから脚と胸元を覗かせ、窓際の最も眺めの良い席に腰掛けている。手元には資料を映す端末の他にワイングラスがあり、時折酒の色を愉しむように杯を揺らしていた。

 

「オーケイ。では作戦の結果が一日明けてどうなったか聞かせて」

 

 スコールは端末から顔を上げて言う。ボーデヴィッヒはうなずき、電子ペーパーから目を外した。

 

「学園内については調査中です。ただ今のところ隠蔽に走っているようで、織斑千冬を含め、目立った動きはありません。更識楯無の機体は中破として修理が開始されているのは確実ですが、損壊の詳細は同様に不明です。

 一方、クライアントについては、今日の朝の時点で、英国大使館も作戦の完了を確認したようです。今日の一六〇〇、凰が連中に指定されたコインロッカーから、“代金”となるの物品リストと、それを搬送してくるコンテナ船のスケジュールを回収しました。内容は《ゼフィルス》の交換・換装部品、一個分隊分の歩兵用対IS兵装備、通常火器です」

「英国内の動きは?」

「《メイルシュトローム》級《フィアレス》については、英国内に戻して、研究に回されます。既にIS本体に対しては移送命令が下されました。移送警護には我が組織の手が入ったPMC、並びに英国からIS一個エレメントを含むSASの分遣隊が展開される予定です」

「早いわね。作戦の成否に(かか)わらず、そうするつもりだったのかしら」

「おそらくは。BAS社の内部資料では、先月末の時点で、《ブルー・ティアーズ》関連プロジェクトへの増員が完了しています」

「なるほどね」

 

 ボーデヴィッヒの補足に、スコールは満足げに破顔してそれに応じた。

 

「よろしい。英国の動きはまあ、いいとして。今回の仕事は成功と認めます」

「はっ」

 

 ボーデヴィッヒは踵を合わせて、硬い声で答えた。彼の主人は享楽的な態度を取っているが、もちろんそれは彼が同様に振る舞ってもよいということではないのだ。

 

「まあ、せっかく手にした二次移行発現のキーまで気前よく上げちゃったのは、私としてはちょっともったいなかった気もするけれど」

「更識楯無を退けるには他に方法がありませんでした。事前に承認はいただいているはずですが」

「判ってるわよ、もちろん。どうせ後しばらくしたら流しちゃわないといけない技術だし、それに私個人の()()だから気にするまでもない。貴方はよくやってくれたわ」

 

 律儀な確認に苦笑しながらスコールは肩をすくめ、杯をあおる。ボーデヴィッヒの眼は彼女の喉を見ている。スコールだけが楽しそうにする一方で、彼の紅い瞳にはほんのわずかだが感情らしいもの――よく見なければ気づかないような色があった。

 

「賞賛ならば全員に、特にマドカに帰するべきです。《福音》を使う手はマドカが言わなければ考えませんでしたし、さらに篠ノ之の撤収については我々の誰も、彼女に言われるまで手があることにさえ気づきませんでした」

「持ち上げたものねえ。あの娘がそんなに良いかしら」

 

 揶揄とからかいを込めて、スコールが少年に語りかける。しかし少年は頑なな態度を崩さない。

 

「申し上げているのは()()ではなく、事実です。あれはよくやっている」

 

 報告と同じトーンの声で、仲間、特にマドカへの賞賛を漏らす。スコールと同じ言葉をわざわざ選んでいるのは、口調からして明らかだ。スコールも意味を察したようで、眉根を上げ、眼は彼の顔に浮かんだわずかな色を捉える。

 

「感想ではなく事実、ねえ。貴男がそうやって私に突っかかるような物言いをするのは、久しぶりね。拾ったとき以来――ちょうど十年ぶりぐらいかしら」

 

 スコールが言った。青い瞳が閃き、声は少し低くなる。ボーデヴィッヒはぐっと喉を鳴らし、顎を引く。目の前の女に気圧されつつ、何とか彼女を見返していた。

 

「じゃあ次も本当のことを言ってもらいましょう。貴男……いえ、もしかしたら貴男も含め、セシルもシャルルも鈴も彗も思っているのでしょうけれど。何か私に言いたいことがあるんじゃないの? 貴男さっきから、とっても怖い目つきをしている。その紅い瞳が金色になりそうなくらいね」

 

 スコールは言いながら、長い指で彼の眼を示してみせた。バスローブを纏っている彼女は化粧を落としており、ネイルアートのある手足の爪だけが血のように赤い。

 

「お聞きしたいことは、確かにあります」

「なら聞けばいい。口から声を出す自由くらい貴男にもある」

 

 あくまで行動をうながす口調だ。もしその内容が愚かな物なら、スコールは彼をどう扱うか。彼女の与える自由とはそういうものだった。ボーデヴィッヒは与えられた“自由な”機会を噛みしめるように時間をかけて、しばらくして口を開いた。

 

「今回受けた仕事について――ミューゼル様の目的はなんだったのでしょうか」

「あら、そんなこと? 仕事前に説明したはずね。クライアントにISの技術を渡し、我々は物資を得る。まあ、罰、ということであの娘にきつい仕事をさせてやろうというつもりもあったけれど」

 

 スコールは挑みかかるように笑い、ボーデヴィッヒを眼だけで射すくめる。

 

「《ゼフィルス》のパーツ、物資の入手は貴重です。しかしただの補給のためというには、今回の件はあまりにリスキーでした。更識楯無の警戒が高まったところに、満足にISも使えない状況でマドカを送るなど。今回の件ではあれが死ぬ可能性すらありました」

「罰として与えた任務といったでしょう。もう忘れたの?」

「懲罰と死が同義という扱いは、安い値段の生命に限って許されることです。小銃を持たせただけの素人を前線送りにするのとは違う。貴女はマドカをあそこまで育て上げるのに、相当な投資をしているはずだ。雑な作戦に、他に手に入れる方法がある物資を代価にマドカを投入する方が、理に合いません」

 

 彼の抗弁は続き、その仮定で徐々に声が高くなりつつあった。問答の中で熱が入りつつある――というか、スコールがそれを引き出すやりとりをしている。誰かが端で見ていたならばわかっただろう。

 

「理屈は通っているわね。さて、ボーデヴィッヒ。私に演説を聞かせたいわけではないでしょう。結論から言いなさい」

 

 口元を意地悪く歪めてスコールが言う。ボーデヴィッヒは唇を噛んで続けた。

 

「貴女は、最初から“仕事の対価とは別のことを目的にしていたように見える”、ということです」

 

 言い切り、彼女を見据えた。

 

「加えて今朝のことです。貴女は、作戦の結果も検討せず我々を賞賛した。貴女の狙いは、少なくとも任務を終えたあと、結果の確認を必要とするものではなかった。

 いっそ、仕事を終えたあの時点で、任務が失敗していようがいまいが、貴女にとってはもう何かが完了していた。そう考えたのです」

 

 ようやくボーデヴィッヒは言葉を切った。彼の呼吸は軽く乱れていて、静かな部屋に音が響いている。他には空調がワインを揺らす音しかしないほどの静寂だった。

 そこに、場違いなほど軽い拍手の音が鳴った。スコールが、両のてのひらを打ち合わせていた。

 

「なかなか素敵よ、ラファエル。色々ヒントはあったわけだけど、よく勘づいたわね」

 

 ボーデヴィッヒは答えずに彼女を見ていた。目つきは、もうはっきり睨んでいると評して差し支えない。スコールは彼の視線を浴びながら気にするそぶりもなく、

 

「ただ、それじゃ五〇点というところかしら。追及しても、私が何をしたいのか言えないのでは台無し」

 

 スコールは立ち上がると彼の側に立つ。スコールは長身だが、さすがに百八十センチを超えるボーデヴィッヒよりは低く、彼の方からは見下ろす形になる。少年が何をするのかと眉を寄せたところで首の後ろに手をやり、腕を回して巻き込むようにボーデヴィッヒの顔を引きつけた。接吻できるほど近い距離に顔を置き、ボーデヴィッヒの白い耳に口を近付ける。

 

「私の意向を探りたいならもっと想像力を働かせること。加えて、相手を問いつめるなら、もっとしっかり準備をすること。少なくとも論理的に物理的に、その者を殺せるくらいにはね」

 

 彼女は二本の指を伸ばし、ボーデヴィッヒの首をかき切る仕草をする。少年は一瞬身構えた。彼の眼前数センチの距離では、スコールの金色のイヤリングが揺れている。スコールは今このときもISを持っていた。その気になれば男を紙を千切るように殺すことぐらい容易いのだ。

 

「……何のお話を、しておられるのですか」

「貴男に思い出して欲しくてね。私は貴方たちの敵ではないけれど、味方でもないわ。まして肉親ではない。子供がするように教えろ、とねだったことを教えてあげる筋合いはないのよ」

「理解はしています。しかし」

 

 彼はなおも言いつのろうとし、言葉を詰まらせる。彼の頬にスコールが口づけていた。言葉とは裏腹にその仕草は優しげでさえあった

 

「それと半分は忠告。貴男は知らないかもしれないけれど、子供がそうやって危ないことを――今回なら、味方でもない人に甘えるようなことをしたら、大人は忠告するものなの。死にたいの? ってね」

 

 言いながら、スコールは片手で軽くボーデヴィッヒの肩口をつついた。それだけで彼の長身が軽く傾いだ。ボーデヴィッヒは片足をずらしてなんとかバランスを保つ。

 

「貴男を始めとした男の子たちは、これから常に自分より圧倒的に――何倍も何百倍も強いものと戦うことになる。何をするときも、相手を殺すつもりでいなさい。貴男たち、今の時代の男としてはタフだけど、まだ私の考えでは十分じゃない。ISを持つ女はしようと思えばいつでも貴男を殺せるし、貴男たちには同じことはできない。

 敵対するときだけでなく、今みたいに笑ってる女を前にしても、相手に殺されるかもしれないと思いながら行動するの。次の瞬間、彼女が貴男を殺すかもしれないからね」

 

 スコールは一息でそう言うと、最後に冗談めかした目つきと声になって、付け加えた。

 

「それを心に留め置きなさい。言葉を交わすときも、抱擁するときもキスするときも、それから愛するときも、ね」

 

 最後のほうは冗談めかした口調になる。その頃には、先程まで漂っていた冷たい気配は去っており、スコール自身は窓際の席に戻った。ボーデヴィッヒは唇で触れられた頬を押さえ、呆けたようにスコールを見つめている。

 

「ただ、そうねえ――もし、どうしても、どうしても私が何を考えていたか知りたいと言うのなら、今夜一晩くらい付き合ってもらえば、考えてもいいかしら」

 

 スコールは余っていた杯にワインを注ぎ、彼を見つめながら手渡そうとする。ボーデヴィッヒは逡巡していた。戯れ、からかいの類だと彼もわかっているらしい。ただ拒否したものか、判断を迷っているようだった。

 

「私はまだ、この国では十七ということになっているはずですが」

「ああ、そんなこと? それなら貴男は今日から二十歳ということになったから。ちなみに鈴とセシルは十九、シャルルは十八、彗は十六。彗以外は申請すれば国際免許も通るわよ。これが身分証だから、取っておきなさい」

「……。了解しました」

 

 スコールは懐からカードと身分証を出し、彼に放る。外国人登録と身分証だ。投げてよこされそれを素直に受け取っている。自分の年齢が免許証より簡単に更新されたことについては、特に言うこともないらしく、カードを懐にしまった彼はためらいがちに手を杯に伸ばす。

 

 ちょうどその時、廊下の方角から騒がしい音が鳴った。すぐに部屋の呼び鈴を鳴らす音がして、来客が有ることを知らせる。ボーデヴィッヒの顔つきは色を塗り替えるように兵隊のそれとなり、懐に手を入れて拳銃の安全装置を外した。

 

「あら……来たのね。ラファエル、扉を開けてくれる?」

 

 スコールは少し驚いたような顔で彼から離れ、悠々椅子に腰を落とす。彼女の方はこれから何が起こるか把握しているようだ。その口が笑いを含んだのと、ボーデヴィッヒがカウントしてから扉を勢いよく開けたのとは、ほぼ同じ瞬間だった。ボーデヴィッヒが銃口を、スコールがこんな言葉を、扉の向こうに同時に向ける。

 

「いらっしゃい、()()()

 

 ボーデヴィッヒの眼が驚きで見開かれた。彼はすぐにトリガーからも指を外し、銃口を床に向けていた。

 

「そう驚くことでもないでしょう。私がここにいるのは知らせてあったんだから。ご苦労だったわね。貴方たちにはオレンジ・ジュースでも出した方がいいかしら?」

 

 スコールが柔らかい笑みを向ける。その先にはマドカがおり篠ノ之の肩を借りながら険のある目つきでスコールを睨んでいるのだった。

 

    ◇    ◇    ◇

 

「どうしたの。入ってらっしゃいな」

 

 スコールが呼びかける。マドカは彼女に視線を固めたまま、にじるように少しずつ近くに寄った。

 

「ああ、そういえば貴女には直接言っていなかったわね。お疲れさま。なんだか辛そうだけど、身体は大丈夫?」

「……必要ない」

 

 マドカは言い切った。正直にいえば、少し辛い。身体的な不調はないが、手足の自由が効きにくいまま長い距離を来るのは結構な労働だった。しかし、今後に及んでスコールの施しを受けるようなことほどバカらしい話はない。

 

「飲料も労いも不要だ。お前から貰うものは、今回の事件だけで十分だ」

 

 篠ノ之の肩を借りながら部屋に入り、手近なソファで身を支えつつスコールを睨む。ISなら一ステップで詰まる距離を挟んで、マドカはスコールと視線を重ねていた。

 

「貴様、どうやってここまで……篠ノ之か。何故連れてきた!」

 

 ボーデヴィッヒはその間に立ち、視線を迷わせていた。

 

「頼まれちゃったからさー。あ、スコールさん、僕はグレープジュースでお願いしま――あたたたっ」

 

 薄い怒りを滲ませるボーデヴィッヒに、篠ノ之は脳天気に答えようとする。最後の悲鳴は、余計なことを言おうとしてマドカが尻をひねったものだ。

 やりとりを見ながら、スコールが肩をすくめる。

 

「私だけでことを起こしたわけじゃないんだけれどねえ……。依頼あっての仕事だったんだから」

 

 苦笑いを口元に浮かべている。様子からすると、マドカが来るのは予見のうちということらしい。事実、篠ノ之に肩を借りつつここまで来たが、いざホテルまで来るとあっさりと部屋まで通されていた。どこまでも人を食った女だと、感心するほどに思う。

 

「持ち込まれ方はどうあれ、お前は喜んで受けた。今回の仕事は端から勝算の見えにくいものだった。大きすぎるリスクが見えているのならば、仕事を避けることは不可能ではなかった」

 

 余裕ありげな態度は勘にさわった。マドカは努めて自身を冷静に保とうとしながらスコールを睨み続ける。

 

 先の仕事が依頼あってのもの、というのは事実だ。ただ、受けるスコールにもそこまで切迫した事情がない以上、強いてそれを撥ねのけられぬ理由もなかった。付け加えるなら、失敗してマドカたちが敵の手に落ちれば、困るのはクライアントも同じである。

 

「そのうえ、もし避けがたい難しい仕事だというなら、体制を見直せばいい。実行可能なように増員をかけるなり延期するなり。実際にはどちらも試みる影すらなかった」

「なるほどね。で、貴女の中では、そうまでして私は一体何をしたかったことになっているのかしら?」

 

 スコールはマドカだけを見ながら、機嫌良さそうに杯を傾けている。マドカは息をついた。実際にはスコールは見直しをするどころか、彼らだけで強行させた。中止を進言するラファエルを退けて。

 

 まるで、“マドカたちだけ”で行うことになにか理由でもあるかのように。

 

「お前のやりたかったことは、私を――私たちを死地に放り込むこと、それだけだ。今回の仕事を私たちに、私たちだけでやらせること、それ自体が目的だった。そうだろう」

 

 一歩踏み出そうとして、膝が崩れる。舌打ちをしながらソファの背にすがろうとして、誰かに支えられた。長身の影が近くから、筋肉質の腕を彼女の脇に引っかけていた。ボーデヴィッヒがいつの間にかマドカのそばまで来て支えていたのだ。

 

「貴様の言うことは、ある程度理が通っている。だが、なぜ……?」

 

 まだ納得しかねているらしい。理解は早いが頭は固い男だな、と少し思った。「

 

「この女に何か意図があって仕事を受けたことまでは感づいているだろう?」

 

 マドカは彼の肩に手をかけ、顎でスコールを示しながら言った。

 

「その考えは正しい。そもそも懲罰任務などと言いながら、今回の仕事で費やしたリスクも資材は、別に私の命だけではない。お前たちの命も賭けていたんだ」

 

 武装、剥離剤を始めとするIS技術、スコールが十年かけて集め、育てたボーデヴィッヒや篠ノ之たち。スコールは金や技術に加え、今までかけた長い時間さえ投入したに等しい。

 スコールのやったこと、事実だけを並べると、ことはシンプルになる。

 

 資材を集め、人を育て、そして今回の事件を使ってそれらに失敗するかどうかぎりぎりの負荷をかけ、くぐり抜けるかどうかを確認した。それだけの行為を一般では何というか。

 

「……テストだったんだよ」

 

 少し唐突にマドカは言った。マドカの頭より一つ上にある顔と、少し下にいる篠ノ之が彼女を見ていた。

 

「私とお前たちが窮地にあって、どう行動するか。手持ちの材料から解決策を見つけられるか。誰かを犠牲にして生き延びるか、それとも全員で帰って来られるか。この女はそれが見たかったんだ」

 

 仕事の結果を見る前に全てが終わったような態度を取ったのは、その時点で目的が終わっていたからだ。それがテストだというなら、無事帰ってきた時点で彼女の目的は終わっている、というわけだ。

 詳しいことは後で説明してやる――まだ当惑しているボーデヴィッヒに口を開きかけて、スコールの言葉に遮られた。

 

「素晴らしい」

 

 あたりに笑い声か響いていた。誰のものかは言うまでもない。この場で笑う自由があるのは、スコール・ミューゼル一人だ。彼女は杯を干すと、珍しいことに声を上げ、可笑しそうにしていた。

 

「嬉しいわ、わかってもらえて。気持ちが伝わるって素敵なことね」

 

 思ってもいないことを、とマドカは鼻白む。彼女の反応を見てスコールは、

 

「あら、私、貴女にはわかって貰いたいと思ってる、本当よ? 私だって誰かに判ってほしいと思うもの。ね、ラファエル」

 

 彼女は意味ありげにボーデヴィッヒに目を向けた。彼女の前には杯が二つある。一つはスコールが口にしているもので、もう一つは誰も手をつけていない。

 

「ねーねー、ラファ。ほっぺに痕がついてるよ」

 

 出し抜けに篠ノ之が自分の頬を指して言う。ボーデヴィッヒは思わずといった風に、顔に左手を当てた。マドカが見る限り、そこには何もついていない。

 

「うっそだよん。あは、引っかかった」

「貴様は……!」

 

 からかわれて怒りかけ、彼は何故かマドカの方を所在なげに見る。スコールは彼の背後で、したり顔でやりとりを見ており、片目を瞑った。

 

「私だって人恋しいことぐらいあるし、ね」

 

 意味はマドカにもなんとなく判る。そして気に入らない。マドカはボーデヴィッヒの顔にやや冷たい一瞥をくれ、

 

「――なら、今夜はオータムでも呼ぶことだな」

 

 彼女に言い放ち、自分の隣の長身をネクタイを掴んで引き寄せた。首根っこを押さえられて、ボーデヴィッヒががくんと姿勢を崩しかける。少年は目つきで抗議を向けてくるが、マドカは視界の端に入れながらそれを無視した。

 

「あら、何?」

 

 マドカが乱暴に出たのは予想外だったらしい。スコールはこの日初めておどろいたような顔を見せた。マドカは逆に薄い笑いを見せ、

 

「私が何をしに来たと思っている。お前相手に口上を吐くためだけに来たかと思ったのか?」

 

 手にした布を引いて見せる。

 

()()を回収しに来たのだ。運良く全員が生き残れたから、今晩は祝いでもしようと思ってな……連れて帰らせてもらうぞ」

 

 もちろん、半分ははったりだ。今思いついた口上ばかりである。祝いなどするつもりも準備もしていないはずだ。ただ、スコールに何もかも思うとおりに進めさせる理由は、ないと感じた。それだけだった

 

「おい、ネクタイを持つな――ミューゼル様」

 

 彼は自分の主に助けを求めるような視線をやっている。はじめ呆気に取られていたスコールは、次いで肩をすくめて苦笑していた。

 

「なるほど、それでここまで来たのね。オーケイ。ボーデヴィッヒ、行ってきなさいよ。私は構わないわ」

「は、はあ。了解しました」

「貴男が聞きたかったことなら、たぶんその娘が教えてくれるでしょう。それとも、私のところにいたいというなら止めはしないけど――」

 

 含み笑いで付け加えた言葉に、少年は迷いながら、だがゆっくりと首を横に振る。スコールは手で追い払うようにして、自身は杯に残ったワインをあおる。マドカは彼女に背を向け、篠ノ之たちを伴って彼女に背を向ける。

 

「ああ、それとマドカ。もう一つ忘れていたわ」

 

 部屋を出ようとするマドカの肩ごしに、スコールが声をかけてくる。何か、と胡乱げな目つきでマドカは振り返った。

 

「誕生日、おめでとう」

 

 彼女に向けてスコールが言う。何を言われたのか一瞬判らなかった。内容もそうだが、スコールの声にわずかに、優しげな雰囲気がよぎったのだ。間違いかと思うほど気づきにくい僅かさではあったが。

 

 マドカは彼女の表情を見た。眼前にいるのはいつも通り、マドカにとって敵でも味方でもある女であり、彼女は食えない笑みでこう続けた。

 

「ちょうど一週間前が九月二十七日だもの。“貴女も”十六歳になった。――そうでしょう?」

 

     ◇    ◇    ◇

 

 マドカ達が去ってしばらく経った後。スコール・ミューゼルは同じ部屋、同じ窓辺で一人で杯を傾けていた。

 スコールは上機嫌で、今にも歌い出しそうにしながら外の風景を眺めていた。この部屋にマドカ達がいた頃は見向きもしなかった、夜景だ。彼女の視線の先には二十七階に及ぶ建屋の地上付近があり、つい十分ほど前にボーデヴィッヒが呼んだらしいタクシーが走り去ったところだった。

 

 自ら取ってきたのか卓上のワインクーラーに置かれた(びん)の数は増えていて、今の彼女の感情と酔いが今、どのあたりにあるのかを示している。

 

 部屋のチャイムが鳴る。スコールは手元の端末を操作して来訪者の顔を検め、解錠、と命じた。音が鳴ってオートロックが外れる。

 

「入って」

 

 彼女が言うと扉が開き、部屋に踏み込んできた者がいた。ピンストライプのスーツを着た壮年の男だ。黒髪黒目、口周りによく揃えた髭のあるコーカソイドで、背はスコールよりやや低いぐらいである。

 

 スコールの様子からして知己らしいその人物だが、もちろん彼女指揮下の人物ではなかった。マドカたちはもちろんのこと、少なくともオータムよりは年上であることは間違いない。

 

「邪魔するよ、スコール・ミューゼル……おや、一人か。意外だな」

「あら。(ひと)の部屋に呼ばれた男が言う台詞じゃないわね?」

「このところ、いつもあのドイツ人の少年か、おっかないオータムが一緒にいるからね。部屋に入るだけで葬式の心配せずに済むのは、気が楽だ」

「貴男がそんなに怖がってみせるなんて。私の子たちもずいぶん評価されたものね、ミスター・ダブルオー」

 

 最後の言葉は揶揄を多分に含んでいる。呼びかけられた男はため息をついて肩をすくめた。

 

「私はそんな大層なセクションの所属じゃないぞ。今回はちゃんと大使館の正規職員(オフィシャル・カバー)として来てる。それにJ.B.みたいに背も高くないし顔もこんなだし――というか、色事も荒事も君の方が上手(うわて)じゃないか」

 

 彼は自虐的に言う。言葉の通り彼は平凡な容姿である。人種のほとんどがモンゴロイドで占められるこの国さえ人目を引かずにいられるほどだ。身分秘匿捜査(アンダーカバー)に限れば何事にも目立つスコールより適任かもしれない。

 

「じゃ、今は何と呼ぶのが良い。昔のように“ウィンター”とでも?」

 

 スコールは彼の率直さに笑いながら訊ねかえす。彼は片手をあげ、

 

「今は専ら本名で通してる。だからウィルフレッドでいいよ」

「オーケイ」

 

 スコールは応えながら彼のための杯を差し出す。彼女の所作に応じ、男の方は鞄から書類封筒を取り出した。一角獣と獅子が王冠を支える英政府の公証入りで、印字から英外務省――秘密情報部もこの省庁の傘下にある――とわかる。

 二人して杯と書類を交換するように取りあった後、スコールは口を開いた。

 

「それじゃ、ひとまず乾杯と行きましょう。ウィルフレッド・()()()()()

 

 男は立ったまま、スコールは席に着いたまま、杯を掲げあう。その後、ウェルキンと呼ばれた男の方は、自分がその姓で呼ばれたことに少し意外げな表情を浮かべた。

 

「知っていたのか? 私が結婚したこと」

「今回貴方たちが使ったサラ・ウェルキンの姉のところへ、今年のイースターに婿入りしたんでしょ。それぐらいの情報は入ってくる」

 

 スコールの方は掲げた杯をそのまま干し、悪戯っぽく笑って彼に付け加えた

 

「どちらかといえば、女の情報網だけどね」

「女の……“うちの組織の”Mか、参るな。私は義妹を死地に放り込むひどい男ということになっているわけか」

 

 彼はしばらく掲げた杯をのぞき込んでから、僅かに口に含んだ。

 

「誰も責めちゃいない。あれだけ優秀な娘なら、誰だって使うでしょ――というか、あんないい娘がまだいたなんて、知らなかったわ」

「うちの秘蔵っ子だった。ただ、もうSISの宝ってわけにはいかないだろうな。おそらく彼女は二次移行した《フィアレス》の専属ドライバーとして、本国のIS部隊傘下に正式に配属されるだろう」

 

 今度はスコールが、感心したように目を開いて彼を見た。ウィルフレッド・ウェルキンと呼ばれた男は続けて説明する。曰く、次のモンド・グロッソ、および次のユーロIS代表は恐らくセシリア・オルコット他数人候補生から選ばれるだろうが、向こう数年のスポーツでない本国IS防衛の要は彼女になる。二次移行を遂げ、現役機体ではほぼ最強クラスとなった《フィアレス》、そして当該機を扱うならば、最高の相性を持つ彼女は絶対に外せない。

 彼女は英国本土に据えられ、下にも置かない待遇を受ける。だが、恐らく今後数年は英国を離れ得ないだろう。好きに友人と会うこともできなくなるのだ。

 

「ひどい扱い。しかもあの娘、今回は報されずに送り込まれてたみたいだし。愛想を尽かされたらどうするつもりだったの?」

「今回は、彼女のためにもなるいい機会だった。彼女は達観しているように見えるが、あの年頃の少女ってのはどこかで信じているもんだ。自分は何だかんだ言っても平凡な友情、恋愛、幸福と縁があると。しばらく前なら、大抵の者は努力と心がけでそれを掴むことはできたが――」

 

 残念ながらここ十年来、人類のうち四六七人及びその関係者は、人間らしい権利を失っている。彼女もその一人になる、というわけだ。

 

「彼女にも、それを自覚して貰う必要があった――更識楯無の誘いも断ったみたいだし、まあ結果も含め成功だった」

 

 IS関係者に課せられる規制は厳しい。IS学園を見ているとそうは思わないだろうが、まともな国なら本国IS防衛に貼り付けられた人間は監視と警護の対象下に置かれる。ちょうど、一時期の――先代の更識楯無が死ぬまでの篠ノ之箒がそうだったように。米国などが本土ISの一部を秘匿基地(イレイズド)に置いていたのにはそういう理由もあるのだ。

 

「わたしは、()()()()()が気に入らないんだけどね。”今の世界”が、貴男みたいな認識が当然ってなっていることが」

 

 ぼそりとスコールが言った。声には一瞬冷たいものが混じる。彼の方も聞き逃さず、漏れ聞いた発言に怪訝な顔を返した。

 

「……どういう意味だ?」

 

 問われても、スコールは答えない。発言自体がなかったかのようなしたり顔で、微笑んで男の方に続きを促す。

 

「……まあいい。教えてくれなくて。君がそういう顔をしている話題は、口を挟むとろくな事がない」

 

 あくまでこの場の支配者は彼女、ということを示しているようだった。ウィルフレッド・ウェルキンは(かぶり)を振り、付け加える。

 

「ただ、聞きたいことがないわけじゃないぞ」

「へえ?」

 

 問いかけを受け、酒精で少し和らいでいたスコールの目つきに、一瞬素面の冷たい気配が混じった。

 

「“織斑の娘”を使って、一体君は何を企んでいる。今回のことに限っても、君が何をしたいのかは、はっきり言って私には意味不明でね」

 

 彼が肩をすくめ、愚者めかした表情をとってみせる。彼のおどけた表情にスコールはからかうような声をあげた

 

「ストレート過ぎるわね。少しは考えた?」

「考えたさ。“織斑の娘”についても。彼女は確かに“特別”だが――君が自分以外の誰かを中心に据えようとする、というのが驚きだ」

「ああ。そっちなら、答えてあげてもいいわね」

 

 スコールは微笑しながらじっと彼の表情を見ている。何から説明しようか、思案するように手元の杯をまわし

 

「一番強い集団、というのを考えたとき、貴男は何を思いつく?」

「唐突だな。私ならSASとかSBSの連中、それ以外なら……プレミア・リーグのトップチームとか、そんな連中かね」

 

 何気なくウィルフレッド・ウェルキンが答える。

 

「そうね。国民として国家への忠誠を、あるいはプロとしての忠誠を脳の髄まで教育された連中――そう言った子たちが、今のところ一番集団としては強力な人々だと、私も思うわ。

 それに比すれば、亡国機業のグループなんて弱いものよ。利で繋がり恐怖で縛られた人間は、与えられた以上の利や恐怖を突き付けられれば必ず裏切るか、離散する」

 

 スコールは続ける。

 

「今までは別に、それでも構わなかった。利を争うだけならば。現に亡国機業はずっとそうして来たものね。

 しかしもし、利も恐怖も越え、身を捧げても戦えるような集団が必要になり、それを作ろうとするにはどうすればいいか。

 特にラファエルたちみたいに優秀で、しかも表面上強いモノには従ってみせながら、いつだって反抗しかねないような精神の持ち主を従えるには。

 組織にそれだけの忠誠に足る魅力はないし、私個人には、オータムみたいに素直じゃない子じゃないと付いてこないわ」

 

 スコールは言った。私個人としては、反抗的な子はおいしくて好きだけどね――と口元を釣り上げる彼女に、ウィルフレッド・ウェルキンも納得したように応じる。

 

「ああ、なるほどね。それで“織斑”の子を選んだのか」

 

 織斑、という姓に特に意味を込めて言っている。スコールは肯定した。二人の間には、その姓に関して共通の理解があるらしい。

 

「“織斑の娘”にはああいう個性的な子たちを惹きつける力があるかもしれない――ちょうど、“織斑”一夏がそれを発揮しているように」

 

 織斑一夏の周りには奇妙ともいえるほど彼を中心とした人の縁ができている。篠ノ之姉妹、各国の代表候補、女たち。彼らの物言いでは、それが何か織斑一夏と織斑マドカに共通の資質であるかのように聞こえる。

 

「最初から気づいてたわけじゃないけどね。あの娘と一緒にいるうちに、気づいた。あの娘にもそういう資質がある。なら、利用するに()くはないでしょ」

 

 スコールは杯を置いた。

 

「彼女や彼のもとにあれば、本来自由であるものが愛情で自らを縛りつけてでも身を尽くす。誰に命じられたわけでもなく、自分から誰かに従う――それがもしうまくいけば……」

 

 自由意志に基づいて隷属を選んだ者が、この世で一番強い。彼らは強制されずに服従し、求められずとも忠誠を傾ける。たとえ不利になっても逃げ出さない。なんのためにそうするのかという事はさておき、スコール・ミューゼルが必要としているのは、そういう集団らしい。

 

「だから。もしもあの子にも人を惹きつける力が――彼女にもそういう因子があったなら、彼女を中心に、グループを作ってみようと思った。そして私はそれにベッドしたいと思った」

 

 スコールはそこまで言って、やっと先ほどから差し出されていた書類封筒に手を伸ばした。コインほどの大きさの公証シールを綺麗にはがして手指の間に挟み、封の中身を確かめ始める。ウィルフレッド・ウェルキンはそれを見ながら頷いていた。

 

「なるほどね。ひとまず納得はしたよ。彼女なら、あの少年達の――本当は()なか()()()()()のくせ者連中の軸になれかもしれない、そう期待していたわけか」

 

 スコールは首肯する。少年達にウェルキンがつけた、意味のよくわからない形容も含めて、彼女は否定しなかった。

 

「それで、賭の結果は? 今回のことを、君はどう判断するんだ」

 

 スコールは手に挟んだ円形のシールを、小さなテーブルの中央に滑らすように押し出す。

 

「そうね――」

 

 彼女はワインの栓をぬき、その口元にふっと息を吹きかけてから、少し間を置く。やがて、また続けた。

 

「そろそろ、賭け金をつり上げようかなと思い始めたところ、かしら」

 

    ◇    ◇    ◇

 

 マドカたちを乗せたタクシーが、マンションの近くの大きな通りにさしかかる。助手席のボーデヴィッヒが車を停めさせた。

 すでに時刻は十九時をとうに過ぎている。さすがに日も落ちきり、あたりは暗い。マドカは篠ノ之の肩を借りて降車、歩みだそうとし――そこで料金を払い終えたボーデヴィッヒが背を向けて彼女の前にしゃがむ。

 

「マドカ、乗れ」

 

 意図するところが判り、少し躊躇する。マンションの上下動まで勘案すれば、彼に頼った方がよほど楽なのは確実だ。マドカは黙って頷き、大人しく彼の背中にすがった。幸い、辺りに人目はない。妙な集団と思われることもないだろうし、マドカが担がれていても視線を気にする必要もない。

 

「あー、あー。背が高いと、そーいうことができるのがいーよね」

 

 ……篠ノ之がうるさいことを除けば、とマドカは内心付け加えた。ボーデヴィッヒはそのまま、彼女を背負ってゆっくりと歩き出す。篠ノ之は前に歩いて回り込み、騒いでいた。子供か、とマドカは内心で思う。

 

「貴様の体格なら、本来はマドカぐらい背負える。こいつは軽いんだ。貴様は鍛え方が足りないだけだ」

「ひどい、虚弱なんだよ、僕はー」

「貴様の身体の都合までは知らん」

 

 ぶっきらぼうに言い放ち、彼はずり落ちそうなマドカを引き上げる。彼女の腕は首にかかってはいるが力の調整が付かず、うまくしがみつけないでいた。首の骨をへし折るくらい締めようというなら容易なのだが、ちょうどいい案配の力加減、というのが全くできなくなっている。

 そんな中でボーデヴィッヒは苦もなく彼女の体重を支えていた。自分はそんなにも軽いのか、と少しだけ複雑な気分になる。

 

「マドカ」

 

 マドカがの眼前にある首が、肩越しに彼女に語りかける。心なしか、その声は穏やかな響きをしていた。

 

「さっきのことだが……」

「……ああ。だが、あれ以外に、特に説明することは残っていないぞ。後付け加えるとしたら、今後、また(ろく)でもないことをスコールが我々に命じるだろう、ということぐらいだ」

 

 不安定に揺られながら、マドカは無愛想に応える。

 スコールの今回の目的は、マドカを中心とした少年らのグループが、チームとして機能するかの確認であり、それはもう達成された。今回確認した以上、次に来るのはスコールにとっての本命――本当に困難な仕事に違いない。

 

「今回の仕事を与えたのも、成長を引き出そうとしてのことだったのだろうか……」

 

 ボーデヴィッヒが言う。マドカは頷いた。

 

「恐らくは、そうだな」

 

 いつか、スコールが言っていたことを思い出す。彼女はマドカにとって味方でもあるし、敵でもある。矛盾しているように聞こえたが、それはある観点から見れば筋が通っている。

 守りもせず殺しもせず、ただ傍にいる。大人が子供に対するときの――大人が子供に成熟を促すときの態度だ。守らなければ、生きていくことはできないが、傷つけられなければ成長もしない。二つが矛盾していると感じる者がいるとしたら、そいつが敵と味方で全てを判断しているからだ。

 

「結局今回も私たちは、あの女の掌のうちだったということだ」

「そう思うと、ちょっと口惜(くや)しいね」

 

 篠ノ之が言った。口をへの字に結んで、頭の後ろに両手をやって溜息をつく。

 

「あ、けどさ。最後、マドカちゃんがラファのネクタイを“くいっ”ってやったときさ、ちょっとビックリしてたじゃん、あの人」

 

 言いながらボーデヴィッヒの首元に手を伸ばす。ボーデヴィッヒの方は、背中にまわした手を一瞬ほどいて、(したた)かに彼の手を叩いた。篠ノ之が悲鳴を上げて手を引っ込める。

 

「いったいなー。冗談なのに」

「……二度も、しかも男にそれをやられるのは不快だ」

「一回目のマドカちゃんが特別って? ……わかるけど。ま、それはともかくさ、あの人のことも驚かしたんだから、マドカちゃんも勝ち点取ったってことになるんじゃない?」

 

 手をさすりながら、篠ノ之が主張する。確かに、ボーデヴィッヒを連れに来たと言ったとき、スコールは驚いていた。だがそれが何になる――マドカは呆れて嘆息をついた。

 

「ガキの脅しあいではあるまいし……。やったやられたで勝ち負けなどつくものか」

「いーじゃん。あ、それにラファも満更じゃなさそうだったし」

「それこそ何の関係もない。というか、そうなのか? ボーデヴィッヒ」

 

 何気なくマドカは問う。そんなことで喜ぶ人種がいるとは思わなかったため聞いたのだが、マドカの眼前の背中からは、少し慌てた様な気配がする。「いや、俺は……!」などと言ったきり彼は二の句が継げず、三人はしばらく無言で道を進む。くふふ、という篠ノ之のいやらしい含み笑いだけが響いている。マドカはその間、ボーデヴィッヒが何を喜び、恥ずかしげにしているのか理解できず、首を傾げた。

 ボーデヴィッヒが咳払いをしたのは、ようやく建物が見えてきた頃で、しかも全く違う話題だった。

 

「……それで、マドカ。全員が帰還できた祝いというのはやるのか?」

「あ、それ僕もきになってた。いいじゃん。せっかくみんな無事だったし、パーティやろうよ」

「なんだ、お前たち。そちらも本気にしていたのか?」

 

 今度もまた意外な思いに駆られながら、マドカが問い返す。

 

「あれはスコールへのはったり、口実だ。もちろん、準備もしていない」

「えー、いいじゃん、パーティー的なの。やろーよ。ね、いーでしょ、ラファエルー」

 

 祝い事と聞いて目を輝かせ、篠ノ之が主張する。マドカが乗り気でないと見るや、ボーデヴィッヒの腕にすがってねだる。聞き分けのない弟のようだ。

 

「いや。準備をしていないならいいんだ。俺は、祝うほどのこととは俺も思わん」

「そうかなー……」

 

 ボーデヴィッヒはぶっきらぼうに否定する。篠ノ之は悲しげに目尻を下げ、諦めたような態度を取りかける。

 

「あ、そーだ!」

 

 次の瞬間、何かに気付いたように笑顔を弾けさせた。マドカとも目が合い、彼女の内心を嫌な予感が去来した。彼がこういう笑顔になるときは、たいてい良くないことが多い。

 

「もう一個あるよ、お祝い事。マドカちゃんが誕生日とか言ってたよね!」

 

 予想通り、とんでもないことを言い始めた。

 

 ――私の誕生日を、祝う?

 

 そういうことを普通の少女がされる、というのは流石にマドカでも知っている。だが、自分の誕生日を誰かが祝福するというのは、彼女の想像の埒外にあった。というか、そんなことをされても、どんな顔をすればいいのかさえ全く判らない。

 今度はマドカが慌てなければならなくなった。何を、と言いかけるマドカの言葉を聞きもせず、篠ノ之が続ける。

 

「誕生日って確か、みんなでお祝いするものなんでしょ?」

「……そうなのか? 俺は知らん」

「いや、ラファ。そうなんだって。ケーキを贈ったり、小麦粉と卵をぶっかけたり、耳を年の数だけ引っ張ったりするんだって」

「そうなのか……」

 

 どう聞いても世界中の習慣がごっちゃになっている。篠ノ之に誕生日を祝われた経験があるか不明だが、おそらく資料で読んだだけなのだろう。しかもボーデヴィッヒには、社会的な常識はともかく、出自からして文化的な素地というものがほとんどない。違う方向の世間知らず二人に会話させていると、どこに話が転がって行くか判らなかった。

 

「おー、マドカ。どーした、こんなとこで」

「随分賑やかですね。三人一緒とは聞いてませんでしたが、どうかしましたか?」

 

 親しげな声が聞こえたのは、その時だった。聞き慣れた声だが、マドカには少しだけ、救いの声に見えた。背の高い、二人の男の影。凰とオルコット――さらによく見ると背中に背負われているもう一人の姿もある。

 

「こんなとこで騒いでんじゃねーよ。ただでさえ、手前(てめ)ーらは目立つんだからよ」

 

 憎まれ口だけはそのまま、傷口は包帯で固められているデュノアの姿である。聞けば、二人は今日の作業を終えて合流したあとデュノアを見舞っていたが、彼があまりにも連れて帰れとせがむので仕方なく退院させたらしい。

 肩と腹を抜かれているはずだが、もう顔色まで良さそうなのは、医療技術のためか彼の気性のためか、マドカには判断が付かない。そのデュノアに向け、篠ノ之が言った。

 

「ごめんごめん、でもさ、仕方ないと思うんだー。マドカちゃん、先週誕生日だったんだって。十六歳になるらしい」

「へえ……」

 

 デュノアは舞い上がったテンションには付き合わず、落ち着いた口調で応える。彼の存在は、今のマドカにはありがたい。浮かれたことには何事にも文句を言う彼なら、マドカの誕生日を祝うなどということを制してくれるかもしれない。

 

「じゃあ、パーティでもしねーとだな。ちょうどいい。全員生きて、あのくそったれな楯無から逃れたわけだし。それも兼ねてな」

「だなー。今からだとちょっと時間かかりそうだが。ま、いーだろ。てーかマドカ、教えといてくれりゃ準備したのにさ」

「私も、知っていたらパイを焼いたのですが。簡単な料理でも良いなら、今からやりましょう」

 

 マドカが期待したのは、間違いだった。実に役に立たないことに、デュノアがあっさりと、凰とオルコットがやけに乗り気で返事を返してくる。

 物事は期待通りには進まない。似たようなことが前にもあったのを、マドカは思い出していた。それこそ一週間前――“やつ”を襲った九月二十七日に、頼みもしないうちに彼らが助けに来たときのことだ。あのときと同じ、事態はマドカの手を離れ、勝手に動き出しつつあった。

 

「おい、お前たち……」

 

 マドカは言いかける。スコールは、マドカの命がかかるときには彼らは勝手に動くだろう、などと言ったが、話が違う。瞬く間にその場で役割分担が決まり――けが人と篠ノ之だけをとりあえず部屋に置いて、準備を始めることになってしまう。

 

「楽しくなりそーだね、マドカちゃん」

 

 篠ノ之がほくほくした顔でマドカに語りかけた。見ていると無性に腹がたつ表情だ。マドカは応えず、仏頂面をして加減の聞かない手指で彼の額を叩いた。篠ノ之は大袈裟に悲鳴を上げて打たれたところを押さえる。その顔は、やはり笑っていた。

 

「いたたた……。ごめんね。そういう反応になるのは判ってたけどさ。でも、せっかくだから」

 

 篠ノ之が改まって言う。何か、と思いマドカは訝しげな目で彼を見――少し虚を突かれた。篠ノ之が、いつか見せた真摯な表情で、マドカの方を見ていた。

 

「みんな嬉しいし、マドカちゃんにありがとうって言いたいんだよ。それには、みんな生き残って、しかもマドカちゃんの誕生日も近い今日って、すごくいい日だと思ったんだ」

「昨日の礼なら、もう聞いた。何度も言われる筋合いはない」

 

 自分でも冷たい言い方だな、と思いながら、マドカは言った。どのみちそんな口の利き方しか、マドカは知らないのだが、少し内心に咎めるものがある。

 

「違うちがう。昨日のことだけじゃなくてさ」

「……まだあるのか? 私には、他に感謝される覚えがない」

 

 当惑するマドカに、篠ノ之は黙って首を振る。

 

「マドカちゃんはそう思ってるだろうけどね、僕からすれば、初めてじゃないんだ。僕が――僕らが明日も生きていたいのは、マドカちゃんが将来何をするのか、どう生きるのか。それを知りたいからなんだ」

 

 篠ノ之は目を伏せる。いったん言葉を切ってから、また続けた。

 

「何しろ、まともな過去なんてないから、自分がどうして生まれてきたのか、一人じゃ何のために今生きてるのかもはっきりしない。現在がないから、その上に未来を思い描くこともないのさ。程度も気持ちも差があるけど、きっとみんなそうなんだよ」

 

 周囲を見た。誰も篠ノ之の言葉を否定せず、付け加えることもしない。静かに肯定しながら、全員が歩いている。

 

 大層な扱いをされたものだ、とマドカは思った。彼らに取っての生きる目的がマドカ、だというのだ。ちょうど、マドカがかつて千冬を頼みにしていたのと似ている。マドカは千冬を通して自分の過去を見、彼らはマドカを通して未来を見ている。違うところがあるとすればそこだった。

 

「好きにすればいい。私は、自分のできることしかできん」

 

 どんな対象として見られたところで、自分を変えることができるとは思わない。彼らがそうしたいなら、そうせねば未来に生きられないならすればいいし、マドカも少しぐらいは手を貸せるかもしれない。

 

「うん。そう言われるだろうとは思ってたけどね」

「……篠ノ之。難しい言い方は不要だ」

 

 奥歯に物が挟まったような言い方をしている彼に、ボーデヴィッヒが言った。

 

「うん。そだね。ラファの言うとおりだ。だから、つまり、何が言いたいかっていうとマドカちゃんにさ、生きていてくれてありがとうって、そういうことだよ」

 

 篠ノ之が無邪気に言う。無言で肯定する気配が、マドカを背負っている背中からもあった。

 

「生きていて、か」

 

 マドカは一言だけ口にしたものの、二の句が続かなかった。答えようとして言葉が見つからなかったのだ。生まれてこの方、そんなことに礼を言われるとは、思ってもいなかった。

 

「……気持ちは、受け取っておく。私がどうすればいいのかは、判らんが」

 

 随分時間を空けてから、何とかそれだけ答える。言葉にしたのは、嘘ではなかった。贈られたものがあるというのは感じる。ただそれをどう返せばいいのかは、見当も付かなかった。以前の彼らの気持ちの方がまだ理解しやすかった、とさえ思う。何かをされたら何かを返せばいい。だがこの場合何を返せばいいのだろう。マドカは一人、戸惑いを感じている。ただその困惑は、別に悪い気分だけではなかった。

 

「未来、か」

 

 マドカは誰にも聞こえないように、口の中で一人つぶやく。彼らと進む道を見ながら、彼女はこれから先の事を考えていた。未来、将来。どちらも今まであまりマドカの脳裏に浮かんだ試しのない単語だ。遠くないうち、それについて考えることも必要になるのだろう。

 

 明日より先のことはもちろん、考えたところで判らない。ただ、彼らと前に進めば道は見えるのかもしれない。居心地の悪さと、ほんの少し心に浮かぶ高揚――感じたことのない不思議な感覚を、今のマドカは胸中に抱いていた。

 




1/29の早朝に投稿していますが、営業日時間的にはまだ前日だから(震え声)

最終回で新キャラを出すというビーンボールやちょいと強引な結末も使っておりますが、なんとかこれでオワリです。

今日の夜か明日の夜に、あとがきらしいものを書いて見ようとおもいます。ここまで読んで下さった根気強い方のうち、この変な作品の作者が設定をどう作ったとか原作の設定をどう悪用したのかというネタを知りたいかたが折られましたら、よければご覧になって下さい。

マドカの誕生日会? そんなものは知らん!(笑)

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