もしも彼女にもハーレム因子があったなら   作:温玉屋

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※おことわり 今回の本編中にキャラが千冬さんを問い詰めるようなシーンがありますが、アンチやヘイトを意図したものではなく、

マドカさんの立場を考えるとこういう過去もありかなあ、というこの二次創作での捏造設定、プラス苦い過去がある大人キャラって素敵やん、という作者の趣味によるものであるとご理解いただければ幸いでございます。

というか作者は、好きなキャラが痛めつけられているシーンを見るとときめいてしまっ……グワーッ! サヨナラ!

    ◇    ◇    ◇

前回のあらすじ。

1.篠ノ之選手、魂のIS講義。ハミルトン広報に福音事件の真相教える!
2.【悲報】楯無選手「戦力が足りなかった」新生メイルシュトロームに対し打つ手なし
3.ウェルキン選手「いける」剥離剤の効果でIS奪還や!

4.そういえば、千冬ちゃんが見回りするとか言ってなかったっけ? ←ファッ!?

誰も待ってなかったでしょうけどもう終わりますから(震え声)


第12話 決着(後編)

 織斑千冬は寮内を巡回していた。

 常夜灯のついた寮内を懐中電灯片手に行く。消灯時刻が過ぎているのに明かりのついている部屋があるなら、都度扉を叩いてその旨を通告する。生徒たちの騒がしい音が扉の向こうで聞こえ、室内灯が消える。

 いつもこれの繰り返しだった。フロアを巡回し、扉や窓の施錠を確認しつつ、織斑千冬は声に出さずつぶやいた。

 

 ――これには、防衛上はもちろん防犯の効果もない。

 

 先の高速機動競技会(キャノンボール・ファスト)の数日後からこの巡視は始まった。教員による当番制で日に二度校内を巡回するのだが、彼女だけでなく多くの教員もこの行為に十分な意義を見いだせずにいる。

 

 つまらない泥棒や変質者の類を警戒するなら、教師が寮内をうろついていることに意味はある。だが、本土からの接続も侵入ルートも限定された人工島では、普通の学校が警戒するような犯罪者が入る余地がそもそもない。

 さらに、正面の認証を破ったり、学園に海上・海中・上空から入り込んだりできるような人間は間違いなく特殊(S)作戦(O)部隊(F)相当の訓練を受けている。そんな相手に生身の教師がうろついて何になるのか。彼女ならずともそう考えるのは無理もないことだった。

 

 効果を見込むなら巡回に際してISを持たせるか、最低でも二人一組にすべきだ――千冬の訴えは一応受理されたが、未だ学内では検討中の箱に入れられたままだ。却下でも採用でもない宙づりにされている理由は三つで、予算の不足、人員の不足、ISの不足だという。

 もちろん、建前である。今月の小遣いがないからといって、家の戸に壊れた鍵をぶら下げておく人間はいない。例外があるとすれば、その壊れた鍵に鍵をかける以外の意味があるというときだ。つまり鍵をかける意志はあるという対外的なポーズか、精一杯好意的にみて、ちゃんと鍵を整えるまでの時間稼ぎというところ。

 

 小賢しいと思われるだろうが、学園が限られた予算で運営されているのも事実である。何もしないわけにいかないという上層部の判断も、納得はしないが織斑千冬にも理解はできた。学園を取り巻く状況はそれほどに変化しているのだ。

 

 相次ぐトラブルと襲撃――特にそのうち、特に文化祭と高速機動競技会を襲った者たちについては、オフィシャルには不明とされているものの、内々には襲撃者たちの組織名が伝わっている。

 

 彼らの名を想起し、織斑千冬は苦い表情を浮かべた。

 

 亡国機業。彼女にとってはただの非合法組織以上の意味を持つ、忘れようもない名前だ。その名が想起させる千冬自身の繋がりも含めて、彼女の人生に残った巨大な重石だった。彼女の脳裏をいくつかのイメージが突く。それは、今では遠い彼方にしかイメージできない、何人かの者たちの顔だった。大人の男女、そして子どもらだ。その中の一人の少女は、彼女自身によく似た姿の――。

 

 電子音が鳴って、彼女の思考を遮った。左腕の時計が日付が変わったことを告げている。柄にもなく過去への物思いに(ふけ)っていた、と気付いたのか、彼女は歩調を速める。巡視は三階ももう終わるところだ。寮監室に戻り、明日の授業の教材研究にレポート、これの他にも仕事は残っていた。教師としてはまだ若い織斑千冬の時間は、一日が何時間あっても足りない。

 生ぬるい風が彼女の頬をなでた。

 

「――ん?」

 

 違和を感じた。間違いではない。顔に感じるのは確かに空気の流れだった。ここまで窓や扉の施錠は全て見ている。残っているのはまだ見ていない三階より上にあるフロア、つまり()()だけだった。

 

 彼女が屋上への階段の前に立つと、扉に少し隙間が空いているのか、星明かりがフロアに漏れ出していた。夜に屋上に入り閉めずに降りたのか、もしくは。

 

「誰か……いるな」

 

 気配を殺した足取りで向こうを伺いつつ、彼女は屋上への廊下を進む。

 

    ◇    ◇    ◇

 

 戦闘終了直後と同時刻の、学生寮屋上。ハミルトンは短い髪を吹きさらしになびかせ、悄然としたまま佇んでいた。

 

「剥離剤……副作用なんて」

「言ったでしょ。ちゃんと用意してあるって。後はサラ・ウェルキンがそれを使えるかどうか。不確定要素はそれだけだったのさ」

 

 ハミルトンの眼前で少年は言う。手元の端末の中では、今、ウェルキンが自身のISを取り戻し、大事そうに握りしめているところだった。戦場から遠く離れたここでは、決着は着いた戦闘の顛末についてハミルトンに最低限の説明をしてくださる、というわけだ。

 

「剥離剤の原理と副作用について説明するには、その前提となる概論を理解する必要がある。ISの自己認識についてだ。それには、まずISの機能のうち自己修復能力について聞いて貰うのが手っ取り早い」

 

 少年のしゃべり方は訥々(とつとつ)としていて、さながら講義だった。ただし、聴衆はハミルトン一人である上に、彼女の様子も熱心な受講者とは言えなかった。目の前の少年からの言葉や雰囲気に押し流されるように、ハミルトンは顔を強張らせ、腰を引きつつある。先ほどまで不快感が浮べていた表情は、今はこの得体の知れない少年への怖れに変わっていた。

 

「ISに限ったことじゃないが、自己を修復する能力が適切に働くためには、自己のあるべき姿を何らかの方法で認識し、そして同時に、自己と自己でないものの区別をつけることが必要だ。

 もし前者がなければ、例えば破壊された組織があったとして、そこに何を修復したらいいのか分からない。皮膚の痕には皮膚を、血管の痕には血管ができてもらわなきゃ、再生と言うことすら不適切だ。

 そして後者がなければ、再生するにあたって負傷部位に異物が入り込んでいたときそれを拒絶できずに取り込んでしまう。極端な話でいうと、例えば僕の腕を切り落としたとして、そこに君の腕を切断してあてておけば、そのままくっついてしまうことになる」

 

 内容は学園の内容では扱わない領域に入っている。ハミルトンの様子をよそに少年は、身振りを交えながら目だけが活き活きとして喋り続けていた。

 

「有機生命体ならそれらは生体情報として保持する。自己修復能力がある以上、ISコアも似たものを持っていてるんだけれども、やり方の方までと同じというわけにはいかない。

 有機生命体は発生の過程で組織の全箇所にほぼ同一の生体情報を持つよう分化するため、それを自己認識の指標として使える。だが、ISにはそれに相当する物がない。

 というかそもそも、ISコアにとってコア部以外の機械部は、自己とは縁もゆかりもない所で発生した外付けの金属塊だ。よってISコアは、自前の体ではない金属の構造物――ISフレーム部のどこまでが自分の体で、そいつがどうなっているのが自分にとって“正常”であるのか、後天的にコア自身のリソースを使って記憶する必要がある。

 これをやっているのが、よく知られているところではISフレーム換装時の固着と呼ばれる工程だ。コアにフレームを馴染ませるなんて言われているが、要はコアにフレームのどこまでが自己であり、どの形が正常であるかを保持させている。その方法の詳細もすっごく面白いんだけど、話が逸れるから置いとこう。

 ここで重要なのは、ただ一つ。ISにとって、どこまでが自己で、あるべき自分の姿が何かを持っているのは、ISコアだということだね」

 

 彼は組んだ足を解き、手の中で《福音》をそっと触る。

 

「さて、ここまでは自己修復能力の話だったけど、もう一つ、ISコアがコア本体以外に働きかける現象がある。外部状況に応じて搭乗者の免疫や生態、すなわち内部状態の最適化を行う、恒常性維持機能(ホメオスタシス)だ。

 相手が有機体か無機物がという違いはあるが、これも“搭乗者”という外付けの物体について、作用する点では同じだし、その個体のあるべき姿を認識し、他の個体と区別しなければ不可能。

 具体的に言えば、まずはISに触れている“肉の塊”のどこまでが、搭乗者であるヒトの個体なのか、その搭乗者は他のヒトの個体と、どうやって区別を付けるのか。これは言うほど簡単じゃない。

 例えば個体としては別だが遺伝子的には同一の――一卵性双生児が同時にISと接触した場合は、ISは何を基準に区別するんだろう。あるいは逆に、人間としては一個体でも、遺伝子的に異なる生体が外科的には接続された人間が触れていたら、ISは彼女をちゃんと個体として判断できるんだろうか。

 そして次に、もし区別がついたとして、内部状態については、どう調整すればいいんだろうか。例えば肉の塊の中を通る無数のチューブ内の液体成分は、どうなっているのが適正なんだろう。肉体に内蔵されている、たくさんの袋の機能は? ほとんどのIS搭乗者の股には三つ()があるけれど、真ん中の穴の奥の袋と後ろの穴の奥の袋はどう違うのかな。ISコアはそれらをどう管理するべきなのかな?」

 

 言いながら、彼の視線がハミルトンの頭頂から下腹、つま先までを通過する。不躾な視線だが性的なニュアンスは全くない。ハミルトンは身をよじるようにして彼を避ける素振りを見せた。目の前の少年の視線は、人間を解体可能な肉の塊と見なしている者のそれだったのだ。

 

「――まあ、こっちもやり出すときりがないから止めるけど、要点だけ抜くと言いたいことは同じだ。タンパク質と水、脂肪、リン、その他もろもろの微少金属でできた有機的機械についても、ISコアは金属と同様に自己の延長線上の存在と見なしている。そしてコア部において個体区別のための情報を持ち、外部状態に応じてどう変化させるのが最適か、判断しているわけだ。それも人間の免疫なみの精度でね。あ、さすがに、一卵性の双子が来た場合、結構混乱するみたいだよ」

 

 幸い彼の視線はすぐに身体を外れ、ハミルトンの顔をとらえた。くりっとした形のいい瞳――少年であれ少女であれ美しいことに間違いない――が、彼女の顔をのぞき込む。不躾だが、顔を見るときの視線は人間を見るときの目つきに戻っている。身体を見下ろされるよりましだった。不快感をこらえてハミルトンは視線を合わせた。

 ここまではいいか、と少年は確認を取る。ハミルトンはうなずいた。「いいね。スマートな人は嫌いじゃない」と彼はいいうなずきを返して、

 

「さて、ここでようやく本題、剥離剤の仕組みについてだ。まあ、今いった概論を理解してもらえれば、剥離剤の説明は八割終わったも同然だけど。今まで話したISの自己認識、すなわちISコアと、コアの外付け部位の関係について理解したある人間は、こう考えた。

 ISコアは自分と自分ではないもの、あるいは自分と一体になることを許しているものを、コアでもって判別している。ならばもしコアによる自己認識のプロセス――すなわちフレームや搭乗者の肉体を認識する過程に対して、妨害や夾雑を混ぜたら、どうなるかな?」

 

 そこで言葉を切り、ハミルトンを見つめる。沈黙が二人の間を通る。しばらくして、ハミルトンは少年が彼女に答えを促しているのだと気づいた。ハミルトンは口を開いた。さんざん有機生命体の例を引き合いに出した理路から、当たりはつく。

 

「……本来なら自己ないし、それに近いものと見なすべきドライバーが、そうでないナニモノかであると認識される。そしてISコアは、それを異物として排除するか攻撃する。ちょうど自己免疫不全みたいに」

 

 ハミルトンは不承不承に答えた。自分の中にため込んだ理解を引きずり出されているような気分だ。およそ望む答えだったらしく、少年は満足げにうなずいた。

 

「正解。ISコアに対し、正常なドライバーがあたかも異物であるかのようにコアに認識させる。剥離剤の機能はそこにある。

 後は、コアが勝手に仕事をしてくれるのさ。自分からフィットしたドライバーを、何かよくわかんない異形だと見なして物理的に排除する。さらに、ハイパーセンサーを含む意識・無意識を含めた量子レベルの情報連結をIS側から強引に切断するんだ。個人差はあるけど、特に適性が高い人ほどリンク切断の際に乗り物に酔いを強烈にしたような、ひどい症状が出る」

 

 手元の端末の中では、まさにそれの効果が発揮されているところだった。簡単な治療を受けたウェルキンだが、まだ自由が利かない様子だ。楯無を助けながら、ふらふらと立ち上がるところだった。

 

「……遠隔コールが備わる理屈も、厳密にいえば剥離剤自体よりISの適応反応が大きく作用してる。

 ISの適応能力はすごいってのは既知だけど、剥離剤に対しても発揮されちゃった。一度剥離剤を使うと、まず使用した撹乱パターンに対してはすぐに免疫がつき、同じ剥離剤は二度と使えなくなる。

 さらに、発揮された抵抗力はもう一つあった。ドライバーから剥離するという“症状”に対抗する資質として、探知できる距離にドライバーの生体があったら、コールに応じて実体化可能となる。剥離状態そのものを解消しようとするわけ。これが遠隔コール、ってやつだよ」

 

 少年はここまで話してようやく口を閉じる。一仕事終えた表情から、話が終わったらしいことをハミルトンは理解する。

 手元の端末の中では、先ほどの戦闘をスローで再生している。その中では、彼の言うとおりの効果が発現されていた。剥離剤、その副作用の遠隔コール、さらに付け加えるならその前の「福音事件」の再現まで、全て彼の言うとおりだった。

 

「……同じ攪乱パターンが効かなくなるとか、予防的な力を持つことまでは予測してたけど、対症的な抵抗性まで持つのは正直なところ予想してなかった。この効果には驚いたね」

 

 全ては、彼の言うとおりだった。戦闘も、その後のことも、まるで魔法(アブラカダブラ)でも使ったかのように、言うがままに状況が展開し決着を見ている。

 

「そんな、ISって一体どういう……。いやそれ以上に、貴男――貴方たち、何者なの」

 

 ハミルトンは訊ねた。彼女の態度には隠しようもなく、ISと、そして少年や彼の仲間に対しての脅威がある。ISについて誰もが知らないことを語り、行動する者たち。合衆国の市民としてだけではなく、もっと単純なもの――未知の存在への恐れが彼女をして質問せしめていた。

 

 情報官(オフィサー)としての立場から外れた曖昧な質問を受け、少年は一瞬虚を突かれた顔つきになる。次いで、口元にわずかな苦笑を浮かべた。

 

「エージェント、PMC、兵隊、テロリスト、犯罪者……僕らの公的な呼び方なら、いくらでもある。それも君たちがつけたやつが」

 

 彼は答える。それはもちろんハミルトンの求める回答ではない。表情はまだ、恐れと疑問をないまぜにしている。

 

「ただもし、僕や僕の仲間が何者か――どうしてこんなことを知っていて、こんな顔やあんな姿をしてるのかという意味なら、それは……」

 

 次に彼は何を言おうとしたのだろう。答えられないという回答か、あるいは別の言葉で実のある説明だったのか。いずれにせよ、ハミルトンがそれを聞き出す機会は失われた。

 ハミルトン自身が手で彼の言葉を制したのだ。

 

「待って」

 

 ハミルトンは手元の端末に目を落とす。顔を覆っていた少女らしい恐怖が、一瞬でエージェントの表情に塗り替えられていく。

 

「誰かここに向かってる……屋上へのルート、最上階の廊下」

 

 彼らの潜む場所へ近づいている者がいる。ハミルトンが気づいたのは、例によって学園各所に仕掛けられた監視装置のためだった。戦闘地域や生徒会室の他、普通の廊下にも仕掛けていたのだ。届いた映像から直にそれが誰であるかも知れた。

 

 髪の一部を肩まで降ろした、日本人にしては長身の女性教師だった。おそらくこの界隈では一番有名な女であり、その名を取り違えるものなどいない。ハミルトンは口に手を当ててつぶやく。

 

「嘘……」

 

 絶句する。少年もすぐにその正体を悟り、顔を強張らせた。この夜初めて彼が見せた動揺の表情だ。ハミルトンが呆然とした様子で続ける。

 

「なんで、この時間に」

「理由なんてどうでもいい。これくらいは予想できるだろ。逃げ道は?」

 

 絶句するハミルトンに少年は言った。少年の顔にも声にも焦りが見える。予想できる、などといいながら、この展開は彼にも予想外だったようだ。

 

「この時間に巡視なんて今までなかったもの」

 

 ハミルトンが言い返す。教員が突然始めた慣習までは、彼女にとっても完全に探知の外だった。部長(ダッド)に向けて偉そうなことを言いながら、結局彼女にも想定外の事態はあった、というわけだ。笑えない巡り合わせである。

 

「そうかい――まずいな……空にでも逃げなきゃ、道もない」

 

 悪態まで口から吐いて、少年は髪を掻きむしる。リングが揺れて、外れそうになっている。

 ハミルトンの端末の中では、女性教諭――織斑千冬がゆっくりと屋上への階段を上りつつあるところだった。

 

    ◇    ◇    ◇

 

 少年らが上陸した海港エリア付近でマドカは待機していた。

 

 近くにはボーデヴィッヒ、グラウンドから今引き上げてきた凰、脳震盪を起こしていたデュノアも意識を取り戻しており、今は止血して寝かされている。

 

「ま、うまくいったわ。あのねーちゃんが《メイルシュトローム》級を取り戻すとこまでは確認した。実際のところ大したもんだよ、あのイギリス娘」

「……そうか」

 

 マドカの向かいで凰がしきりに感心している。一方、ボーデヴィッヒは簡単に答えるだけだ。単純に興味がないらしい。ただ、それも彼が平常であるということは意味していなかった。普段のボーデヴィッヒならば、こういう状況では凰の喋りを咎めている。作戦の主たる目的を果たし、彼も興奮しているのかも知れなかった。

 

 無理もないと思う。ISを駆る国家代表を、手玉に取って退けた。小細工を弄しサラ・ウェルキンを()めた上のことだが、完勝といっていい。正直に言えばマドカも多少の昂揚を感じている。

 

 ボーデヴィッヒたちの力を借りて、少年らと協力して。マドカ一人ではおそらく何もできなかった。それどころか、彼女だけではいたずらに命を無駄にしただけだ。逆に、少年らだけでも不可能だった。

 

 今回の成功そのものが、世にはどうやってもマドカ一人ではできないことがあり、打ち倒せない敵や、状況があることを、ある意味で示している。少し前なら、マドカはその事実に屈辱しか感じなかっただろう。自分一人では何もできないことを憎み、己を許さなかったはずだ。

 

 今のマドカには無力さも悔しさもなかった。それどころか、達成感のようなものさえ抱いている。

 

 ――よく考えて行動なさい、マドカ。貴女のためにも、ついでに彼らのためにもね。

 

 スコールに言われた言葉が蘇る。あのとき突っぱねた言葉を、今改めて飲み込んでいた。マドカ自身のため、彼らのため。スコールが何を考えさせたかったのか、マドカは初めてまともに考えていた。

 

 マドカは彼らを仲間と思っているということなのだろうか。自らの過去を乗り越えること以外、生きること自体に意味を見ていなかったマドカに。

 

 ――貴女にとって過去ってどんなものかしら。

 

 マドカにとって過去は、千冬との別離、千冬から離れた期間、それだけだった。さらに言うなら、マドカの現在もその延長線上にある。そして未来もだ。全てはマドカの過去と千冬が支配していた。

 

 彼女は強くありたいと思っていた。正確に言えば、姉さんに見捨てられた無力なガキを、過去の織斑マドカを憎んでいた。頑なに自分の力に拘ったのは、行動の起点が全てそこにあったからだ。その最中にあっては、マドカ自身の意思さえ添え物であり、些事であり、余計物だった。

 マドカの現在はマドカの過去の従者だ。過去に――織斑千冬の影に首根っこを掴まれて、どこまでもそれに引きずられていく。

 

 それでいいのか。今、知らずにそんな問いが胸を突いてくる。

 自分の運命を誰かに世話されるなどと思い、少年らを使ってやると啖呵を切って、マドカは彼らと共にこと成す選択肢を選んだ。全ては、誰かに勝手に自らの運命を左右されるのを厭がってのことだ。

 

 過去が彼女の生き方を覆い尽くしている状況は、さんざん嫌っていた、他人に自分の運命を勝手に決められるのと何が違う。

 

 ――今のエムがどうなってもいいなんて考えられると、困っちゃう、ということ。

 

 スコールの言葉が、マドカの思考の上をいくつも去来する。スコールが発した問いは、どれもいつも、いつまでも脳裏に残る。その理由は判っている。スコールが言葉にして見せかけた問いは、実のところマドカ自身がいつも抱えていたものだった。

 

 一瞬のち、彼女は小さく(かぶり)を振り、思考を逸らした。 今答えを出す必要はない。他に考えることがあるのだ。

 

 以後の予定は決まっている。オルコット、篠ノ之の二名が合流し次第、水中から離脱し、手配した船までたどり着く。所要時間にして半時間強、最後のきつい行程だ。一時意識を失っていたデュノアと、まだ姿を見せないオルコット、篠ノ之という不安材料もある。

 

 離脱をしくじれば全てが台無しになるのはいうまでもなかった。今、スコールの言葉などで考え込むのはよくない。少なくともこの敵地を脱するまでは棚上げにするべきだった。

 マドカは思惟を断ち切って立ち上がろうとする。

 

 そこで、彼女を引き止めるようなタイミングで、通信が入った。篠ノ之からだ。少年らが反応する様子を見せないことから、彼女にだけ送られたことが察される。

 マドカはメッセージを受け、読んだ。短い文章だった。内容を理解した彼女は、一瞬身を硬直させて、何度か繰り返しそれを読んだ。

 

「オルコット!」

 

 三度それに目を走らせているとき、周囲で声がした。マドカは顔をあげる。狙撃地点から戻ったオルコットが加わりつつあるところだった。彼の手には携行させていた《スターブレイカー》がなく、顔と左の肩、腕に傷を受けている。簡単に止血はしているが、楽な退路ではなかったようだ。

 

「すいません。撤退時に布仏虚に発見されました」

 

 戦闘中姿を見せなかった楯無の従者は、彼の元へ向けられていたらしい。

 少年らの表情が固くなる。楯無との交戦で用意していた装備をほとんど使い切っていた。余力はもうない。ボーデヴィッヒたちが一番それを理解していた。

 

「レーザーライフルを手持ちの火器で破棄しました。その混乱に乗じて撒いて来ましたが、追っ手は来るかもしれません。私のミスです」

「気ぃ落とすな。ISを狙った以上、ハイパーセンサーでポイントを探知されるのはわかってたんだ。顔あげろ」

 

 オルコットは気落ちした様子を隠せていなかった。血が彼の顎を反って地面に落ちている。凰は軽く気遣いを向けてから彼に上を向かせ、怪我に携行していた飲料水をぶっかけた。傷口を洗浄される痛みに彼が小さな悲鳴をあげる。

 

「更識楯無の反応から、向こうにも余力がないことは見えたが――学園正規の要員が動く可能性がある。撤退を急ぐぞ。収容予定だった兵装は全て海中に投棄する」

 

 ボーデヴィッヒが言う。現状の事態はよくないが、彼はまだ想定内だと考えているようだ。戦闘終結からまだ十分と経っておらず、まだ脱出する時間くらいはあるはずだ。すぐに行動すれば問題ない。

 

 もしも、今このときここに全員合流できていたならば、だが。

 

「……おい。篠ノ之はどうすんだよ」

 

 地面に転がされているデュノアが言う。オルコットは今彼が覚醒していることに気づいたようだ。

 

「D、無事でしたか」

「お前が戻ったときから起きてた。数分気絶してただけなのに、大袈裟なんだ」

 

 不機嫌そうな語調で地面に転がされた者の口が答えた。

 

「逃げ出すのはいいが、あいつはどうする。合流を待つのか。予定ならもうここに来ていいはずだ。なのに、まだ姿も見せない。置いてくのか、待つのか。はっきりさせようぜ」

 

 残る問題はそれだ。一人、合衆国の担当官のところへ向かった篠ノ之だけが帰っていない。

 ボーデヴィッヒは答えを返さない。口元に手を当て考え込んでいた。彼ならぎりぎりまで篠ノ之を待とうとする。今考えているのはいつまで止まる時間があるかということだ。彼を待ちつつ、脱出できる時間がある刻限はいつまでか。

 

 マドカは彼の横顔に向けて宣告した。

 

「――やつが合流できる見込みはない」

 

 少年らの視線がマドカの方を向く。顔中に疑問を浮かべた彼らに意味を問われる前に、マドカは繰り返し言葉を継いだ。

 

「ついさっき、ちょうど数十秒前にやつから通信があった。転送する」

 

 各員の微細薄膜に、マドカが受け取った通信を転送する。各員の眼前に、マドカが見ているのと同じ文言が表示されたはずだ。

 全員の表情に、さっきよりもずっと大きな動揺が走る。声を上げるものさえいない。マドカの受け取ったメッセージはこうだった。

 

 ――“彼女”と遭遇した。

 

 少年らがなんの前置きもなく“彼女”と人を呼ぶとき、それは常にただ一人の人物を意味していた。マドカにとって常に同じ位置をしめ、世界でただ一つ意味をもつ人物であると同時に、亡国機業にとっても唯一無二の価値を持つ女、ただ一人のことだ。

 

「やつは、()()()()に追われている。通信はこれだけだが、状況は判るだろう。あいつが自力でここまで来るのは不可能だ」

 

 その人物の名をマドカが口にした。一番大きなアクシデント要素がオンになった。

 

 少年らの表情は変わらない。だが、あたりの空気が一際冷たく、色を変えたようだった。

 

    ◇    ◇    ◇

 

 階段をゆっくりと上がり、織斑千冬は扉の前に立つ。ハンドライトをいったん消して、慎重にノブに手をかける。音も光も通らないような分厚く重い鉄扉である。それも関係なく、向こうに何らかの気配を感じ取ったのか、彼女は軽くうなずくと、扉を一息で開けた。

 

 蝶つがいが(きし)みをあげ、風が強く吹き込む。空気の流れは肩下までの黒髪を、後ろになびかせた。

 

 織斑千冬の強い警戒に見合わず、空に面した階上は音もない無人の空間だった。

 

 千冬は手元のハンドライトのスイッチを点けなおし、周囲を警戒しながらフロアに歩み入る。

 

「ただの閉め忘れか……?」

 

 扉を開ける前から人の気配を感じていたらしく、途中で少し首を傾げていた。

 フロアの距離を半ばまで進んだところで、彼女が何かに気づいた。足元にわずかな陰影の違いがあることに気づいて視線を動かし、上方を見上げる。

 

 そこに姿があった。空中に浮かぶ人型の影、頭部と各部装甲の一部、背面ユニット、スラスターとウィングが非対称に一基という格好のパワードスーツ――彼女にも見覚えのあるISが、不安定にゆるゆるとスピンしながら空中に浮かんでいる。

 

 不完全な展開だ。部分展開とさえ言えなかった。なんらかの理由で装備も装甲も半端な状態になっている。千冬が声をあげその機体の名を呼んだ。

 

「《銀の》……《福音》!?」

 

 彼女が叫ぶと同時に、顔面を装甲に覆われたドライバーが叫んだ。

 

「飛べ!」

 

 機体への命令である。それも、学園の教育課程では咎められる発声を伴う機動だ。実際のところ、入力をイメージでもってするISでは、発声や暗示が起動でもマニューバでもかなりの助けになる。

 

 逆に、馴染まないイメージの具象化、およびその操作がどれほど難しいかは、ISに乗ったものでなければ想像するに余る。具体的には入学したばかりの頃のセシリア・オルコットが近接ナイフのコールに、織斑一夏が飛行一つに手間取っていたシーンを思い出すとわかりやすい。

 当時の彼らの未熟さをさっ引いても、専用ドライバー用に調整された機体でさえ不自由を覚えるくらいなのだ。初心者や不慣れな搭乗者に無調整の機体を与えたとしたら、運がよければ顕現できるかどうか、というところだった。搭乗者の肉体・身体特徴、イメージ入力パターンを覚え込ませるスタートアップ・フィッティングやそれを補う機械的調整をすれば別だろうが、あいにく時間がない。

 篠ノ之が手元にISがあってもすぐにそれを使おうとしなかったのは、それを知っていたからだ。

 

 ISは三階建ての屋上から手すりを越え飛び出す。よく見ると、そのISの肩には、すがりついている者の姿があった。言うまでもなく、篠ノ之彗だった。空中投影のディスプレイは展開したまま、飛びながら調整を行っているらしい。この有様で空を飛んでいるのは、彼の功績なのかもしれない。

 

 ただし努力が実を結んだのもそこまでで、後の事象は予期できる範囲に収まった。《福音》は、装甲が不完全なだけでなく翼とスラスターもほとんど展開できてないのだ。かろうじて背部ユニットとPICは動作させているようだが、飛ぶほうがおかしい状態で空中を転回している。

 

「……進まない!?」

 

 ドライバーが悲鳴を上げた。低重力下のようになだらかな放物線を描いて落ちている。篠ノ之が叫んだ。

 

「当たり前だ! 近場で降着して!」

 

 六機のISを相手取った《福音》も、今は降下装置の代替品になるだけだ。自由落下より少しはまし、という速度で片足はかろうじて地面に着いたが、そのまま勢いを余らせて転倒、そのまま回転して、街路樹にぶつかって止まる。

 両手で捕まっていただけの篠ノ之はその過程で振り落とされ、地面に転がる。痛みにうめきながら起き上がった彼は、立ち上がると《福音》に這い寄った。

 

「織斑……先生は……」

 

 《福音》の操縦者が息も絶え絶えに尋ねる。声とシルエットが示しているとおり、搭乗しているのはハミルトンだ。篠ノ之は織斑千冬が迫る中最小限の調整だけをして、ハミルトンに《福音》を装着させたのだった。

 

「必要なら追ってくるよ、彼女は」

 

 起きあがれずにいるハミルトンを横寝にさせ、篠ノ之が整備用コンソールを起動する。

 ぼたぼた、と音を立て、ハミルトンのそばで何かのしずくが滴る。雨の先触れかと思ったらしく、篠ノ之は空模様を見る。上空の雲は厚く天気は悪いが降雨の気配はない。落ちているのは別の液体だった。

 

「……あんたの血」

 

 ハミルトンが指摘する。垂れているのは、篠ノ之の頭頂あたりの傷から出た血液だった。篠ノ之の髪の生え際から顔の輪郭沿いにいくつも血が筋を作っている。篠ノ之は目に入る液体を白い袖で拭い、コンソールから機体のファームウェアをセーフモードで起動した

 

「関係ない。それよりISを返してくれ。いろいろあったけど、今夜はこれでお別れだ」

「……オーケイ」

 

 今のハミルトンは自力で待機形態にすることもできない。篠ノ之は整備用の操作で待機形態に戻すつもりだ。

 

 そのとき篠ノ之の後背、寮の方から盛大な音が響いた。何の音かすぐには判断がつかない。ちょうど建屋の屋根やら壁を破壊し踏み抜いたらこんな音になるだろう、というような――ハミルトンは怪訝な顔をして首をもたげ、小さく悲鳴を上げた。

 

 わずかな光源が照らす寮の南側が正面にある。今しがた彼女らが飛び降りてきた寮の壁面では、先刻まで無事だった(とい)や外壁の一部、屋根までもが盛大に壊れている。そしてその元に、地上に人影が一つ降りたっていた。膝を浅く曲げた女性――織斑千冬。彼女は建物の外装をつたい、屋上から飛び降りたのだ。

 

マジかよ(デュード)っ!」

 

 ハミルトンは小声で叫んだ。その日何度目かの驚愕だった。いったいどんな身体の作りをしていればそれが可能だというのか。織斑千冬は生身でISとチャンバラできる――という誇張とも賞賛ともつかない噂を裏付けるような光景だった。

 

 織斑千冬が顔を上げ、ハミルトンらを捉える。そのタイミングで篠ノ之は入力を終え、間髪入れずに振り返り何かを投げる。円筒形のシルエットを持つ手榴弾だった。

 

「――!?」

 

 千冬がひるんだような表情を見せる。直後、爆発を伴わない閃光が当たりを満たした。閃光手榴弾だ。視界を覆う輝きの中、弱い光を明滅させ《福音》が待機形態に戻った。

 

 篠ノ之とハミルトンは起き上がり、同時に別の方向へと散った。辺りが夜の闇と静けさを取り戻す頃には、二人の姿はもうない。

 ISの生々しい着陸痕が残るその中で、千冬が一人たたずんでいる。彼女は目元を押さえて膝を突いていた。閃光弾の一発は彼女にも効いたらしい。

 

 常人ならしばらく身動きできず、時間稼ぎになっただろう。相手がまともであったなら――だが、織斑千冬は時間にして数秒で立ち上がった。稼げたのは追われる者からすればそれでも気休めにしかならない、わずかな時間だった。

 

「箒……ではない。あの姿は」

 

 千冬はつぶやく。さすがにすぐに視力は戻らないらしく目許を押さえたままである。千冬の視界に残るのはまだ残像だけだった。

 

 そこには、一瞬の映像がまだ焼き付いていた。彼女の教え子であり親友篠ノ之束の妹でもある篠ノ之箒と気持ち悪いくらいに似ていて、だがどこかが決定的に違っている“何者”かの姿だ。

 

「まさか……!」

 

 織斑千冬は、はっきりした口調で言った。その何者かに彼女は心当たりがあるらしい。彼女は強く歯噛みをし、篠ノ之の後を追い始める。

 彼女の足取りも平衡感覚は確固としていた。タフや頑丈という言葉だけでは考えられない、人間離れした身体能力である。しかも、まるで何か目標がどこにいるかわかっているとでも言うように、真っ直ぐ篠ノ之彗が行った方向を追い始めていた。視覚が半ば麻痺した状態であるにも拘わらずだ。

 

 彼女が去ってしばらく経った後、動いた者がいた。寮のそばの藪から、逃げたと思われたハミルトンがひょっこり顔を出す。彼女は織斑千冬が去ったことを見て取ると、安堵の息をついてその場にへたり込む。

 

「行ったか……先生、まだ夜目も効かないだろうに、どうやって追ってるんだか」

 

 ハミルトンは荒い息をついていた。彼女のほうに目立つ怪我はない。ISによる搭乗者保護機能の恩恵は不完全な展開でも及んでいた。

 ただし、全く無事とは言えないようで、どこか動かそうとするたび身体が痛むのか、身じろぎしては短く悲鳴をあげる。

 

「しかもなんですぐ動けんのよ。会長といい、ウェルキン先輩といい、織斑君といい……いい加減にしろよ、IS学園」

 

 かすれ声で泣き言を言い、ふらつきながら立ち上がる。織斑千冬は行ったが騒ぎを聞きつけて警備部が来るかもしれない。この状況では、身体に鞭でもなんでも打てるものは打って逃げるべきだから、彼女の行動は正しかった。見ている者がいればじれったくなる緩慢さでハミルトンは立ち上がって歩もうとする。

 

 辺りの樹木にすがりながら歩く彼女が、ふと思い立ったようにつぶやく。

 

「彼が捕まるのと逃げ切るのと、死んでくれるのと。どれが一番いいのかな」

 

 少年の印象が強く残ったようだ。短い時間でもおよそ発言を聞いただけで、およそ人を人とも思わない倫理的な(たが)がイカれた人物であることは明かだった。

 

 ただの狂人であったならそこまで不安がるにはあたらない。不快なだけだ。しかし残念なことに、彼は理性的で――あの口ぶりからすれば、剥離剤や、亡国機業のIS研究にかなりの部分食い込んでいる人物でもある。

 

 彼女自身の理性と感情は、彼のような人間が亡国機業のようなコントロール不能な組織にいるのは危険すぎると叫んでいた。そして、やろうと思えばその思いのまま彼を撃つこともできたはずだ。

 

 ただそうしなかったのもまた、彼女の意思だった。彼女が合衆国に逆らうことはない。というかこの期に及んで人倫だとか正しさに基づいて行動するような権利は彼女にはない。そんなことをするぐらいなら、(はな)から任官を拒否している。ハミルトンもまた、とうの昔に明るいだけの生き方からは背を向けているのだった。そしてどこまで行っても、自分自身の過去の選択は彼女を追ってくる。

 もちろん、それに縛られた結果が常に正しいとは限らない。ハミルトンのしたことは、二人目の篠ノ之束が目の前を去って行くのを見逃しただけかもしれないのだ。彼女がスルーしたのが、ろくでもない未来に蓋をする貴重なチャンスだったとしたら。

 

神の加護がありますように(ゴッドスピード)

 

 つぶやいた言葉に答えるものはもちろんいない。誰に対しての幸福を望んだのかは、口にしたハミルトン自身にも判然としなかった。

 

    ◇    ◇    ◇

 

「……篠ノ之は織斑千冬に追われている」

 

 少年らを前に、マドカは繰り返した。少年らの反応は様々だった。悪態をつくデュノア、項垂(うなだ)れるオルコット、考え込む凰。ただし、どれも考えていることは同じだろう。彼が死地に残されたことを悟ったのだ

 

「おのお喋り……余裕ぶっこいてCIAと乳繰りあってたな」

 

 凰が声を上げる。節介焼きの彼は、知識以外ではどうも頭の緩い篠ノ之の面倒をよく見ていた。兄が不出来の弟にするように悪態をつき、

 

「俺が行く。まだ間に合うかもしれない。弾も百発ほど残ってる。小銃を貸してくれ」

 

 ボーデヴィッヒはすぐには答えなかった。少年たちの中での最終的な決断は彼が下す。全員の視線が、彼の相貌に集まった。

 

 彼は数秒、目を閉じて意識を思考に沈め、やがて彼が口を開いた。

 

「……許可できない」

「あー、や、なにも死にに行くつもりはないんだ、な、ちょっと行って、ダメそうなら引き返すって」

 

 凰は未練がましく、すがるように言葉を重ねる。ボーデヴィッヒは黙って首を横に振った。

 デュノアが彼に向けて起き上がり、口を開く。

 

「男同士で心中したいなら止めねーがな。本気で間に合うと思ってんならさっさと行ってこいよ。お前がそんなバカだったなら、早死にしてくれた方がよっぽどこっちの寿命にいいぜ」

 

 険悪な口調で言う。そういう彼は先刻の戦闘で、真っ先に激高して楯無に飛びかかったのだが、言っていること自体は正しい。

 

 織斑千冬を相手取ることを考えれば、篠ノ之を拾って逃れるだけでも実現できるか疑わしい。現状はその上に、学園の警備部が来てもおかしくないところだ。判断の段階は、すでに行くか行かないかというところを超えていた。篠ノ之は地雷原に取り残されたのと同じだ。

 

 オルコットは何も言わない。表情を見れば凰と同じことを言いたいのは見て取れる。彼を責める者は誰もいないだろうが、篠ノ之が死地に陥った契機には彼が発見されたことが関わっている。責任が彼に彼に沈黙を強いているようだった。

 

「このまま撤退する。待つ必要もなくなった。武器はすべて廃棄しろ。残している弾も含めてだ」

 

 やりとりをよそに、ボーデヴィッヒは繰り返した。

 結論は出た。こうなれば、凰もデュノアもオルコットも従う義務がある。誰もが黙り込んでいた。表だって反抗する者はいないが、すぐに手を動かしているものもいない。凰を厳しく(なじ)ったデュノアさえ、不愉快そうに唾を吐いて、歯を鳴らしていた。見捨てたい者は誰もいないのだ。

 

 彼らの中にあって、マドカは一人考えていた。彼女は何をすべきか、彼女が何をできるのか、彼女は何がしたいのか。

 

 “姉さん”が、マドカの脚でも数十分とかからないところにいる。側に行きたいかと問われれば、当然行きたいと答える。ただ、それで死んでも満足かというと、そのためだけに死ぬのはごめんだ、と今のマドカは思う。

 

 反対に、ただ生き残りたいだけなら、篠ノ之は見捨て“姉さん”からも逃げ出すべきだ。だが彼女がこんなところに来たのは、何のためだったか。自分のために他人に犠牲面をされること、何かを失うに任せる無力感を嫌ったためであり――そもそも彼女が今まで生きてきたのは“姉さん”に背を向けて逃げ出すためではない。

 

 いくつもの考え、意思、欲求、理性がマドカの中にあった。それぞれはバラバラの気泡のような思いが、胸の奥で渦を巻いているようだ。

 そして渦になったいくつもの衝動が、身体の奥の方で収束するような感覚を覚える。それまで全てのことを千冬との関係でとらえ、自分自身の迷いや葛藤を知らなかった彼女には、それは初めての経験だった。

 

 ――“姉さん”からは逃げない、立ち向かう。そして何も失わず生き残る。

 

 戸惑うような感覚ははない。全て、彼女自身の意思なのだ。

 

 マドカは口を開いた。

 

「私が戻ろう」

 

 全員の視線が、弾かれたようにマドカに集まる。驚きに目を見開いている顔が多い。何を聞いたのか判らない、という顔をしている何人かのために、マドカは繰り返した。

 

「私が戻る。“姉さん”に対峙し――そして篠ノ之をつれて脱出する」

「バカなことを(おっしゃ)らないでください」

 

 オルコットが言った。弱々しいがはっきりした声での制止だ。

 

「シャルルが言ったとおり、助けに向かって戻れる保証はありません。それは行くのが誰であっても同じです。第一、何があっても貴女の命を賭けるということ自体が選択肢としてありえません」

「お前たちには不可能だが、私にはできる。そして、私の命を賭けたくないというのは、お前たちの都合だ」

 

 確信を持って言い切ったマドカに、ボーデヴィッヒが答える。

 

「死にに行くつもりではないようだな……どういうつもりだ」

「死ぬ気が全くないのはその通りだ。もちろん、ただ“あの人”に会いたいがため危険を冒すつもりもない」

 

 首を横に振った。

 

「少し、自分の意思で行動してみたくなった。そして、それを果たせるだけの状況も、今の私にはある。それだけの話だ」

 

 ボーデヴィッヒは少し考え、マドカの考えに思い当たるものがあったらしい。少年らには無理でも彼女にはできる、というところで感づいたようだ。

 

「ISを使う気か。篠ノ之が所持している《YF-51 銀の福音》。合流した後、あのISを使って脱出する?」

 

 マドカはまた肯定する。別の意味で慌てる気配が少年らに走った。凰が縋るようにマドカに声をかける。

 

「……おいおい、それこそ無謀だ。他人専用に調整済みな上、数ヶ月ロックされて塩漬けになってたISだ。フィッティングなしじゃ飛ぶもんか。宙に一度でも浮かべばラッキーってとこだぞ」

「なら、フィッティングさせればいい」

「簡単に言うな。あんなもん、篠ノ之や俺が補助して、大急ぎでやっても二十分はかかる。その間に叩きのめされて終わり――おい、聞いてるのか!?」

 

 マドカは食い下がる凰に構わず、通信を開いた。彼らに説明している時間が惜しい。宛先を手早く選んで、ショートメッセージを送付した。

 

 ――S。現在地を知らせろ。

 

 待つまでもなく、すぐに返信があった。追われる身にもまだ少しは余裕があるということだろう。

 

 ――寮の近くから東側へ移動中。

 ――了解。今から(わたし)が救助に向かう。指示を出すから従え。

 

 今度はしばらく間があった。一秒でも惜しい時に、何を考えることがあるのか、と少し苛立ったあたりで、やっとメッセージが投げ返される。

 

 ――拒否(ネガティブ)。危険すぎる。

 

 どうにも状況を読めていない(通信の向こう側にいるのでは無理もないが)返答に、マドカは口元を苛立たせた。五人の中で一番幼く見える篠ノ之にまで、マドカは保護者面をされているのか。ため息をつきたくなるのをこらえてマドカは続ける。

 

 ――拒否は認めない。

 ――いや、だからダメでしょ、Mちゃんが死んだら台無しじゃん。

 

 不毛な押し問答が始まりそうだ。そういえば、この少年が一番いつもマドカの言うことを聞こうとしないのを忘れていた。説得するなら、彼を最初にすべきだった。

 とはいえ今さら考えても埒があかない。苛立った勢いで、ナノスキンのイメージインタフェースから通信を送る。

 

 ――命をかけるつもりはない。

 ――いや、でもね。やっぱダメだって。

 

 頑なな応答だけが返ってくる。このままでは本当に時間の無駄だ。徐々にマドカの機嫌が悪くなりはじめた。この場のことだけでなく、篠ノ之の軽い語調で普段のことや、ついでに彼がマドカに今まで何度も何度もなんどもしてきたことを思い出し、眉が危険な角度に上がり始める。

 マドカは息を一つ深く吸い込んで、送信した。

 

「うるさい。この期に及んで私を信じないのか――お前が頑ななままなら、この話は破綻だ。生きてもう一度私の顔が見たいなら、指示に従え!」

 

 また間が空いてから、答えが返ってくる。今度は短いセンテンスだった。

 

 ――りょ、了解。

 

 ようやく返ってきた従順な台詞に荒々しく息をつき、マドカは指示を出し始める。

 

「よし。今からは逃げるな。一度“あの人”に捕まれ。そして《福音》を調整するんだ」

 ――わからない、君は何を?

 

 困惑したようなメッセージが返ってくる。

 

「私が使えるよう搭乗者初期設定をしろ。その状況ならば、()()()()()()

 

 威圧するようなメッセージでも、マドカは彼なら判ると確信している。

 

 ――ああ、なーる。了解(ウィルコ)だよ。

 

 案の定すぐ返事が返ってくる。打てば響く応答に、マドカは口元を少し歪めた。

 

 ――三十分以内に向かう。間に合うか。

 ――必要機能に限定すれば、二十分かからない。

 ――誤差も見込んで調整しておけ。以上。

 

 マドカは通信を打ち切った。荒々しい息をつく。ふと顔を上げると、そこで少年らがまだこちらを見て、唖然としている様が見られた。

 

「なんだ、どうした」

 

 怪訝な顔をして訊ねる。皆、言おうにも言葉が見つからない、というような微妙な表情をしている。デュノアだけが苦笑しながらマドカの視線を迎え、こう言った。

 

「最後の方、声出てたぜ」

「……ああ?」

 

 険悪な口調と目つきになって確認し、直後彼がうそを言っていないと気づいた。ナノスキンと連動したウェアラブルコンピュータには、ISのイメージインターフェースが応用されている。声を出せば強いメッセージになるわけだが――その様子を他の連中も見ていたらしい。皆困惑したような顔つきをしているのだ。デュノアがおかしそうに笑いをもらしながら、

 

「『私を信じないのか!』ってお前の口が言うのかよってセリフだな。ただ、ああ言われたら篠ノ之じゃあ言うこと聞くしかないし。ズルいね。そーいうのは嫌いじゃねーけどさ」

「……苛立って、とっさに出ただけだ」

 

 マドカはむすっとした顔で応じる。つまり天然か、とか彼が言っているのが聞こえた。意味がよくわからないが、時間がないので追及はしない。

 

 咳払いが聞こえる。目の前のボーデヴィッヒからだ。さっきまでうるさかった凰は突っかかろうとした姿勢のまま、彼に制止されていた。

 

「貴様が想定していることは、判った」

 

 ボーデヴィッヒが言う。漏れ聞いた説明で理解したのだ。二人とも――いや、周りの全員が得心した表情に変わっている。

 

「危険はあるが、無謀とまでは言えない。それに俺たちがいても邪魔になるだけだな。いいだろう。やってみろ」

「おいおい……」

 

 凰が言った。彼だけは振り上げた拳の降ろしどころを見失った格好で、毒気を抜かれた顔をしている。

 

「我々は保護者ではない。この女がやりたいというなら、それを認める――この前のように全く何も考えていないならともかく、生きて帰る算段を付けているなら、止めるには当たらん」

「……うん。まあそうだけど。ていうか、お前意外と根に持ってたのな」

 

 凰が言った。失態を蒸し返してとがめられ、マドカも少し顔をしかめる。ボーデヴィッヒはマドカの顔を見て続けた。

 

「つい先日のことだ。忘れられるわけもない。……あの時は、生きた心地がしなかった」

「今回は違う。そうならない」

「……そうあれかしと祈っていますよ。マドカ」

 

 オルコットは言いながら、使ってください、と《ゼフィルス》のバイザー型ハイパーセンサーを渡した。マドカはうなずいて受け取り、腿のブローニングを抜く。薬室に弾を送ってからマガジンを外すと、弾は二発しか残っていなかった。それを見て、デュノアが自分のマガジンを放ってよこし、

 

「しかし、“あの人”がすぐに篠ノ之を始末するってことはねーのか? 生かしとく理由もない気がするぜ」

 

 いかにも彼らしい問いで、もっともな疑義でもある。マドカたちはテロリストだ。事情がなければ生かしておく理由もない。追っているのが学園の警備部あたりなら、篠ノ之の確保と射殺がほとんど同じ事象をとなるのはあり得る展開だ。

 

 それでも、マドカは首を振って否定した。彼女には確信があった。

 

「あの人は私の“姉さん”だ。あの人の考えること――考えざるを得ないことはわかる。あの人は篠ノ之を見ても殺さない。少なくとも、すぐには」

 

 おそらく彼の言うとおりにはならないとマドカには断言できる。もし織斑千冬が篠ノ之を捕らえたら、必ずその場で追及する。どのような形でその場にけりを付けるにせよ、問答もなしに命を取りはしない。

 

 「もう行く」と短く漏らし、彼らに背を向けた。少年らからはうなずくような気配だけがあり、声をかける者はいない。マドカは振り返らず、学園側のエリアへと駆け始めた。

 

    ◇    ◇    ◇

 

 篠ノ之は暗闇の中を走っている。暗視機能による視界と拡張現実が教えてくれる地図を頼りに、彼は移動を続けていた。

 

 追う者の姿は見えない。ときおり警戒するように振り返る。そして、寮の周辺から学園島の東側――備品倉庫や車両倉庫の付近まで着たところで、彼は足をもつれさせるように、そばの建物の影に転がり込んだ。

 

 口を押さえて荒い息をつき、尻を地面にぺたんと地面につけてへばっている。止血用にスカートの端を破ったらしく、膝丈まであった裾が少し短くなっていた。切り取った布地は彼の額に当てられ血の色に染まっている。髪の先からは血が、汗が滴るように垂れていた。

 

「血が止まんないや……」

 

 ため息をつく彼の頭部では、布が湿った音を立てている。目元の血を鬱陶しそうに拭い、傷に手を当てながら、リュックからペットボトルの飲料を出し、口に軽く含んではき出した。

 呼吸が落ち着くまで時間が必要だった。五人の中で一番小柄な彼は、体力的にも不利な立場にある。

 

「マドカちゃん……」

 

 切なげに二、三度と深く息をつき、篠ノ之は自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。疲労はさほどでもない。顔を覆っているのは、濃い色の不安だ。

 

「僕も覚悟を決めるかな」

 

 少女の名を口に出して、ようやく落ちついたしい。篠ノ之箒の弟、という過去を騙っている彼の覚悟とは何か、血の跡だけが生々しい表情だけでは伺い知れない。

 手の血を拭った篠ノ之は待機状態の《福音》に対しコンソールを起動、次いで初期操縦者設定を待機状態にさせ、倉庫の壁を背に立ち上がった。

 

「逃げなくていいってのはいいんだけど、けっこう距離は離したはずなんだよね」

 

 捕まれ、というマドカの命令はシンプルだったものの、タイミングを計りかねている。彼が振り向きざまに投げた閃光手榴弾は、確かに織斑千冬の前で炸裂した。千冬にそれが効いたと思っているようで、視界を奪えた以上まともに追うことはできない、と見ていた。その考えに基づくなら、一分ほど距離が空いていることになるだろう。

 

 そして実際のところ、彼の認識は前提から間違っている。

 

「どうするかなー。いっそこっちから近づくか」

 

 そうして、追跡者の存在を確認しようとした直後のことだ。篠ノ之は、自分の背後に彼よりやや高いくらいの、女性にしてはやや長身の気配を感じ取った。

 

「え?」

 

 彼は振り返る。視線の先に人影があった。自分の身体でできたものかと思い、少し反応が遅れる。そうではない、と気づくのとほぼ同時に、長い脚が視界の端をよぎるのが見えた。

 

「あ……」

 

 反応する間があるはずもない。右脇腹に肝臓を打ち抜く形で靴先が入った。悲鳴すら上げられず、篠ノ之はバランスを失い倒れかける。影はそのまま首元を掴み、少年の身体を軽々と釣り上げた。

 苦痛が意識を染める中、篠ノ之の視界に現れたのは、マドカによく似た顔の女性だった。

 

「織斑……千冬……!」

 

 篠ノ之の首は、音を立てるかというほど強く締められている。千冬は少年とは対象的に汗一つかいていない。涼しい顔で侵入者の首もとを押さえ込んでいた。

 

「どうやって。夜目もきかなかったはずなのに」

「ああ。あれには参った――だが、追うのは別に難しくなかったよ」

 

 悲鳴混じりに絞り出された疑問に、千冬が答えた。血の滴が彼女の手首にたれ落ちている。彼女はそこに向けて顎をしゃくった。

 

「これの臭いがしていた。亡霊の()えた血の臭いがな」

 

 不快そうに吐き捨てる。それでようやく篠ノ之も、苦しげながら腑に落ちたようだ。閃光は彼女の視界を確かに奪っていた。ただ、少年の頭から流れ落ちる血の跡、そして垂れ流していた血の臭いが、千冬に足取りを教えていた。

 

 気道を締める腕を、少年の手が押さえる。その手にはリングがあり、またよく見ると少年とわかるかたちをしていた。その二つを目に入れ、千冬は得心したように言った。

 

「男か……どうりでISを使わないわけだ」

 

 彼が男性であることには驚かないらしい。リングを握り込むと、千冬は冷たい目つきで続けた。

 

「今度はこちらが聞かせてもらおう。――お前は何者だ。なぜ、篠ノ之箒と同じ姿形をしている」

 

 感情のない声である。普段の彼女、威厳と威圧をもって人を惹きつける千冬と話したことがあるものでも、ぞっとするような(くら)い声だった。そして、無機物を射るような冷たい視線。学園での千冬を知っているものならば、彼女が人間にそんな目を向けると、誰が信じるだろうか。

 

 篠ノ之は問われて、一瞬鋭い眼差しを彼女に向ける。ただ、それはほんのわずかな時間で彼の上から去った。

 

「さあ、どうかなぁ。何を聞かれているのか、よく判らないや」

 

 篠ノ之はいつもの柔らかい笑みを浮かべてはぐらかす。

 

「ほう……」

 

 首に回された手に力が入る。少年の身体が片手で持ち上げられ、壁に叩きつけられた。彼女の空いた手はぶらりと横に垂れていて、拳が軽く握りしめられている。

 猫を挽き潰したような声を出して、しばらく篠ノ之は背中の苦痛にもがく。千冬は彼の喉頸を捕らえていた。篠ノ之は酸素をもとめて両手でその腕にすがる。銀のリングが涼やかな音を立て、千冬の腕に触れた。

 

「……痛いよ、教師なのに、ガキに暴力を振るうのかい?」

 

 痛みが通り過ぎて落ち着いた後、やっと篠ノ之が口を開く。口調は大人をからかう子供、と言ったところだ。

 

「私が守らねばならんのは、生徒と学園、それに家族だけだ。いくら若年でも自らの意思で武装した者をガキとして扱う気はない――ましてそれが私の守るものに手を出すなら、なおのことだ。“敵”に優しくする必要は、私にはない」

 

 千冬の全身は激しい暴力の気配をたぎらせている。

 一方で表情に怒りは微塵もない。彼女は、これが大人と子供の会話だとは思っていないのだった。彼女が露わにしているのは感情のない追及、相手を害する意思しかない暴力である。彼女の弟にも生徒にも見せない姿を露わにしている理由は一つ――篠ノ之に、そして彼の背後にあるものに、彼女自身の敵を見いだしているのだ。

 

「敵か。そうだね。僕は……僕たちは、貴女の敵だ」

 

 一瞬彼が宙を見つめた。そこに何かを見つけ、考えるような顔つきをし、言葉を継ぐ。

 

「ここまで熱烈にしてくれたんだ。ちょーっとだけ、吐いちゃおうかな」

 

 彼はあっさりと宣言した。それを聞いてわずかに首の締め上げが緩む。篠ノ之は少しだけ自由になった息で、溺れたように喘ぎつつ、話し始めた。

 

「僕は篠ノ之(ほうき)。彗星の(すい)と書いて(ほうき)。篠ノ之箒の弟さ。だから、篠ノ之束の弟でもある。篠ノ之家の長男として生まれた。箒ちゃんのちょうど一年後のことだ」

 

 ゆっくりとした口調で、唄でも歌うように篠ノ之は言う。無表情な千冬とは対照的に、整った顔は見る者の気分を悪くさせる薄ら笑いを浮かべていた。

 ふざけた語りにわずかに千冬の感情が反応する。怒りとも嫌悪ともつかない。ただそれは、驚きではなかった。

 

「もちろん千冬さんの弟くんのことも、よーく知ってるよ。僕は箒ちゃんと彼に手を引かれて、よく学校に行ったんだ。篠ノ之道場にもね。彼はよくモテたねえ。僕の友達の女子もみーんな彼に夢中だった。

 一度同級生に頼まれて、彼を紹介してあげたことがあったなあ。その日は一日、ずーっと箒ちゃんの機嫌が悪かったよ」

 

 ゆっくりとした速度でその一方はっきり淀みなく、篠ノ之が語る。その言の中では、千冬の弟や篠ノ之束の妹の側に、いなかったはずの彼がいたことになっている。放置すれば彼や千冬の弟が小学生の時代を全て語り尽くしそうな流暢さだった。

 

「束と箒に弟などいない。そもそも柳韻さんの子は、二人だけだ」

 

 そしてそんなものを聞く必要がない、とばかりに千冬が遮った。千冬が驚かなかったのは、あからさまに彼の言が嘘だと判ったからだ。聞いた端から偽りとわかる話に驚きもない。篠ノ之家の子は確かに二人であり、家長の柳韻は自身の倫理については極めて厳格な人物だった。妻以外に子を成すはずがないのだ。

 

 虚言を断たれても、篠ノ之は少しも動じる気配がなかった。眉を差し上げ、残念そうな顔になると、また続けて口を開く。

 

「あららー。そうだっけ? じゃあ“こう”しよう。僕は篠ノ之束が入手した、どこぞの堕胎児をいじくってできた人造人間だ。表向きは篠ノ之家の第三子。生まれたのはISができた後だったかな。

 《暮桜(くれざくら)》の調整にはね、実は僕も拘わっていたんだよ」

「束は、少なくとも失踪するときまで人造生命に手を出していない。第一回大会終了まで、《暮桜》は全て束の調整だ」

「へえ、さすが親友。よく知ってるね。それなら、“こっち”でいこう。束さんは、雲隠れした後、箒ちゃんの誕生日に弟をプレゼントしてあげたかったらしくてね。豚肉と万能細胞から僕を作ったのさ!

 箒ちゃんは僕を見て、気持ち悪がって怖がって、泣いちゃったけどねー。それで僕はポイされちゃったわけー」

「……それも嘘だ。ここ数年の篠ノ之箒が束と接触したのは、先日の臨海学校だけだ」

 

 次々と出てくる篠ノ之彗の過去、そのことごとくを千冬は否定する。彼女自身の記憶と異なるとすぐに判るものばかりなのだ。

 

「まるででたらめだ。支離滅裂で――最初の話と最後の話でさえ矛盾している……」

 

 篠ノ之が吐き続ける妄言に、とうとう千冬が声を荒げた。苛立ちをにじませていた。鋭い視線が彼を射る。それでも篠ノ之は動じる気配を見せない。自らの虚構で千冬の過去を冒涜するのが楽しくてたまらない、というように、くふふ、と喉奥から笑い声を漏らした。

 

「そうだね。僕の話は貴女の話と一つとしてつじつまが合わない。僕の言ったことの()()()は、確実に嘘だよ」

()()()嘘だ。何一つ事実ではない」

 

 千冬は吐き捨てた。彼女の夜半の湖面のように静謐(せいひつ)だった顔に、今は感情のさざ波が走りはじめている。篠ノ之の狙いがそこにあるのは明かで、そして彼の振る舞いは成功していた。今千冬の顔にあるのは、嫌悪だった。

 

「はははっ! そうだね、貴女の言うとおりだ。僕の話が本当でないことは、そうやって貴女が担保してくれる」

 

 彼は心底おかしそうに笑い――ふっとまじめな顔に戻って、千冬に語りかけた。

 

「けど、貴女の話が本当だって、誰が保証するの?」

「何……?」

 

 少年の言で千冬の柳眉が逆立つ。篠ノ之が続けた。

 

「僕の話は嘘かもしれない、いや、たぶん嘘だ。だからって、貴女の話がすべて事実とは限らないんだよ。もしかしたら逆に貴女が、僕が過去にいたことを忘れたのかもしれない。皆が僕のことを忘れたのかもしれない」

「私は自分のことぐらい覚えている。お前がいくら妄言を吐こうと、それは変わらん」

 

 千冬が自らの記憶を頼みにした瞬間、篠ノ之の口元がぐっとつり上がる。まるで、その言葉を待っていたかのようだった。

 

「自分のことぐらいは覚えてる、かー」

 

 やや緩んだ千冬の腕を、篠ノ之の手が絡みつくように強く握る。

 

「そんなに自分の記憶に自信があるのなら、答えてみてよ。貴女は自分のことを、ちゃんと覚えているのか」

 

 彼は少ない息を振り絞るようにして声を上げた。

 

「織斑一夏は六歳以前の記憶がない。織斑千冬、貴女はどうなんだい。貴女は、彼の生まれた日を覚えているのかな。

 貴女は、織斑夫妻が“失踪”した日のことを覚えているのか。本当に家族は織斑一夏だけなのか。織斑一夏さえ覚えてない、昔の記憶――生まれてから篠ノ之家に会うまで、その記憶を、ちゃんと持って、いるのか!!」

 

 最後はほとんど叫ぶように声を上げていた。彼の口からでた虚言以外の言葉に、千冬の表情にも何かへの理解が影をさす。

 

「お前は……」

 

 千冬が言った。苦々しげに歯をかみしめている。

 少年は、喉から笛のようなかすれ声を漏らす。よく彼の表情を見たなら、それが笑い声の変性だということに気づけただろう。

 

「やっぱり貴女も自分の記憶や自分の過去に、後ろ暗いところがあるみたいだね。単に忘れていたのかな、覚えているのに知らないことにしているのかな?」

 

 千冬の動揺を引き出した彼は、今までの薄ら笑いを更新して、してやったりという顔で笑んでいた。悪意と血にまみれて、その顔は汚れている。

 

「それとも――最初から、どこかで記憶が欠落しているのかな。貴女の弟や……僕たちみたいに」

 

 篠ノ之が言う。また千冬の表情に変化がある。千冬の冷静さが崩れつつあるのが見て取れる。少し入った仮面の亀裂から、彼女が心の底に隠している感情が漏れ出しているようだった。そこから今度影を差したのは、小さくない驚きだった。

 篠ノ之の言葉は彼や少年たちが記憶操作を受けていることを示していた。そして、彼らはそれに自覚的でもある。

 

 ――そして、織斑千冬と篠ノ之彗の二人とも知るよしもないことだが、千冬が浮かべた驚きの表情は、数日前に学園の帰りに凰から、少年らの秘密について話されたときの表情と全く同じかたちをしているのだった。

 

    ◇    ◇    ◇

 

 マドカは港湾部から島の東部へ、道のない道を突っ切っていた。

 

 メガフロート上の島である学園は全体的に平坦で、野戦の行軍より遙かに動きやすい。身体能力の高いマドカには負荷も少ない道行で、思考にも余裕があった。

 

 ――俺たちの話なあ。あれたぶん、ほとんど嘘だわ。

 

 このとき思い出していたのは、先日、学園の盗聴からの帰り、凰とした会話のことだった。彼らが学園の五人と重なるような出自を名乗っている、その経緯についてだ。

 

 マドカがわずかに自分の気持ちを話した後、凰は言った。レゾナンスの前の広場から離れ、公園に続く臨海通りだ。彼はキーボードケースを肩に掛け、歩きながらぽつぽつと語る。

 

 分かり切っている話を、とそのときのマドカは思った。彼らの経歴が全て本当なら、“やつ”の取り巻きは半数以上が身の上をまるごと偽って“やつ”に近づいている、凄まじい女の集団ということになってしまう。

 

 ――そんな目で見るなよ。嘘だったのは、経歴のことだけじゃない。五人は、それぞれ異なるタイミングで、スコール大姐の下に入ったわけだが。俺らのうち、客観的な記録と経歴が一致しているのはボーデヴィッヒだけだ。

 

 もちろん実際の彼女らは、マドカさえ知るとおり無垢(ナイーヴ)すぎるほど善良で、そんなことはまずありえない。今さら何を言い出すのか、と思っていたが、次の彼の言葉で表情を変えた。

 

 ――あと、組織に拾われる前の“記憶”がちゃんとあるのも、ボーデヴィッヒだけなんだ。

 

 そのとき、マドカは確かに驚いていた。ある年齢より下の記憶がないということに、どうしても思い出される男がいたからだ。

 マドカをよそに凰は彼らの経歴を話した。彼らの記憶と、たどることのできた彼らの記録を元にした過去の話だ。

 

 まずラファエル・ボーデヴィッヒ。アドルフ・ボーデヴィッヒ博士の作ったジーンリッチのCタイプ。ナンバリングされた(らん)のうち無事生まれた個体の一人、男性タイプC-〇〇一〇。アドヴァンスド計画と呼称されたジーンリッチ計画は、その後A・ボーデヴィッヒの研究グループからドイツ軍で握られた。が、ISの兵器化見通しに伴いまず八年前に男性が、その後は一部を除き女性型も破棄されている。Cナンバーもそこに含まれ、公式に生きているボーデヴィッヒは、この過程で今学園にいるラウラ・ボーデヴィッヒだけになった。

 スコールがラファエル・ボーデヴィッヒを拾ったのはドイツが男性型を全て破棄したときで、少年らのうちマドカより古株なのは彼だけだった。

 

 この経歴だけでも相当にむちゃくちゃだが、彼は記録から過去を追うことができ、さらにジーンリッチ計画の素材だったときのことを覚えている。

 出鱈目なのは後の連中だった。それもスコール麾下(きか)に入ったのが遅くなるほど、どんどんひどくなっていく。

 

 まずシャルル・デュノア。彼の公式に追える一番古い記録は、八年前にストラスブールの孤児院から亡国機業のどこぞのグループに引き上げられるまでで、それ以前は不明。顔が恐ろしく似ているから確かにデュノア社長の種という線はないでもないが、根拠も同時にそれしかない。また、シャルロット・デュノアの双子の兄という可能性はゼロだ。彼女が単生児であることは、パリの公立病院のセキュリティ・ペーパーによるカルテ上にちゃんと残っていた。彼自身の記憶は、その孤児院にいた数年分しかない。

 

 セシル・オルコット。セシリア・オルコットに同名の遠縁の親戚がいたというのは事実だ。ただし、この名前の人物は六年前にリヴァプールで死んでいる。事故死だ。ちなみにオルコット自身はいちおう、その“血統書付き”のセシル・オルコットが死んだのと同時期に、亡国機業に入っている。彼には、組織に入る以前の記憶がほとんどない。

 

 凰鈴詩(ファン・リンシー)。凰鈴音が生まれる一年前、彼女の母が上海で暮らしていたことまでは事実だ。だが、彼がそこで生まれたという形跡は全くない――というかこれが真実だとするには話自体の理路に無理がある。凰鈴音の母は当時、上海で働くバリバリのビジネスパーソンで、周囲に気づかれずに子供を産むのはほぼ不可能だった。さらに凰鈴詩の足跡と記憶はわずか五年前のシンガポールで、組織の東南アジアグループに拾われたところで途切れている。二つをつなぐ根拠が全くない。

 

 ボーデヴィッヒ以外の彼ら三人は亡国機業の他部隊にいたところをスコールに引き抜かれ、自分たちの“過去”を知らされた。寝耳に水の話で、一度は半分信じかけたらしい。

 

 ――何しろ俺ら、ボーデヴィッヒやお前さんと違って、満足に記憶もなかったわけだから。

 

 ただしそのまま信じ続けるほど彼らは素直でなかった。特に、三人の代表候補生は有名人だ。ストーリーの不自然さは嫌でも鼻につく。彼らは互いで互いのことを調べ上げることで、一定の答えを得た。

 

 明確な結論はない。ただ、彼らが過去に存在したことを証明するよりは、過去に存在しなかったと考える方がよっぽど容易で、かつ論理的に自然である。

 

 ――つまり、俺たちにとって、過去というのはないも同然ってこと。

 

 遠くに汽笛が聞こえる。夜の空を、短い音が二つ駆けるように通り過ぎた。マドカは拡張現実で今の自分の位置を確かめた。地図があっても暗闇で、すぐ自分の現在地を誤りそうになる。

 

「思ったよりも近かったな」

 

 確認した位置は、篠ノ之の知らせた位置から百数メートル。目の前には変電施設とおぼしき建物と柵がある。この向こう側に姉さんがいる。篠ノ之もいる。

 

 ――篠ノ之も俺たちと同様、組織に拾われる前の記憶がほとんどなかった。ただ一点俺たちと違ったところがある。

 

 そして凰が最後に話したのが、篠ノ之のことだった。

 

 ――あいつだけは最初っから、自分の過去なんて嘘っぱちだって、はっきり判っていたらしいってことだ。

 

 篠ノ之の記憶は少年らのうちでも分けても短い。わずか三年前に組織に拾われたときがその始まりで、それ以前は霧の中である。ただし、その時点ですでに彼には年不相応なほどの知識と技術があり、一年は亡国機業内の研究グループにいた。剥離剤を開発したのと同じ部隊だ。

 

 “篠ノ之箒の弟”などという戯れ言を誰から聞いたのか、それをどういう思いで受け止めているのか、彼自身は言わない。ただ篠ノ之彗が篠ノ之家の血ということはありえない。マドカが考えてもその“設定”には無理がある。

 

 数年前までの篠ノ之一族に対する防諜施策の固さは、マドカのような実戦要員にも聞こえるところだった。日本の情報コミュニティが珍しく挙国一致で、柳韻・彼の妻・箒に近づいた蟻さえ殺すほどの体制が続いていたのだ。ちなみにそれを仕切っていたのは先代の内閣情報官、十六代目の更識楯無であり、亡国機業のエージェントが何人も日本の公安にあげられたのもこの時期だった。

 最近は篠ノ之箒が実名で剣道の大会に出てしまうほどになったようだが、そんな愚手が見られ始めたのは、彼が三年前に“不慮の事故”で死んでからだ。以前は夫妻の行った交渉の日から過去に会話した者の親族まで把握されている状況であり、箒の弟が人知れず生まれると言うことがあり得ない。

 

 篠ノ之は最初会ったときから、過去について同じ話をしたことがなかった。やれ篠ノ之柳韻の拾い子だの、篠ノ之束が夕食前の暇な時間に余り物で作っただの――思いのほかバラエティに飛んだストーリーに、少年らやマドカが破綻を指摘して笑い話(マドカは笑わないが)にするというのが、会話の枕によくやるやりとりだった。

 

 自分の過去が無意味だからいくらでも矛盾したことを言える。あるいは、虚構を重ねて相手を煙に巻きたいのか。

 

 ――よかった、マドカちゃんが生きていられそうで。

 

 数日前、初めて聞くほど真剣でマドカにすがるようだった篠ノ之の声を思い出す。あるいは彼自身が抱いている不安を、虚構をもてあそんで押し隠すためか。

 

 マドカは視界の一角に扉を見つけ前に立った。小さな電子錠の器械部分に拳銃を当て、発砲で錠前を破壊する。解放された柵を蹴って前に進んだ。施設の屋根の一角が少し低くなっている。マドカは外装を伝って身軽に上がり、高所に上がった。

 

 風が強く吹いている。マドカは高性能コンクリートのルーフに片膝をついて、バイザーの暗視望遠をオンにした。ナノスキンと同じ機能でも、IS用の視界は遙かに性能で上回る。学園島全てを捉え、先ほど汽笛を鳴らした船舶の姿さえ捉えていた。

 

 島全体はまだ、夜の底に沈んでいた。明け方まではまだ遠い。

 

 少年らの過去、篠ノ之の気持ち――そしてマドカ自身の気持ち。まだまだ、マドカにはわからないことだらけだ。ただ今、一つ確かなことがあった。篠ノ之彗を前にすれば千冬は動揺せざるを得ないということだ。日の当たるところで築いてきた千冬の今までを愚弄するような彼の“過去”と性格、“やつ”を想起させずにはおれない記憶の断絶。

 

「――捉えた」

 

 マドカは周囲を見回し、つぶやいた。正面、建物の端から策の向こう側、数十メートルあまりに、組み合う姿がある。視界の中に、他の人影はない。マドカは乾いたブーツのつま先で地面を叩き駆け出した。

 

 千冬にとって、篠ノ之は単なる敵であるにとどまらない。ただの敵意であれば千冬は何者が来ても恐れないだろう。しかし、もしその敵が、自らの過去、咎、負債を想起させる者だったときも、彼女は平静でいられるのだろうか。

 

 千冬がどれだけ今まで日の当たる場所で苦心して生き抜いたかは、マドカも知っている。その光が明るいからこそ、昔に置き去った昏い過去は、その深さを増す。

 

 篠ノ之は曖昧な起源ゆえ、彼女が捨てた場所や逃げ出した所、なかったことにした過去を否応なく想起させ、そしてその性根ゆえに千冬の気性を殊更に逆撫でするだろう。そして真っ直ぐな性質を持つ千冬なら、そこから目をそらすことはできまい。ある意味でマドカ以上に適任である。

 

 マドカは力強く踏み込んで屋根を蹴り、宙を低く長く飛んで柵を乗り越える。別の建屋上に降り立った彼女は安全装置を外して、バイザーは近接に切り替えた。

 

「思い出せ、“姉さん”」

 

 人が黙殺したもの、昔置いてきたものから立ち上がる意思――それを何と呼ぶか、マドカは知っている。

 

「あなたが捨てたものが、あなたの前に現れている」

 

 自らが捨てさった過去から来る敵を、人は亡霊と呼ぶのだ。

 

    ◇    ◇    ◇

 

 千冬に浮かんだ表情の変化を篠ノ之は見逃さなかった。もう装う必要もないとはっきり顔を悪意に染めて、千冬を煽る。

 

「あれ、そう意外な顔をされるとは思ってなかったなぁ。ありそうな話でしょ。何しろ貴女の弟は、六歳までの記憶が全くない。それなのに、彼自身は自分に何の違和感も持っていない。普通はそんなことはあり得るもんか。――自分が自分であることを保証してくれるのは過去だけなのに、昔を全く覚えていなくて疑問にも思わない? そんな細工が可能なんだ、何だってできるさ」

 

 篠ノ之はたたみかけるように言った。わずかに見えた、千冬の無感情の裂け目に向けて、しゃべれるだけの言葉をたたき込む。

 千冬の驚きはすでに顔の上を通り過ぎていた。今の彼女は奥歯を噛むだけだ。

 

「僕の話すことは話したよ。そうだ、よかったら次は貴女の話が聞きたいなあ。ねえ、織斑夫妻から離れた後、どうやって生き延びたの。どうやって篠ノ之家と近づきになったの。なぜ、篠ノ之束と一緒になってISを作ったの?」

 

 千冬は答えない。篠ノ之がしているのはただの挑発、あるいは嗜虐だとかりきっているからだ。問いの形をとって、千冬の過去に無遠慮に手をつっこんで見せているだけだった。彼女が付き合ってやる必要はない。

 

「……どうして、白騎士事件なんて起こしたの。学園の教師になんてなったの――答えてよ、()()()

 

 ただ、その挑発が、あまりに私的な領域にならねば。最後の一言を聞いた瞬間、千冬の口がひときわ不快げに結ばれた。

 

「必要なことは聞かせてもらった。身柄は学園警備部に引き渡す。それまで口は閉じていてもらおう。私情で悪いが、不快なんだ、お前の物言いは」

 

 千冬は無言で、首に掛かる力を一際強くした。本当に怒ったときの感情の波面は静かになるタイプらしい。

 

 篠ノ之の顔から血の気が引き始める。わざと苦しめているわけではなく、首をへし折らないように慎重に力を強めているようだった。生身でISの斬撃を受ける彼女だ。本気でやれば片手で人体を破壊することもできるはずだった。徒人(ただびと)でいうと豆腐でもつかむような、優しくさえ見える仕草だった。

 

「よかっ……た……ね」

 

 篠ノ之はさすがに苦しげな顔で、つぶやいた。その顔がままだ笑っているように見えるのは、たいした精神力である。彼は、自由にならない手を左手のリングにやり、そっと乾いた血塗れの指先で触れる。

 

「ただ、必要な……時間なら……僕も」

 

 ずっと千冬の身体に触れていたリングが、それを契機に変化を始めた。わずかな光を発し、数秒後にその光を納める。

 千冬はその反応で、リングの反応が何を意味しているのか気づいたようだ。

 

「……フィッティング!?」

 

 搭乗者初期設定は完了した。調整対象は、今ここにいてずっと《福音》に触れていた女性――すなわち、()()()()である。リングの反応は、彼女をドライバーとして《銀の福音》が使用可能であることを示していた。

 

 篠ノ之の視界をもし共有しているものがいたなら、ISから発信されたメッセージを見ることができただろう。彼の笑みの理由はそれだった。

 

 光が収束する。直後に、発砲に伴う光と音が響いた。弾が千冬の手を掠める。射撃の瞬間に動いていた千冬は、舌打ちをして篠ノ之を投げ飛ばし、樹木の陰に身を隠した。銃弾は止まっていれば腕を抜いていた。

 

 射線は上方、建物の上からだ。投げられた篠ノ之は地面を人形のように転がり、そこから飛び降りてきた誰かの脚にぶつかって止まる。人影はサッカーボールをトラップするように彼の身体を受け、勢いを殺した。

 

「――立て! いつまで寝ている!」

 

 それまで不在だった者の声が鋭く暗闇を抜けた。声の方角を確かめようとした千冬を、九ミリ弾が樹木を抉ることで脅す。

 

 彼女が投げようとした視線の先、そこでは学園制服姿の少女が拳銃を構えていた。バイザーで目元を覆った、篠ノ之よりやや背の低い女子。篠ノ之はその足元におり、立ち上がろうとしてふらついている。首から上に血が一気に流れ込んだらしく、少女の腰にすがりつきながら何とか肩を並べた。

 

「お前は……」

 

 千冬が言った。バイザーごしでも彼女には誰か判ったようだ。少女は応じず、篠ノ之の身体を背中から乱暴に抱き寄せ、リングをはめた彼の手を掴む。左手には拳銃を構えたまま、

 

展開(デプロイ)

 

 銃の発火炎とは比べものにならない展開光が辺りを照らした。《福音》の名を持ちながら、後光でも差したのかというほどだ。そしてその目映(まばゆ)さの中、少女の身を装甲が覆っていく。胴、脚部、背面ユニット、スラスター。完全な展開ではないが、先刻の《福音》がさせられた出来損ないの展開とも違う。必要なモジュールをそれぞれ呼び出す部分展開だ。

 

 腕部は生身、首から上には《福音》の頭部装甲ではなくバイザーのようなものを装着したまま、《福音》は地を蹴って空中へ上がる。飛び立ちざまにわずかにかかったスピンの勢いをPICで鋭く止め、仮初めの搭乗者に操られた《福音》は千冬を眼下に睥睨(へいげい)する。

 

 動作の練達は細部に宿る。国家代表候補生とも遜色ない機動は、二つのことを意味していた。一つは搭乗者の少女はISに慣れているということ――そしてもう一つ、さきほど終了したフィッティングのデータが彼女に適合しているということだった。

 

 少女は本来、千冬本人でなければ使えないはずのデータに自分自身を適合させて、ISを起動させている。クローンか一卵性双生児でなければ、誤認すらしないようなISで。

 

 搭乗者の少女は生身のままの右で篠ノ之を抱き、左で構えたままの拳銃をポイントし続けていた。ターンして高度を稼ぎながら、射撃音が断続的に二回響く。千冬の足下には弾が二つ痕をうがった。

 

 機体が旋回するわずかな時間、千冬の顔に向く射線が空いた。銃口を間に挟み、千冬と少女の視線が一瞬重なる。

 

「お前は――」

 

 千冬が何か言おうとするのを聞き、少女が機動を止める。拳銃のトリガーガードに指をかけ、左手でバイザーを外した。目元を覆う機器に押し込まれていた肩までの髪がふっと舞うようにこぼれて、下の顔が(あら)わになる。

 

 ISのスラスターが逆光になる中、見えたのは織斑千冬――と、並んでもうり二つというほどそっくりな、少女の顔だった。彼女は口を引き結んで、千冬の顔を真っ直ぐ見据えていた。千冬は思わず叫んだ。

 

(まど)……!」

 

 最後まで言うことは出来なかった。ひととき視線が交錯した後、少女はバイザーを自分が抱いている少年に押しつけ、ブローニングを構え直す。ISを螺旋の軌道で駆け上がらせながら、牽制するように断続的にダブルタップの射撃を二回放つ。一発が千冬の頬を、残りはジャージの腕と腿をかすめた。

 

遮蔽(ステルス)装置の起動を確認!」

 

 少年が叫ぶ。しがみつきながら、調整を続けていたらしい。少女は彼の声にうなずいて、

 

「離脱する――口を閉じろ、舌をかむぞ」

 

 少女は少年を離さないようしっかり抱きながらISを駆り、多段ブーストで空間を蹴った。機体はスラスターを光らせながら、舞うように地上から離れていく。

 千冬は擦過で生じた傷を押さえながら、天を仰いだ。

 

 機体は二度、三度と増速しつつ上昇する。もう千冬を振り返ることなく、光をひらめかせながら上空へ消えていった。

 

 後には千冬だけが残された。彼女は言葉を失った様子で空を仰いでいた。彼女はひとり、暗い空の下で誰にも見せたことのないような苦い表情を浮かべ立ち尽くしている。

 

「お前は、私の……」

 

 頭を垂れ、彼女はつぶやいた。拳が硬く握られるが、後の言葉は続かなかった。

 

 空の光の一つが地上の千冬をよそに、東へ向けて飛び去っていった。




場面転換が多かったこともあり三万字あまりになりました。ハメだと改行が四文字扱いになるのでけっこうぎりぎりです。

剥離剤の仕組みについては、原作で見えている限りの設定だけを使って何とか理屈が通るようにしたらこんな感じに。

マドカちゃんは何とか姉離れを達成されたようです。というかこんだけ大騒ぎして具体的に彼女がやったのってそれだけ(ry

これで本編は一応おわり。エピローグが一本あります。

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