トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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最終話

 何度着ても、正装と言うのはやはり苦手だ。

 ブラウスに紺の上下、足元は靴。マントを身につけ、髪と化粧は不本意ながら担当のメイドさんの手が入っている。

 控えの間で、そんな堅苦しい衣装の襟元に指を入れながら、私は静かに出番を待っていた。

 原稿は、もう穴があくほど読み返した。内容は諳んじられるほど頭に入っている。

 それでも、プレッシャーが生み出す不安は尽きることはない。

 

「そう緊張されますな」

 

 ぶつぶつと原稿を思い出しながら呟いている私に、ニコニコと笑いながらマルシヤック公が話しかけて来る。緊張を和らげようと思ってくれているのだろう。

 

「無理ですよ。気分としては査問を受けるみたいなものなのですから」

 

「何も恰好を付けることはありますまい。先生が思う事を、正直に述べていただければそれでよいのですよ。何かありましたら、及ばずながらわしも助勢させていただきます。大丈夫大丈夫」

 

「むう」

 

 そんなやり取りをしていると、ドアが開いて侍従が慇懃に首を垂れた。

 

「お時間でございます。議場まで御足労下さい」

 

 いよいよか。

 

「それでは、参りましょうか」

 

 頷いて立ち上がる公爵の言葉に、私は一つ自分の頬を叩いて立ち上がった。

 

「では……ひとつ頑張りますか」

 

「よろしくお願いしますぞ、先生」

 

 

 長い廊下をぎくしゃくと歩く。ともすれば、なんば歩きになりそうなくらい緊張している自分の足元が妙に遠くに感じる。 

 ロンディニウムにあるハヴィランド宮殿の片隅、大きな議場に関係各国の代表が集まっていた。

 この会議に関する事の起こりが私にあるのなら、私をその場に呼び出すというのは理解できる。

 そこで一席ぶつのも、まあ判らなくはない。

 ただ、私が作ったいろいろな規程案や方針書に対する質疑応答の時間まであるとなると、気分はまさに針のむしろだ。始祖の子らとは言え、国が違えば哲学もそれぞれ微妙に異なるだけにどんな質問が飛びだすか見当もつかない。

 とは言え、これもこの世に新たな枠組みを生み出す大切な第一歩だ。

 そんな正念場に臨み、私は呼ばれるままに議場に入った。

 呼び声に、姓はない。

 ただ、ミス・ヴィクトリアとだけ呼ばれた。

 それでいい。ここにいるのは、ただの一人の町医者だ。医の杖の下に生きる一人の医師として、私はここにいる。

 

 ドアをくぐると、全員の視線が集まっているのが判る。

 私の外見に驚くような気配の他、私の一挙手一投足に値踏むような視線が絡みついてくる。

 正直、そういうぎらついた視線は苦手ではある。

 トリステイン代表団の席の片隅に着席し、静かに視線を上げる。

 私のそれと交差する各国の方々の視線は、それでも悪意あるものではない。

 純粋な興味と期待。

 何とも取り扱いに困る類の視線だ。

 

 最後に議長席にアルビオンの代表が座り、静かに開会が宣言された。

 

 自分の席で瞑目し、私はその宣言を聞く。

 私に総会での登壇の話が来たのは、かれこれ1ケ月前の話だ。

 

 

 振り返ってみれば、短距離走のように突っ走った1ケ月だった。

 

 

 

 

 

 

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 諸国会議で立ち上げられた国家間の傷病者相互扶助のための連絡会議。その滑り出しは概ね順調だった。各国を結ぶ横断的な組織の設立に向かい、各国の有識者が書簡で連絡を取り合い始め、事業は徐々に具体化が進んでいた。

 誰が呼んだか、その組織の仮称は『血十字協会』。

 どっかの暴走族のようなネーミングセンスに顔に縦線を引く私だが、周囲には好評なようだった。

 そんな会議のために拝命したトリステイン王国の分科会の委員、そして国の参与の役職ではあるが、協会の設立準備としていきなり私に宛がわれた仕事は協会がやるべきことの企画書の作成だった。

 何しろ、この世界にはないものを形にするのだから、すべて概念の説明から入らなければならない。私の中では当り前な物であっても、彼らにとっては当り前どころか見たこともないものなのだから責任は重大だ。カレーを知らない人にカレーパンの説明をするようなものなだけに、中学生に教えるように丁寧に言葉を選ばねばならない。

 そういうことを踏まえて私が起こした資料は複製されて、各国の分科会に配布された。日を置いてそれに対する質問状が届き、その回答書を用意してまた配布する。そんなことを幾度も繰り返して双方の認識のギャップを埋める、地道ながら責任が重い書類仕事だった。

 

 この時期、世界の動きは一見穏やかだ。

 記憶の中では、今頃は戦後体制の構築の中で徐々にガリアとロマリアの関係が険悪化して行く時期ではあり、ゆくゆくはガリア王に対して聖戦がぶち上げられる流れだったはずなのだが、今のところそのような動きはない。

 国際間におけるガリアの立ち位置は、ちょっと微妙な感じだ。アルビオンの内戦の裏にガリアがいたことは三国同盟のアルビオン、ゲルマニアそしてトリステインの知るところではあるが、いかんせん三国揃ってガリアに借金していることもあり、露骨に村八分にされるようなことにはなっていない。その反面、恐らくはロマリアと接触を持ち、交渉を決裂させていることだろう。この辺の思惑のやり取りは支配者層にとっては面白くてたまらないゲームなのかもしれないが、市井から見上げた様子は何ともギクシャクした感じがしてならない。

 ともあれ、表向きは諸国会議の議決の通り、つかの間の平和がハルケギニアに訪れているようにも見える。とは言え、平和と言うのは次の戦争のための準備期間と言うのはこの世界でも変わりはなく、恐らく今も水面下ではガリアとロマリアの生臭い応酬が繰り広げられているのだろう。穏やかな大洋に見えても、海の中で敵対する潜水艦たちが互いを捕捉すべくソナーを打ち合っているような状況に違いない。

 

 ロマリアと言えば、その置かれている状況は私が知る歴史よりは悪い。ガリアとの関係は前述のとおりであるが、それに加えてウェールズ殿下の治世となったアルビオンは非常にロマリアを嫌っているし、アルビオンと同盟を結んでいるゲルマニアとトリステインも、基本的なスタンスはアルビオン寄りのようだ。特にアルビオンでの嫌ロマリア感情は深刻で、聞くところによれば、先の戦いにおいてロマリアが申し訳程度の義勇軍しか派遣しなかったことに対し、ロマリアはアルビオンの杖を見捨てたという意識が日々深くなっているらしい。

 中世ヨーロッパのような宗教戦争がこの世界で起こるかどうかは判らないが、今のままの流れでは、下手をしたらハルケギニア初の新教国家が生まれることもあるのかも知れない。もしもアルビオン国教会なんてのができたら、それはそれで興味深い流れではある。

 

 そのロマリアは、協会の設立については大袈裟なくらい大々的なバックアップをぶち上げている。表向きは神の愛がどうたらこうたらと言っているが、裏には明確な打算的な意図があるようだ。

 やがて聖戦を始めるつもりのヴィットーリオにとって、各国を束ねる横串はいくらあってもいい。教義だけで追いつかない分は利権をはじめとした飴玉を並べて丸めこむ政治戦を各国に対して仕掛けているであろうこの頃に、そんな耳触りのいい国際機関の立ち上げの話となれば全面的に後押しもするだろう。口先と僅かな出費でハルケギニアを一枚岩にする材料が手に入るのならば、あの狂信者にとっては安い買い物だろう。その一環として聖女だ何だと美辞麗句を連発して私の株価を無理やり吊り上げているようだが、そういう切り口で考えればそういった措置の動機も理解できる。褒めるだけなら懐も痛まないということだ。先日などは教区において然るべき立場を用意したいとか使いの者を診療院に寄こしたが、あれこれ理由をつけてお帰りいただいた。カルト宗教の勧誘を受けたような気分だった。

 協会のことについて、あのような外道に踊らされていることについては正直面白くはない。

 だが、この地に前世で私が知る赤十字の思想が根付いてくれるのであれば、それはそれで割り切ってもいいように私は思っている。

 弱肉強食という強者の支配が前提の世界における弱者救済の是非については後世の歴史家に任せるとして、そこに泣く人や苦しむ人がおり、それに差し伸べる手を己が持っているのなら、相手が誰であってもその手を伸ばす事は当然のことなのだという意識を広める事は意義ある事と私は信じる。

 そんな、見方によっては狂人の発想のような私の思惑ではあるが、それの成就のためなら多少泥臭い手段であってもそれに乗る事を私は厭わない。

 何より、博愛の精神というものは、理屈の上では知的生命体であれば共有できるものでもある。もしかしたら、この活動は将来エルフと和睦するための力になるかも知れない。現実問題としては、地球で欧米人が有色人種を己と同列と考えるようになるまで長い時間がかかっているように、ハルケギニアでもエルフを人と同列に見るようになるには長い時間がかかると思う。甘い考えかもしれないが、それでも、将来人間とエルフの両種属のもつれた糸を解きほぐす材料になりうる活動は、未来の子たちの財産になってくれると信じたい。

 

 

 

 

「お、終わった……」

 

 診療院の診察室で最後の書類に終止符を打ち、私はようやくペンを手放した。

 んが~っと唸り声を上げ、内心で『すごいぞ、私』と自分を褒める。人間、やればできるものだと我ながら感心した。連日深夜までかかっての大作業、慢性的に肩が凝ったし、目も疲れた。その甲斐あって依頼された書類については何とかすべて形にできた。

 

 事の起こりは3週間ほど前。打合せのために登城した途端に、私はマルシヤック公爵に呼び出された。

 公爵の執務室に出向くや、いつものような人懐こい顔で公爵が言った。パーティーバーレル10個入りを持って立っていると似合いそうな笑顔だ。

 

「ロンディニウムでの総会の日取りが決まりましてな」

 

 総会は、連絡会議のキックオフミーティングともいうべきセレモニーだ。議長国であるアルビオンに関係各国の代表が集まるイベントとして開催日の調整が続いていたと聞いている。

 

「いよいよですね」

 

 私としては、唐突と思うと同時に、やっと来たかと言う思いだった。ひょっとしたら、歴史に記されるかもしれないイベント。関係者としては感無量だ。

 そして、続く言葉に私は面食らった。

 

「先生、貴方も同道して下さい。開催は1ケ月後です」

 

「私もですか?」

 

「第1回総会ともなれば、やはり先生に出席いただかねば恰好がつきませんからな。それに、先生の作った書類について、先生御自身の説明が欲しいと各国の分科会から要請がありましてな」

 

 いつかはアルビオンに渡るチャンスもあるだろうとは思っていたが、こんなに早くその機が来るとは思わなかった。

 しかし、直後の公爵の言葉に、代償もなくそんないいことが起こるほど現実は甘くはないと言う事を私は知った。

 

「つきましては……」

 

 戸惑う私に、公爵は数枚の紙を差し出して寄こした。

 何やらびっしりと書かれた文字の列。

 

「総会の補足資料として、こちらのリストにある資料の叩き台の作成をお願いします」

 

 出されたリストの書類の量に、私は絶句した。

 

「ず、随分ありますね」

 

 このおっさん、ニコニコと人畜無害な雰囲気を漂わせながら、何気に腹の底黒くないか、もしかして。

 

「すみませんなあ。組織運営と言うのは何しろ面倒なものでしてな。一つ、よろしくお願い致しますぞ」

 

 そんなことがあったのが3週間前のことだ。

 無体な話だが、頷く以外の選択肢は私にはなかった。他の人にお願いしようにも、手伝ってもらう前の説明の方が面倒なくらいだからだ。

 実のところ、理系の人間だった私はこの種の書類作りは大の苦手だ。おまけに、でき上がる書類は公文書の扱いになるとなると、根が大雑把な私としてはペンを取る手が震えるくらい緊張する。思ったように文案が思い浮かばない書類仕事の波状攻撃に、研修医時代の教授回診の際のプレゼンの嫌な記憶が蘇ってきたりもした。

 だが、辛くはあるが苦ではない。今の私は半ば無敵モードだ。やるべき事が見えており、それをやれば然るべき果実が期待できると言うのであれば、多少の無理や無茶はやって見せようと言うものだ。気合一つを武器にして、文才の壁にぶち当たるたびにぽきぽきと折れそうな自分を騙して作業を続けてきた。

 

 ふと窓の外を見ると、既に天空の主役を双月が太陽からその役割を引き継いでいる。やはり何かに没頭すると時間はあっという間に過ぎゆくものだ。積み上げられた書類を『済』のボックスに入れて、私は立ち上がって腰を伸ばした。この箱に入れておけば明日の朝には回収のフクロウがやって来て回収し、城の書記官が清書して公式な書類にしてくれる。

 あとはこれを各国の委員が読んで、どういう反応を示すかだ。

 既得権益や現在の医療の仕組みに少なからず影響を与えるものだけに、うまく摺合せていくには時間と手間をかけて進めていかねばならないだろう。

 

 

 

 

 

 そんな事をしていると、玄関のドアが開く音がした。

 

「ただいま~」

 

 パタパタと迎えに出る私の耳に届いたのは、何だか力尽きたようなマチルダの声だ。

 

「お疲れお疲れ」

 

 玄関に出てみれば、マチルダが靴も脱がずにマント姿のまま上がり框にグテッと仰向けに倒れていた。

 

「本当に疲れたよ~」

 

「早く靴脱いで楽な恰好に着替えなよ。晩御飯、すぐ温めるから」

 

「すまないねえ」

 

 

 

 

「いや~、肩が凝るよ。よくもまあ、あそこまで決める事があるもんだね」

 

 キッチンの椅子にもたれ、首を回しながらマチルダが大きく息を吐く。

 

「お疲れさん。宮仕えは辛いやね。はい、お待ちどうさま」

 

 出来上がった料理の鍋をテーブルに据えて、ミトンを外す。手抜きなようで申し訳ないが、今日はボルシチ風のシチューだ。具だくさんなそれはマチルダの好物なのだが、それを見る彼女の表情はちょっと複雑そうだ。

 

「うう、美味しそうだよぅ……こういうの嬉しいんだけどさ……また太っちゃうよ、私」

 

 肉体労働だった工房時代と違い、事務仕事ばかりの最近は消費カロリーが少ないためか、マチルダはしばしばボディラインを気にするようになってきた。一見すると充分に魅力的なゴージャス系のボディなのだが、いろいろな部位で彼女の中の制限ラインを踏み越えているのだそうだ。

 

「疲れているんだから、ちょっとくらい多めにカロリー取らなきゃ体がもたないよ。しっかりお食べな」

 

 そんなしょうもないことを言いながら適量を皿に盛り、ワインを用意する。席についてカップを持ち、軽く合わせて口に含む。労働で疲れた体にアルコールが心地よく染み込んで行く。

 

 

「それで、あんたの方はどうなんだい?」

 

 マチルダの問いに、私は腰に手を当てて胸を張った。

 

「ふっふっふ、さっきやっと終わったよ」

 

「あんだけあったの、全部やったんだ!?」

 

「何とかね」

 

「お疲れさん。これで胸を張ってアルビオンに行けるじゃないか」

 

「おかげさんで。そういうそっちはどんな按配だね?」

 

「ぼちぼちだよ。予定通り、来週にはいっぺんロンディニウムに報告に行かないといけないけどね」

 

 夜な夜な一杯やる時、酒の肴はたいていアルビオンの二人の話題か、互いの仕事の話だ。

 城下の領事館でマチルダがやっている仕事は、トリステインとアルビオンの様々な条約や協定の関係業務だ。元から両国が双子のように親密なことはアルビオンからトリステインに婿養子に来た前王を見ても明らかなのだが、今回の戦役でもトリステインが最も貢献度が高かったこともあって、その関係はさらに深まりつつあるようだ。しかも、市井では実しやかにウェールズ殿下とアンリエッタの結婚が噂されており、暗い話題ばかりだった街にロイヤルウェディングと言う明るい話題が響いている。

 そんな両国の戦後の利害調整のために奔走しているのが、目の前にいる駐在官たるマチルダだ。大使はまた別にいるのだが、大使が出て来る頃には大方の決着がついているのが国交の常。マチルダがやっている事は、そんな泥臭い事前調整だ。

 とは言え、基本的に仲良しな両国間にはさほど深刻な問題がある訳ではないようで、やっている事は伯父上の統治時代に取り決められた条約類の再締結と時代に即した修正、そして、やがて訪れるであろうアルビオン=トリステイン連合王国の成立に向かっての下準備だろう。

 

 マチルダを見ていて初めて知ったのだが、駐在官というのは私の予想以上に激務だ。トリステインの官僚とあれこれと調整をする傍ら、定期的にアルビオンに報告に戻らなければならない。見ていると、何だか馬車馬の方が労働条件がいいように思えたりもする。赤十字をこの世界に根付かせるより、労働基準法を広めた方がいいんじゃないかとすら思うくらいだ。そんなマチルダの帰朝報告は来週。私のアルビオン行きとタイミングが合うから嬉しい。

 

 そんな国策に絡む仕事をしているだけにマチルダには守秘義務なんてものもあるだけに、食卓の話題として出て来るそれは私の作業の進捗の方が多いかも知れない。むしろ、協会の設立に係るいろいろな段取りについて、マチルダに相談に乗ってもらっているというのが正直なところではある。

 

 協会の将来について、私が考えている方策は大きく分けて2つある。

 一つは、戦争や災害等の有事の際の医療について、中立の立場で真っ先に現地に飛んで医療活動に従事する実行部隊を創設すること。これは常設ではなく登録制として、事が起こった際に召集をかける水メイジの一団として組織する。イメージとしては『国境なき医師団』をはじめとしたボランティアの医療NGOみたいなものだ。紛争が起こった場合、その当事国以外から派遣される形にすることが望ましい。登録に当たっての任命者は国王とし、そこに登録を許されること自体を典医並みの名誉あることとしてもらうことで質を確保する。それに合わせ、有事を想定したそれらの治療師団体の受け入れ態勢のあり方をマニュアル化して各国に浸透させることにより、より迅速な展開を可能にする制度を構築する事。

 今のハルケギニアにおいて、これはかなり重要なものと私は考えている。

 やがて起る大隆起は、恐らく誰も知らない未曾有の災害だ。発生すれば被災者の数も尋常な数字ではないだろう。そんな大惨事であっても、所詮は何も知らない者にとっては絵空事にすぎない今の段階ではそれらに対応するだけの規模の組織を作る事は現段階では望むべくもないが、少なくとも幹の部分は固めておきたい。幹が固まれば後は枝葉だ。規模の拡大はそう難しいものではないだろうと思う。

 

 もう一つ、作りたい流れが協会直轄の病院の設立だ。いわゆる赤十字医療センターのようなものを作って、それを各国の首都に置く。そこを協会の拠点とする構想だ。

 だが、こちらは実現までのハードルは医師団より高い。

 病院を設立するには、そのハードとソフトの双方の充実が求められる。

 ハードについては私の中にある程度のノウハウがある。規模や動線、各施設の配置などは現代の病院のそれがある程度参考になる。

 問題はソフトだ。

 病院の基幹業務には、入院対応がある。治療師がそれぞれの家を訪れて治療を施す体制が主流のハルケギニアにおいては、患者を預かる発想は珍しいものだ。魔法や秘薬と言うアドバンテージがあるので長期の入院加療が必要な患者と言うのは前世ほど多い訳ではないことがこの種の概念が芽吹かなかった原因であるが、それでもカトレアの例を見るように、中には相応の医療体制で臨まねばならない疾患を抱えた患者と言うのは存在する。

 そんな患者を受け入れる施設となると、体制も相応のものが必要になる。患者と医師は点の関係だと前に述べた事があったと思うが、点だけでは物事は成り立たない。それをサポートする看護師らスタッフの力が絶対に必要となる。むしろ、病院という施設において最も重要なのが看護師を主役とする看護体制であると言える。『病院の要は婦長である』と言うのはかのナイチンゲールの言葉だが、実に的確に事の本質を捉えた言葉だと思う。患者と看護師は線の関係。看護師には患者の容体を常に把握し、何かあった時に対処するだけのノウハウが必要となるのだ。

 この世界における病院設立において最大のネックがこの看護師だ。現代の技術を別の世界に持ち込む話は幾らでも知っているが、スタッフの育成を伴う物はそうはいかない。特に医療従事者を育成するとなると、それは実現するまでには相応の時間がかかる作業だ。

 この世界では、専門職としての看護師は存在しない。場合によっては修道女などがその役を担うのだが、修道女を常勤の看護師として駆り出す訳にはいかない。何より、看護に関する専門教育自体は存在しないのが問題だ。前世の世界において、ナイチンゲールがその無双の馬力で力づくで確立した近代看護だが、6000年の歴史を持つこの世界であっても彼女のような傑女は存在しなかったようだ。

 そんな訳で、病院の設立にはまずは看護師の育成が最初の関門。その進捗によっては看護学校の設立等も必要になるかも知れない。それに伴う体制の整備と、何より教官の育成こそが最大の問題だ。こうなると話はいよいよ国家レベルの事業になる。これをクリアしない事には病院の設立は画餅も同然だろう。

 

「ふ~ん……要するに、テファみたいな子がいっぱいいればいいって感じかい?」

 

 杯を重ねつつ、マチルダにあれこれ悩みを聞いてもらう。

 

「あれくらい気が利いて、優しくて、患者の身になってあげられる子が理想なんだけどねえ」

 

 看護師の育成の問題は悩ましくはあるが、方法論がない訳ではない。

 理想は私の診療院に少数の病床を新設し、そこで徐々に人材を育成していくやり方。何しろ、看護学校を作ろうにも、まず教えられる人を育成しなければ話にならない。私とて看護のことは専門ではないが、全く知らない訳ではないから多少の教導はできる。そのことはテファの教育で体験済みだ。

 まずは私の目が届く範囲で4~5人くらいから。習熟度に応じて徐々に人を増やし、充分にスキルが上がったら学校を設立し、それらのスタッフに教官になってもらうのが最もリアリティがある方法だと思う。無論、これについては国の補助が必須だ。何しろ、学校に通うと言う事自体が贅沢とされるこの世界、識字率の低さを見ても子供を学校に通わせられる家は多くないだろう。奨学金や補助金など、然るべき援助は必要不可欠だ。個人の善意だけで人々を助けて回ることには、どうしても限界がある。

 それでも、私は看護師と言うのをこの世界の新たな職業として確立したいと考えている。男女同権とかウーマンリブという思想については私は興味はないのだが、女性だからという理由だけで優秀な人材が埋もれているのなら、その原石を掘り返すことは有意義なことだと思う。

 

「あんたが声をかければ、幾らでも人や金は集まるんじゃないの?」

 

「……意地悪言わないどくれよ」

 

 正直、余計に思える『聖女』の呼び声ではあるが、利用しようと思えばこれほど使い勝手がいい称号もそうはない。

 アンリエッタが私の活動を吟遊詩人が謡っていると言っていたが、時が進むにつれ、徐々にその話が大きくなっていることまでは予想できなかった。それを思い知ったのが、先日中央広場を通った時のことだった。

 何気なくタリアリージュ・ロワイヤル座の演目告知のポスターを見て、私は凍りつく羽目になった。

 劇場と言うものは、大衆演芸の殿堂だ。

 それはいい。

 市民の娯楽、大いに結構。

 問題は、そこで催されている芝居の内容だ。

 でかでかと貼られたポスターを見れば、凄惨な戦場をバックに描かれた、負傷者を庇護する一人の金髪の乙女の姿。

 演目のタイトルは、こうある。

 

『サウスゴータの聖女』

 

 目にするたびに、どこか遠くに行きたい欲求に駆られるポスターだ。ジェシカが言うには、先の戦争で、サウスゴータで献身的な医療活動を行ったある貴族の女性をテーマにしたお涙ちょうだいものの演劇で、アルビオンで人気を博したその芝居の台本が輸入されたものなのだとか。恐らくはウェールズ殿下かアンアンあたりの陰謀だろうと思う。

 モデルが誰かについては言うまでもないだろう。主役をやっているのが金髪の妙齢のお姉ちゃんで、しかも名前が変わっているあたりが救いだが、私としては非常に居心地が悪い代物だ。原作で才人が体験したむず痒さは、きっとこういうものなのだろう。そう、あれは私ではない。違う何かだ。

 遠くトリステインですらこれだ。一体アルビオンでは私はどんな存在として独自発酵しているやら。考えるだけでも恐ろしい。

 

 しかし、私にとっては迷惑極まる代物ではあるが、こういう手段は協会の思想を民草にまで広めるには実にうまいやり方だと思う。主役は貴族の娘と言う設定のようだが、演劇の中ではその救済の手は貴族も平民も敵味方も隔てがない。こういうことを尊いことという思想を根付かせるメディア戦略としては、大衆演芸を利用する事は最善手だろう。

 あの芝居を見て垣根のない医療活動の大切さに目覚め、私もやってみたいと思ってくれる見どころがある人が増えてくれれば理想的ではある。あとは理想と現実のギャップを埋めながらうまく導ける指導者がいてくれれば言うことはない。

 

 

 そんな事を考えていると、マチルダがしみじみと呟く。

 

「テファがいればねえ。せっかく当人もその気満々だったのに」

 

「テファが?」

 

 やる気満々と言う言葉に、私は首を傾げた。

 頭上に疑問符を浮かべる私に、マチルダは意外そうな顔をする。

 

「あれ? ずいぶん前から、あの子、後輩育成の事考えてたよ。 知らないのかい?」

 

「知らない」

 

「おやおや、薄情な院長さんだね。あの子なりに、診療院の行く末を考えていたみたいだよ。あんたの夢をどうしたら実現できるかって」

 

 初耳だった。知らなかったよ、そんなこと。

 確かに、診療院の拡張について私は事あるごとに駄々っ子のように口にしていた。その度に『できるといいね』と笑っていたテファしか思い出せない。

 

「あの子、トリスタニアの人たちが好きだったからね。あんたと一緒に、王都の皆のために働けるのを本当に喜んでいたじゃないか。診療院が拡張されて、もっと多くの人たちの力になれるとしたら、その中で自分は何ができるかっていつも考えていたみたいだよ」

 

「そうなのかい?」

 

「そうだよ。治療師としての仕事だけじゃなくて、患者との付き合い方とか、あんたの助手をやりながらあんたに見せてもらったものや教えてもらったものを、あの子はとても大事にしていたんだよ。だから、診療院を拡張してスタッフの増員が必要になったら、自分が新人の教育係になってでも対応したいってね。ルイズが診療院で働き始めた時なんか、ちょうどいい予行演習みたいに考えてたみたいだよ」

 

 私は手にしていたカップを降ろした。

 何だか、とても神聖なことを聞いているような気がしたからだ。今、マチルダが述べている言葉は、恐らくテファと言う女の子の心の在り方そのものなのだろう。見ているようで、全然見えていなかったテファの本当の想いを知り、私は妙に悔しくて歯噛みした。情けないことだが、あの子が何も知らない子供ではなく一人の自立した女性だという事をいつも私は見失う。マチルダはこんなにも私たちのことを見てくれているのに、私はたった一人の妹の事も満足に見えていなかったのだ。

 

「今頃、何しているかねえ」

 

 ふと宙を見上げ、マチルダが呟く。釣られて、私も天井を見上げた。

 空の彼方、アルビオンの大地。

 テファは今頃何をしているのやら。

 常日頃は常にディルムッドが傍に控えているが、その姿までは見えはしない。ディルムッドという使い魔に不満は何一つないが、もし叶うのであれば、彼の視界と私のそれがリンクすればと思うこともある。

 困ってはいないか、泣いてはいないか、あの子に対する心配の種は尽きない。

 

 そんな風に天井に向けていた視線を落とした時、私はマチルダが微かにため息をついたのに気がついた。

 一見すると、いつも通りの酒のようではあった。

 しかし、そんな場に、いつもとはちょっとだけ違う空気が入り込んでいることに私は気がついた。

 マチルダの表情が、微妙にぎこちないのだ。竹を割ったような彼女らしくない、どこから間合いを測るような会話の運びも気になった。本来は他人の私たちではあるが、本音ばかりをぶつけ合って過ごしてきた4年という時間は短くはあっても薄いものではない。

 話が一区切りついたところで、私は切り出した。

 

「それで、あんたは何を悩んでいるんだね?」

 

 ワインを注いだカップを手にマチルダに問う。それを受けたマチルダの動きが止まった。

 驚いたような、でも、それでも予想していたような苦笑いを浮かべるマチルダ。

 

「う~ん、やっぱり判っちゃう?」

 

「そりゃ判るよ」

 

「かなわないねえ」

 

 マチルダは困ったように宙を仰いで頭をかいた。

 

「私でも役に立てる話なら聞かせてごらんよ」

 

 急かす私に、マチルダは躊躇った。顔色が優れないところをみると、やはりかなり言いづらいことなのだろう。

 

「う~ん、でも、どう話したらいいものか、まだ判らないんだよ」

 

「難しい話なのかい?」

 

「難しいというか、あんたを悩ませるのも忍びないというか……」

 

「ちょいと、マチルダお姉様?」

 

 私はカップを下ろして声をあげた。

 

「それはちょっと水臭いんじゃありませんこと?」

 

「判った、判ったからその手はおやめって」

 

 変に気を回す姉を拷問にかけるべく両手をわきわきと動かしながら立ち上がる私を、慌てて両手で制するマチルダ。

 席に戻ると、マチルダが観念したように私のカップにワインを注いだ。

 

「それじゃ、ここから先は内緒話だよ」

 

 マチルダが声を落とした。それだけで真面目モードに移行したことは判った。どうやら穏やかな話ではないようだ。守秘義務の範囲にあることを、私を信用して話してくれるということだ。

 

「これから話すことは、アルビオン王国のウェールズ殿下が私に直々に命じられた御意向だよ」

 

 飛び出した不穏な単語の数々に、私は思わず背筋を伸ばした。

 

「今、アルビオンとトリステインでいろいろ新規の条約や協定がいくつも調整されているのは知っているね?」

 

 私は黙って頷いた。

 

「その中に、アルビオンからの留学生受け入れに関するものがあるんだよ」

 

「留学生?」

 

「アルビオンの復興は、まずインフラの復旧が優先されていてね。家庭教師などで代用が効く学校みたいな施設は割と後回しなんだよ。その関係で、ロンディニウムの魔法学院の再開は未だに目途が付いていないのさ」

 

 紡がれるマチルダの説明によると、ロンディニウムの魔法学院は内戦の影響で施設がかなりのダメージを受けていて、未だに再開の目処が立っていないらしい。また、教官である貴族も多く亡くなっていることもあり、その点も解決には時間がかかるのだそうだ。

 そこまで言われて、ようやく私はマチルダが言いたいことの核心に気が付いた。

 

「その留学生って……」

 

 私の言葉に、マチルダは頷いた。

 

「その通り。テファもその内の一人だよ。ようやく、その協定が締結になったんだよ」

 

 私は顔がほころぶのを堪えきれなかった。

 白の国から来た編入生。テファは原作で、トリステイン魔法学院に入学したはずだ。編入生と留学生の違いこそあれ、これが歴史の修正力なのか何なのか判らないが、物事は私たちにとって良い方向に急速にシフトしていることだけは確かだ。

 テファが、トリステインに来ることができる。

 離れて暮らすと言っても、王都から学院までなら馬で数時間。空の上とは比較にならない。

 その事実は、私の中で強烈な歓喜に還元されて暴れ始めた。

 

「テファの立場を考えれば、確かに相応の教育は必要だからね。しっかりした教養と人脈を身につける必要があるということで話が進んでいるのさ。こっちに来るのはまだちょっとだけ先になると思うけど、アンリエッタ陛下を通じて、もう学院長のオールドオスマンに打診はされているよ」

 

「よく大臣たちがうんと言ったねえ」

 

「そこが殿下のずるいところさ。こうなるように、それとなく復興プランに調整を入れていたみたいでさ。そのうえで、予算には限りがあるから、他の国から受けられる恩恵は目一杯利用させてもらうことを方々に説いて回ったんだよ」

 

 確かに、トリステインにその身を置くと言っても立場としてはアルビオン属のままだ。この程度ならば、アルビオンの虚無としての位置づけが揺らぐことはないだろう。

 殿下が気を回してくれたのだとしたら、私はまた一つ、彼に借りができた事になる。

 しかし、喜ぶ私に比して、マチルダの表情は曇ったものだった。

 

「でもね、これにはひとつ、大事な問題があるんだよ」

 

 重い声で、マチルダが切り出した。ここからが、マチルダの話の本題なのだろう。

 

「問題?」

 

 首を傾げる私に、マチルダはため息まじりに言った。

 

「あの子の本当の姿を、街の人たちにどう伝えるか、だよ」

 

 言われて、私はようやくマチルダの苦悩を理解した。

 私が目を閉じ、耳を塞ぎ、意識の外に追いやっていたことが、ここに一つあった。

 テファのことについて、私はひたすら街の人たちを欺き続けてきた。

 この世界におけるエルフと言う存在を思えば、やむを得ないことと私自身に言い訳してきた。それでも、こんな私たちを暖かく迎えてくれた街の人たちからあの子の本当の姿を隠し、知らん顔でその一員に成りすましていた罪は軽くはない。

 もしマチルダの言う留学制度によって、テファがトリステインに来られるようになったらどうなるだろうか。

 あの子がこの国に来られることを喜んでばかりはいられない。

 学院の方は、恐らく問題ないだろう。アルビオンからの公式な留学生であることがトリステイン貴族の子供たちにどう取られられるかは判らないが、テファのキャラクターならうまくやっていくだろうし、学院ならばルイズも才人、キュルケといったテファの友人たちがいてくれる。オールドオスマンもスケベではあるが話の判らない人物ではない。

 気になるところはベアトリスだが、こちらについてもギーシュたちがいてくれるし、何より私の忠臣がテファの傍には控えている。ベアトリスが異端審問と口にした瞬間に空中装甲騎士団は壊滅の憂き目を見るだろう。

 そんな派手な学生生活が容易に思い浮かぶくらいなのだから、恐らく噂は派手に流れることだろう。そんな噂の一つとして、アルビオンからの留学生がハーフエルフだということが広まることは避けられまい。それがテファのことだと知れた時、街の人たちはテファをどういう目で見るだろうか。

 留学はいい。あの子が私の手が届くところにいてくれることはこの上なく喜ばしいことだ。だが、トリステインに渡った時、恐らくはどこかからかはあの子のことが王都の人々の耳にも届いてしまうだろう。

 今まで、穏やかに仲良く暮らしてきたトリスタニアの人たちが、一転して冷たい視線や心ない言葉をあの子に投げかけたとしたら、あの子は間違いなく傷つくだろう。

 皆を騙していた私やマチルダも同じような仕打ちを受ける可能性はある。そのことについては私は覚悟の上だし、マチルダも恐らく同じ気持ちだと思う。石を投げられるように王都を去る羽目になるのは残念だけど、それはそれで仕方がない。

 だが私としては、そんな思いをあの子に味わわせることになる方が耐えられないことだ。

 

「……そうだね。どうしたものか」

 

 自問するように呟いた私に、少しの沈黙の後にマチルダは声を落として言う。

 その答えは、口にするだけでも勇気がいるものだったことだろう。

 

「どうだろう、ヴィクトリア……私は、あの子の事、街の皆に知ってもらうべきだと思うんだよ」

 

「本気かい?」

 

「いつまでも隠し通せるものじゃないとはかねがね思っていたけど、今のあの子はアルビオンで、生まれて初めて何を隠しも偽りもしないままに生きているんだよ。それを街の皆に知られたくないという理由で、もう一度偽りを重ねるというのは可哀そうだよ。それに、もしトリステインに留学して来るとしたら、あの子のことを皆が知るのは恐らく時間の問題だと思うしね」

 

 確かに、シエスタとジェシカというルートをはじめ、魔法学院ならば王都との間に幾つもの情報ルートが存在する。露見するのはあっという間だろう。

 

「でも……」

 

 なおも口ごもる私の頭に、マチルダが手を置いた。

 振り向けば、相変わらず優しいマチルダの笑顔があった。

 

「私は、信じてみたいんだよ。あの子が大切にしていた街の人たちをさ。ダメだった時は、またその時のことだって考えたい」

 

「怖いね……ダメだったときに失うものが、大きすぎてさ」

 

「私だって怖いよ。でも、ここで街の皆を信じることも勇気ってもんじゃないかな」

 

 

 

 

 答えを探しあぐねて、私が唸っている時だった。

 呼び鈴が軽やかに音を立てた。

 

「あらら、急患かな?」

 

 慌てて立ち上がり、玄関にパタパタと走る。いささか酒が入ってしまっているだけに、診療となったら酔い覚ましの薬を飲まねばならないだろう。ただし、その薬はとてつもなく不味いのだ。その苦さたるや、センブリやハシバミ草が可愛く思えるくらい。例えるなら、正露丸をドリンク剤にしたような感じだ。そのうち何とか固形化して糖衣錠にしようと思っている。

 そんなことを思いながら玄関を開けると、そこに見知った顔があった。

 

「夜分に御免なさいね、先生」

 

 恐らく仕事中なのだろう、商売用の衣装を着て若い健康な色気をまき散らしているジェシカだった。

 

「おや、こんな時間にどうしたね。急患かい?」

 

 私の問いに、ジェシカは首を振った。

 

「急で悪いんだけど、お誘いに来たの。ちょっとお店の方に顔を出してくれない?」

 

「店に?」

 

「町内の主だったところが集まって盛り上がってるのよ」

 

 

 

 

 魔法を光源にした街灯の淡い明かりは、どこか瓦斯灯のような風情を漂わせている。

 そんな遅い時間のチクトンネ街を私たちは肩を並べて歩き、夜になっていよいよ絶好調といった感じの『魅惑の妖精』亭のドアをくぐる。

 

 中に入ると、店の中は結構な人の入りだった。私とマチルダがドアをくぐるなり、それらの視線が一斉に降り注いで来た。

 

「お、やっと真打登場か。待ってたぜ」

 

 程良くでき上がっている赤ら顔の武器屋が、マチルダを見て鼻の下を伸ばしている。

 そんな連中に、上座に用意されていた空席2つに案内される。一体何の騒ぎなのやら。

 

「忙しいところすまないね」

 

 席に座ると、正面にいるのはピエモンだった。どうやら面々の代表と言うことらしい。

 

「別に、あとは寝るだけだったから構やしないさね。それより、何の席なんだね、これは?」

 

「最初は三々五々と集まって来たんだがね。ひとつの話題で店中が盛り上がって、今に至るという感じだ」

 

「話題?」

 

「君たちの妹御のことだよ」

 

「テファの?」

 

 思わず、私はマチルダと顔を見合わせた。

 

「彼女から、手紙が来ていてね」

 

 ピエモンが出したのは、一通の封書だった。

 差出人の名前を見て、私は目を見開いた。

 確かにテファの字で、差出人もテファの名前が書いてある。

 

「ちょっと前に私のところに届いたものだ。私の事をすごく気遣ってくれているようで、何とも申し訳ない限りでね」

 

 珍しく嬉しそうな顔で語るピエモンの表情は、まるで孫のことを語るおじいちゃんのそれだ。

 

「マチルダ、あんた知ってた?」

 

「いや、初耳だね」

 

「読んでみるといい」

 

 許しを得て、私は手紙を読んだ。

 内容は、あの子らしい言葉でピエモンの体への気遣いが綴られていた。特に疾患を抱えている訳ではないピエモンだが、年齢のこともあるので定期健診を欠かさぬようにとか、季節の変わり目は風邪をひきやすいから注意をするようにと言葉が並んでいる。

 最後に、唐突に街を去ったことに対する詫びの言葉と、出来る範囲で診療院を一人で切り盛りする私の事を気にかけてあげて欲しいとの願いが書かれて手紙は結ばれている。

 丁寧な、本当に丁寧な筆致で綴られたそれから、あの子の声が聞こえてくるようだった。

 

「私だけではないよ。皆、彼女から同じような手紙をもらっている」

 

 その言葉に視線を向けると、皆がピエモンと同じ封筒を手にしていた。

 これだけの人達のことを全て記憶しており、それぞれの事情に合わせて丁寧に手紙を書いたことに私は素直に驚いた。きっとすごく時間がかかる作業だっただろうに。その細やかな作業の裏側に、テファの街の人たちへの想いが伺えた。

 感動を覚えて固まる私に、ピエモンが居住まいを正して言う。

 

「さて、話の枕はこれくらいにしておこう」

 

 急な話の方向転換に、私は少しだけ身構えた。

 

「……何事だね?」

 

 深く呼吸をして、意を決したようにピエモンが言った。

 

「妹御の、出自のことだ」

 

 ピエモンの表情に、彼が言いたいことはすぐに理解できた。

 その言葉に、私はさすがにポケットの中の杖に手を伸ばした。

 

「薬屋の……あんた……」

 

 そんな私を、ピエモンが手で制する。

 

「これでも耳はいい方だよ。君らの生まれくらいは知っていたさ」

 

 あまりのことに言葉が出なかった。私の隣では、マチルダも懐に手を入れたまま固まっている。

 私たちが先刻思い悩んでいた事象が、知らぬところで動いていた事実に対応に悩んだ。

 だが、そんな私たちを見る街の面々の視線に尖ったものはなかった。

 普通ならば吊るし上げすらありうる話だろうが、しかし、私たちに注がれている視線はどこまでも優しい。

 

「水臭いわよ、ヴィクトリアちゃん」

 

 振り返ると、そこにスカロンが優しい笑みを浮かべて立っていた。その大きな手にも、ピエモンのと同じ封筒があった。

 

「モード大公の娘さんたちがどこにいるかくらいは知っていたわよ。ティファニアちゃんの耳のこともね」

 

 さらっととんでもない事を言いだす。

 

「貴方達がいろいろ大変だったことも、知っているわ。今回の渡航で、どうしてティファニアちゃんがアルビオンに残って神官職に就いたのかまでは判らないけど、 でも、ティファニアちゃんがアルビオンで公の職に就いたってことは、もう彼女の素性を隠さなくてもいいってことでしょ?」

 

 私は、素直に観念した。

 

 私たちを見つめる皆を前に、私とマチルダは席を立った。

 謝らなくてはいけない。

 姉として。

 テファに偽りの仮面を与えた者として。

 皆を欺いていた事実について、許しを乞う必要があると私は思った。

 それが人として、通すべき筋道だ。その結果がどうあれ、それは私たちが受け入れねばならないものだ。

 だが、そんな私たちの口を、ジェシカが人差し指で制した。そして、店の中に向かって大声をあげた。

 

「ねえ、皆!」

 

 良く通るその声に、店内の客も従業員も一斉にジェシカを振り向いた。

 

「先生のところのティファニアがハーフエルフだってこと知ってる人、手を上げて」

 

 ジェシカの声に応えるように、全員の手が挙がった。

 一人残らず、全員だ。

 

「じゃあ、そのことで先生たちに文句がある人は?」

 

 全員の手がぱたりと下がる。

 

「あんたたち……」

 

 私の隣で、マチルダが声を震わせていた。私はと言えば、驚きのあまり声も出せないくらいだ。

 

「文句といわれても……のう」

 

 居合わせたじい様の一人が、隣のじい様に声をかける。

 

「ハーフエルフって言っても、わしらが別に何かされた訳じゃないしのう」

 

「そりゃ、あんな別嬪さんがハーフエルフだったというはちょっと驚きはしたがのう」

 

「ああいう子ばかりなら、きっとハーフエルフと言うのは優しい種族なんじゃろう?」

 

 あまりの緊張感のなさに、私は力が抜けそうだった。

 唖然とする私たちに、ジェシカが凛とした声で言った。

 

「そんなわけで、お二人さんがアルビオンに行く機会があったらあの子に伝えてくれないかな。街の皆が、帰りを待ってるって」

 

 ジェシカの言葉に賛同するように、皆が頷く。

 正直、信じられなかった。

 エルフのことはこの世界ではかなりの禁忌だ。確かに、貴族の価値観に比して平民の価値観ではエルフに対する忌避感は薄い傾向がある。ヒステリックな反応を見せたクルデンホルフのアホ公女に比べても、原作でアニエスが初めてテファと接する際にも何事もなく接していたように記憶している。それを差し引いても、この対応はどうであろうか。場合によっては、私たちだって村八分だっただろうに。

 

「ジェシカ、あんた、いつからあの子のことを?」

 

「先日パパのところに手紙が来た時にね」

 

「……いいのかい」

 

「いいも何も、訳ありなんてのは女の魅力のひとつみたいなものだし……ねえ?」

 

 ジェシカが同意を求めて振り返ると、今度は居並ぶ妖精さんたちが頷いた。

 

「確かにエルフは怖いっていうけど、あの子のこと知ってると、何だか今さらって気もするしね」

 

 何故だろう。

 状況は理解できても、理由が判らない。

 何故、こうも街の皆はごく自然にテファの事を受け入れられるのだろう。

 

「皆、あの子のことが好きなのよ」

 

 悩む私に、スカロンがあっさりとその答えを言ってくれた。

 

「誰にでも優しくて、本当に親身になってくれて。ハーフエルフってことなんか、あの子の前では小さいことよ」

 

 そんなスカロンの表情に、私はようやく事の真相に思い至った。

 このような奇跡をもたらした魔法使いが誰なのか、街の人たちが穏やかにテファを受け入れてくれたことをプロデュースしてくれた人物が誰なのかということに、私はようやく気付いた。

 ごつい体格に髭を生やした、杖を持たない優しい魔法使い。

 マントの代わりに全身ぴちぴちのレザースーツを着込んだ奇跡の担い手に、私は問うた。

 

「……あんたがやってくれたのかい?」

 

 町内会の役員にして、情報のプロである彼のことだ。テファのことを穏やかに街中に広めることくらいはやってのけるだろう。

 私が向ける問うような視線に、スカロンは笑って肩をすくめた。

 

「私なりにちょっとだけ動いたけど、誰がやっても同じことになったでしょうね」

 

「……あの子は……この街のティファニアでいてもいいんだね?」

 

 マチルダの言葉に、スカロンは大きく頷いた。

 

「当り前じゃない。あの子は、私たちの聖女様なんだから」

 

 いつもは不気味に感じるスカロンのウインクが、心に暖かかった。

 

 私はマチルダと顔を見合わせた。

 心の底からの安堵に、私たちの顔には笑みが浮かぶ。

 トリスタニアに来て以来、何かを積み重ねてきたのは、私とマチルダだけではないことを、私は皆に教えられた。

 日々、テファが丁寧に播いていた幸せの種は、こんなにも素敵な実りを私たちにもたらしてくれたのだ。

 ハーフエルフ。

 シャジャルの娘。

 そして、私たちの妹。

 そんな肩書などが関係のないところで、テファは一人の女の子として人々との絆を育んでいたのだ。

 私の自慢の妹は、こんなにも人々を愛し、人々に愛される存在なのだ。

 それが誇らしくもあり、羨ましくもあり。

 これを知った時、テファはどういう顔をするだろうか。

 あの子のことだ、きっと照れくさそうに笑って、俯くことだろう。

 今夜、私は自分の目標に新たな一項目を書き加えた。

 一日も早く、あの子にこの事を伝えに行こう。

 この事を告げた時のあの子の顔を皆に見せられないのは残念ではあるが、今、私が見たもの、聞いたもの、そして感じたものを、余すところなく全てテファに伝えよう。

 それは間違いなく、誰のものでもない、テファの築き上げた財産なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな人々の歓送を受け、私は翌週にアルビオンに向かって発った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 総会の冒頭。

 

 私は、一番最初に演壇に登った。

 静寂に満ちた議場を見渡し、私は設立される協会が何をなすべきかを端的に述べた。

 それらは、私にとってはごく当たり前の思想だ。

 すなわち、設立される協会は、戦争・紛争・被災・伝染病発生地域における人々の救済活動をその主たる任務とし、平時には各国において医療保健水準の向上に努める機関であることをその存在意義とすること。

 その活動は、国籍、年齢、性別、信条等の別なく、全ての人々を等しく救済するためにあるべきということ。

 赤い十字の旗に対してはいかなる理由があっても攻撃を加えない事を各国の王の杖にかけて誓ってもらいたいということ。また、その旗の下に集うものは、全てにおいて中立であること。

 そして、これらの事業において、携わる者は決して自分の名誉のためではなく、そこで行われる活動にこそ名誉をもたらし、それを前進させるために事に臨んで欲しいと言う主旨のことを述べていく。

 要所要所に前世で耳にしていた医療関係の偉人たちの言葉を、噂に聞いた東方の賢者の言葉として織り込む。それらを口にしながら、私の前世の世界が、どれほど多くの人たちの努力によって確たる医療に関する思想が成立して行ったかと言う認識を新たにする。

 デュナンやナイチンゲールに限らず、ヒポクラテスからマザー・テレサに至るまで、人々のために奮闘し、多くの人々を救って来た先達の言葉と言う形なき遺産がこの身には宿っている。

 それをこの世界の人々に伝え形にしていくことこそが、この世界に対して転生者である私が出すべき処方箋なのだと信じたい。

 私の転生がいかなる理由で発生したのかは判らない。だが、この世界にこれらの思想の種を撒くのが私の天命だったのだとしたら、私は粛々とそれを受け入れ、推し進めていこうと思う。

 戦争は、ヒトという種が抱える宿痾だ。恐らく、人類が死滅するまでなくなることはないだろう。

 だが、人を害してでも我を通すことが人類の業なのだとしたら、その対極に位置する精神もまた不滅であるはずなのだ。

 そのような言葉を一つ一つ積み重ねながら、私の裡にあるアスクレピオスの杖の理想が、この世界におけるブリミルの杖の理想の一つとして根付いてくれることを、私は祈った。

 

 

 

 

 

 会議は午前中で一段落し、私は当面の責任を果たした。

 概略にすると大した事を言った訳ではないが、質疑応答を含めて長く話し続ける事となった。

 事前に配布していた資料をよく見てくれていたおかげで、各国において非常時に派遣される治療師団の登録制は速やかに整備されることになりそうだ。それに対する称号は後々決めるとして、選ばれる治療師に対する名誉についても併せて検討していくことになった。

 第一歩としては上首尾というところだろう。

 

 空いた時間、私は許可をもらって宮殿の片隅にある礼拝堂に赴いた。

 御堂の傍らに、まだ仮の形ではあるがアルビオン王国の歴代の王のお墓があった。既存の墓所はレコン・キスタによって破壊されていたため、再建まではこの場所に碑が置かれていると聞いていた。

 

 その碑の前に立ち、ただ無言で伯父上と会話を交わす。

 報告や謝罪や感謝。

 伯父上に伝えたかったことは幾らでも湧きだして来る。

 私が大嫌いだったアルビオンに於いて、私が理想とする医療の在り方が動き出しているというおかしな構図について、伯父上はどう思うだろうか。

 きっと、いつも通りに難しい顔をして、静かに『うむ。やってみなさい』と頷いてくれるように思う。

 不肖の姪なりに、この墓前に胸を張れる成果を出せれば良いのだが。

 

 

 

「御苦労だったね、ヴィクトリア」

 

 唐突にかけられた声に振り返ると、そこにいた人に私は慌てて姿勢を正した。

 ウェールズ殿下が笑いながらそこに立っていた。

 

「気がつきませんで申し訳ありません」

 

「ははは、いつも言っているけど、堅苦しいことは抜きにしよう」

 

 いつも通りに、フランクに話しかけて来るプリンス・オブ・ウェールズ。プリンスと言いながらも、その身には前回会った時よりも大きな覇気が感じられる。それは恐らく、王としての風格だ。

 この短期間に、彼なりに揉まれながら為政者として成長を続けていたのだろう。頼もしい限りだ。

 

「会議は傍聴席から覗かせてもらったよ。大したものだね。場馴れしている感じがして、安心して見ていられた」

 

「とんでもない」

 

 正直、記憶にある教授たち相手のプレゼンより緊張した。

 声が震えなかったのは上出来だったが、書類を持つ手は細かく震えていた私だ。

 

「謙遜する事はない。各国の評価も高いようだよ」

 

 買いかぶりもいいところだ。所詮、私が述べた事は前世で知った多くの先達の言の葉を集めたものに過ぎない。それを私が信奉していることは確かだが、私の成果として取り扱われてはちょっと困る。

 

「さて、仕事も一段落だろう。ちょっとお茶に付き合ってくれないかな?」

 

 殿下の申し出に、私は曖昧に頷いて先に歩き出した殿下の後に続いた。

 

 

 庭に出ると、遅い春の日差しが柔らかく降り注いでいた。

 まだそこまでの余裕がないのか荒れ放題だった庭の様子は以前と変わらないが、それでも春の息吹が庭の至る所に感じられる。

 静かに歩みを進める殿下に、私は忘れないよう感謝の言葉を述べた。

 

「殿下にはいろいろとお心遣いをいただいているようで恐縮です。どう感謝を述べればいいか」

 

「気にする事はないよ。すべては、必要な措置だよ」

 

 殿下はごく当たり前のような口調で言う。

 

「今の君は、ロマリアすら認める時の人だ。本来は我が国が擁すべき『血十字の聖女』を国外に置いておくのは、我が国にとっても好ましからざる事態だからね、私なりに、相応の努力はするよ」

 

「もったいなきお言葉です」

 

「それに加えて、私とこの国は、君に対して返しきれないほどの借りがあるからね」

 

「その分の褒賞は、もう充分にいただいております」

 

「金だけで片づけたつもりは、私にはないよ。多少の打算ももちろんあるが、この国を預かる者として、救国の恩人にいつまでも罪人の烙印を押したままという訳にはいかない。まずは君のことを国内の頭の固い連中に判ってもらうところから始めているけど、それが成った暁には、私の戴冠か、あるいはアンリエッタとの結婚の機会に、君には恩赦を出すつもりだよ」

 

「恩赦を?」

 

 驚く私から視線を外し、殿下は遠くを見つめた。

 

「『アルビオンには、悲しいことしかない』というあの時の君の言葉は、これで結構堪えてね。だから、私はその言葉を否定できるような国にしてくつもりだ。君が、この国に生まれて良かったと、いつかそう言ってもらえるような国にしていこうとね。そして恐らくそれは、この国にとってもまた正しい政道の形だと私は信じている」

 

「殿下……」

 

「勘違いしないで欲しいけど、それは君に是が非でもこの国の貴族社会に戻ってもらうという意味ではないよ。君は、君らしく生きてくれればいい。君なりにやり甲斐がある仕事も見つけたはずだ。アンリエッタのもとで力を振るってくれれば、私はそれで充分だよ」

 

「過分なお心遣い、重ねて感謝申し上げます」

 

「気にしないでくれ。女性はどうか知らないけど、男はフラれた女性であっても、幸せであって欲しいと思うものだよ」

 

「またそのようなお戯れを」

 

「はは、本当にいつも流されてしまうね」

 

 そう言って笑う殿下の顔に、嫌味なものは何一つない。

 

「アルビオンの再建には、恐らく5年はかかるだろう。復興が終わったら、その時に今一度君に訊こうと思う。この国に、悲しい事以外に何があるかをね。その時に、君の口から私が聞きたい言葉が出て来るように、今は頑張るだけだよ」

 

 それだけ言うと殿下は不意に立ち止まり、視線で先を示した。

 そこにマチルダと、凛とした居住まいの一人の男性が立っていた。

 

「さて、私の案内はここまでだよ。ここから先は彼の案内に従ってくれ。それと、留学の件についてはミス・サウスゴータに感謝しておいて欲しい。トリステインに渡って以来、寝る間も惜しんで交流制度の確立に奔走してくれていたんだよ」

 

 

 

 殿下に背中を押されるように、歩みを進める。

 懐かしいというほどには時は経っていないが、それでも会いたかった美丈夫が、アルビオンの近衛の制服を着て控えていた。

 

「お待ちしておりました、主」

 

 佇むディルムッドの胸板に、私は静かに額を押し付けた。

 

「待たせたね。やっとここまで辿りつけたよ」

 

「いつ来られるかと心待ちにしておりました」

 

「自力じゃ無理だったさ。お前を含めた、助けてくれた皆のおかげだよ」

 

 振り返ると、既に殿下はいなかった。

 私なぞのために骨を折ってくれる殿下に、私は心から感謝の念を抱いた。

 

 

 

 

 ディルムッドの案内に従って足を進めると、庭の一角、ひときわ大きなスリジエの樹の下に、一組のテーブルと椅子が並んでいた。テーブルの上には茶器。そのテーブルの傍らに、優雅な手つきで茶を立てている修道女のような衣装を着た、妖精のような女の子が立っていた。

 夢にまで見た、一人の女の子だ。

 隣を見ると、マチルダとディルムッドが微笑みながら、目で私を促す。

 

 静かに歩みを進め、久しぶりに見る妹の姿を目の前で見る。

 私に気付き、テファが顔を上げた。

 桜の下で、私たちは言葉もなく向き合った。

 お互い、かける言葉は星の数ほどあった。

 でも、どの言葉を使えばいいか判らない。

 泣きそうな顔で、笑みを浮かべる私の妹。

 こういう時、言葉が見つからないのなら私ができる事は多くない。

 思い切り微笑んで、両腕を広げる。

 

「はい」

 

 ほんのちょっと前、ロサイスの桟橋でもテファに広げた私の両の腕だ。

 あの時に用意できたのは、必死に感情を殺した偽りの笑顔だった。

 だが、今は違う。

 それは嘘偽りのない、私の中でもとっておきの笑顔だ。

 ルイズや才人、マチルダにディルムッド、カトレアや公爵やアンリエッタやウェールズ殿下やパリー、そして街の皆が私にくれた、胸を張って妹に見せられる笑顔。

 体ごとぶつかって来たテファを抱き留め、私はようやく失ったものを取り戻せたことを確信した。

 

 見上げれば、満開の桜。

 1年前、皆で見上げようと約束した桜ではあるが、王都での約束は、私の予想の通りに果たすことはできなかった。

 だが、多くの人たちの優しさに支えられて、その約束は場所を変え、遅い春を迎えたアルビオンで果たすことができた。

 かつて伯父上と見上げた大きな桜の下、私の腕の中には、壊れたパズルの大切な最後のピースがあった。

 

 振り返ればこの1年、いろいろなことがあった。

 本当にいろいろなことが。

 運命の嵐の前に多くを失い、二度とこの手には戻らないと思いもした。

 だが、嵐が過ぎ去ってみれば、打ちひしがれていた私の掌に、皆が一つずつ私が失った物を載せて行ってくれた。

 私は幸せだ。

 今、私は笑う事が出来る。

 見えるところに家族の微笑みがあり、抱きしめられるところに大事な人たちがいてくれる。

 どれもこれも、皆、私が知る人たちが私にくれたものだ。

 

 ヴィクトリア・テューダー・オブ・モード。

 

 それは神の視点を持ちながら、何一つ気の利いたことができない出来そこないの転生者の名だ。

 そんな私の周りには、時代を駆け抜けようとしているまだ若い英雄の卵たちがいる。

 そんな彼らと違い、英雄ならざる私の足はお世辞にも早くはない。

 体力もなければ、歩幅だって違う。時代を駆け抜けることなど、とてもではないが私にはできないことだ。

 だが、それを不満に思うつもりはない。

 彼らの傍らにあり、時代を静かに見つめていくことが私の生き方なのだと胸を張ろう。

 そして、走り続ける誰かが息を切らしていたら、その背中を支えてあげられるような存在であることが私の望みだ。

 あの日、彼らが私にそうしてくれたように。

 私の小さな手にあるのは、蒼い水晶でできたアスクレピオスの杖。

 すなわちそれは、誰かを助けるための杖なのだから。

 

 その事をささやかな誇りに、生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この、優しい人たちがいる世界で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~エピローグ~

 

 

 

 トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。

 往来を行き交う行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。

 

 のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。

 

 いつものように、往来を見ながら牛乳を飲むのだが、穏やかな朝もこれからしばらくはおあずけになる。明日から大工さんがやって来て、診療院の増築が始まるからだ。

 念願の入院病棟。全部で4床の病棟だが、小さいながらもそれでも未来に向かう大きな一歩だ。

 これを実験台に、その機能に応じてゆくゆくはより大きな施設が作られる計画になっている。言ってしまえばテストベッドだ。

 看護師については、町内会の伝手でスタッフが数名確保できた。

 いずれも平民で、地方の出ではあるが面接をしたところ、例の血十字の思想に共感してくれているので、献身的な看護が期待できそうだ。入院病棟の隣には彼女らの寮も併設するのでみっちり鍛え上げることができる。お嬢さんたち、地獄へようこそと言った気分だ。

 恐ろしいことだが、これらの設立資金は王室から出ている。より厳密には、アンリエッタの号令によって集められた諸侯からの出資金が基になっていると聞いていたのだが、後でその出資者がラ・フォンティーヌ家の御当主と聞いて私は逃げ出したくなった。どうにも私が頭が上がらない人物であるカトレアではあるが、これをもっていよいよ上下関係が確定してしまった。要するに私は院長で彼女は理事長。侍医団の方々が研修の名目で応援に来てくれるという嬉しい余禄もあるにはあるが、それを差し引いてもどんな目に遭わされるか今から憂鬱だ。

 とは言え、名目上はこれで私の診療院は押しも押されぬ王立の医療施設となったわけだ。やたらと看板が重くなっただけに、この先どのように切り盛りしていくかと思うとなかなか気が重いことも事実ではある。

 そんなことを思っていた時だった。

 

「こら~っ! またあんたは!!」

 

 

 背後から強烈なマチルダの怒声が飛んできた。

 

 

 

 

「いい加減ああいうのはおよしよ。あんただってちょっとずつ成長してるんだし、普通は女が柔肌見せるなんてのは無料じゃやらないもんだよ」

 

「あ~もう、判った判った」

 

 サラダ用の野菜をスライスしていると、後ろからぐちぐちとマチルダのお説教が飛んでくる。相変わらずお堅いマチルダだが、その根っこにある思いやりは、やはり暖かくて心地よい。

 確かに今、私の体は遅い成長期を迎えている。自己診断でも骨端線はしっかり残っているし、日々ちょっとずつ骨が伸びているのが実感できることもある。

 肝心の胸周りは何故かあまり変化がないが、血族を見ている範囲ではある程度は期待はできるだろう。いつかルイズに向かってニヤニヤしながら『汗疹ができちゃって困っているんだよ』というのが当面の目標だ。

 

 

 

 

「そろそろかねえ?」

 

「ん、そうだね」

 

 準備が終わり、皆の到着を待つ食卓。

 私の言葉に、サラリーマンのお父さんよろしく瓦版を読んでいたマチルダが顔をあげた。

 私はエプロンを外して玄関に出ると、隣にはマチルダが並んで立つ。

 見上げると、春の空はどこまでも青い。

 すると、見ていたようなタイミングで黒い影が街の建物の屋根の陰から飛んできて、漫画のようなアクションで私たちの目の前に降り立った。

 

「ただいま~」

 

 ディルムッドにお姫様抱っこされたテファ。

 その服装は魔法学院のそれだ。留学生としてトリステインに渡ってまだ数週間だが、毎週虚無の曜日になるとディルムッドに抱えられて王都まで帰ってくるのが常になっている。学院においてはディルムッドは才人と同様にテファの名誉使い魔と位置付けられている。日々の護衛のみならず、学院からの移動にあたっては大いに役立ってくれていることは今見たとおりだ。

 

「お帰り。ルイズと才人は?」

 

「先に出たはずだけど、私たちの方が先に着いたんじゃないかな?」

 

「ディー、飛ばしたのかい?」

 

 呆れたように言うマチルダに、ディルムッドがばつが悪そうに笑う。

 

「テファさんが急げと仰せでしたので」

 

「だって、家に帰るなら早い方がいいもの」

 

 もじもじしながらテファが言う。いかん、可愛すぎる。この世界にカメラがないのが心底惜しいと思う。

 そんなことを思っていると、

 

「あ~! やっぱりあっちのほうが早かったじゃないの!」

 

「しょうがねえだろ、師匠は規格外なんだから」

 

 通りの向こうから、ルイズと才人の大きな声が聞こえる。恐らくは馬で来て、街の入口のところで預けて走って来たのだろう。

 

「おやおや、二人ともお疲れ様」

 

 

 キッチンでテファと並んで朝食の仕上げ。パンを焼くテファの隣で、フライパンでオムレツを返しながら仕上げていく。大食いがいるので、こっちも作り甲斐がある。

 人数分の用意が出来上がり、お祈りをして食事。

 皆で囲む食卓は、やはりそれだけで胸がポカポカしてくる。

 それにしても、成長期の連中が多いから良く食べることだ。才人はともかく、ルイズも小さくて細い割には良く食べる。私もここに来て徐々に体が成長してきているので、以前よりは食事の量は増えた。

 テファは見た目とは裏腹に小食。それであの『武装』だから人の体というものは神秘に満ちている。

 

 あっという間に料理が片付き、食後のお茶を淹れている時だった。

 

「先生!」

 

 玄関から素っ頓狂な声がしたので慌てて出てみると、一人の少年が息を切らしていた。確か靴屋の丁稚だ。

 

「おや、朝からどうしたね?」

 

「そこの辻で馬車が事故を起こしたんだ!」

 

 その言葉に、一瞬で緊張が全身に走る。

 

「怪我人は?」

 

「見えただけで3人くらい。いきなり馬車の車輪が外れて八百屋の建物に突っ込んで目茶目茶になってるんだ」

 

「判った、すぐに行くよ」

 

 慌ててリビングにとって返すと、話を聞いていた面々は既に動き始めていた。

 

「先に現場に行っております。才人、お前も来い」

 

「了解っす」

 

 ディルムッドと才人が、私とすれ違いざまに玄関から飛び出していった。撤去作業等の力仕事なら彼らは頼りになる。

 

「事故かい?」

 

「だいぶ酷いみたいだね」

 

 マチルダに応えながら、リビングの壁にかけてあった猫バッグを取る。非常持ち出し用として必要な道具は一通り入っているそれは、もはや私の体の一部のようなものだ。引っ掴んで素早く背負い込んでいる私にルイズが昔取った杵柄なことを言う。

 

「診察室、手術の準備はしておくわ」

 

「すまないね、お願いするよ。それじゃ、ちょっと行ってくる」

 

「はいよ。頑張っておいで。大変そうなら呼んどくれよ」 

 

 マチルダの見送りを受けて玄関から慌てて飛び出そうとすると、そこにドクターバッグを抱えたテファが待っていた。

 

「手伝わせてもらってもいい?」

 

「いいのかい?」

 

「もちろん。これでも姉さんの一番弟子だもの」

 

 その言葉に、思わず笑みが浮かぶ。

 久々の、テファとのチームだ。

 

「それじゃ、行こうか。走るよ」

 

「はい、先生」

 

 私たちは走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリスタニア診療院繁盛記 完

 

 

 

 

【DISC2 END】

 


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