トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その30

月のない夜のことだった、

トリスタニアの一角で、数名の男たちが密談を交わしていた。

いずれもローブを着こみ、顔を隠したいかがわしい気配の男たちである。

男たちの前には王都トリスタニアの地図があり、風向き等の情報とともに、数か所の点が描かれている。

そこに火を放ち、王都に焼き働きをかけることで社会不安を煽ることが男たちの目的であった。

斯様な密談を行う男たちの言葉の端々に微かに残るのは、アルビオン訛り。

男たちは 神聖アルビオン共和国の工作員であった。

 

決行の夜を迎え、これから一仕事と言うその時。

出し抜けにノックされたドアに、全員の視線が集中した。

ここは敵地。互いに顔を見合わせ、数名は既に杖を抜いている。

 

「誰だ」

 

一番年嵩の男が、ドアに向かって問う。

返事は今一度のノックの音だった。その叩かれている位置が妙に低いことに、男は首を傾げた。

ドアに寄って少しだけ開けると、そこに小柄な子供が立っていた。

 

「こんばんは、良い夜だね」

 

人形のような端正な貌の少女が、にこやかな笑みを浮かべている。どこかの良家の子女のような、品のある微笑みだった。

あまりに場違いな少女に、男は違和感を感じた。

 

「子供がこんな時間にどうした?」

 

声音をできるだけ抑えながら男は問うたが、帰ってきた言葉はその可愛らしい顔立ちとはかけ離れた剣呑なものであった。

 

「この街に火を点けようという連中がいると聞いたんでね、おしおきしに来たんだよ」

 

にっこり笑う少女に禍々しいものを感じとり、男は即座にドアを閉めて怒鳴った。

 

「敵襲だ!」

 

その声と、ドアが澄んだ音を立てたのは同時であった。

ランプの灯りの中、ドアから髪の毛ほどもない一条の銀色の光が飛び出し、男ごとドアを縦横に舐める。一泊置いて、鋭利な切り口を見せてドアと男が寸断されて床に落ちた。

ただならぬ気配に、部屋の中の男たちが一斉に杖を取る。

倒れたドアの向こうに、白衣を着た少女が青い水晶の杖を手に立っていた。

 

「おとなしく縛に着けば命の保証はしてやろう。手向かうならば是非もない。お前たちの命をどちらに張るかはお前たち次第だよ」

 

涼やかな声と裏腹な、不気味なまでの迫力を含んだ物言いに男たちは恐怖に駆られて杖を少女に向けた。

 

「残念だね」

 

少女の言葉が合図であったかのように、壁を突き破って翡翠色の影が走った。

赤と黄の閃光が走り、一閃した後、男たちの胸板に死の花が咲いた。

 

 

 

 

 

*********************************************************************

 

 

 

 

ここしばらく、トリスタニアの治安はあまりよろしくない。

戦争の匂いを嗅ぎつけて流入してきた傭兵を筆頭に、いかがわしい行商人や遊女等々、風紀を乱す輩が多く目につくようになってきている。

そんな中で、最も迷惑な連中がアルビオンの狗だ。

先の戦いでダメージ著しいアルビオンが戦力の立て直しまでの間にトリステインに対して情報戦や破壊工作などを仕掛けて来るであろうということは周知のことだが、実際に少なくない工作員がろくでもない目的を持って王都に入り込んでいるとなると私たち『町内会』も黙ってはいられない。

情報網に引っかかる連中の数たるや、夏場の蚊のような数だ。

結果として、私も治安担当の役員としてせっせと害虫退治に乗り出さなければならない。

寝不足な日が続くが、街に火をかけるような物騒な連中を野放ししておいては、それこそ下手をすれば永遠の眠りに就く羽目になりかねないだけに、ここしばらくは根競べということで諦めている。

さすがに研修医時代以来の睡眠時間3時間の激務続きなためか、最近は町内会の他の面々も心配してくれて、専ら私の担当である夜の悪党狩りを手伝ってくれている。

しかし、ありがたくはあるのだが、このまま頼んでいてもいいのかと戸惑うことが多い。

何しろ、武器屋が仕切った時は5名程度の間諜のアジトを建物ごと爆破してしまうし、薬屋が代打に立った時は街はずれにあった根拠地に出入りしていた30人ほどの工作員が一夜にして音もなく全滅していた。

普通に死んでいるのならまだいいのだが、前者は爆心地がちょっとしたクレーターになっているし、後者に至っては何故か死体がどれも不気味なまでの緑色をしていたというから洒落にならない。

何故私が町内会の治安担当なのかと言えば、要するにこういう訳で、他の連中は加減というものが下手なのだ。

自業自得ではあるものの、何も知らずにトリスタニアに乗り込んだところをああいう物騒な連中に襲われる間諜諸氏も、さぞ迷惑なことだろう。

 

 

 

そんな日常ではあるが、患者は待ってくれない。日々の仕事もこなさねばならないし、むしろ治安が悪くなっただけに喧嘩だなんだで怪我人も増加傾向だ。

そのため診察時間が長引くので、往診も徐々に遅い時間まで回らなければならなくなる。

そんなある日の帰り道だった。

 

夕暮れ時の中央広場を足早に家路を急ぐ。

サン・レミ大聖堂の鐘はすでに午後6時を告げているが、夏ともなればまだ十分に足元は明るい。

今日の晩御飯は何かなあ、と怠けたことを考えながら歩いている時、視界の端に見覚えがある姿が映った。

見ると、そこに才人と、何だか地味な恰好をしたピンクが座り込んでいた。

何をやっているのやら。

素通りするのも何なので、てくてくと歩み寄ってみる。

 

「どうしたね、お二人さん。こんなとこで黄昏て?」

 

「ヴィクトリア!?」

 

私に気づくなり、才人は大声を上げた。

才人の声にルイズが顔をあげ、私を見るなりぎょっとしたような顔をした。

何だか変な感じがした。いつもはつんつんと突っかかってくるはずのルイズらしくない雰囲気だ。

 

「何だかしょぼくれた顔してるね。お金でも落としたのかい?」

 

冗談で言ったのだが、どういう御利益があったのか二人の表情が固まった。

はて、何かあったのかな、こいつら。

 

「実は…」

 

「ダメよ、才人!」

 

思い切ったように口を開いた才人をルイズが押しとどめる。

 

「じゃあ、どうすんだよ! 他に手があるのかよ!?」

 

「う~…」

 

そんなやり取りをしている二人を見るうちに、原作のイベント思い出した。

そうだそうだ。あれだ、女王様からの調査の話だ。この時期だったんだね。

このピンクは博打に手を出して、活動資金を全部突っ込んですってんてんになったんだっけね。その挙句に『魅惑の妖精』亭で苦労をするんだっけ。

才人の思考パターンを考えると、恐らくは私たちに助勢を頼みたいけど、ルイズの方針と衝突してどうしようか悩んでいると言ったところだろう。

若いと言うかお馬鹿と言うか。

見捨てるのも何だし、ここはひとつ、年長者として水を向けてやるとしよう。

 

「何だか困ってるみたいだね。助けが要るなら出来る範囲で力になるけど?」

 

「え、いいの!?」

 

才人の顔がぱっと輝く。

 

「何を今さら。水くさい。ディルムッドの弟子なら身内みたいなもんだよ。お嬢ちゃん、あんたもよければ家においでな」

 

才人に対して、私の提案にルイズは表情を渋らせた。私の提案に乗るかどうしようか、懊悩しているのが手に取るように判る。

貴族なりの矜持もあるのだろうが、このままここにいてもどうしようもないだろうに。

スカロンが通りがかるのを待って妖精さんになるのも一興とは思うが、ルイズにはある程度平民の生活がどんなものか体で覚えてもらうのは意義のあることとは思うものの、社会勉強にしてもあそこはなかなか厳しいお店だ。知らん顔するには、このピンクと私は知り合いの度合いが深くなりすぎていた。他人事と切り捨てられればいいのだが、前世では捨て猫や捨て犬の前を素通りすることができず、それらを抱えたまま家にも帰れず途方に暮れて母に迷惑をかけることが多かった私だ。後で気にやむくらいなら、この場で手を差し伸べてあげた方が気が楽だ。

 

「悩むのも結構だけど、泊まる泊まらないはともかく、身の振り方を考える間くらいうちにおいでな。茶くらい出すよ」

 

私の言葉にルイズの視線があちこち彷徨う。

本当に今日のこいつは妙な感じだ。

ややあって、ようやく決心がついたように口を開いた。

 

「…お願いするわ」

 

プライドを刻んで差し出すような面持ちで、ルイズは言った。

世話の焼けるお嬢様だね。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほほう…」

 

居間にて、並んで座るルイズと才人と向き合いながら、私達三人は感心して聞いていた。

話を要約するとこうだ。

将来、立派な貴族になるために夏休みの間に市井の人々の生活を知るべく王都に来たものの、財布を落として困っているらしい。

実にもっともらしく聞こえる言い訳だ。即興の方便としてはよく作ったものだと思う。

 

「せっかくの素晴らしい思いつきなのに、財布を落とすとはついてないね。あんまりにもしょぼくれてるもんだから、私ゃてっきり手持ちのお金じゃ良い所に泊まれないから博打で増やそうとして、有り金全部スッちまったのかと思ったよ」

 

私の言葉にルイズが石化した。

わっはっは、どうだ、不気味だろう。『何でそれが判るんだ』と思うだろう。お前の姉に、私はいつもこういう思考の迷宮に引きずり込まれているんだよ。

笑った後、原作知識をこういう歪んだ形でしか利用できない自分がちょっとだけ嫌いになったのは気のせいということにしておく。

そんな私に才人が答える。

 

「ははは、まさか。いくらなんでもそんな馬鹿なことはしませんよ」

 

「何だか棒読みみたいな物言いだね?」

 

「気のせいだよ。なあ、ルイズ」

 

「え、ええ、そうよ」

 

「ははは」

 

才人の乾いた笑いが哀れだった。この先、恐らくこいつはこんな感じで苦労ばかりしていくのだろう。

 

「学院に帰ればいいんじゃない?」

 

マチルダの指摘にルイズは首を振った。

 

「約束しちゃったのよ。報告もするって…」

 

「誰に?」

 

「と、友達よ」

 

最愛のおともだち、という奴かね。私の認識では『パシリ』と同義語な感じなんだが。

 

「そうは言っても、先立つものがなくちゃねえ」

 

「それはそうだけど…」

 

もじもじと口ごもるルイズの隣で、才人が何やら難しい顔をしている。この男は本当に隠し事が下手だ。

 

「それで、家で住み込みで雇ってもらえないかって考えているのかい、少年?」

 

私の言葉に、才人は驚いて顔を上げた。

言おうか言うまいか、葛藤していたのだろう。こういうことについて、ちゃんと相手のことも考えて遠慮しているのがこの男の可愛いところだ。

 

「い、いや…確かに頼めると…嬉しいんだけど…」

 

「お前さん、前にもそんなことやったけど、その時の話は理解できているだろうね」

 

「もちろん」

 

「どうするね、工房組は?」

 

私の言葉にマチルダは両手をあげた。

 

「私は歓迎だね。近々ちょっと大口の注文が入るから人手が欲しかったところさ。ディーもいいだろ?」

 

「私も異存はありません」

 

深く頷くディルムッド。さすがに工房組は大人だなあ。懐が広いや。

 

「知ってのとおり、無駄飯食わせるつもりはないからね。きりきり働いてもらうよ」

 

「ダメよ!」

 

ルイズが鋭い声を上げた。

 

「何でだよ?」

 

首をかしげる才人に、ルイズが慌てて答えた。

 

「工房の仕事じゃ一緒に働けないじゃない」

 

ルイズの発言に場の空気が停止した。

皆から注がれる生暖かい視線に自分の発言の意味を理解したのか、ルイズの顔が朱に染まる。

 

「ち、違うわよ、そういう意味じゃなくてね」

 

そんなルイズを見るマチルダ様は、実によい笑顔をしておられる。

 

「どうも今日は暑いと思ったら、夏ってだけじゃなかったようだね。坊や、あんたも果報者だねえ」

 

「うんうん」

 

マチルダの言葉にティファニアまで満面の笑顔で合いの手を入れる。

今さらだが、公爵家御令嬢に向かってここまで舐めくさったことを言う私の家族はすごいと思う。敬語を使うのはディルムッドだけときたもんだ。

 

「違うってば! 一人じゃ充分なご奉公ができないっていう意味よ!」

 

「ご奉公?」

 

マチルダが聞きとがめ、ルイズは失言に気づいて一気に青ざめた。信号みたいに忙しい奴だね。

ここは裏の事情を知っている私が介入するとしよう。

 

「まあ、一時も離れたくないお嬢ちゃんの乙女心はさておき」

 

「だから違うって!」

 

真っ赤になって否定するルイズだが、才人のほうはもっと赤くなっていた。いぢり甲斐があるのも、主人公の素養なのかも知れない。

 

「まあまあ。とにかく、平民の生活が判る職場であって、かつ二人一緒に働くとなると結構仕事が限られるよ。ここは、塒が一緒ってところで妥協しなさいな」

 

「う~、でも…」

 

「しょうがないんだよ。男と女じゃ守備範囲が違うんだから。二人一緒なんて、酒場あたりがせいぜいじゃないかい?」

 

「酒場?」

 

「ご希望なら知人が経営している店を紹介しようか? 可愛い服を着てお給仕するとチップももらえるお店だよ。他の女給は皆ふくよかだけど、あんたなら青い果実が好みの特殊な客層に結構受けが」

 

「あんたも、ああいう特殊なところを紹介するんじゃない」

 

「痛たたた、じょ、冗談だってば」

 

原作フラグはあっさりとマチルダのウメボシぐりぐりによって破壊された。

まあ、確かに妖精亭を紹介したなんてことがヴァリエールご夫妻にばれたら折檻じゃすまないだろうしなあ。

とは言え、町内会の伝手だとやはり店員系くらいしか思い浮かぶ仕事がない。ただ働くだけではなく、いろいろ情報が手に入らなければならないというのも高いハードルだ。

 

「マチルダはどこかに伝手はあるかい?」

 

こめかみを揉みながらマチルダに訊いてみる。

 

「そうだねえ…商工会の方にあたってみるけど、女の子じゃいろいろ厳しいかもね。一緒に働く、ってのは無理があるよ。自分で商売を始めた方が早いくらいかも知れないね」

 

どうやらマチルダルートも似たり寄ったりのようだ。

そんなことを考えていたら、テファが手を叩いた。

 

「ねえ、ルイズさんの目的は、世の中の勉強だったよね?」

 

「そうよ」

 

ルイズは頷いた。

 

「世の中の人たちの生活がどうかを見たり、平民の人たちの話聞いたりしたいのよね?」

 

「そうよ」

 

「ひとつ、いいところがあるんだけど」

 

笑うティファニアに、皆を代表して私は問うた。

 

「どこさね?」

 

「ここ」

 

テファは下を指差した。

えーと…何を言っているんだろうね、この子は。

 

「テファ、まさか…」

 

テファは笑って頷いた。

 

「診療院のスタッフ。待合室の患者さんたちのお話聞いてるといろいろためになるわよ。才人とは働く場所は違うけど、他で働くよりも心の距離は近いと思うわ」

 

「幾ら何でもうちの待合室でそこまで世の中の話題が飛び交うかい?」

 

どちらかと言えば待合室は具合が悪い人が集まるところだ。基本的に静かなものだと思うのだが。

 

「具合が悪い人の診察時間は静かだけど、終わる間際に集まって来るおじいちゃんおばあちゃんのお話は聞いていてためになるのよ。この間の戦争の前なんか政治サロンみたいで凄かったんだから」

 

なるほど。町内お達者クラブのあれか。確かに、やたら囀るじいさんばあさんが多いとは思っていたが、内容がそんなに凄いとは知らなかった。

私は腕を組んで宙を仰いで考えこんだ。

テファの話を聞くと、確かに悪い場所ではないようにも思えてきた。

まあ、やるだけやってみてもらって、お気に召さなかったら別口を紹介すればいいし、患者さんに迷惑がかかるようならすぐにブレーキをかけられるというのもあるか。紹介した先で暴れられるよりは私たちの世間体の意味では有意義な気もすることは確かだ。

 

「う~ん…どうするね、お嬢ちゃん。あんた次第という感じなんだが」

 

私が問うとルイズもまた難しい顔をして考え込んでいた。

 

「ここにおいてもらえるのは助かるけど、何をすればいいの?」

 

警戒したような表情で言うルイズの前で、人差し指を振って見せる。

 

「まず、そこは『何をすればいい』じゃなくて、『何でもやらせていただきます』が正しい言葉だ。あんたは仕事を選べる立場にはないってことは理解しておくれよ」

 

「な、何よ、偉そうに」

 

「ルイズ!」

 

フォローに回ったのは才人だった。

 

「ここはヴィクトリアの言うとおりだ。俺たちは迷惑をかける立場なんだぞ」

 

「だからって…」

 

「嫌なら別に俺は構わないぞ。さっきみたいに道端で物乞いでもやるか?」

 

「…判ったわよ」

 

 

 

 

とりあえず、才人とルイズにそれぞれ寝室を用意し、おかしな日常がスタートした。

 

翌朝、早速ルイズは手水鉢の用意が何だと騒ぎ始めたが、そこは平民の城である我が家だ。我ら平民軍の集中砲火を浴びて、公爵家御令嬢は黙って自分で水場に向かった。

皆が揃ったところで朝食。

食事に文句をつけるようだったら容赦なく叩き出すつもりだったが、テファの料理はルイズの肥えた舌にも満足いくものだったようで、昨夜の晩御飯に続き、文句ひとつ言わずに皿を空にした。

実際、テファの料理はすごく美味しい。私直伝なためか、限られた食材に工夫を凝らして味を引き立てる技法は和食の遺伝子を内包しており、一口食べれば味にうるさいトリステイン貴族も黙って食べ続けるくらいのレベルにある。その深みは、とても味覚の荒野たるアルビオン生まれとは思えないくらいだ。最初は包丁を持つ手つきすら危ない感じだったのに、天賦の才か、研鑽の成果か、今ではちょっとしたプロの料理人並みの腕だ。たった4年でこれだ。この子もまた、マチルダと同様に一種の異能者なのかも知れない。レパートリーの数は私の方が多いと思うけど、調味料が揃わない王都では私の知るレシピの再現はなかなか難しく、そういう状況ではテファの出藍の誉れを素直に認めざるを得ない。師としては嬉しいような寂しいような複雑な心境だ。

 

「それじゃ、行ってくるよ」

 

「はいよ、行っといで」

 

朝食が終わればマチルダを先頭に、工房組の御出勤だ。

二人の後ろにくっついていく才人が、何回かルイズの方を振り返る。何気に過保護だね、あいつも。

そんな一行を見送り、私は振り返った。

 

「さて、それじゃあこっちもお仕事を始めよう」

 

既に全員着替えは終わっている。テファとおそろいのスタッフ服、メンソレータムのリトルナースのようなウェアを着たルイズだが、戴帽したその姿は素材がいいだけにさすがに可愛らしい。テファとの体格の違いもあってサイズはいささか大きすぎたようで、首から下は何だか服に着られているようなありさまだ。明日あたりに専用の服でも誂えようと思う。

そんなルイズに通り一遍の説明をざっと済ませる。

 

「とりあえずは、ティファニアのサポートがあんたの仕事だよ。詳しいことはテファにお訊き。テファ、初めての弟子だ。よろしく頼むよ」

 

実際、テファの仕事はバスケットクローズな部分が多いので、やることを私の方から全部説明することはできない。

 

「はい、先生」

 

「先生?」

 

テファが私を呼ぶ呼び名が変わったことにルイズが首を傾げた。

 

「そうそう。お仕事中は私のことは先生と呼ぶこと」

 

「何でよ?」

 

「仕事をするうえでは、それぞれ立場と言うものがあるからだよ。スタッフが私を先生と呼ぶことで、患者が安心を覚えることもあるんだよ」

 

「そういうものなの?」

 

「考えてもごらん。体調を崩して治療師に診てもらう時、その治療師が弟子にため口きかれてたらどう思うね? そこに頼りがいを感じるかい?」

 

医療に携わる者にとって、言葉もまた大事な道具の一つだ。産婦人科の看護師が、新生児を初めて父親見せる時は必ず『お父様似ですね』と言うようにしているのがその代表例だろう。

不安を抱えた患者の情緒の安定のためにも、発する言葉は選ばなければならない。

 

「…それは確かにそうね」

 

「それと同じくらい、スタッフであるお前さんの表情も大事だからね。できるだけその場その場に合わせた表情を作ってあげること。笑顔一つで患者の気が楽になることもあるんだ。その辺もテファから盗むように。あと、診察室にはいいと言うまで絶対に入っちゃダメだよ」

 

「何でよ?」

 

ルイズは怪訝な顔をした。

 

「医者以外の者が触れてはいけない情報がたくさんあるからだよ」

 

「どういうこと?」

 

「例えば、お前さんがひどい水虫になったとする」

 

「違うわよ!」

 

「例えばの話だよ。それが悪化して我慢できなくなって、誰にも知られたくないのに自分一人じゃどうしようもなくなって、勇気を出してうちを頼って来たとしよう。そういう話を、一度にたくさんの人に知られることをどう思うね?」

 

「…例えはともかく、そうね。判ったわ」

 

「では、お仕事開始だ」

 

 

 

 

そんな感じでルイズの診療院勤務の初日が始まった。

冷静に考えてみれば、『どうしてこうなった?』な話ではある。本来なら、今頃は酒場で現実に直面して泣きっ面を晒している頃だったろうに。世の中、何が起こるか判らないから油断がならない。

そんなルイズの働きぶりだが、いろいろ問題点の多い子でもさすがは学院の才女、おつむの出来は優秀だ。健保や労災もないこの時代、うちの診療所の事務は医療事務というほど御大層なものではないので実態は商家と違いはないが、それでもルイズの手際はなかなかに見事なもので、各種の書類をテファと二人でてきぱきと片付けてくれている。手を動かしながらも終始仏頂面なのが珠に傷だが。

気がかりだったのは、患者への配慮だ。

診療院のスタッフの仕事は、綺麗事ではすまない事がたまにある。

病気や怪我というものは、基本的に非日常的なものであり、それらが集まってくる診療院にも非日常的なものが多く集積されるのだ。

例えば、待合室では体調が悪い患者が嘔吐することがある。

大小を失禁することもある。

膿を垂れ流していたり、血まみれの患者も稀に運ばれてくる。

そういう患者が来れば、診療院の床や椅子が吐瀉物や糞尿、血液や体液で汚れる。

診療時間後の掃除なら私も魔法を使って手伝うのだが、診療時間中はそれらの掃除はスタッフの仕事だ。

どれを取っても患者の責任を追及はできないものであり、スタッフは嫌な顔をせずにそれらの始末をしなければならない。

私がテファを最も尊敬しているのはこの点だ。

4年前、まだ子供っぽかったテファに受付を任せた時、こういう事態に対処できるかちょっとだけ考えた。

私のように、それが当然と言う医療関係者の視線を期待するには、テファは幼すぎると思ったからだ。

しかし、テファは模範的とも言えるほどの対応を見せた。

笑顔のままそれらの問題に対処し、患者への労りも忘れない。

時には急変した患者の吐瀉物を浴びるような事もあったが、それでも彼女の天使の微笑みには罅ひとつ入ることはなかった。

私のことを『慈愛』などと呼ぶ人がいるが、本当に慈愛の二文字が似合うのはテファだと私は思っている。そんなテファを育てたシャジャルという人物は、きっととてもいい母だったのだろう。

そんな診療院スタッフの仕事にルイズがどう対処するか。私の心配はそこに集約されていた。

人を見下すことにかけては定評のあるトリステイン貴族の中でも、プライドの高さは最高峰に位置するようなルイズだ。『魅惑の妖精』亭の勤務においてもそのプライドを吹っ切るまでにだいぶ苦労をしていた記憶がある。そんな彼女が患者たち相手にどんな態度を取るか気が気ではなかった。

基本的に病人というのは気落ちしているものだ。ハルケギニアのように働けなくなるとすぐに明日の糧にも困るような世界では、その不安は前世世界の比ではない。そういう患者への気配りも医療スタッフに必要な資質になのだが、しかし、そんな私の不安は、逆の方向で裏切られた。

 

「ちょっと、あんた、大丈夫!? 順番入れ替えてあげるからちょっとだけ我慢しなさい! ティファニア、膿盆っていうのどこだっけ!?」

 

元気のいい、はきはきした声が診察室まで聞こえてくる。

半ば本気で『何で私が平民の面倒を見なきゃいけないのよ』とか言うんじゃないかと思っていたルイズだが、仕事初日からその私の予想を覆す活躍を見せている。

もめるようなら事務仕事だけをお願いしようかと思ったが、患者への対応は実に的確で、やや強めの物言いも、見方によっては心強いくらいの頼もしさがあった。

ここで気づいた私の考え違いが一つ。

ルイズという子だが、貴族としてのプライドが高く平民を下に見ているものの、決して平民を虐げることを良しとしているわけではないということだ。

原作では『魅惑の妖精』亭でずいぶん打ちのめされていたが、あれは御愛想を振りまいたり媚び諂うことを求められる等、彼女のプライドの方向性と真逆の仕事を強いられたがためのものだったのだろう。

考えてみれば、才人に辛く当たったのだって、才人にも悪い点がたくさんあったからだったように思う。パンツに細工でもされれば、ルイズでなくても怒るだろう。この世界のカーストを考えれば食事抜きどころか無礼討ちだってありえる話だ。

診療院のスタッフの場合、基本的に来訪者はこちらに『助けを求めに来る』という立ち位置だ。それに対してこちらは協力して健康を取り戻そうじゃないかという姿勢で臨むのだが、酒場のようにあからさまに客に御奉仕するという類の商売ではないだけに、ルイズ的な視点で考えると患者に対する庇護欲が刺激される仕事なのかも知れない。誰かを守るというのは貴族の本質。気高いルイズにとって、困っている人を助けるという診療院の仕事が彼女の中の貴族としての部分と噛み合ったのだろうか。

また、常日頃『ゼロ』だの何だのと冷笑を浴びてきたルイズにとって、誰かに頼りにされ、救いを求められると言う環境は傷だらけの自尊心を満たすものであったのかも知れない。

考えてみれば、昨年初めて会った時に比べても、ルイズの態度はかなり角が取れた感じがする。才人との出会いによる『つんつんルイズの解凍作業』がどの程度進んでいるのか知らないが、他人と接する際にまず威嚇から入るようなことは今の彼女にはないようだ。

理由はどうあれ、スタッフとして的確な対処をしてくれているのなら私としては文句はない。

思わぬ見つけものをしたような感じだった。

 

「どうだね、あの子は?」

 

カルテを持ってきたテファに尋ねると、テファはにっこりと満足そうに笑う。

 

「はい、とてもよく働いてくれていますよ」

 

さも当然と言う感じの表情だった。

もし、テファがルイズのそんな性質を読んだうえで提案したのだとしたら、私はまだまだティファニアという女の子を見誤っているということになる。

これが成長というものなのだろうか。はたまた活字になっていなかったティファニアの個性なのかもしれない。

世の中は、まだまだ不思議に満ちているのだと私は思った。

 

 

 

一日の仕事が終わると流石に疲れたようで、ルイズはキッチンのテーブルに突っ伏していた。

テファのお手伝いとしてサラダの準備をしている私の隣で、あ~とかう~とか唸っている。

もともとあまり運動をしない子だったのだろうか。スタミナには少々不安があるようだ。

本当は夕飯の手伝いもさせたいところだが、今日は勘弁してあげよう。

 

「ただいま~」

 

「おかえり。お疲れだったね」

 

そんなキッチンに晩御飯の美味しそうな匂いが漂い出したあたりで、工房組が帰って来た。

こちらはと言えば、才人もいささかお疲れ気味だった。どうやら仕事の後でディルムッドに扱かれてきたらしい。

間を置かずにテーブルにティファニアが作ってくれた晩御飯が並ぶ。

今日は野菜のクリーム煮だ。

テファには栄養学のさわりくらいは教えてあるので、献立の内容はいつも栄養のバランスが取れている。

それぞれが信じるものに祈りを捧げて夕食が始まる。

 

「どうだったね、久方ぶりの工房仕事は」

 

よほどお腹が空いていたのか、がつがつと食事を貪る才人が食べ物を慌てて飲み込んで答える。

 

「さすがに疲れたよ。相変わらずすごい繁盛しているのな。その後で稽古だから、もう腕がぱんぱん」

 

「まだ体が出来上がっていないのと、力の抜き方が判っていないからだ。それこそが己の未熟な部分と考えるのだ」

 

その隣でディルムッドが優雅な手つきで食器を持ちながらコメントする。クールに決めているつもりなのかも知れないが、口元が微妙に緩んでいるのが私には判る。意外と師匠馬鹿だね、この人も。

 

「うう、先は長そうっすね」

 

「今のお前は、例えるならただの鉄の塊だ。それをお前が理想とする剣の形に鍛え、研ぎ、磨き上げていくのが鍛錬というものなのだ。時間がかかるのは当然のことと思え。何、仕事も剣も、筋は悪くない。焦ることはない」

 

「へへ、そうですよね」

 

ディルムッドの微妙な誉め言葉に才人がニヤつく。う~ん、うまくやっているね、この二人。

考えてみれば、ガンダールヴに稽古を付けられる剣士なんてハルケギニア広しといえ言えどもディルムッドくらいなものだろう。ガンダ―ルヴ発動時に、本気の本気で打ち込んでも受け止め、しかも叩き伏せてくれるような剛の者だけに才人も素直に懐いてくれているのだと思う。

 

「やっぱりもう一人男手があると助かるね。できればこのまま本当に雇いたいくらいだよ」

 

マチルダの方も才人の働きには満足しているようだ。それを受けてなのか、ティファニアが言葉を付け足した。

 

「ルイズさんもすごく頑張ってくれたよ」

 

テファの発言に工房組が目を丸くする。

 

「何よ、その反応は?」

 

不機嫌に睨みつけるルイズに、才人が応じる。

 

「いや、お前、絶対ヴィクトリアを怒らせているんじゃないかって思ってたから…」

 

才人の言葉に、ルイズより先にティファニアが応じた。

 

「そんなことないよ。ルイズさん、患者さんにも元気のいい子が入ったね、って誉められてたんだから。ねえ?」

 

「当然よ」

 

テファのフォローに得意そうな顔をしているルイズだが、まあ、確かによく働いてくれたと思う。

むしろ、本来の目的は大丈夫なんだろうかと不安になるくらいだ。

 

「まあ、お世辞抜きでよくやってくれているよ。この時期は熱中症の患者が多いから、人手が多いのはありがたいね」

 

「毎年姉さんも魔法で冷やすの大変だしね」

 

茹って運ばれてきた患者を濡れタオルで冷却する人手が確保できたのは、精神力の消耗の点からも確かに助かる。

そんな食卓の空気に、ルイズと才人が発する戸惑いが僅かに漂う。

 

「ねえ、ティファニア。訊いていい?」

 

ルイズが首を傾げながら訊いた。

 

「何?」

 

「前から不思議だったんだけど、何でこの子のこと、姉さんって呼ぶの?」

 

「え? だって、姉だもの」

 

「姉?」

 

ルイズと才人が言葉が飲み込めないような味のある顔をしている。

マチルダとディルムッドが顔をそむけて笑いをこらえているのがいささか面白くない。

 

「ヴィクトリア…お前、幾つなんだ?」

 

「女に歳を訊くもんじゃないよ」

 

「いいから答えなさいよ」

 

ルイズがきゃんきゃんと喧しい。

隠すことでもないので実年齢を開陳すると、予想通りに二人が通りまで聞こえそうな大声をあげて驚いた。

判ったら、少しは年長者を敬え、原作主人公組。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな感じに、夏が過ぎていく。

1週間も過ごすと、私たちにも居候2人にもそれなりにリズムと言うものができてくる。

そんなルイズだが、仕事に慣れるに従って私が扱う医術についても結構深い部分まで興味を示すようになってきた。

確かに一風変わった医療道具が並ぶ診察室だが、何が面白いのか時間があるときは私に断りを入れてから診察室に並ぶいろいろなものをつぶさに見て回っている。

その熱の入り方は、弟子入りでも考えているのかと思うほどだ。

もともと、魔法を一生懸命に勉強していたのはカトレアの病気のためだったように思うが、魔法については虚無という属性に目覚めてしまった以上、残念ながら仮に弟子入りを志願されてもルイズには私の技術は継承できない。

この世界の私の医術を教えるには、水メイジであることは必須の要件なのだ。

もし、魔法以外の部分の一般的な医術の部分について教えるとしたら、腰を据えて10年は勉強してもらわなければならない。実地と座学、どちらもそれなりのボリュームの勉強が必要なのだが、虚無の担い手になってしまったからにはルイズにその自由はないだろう。

私としても、もし本当に自分の知識の継承を考えるのなら、こんな小さな診療院ではなくティーチングホスピタルや大学病院のような教育機関の設立を検討する必要があると思う。その設立にはそれなりに資金とコネがいるだろう。無論、そのどちらも私にはない。

カトレアあたりに相談すれば何とかしてくれるかも知れないが、代償がどれだけ高くつくかを考えるとおっかなくて言えない。

カトレアと言えば、ここしばらくは寛解の状態を維持しており、熱発も発作も起こっていないと聞いている。

侍医長の話では侍医団の中にも免疫系への理解が浸透し、本格的に幹細胞再生への研究がスタートしたらしい。どういうアプローチになるのかは私ごときでは想像もつかないうえに、伝えるべきものはほとんど伝え切ってしまった今となっては、会合を持つたびに私の方がいろいろ教わるのが常になっている。

医学には臨床と教育、そして研究の三分野があるが、話を聞くたびに、こてこての臨床の徒である私と違い、研究部隊でもある侍医団の対応レベルの深さには恐れ入るばかりだ。

私も研修医時代には臨床研究のような形で論文の世界の欠片を見たことがあるが、論文と資金に追いかけられる生活が性に合わず、どちらかと言えば小脳で生きているタイプなので研究の方向はすっぱり見切って臨床医に専念したような記憶がある。彼らのように物事を深めていくことは私にはできない。

正直、今一度この世界の医療体系を基礎から勉強してみようかと思ったこともある。トリステインではアカデミーのように研究については立派な組織が整備されており、予算についても科研費みたいに使い方が面倒で研究の足を引っ張る制度もないのだろうから学べたらさぞ楽しいだろうとは思うのだが、所詮今の私は平民の町医者。そのような正規の学問を修めることは夢のまた夢だ。

 

閑話休題。

 

診療院の基幹業務の一つに往診があるが、慣れてきた頃合いを見計らって、私は積極的にルイズを往診に連れ出すようにした。

診療院のスタッフとして働くだけでは、ルイズの求める情報に偏りが出るであろうと思ったからだ。

困ったのは鞄持ちで、テファに比べて体が小さく非力なルイズはドクターバッグを運ぶことができなかった。

金属製の道具や秘薬が入っているドクターバッグは、確かに結構重い。

ルイズの細腕では持ち上げることはできても、往診先まで握力が持たないようだ。意外なところで貴族のお嬢様らしい部分を露呈したルイズだった。

仕方がないので、私も幾ばくかの荷物を持つことにした。マチルダに荷物を入れる鞄を作ってもらったのだが、普通のドクターバッグをお願いしたはずなのに、でき上がって来たのはどういうつもりなのか猫さんをデザインしたリュックだった。

渋い顔でそれを背負った私を見る爆笑3秒前の表情のマチルダと、既に大爆笑の才人。ディルムッドは感情を殺したように無表情になっているが、雄弁な沈黙もこれに極まれり。テファは『お持ち帰り~』とか言いだしかねないくらいに目をキラキラと輝かせている。

降り注ぐ生暖かい視線に、私はこめかみに井桁模様を浮かべた。

やってくれた喃。

いたずらの罰として、マチルダをくすぐり地獄の刑に処す。

マチルダのウメボシぐりぐりに対抗するために編み出した技だが、何気に感じやすいマチルダはこの種の攻撃に殊のほか弱いのだ。加えて女同士、しかも私は水のメイジだ。泣き所は手に取るように判る。1分間ほど施術して溜飲を下げ、息も絶え絶えにぐったりするマチルダを置いて私はルイズを伴って往診に出発した。

 

往診の多くは寝たきりの方の床ずれの治療だが、稀に寺院併設の孤児院に呼ばれることもあるし、怪我などのリハビリをしている患者の様子を見に行ったりもする。

そんな往診の中には、大口の定期巡回も含まれている。

 

「今日はどこ?」

 

鞄を手に隣を歩くルイズが、笑いながら私の背中の猫バッグを見ている。お前もくすぐり倒してやろうか。

まあ、見たくなるのも判らないでもない。妙にキャラクターとして完成したコミカルな猫だ。

コミカルなくせに使い勝手は完璧で、しかもしっかり背中に馴染むあたりはさすがはアトリエマチルダの作品だが、私の外見とも見事に馴染んでしまっていることには全私が泣いた。

 

「下町の職人街だよ」

 

「職人街?」

 

「職人の御隠居たちが住んでいるエリアなんだよ。とりあえず、今日の相手はお年寄りだ。幾ら平民でも、年長者への相応の対応を頼むよ」

 

そんなルイズを連れて出向いた先は、リタイア後の身寄りがない職人たちが集まって暮らす一角だ。雰囲気は日本の感覚だと昔の長屋に近いように思う。年齢を始め、いろいろな問題でリタイアした職人たちが頼る先もないので集まって来て自然発生的に生まれた地区だ。

川に面したお世辞にも綺麗ではないエリアに建てられた建屋の佇まいは貧民窟まで一跨ぎな気配もあるが、最初の訪問以来徹底して衛生の概念を説いているので不潔な感じはしない。

家の玄関口に椅子を置いて日向ぼっこをしていたお年寄りが私に気付き、歳に似合わぬ大きな声を上げる。

 

「先生がお見えだぞ~」

 

それを皮切りに、家々からゾンビのようにぞろぞろとお年寄りが湧き出てきた。その迫力にルイズはやや顔をひきつらせているが、私たちを見る彼らの視線は孫を見るような優しいものだ。

定期的な巡回なので住人もすっかり心得ていてくれているようで、診療場所に指定してある集会場のような建屋には、既に今日の患者さんが集まっていた。

人間、製造から半世紀も過ぎれば至るところにガタが出てくるものだが、この界隈のお年寄りたちは割合としては元気な人の方が多い。威張る訳ではないが、私の成果だ。

お金のないお年寄りの病気の治療を好んでやる者がトリステインにはほとんどいないためか、老いたり病んだりした身寄りのない職人たちは終の棲家を求めてこのエリアに移り住んでくるのだが、そんな姥捨て山みたいなエリアに住まうお年寄りの体に元気を吹き込んでいく。

新顔の3人を含め、継続的な治療が必要な患者たちを診察し、加齢によっておかしくなっている部位に秘薬と魔法で治療をかける。白内障や緑内障等で視力に問題を抱えた患者や、前立腺肥大にリウマチに神経痛、今は根絶してしまったが、最初の内は胆石や結石、癌や狭心症を患っている患者もいた。老いと言うものが不可避なものである限りは、どんな人でも罹患しうる病気ばかりだった。そんな、積み重ねた人生の重みに押し潰された部位を抱えた患者に治療を施していく。

これとは別に、全員に対して定期的に診ているのが脳の状態。脳の血管を始め、大脳皮質や海馬の萎縮や脳室が拡大していないかを血流の具合で調べて行く。言うまでもなく認知症の確認だ。

さすがにアルツハイマー型認知症は予防法を伝えるくらいしか対処法がないが、脳血管性認知症ならばこの検査で危険因子を探ることができる。

お年寄りと言うのは、生きた情報集積体だ。おばあちゃんの知恵袋ではないが、彼らが持っている知識やノウハウは情報媒体が貧弱なこの世界ではこの上なく貴重なものであり、老衰以外の理由で朽ちさせてしまうのは国家の損失だと私は思っている。文字にも形にもできない貴重なノウハウは失われてしまったら取り返しは付かない。記憶によれば、アポロ計画で華々しく活躍したサターンⅤ型ロケットは、その製造のノウハウが失伝してしまったがために21世紀のNASAは同じものが作れないのだと聞いたことがある。図面や設計図は引き継ぐのは容易でも、人の持つスキルやノウハウと言うものはそう簡単には行かない。そんな人的資源にこんなところで老けこまれたり恍惚に陥ったりしてもらってはもったいないことこの上ない。

また、働くと言うことは、恍惚防止には非常に効果がある。社会はまだまだ彼らを必要としていると言うことを彼らに自認してもらい、その張り合いを裏付けにして積極的に脳を動かしてもらうのが認知症防止の最大の特効薬だと私は思っている。

さすがに老衰はどうしようもないが、目だの腰だのといった回復可能な理由で仕事をリタイアした人の体にレストアをかけて、もう一花咲かせてもらうと言うのが私の理想とする老人介護だ。

あとはシルバー人材登用の制度の確立だが、その辺は街の商工会の方にマチルダが渡りを付けてくれているので予想以上に円滑に回っており、最近ではこのエリア独自の工房も立ち上がり、高い評価を受ける産品が世に送り出させるようになっても来ている。

常々魔法と言うものはチートだと思っているが、こういう少子高齢化問題の解決にすら資する部分を見ると、やはり魔法は貴族の精神的根幹と言うよりも社会基盤のツールとして位置づけた方がこの世界の笑顔の総量は増えるのではないかと私は思う。

とは言え、実現するとしたらブリミル教を叩き潰した上で、貴族制を排する市民革命あたりを起こさないとダメだろう。

荒唐無稽の域を出ないと言うのが実に残念だ。

 

そんな午後の診察、ルイズに助手をやらせながら患者を捌き、一段落したところで動けるお年寄り全員に広場に集まってもらう。

綺麗に整列したお年寄りたちの前に立って向き合い、大きな声で叫ぶ。

 

「では、腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動ぉ~!」

 

居並ぶお年寄りが、一斉に私の動作を真似て運動を始める。

ラジオ体操。

これが老人医療における私の切り札のひとつだ。

釣りは鮒に始まり鮒に終わるというが、私にとって健康法はラジオ体操に始まりラジオ体操に終わる。

何しろ、ラジオ体操のルーツは保険会社の考えた健康体操だ。その動機は『保険金を払いたくないから皆に健康になってもらう』という清々しいほどに打算的なものであり、金をケチると言う人間の最も欲深いところから生み出されただけあって、その内容は実に合理的なものだ。健康のために太極拳をやる方もおられるが、あれは辿って行けば根は武術であり、目的は効率よく敵を殺傷するためのものなので、純粋に健康と言う面で考えた時はラジオ体操の方が優れていると私は信じている。真面目にやると、このラジオ体操と言うのはなかなかきつい運動だ。真剣にやると全身の筋肉を使うことが判るし、終わるころには息が切れるくらいだ。

ここのお年寄りには毎朝やるように言い含めているが、始めて以来、彼らの健康状態が確実に上向いているのは否定できない事実なのだ。

のびのびと運動している私の隣で、同じ動きをしているルイズの動作はぎこちない。まだ照れがあるようだ。

ナースウェア姿で、もぢもぢとラジオ体操をするルイズ。

客観的に見て非常に可愛らしい。それはもう、やばいくらいに。

才人が見たら、アレな発作を起こしそうな光景だと思う。

 

一汗かき終わったところで、住人から茶と茶菓子が振る舞われる。

この茶菓子、菓子職人だった方がおられるのか実に美味。このエリアの往診の密かな楽しみの一つだ。

最初は抵抗を示していたルイズも、一個口にした途端に黙ったくらいだ。

そんなささやかな茶会に招かれながら、それとなく世の中の話題について話を振ってみる。

ルイズを連れてきた理由はこれだったりする。

海千山千のお年寄りばかりなだけに、その見識には若い者にはない深い造詣がある。

どういう経歴をお持ちなのか知らないが、政治についても客観的で鋭い意見を述べる方も少なくない。

アルビオン攻略の是非や、諸外国との関係見直し、内政についてはアリンエッタの努力を評価する声が多いものの、それは年齢と経験の割にという但し書きがついているようだ。

それらを聞くルイズの表情は真剣そのもので、基本的に悪意がないお年寄りたちの話に一心に耳を傾けている。

それは報告書の形でアンリエッタに伝わることだろう。

この国の行く末に、多少なりとも役立ってくれればいいのだが。

 

 

 

 

 

往診の帰り道、私の隣を歩きながらルイズが口を開いた。

 

「噂には聞いていたけど、知れば知るほどあんたの治療法って本当に独特ね」

 

「そうかい?」

 

「そうかい、じゃないわよ。自覚あるでしょ? あんな体操、本当に効果があるの?」

 

「あるよ。それはもう素晴らしいくらいに」

 

「本当かしら。あんなの、今まで聞いたことないんだけど」

 

「う~ん、あんたが今まで見てきたのは治療医学と言うものでね。あの体操はそれと違って、予防医学という部類のものなんだよ」

 

「予防医学?」

 

首を傾げるルイズに、予防医学の重要性を説明する。

健康というのは基本的に不安定なものであり、油断をすれば人はすぐに病気を患う。

歳を取ればなおさらだ。

そうならないように、日々食事や運動などの生活習慣や定期健康診断などで病気にならない体を作っていくことが予防医学の基本的な考え方だ。

ともすれば、西洋医学と同様に対処療法に偏りがちなハルケギニアの医療では、確かに変わった考え方だとは思うが、その有効性は先のお年寄りたちで実証済みだ。

病気は、なってから治すより、かからないようにすることの方がQOLの観点からは有益だということはできれば広まって欲しいと私は思う。

そのことを噛み砕いて説明すると、ルイズはますます難しい顔をした。

 

「そんなにいいものなら、何で世の中に広めようとしないの?」

 

「所詮は平民の町医者の戯言さね。今は手近なところから始めて、徐々に広めていくしかないんだよ。あと50年もすれば、それなりに広まってくれるんじゃないかねえ」

 

「…本当に変わってるわね、あんた」

 

「褒め言葉と思って受け取っておくよ」

 

あきれたようにため息をついたルイズはそれきり黙りこんでしまった。

何を考え込んでいるのか知らないが、私の説明を噛み砕いて理解しようとはしてくれているらしい。

足音だけが聞こえる時間が数分ほど流れ、ルイズが唐突に口を開いた。

 

「ねえ、ひとつ訊きたいことがあるんだけど…」

 

「何だね?」

 

「私の、姉のことなんだけど…」

 

そんな会話をしている時だった。

 

『主、今はどちらに?』

 

ディルムッドから『通信』が入った。

話を続けようとしたルイズを手で制し、意識を集中する。

基本的にディルムッドが念話を使うことは非常時以外あり得ない。

 

『もうじきブルドンネ街だよ?』

 

『それはよかった。ブルドンネ街で事故が起こりました』

 

 

 

 

 

 

「どいておくれ!」

 

最低限の荷物をリュックに詰めてブルドンネ街に向かうと、現場は野次馬でごった返していた。

街の一角の建設現場で足場の倒壊。

絵に描いたような労働災害だ。死者は幸いにも出ていないが、怪我人多数。中でも深刻だったのが転落し、建材の下敷きになった石工だ。

見知った顔だった。お腹が大きなカミさんがいたはず。

私が到着すると、ちょうど石工仲間が彼を瓦礫の下から助け出したところだった。

駆け寄ると、石工たちがスペースを開けてくれる。

横たわる石工を診ながら、体に染みついた外傷初期診療ガイドラインに基づいて状態を確認する。

頭部外傷はなく見当識も正常なようだが、右足の挫創と腹部に刺さった鉄片が深刻だ。出血も酷い。腹をやられているので蚊の鳴くような声で石工が言う。

 

「助け…」

 

「安心おし、寝ている間に何とかしておいてやるから、ちょっとの間お眠りな」

 

魔法で患者を眠らせて応急で止血を行う。腹に刺さった鉄片はそのまま残置だ。

 

「力自慢何人か、板に載せて揺らさないようにうちに運んどくれ!」

 

診療院に着くと、伝令に走らせたルイズから話を聞いていたテファが受け入れの準備を整えていてくれていた。診療院のパフォーマンスをフルに発揮する必要がある患者だ。修羅場馴れしていないルイズには見学に徹してもらおうと思っていたのだが、

 

「手伝えることは?」

 

運び込まれた患者を見て、感心したことにルイズは眉をひそめただけだった。それだけでも大したものだと思うのだが、協力を申し出てきたあたりは驚愕に値する。腐っても鯛、さすがは大貴族たるヴァリエールの一族、さすがは『烈風』の娘だと思う。

 

「助かるよ。一番大きな鍋にお湯を沸かしておくれ」

 

処置室に運び込んで、今度は詳細に診察する。

足の挫創は切断の心配はなさそうなので、まずは腹部からだ。深く刺さった鉄の建材は厄介だった。

探っていくと腸は上手く避けているようだが、脾臓と主要な血管の損傷がひどい。

外側からの魔法だけでは追いつきそうもない。

 

「…開くしかないね」

 

「準備できてます」

 

テファが手際よく手術道具を整える。

それを受け取り、生食をはじめとした各種薬液の輸液を指示、素早く開腹手術にかかる。組織が虚血性梗塞を起こす前に血管形成をしなければならない。

前世と違い、この世界の医術の最大のアドバンテージは開腹手術と治癒魔法の両方を使えることだ。広い範囲に浅く効果を及ぼすだけでは追いつかない損傷を、開腹して直接魔法を施術すると生存率が飛躍的に高まる。これに秘薬の効果が乗るとより効果が増す。

手早く腹部を開き、血管を鉗子で止血して鉄片を引き抜く。そこにルイズがお湯を抱えて入ってきた。

手術台の上で行われてることを見て、さすがに息を飲んだようだった。

 

「慣れないうちは、見ないことを勧めるよ」

 

「ば、馬鹿にしないで。大丈夫よ」

 

「ならば、鍋は向こうのコンロに載せて、隣にある用具をガーゼに包んでよく煮ておくれ」

 

足の修復に必要な用具だ。たどたどしいながらも一生懸命な手つきで作業をしながらルイズが問うた。

 

「その人、生きているのよ…ね?」

 

気丈に振る舞ってはいるが、さすがに腹を開かれている患者を見て思うところはあるらしい。

 

「当り前だよ。生かすための措置さね」

 

そんなやり取りをしながら、血管形成に杖を振るう。この種の手技において治癒魔法は実に有効だ。ある程度の修復さえできていれば、血管吻合をちくちくやらなくても魔法一つで癒着するだけに施術の速度は前世の比ではない。あの時魔法が使えていればと前世で死なせてしまった患者たちを思い出すこともあるが、与えられた条件でベストを尽くした上での話だ、彼らも許してくれると思いたい。

血管の形成が概ね終わり、血流が回復する。何とか間にあったようで、腸はきれいな色をしている。腸管虚血を起こしていたらいろいろ厄介なことになるところだった。念のため組織を丁寧に確認するが、どこも壊死は起こしていない。現状のバイタルサインも概ね許容範囲。この患者は運がいい。

そんな感じに手を動かしていると、頬のあたりに妙にざらつくものを感じる。

ちらりと見ると、ルイズが食い入るような目で私の手技を見ていた。

探るような、確認するような、ちょっと気になる視線だ。

今の私にそれを気にしている余裕はないのでそのまま閉腹。次に足の挫創に取り掛かる。

こっちも酷い塩梅だ。秘薬を使い、神経と血管の修復を行う。元通りにはなるだろうけど、しばらくは動けないだろう。

 

そんな感じに切ったはったで、2時間ほどで手術が終わった。

結構出血していたが、ショックも起こさずに済んだのは幸運だ。

処置室を出て、待合室で待っていた面々に状況を報告する。

中にはお腹の大きな女性もいる。彼の嫁さんだ。

手術が上手くいったことを告げるなりぽろぽろと泣きだし、仕事仲間の男どもは狭い室内にもかかわらず馬鹿でかい蛮声を上げて喜んだ。

奥さん以外の面会は今夜は勘弁してもらうとして、とりあえず何日かは診療院で預かることになりそうだ。

身重のところ済まないが、嫁さんにも力を貸してもらう。

ああ、本当に入院病棟が欲しい。

その前にスタッフの増員か。完全看護など、今の診療院では夢のまた夢だ。

ルイズ一人でここまで手術が楽になるとは思わなかっただけに、施設拡張について、本気で考えたくなった。

 

 

 

 

奥さんを旦那の枕元に案内した後で診察室に戻り、汚れた手術着を脱いで椅子に座る。

疲れが津波のように押し寄せてきた。

緊急手術の場合、治癒魔法はまさに乱れ撃ちのようなありさまになる。

まだ開業して間もないころ、トライアングルだった私はしばしば精神力が切れて昏倒したものだった。死人が出なかったのは幸いだったが、スクウェアになった今でも手術を一つこなせばそれなりに疲労は深い。

目を閉じて、晩御飯まで少しだけ仮眠を取ろうと思った時だった。

ドアが開いて、ルイズが入って来た。

何やら複雑な顔をしたまま手にしていたカップを私の前に置く。

ハーブティーが湯気を立てていた。

 

「冷たいものの方がいいかとも思ったけど、疲れているならこっちのほうがいいと思うわ」

 

「ありがとう」

 

一口舐める。味がいつもと違う。平たく言えば、不味かった。

どうやら、ルイズが淹れてくれたものらしい。

味はともかく、ルイズが用意してくれたという事実に正直びっくりだった。

一体何の前触れなのやら。何か魂胆があるのかとも一瞬思ったが、ルイズの表情は真剣なものだった。

 

「ねえ」

 

「何だね?」

 

「いつもあんなことやっているの?」

 

「あんなこと?」

 

「患者の内臓をいじるやつ」

 

「滅多にはやらないね。普通なら治癒魔法と秘薬で治せる。それだと間に合わないような場合は、ああやって直接問題の部位を修復するんだよ」

 

「ふ~ん…」

 

「結構グロテスクだったろ?」

 

「…そうね」

 

「冷静だね。私が初めてああいうのを見た時はひどいもんだったよ」

 

初めての検体実習の時、その場は頑張れたものの、お昼ご飯を口にした瞬間に嘔吐したのを思い出した。部分標本を使っての実習はどうということはなかったのだが、人の体全体を相手にするとなるとやはり来るものがあった。

ルイズを支えているものが何なのかは私には判りかねるが、なるほど、公爵家の令嬢に相応しいだけの精神力はあるのだと思う。

 

「そうでもないわ。正直、しばらくお肉は見たくないわね」

 

「それくらいなら立派なものだよ。私の時は、げーげーと派手に戻したもんだ」

 

「偉そうなあんたにも、そんなことがあるのね」

 

「そりゃそうさ。私だって人の子だよ」

 

そう言うと、ルイズは珍しく柔らかい笑みを浮かべた。

寄ると触るとつんつんしていた私たちの間に、珍しいくらい穏やかな空気が漂っていた。

 

「あんたさ…」

 

「何だい?」

 

「何で、こんなところでお医者をやってるの?」

 

「何でと言われれても…他に食べる方法を知らないからさ」

 

嫁さんがもらえないサングラスの大尉さんもそう言っていた。

 

「嘘。あんた、スクウェアでしょ。その気なら、どこの家にだって仕官ができるはずよ」

 

「買い被りだよ。私程度の腕の持ち主くらい、トライアングルクラスの水魔法使いでもごろごろいるよ」

 

これは嘘でも謙遜でもない。

スクウェアなのは確かだが、メイジの本質はそんなものでは計れないことが往々にしてある。

水のメイジともなればなおさらだ。

魔法学院からアカデミーまで、きちんとこの世界の学問を修めた水メイジの実力は、私なぞ足元にも及ばないものがある。カトレアのところの侍医団のすごさを見ているだけに、自分の医術が優れているなどとは恥ずかしくて言えない。何しろ、その気になれば自分の脳をミノタウロスに移植するような奴もいるくらいだ。個体間どころか種族間の壁すら飛び越えるような魔法使いがうろついている世界なだけに、私が知っているいろいろな治療くらい余裕でこなす奴は掃いて捨てるほどいるだろう。

私は、平民を相手にしているからこそありがたがられるニッチな存在なのだ。

そんな私の思惑をよそに、ルイズは何かを迷っているような口調で言った。

 

「あんたに…前に、私の姉のこと、話したことあったわよね」

 

「体が弱い姉君だっけ?」

 

「そう。最近王都に住んでいるの。新しい治療法が見つかったからそれを受けるためにね」

 

「前にそんなこと言ってたね」

 

「私、訊いてみたの。その治療法を教えてくれたのは、どういうお医者なのかって。だって、治ったら姉の命の恩人だもの。会ってみたいじゃない」

 

「それはそうだろうね」

 

「でも、どうしてなのか、誰も教えてくれないの。姉も教えてくれなかったわ。内緒だから、その人との約束だからって言ってね。どうしてかしらね」

 

「さあ。きっと、その人は恥ずかしがり屋なんだろうさ」

 

冗談めかして答える私を余所に、ルイズの表情は怖いくらいに真摯なものだった。

 

「私なりに調べてみたわ。ヴァリエールの街屋敷を訪れる人は多いけど、お医者は侍医の人たちがいるからそんなに来ないしね」

 

余計なことを。こいつ、『しりたがりは、わかじにするぞ』という言葉を知らんのか。

 

「お医者のことは判らなかったけど、ひとつ変なことが判ったわ。使用人に聞いたんだけど、月に数回、貴族でもない女の子が姉を訪ねて来て、侍医の人たちと話をして行くんだって」

 

使用人までは緘口令は及ばないか。やはり、人の口に戸板は立てられないものだ。

 

「へえ」

 

曖昧に応じる私に、ルイズは詰めの一言を発した。

 

「その子、王都に住んでる茶色の髪をした女の子だって言ってたわ。…誰だと思う?」

 

「さあ」

 

窓の外を見ながら生返事を返すが、頬のあたりにルイズの刺すような視線を感じる。

恐らく、既にルイズの中ではそれが私であることについては確定しているのだろう。しかし、そのことを私の口から言わせていいかどうか、悩んでいる気配がした。裏にある事情について、おぼろげながらには理解してくれているようだ。

 

「その人に迷惑をかけるつもりはないのよ。私、できれば自分で姉を治してあげたかったけど、私には水魔法の素養はないしね。でも、一言くらいお礼を言いたいのよ。姉を助けてくれてありがとう、って」

 

「ん~、いらないんじゃないかな、そういうの」

 

「何でよ」

 

「まだ、姉君は治っていないんだろう? 感謝するなら治ってからの方がいいだろうね。それに、多分その人もお礼を言う時間があったら、その時間の分だけ姉君と仲良く過ごしてくれている方が嬉しいと思うよ?」

 

「そういうものなの?」

 

「そういうものさね、医者なんて」

 

これは私の考えだが、医者と患者とは、基本的に点の付き合いだ。

そういう意味では介護士は線。そして、家族は面。

医者が告げる『お大事に』の一言で、基本的に医者と患者の二人三脚は終了する。

医者もまた、所詮は人の子だ。すべての患者の人生を背負うには、その肩は小さすぎるのだ。

逆に、用事が済んだら恩着せがましく患者の近くをうろつくべきでもない。

過度な繋がりは、医者の目を曇らせる。身内になってしまうと、冷静な判断はできなくなるものだ。

常にその手をつないでいるのではなく、困った時に伸ばされた救いを求める手を取ってあげられるくらいの距離感がちょうどいいのだ。

感謝の念は、もう身に余るほどもらっている。これ以上の気持ちは、私にとっては余禄に過ぎる。

 

「そう…。なら、そうすることにするわ」

 

それだけ言うと、妙にすっきりした顔でルイズは踵を返した。

 

「ティファニアが、工房の人たちが帰って来たらご飯にするって」

 

「はいよ」

 

ルイズはドアを開けて出ていこうとした時、一言だけ呟いた。

 

「ヴィクトリア」

 

聞こえてきた呼び名に、違和感を感じた。

この子、初めて私の名前を呼んだね。

そして、ドアが閉まる時。

 

「もし、あんたが困っている時に、私にできることがあったら…力になるから」

 

少しだけ戸惑いを含んだルイズの言葉が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後の午後。

往診もなく、診察室で資料の整理をしている時のことだった。

チクトンネ街全体が、妙に物々しい雰囲気に包まれていた。

 

「おやまあ、何だろうね」

 

窓を開けて外を覗くと、武器を持った兵が多くうろつき、街には警戒線が張られているようだった。

またぞろアルビオンの密偵がけしからんことをやりだしたのだろうか。

町内会の警戒網にひっかかる間者は見つけるそばから退治しているが、漏れでもあったのかも知れない。

最近はルイズとティファニアはすっかり仲良くなり、今日はブルドンネ街の方に一緒に買い物に出かけている。昨日がテファのお小遣い日かつルイズの給料日だったので服を買うとかなんとか言っていたっけ。

街が急に騒がしくなったので、そんな二人を心配していた時だった。

 

「ヴィクトリア」

 

ドアが開く音と共に聞こえた声に、まとめていたカルテを棚に戻して玄関にパタパタと走る。

出迎えると、そこに仕事着姿の才人と、その背に隠れるように一人のローブ姿が立っていた。見た感じ、女性のようだ。

 

「どうしたね、お昼でも食べに来た…って訳じゃなさそうだね。連れ込み宿なら家よりいいところを知っているよ?」

 

「違えよ! ルイズは?」

 

「テファと一緒に買い物に行ってるけど?」

 

それを聞いて、才人はどこかほっとしたような顔をした。

 

「ごめん、ちょっと匿ってくれ」

 

「匿う?」

 

才人が後ろに庇っている人影に目を向ける。良く見れば、ローブの中身は年のころは才人と変わらないくらいの女の子だった。

やや目深にフードを被った女性。

 

 

夏だというのに、私の背中に冷たいものが静かに走る。

ああ、なるほど、そういうことか。

 

 

 

 

 

私の中の歯車が軋みながら回り始めた時、フードの隙間から、私と同じ色の髪が一房、こぼれた。

 


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